メジロ家の変な子   作:ネギ市場

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同じ朝、別々の場所

 

 

 

 サロメが病院に運ばれてから三日目の朝。

 リアルデュークは、まだ空が薄く青い時間に目を覚ました。

 普段目覚ましが鳴るよりもずっと早い。

 夢を見ていた気がするが、内容は覚えていない。

 ただ、胸の奥に沈殿するような重さだけが残っていた。

 天井を見つめる。

 見慣れたはずの白い天井が、妙に遠く感じる。

 カーテンの隙間から差し込む光は、いつもより淡く弱々しい。

 世界が薄い膜に覆われているみたいだ。

 

 ――サロメがいない。

 

 その事実がゆっくりと、しかし確実にリアルデュークの意識の中心へ沈んでいく。

 胸の奥がきしみ、呼吸が浅くなる。

 吸い込んだ空気が冷たい。

 外から鳥の鳴き声が聞こえた。

 いつも通りの澄んだ朝の音色。

 けれど今日は、それすら勘に触る。

 しばらく布団の中で丸くなる。

 目を閉じても浮かぶのは、病院へ向かう千尋の姿だった。

 青ざめた顔。

 遠ざかる背中。

 一緒に行けず、置いて行かれた自分。

 苛立ちが、じわりと湧き上がる。

 何に対してかも分からないが、ただ、腹の奥が熱い。

 苛立ちのまま布団をはねのけ、起き上がる。

 制服に着替える動作がぎこちない。

 ボタンをかけ違え、やり直す。

 

 食堂では、いつも通りの朝が流れていた。

 皿の音、椅子の軋み、小さな笑い声。

 トレーを手に取るが、食欲はない。

 パンをちぎってみるものの、喉が拒む。

 牛乳を一口だけ飲み、ほとんど残したまま席を立つ。

 誰かがこちらを見た気がした。

 けれど声は掛けられない。

 何故かそれが、無性に腹立たしい。

 

 ――どうして何も言わない?

 

 自分でも理不尽だと分かっている。

 それでも、胸の奥の熱は冷めない。

 教室に入る。

 自分の席に座る。

 いつもならサロメが軽口を叩き、先生が朝の小言を言う。

 そんな当たり前の光景が、今日は遠い。

 ざわめきはある。

 けれど、自分の周囲だけ音が薄い。

 誰も、リアルデュークを気に留めない。

 それがこんなにも居心地が悪いとは思わなかった。

 席を立つ。

 鞄は置いたまま。

 振り返らない。

 廊下に出ると、窓から差す光がやけに白い。

 歩くたびに、床の反射が目に痛い。

 「……ここ、意味ない」

 呟きは空気に溶ける。

 ここにいる理由は何だろう。

 サロメがいない学校に、意味なんてあるのか?

 校舎の隅、人目につきにくい場所で座り込む。

 フェンスに背を預けると、金属の冷たさが制服越しに伝わった。

 

 時間だけが過ぎる。

 チャイムが鳴っても、誰も探しに来ない。

 それが、さらに苛立ちを煽る。

 ――誰も来ない。

 頭を抱える。

 爪が髪に食い込む。

 「……ボク、爪弾き……」

 口に出した瞬間、胸の奥が少しだけ沈む。

 泣けたら楽なのかもしれない。

 でも涙は出ない。

 代わりに、意味のない怒りだけが空回りする。

 昼休み、ふらりと校庭へ出た。

 笑い声。

 ボールの弾む音。

 風に揺れる木々。

 世界は、普通に回っている。

 自分だけが止まっているみたいだ。

 サロメがいないというだけで、どうしてこんなにも色が抜けるのだろう。

 

 午後も授業は出なかった。

 出る気力がなかった。

 1人、校門を出る。

 校舎の裏手へ回る。

 誰にも会わないし、咎められない。

 それが、ひどく虚しい。

 ――わかんない!

 胸の奥で叫ぶ。

 けれど声にはならない。

 夕方、寮の部屋へ戻る。

 静まり返った空間が迎える。

 「……もういい」

 ベッドに倒れ込む。

 天井を見つめる。

 朝と同じ白。

 けれど今は、夕焼けの赤が滲んでいる。

 拳を握る。

 無性に何かを殴りたい衝動。

 でも、殴る相手はいない。

 苛立ちは、出口を失っている。

 サロメの笑顔が浮かぶ。

 怒った顔も、照れた顔も。

 どうしてあの時、もっと気づけなかったのか。

 どうして何も言えなかったのか。

 後悔が胸を締め付ける。

 窓の外、沈みゆく夕日が世界を赤く染める。

 きれいだと思う感情すら湧かない。

 長く息を吐く。

 怒りと悲しみが、ようやく少しだけほどける。

 ――苛立ちは、サロメへの思いの裏返し。

 それを認めた瞬間、胸の奥の熱がほんのわずかに形を持った。

 寂しいのだ。

 怖いのだ。

 失うかもしれないことが。

 ぽたり、と涙が落ちる。

 今度は止まらなかった。

 声を押し殺して泣く。

 誰も来ない部屋で、一人。

 泣きながら、ようやく理解する。

 自分は怒っていたんじゃない。

 無力さが悔しかったのだ。

 サロメが苦しんでいるのに、何もできない自分に。

 涙が落ちきった頃、胸の奥の空洞が少しだけ軽くなっていた。

 「……サロメ、がんがれ」

 呟きは届かない。

 それでもいい。

 連絡が来たらすぐに病院へ行こう。

 顔を見て、ちゃんと声をかけよう。

 何もできなくても、隣に立つことはできる。

 それだけでも、きっと意味はある。

 窓の外の赤が、ゆっくりと群青に変わっていく。

 世界は続いている。

 サロメも、きっと戦っている。

 リアルデュークは、静かに目を閉じた。

 胸の奥に、まだ痛みはある。

 でもその奥に、小さな決意が灯っていた。

 明日からは逃げない。

 ちゃんと向き合う。

 そのために、今日は眠る。

 静かな部屋の中、ゆっくりと呼吸を整えた。

 孤独は消えていない。

 けれど、もう完全に独りではないと、少しだけ思えた。

 

 

 廊下の床に足音が反響する。

 リアルデュークはそわそわと歩き、角を曲がるたびに手に握った携帯をちらりと見た。

 「……連絡来ない…?」

 胸の奥で焦燥が渦巻く。

 思考が暴走し、足が勝手に動く。

 廊下の光はいつもより冷たく、窓の外に広がる街の灯りは遠くにある病院の方向を想像させるだけだ。

 「焦っても何も変わらないのじゃ。」

 背後から低く響く声に、リアルデュークは振り向く。

 シンザンはいつも通り、表情を変えずそこに立っていた。

 「うぃ…」

 返事の代わりに、胸のもやもやがさらに大きくなる。

 走れば気持ちを整理できるはずなのに、今は千尋が居ない為走ることさえ許されない。

 走れないもどかしさが、体の隅々までじんわりと染み込む。

 リアルデュークは廊下を行ったり来たりしながら、窓の外の夜景をぼんやりと見つめた。

 遠くの光をサロメのいる病室だと想像し、胸がぎゅっと締めつけられる。

 「サロメ、大丈夫?」

 シンザンは動かず立ったまま、静かに見守る。

 言葉はないが、その存在だけで待つことの意味を伝えているかのようだった。

 

 

 一方、病院のサロメのベッド脇では、千尋が書類に目を落としペンを動かす。

 「少しでも安心できるように…」

 サロメは目をぱちぱちと瞬かせるだけで、言葉は発しない。

 千尋はそっと手を握り返し、微笑む。

 「焦らなくていい。ここで少しずつ…ね?」

 千尋の頭の中は、すべてサロメに集中していた。

 どのタイミングで話をするか、状態説明のタイミング、声のかけ方。

 リアルデュークのことは、頭の片隅にもない。

 完全に、サロメのことだけで頭がいっぱいだった。

 サロメの呼吸を確認し、手の温もりを確かめる。

 目は開いているが、遠くを見ているようで千尋はそっと髪を撫でる。

 「少しずつでいい…無理はしなくていい」

 千尋は迷う、サロメにかけた言葉は、無意識に自分への言葉となっていた。

 

 

 リアルデュークは窓際に立ち、外の夜風に触れようと手を伸ばす。

 冷たい空気が顔に当たると、少しだけ心が落ち着くような気がした。

 しかし、胸のざわつきは収まらない。

 「どうすれば…会える?」

 リアルデュークは椅子に腰を下ろす。

 足がそわそわと動き、じっとしていられない。

 普段なら、走って気持ちを整理できた。

 走れば胸のもやもやは晴れ、笑って仲間と話せた。

 でも今は、どう足掻いても心が沈む。

 体は動くのに、どこにも向かわせることができない。

 シンザンは少し距離を詰めて立つ。

 言葉はない。

 ただ静かに見守るだけ。

 リアルデュークの手や足の動き、胸のざわつき、息の荒さ。

 すべてを受け止めるように、ただそこにいる。

 

 窓際のリアルデュークは再び立ち上がった。

 外の光を見つめ、深呼吸をする。

 「走りたい…でも、走れない…」

 胸の中のもやもやは消えず、体を動かしてもどこにも向かわせられないもどかしさだけが残る。

 走れない、何もできない、この無力感が、今まで感じたことのない重さで心を押しつぶす。

 シンザンは動かず背後に立ち、ただ静かに時間を見守る。

 リアルデュークはその姿を見て少し苛立つが、それでも心の奥でシンザンの存在が小さな安堵となっていることに気付く。

 リアルデュークは窓際に座り込む。

 夜の空気が少し肌を冷やすが、心のざわつきは消えない。

 「どうすれば…」

 手足の先まで感じるもどかしさ。

 体を動かしても解消できない焦燥感。

 普段なら、走ることで解決できた。

 だが今は、ただ待つしかない。

 シンザンは背後で黙って立ち、存在だけで静かに支える。

 リアルデュークの胸のざわつき、荒い呼吸、動く手足。

 すべてを包み込み、受け止めている。

 窓の外には街の光が瞬き、夜の静けさがゆっくりと広がる。

 リアルデュークの胸のざわつきは収まらないが、その奥のどこかで、小さな芽が生まれ始めていた。

 次に何かを踏み出すための力の種が、ひそかに芽吹いていることを、彼女自身はまだ知らない。

 こうして、夜は静かに更けていく。

 リアルデュークは外の光を見つめ、焦燥と不安の中で心を整えようとする。

 千尋はサロメのそばで、思考のすべてを仲間のために注ぎ込む。

 二つの場所、二つの視点が、同じ夜に重なって静かに流れていく。

 

 

 白いカーテンが、わずかに揺れている。

 千尋はベッド脇の椅子に腰かけたまま、動かなかった。

 膝の上には折りたたまれた書類。

 視線はそこに落ちているが、文字はもう追っていない。

 規則正しい電子音が、一定の間隔で鳴る。

 その音に、救われている気がした。

 少なくとも、今この瞬間は終わっていないと証明してくれる。

 ベッドの上で、サロメがわずかにまぶたを震わせた。

 「……ん」

 小さな声。

 千尋はすぐに顔を上げる。

 「起きた?」

 サロメは焦点の定まらない目で天井を見つめ、それからゆっくりと視線を動かした。

 「トレーナー……」

 声はかすれているが、意識ははっきりしている。

 千尋は自然な笑みを作る。

 「ゆっくり眠れたみたいね?」

 その言葉は、何度も頭の中で練習した声音だった。

 サロメは少しだけ眉を寄せる。

 「レース……」

 その単語に、千尋の指先がわずかに強張る。

 「次の、間に合いますよね?」

 その声はいつものサロメらしい強がりも、気丈さもなく、ただ純粋な確認だった。

 千尋は、一瞬だけ言葉を失う。

 ――どう伝える。

 ――いつ伝える。

 ――そもそも、何を、どこまで。

 思考が空白になる。

 だが次の瞬間には、もう答えている。

 「今はまだ、焦らなくていいわ。」

 柔らかく、穏やかに。

 「まずはしっかり休むこと。」

 サロメは数秒、千尋を見つめ、それから小さく笑った。

 「はい」

 その笑顔が、千尋の胸を締めつける。

 信頼だった。

 疑っていない目だった。

 それが何よりも重い。

 「最近頑張っていたから少し、お休みよ?」

 「……はい」

 まぶたが閉じる。

 呼吸がゆっくりになる。

 静寂が戻る。

 千尋は、ようやく息を吐いた。

 自分の手が、わずかに震えていることに気づく。

 守ると決めた。

 支えると決めた。

 それなのに。

 視界の端に、レースの光景がよぎる。

 あの瞬間。

 わずかな違和感、止められなかった判断。

 もっと早く気づけたのではないか。

 もっと強く制止できたのではないか。

 喉の奥がひりつく。

 椅子から立ち上がり、静かに病室を出る。

 廊下は白く、冷たい。

 自販機の前で立ち止まり、ポケットから硬貨を取り出す。

 手が滑る。

 金属音が乾いた音を立てて床に落ちる。

 しゃがもうとして、動きが止まる。

 拾えない。

 背中を壁に預け、目を閉じる。

 泣くな。

 泣くな。

 泣いた瞬間に、何かが終わる。

 震える呼吸を押し殺す。

 そのとき、ポケットの中で振動が鳴った。

 着信画面を見る。

 シンザン。

 数秒、躊躇してから通話を押す。

 「……どうしました?」

 掠れた酷い声。

 「……」

 

 沈黙。

 

 「まだ、伝えていないのじゃな?」

 その問いに、千尋は言葉を失う。

 「……まだです」

 「リアルデュークは待っておる」

 その名が出た瞬間、思考が止まる。

 

 リアルデューク。

 

 寮。

 あの落ち着きのない足音。

 そこで初めて、自分がもう一人の担当を忘れていたことに気づく。

 完全に、抜け落ちていた。

 「……」

 返す言葉がない。

 「どうする?」

 問いは静かだが、重い。

 千尋は壁にもたれたまま、目を閉じる。

 どう伝える?何を?どこまで?

 答えは、まだ出ない。

 「……少し、時間を下さい。」

 通話が切れる。

 

 

 廊下の白さが、やけにまぶしい。

 目を覚ましたとき、天井は変わらず白かった。

 サロメはゆっくり瞬きをする。

 体が重い。

 足に、奇妙な違和感がある。

 痛みというより、遠い。

 動かそうと意識を向ける。

 うまく、力が入らない。

 ほんのわずかに、眉が寄る。

 カーテンの隙間から光が差している。

 静かな部屋。

 さっきの会話を思い出す。

 「焦らなくていいわ」

 トレーナーの声は、不自然に優しかった。

 優しすぎた。

 あの人は、嘘をつくとき少しだけ目が揺れる。

 今日、揺れていた。

 サロメは天井を見つめたまま、深く息を吸う。

 聞かない。

 まだ聞かない。

 聞いたら、何かが確定してしまう。

 再び、足に意識を向ける。

 ……動け。

 ほんの少しでいい……反応は鈍い。

 静寂が、重くなる。

 「ああ……」

 小さく、理解しかける。

 でも、言葉にしない。

 代わりに、別の顔が浮かぶ。

 

 リアルデューク。

 

 きっと今頃、落ち着かずに歩き回っている。

 何度も電話を見ている。

 勝手に病院へ走ってきそうだ。

 ふっと、わずかに笑う。

 「心配、してるでしょうね」

 声に出してみる。

 天井に吸い込まれる。

 もし――。

 もし、戻れないのなら。

 そのときは……泣かない。

 あの子の前では、絶対に。

 あの子は、まっすぐすぎるから。

 自分が崩れたら、きっともっと壊れる。

 カーテンの光が、少しだけ強くなる。

 朝が近い。

 サロメは目を閉じる。

 まだ、何も告げられていない。

 それでも、何かが静かに終わりかけている気配を、確かに感じながら。

 

 同じ朝。

 病院の廊下で、千尋はまだ立ったままだった。

 寮では、リアルデュークがきっと窓の外を見ている。

 三人はまだ、同じ場所にいない。

 だが、夜は確実に何かを変えた。

 まだ誰も言葉にしていない現実が静かに、それぞれの胸の内側で形を持ち始めていた。

 三人は、同じ朝を迎えている。

 けれど、その場所はまだ交わらない。

 





 ここまで読んでいただき、ありがとうございます。

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