「しっかし人が悪いよなー、沙川警部も」
もう日が落ちた真っ暗な山道に、同僚の斉藤の声が響き渡る。
「忘れ物をしたから引き返してくれなんてさ」
斉藤の問い掛けに、まだ幾分か若い顔付きの私は車の扉を閉めながらこう返した。
「そうだな、全くだよ」
ばたんと扉が閉まれば、一瞬だけ怯えた様に周囲の虫の鳴き声が止まる。
ほんの僅かな無音の空間。
そこにあるのは草木のざわめきと——
その時スマートキーを押し掛けた私の手がピタリと止まった。
直ぐに虫の大合唱が戻ってくる。
幾ら耳を済ましても虫の鳴き声に掻き消されて何も聴こえてこない。
「空耳?」
小さく呟いた疑問は夜の闇へと溶けて消えていった。
「じゃあ、これ開けますよー?」
いち早く門の前に行っていた、もう一人の同僚の芳田から声が挙がった。
「おーい遠坂、何してんだ早く行くぞ」
少し先で振り返りながら斉藤が私を催促してくる。
どうやら少し考え事をして我を忘れていた様だ。
立ち入り禁止と表記されたバリケードテープを潜って、事件現場である邸宅の中へと三人ゾロゾロ入ってゆく。
門扉から続く石畳の通路を歩けば、その先には古びたオーク材の扉が目に入った。
合鍵を取り出した芳田がガチャガチャと弄れば、ギギギ、と音を立てて開いてゆく。
邸宅の中は暗い。窓から薄ら月明かりが入るだけで、先程までいた山道よりも更に濃い暗闇に包まれている。
「あ……沙川警部の忘れ物何か忘れちまった」
ふと、そんな時だ。
玄関の照明スイッチを手探りで探していた斉藤がそう言ったのは。
「斉藤…ちゃんと聞いてたんじゃなかったのか」
私は呆れ気味に携帯を取り出した。
「もう終業時刻過ぎてるけど出るかな、警部」
パスコードを入力して、電話のアプリを選択する。
画面に表示される連絡先の羅列。
目を細めつつ、その中の警部の連絡先をタップした。
暗いせいか携帯画面が眩しい。
プルルルルルル、プルルルルルル。
暫しの間、携帯電話の音が木霊する。
「出ないね」
その一言を契機に、黙って立っていた芳田が徐に靴を脱ぎ出した。
「忘れ物ってメモ帳とかペンですよね、たぶん」
止める暇もなく芳田は、家の中へと足を踏み入れる。
「俺が取ってきますよ!
大丈夫です、見取り図は覚えてるので現場を荒らしたりとかはないと思います」
「まぁそれなら良いが…」
もう時間も時間だし、それで良いかもしれないと芳田を見送る。
しかし電話の呼び出し音はまだ鳴っている。あと少しはこのままにしておこう。
斉藤が探していた照明スイッチを難なく押した芳田は「じゃ、行ってきますね」
そう言い残し、暗がりが待ち受ける廊下の奥へと進んでいく。
「斉藤が探してた電気のスイッチ、アイツ簡単に見つけてるぞ」
照明の付いた玄関は先程とは打って変わり、明るくなっていた。
今にも廊下の角を曲がらんとしている芳田の姿がくっきりと見える程に。
からかい混じりに、斉藤に向かって軽口を叩く。
「何を不貞腐れてるんだ、らしくないな」
そう言って向いた先には誰も居なかった。
「…斉藤?」
一本道の通路の何処にも見当たらない。
「ちょっと待ってくれ芳田!」
正体不明の不安が私を駆り立てた。
その後ろ姿が廊下の角へ消える前にと、呼び止めようと声を張り上げる。
しかし視線の先には、もう芳田の姿はない。
既に角を曲がった後の様だった。
返事を待つ。
一秒。
二秒。
三秒。
「芳田!返事をしてくれないか!」
返事の代わりに、照明が点滅する。
最初はジジジ、ジジジと軽く点滅していたのが、途端に大きく明滅し出した。
「斉藤、芳田!頼むから返事してくれ!!」
大声で呼び掛けながら、照明スイッチの方へ駆け寄る。
一度消してもう一度付けてみるが、何も変わらない。逆に前よりも暗くなっている始末だった。
「クソ!何なんだ!」
私の抵抗も虚しく、照明の明かりは徐々に暗くなっていき….そして遂には完全に消失した。
一寸先も見通せない真っ暗闇が再び邸宅内を埋め尽くす。
音はない。あるのは私の呼吸音と、たった1メートル四方を照らす携帯の光だけ。
靴と床の摩擦音、衣擦れ。私の一挙手一投足から発生する音が邸宅中に響き渡る。
そう、まるでこの邸宅に私一人しか居ないとでもいう様に。
そんな時、私の携帯から鳴っていた呼び出し音が止まった。携帯からは人の話し声が小さく聴こえてくる。
警部が電話に出たのだ。
私は藁にも縋る思いで携帯を耳の近くに近付けた。
『遠坂君?聞こえ——』
「警部!遠坂です!聞こえてます!」
『あぁ良かった聞こえてたか、てっきり電波が悪いのかと』
携帯から聞こえてくる警部の声は、幾らか私の気分を落ち着かせてくれる。
『で、要件は何かな?』
「あ、その警部の忘れ物の件なんですが、また後日でも宜しいでしょうか?」
携帯の向こうで、暫し警部が無言になる。
私は警部の不興を買ったのではと思い、慌てて続ける。
「ちょっとトラブルに巻き込まれてしまいましてね…ブレーカーが落ちたんじゃないかなと思——」
『何を言ってるんだ?私は忘れ物なんかしてないが』
「…は?」
ギシッ
それは廊下の奥の方から聴こえてきた。フローリングが軋む音。
ギシッ
一定の間隔を空けて鳴るソレはまるで足音の様で。
ギシッ
私は内心叫び出したくなるのを堪えて、一抹の希望を以てソレに呼び掛けてみた。
「…芳、田?」
返事はない。
恐怖心に駆られた私は、急いで玄関のドアへと駆け寄った。
『もしかして私の物が落ちてたりとか——』
手放した携帯から、警部の声が遠退いていく。
ドアノブを捻ろうと手をまさぐるが、暗いせいか触れるのはドア本体の板だけだ。
ギシッギシッギシッ
それは急に速度を上げ、近付いてくる。
鈍い音を立てて、後ろで携帯が落ちた。
それはつい先程まで私が立っていた場所だ。
そして次の瞬間には、その場所からフローリングが軋む音が聴こえてくる。
震えた手は言う事を聞かず、中々ドアノブを捻れない。
ギシッギシッ
左手がやっとドアノブを掴む。
ドアのレバーハンドルが回り、私の顔半分を外の月明かりが照らした。
隙間からは荒れ放題の前庭を通る石畳が窺い見え、奥の方には鉄格子の門扉と車が見える。すんでの所で開け放たれた外界へと、私は全力で身を投げ出した。
明るい光。真っ白なシンクと正面に備え付けられた大きな鏡。
「はぁ、はぁ、はぁ———」
蛇口から水が出る音。それは清涼剤の様に遠坂のトラウマを流してゆく。
蛇口がキュッと音を鳴らして水が止まる。
「大丈夫だ、落ち着け」
蛇口から手を離した遠坂は、続けて絞り出した。
「もう終わった事なんだから」
時刻は午前2時28分。
嘗ては丑三つ時と呼ばれ、鬼門と方角が一致する事から瘴気を呼び込むとされてきた時間帯。
寝巻き姿の遠坂は、タオルを片手に壁に取り付けられた時計を流し見た。
「…もう、今日か」
遠坂は今日、外部の人間と共に現場捜査に赴く予定であった。場所が場所の為に開館前に行かなくてはならない。
時計の針が規則的に鳴り響く。
遠坂は思い詰める様に両目を瞑った。
「寝に戻るか」
身体は怠く、精神も寝られる様な状態ではない。
しかし意を決した様にシンクから手を離す。
タオルを掛ける金具がカチャカチャと鳴った。
最後に思い出した様に電気を消して。
草臥れた背中は扉を開けた先、暗闇の向こうへと消えていった。
◇
「失礼、警視庁の遠坂さん…で合っていますか」
10月6日、土曜日の早朝。
発車メロディやアナウンスが行き交う閑散とした駅構内で、一人の男が遠坂に話しかける。
「えぇそうですとも」
遠坂は佇まいを正し、話し掛けて来た長身の男に向き直った。
「では貴方が…」
「はい、今回ご一緒させて頂く七海と申します」
「では参りましょうか、国立科学博物館へ」