次に意識が浮上した時、周囲は暗かった。
眩しさがない。
代わりに、ぼんやりとした光が、まぶたの裏に滲んでいる。
機械音。
規則的な、電子音。
呼吸をするたび、身体のあちこちに、遅れて痛みが走る。
(……ここ……)
問いを形にする前に、誰かの気配が、すぐそばにあった。
――薄暗い病室。
まぶたの奥に、ぼんやりと光が差し込む。
意識が戻り始める。
目を開けると、白い天井が揺れているように見えた。
「……サロメ?」
その声が、少し遠くなる。
サロメの意識はまだ水の中に沈んでいるようで、千尋の言葉を完全には掴めない。
ただ、安心していいのだという響きだけが、胸の奥に落ちてきた。
「……千尋……さん?……ここ……」
今度は、かろうじて声になった。
問いかけの形をしているが、問いの中身までは自分でも整理できていない。
ここはどこなのか。
なぜ身体が動かないのか。
レースはどうなったのか。
何一つ、はっきりしない。
千尋はすぐには答えなかった。
ほんの一拍、間を置く。
その沈黙が、サロメには長く感じられた。
「病院よ。少し……今は、何も気にせずに休みなさい。」
言葉は柔らかい。
けれど、必要以上の情報は含まれていない。
サロメはそのことに気づくほど、まだ冷静ではなかった。
ただ、「走れなかったわけではないらしい」
「今は休めばいいらしい」
――そんな曖昧な理解だけが、頭の中に残る。
「……そう……」
右脚に力を入れようとして、失敗する。
思ったように動かないことに、胸の奥がざわつく。
けれど、その理由を問いただすほどの気力は残っていなかった。
千尋は、その小さな動きを見逃さない。
だが、制止も説明もしない。
ただ、サロメの視界に入る位置で、静かに声を落とした。
「今は無理しないで……目が覚めただけで十分よ」
その言い方は、はっきりと“これ以上は聞かないで”と告げていた。
サロメはそれを、拒絶ではなく配慮として受け取る。
問いを飲み込み、代わりに息を吐いた。
しばらくして、千尋が立ち上がる気配がした。
椅子が静かに引かれ、足音が一歩、病室の入口へ向かう。
「ごめんね。あなたのご両親に連絡してくるわ」
「……はい……」
返事はほとんど反射だった。
千尋が席を外す理由を、深く考えることはできない。
今は、それが必要なことなのだろう、とぼんやり思うだけだ。
ドアが閉まる音がして、病室には再び電子音だけが残った。
急に、部屋が広くなった気がする。
サロメは天井を見つめる。
考えようとする。
レースの続き。
最後の直線。
あの圧。
――その先を思い出そうとして、頭の奥がずきりと痛んだ。
「……まだ……走って……」
言葉にならない独り言が、喉の奥で消える。
考えは続かない。
意識が、また深いところへ引きずり戻されていく。
痛みと疲労が、思考を断ち切る。
まぶたが重くなり、視界がゆっくりと暗くなる。
答えは何一つ出ないまま、サロメは再び眠りに落ちた。
廊下に出た千尋は、携帯を耳に当てたまま、壁にもたれていた。
声は落ち着いている。
必要なことだけを、簡潔に伝える。
状況は安定していること、今は眠っていること。
詳しい話は、また改めて――。
通話を終えた瞬間、肩から力が抜けた。
「……最低ね」
誰に向けた言葉でもない。
ただ、自分自身に向けて吐き出した。
医師の説明が、頭から離れない。
復帰は難しいという判断。
日常生活には支障が出ない可能性。
だが、“走る”という選択肢が、限りなく遠い場所へ行ってしまった現実。
それを、サロメにはまだ何一つ伝えていない。
いや、伝えられなかった。
(目を覚ましたばかりのあの子に、言えるわけがない)
分かっている。
それでも、胸の奥が痛む。
守るべきだった。
限界を越えさせるべきじゃなかった。
あのレースで背負うべきだったものを……
走るのはサロメなのに、自分は判断する側だった筈だ。
「……私が、選ばせた」
廊下の窓に映る自分の顔は、ひどく冷静に見えた。
トレーナーとして冷静に考える癖が、こんな時に出てしまう。
そのことが、さらに自己嫌悪を呼ぶ。
それでも……立ち止まるわけにはいかない。
千尋は深く息を吸い、病室のドアを見る。
眠るサロメのもとへ戻るために。
今は、真実を告げる時じゃない。
今はただ、そばにいる。
それだけしか、できない。
貴賓室には、もう知っている大人はいなかった。
さっきまでここにいた千尋も、呼びに来た係員も、
誰一人として残っていない。
千尋は、サロメの搬送された病院へ向かった。
それだけが、確かな事実だった。
広い部屋の中央に、リアルデュークは立っていた。
その幼い外見には不釣り合いなほど、
その場に縫い留められたように動かない。
窓の外には、薄暗くなったレース場。
さっきまで歓声に満ちていたコースは、
まるで何事もなかったかのように沈黙している。
「……サロメ」
小さく、名前を呼ぶ。
返事がないのは分かっている。
それでも、口が動いてしまう。
千尋は言った。
迎えが来るまで、ここで待っていろ、と。
「……待つ」
自分に言い聞かせるように、呟く。
だが、待つという行為が、何を意味するのか。
リアルデュークは、よく分かっていなかった。
頭の中では、最後の直線、サロメの脚、
あの瞬間の音が、何度も再生される。
「……変、だった」
言葉が、崩れる。
「音……した」
胸の奥が、ざわつく。
じっとしていられない。
一歩、前に出て、止まる。
行ってはいけない。
待てと言われた。
でも――
「……一人」
声が、幼くなる。
貴賓室は広すぎて、リアルデュークの存在を、
飲み込んでしまいそうだった。
そのとき、扉の外から足音がした。
規則正しい、迷いのない足取り。
リアルデュークは、はっと顔を上げる。
扉が開く。
「――リア、居るかの?」
低く、よく通る声。
「……ババ?」
入口に立っていたのは、シンザンだった。
外套を羽織り、背筋を伸ばし、
いつもと同じ、揺るぎのない姿。
「千尋から頼まれて迎えに来たのじゃ。」
簡潔な言葉。
「さあ帰る時間じゃ、リア。」
リアルデュークは、すぐに首を振った。
「やっ、帰らない」
即答だった。
「サロメ、いない」
言葉が足りない。
でも、気持ちは明確だ。
「ここ、残る」
シンザンは、扉を閉め、部屋に入る。
「サロメは、病院じゃ、ここにはもう居らん。」
「……知ってる」
「なら、分かるはずじゃ。」
「分からない!」
リアルデュークは、強く言った。
「ボク、行く……病院、サロメの所!」
シンザンは、すぐには否定しない。
ゆっくりと近づき、リアルデュークの前で立ち止まる。
「今日は無理じゃ。」
「なんで?」
また、その言葉。
「ボク、サロメのルームメイト」
小さな拳を握る。
「だから家族!」
最後の単語は、ほとんど叫びだった。
シンザンは、膝を折り、目線を合わせる。
「今のサロメはの、休む必要があるんじゃ。」
「ボク、静かにする」
「それでもじゃ」
リアルデュークの眉が、きゅっと寄る。
「……一人、いや」
それが、すべてだった。
シンザンは、しばらく黙った。
この沈黙は、突き放すためではない。
「リアルデューク」
名を呼ぶ。
「お主は、今、壊れかけて居る」
「壊れてない」
反射的な否定。
「ヒビ割れておる。」
断言だった。
「自分で分からないだけじゃ。」
リアルデュークは、言葉を失う。
「……音、した」
視線が落ちる。
「La jambe…c’était pas normal…」
言葉が、無意識にこぼれる。
「ボク、見てた。見ていただけ、止められなかった」
その言葉に、シンザンは一瞬だけ目を閉じた。
「お主の責任ではない」
「……でも」
声が、子供になる。
「一人、いや」
シンザンは、立ち上がった。
「今日は、帰るぞ?」
「いや」
まだ、拒む。
シンザンは、一歩前に出る。
「今日は、ワシが連れて行く」
その声には、揺るぎがなかった。
リアルデュークは、泣かなかった。
暴れもしなかった。
ただ、貴賓室の窓を、最後に一度だけ振り返る。
暗いコース。
もう、何も残っていない。
「……サロメ」
小さく、名前を呼ぶ。
シンザンは、その肩に確かな力で手を置いた。
「……行くぞ」
逃げ道はない。
でも、突き放しでもない。
リアルデュークは、抵抗をやめた。
聞き分けがついたのではない。
ただ、今は連れて行かれるしかないと理解しただけだ。
貴賓室の灯りが、背後で消える。
残されたのは、静まり返ったレース場と、
置いていかれた時間だけだった。
車内は、驚くほど静かだった。
エンジン音だけが、一定のリズムで耳に入ってくる。
窓の外では、街灯が規則正しく流れていく。
リアルデュークは、後部座席に座っていた。
シートに深く沈み込み、両手を膝の上で固く握っている。
泣かない。
喚かない。
ただ、黙っている。
それが、今の精一杯だった。
シンザンは、前を向いたままハンドルを握っている。
バックミラー越しに、何度も様子を確認することはしない。
だが、意識から外してもいなかった。
「……」
何か言うべきか。
だが、今は言葉が余計になると、分かっている。
リアルデュークの視線は、窓の外に向いていた。
けれど、街並みは見ていない。
頭の中では、同じ場面が繰り返されている。
最後の直線。
脚。
あの、はっきりした音。
「……」
喉が動く。
声にならない何かが、何度も引っかかる。
シンザンは、アクセルを緩め、速度を落とした。
学園の敷地に入ったのだ。
寮の灯りが、前方に見える。
「着くぞ」
短く、事実だけを告げる。
リアルデュークは、返事をしなかった。
聞こえていないわけではない。
反応する余力が、なかった。
車が止まる。
エンジンが切られ、静寂が一段深くなる。
「降りるんじゃ。」
シンザンが言う。
リアルデュークは、少し遅れてドアを開けた。
足を地面につけた瞬間、身体がふらつく。
「……っ」
踏ん張ろうとして、うまくいかない。
シンザンは、すぐ横に立っていた。
支えるが、抱き上げない。
「歩けるか?」
リアルデュークは、頷いた。
その動作が、少し遅れる。
寮の中は、静まり返っている。
この時間帯なら、当然だった。
廊下を進み、部屋の前に立つ。
「ここじゃな?」
鍵が開く音。
ドアが開いた瞬間、
部屋の中の“空気”が、リアルデュークを迎えた。
見慣れたベッド。
机。
もう一つ、サロメのスペース。
――誰もいない。
リアルデュークは、そこで立ち止まった。
「……」
一歩、踏み出そうとして、止まる。
部屋に入った瞬間、
ここが“二人の場所”だったことを、身体が思い出してしまった。
「……サロメ」
声が、掠れる。
シンザンは、何も言わないし、急かさない。
リアルデュークは、ゆっくりと中に入り、
自分のベッドの前で、崩れるように座り込んだ。
それでも、まだ泣かない。
拳を握りしめ、
肩を強張らせ、
必死に、何かを堪えている。
「……ボク」
小さな声。
「ボク、待つ……」
言葉が、途切れる。
「……でも」
ここで、初めて、息が乱れた。
「……怖い」
それは、片言だった。
考えが足りないからじゃない。
言語が追いつかないからでもない。
ただ、感情が、ようやく言葉になっただけだ。
シンザンは、少しだけ距離を詰める。
「今夜は、ここで休め」
低く、確かな声。
「明日になれば、状況は変わる」
リアルデュークは、顔を上げなかった。
「……明日」
その単語を、噛みしめる。
シンザンは、それ以上何も言わない。
代わりに、部屋の灯りを調整し、出口に向かう。
扉の前で、足を止めた。
「リアルデューク」
呼ばれて、肩が僅かに動く。
「お主は、今夜、ここにいていい」
逃げてもいい、とは言わない。
忘れていい、とも言わない。
ただ――
「今は耐えるんじゃ、サロメより辛くはあるまい?
あの子が耐えておるのじゃ、お主が出来んでどうする?」
その言葉だけを、置いていく。
ドアが閉まる。
静かな部屋。
リアルデュークは、しばらく動かなかった。
やがて、ベッドの端に座ったまま、
顔を両手で覆う。
声を殺した、
小さな嗚咽が、
ようやく、零れ始めた。
「……何度味わっても、嫌なものじゃな。」
シンザンは目を瞑り、閉じたドア越しにそう呟いた。
次回更新は少し遅れます。