…1
退学願
下記理由により退学の許可をお願いいたします。
一身上の都合
000
D.U.の郊外、アオバ地区の中心にあるアオバ駅を西口の方へ出て、寒々しいロータリーを望む駅前面に立って、そこから少し右に顔を向けると、近くの商店街までまっすぐ通っている、ひび割れた二車線道路がある。その道をしばらく進んで、人のまばらな町通りに入って三分ほど歩くと、幾月か前から閉店し続けている散髪屋がある。その散髪屋の、シャッターの閉まった店構えの右側には、車一台がやっと通ることのできるほどの狭い隘路が、薄暗く口を開けている。真昼であるにも関わらず、この路地は周囲より暗い。なぜかというと、路地の右手の、七十ほどの老婆がやっている小さな質屋の二階のベランダから、大きな鉢に植えられた金木犀の緑葉が、さながらパサージュのように路地にかかっているからだ。秋ごろになると、この金木犀は一斉に総身を黄色に染めて、そのまま雨でも降ると、花が落ちてこの路地を絨毯でも敷いたようにしてしまう。
その小道に分け入って、うすら暗い中をいくらか歩くと、元々はまっさらであっただろう壁面にところどころ小さな弾痕のついている、四階建てのテナントビルがある。このビルの一階には、とうてい繁盛しているようには見えない喫茶店が入っており、二階には、これまた繁盛しているとは思えない不動産屋が入っている。三階は長いこと空屋のままだ。そして、最上階である四階は、半年ほど前から、一人の女が借りて自分の店をやっている。このビルの近所に住んでいる老人たちや学生の中で、四階の店が何を商品としているのかを知る者は少ない。ただ彼ら彼女らは、四階の窓に貼り付けられた、「御用命なんでも。よろず屋」という飾り気のない文字を見て、その言葉の指すところの曖昧さに首を捻りながら、戸を叩かずに通り過ぎていくのみだ。したがって、このよろず屋も繁盛していない。
勇気を出してこの店を戸を叩いて、やたらに重い扉の向こうに入ると、まず目の前に壁があり、そこに鏡が据え付けられているのが目に入る。十二指腸のように曲がった通路に沿ってその壁を迂回すると、応接室とオフィスが一体となったような、安上がりな内装の部屋が広がっている。そして、部屋に鎮座している大きなソファで、コートを掛布団にしてだらしなく眠っているのが、このよろず屋の経営者である女だ。名前を
彼女は古ぼけたソファーの上に身を横たえて、睡眠と覚醒の中庸を漂っている。ソファーに敷かれたグレーのコートにはすっかり皺がついているが、彼女はそのことを気にも留めていないようだ。いま彼女の寝台となっているソファーは、この店に置かれているものの中ではいちばんの古株で、なんでも前の住民が処分に困って物件に置いていったものだという。いつから置かれているのか、詳しいところはアスカ自身も知らない。今でも現役で、客人の応接席とアスカの寝床を兼ねた存在として重宝されている。
アスカはすっかりよろず屋の業務を放り出して、暖かい日光を掛け布団がわりに昼寝に溺れている。季節は春をゆっくりと忘れ始めた頃で、そこここで芽吹き始めた新緑が一足先に夏の気配を漂わせていた。おかげでアスカの眠りもこれ以上ないほど万全のものとなっている。五月病の後遺症は、未だに癒える気配を見せていない。
唐突に、アスカの耳に聞きなれない音が飛び込んできた。何事かと目を細く開ける。しばらく間をおいて、再びその音が静かな事務所に響く。アスカは体を起こして、音の出所へ顔を向けた。どうやら部屋の入り口で異音が鳴っているようだ。
アスカは寝ぼけ眼を擦りながら耳を澄ます。よく聞いてみると、先ほどから繰り返されている鈍いような音と共に、微かに話し声のような音がある。音に集中すると、壁一枚隔てたような声がだんだんと明瞭になっていく。
——なんだ、やってないのか? 休みならそう書いとけってんだ、たく……。
来客だ。
アスカは急いで起き上がると、不可思議な形状についた寝癖をまとめ上げて、机に置かれたヘアゴムで乱雑に括った。少々アクロバティックなポニーテールを二、三度ぞんざいにすいて、アスカは玄関扉に駆け寄る。
「待たせたね、よろず屋だよ。……なにか依頼かい?」
安普請の扉を勢いよく開けた。扉の向こうで壁に寄りかかって携帯を見ていた少女が、驚いて肩を震わせる。被っているデコレーションの施されたヘルメットが、彼女に合わせて揺れた。
少女は、マスカヘルメットの持ち上げられたバイザーの下から、スウェットと短パンという風体の女に訝しげな視線を送る。
「あんた、もしかしてさっきまで寝てたのか?」
ヘルメット少女の鋭い指摘に、アスカは声を詰まらせた。
001
インスタントのカフェラテを二杯、慎重な手つきで机に置いて、アスカは口を開いた。
「さて、それでは、君がここに来た目的を聞くとしようか。私に何か依頼かい?」
「なあ、その服のままで進めるのか? いや、別にそれでもいいんだが」
ヘルメット少女はアスカを指さして言った。アスカは今、大手ファストファッションブランドのロゴがプリントされたスウェットと、腿を隠す気が一切感じられない短パンという、客人の応対をするのに適切であるとは到底言えないファッションに身を包んでいた。かなり愛用しているのか、ところどころの繊維がほつれている。コーヒーやアイスクリームのシミがところどころについているのも、近くで見れば気がつけるだろう。アスカは服を着替えようとするそぶりも一切見せずに、一人がけのソファーチェアに腰掛けた。先ほどまでアスカが寝ていた年代物のソファーには、ヘルメット少女が居心地悪そうに座っている。
アスカはヘルメット少女に相対しながら、机に置かれたカフェラテを啜った。
「私の服については、ひとまず目を瞑ってくれ。なにぶん急な来客だったものでね。普段はメール予約の客ばかりなんだが」
「悪かったな、いきなり押しかけて」ヘルメット少女はぶっきらぼうに言った。「だがな、客が来るかも知れない時間にグースカ寝てるあんたにも、落ち度はあると思うぜ」
「そんな話をしに来たんじゃない、だろ?」アスカは手を叩いて会話を切った。「君は何か依頼があってここに来たはずだ、まずはそれを話してもらおうか」
ヘルメット少女は何かを言いたげにしばらくアスカを見つめたが、やがて諦めて口を開いた。これが俗に言う、“もうどうにでもなれ”という心境なのだろう。生きていく上で、そのような小さな妥協を積み重ねる羽目になるのはよくあることだ。
「依頼、ねえ。どうにも込み入った話なんだが、それでもいいか?」
「ああ、もちろん。私はどんな依頼でも大歓迎だよ。それに見合った報酬があるなら、という但し書きは付くがね」
少女はアスカの言葉を聞き流して、被っていたヘルメットを脱いだ。鮮やかな赤に塗装されたマスカヘルメットに、同じく赤いフェイクファーをあしらった代物だ。焦げているのか汚れているのか、ヘルメットに巻かれたフェイクファーは、ところどころ毛先が少し黒くなっている。本体の側面には、“I.M.”という文字が乱雑なタッチで書かれている。イニシャルだろうか、とアスカは推測した。
「見てわかるだろうが、アタシはヘルメット団のメンバーだ」彼女は机に置いたヘルメットに目を落としながら言った。「モフモフヘルメット団ってとこで、アタシはそこで団長をやってる」
「へえ、団長か」アスカは驚く。眼前に座る少女の年齢は見たところ十六かそこらで、一般的なヘルメット団の基準に照らせ合わせれば異例のスピード出世だ。
「もっとも、先輩から譲り受けたばっかで、団長らしいことはしてやれてないがな」自嘲気味に呟いて、彼女はヘルメットを一度撫でた。
「それでも、団長とはすごいじゃないか。先輩から譲り受けたと言っていたが……、きっと君には人を率いる素質があるんだろうな。先輩はそれを見抜いたんじゃないのかい」
アスカの言葉を受けて、彼女は困ったように眉を寄せながら少し顔を赤くした。それから一つ咳払いをして、話を続ける。
「それで……。アタシらの団が、最近ちょっとマズいことになっちまってるんだ。あんた、トリニティ学区のヘルメット団のナワバリは知ってるか?」
「ああ、こんな稼業だからね。おおまかにだけど、一応知っているよ」
「そりゃ話が早い。アタシらは、トリニティ学区でも東の方を縄張りにしてるんだが、あそこ一体は元々、ピカピカヘルメット団の縄張りだったんだ。アタシの先輩の先輩くらいの代にデカい抗争があって、それでアタシらは今の場所を縄張りにしてるんだが、ピカピカの連中は今でも取り返そうと動いてやがる」
「そういえば、その大規模な抗争なら、当時の私の耳にも噂は聞こえてきていたな。なんでも、モフモフのツートップが、ピカピカと正義実現委員会相手に大立ち回りを繰り広げたとか」
「あんた、知ってんのか!」少女の顔が綻ぶ。「ユリカ先輩とアザミ先輩のタッグは今でも語られる伝説なんだ」
「だが、あの二人はたしかもう卒業している。もしかして、それでピカピカが圧を強めてきたってことかい?」
少女は一転して顔を曇らせる。どうやらここが本題らしい、とアスカは直感する。
「まあ、言っちまえばそういうことだ。舐められてんのさ、アタシらは。それで、今年に入ってから襲撃が続いてるんだ」彼女の顔が怒りに歪む。「あいつら、団長が変わってから、やり方がすっかり卑怯になった。いくら団員でもヘルメットを被ってねえ時には撃たないってのが、ヘルメット団の暗黙のルールだってのに、あいつらはお構いなしさ。挙げ句の果てには真夜中にアジトに手榴弾を投げ込んできやがった。腐ってんのさ、あいつらはヘルメット団の誇りを捨てちまった」
「なるほどね、もはやただの暴徒になったわけだ」
アスカは話を合わせる。外から見たら大したことでないような物事でも、当事者たちにとっては深刻、というのは往々にしてよくあることだ。誇りも何も、はたから見たらどちらもテロリストだ、という言葉は飲み込んだ。
「ウチの連中もしばらくは抑えてたんだが、流石に我慢の限界でな。一週間ぐらい前から、街でピカピカを見かけたらこっちから撃つってことにしてんだ。そうなったらもう、抗争までは秒読みさ」
「なるほどね。それで依頼ってのは、その抗争で私も君たちの側に立って戦ってほしいってわけかい? 傭兵の依頼なら普通より高くつくよ」
アスカの言葉に、少女は慌てて首を振った。当てが外れて、アスカは不思議そうな表情を浮かべる。
「じゃあ、どうして私の店に来たんだい? まさか、悩みを聞いて欲しかったなんて言うつもりじゃないだろうね」
「いやいや、そうじゃない。話はここからなんだ」かぶりを振ってアスカの言葉を否定し、少女は話を続ける。「実は、その抗争のために武器やら人手やらを調達するために、アジトの金庫に保管してあったお宝があるんだがな?」
お宝、という言葉にアスカは耳を疑った。会話の文脈で到底出てきそうにないワードに、彼女は困惑する。
「お宝? まさか、ひとつなぎの大秘宝でも見つけたのかい?」
「そんなバカな。宝石とか金塊とかの類さ。トリニティは銀行が多いからな、そういうのはあるところにはあるもんだ」
「なるほどね」アスカは頷く。「確かにお宝だ。ロマンはそそられないが、実利的だし分かりやすい」
「宝石はカネと違って場所を取らないからな。武器商人もキャッシュよりダイヤモンドで受け取りたがる。不良の知恵ってやつさ」少女は自慢げにそう語る。「それで、話を戻すが……。そのアジトに保管してたお宝を、誰かが盗みやがったんだよ。金庫からそっくり全部」
「それは
「誰かは知らねぇが、おおかたピカピカの連中だろうよ。夜中のうちに忍び込んできやがったのさ。舐められたもんだ、まったく」
はたして本当にそうだろうか? アスカはそんな疑問を頭に浮かべた。わざわざ敵組織のアジトに潜入して金庫を開けるなんて、インディアナ・ジョーンズでも嫌がるトレジャーハントだろう。それに、ピカピカヘルメット団が
話を聞くに、彼女はアスカが気づいた疑問点に思い至ってはいない様子だ。これまでの経験から、アスカはこの依頼に少しの暗雲がかかってくるのを感じた。数ヶ月前にもアスカは似たような内容の依頼を受けたが、その件の下手人は敵対組織などではなく、手元の金に目が眩んだ同じ組織の構成員だった。それがきっかけで内ゲバが始まり、結局は組織自体がなくなってリーダーも行方不明、アスカが受け取るはずだった報酬も立ち消えになってしまった。その一件を思い出して、アスカの態度は少し慎重なものになった。
「そんなわけで、アタシからの依頼は、その盗まれたお宝を取り返して欲しいってことだ。あれがないと、これから始まるピカピカとの抗争でやられちまう。そうなったら、先輩たちにも顔向けできねぇ」
「なるほどね、話は分かったよ。要するに、お宝泥棒を見つけて、盗んだお宝とそいつを、君の前に連れてくればいいわけだね?」その問いに少女は頷く。「だけどね、もしかしたらそれは少し難しいかもしれないよ。なんと言っても、お宝を盗まれたのが何日まえのことかは知らないが、もうとっくにブラックマーケットで売り捌かれいているかもしれないわけだからね……。もしそうなれば、売った人間は見つけられるだろうが、お宝を取り返すのは一苦労だ」
アスカの言葉を受けて、少女の顔には露骨に不安の色が浮かんだ。彼女の頭の中では、お宝を取り返せなかった場合のシミュレーションが行われているのだろう。アスカの記憶では、ピカピカヘルメット団はヘルメット団の中でもかなり古くから存在している派閥だ。トリニティ学園の歴代ティーパーティーは、彼女らの対処に手を焼かれ続けている。もし今回の抗争でモフモフがピカピカに吸収されたら、その脅威はより高まるだろう。
もしそうなったときのために、現地の市民たちに私の連絡先でも渡しておこうか。いつか、治安維持のための
アスカがそんな悪どい考えを巡らせているとはつゆ知らず、少女は腕を組み、難しい顔をして唸っている。やがて一つ大きく息を吐くと、組んでいた腕を解いた。
「よし、決めた!」少女は手を叩いてそう言った。唐突な大声にアスカの肩が跳ねる。「この件はあんたに依頼することにする。それで、もし宝石が戻らなかったとしても、その時はその時だ」
「ほう。だが、本当にそれで良いのかい? もし私がお宝を見つけられなかったら、君は私への依頼料という無駄な出費をしただけになってしまうよ。そうなったら、君の手元に残るのは、お宝が見つからなかったという事実と、そのお宝を盗んだ泥棒だけだ。君には残念な知らせだが、さしものブラックマーケットでも、人身売買でその泥棒を金に変えるって取引に頷いてくれる業者はそういないだろうね」
「んなことするわけねぇだろうが」少女は呆れたように言う。「アタシはただ、先輩たちが今までコツコツ集めてきた資金を、アタシがさっぱり探さないでいるなんてことが許せねぇだけだ。いくら金にならなくてもな。諦めるって言葉は、アタシの辞書には載ってねぇのさ」
彼女はそう啖呵を切って、アスカを見つめた。しばらくの間、二人の視線は複雑に交錯した。それは、ヘルメット団の団長としての威厳を示すためであり、信用に足る依頼人であるかを見極めるためであり、自分を預けるに足る人間であると互いに表するためでもあった。その儀式が終わると、アスカは目の前の少女に右手を差し出す。少女はそれを受けて、差し出された右手を強く握る。
「助かるぜ。正直なところ、アタシらみたいな不良の依頼なんて受けてくれねぇと思ってた」
「私は依頼料を払ってくれればどんな依頼でも受けるよ。善人でも悪人でも、金さえ払えば私の客さ」
「よく言うぜ」少女は机の上に置かれたヘルメットを被りなおしながら言った。「あんた、仕事は選ぶタイプだろ。アタシの知り合いの傭兵も同じような
少女の指摘に、アスカは肯否を返さず皮肉気な笑みで応えた。少女は、そんなアスカの態度が気に入らないのか、ぶっきらぼうに鼻を鳴らす。
「それで、肝心の依頼料はどんなもんだ?」彼女は被り直したヘルメットの位置を細かく調整しながら、思い出したように言う。「話した通り、うちも金があるってわけじゃない。あんまり高くつくと困っちまうんだがな」
「なに、そんなことはしないさ。君たちとは今後も良い関係を築いていきたいからね……」そう言うと、アスカは顔を天井に向けて少し思案する。「そうだ、今回の依頼は成功次第ってことでどうかな。私が宝石を取り返せたら、その中からいくらかを報酬として受け取るっていうのはどうだい」
アスカの提案に、少女は頷く。どうやら納得のいく取引だったようだ。少女は初めてアスカの前で笑顔を見せた。案外に良い笑顔じゃないか、とアスカは思う。彼女のような稼業をしている人間は、決まって笑顔をどこかに忘れてきたような仏頂面を浮かべているか、刃物のように研がれた笑顔しか持ち合わせていないものだが、どうやら彼女は稀有な例外らしい。アスカはすっかり冷めたカフェラテを啜りながら、これまでの仕事仲間たちの笑顔を思い浮かべた。どうやら、笑顔を道具とすることを覚えた者は、本当の笑顔を浮かべられなくなるらしい。
「そうと決まれば、まずは連絡先を交換しよう。何か調査に進展があったら連絡するよ」
アスカは立ち上がり、応接机からは少し離れたデスクに向かった。細かい傷の目立つ古いオフィスデスクだ。アスカは引き出しからスマートフォンを取り出し、ソファーチェアに戻った。それから、仕事用のEメールアドレスを少女に教える。少女はしばらく手こずりながら、アスカから教えられたアドレスを自分の連絡先に登録した。
それが終わると、少女は左手に巻かれた腕時計に目を落として、ソファーから立ち上がる。
「じゃあ、頼んだぜ。期待して待ってるからよ」
「ああ、良い知らせを届けられるよう努力しよう」そこまで言って、アスカは何かに気づいたように声を上げる。「そうだ、君の名前を聞いていなかったね。もしよかったら教えてくれないかな。せっかく仕事相手になるんだ、名前も知らないままってのは少し寂しくないかい?」
そう言われて、少女は驚いたような顔を浮かべる。今まで名乗っていなかったことにようやく気づいたのか、あるいは仕事相手から名前を尋ねられるのがそれほど意外だったのか、しばらく惚けた顔のままで立っていたが、少しして意識を取り戻した。
彼女は一度咳払いをすると、尊大そうに胸を張って名乗った。
「私はアイだ。
「ああ、覚えておこう。君の名前がキヴォトス中に轟く日を楽しみに待っているよ」
002
依頼を受けて早速、アスカはトリニティ校区へと飛んだ。空港から電車を乗り継いで、モフモフヘルメット団の縄張りとなっている一帯へ到着する頃には、太陽は半身を地平線の下へと隠していた。
アスカは夕焼けに照らされる街を歩いて、駅の近くのホームレスシェルターまで向かった。経験上、住処のない不良の動向を探るのに、シェルターの住民は非常に役に立つ。彼ら彼女らは、昼間は近隣の路地裏や公園に屯して、日が落ちると安全に寝られる場所を求めてシェルターへとやってくる。そのためホームレスシェルターは、昼間に不良たちがどこで何を話しているのかといった情報が集まる場所となっている。
彼らは不良たちの話に聞き耳を立てて、抗争が起こる場所の情報を手に入れようとする。そうしなくては、せっかくの自分の住処が破壊されてしまうからだ。容易に病院を頼ることもできない彼らは、街で行われる暴力を最も過敏に察知する存在の一つだ。
シェルターの外観は古めかしい煉瓦造で、風体からは軍工廠のような特別の威圧感が醸し出されている。どうやらこの町はシェルターのことをあまり歓迎してはいないようで、丁寧に景観が整えられた周辺の路と比べると、シェルターの近くはあまり手入れが行われている様子がない。街路樹は深い森林のもののように遠慮なく茂っており、石畳の隙間からは雑草が顔を覗かせている。人の気配のようなものが、この建物の周辺からは全く感じられない。近所の住民はこの建物の近くには近寄ろうとすら思わないのだろう。
重い正面扉を開けると、中には寒々しい装飾のエントランスロビーが広がっている。一定の間隔で並べられた長椅子に、薄汚れたコートやシワだらけのシャツを身に纏った人々がまばらに座っている。皆一様に陰鬱そうな表情を浮かべて、隣に座った人と小声で話している。ゲヘナのシェルターでは、どこからか持ち寄った密造酒で宴会のようなものが開かれているというのがお決まりだが、この地区のシェルターはそういった気質とは正反対に位置しているようだ。
アスカは、退屈そうな顔で携帯を見ている受付に千円札を数枚渡して、シェルターの中に通じている扉を開ける。この少々金のかかる儀式は、口の軽い人間に自分の顔を忘れてもらうための
「なあ、あんた。ちょっといいか?」
アスカは、常とは異なる口調で声をかけた。彼らが慣れ親しんでいる言葉遣いの方が警戒されづらい、という経験則に則った行動だ。男は文庫本から目線をアスカに移したが、二、三秒ほど見つめて、再び視線を手元に落とした。アスカは手に提げていた紙袋から、駅前のファストフード店で買ったままのチーズバーガーを取り出して、男の座っているベッドに置いた。男がそれを見る。
「時間は取らせない。聞きたいことがあるんだ」アスカは囁くように言う。
男はチーズバーガーを手に取って、匂いを嗅いでから頷いた。
「あんた、モフモフヘルメット団って連中は知ってるか?」
「ああ」男は短く答える。
「そいつらが何をやってるかを知りたいんだ。なんでも、近頃はよく動いてるって聞くが……」
「あんた、何者だ?」
男が目を細めて問いかけた。アスカはその疑問には答えず、男の持っているチーズバーガーを取って、包み紙を剥いて再び男に渡した。それで男はアスカの言いたいことを察したのか、鼻を鳴らした。
「簡単な話だ。モフモフヘルメット団について知ってることを話せばいいだけ。なにもあんたのねぐらを教えろだとか、身の上話を聞かせろってんじゃないんだ。それでバーガー一つは安いもんだろう?」
「安すぎるときは裏がある、この街の鉄則だ」男はそう言って笑い、チーズバーガーを一口齧った。「あんた、この辺のモンかい?」
アスカは男の質問に怪訝な顔をした。「いや」と短く答える。
「だろうな、そうだと思ったぜ」男は薄笑いを浮かべる。「ここらじゃ見ねぇ顔だしな。ここに住んでるやつなら、わざわざ俺なんかにヘルメット団の話を聞かなくてもいい。近所の話し好きな婆さんに水を向けりゃ良いんだからな。それに——」
男は勿体ぶったように言葉を止めた。「それに?」アスカは続きを促す。
「それにな——。ここに住んでるなら、駅前のバーガー屋ではフィッシュバーガーを頼む。チーズバーガーなんて頼むのは、よほどの変わり者か、よその奴らさ」
男は皮肉げな笑みをこぼしながら言った。どうやら彼の気に入っているジョークだったようだ。アスカは小さく鼻を鳴らし、目線で男に話の続きを促す。男は興が削がれたようなため息を一つこぼして、ベッドに座り直した。
「ヘルメット団のことだな?」男の問いかけにアスカは頷く。「ここらには二つのヘルメット団がいてな、モフモフとピカピカの二つだ。連中、近頃はよく街中でやりあってるぜ。なんでか知らんが、反りがあわないらしいな」
「組織の中で変わった動きがある、なんて話は聞いてないか? そういう話を表でする奴もいるだろう」
「さあな」男はぞんざいに首を振る。「連中の馬鹿に首を突っ込もうとは思えんね。そういう話を
「
「あんたは運がいいな」そう言って、男はアスカの右後ろの方を、顎でしゃくって示す。「あそこで話してる連中さ。なんでも、この街のことならなんでも知ってるらしいぜ」
「そう豪語する奴ってのは、どの町にもいるもんだ。だが本当にモノを知ってる奴ってのは驚くほど少ない。いるのは哀れなディオゲネス気取りだけさ」
男はアスカの言葉に口角を釣り上げた。「あいつがあんたのお眼鏡に叶うかはわからないが、耳聡い奴だってことは確かだ。人生の答えは知らないだろうが、ヘルメット団の動向ぐらいなら知ってると思うぜ」
「そいつは素晴らしい。どうすれば機嫌よく話してくれる?」
「話したがりだからな、聞いていれば勝手に喋るさ。ラジオみたいなもんだ、あんたはダイヤルを回して周波数を合わせるだけ」そう言って、男はいたずらっぽい笑みを浮かべた。「そう、チーズバーガーは渡さない方がいいぜ。あいつは乳製品が食えないからな」
「そうかい。助かるよ」
そう言い残して、アスカは男の元を離れた。彼女はそのまま、先ほど男に教えられた方向に進む。彼女の視線の先で、四人の男たちがベッドの上で車座になっている。例の噂好きは、同じく口の軽い友人らと、小さな酒宴を催しているようだ。
アスカはしばらくの間、彼らを遠巻きに観察した。酒を酌み交わしているのは四人だが、うち一人は、自分から話し出すことがほとんどない。その寡黙な男の右隣には、あまり酒に口をつけない、ダッフルコートをきた男がいる。彼は会話にはあまり参加しないが、時折に熱意を持って自分の意見を表明する。その男の右隣には、四人の中で最も酒の消費が早い、赤いパーカーを着た男が座っている。彼がこの集まりの中で最も話しており、主に彼の話に相槌を打つという形で宴会が進行しているようだ。その男の右隣には、先ほどからパーカー男の話に過剰な笑い声をあげている男がいる。彼らはこのシェルターの陰鬱さを気にもとめていないように見える。
「おい、あんたら」アスカは彼らに近寄って声をかける。「随分と飲んでるじゃないか。よくそれだけの酒が手に入ったな」
「ああ、こいつが持ってきたんだ。コネがあるんだってな?」
上機嫌そうなパーカー男が、車座の対面にいる寡黙男を指す。寡黙男はアスカを一瞥して、再び盃を傾ける。
「コネか、いいもん持ってるな。あんた、名前は?」
寡黙男はアスカの質問には答えず、警戒心のこもった視線を向ける。
「こいつ、あんまり自分のことは聞かれたくないみたいでよ、酒を囲んでもさっぱり話さないんだ」パーカー男が笑いながら言う。「そういう奴も多いんだよ。きっとなんかの事情があんのさ。ほら、事情ってのは、誰にでもあるもんだろ?」
「確かに」そう言って、アスカはパーカー男に目を向ける。「ところで、あんたはそういう事情に随分と通じてるらしい。それを見込んで聞きたいことがあるんだが、いいかい」
パーカー男は、人好きする笑みを引っ込ませて、値踏みするような目でアスカを見つめる。「あんた、警察か?」囁くような声で問いかける。
「いや、それはハズレだな」アスカは無表情に言った。「あんたが気にしてるような災いや厄介事の種をここに持ち込もうってわけじゃない。あんたが指名手配犯だろうとかまいはしない。ただ幾らか質問があるだけさ」
「随分と信頼されてるな、俺は」パーカー男がにやけながら言った。「誰に聞いたんだ? 俺がこの街で一番の事情通だって」
「さあ、どこだったか……。なにぶんあんたが有名すぎてね、どこに行ってもあんたの噂で持ちきりさ」
手にした紙袋からナゲットの紙箱を取り出しながら、アスカは言った。それをベッドの上に置くと、続けてソースが入った小さな袋を摘み、パーカー男の前へ放った。放物線を描きながら、バーベキューソースの袋が胡座を組んだ足元に落ちる。男はそれを拾い、宴席の中心まで移されたナゲットの箱にソースをかけた。
「食事を邪魔して悪いが、質疑応答の時間だ」四人がめいめいにナゲットを食べるなか、アスカが口を開いた。「この街のヘルメット団の動向が知りたい。特に、ピカピカとモフモフについてだ。何か聞いてることはないか?」
「なんてことだ、驚いたな」パーカー男が大袈裟に上を向いて、ナゲットをつまんだまま十字を切った。「あんた、幸運を神に感謝するべきだな。ついこの間、その話を小耳に挟んだんだ」
「どんな話だ?」
「ピカピカとモフモフがいがみ合ってるのは知ってるな? 昔から仲が悪いが、ここ最近は特にだ。それで、モフモフはその喧嘩で優位に立つために、近く一手打つつもりらしい」
「一手? 講和条約でも結ぼうって?」
「いや。噂程度だが、モフモフはゲヘナのフワフワヘルメット団との合併話が進んでるらしい。そうなれば、ゲヘナとトリニティに跨って、でかい派閥が一つ出来上がる。モフモフはそれを企んでるって話だ」
「ゲヘナとトリニティで合併とは……。大胆な話だな」
「ああ、例のエデン条約が近付いてるって時期にこれだ。おかげで
アスカは、数時間前に事務所で話していた少女を思い出す。トリニティのヘルメット団のトップになる——野心に満ちた彼女の言葉は、あながち大言壮語というわけでもなかったようだ。最初の想定より事態が大きくなっていることを察し、アスカは心の中で大きなため息を吐いた。
「それで、ピカピカはそのことを知ってるのか?」アスカは最後の一つになっていたナゲットを口に放り込む。「……もし知ってたら、ピカピカも黙って見てるわけにはいかないだろう。何かしらの動きはあるはずだ」
「全く知らないってわけもないだろうが、俺も詳しいところはわからん」男は肩をすくめる。「俺だって自治区同士の騒ぎに巻き込まれたいわけじゃない。最近は
「至言だな。引き際がどこなのか、その境界が見えているうちが引き際だ」アスカは空になったナゲットの箱を手に取ると、それを紙袋に入れた。「助かったよ。良い話が聞けた」
「そりゃどうも。俺が厄介事に巻き込まれることはないって約束だったよな?」
「ああ。少なくとも、情報提供者としてあんたの名前は出さないことを約束しよう」
アスカの言葉に男は頷いた。そこで話を切り上げて、アスカは男に背を向けた。そのまま去ろうとするアスカの背中を、男が呼び止める。アスカが振り返る。
「次に来るときには、ナゲットじゃなくてフィッシュバーガーを買ってきてくれよ。あの店はフィッシュバーガーが最高なんだ」
アスカは片手を挙げて男の言葉に応える。その簡素な交流だけが別れの挨拶だった。アスカは大きなベッドルームから出て、来た時と変わらない姿勢で退屈そうに携帯を弄ぶ受付の前を通り、重い正面扉を開けた。外の空気は来た時より幾分冷えていた。太陽はすっかりどこかに隠れてしまったらしく、塗りたくったような夜に変わっていた。壊れているのか、明かりを灯さない街路灯が、この区画の荒廃を象徴している。
アスカはシェルターを出ると、これからのプランを頭の中でいく通りも試作しながら、駅までの夜道を帰った。切り欠いたような形の細い月が、黒い空に孤独に浮かんでいる。アスカはそれを見上げた。
「さて……」独り言を呟く。「私はこれからどうすれば良いのだろうか?」
それは、彼女がルーティーンとして毎日自分に問いかけている疑問だった。その答えを、彼女は未だ見つけられずにいた。
**マスカヘルメット**
Escape from TarkovのKillaが被ってるヘルメット。Rainbow Six Siegeのタチャンカが被ってるヘルメット。PUBGのスペツナズヘルメットみたいなやつ。厳密に言うと、PUBGのスペツナズヘルメット(レベル3ヘルメット)の元ネタはK6-3であり、MASKAとは別のもの。河駒風ラブが被っているのはK6-3の方。我々は河駒風ラブのプレイアブルキャラ化を待っています。