捜査一課が受け持つ事件の中には時折、常識では説明の付かない怪奇的な事件が紛れ込んでいる事がある。
検死による死因の推察、現場遺留物の科学的検査、監視カメラによる犯人の特定、人間関係から推察する殺害動機。
そのどれを用いても事件解決には至れず、捜査は手詰まりとなってしまう。
そして時には、異様な現象に捜査関係者が巻き込まれてしまう事も。
遠坂は隣を歩く男に視線を向ける。
薄橙色のスーツに遮光眼鏡がトレードマークの七海と名乗った素性も管轄も不明な男。上から提示された連絡先へ捜査助力依頼を出すと派遣されて来る、その手の専門家とされる者達の一人。
そんな彼等の助力を得て、警察は今も尚事なきを得ていた。
「あの、単純に疑問に思ったのですが」
スーツを纏った長身の男——七海の声が薄暗い通路内に響く。
「何故現場捜査が8時半までなのでしょうか?あと3時間もありませんよ」
其処は国立科学博物館の地下一階。
目的地の地下二階へと繋がる階段を降りながら、七海は遠坂へと疑問を投げ掛けていた。
「現場周辺の区域は封鎖されているんですよね?」
遠坂は、昨日目を通した捜査資料の記憶を頼りに七海へ返答する。
「いえ、それがされてなくて。博物館は事件現場も含めて通常通り営業するそうです」
その一言に、七海は不可解そうに眉を顰めた。
「なにせ事件が事件ですので」
遠坂は返答をぼかす。
当然、そんなもので納得する筈もない。しかし。
「分かりました。了解です」
遠坂の視線につられ前を一瞥した七海は、そっと口を閉じ押し黙った。
節電の為か照明が切られた館内。数歩先を歩く職員の懐中電灯がゆらゆらと揺れる。
「この階ですか」
階段を降り終わり停止中のエスカレーターも通り過ぎた所で、一同は立ち止まる。
「ええ、この先の石器展示エリアだそうです」
通路脇にある関係者以外立ち入り禁止と書かれた扉へ入っていく職員を尻目に、遠坂は腕時計へと視線を落とす。夜行塗料の刻まれた腕時計は、暗闇の中でもくっきりと針と数字を表している。
「もうそろそろ6時半ですね」
「みたいですね、時間までに終わると良いのですが」
話す事がなくなったのか、其処で会話が途絶える。二人とも初対面で、特段気が合うという訳でもない。そもそも勤務中だ。長話も余り宜しくない。
暫し静寂の時間が続く。
そんな静寂という名の暇を持て遊ぶ遠坂の耳にふと、呼吸音が拾われる。
それはすぐ傍からだった。息を吸い、吐く音。
隣に立つ七海の肩がゆっくりと上下しているのが暗がりでも見える。
…深呼吸、だろうか。
パチッ
パチパチパチッ
小さな駆動音。それらは連続的に目の前の大広間の上や奥から聴こえてくる。
朧げに外の光が入り込んでいただけの暗い通路に暖色の照明群が差し込んだ。
ベージュ色の床。高い天井から雨の様に降り注ぐスポットライトの光。入り口から垣間見える巨大な動物の複製。
その眩しさに遠坂と七海は暫し目を細めた。
入り口にはデカデカと書かれた新生代展という文字。中には人っ子一人いない、開館前の静寂さを呈していた。
「あの…」
そんな時に、バックヤードから顔を出した職員の女性がおずおずと話し掛けてくる。
眼鏡をかけた小柄な女性だ。
「はい。何でしょうか」
「少しお聞きしたい事があって。良いですか?」
バックヤードの扉を締めつつ、職員は返事をした遠坂の方へ視線を向ける。
職員の方へ駆け寄った遠坂は、そのまま職員と話し込み始めた。
七海はそれを横目で見遣るが、自身の仕事ではないとそっと視線を戻す。
交渉ごとは彼の仕事で、自身は荒事専門なのだからと。
◇
「ええ…その際はそうさせて頂きます」
暫し入り口の傍で待っていた所を、遠坂の会話を締める声が七海の耳をつく。
組んでいた両手を解いて其方へ視線を向ければ、職員と別れた遠坂が此方へと向かってきていた。
しかし何故かその表情は少し硬い。
「もう宜しいんですか?」
何を話していたのか問いただしたい気持ちを抑え、七海はそう口にする。
「はい、何とか……取り敢えず、そろそろ現場に向かいましょうか」
そう言い、遠坂は展示ゲートの方へと足を向ける。
七海はバックヤードの方を一瞥した。其処では開け放たれた扉が見え、今も室内から職員が何か作業しているかの様な物音が薄ら聴こえてきている。
「…ええ、分かりました」
今にも展示ゲートを潜りぬけようとしている遠坂を追って、七海は新生代展へと足を踏み入れた。
◇
「今、新しいニュースが入りました」
それは何処かの家で流れるテレビニュース。
時刻は遡って一昨日、木曜日の暮夜。親が夕食を作り、子供達が居間で遊んでいる。そんな時分。
テレビの向こうで、ADから紙を渡されたアナウンサーが緊迫感のある表情でそれを読み上げていた。
「つい先程、東京都台東区にある国立科学博物館で職員二名が救急車で搬送されたとの情報が入ってきました。
現場にはリポーターが急行しています。リポーターの細川さん、現場はどんな状況でしょうか?」
テレビから流れる緊迫した声に、子供達の遊ぶ手が止まる。おもちゃからテレビへと視線を向けた瞬間に、画面が夜の上野公園へ切り替わった。
「はい!リポーターの細川です!
此処、上野公園は今は静然としていますが、先程まで救急車のサイレン音で騒々しく、更には帰宅ラッシュの時間帯も相まってすぐ近くの上野駅公園口では軽い混乱が生じていました」
「細川さん。博物館の職員二名が搬送された、との事ですが一体何があったんでしょうか」
「それが、現時点では詳細が分からず未だに把握出来ていません。
しかし担架で運ばれていく職員を目撃した方々によりますと、大怪我をしたかの様に各所に血が滲んでいたらしく体調不良による搬送ではない事が窺えます。」
「そうですか…では何らかの事故の可能性がある、という事でしょうか」
「はい。
もし仮にそうであった場合、博物館側に対して世間からの不安や非難の声が上がるでしょう。
特に現在、特別展の開催に合わせ大々的に宣伝しており、その分平時より注目が集まりやすくなっているかと思われます」
其処でリポーターが後方へと歩き始める。カメラも合わせて動き出した。
「しかしまだ断定は出来ません。
あちらをご覧下さい」
そう言うと、リポーターは左斜め奥にあったバス乗り場付近の道路を指し示す。
「見えますでしょうか!複数台のパトカーが。
現在館内では警察による捜査が行われており、何らかの人為的な事件の可能性もあるのかも知れません」
これ以上情報は出そうにない。
そう思ったアナウンサーは締めの言葉を口にする。
「成程、ありがとうございました細川さん。では引き続き、取材の方を宜しくお願いします」
「はいっ」
リポーターがそう勢い良く返事をすれば、映像が夜の上野公園から元のスタジオへと戻った。
「以上、現地からの中継でした」
アナウンサーは手元に置かれた紙を捲る。
「では、次のニュースです。日本近海上で——」
◇
マンモス、サーベルタイガー、メガテリウム。
それは古代の先達達。
今にも咆哮や息遣いが聴こえてきそうな程に精巧に造られた複製が、ガラス張りのショーケースにズラリと並ぶ。
そんな広々としたホールに、二人分の足音が響いてくる。
「遠坂さん。あの、先程は何を…?」
職員の詰めていたバックヤードからは十分以上に離れた事をみとめた七海は、いざ気になっていた事を口にした。
「あぁ…あれですか」
遠坂は、皺が刻み始めたその顔を更に顰めて口を開く。
「いえね、あの職員の方に色々と問い詰められまして。捜査に職員を同伴できないかだとか、どの範囲を調べるのか、とか。展示物の保存上の観点から、素人に好きに弄らせたくないんでしょうね」
「不味いんじゃないですかそれは……警察の権限で何とか押し通せないんですか?極秘捜査などと言って」
「相手の追求をやり過ごす位なら問題ないでしょうが…それ以降となると…と言うよりそれ以前の」
会話すがら二人が辿り着いたのは、まるで棺桶を縦に置いたかの様に二人の視界を遮って点在するガラス張りのショーケースの一帯。
それらを縫うようにロープパーテーションで区切られた道が二人の先を示す。
ショーケースの中には毛皮を纏った原始人達が、様々な格好で二人を見つめていた。
「見て下さい。あそこに監視カメラがありますよね」
そう言って、遠坂は天井の黒い小球体を指し示す。
「それにあちらにも」
原始人のショーケース越しに見える、マンモスの頭部の上で黒のカバーが煌めいた。
「今回の事件は人っ子一人いない山道だとか、何処かの家かホテルの密室などの閉鎖環境で起こったものとは違います。監視カメラ越しに警備員が随時目を通している博物館内で起こったんです」
「つまり事件の全容を把握されていると?
———あぁ、いや」
其処でかぶりを振った七海は、訂正する様に言い直した。
「博物館側に隠すどうこうで辟易なさってるのですから、まだ肝心な所は見られてはいないが、事件の一部始終は見られてしまっている、という事ですかね」
「ええ、そして今もです。既にチョークも撤去されて調べるものが殆どない筈の心中未遂事件程度に、関係ない所を調べている所を指摘されたらと思うと…」
其処で一度遠坂は言葉を切り、頭痛を堪えるかの様にこめかみを押さえる。
「一応建前として現場検分という体で来ていまして、だいぶ自由度を持たせたニュアンスなんですよ。職員にとやかく突っ込まれるのもそれを考慮すれば当然と言えば当然なのでしょうが」
「…それは———」
良く通る声で始まったその言葉は一転、弱々しく途切れる。
二の句を考える七海の視線が虚空を舞うも、良さそうな案は出てくれない。
「…難しい問題ですね」
喉に引っ付いた空虚な言葉に、七海は苦虫を噛み潰したように目元に皺を寄せた。
二人の間に何とも言えぬ静寂が流れる。
間に響くのはカツカツと床材を叩く革靴の音のみ。
原始人達に見据えられた棺の道も終わりが見えてきた。
照明が切り替わる。
物陰の隅すら照らしていた白光の光は、暗闇に薄らと浮かぶ仄明かりへと置き換わり、二人を暗黒の世界へと誘う。
「これは…」
それは誰が漏らした声だったろうか。
二人は捜査の本分も忘れて思わずと足を止めてしまう。
目の前に広がっていたのは、まるで大自然から飛び出して来たかの様に室内を侵食して存在する洞窟。
周囲を囲む平面状の壁は数歩先からゴツゴツとした岩壁に打って変わっており、視界の右下には解説パネルがポツンと置かれていた。
後ろを振り返ってみれば、薄暗闇の中機械的に黒い壁を照らす非常口マークの誘導灯が孤立しているのみ。
さっきまで通ってきた真っ昼間の様な明るさに包まれた展示室は影も形もない。
話に夢中で気が付いていなかったのか、どうやら知らぬうちに曲がり角を曲がっていたらしい。
「…世界遺産、ラスコー展。クロマニョン人が残した洞窟壁画」
声のした方に振り返れば、七海が洞窟の前に置かれた解説パネルを読み上げている所だった。
その先で、洞窟が大口を開けて待ち受けている。
そこから流れ出る冷たい空気が肌を刺す様だった。
そんな冷ややかさを努めて感じない様に、遠坂は少し空元気に言葉を返した。
「凄いですね。こんなの初めて見ましたよ。昔、何度か子供と来た事があるんですが」
妙な寒気に、遠坂は喉から漏れ出るのを押さえられない。
「まぁ、ただで見られるんですから得をしたと思っておきましょう。不謹慎ですけれど。
ささ、観覧も程々にもう行きましょう」
そう言って遠坂は足早にこの洞窟を通り抜けんと立ち去ろうとする。
しかし七海は動かなかった。
「あぁ、いえ。少し関係があるのではと見ていただけです」
仄灯りに淡く写し出されていた七海の背中が、遅れて動いた。
「関係が…ですか?」
「えぇ」
そう言うと七海は、解説パネルのある一文に指を沿わせる。
其処にはこの洞窟壁画の内容が書かれていた。
「この壁画には、原始人達の儀式の様子が描かれているみたいです。此処に書いてある通りであれば、ですが」
七海は落としていた視線を洞窟の先に向ける。
「まぁ色々と壁画の内容の考察が書いてありましたが、それは実際にこの目で見て判断する事にします」
そう言うと、七海は遠坂を待たずにそのまま洞窟へと入ってゆく。
「え?あ、ちょちょっと…..待って下さいよ!」
しかし七海の背中は止まらず、暗がりの中へと消えてゆく。
それに堪らず遠坂も後を追った。
所々淡く照らされた洞窟の中を靴音が叩く。
二人以外は誰も居ない無人の洞窟は、奇奇怪怪な壁画で以って遠坂を出迎えた。
ワラワラと湧き出る棒人間達。鳥や獣、何かの道具を持つ人間が成す記号的な紋様。或いは図形か。
人か何かかも分からぬ棒人形の様なもの。見え様によっては木にも見えるかもしれない。
それらは形も為さぬブラックボックス。一介の刑事でしかない遠坂には、どの様な意図で描かれたものなのか皆目見当も付かなかった。
もし仮にこの考古学的難題を解き明かせと言うのでいれば、それは自分よりも、先で佇む彼の方がまだ適しているだろう。
遠坂は、視線の先で思案げに壁画を眺める七海に問いを投げ掛けた。
「どうでしょうか。何か分かりましたか?」
しかし七海は黙ったまま答えない。
遮光眼鏡に隠れた眼光を、壁画に向け続けるのみ。
しかし暫くすると、その鋭い視線を外して口を開く。
「…これは逆ですね」
「逆?」
「入り口付近には棒人間と動物の絵。そしてその次には森や木に見える様な絵と棒人間」
いつの間にか遮光眼鏡を外していた七海が、横の壁画を一瞥してそう話す。
「基本的に壁画は珍妙なものばかりですが、必ずと言って良い程その様な共通点があります」
「つまり人間が森に入り、動物を狩っている…本来の見る順番が逆という事ですかね」
そう言いかけた所で遠坂は、七海の背後、洞窟の奥に動物が描かれているのが見えた。
「じゃあ、あれは…?」
バイソンとそれを突く棒人間。
片手には槍の様な棒を手にしている。
しかしおかしい。棒人間はバイソンから離れた所を突ついている。
「気付かれましたか?入り口付近の絵には動物が人間に攻撃されている描写がありませんでした。あれを獲物を得たシーンだと仮定するのなら、あの壁画と辻褄が合います」
そう言いながら七海はその壁画に近付いて行く。
「これは恐らく足跡を刺すという、酷く原始的な呪術…というよりまじないでしょうか」
壁画につられてその足は奥へと向かう。
「他にも刀印護符に僅かに似ている記号、紋様もあります。私の知っているものとはだいぶ違いますが、この洞窟の原始人達が呪いによって獲物を得ていたのは間違いないでしょう」
七海の言う通り、進んだ先には多くの儀式的な壁画が描かれていた。
それを前にして遠坂は疑問を吐露する。
「あの、刀印護符とは…?」
「…あぁ、外部からの刀印で起動する術でして、主に呪詛師が呪いだとか護符として一般人に販売していたりする事が——」
「と言う事はっその紋様が今回の事件に何か関係が」
「あぁいえ、恐らくそれはないかと思います。呪術に於ける指紋、残穢が全く見られません。これはただの模倣、複製物。中身は呪いも何もない伽藍堂ですよ」
七海は何でもない様にそう言う。
遠坂はそれに何処か納得しかねる様に相槌を打つ。ならあの時感じた恐怖にも似た不気味な寒気は何だったのか。
しかしその寒気も、今は感じない。
気のせいだったのかも知れない。
何よりその道の専門家が太鼓判を押すのだから、自身の感覚よりもよっぽど信頼性があるだろう。
ふと、七海は思い出した様に言った。
「私なりの稚拙な想像なのですが」
そう前置きを置いて、彼は話し出す。
「この洞窟壁画は、後世の人々に伝える絵巻物の様なものなんじゃないでしょうか」
「絵巻物…ですか」
「えぇ。術を使い、森に入り、倒れた獲物を得る。これは手取り足取り狩りの仕方を教える教材の様に感じます。当時は文字もなかったでしょうから」
見れば、視界の先に明るい光が待ち受けている。
暗い洞窟も終わりが見えていた。
名残惜しく、壁画を流し見ていく七海は呟く。
「後世に残した絵巻物とくれば、その始まりは世界万国共通、想像神話と決まっています。人は理解し難いものを見た時、我を忘れる」
そう話している内に、七海と遠坂は最後の壁画に通りかかる。
それに目を向けた七海は、つまらない物を見たという様にかぶりを振った。
「まぁ、原始人が何を考えていたかなんて私には知りませんがね」
天然の岩壁の様な壁は、彫琢された人工の壁面に。薄暗い陰鬱とした空気は、空調の効いた室内のそれへと変貌する。
「七海さん、そろそろ現場です」
廊下の奥にガラスケースに入った石器群を目敏く見つけた遠坂が、観覧の終わりを告げた。
「はい、分かりました。それと先程の監視カメラの話の続きなんですが———」
二人は立ち去る。
その陰に最後に描かれた始まりの壁画があった。
虚空から伸び出る二つの腕。
それはまるで無から飛び出している様にも、溺れている様にも見えた。
◇
『2018/10/4/18:56:34』
ざざざ、ざざざ、と乱れる画面の左上。
其処では小さく秒数がカウントされている。
映像に映るのは白い大理の床と陳列された石器群。上から見下ろす形で俯瞰されたその映像は、秒数だけが動き続けていた。
其処に二人の男が入ってくる。
何やら急いでいる様子で、すぐにその場を通り抜けるかと思われたが、先頭の男が何かに躓き転倒した。
すぐに後続の男がそれに覆い被さり、何と頭を掴み床に打ち付ける。
倒れた男は何かを叫び抵抗する。しかし。
一回、二回、三回と。
振り下ろされる床が赤く染まる頃には、倒れる男の抵抗は止まっていた。
頭を半狂乱に振り下ろしていた男は其処で手を止める。
何処かを見ていた。
夢遊病患者の様に立ち上がり画面の右下、等間隔に整列された中の一つの展示ケースへ近付いて行く。
男の顔は見えない。頭上から頭が見下ろせるだけ。その顔の表情も窺い知れぬ男は、展示ケースを開けようと脇の開閉口を乱雑に弄り始めた。
鍵が掛かっているのだから、普通に考えるのなら開く筈もなかった。しかし男は何度も力任せに押し開き、遂には無理矢理こじ開ける。
当然、小さな隙間に食い込ませた指はガラスに削られ、展示ケースは血だらけとなっていた。
そうして男は血濡れのケースに手を差し入れる。
中の物を掴み取り———
「ふむ。それでその展示物を使い自死を図ったと」
等間隔に整列された展示ケースの、不均一に空いた一部分の前で七海はそう漏らす。
床や壁に飛び散っていた血痕は既に清掃されており、其処には何もない空間と白い壁しかない。
「これがその展示物の写真です」
そう言うと、遠坂はリング状の金具で綴じられたファイルを開き見せてくれた。
それを受け取った七海は、紙面に目を向ける。
両開きのページに、ジップロックに入った展示物の全面写真が複数枚に渡ってプリントされている。
写真を追って前面、右面、左面と目を通すが、背面の写真がない。
七海は親指でページを捲り上げた。
“被疑者 相川苑太郎
アンフェタミン、メタンフェタミン、モルヒネ、コカイン、ヘロイン、LSD等、検査結果陰性
覚醒剤、麻薬由来の精神障害の疑いなし
職場関係も良好、私怨の線もなし”
ふと、目に入った。
左端に小さく書き込まれた文字の羅列。
「遠坂さん。もう一度確認させて頂きたいんですが…」
努めて、動静を感じさせない平坦な声で。
「自死に使われた凶器は、本当にこれで合ってるんですか?」
「…あ、は?」
少し上品めいた顎髭を生やしたその男は、呆けた顔を晒す。
「いや、鑑識課がそんな間違って別の展示物を回収する筈なんて、ないと思いますが…何故、そう思われたんですか?」
七海はファイルを裏返し、薄茶色の彫器の写真を遠坂に見せつける。
「これはただの石器ですよ?私には何の呪術的要素も見出せません」
「いや、じゃあどうやって!何故!こんな狂行が起こったって言うんですか…!」
「それは私が言いたい事です…!残穢も何もない空間で、どうしろって言うんですか!」
其処まで言った所で、ハッと七海は表情を戻す。
「…失礼。少々熱くなり過ぎました」
遠坂も遠坂で、言い返そうとしていた口を手で閉ざし、返事を返す。
「いえ、私こそ。申し訳ない」
腰の位置まで下がったファイルが、手持ち無沙汰に揺れる。
「取り敢えず、もう少し調べてみましょうか」
白い展示室に遠坂の返答が響いた。
「そうしましょう」
◇
それから小一時間程。
館内を隈なく二人は調べ上げたが、何の手掛かりも見つけられず時間は終わりを告げた。
二人は灰色の床と白い壁が目立つ片廊下を歩く。
目の前にはエレベーター。
七海が一歩踏み出して上矢印のボタンを押せば、すぐに上から降りて来る。
二人以外乗る者はいない。
エレベーターは途中で止まる事はなく、地下2階から、二人が入ってきた職員用出入り口のある1階に止まった。
扉が開けば、窓から差し込む天然の陽光が二人を出迎える。
休憩用の椅子が幾つか鎮座している片廊下を進み、中2階に広がるレストランの下を通り抜ける。
ふと遠坂は吹き抜けのレストランを見遣るが、中はまだ準備中でスタッフが時折ホールを通り過ぎるのみであった。
視線を戻せば、七海はもう奥の職員用出入り口に手を掛けている。
遠坂はレストランの下、端の方へ急いで駆け寄った。
キィ、と甲高い擦れた音を出しながら扉が開く。
扉の先に広がるのは階段状の芝生と石畳で整備された中庭。
奥には茶色い外壁をした煉瓦様式の建造物、日本館も鎮座している。
その中庭沿いの道を歩きながら、七海は「ハァ……」と大きく溜息を吐いた。
「何もなかったんですが…どうしましょうか」
遠くでは、来館を待つ大勢の人々が長列を作っていた。ふと遠坂は疑問を口にする。
「大丈夫ですかね?これから来館する彼らは」
「大丈夫ですよ、少なくとも現場には何もなかったでしょう」
八つ当たりとでも言うかの様に、地下ではずっと外していた遮光眼鏡を七海は少々乱雑に顔に装着した。そうして一言付け加える。
「残る手掛かりと言ったら、被疑者と被害者位なものです」
「その二人は近くの大病院に入院してますね」
腕時計を確認し、遠坂は言う。
「行きますか?」
「行ってみましょう」
数瞬の間を開けてそう返答が返ってくる。
それに少し微笑ましさを感じるも、遠坂は表には出さずに話を続けた。
「三ノ輪総合病院と言いまして、ここから電車で二駅先の場所です」
そう話していれば、もう裏口である門の前。
脇に花の咲いていない桜の木が生え、門の上を垂れ下がる黄色がかった枝葉が覆い隠している。
遠坂が警備員の男に会釈をすれば、彼は帽子の鍔を上げ門を開けに来てくれた。
格子状の横開きの門が一部分だけ開かれる。
その隙間に身を通す様に抜けた二人は、公園内の並木通りへと躍り出た。
列に並んでいた幾人かの観光客の視線が二人を射抜く。
出た場所は博物館の入り口からやや離れた脇にある場所なのだから、視線につくのは当然の事であった。
しかし出てきた場所を見て職員か何かだと思ったのだろう。少しすれば興味をなくした様に視線を列の方へと戻していく。
そんな彼等を見て、七海は呟いた。
「盛況ですね」
それに、少し先を進んでいた遠坂が振り返る。
「あぁ、確かに凄い列ですね」
今も二人が向かう駅の方向から観光客が一人、二人と次々に列に加わっていく。
中には日本人だけではなく、海外からの観光客までいる有様だから騒然だろう。
「これだけ人が来る人気の施設なら、一時の営業停止くらい別に良いでしょうに」
七海は不満を隠す事なくそう言った。
「まぁ…特別展込みの集客かもしれませんし、博物館側がこのタイミングでのイメージダウンを嫌うのも仕方がないですよ」
「…そうですね、そうなんでしょう。相手方の考えは」
何処か険のある言い方だった。
暫く歩けば、広い並木道の三叉路に差し掛かる。
近くには目印となる様な目立つ建物もなく、道を区切る見切り石を越えれば芝生と点在する木々が広がるだけだ。
行きの記憶を辿ろうとする七海は、迷いなく進む遠坂を見て過去に遊びに来た事があると言っていたのを思い出す。
逆方向から来る親子連れやカップル、朝のランニングに勤しむナイロンパーカー姿の女性などを避けて、先を行く遠坂の後を追った。
そうすれば、歩を進める毎に左側に生える木々の枝葉が拓けていって、枝葉に混じる黒のピケットフェンスと共に白を基調とした西洋美術館の建物が見えてきた。
更に奥には文化会館の外壁が迫り来る。
もう上野駅の公園口まで間近であった。
「あ、七海さん、七海さん。そっちじゃないです」
上野公園に向かって横に広く開いた上野駅公園口の前。
白い石畳で整備された広場で、遠坂は七海を呼び止めた。
「三ノ輪総合病院までは日比谷線なので、JRじゃなくて東京メトロの方です」
「そちらでしたか。すみません」
こっちです、と遠坂は公園口の右横へと向かう道を指差す。
木を囲む様に設置されたベンチで、地図を広げる海外観光客らを尻目に二人は公園口から離れていく。
道路を挟んで左側に見える赤いカラーコーンや専用の搬入口が見え隠れする駅の裏側。
赤い誘導棒を持った交通誘導員。
そして道路を渡る小さな歩道橋と渡った先で下へと消えていく下り階段。その先には何もない。空だけが続く。
その階段の下から緑の葉が風にそよいで垣間見えていた。
駅の向かい、文化会館に面する歩道を奥まで進み、歩道橋も通り過ぎた二人の前に白い手摺りの付いた階段とスロープが現れる。
どうやら下に続いている様だ。
どうやらこの辺りは高台の様で、スロープは長くなだらかな傾斜が続いていた。
暫く下れば、白の手摺りと壁、雲混じりの青い空だけに囲まれた歩道橋はその景観を変化させていく。
左下に垣間見えてくる駅のホームの屋根に、右には聳り立つ石垣。石垣の向こうには林があるのか、緑が上から垂れ下がってきている。
音も変わってきた。
駅の騒々しい発車音。掠れ消える、僅かに耳を撫でた草葉の風の音。
そして先からごった返す様に迫り来る人々の雑多音。
遠くで信号の音響が鳴り響く。
歩道橋の傾斜が急になると共に、目の前の視界が一気に拓けた。
目の前に広がるのは、巨大なビルとそれを中心に二つに分かれていく目抜き通り。
スクランブル交差点も歩道橋の終着点、絨毯代わりに引かれた黄色い点字ブロックのすぐ近くに引かれていた。
川の流れの様に次々と人々が流れていく。
そのスクランブル交差点で、緑の光が点滅し出すのが遠目にでも分かった。
それを見た遠坂は階段を降りながら内心で深いため息を漏らす。
これでは降り切る頃には赤になったばかりじゃないか、と。
当たってほしくない予想程、嫌に正確に的中するらしい。
丁度階段を降り切り、駅前のセンター街に足を踏み入れた所で信号は赤に変わった。
先程まであれ程たくさん居た人々は流れ去り、跨道橋を望むスクランブル交差点前は酷く閑散としている。
自動車用の信号が遅れて移り変わる事で、気怠げな待ち時間の始まりを車体の稼働音を以て告げた。
雲が移り変わり、燦々と陽光が差し込む。
暫く黙っていた遠坂は、何とはなしに少し後ろに立つ七海に話しかけた。
「ちょっと…聞いてみたい事があるんですけど——」
振り返り、笑いかけながら無愛想な男の顔色を伺う。
「良いですか?」
「何でしょう」
返事はすぐに返ってくる。
その様は不必要な会話などしたくないという様な気怠さが表れていたが、遠坂は臆せず続けた。
「いや、まぁそんな畏まった話じゃないんですけど…七海さんのご職業について気になって」
近くにジャンパーを羽織った若者が立ち止まる。
それを見た遠坂は重要な部分はぼかして質問する事にした。
「余り表向きなものではないじゃないですか。何処でそう言ったものを教わるんですか?」
「それの高等専門学校でですね」
「へぇ、そんなものがあるんですか。じゃあ七海さんも其処に?」
「…ええ」
「高等専門学校って確か五年制でしたよね…じゃあ二十歳辺りからこの仕事に?インターンシップとかもあったりするんですか?」
「…いえ、私がこの職に就いたのは数ヶ月前からです」
そう話す七海の表情は少し常のものと違った。
付き合いの短い遠坂でも察せられる程の些細な変化。
「卒業後は大学に編入して、普通のサラリーマンとしての進路を選んだので」
視覚障害者用の音響が高い周波数で鳴り響いた。
いつの間にか出来ていた人だかりは、それに合わせて一斉に動き出す。
何故。どうして。そんな言葉は喧騒の中で消えていく。遠坂は人の濁流に呑まれ、また歩きださざるを得なかった。
信号を渡り切った先に跨道橋がある。何列にも渡り歩道を十数メートル以上は覆い隠すその下に、ひっそりと地下へと繋がるスロープがあった。
上には日比谷線を示すHのマークが他の線のマークと一緒に表示されている。
此処から入りましょう、と遠坂は七海に言う。
先程の会話を続けようとは思わなかった。
どうしてなのか、上手く言語化出来なかったが。
七海も何も語る事はない。
二人揃って黙々と地下へと続くスロープを降って行った。
降りきった先に待っていたのは地下道だった。
両脇の壁に広告が取り付けられた、白い幅広の地下道。
人々が疎に列を作って、方向毎に左右で分かれて歩いている。
七海がその中を狭そうに身を縮めながら歩いていた。
低い天井は、七海より幾分か身長の低い遠坂ですら圧迫感を感じさせる。
そうして暫く歩いて天井からぶら下げられた案内板を辿れば、円柱の柱を中心に八列設置された小さめの改札口が目に入る。日比谷線の改札だった。
ICカードが二回、連続して軽快な電子音を奏でる。
すぐ進んだ先に左右に別れる様にホームへ降りる二つの階段があり、二人は左側、中目黒方面のホームへと降っていった。
向かいのホームが見渡せる、筒抜けの両面型のホーム。格子の様に、等間隔の柱が間を区切る。
地下鉄のホームは外とは違い、人工的な光が場を照らしていた。
まだ電車は来ていない。
遠坂は、足元に表示された乗車位置の上で電車を待つ。その場所はまだ誰も並んでいなかった。
背後では七海が携帯を弄っており、周囲には同じ様に疎に人が点在している。
ふと、向こうの駅のホームが気になった。
二十メートル程先で、こちらと同じ様に疎に人が屯している。
休日出勤の会社員、老人夫婦、小さい息子を連れ立った父親。
その端に、一人ポツンと立ち竦んだ女の子が居た。
しかしどうも様子がおかしい。
まるでホームレスの様に、雨土に汚れ茶色に変色した服とも言えぬ貧相な布を纏っている。
それに頭から水を被った様に全身がびしょ濡れだった。
「七海さんすみません、ちょっと所用が———」
そうして振り返った先に七海は居なかった。
代わりに立っていたのは見た事もない、これまた見窄らしい格好の男。
身体は所々腐り落ち、蛆虫が這い回っている。
「お前か。お前なのか」
「あ、あの救急車、お呼———」
「お前が殺したのか!お前が殺したのか!」
それは万力の如き力だった。
男に首元を掴み掛かられ、呼吸が阻害される。
遠坂が幾ら力を込めても拘束が外れる事はない。一歩、一歩と男の歩みに合わせて遠坂は黄色い線の外側へと後退していく。
靴底越しに感じるコンクリートの感触が、後ろに出した右足の踵から存在しない。
「あ、あが、あぐ」
紅潮していく顔を必死に食いしばらせ、前に押し出ようと死力を尽くす。
靴がホームの床を擦れていく音がした。
止まらない。
ピーッピーッ
「ちょっとアンタ!!何やってんですか危ないですよ!!」
ハッと遠坂は夢から醒めた様に前のめりにつんのめる。
音のする方を見遣れば、笛を片手に駅員が憤怒の形相で走り寄って来ている所であった。
「お客さん酔っ払ってる?ここ黄色い線の外側!もう電車来るから!」
「あ、え」
「あと何か散らばってますよその辺。…聞いてますか?」
「…は、い」
はぁ…頼むよホントに、と吐き捨てながら駅員は離れていく。
駅員が指していた方向を見れば、散乱したビジネスバッグが落ちていた。
そこから、音が鳴っている。
携帯の呼び出し音だ。
まるで最初から鳴っていたとでも言うかの様に、先程からずっと遠坂の耳に鳴り響いていた。
歩み寄った遠坂は膝を屈め、ビジネスバッグを拾い上げる。
ファスナーを開けば、やはりか中のポケットに入った携帯が鳴っていた。
画面に表示された番号だけのそれ。
それに遠坂は見覚えがあった。
画面に出ていた緑色の受話器のマークを押す。
『遠坂さん。今何処に居ます?』
携帯から漏れ出る声は今日で聞き慣れた七海の物であった。
先程の男の声ではない。
『スクランブル交差点で逸れてからホームで会えるだろうと思って連絡しなかったんですが、もう電車来そうなんですよ。もうホームに着いてますか?』
携帯を耳に当てる遠坂の背後から、音と共に風が吹き抜ける。稼働音を出しながら減速するそれは鼠色の車体。
『えートラブル処理の為、遅れてアナウンスします。中目黒行き、一番線に到着しました。停車するまでは黄色い線の外側に出ない様お願い致します』
「あっ遠坂さん…やっと見つけました」
その声は携帯からではなく、少し離れたホームの奥の方から聴こえてきた。
見れば携帯を下ろした七海が歩いて来ている。
停車した電車の扉が、背後で一斉に開いた。
「乗りましょう」
七海はそう言って足早に扉を潜る。
虚にその背を追う遠坂の視線の先で電車の扉は大口を開け、その微かに震える稼働音は発車を急かす様に今か今かと駅員の号令を待っている。
遠坂は幽鬼の如き足取りでその中へ足を踏み入れた。
白い内装に揺れる吊り革。赤仕立ての長椅子に座る雑多な人々。
それらを流し見た遠坂の後ろで、バタンと扉の閉まる音がした。