003
昼間であるにもかかわらず、教会の中はいやに薄暗い。天井近くに拵えられた薔薇窓から、主が天と地の次に造ったとされる偉大な光が、柔らかく降り注ぐ。まるで天から地上に祝福がもたらされているかのような、神秘の光芒。光源の乏しい内部空間において、その光は野外の太陽の下で感じるものとは全く異なる意味付けがなされている。光という存在に聖性を与え、それが主からもたらされた計り知れない恩寵の徴であると説得しているのだ。緻密な空間設計の目指すところは、奇跡の体験。人々を信仰という微睡に誘うための、壮大な演出。
薔薇窓から差し込む光は、そのほとんどが、最奥の祭壇に向かっている。照らされているのは、夜の暗闇に立つ聖母子の画。全体が薄暗い室内空間において、照らされた聖母子はより実体的なものとして鑑賞者の眼前に顕現する。絵画と室内空間が闇の中で調和し、虚実の被膜すらも無視して、絵画という平面空間を超越した存在感を、見るものに抱かせる。恩寵の光に包まれて聖母子と相見える体験は、聖人の伝説に見られる幻視伝説のそれと変わらないものとして信仰者の胸に刻まれる。それはいかなる聖典の語句よりも鮮烈な現象として、この教会に訪れた者の崇拝を誘うだろう。この教会を作った建築家と画家は、人々に奇跡を見せたのだ。
なんという信仰心だろう。
アスカは祭壇の前に置かれた長椅子に腰掛けながら、過去のあるときにこの教会が建てられたときの様子を想像していた。礼拝する信者に聖母子の幻視を体験させるために、このような巨大な教会を建てたのだ。どれほどの信仰がそれを成し得るだろう? アスカはこの、自身の想像の及ばない疑問を、教会に一歩足を踏み入れた時から抱いていた。
一つため息を吐いて、アスカは左手に巻かれた腕時計に目をやる。アスカがこの教会で宗教的な思索に耽っている理由は、実のところ、彼女の待ち人が時間というものをいささか曖昧な形で捉えているからだ。アスカは今日の待ち人の悪癖とも呼ぶべき習性を、ある種の諦めも伴った形で容認している。それゆえ、彼女は空調の効いたトリニティ校区内の小さな教会の中で、自分の興味の範囲外にある信仰についての雑考を、暇つぶしの一環として練り上げていたのだ。
待ち合わせの予定時刻から十分を過ぎようかというところで、教会の扉が開かれた。薄暗い室内が瞬く間に明るくなる。大きな両開きの扉から到来した光は、教会の内部に満ちていた幻想を引き剥がし、まるで眠りから覚ますかのように、その全容を白日に晒した。アスカが魔法の解けた祭壇を見上げると、それはただの石壁につまらない聖母子が描かれているだけの、退屈の一言に尽きる有り様だった。アスカは振り返り、この無慈悲な聖像破壊を引き起こした人物に顔を向ける。
破壊者の正体は、赤と黒のセーラー服に身を包む少女だった。アスカの古い友人である
「いやあ、ごめんごめん。校則違反者が山盛りだったの。もう銃撃戦でてんやわんや」マツリはアスカに手を合わせて言う。「私、何分ぐらい遅れた?」
「たいして時間は経ってないよ。君のそれには慣れっこだしね」
アスカはそう言って、目の前にある合掌の形の手を取って、そのまま自分の鼻に近づけた。「な、なに?」少女は顔を赤くして驚く。アスカはもう片方の手で、今度はマツリの顔に手を伸ばした。頬に手を当て、親指で口の端をなぞる。
「ど、どうしたの、アスカさん……」マツリはか細い声で言う。「一応、神様の前だし、そういうのはやめた方がいいんじゃないかな〜って、私思うんだけど……」
アスカは顔に当てた手を離すと、親指を立ててマツリに見せた。薄い口紅と、いくつかの細かいかけらが指の腹についている。
「やっぱり」アスカはイタズラっぽく笑う。「指からパンの匂いがするし、口の端にもパン屑がついてる。君、この前に私が教えたパン屋に行っていたんだろう?」
赤く染まっていたマツリの顔が白くなる。ばつが悪そうに視線を横にやる。視界には偉大なる主の御姿が飾られているが、さしもの神であろうと詐欺師をアスカから救うことはしてくれないだろう。
「私を前にして、堂々と嘘をつくとはいい度胸だね。私の勘がいいことは君も知っているだろう? 特に、君はなかなか分かりやすい」アスカはマツリの頬をつまんで引っ張る。「嘘をつくならもっと上手くやることだ。撃ち方を知らない人間が的に弾を当てられないように、嘘のつき方を知らない人間が他人を騙すのは難しい」
「
「分かればよろしい」アスカは頬から手を離し、化粧の付いた指を懐から取り出したハンカチで拭うと、再び少女に向き直る。「それで、頼んでたものは忘れてないよね?」
「もちろん!」
マツリは背負っていたリュックサックを胸に抱き抱えて、中から薄いタブレット端末を取りだした。何度か画面をタッチしてロックを解除すると、表示された画像をアスカに見せる。トリニティ学区の大まかな地図だ。
「アスカが言った通り、フワフワヘルメット団は最近、ゲヘナ学区からトリニティ方面に勢力圏を伸ばしてるみたい」マツリはタッチペンで地図に線を書き込む。「ピカピカヘルメット団は北東方面に広がってたけど、モフモフの勢力拡大を受けて、牽制も込めて南東に手を広げようとしてる。もともと南東方面も三、四年前はピカピカが取り仕切ってたけど、例の大抗争でモフモフに乗っ取られてるんだよね。それもあってか、ピカピカはかなり
地図の上では、三つつのアメーバが複雑に干渉し、互いを捕食しようと足を伸ばしている。
「もしモフモフとフワフワが合併したら、ピカピカは東と南の二方面から叩かれる形になる。現状の組織規模から考えると、半年ぐらいでピカピカは地図から消えるかも」
「頭痛の種は一つ減るね」アスカが笑いながら言う。
「冗談じゃないって。こんな規模のヘルメット団がトリニティとゲヘナに跨って生まれたら、今の委員会じゃとうてい手が回らなくなる。犯罪者はこいつらだけじゃないってのに」
「そうでなくとも、今この二校の間に火種が生まれるのは、政治的にとてもよろしくない。なんといっても、例の平和条約の調印が間近に迫っているわけだからね」
「悪人どもが一足先にエデン条約ってわけか」マツリはため息を吐く。「うちもこの柔軟さを見習って欲しいくらい。いがみあってるより手を組んだほうがいいに決まってるのに……」
「どちらも歴史ある学校だからね。その分だけ、積もり積もったものがあるのさ。その地層が感情を産み、感情がさらに層となって積み重なる。全てを取っ払って手を握り合うというのは、難しいことだよ」
「分かってるけど……。それでも、トリニティの犯罪者がゲヘナに逃げ込んだら、私たちじゃ捕まえられなくなるって、おかしいと思わない?」
「その度に私に依頼を出すのはどうかと思うけど、君の言いたいことはわかる」
アスカはそこで言葉を止めて、マツリの頭に手を置いた。そのままゆっくりと、好事家が陶磁器でも撫でるかのように、マツリの髪に指を滑らせる。驚いて固まるマツリを顧みず、身体をマツリに寄せる。
「君はよくやっているよ。それは私から見てもわかる。きっと委員会のみんなも、君の頑張りを認めてくれているさ。今は歯痒い思いだってしているけど、君の誠実な心はいつかきっと世界を変えるよ」
アスカは顔をマツリの額に近づけて、囁くようにそう言った。まるで恋人同士の睦言のような距離に、マツリの顔がのぼせたような赤へと変わる。アスカは、こんなふうに擦って温めると色が変わるおもちゃがあったことを思い出した。アスカが頭を撫でるたびに、マツリの頭が釣られて揺れ動く。
なんて手玉に取りやすい性格だろう、とアスカは思う。このさまで本当に委員会の活動ができているのかと、いらぬ心配をしてしまう。最近でこそ取り逃した犯人を捕まえてくれという依頼も減ってきてはいるが、委員会の中で彼女の地位が上がっているとは思えない。トリニティの犯罪常習者に嫌われてまで彼女に近づいたというのに、これでは費用対効果に見合っていないのではないかと、アスカは自分の判断を疑い始めていた。
おだてられたのに加え、アスカとの前触れのない急接近を満喫したこともあってか、マツリの機嫌は上々だった。アスカは手を止め、口を開く。
「それで、ピカピカとモフモフの間にある確執とはどんなものなんだい?」
「そんなの簡単だよ。部外者からすれば笑っちゃうほどくだらない話」
「喧嘩の理由なんて大抵はそんなものさ」アスカが笑いながら言う。「そしていつかは、そんな理由すらも忘れられる」
いかにも、というふうにマツリは頷いた。
「簡単に言ってしまえば、
「ピカピカが被ってるヘルメットは、どれもよく磨かれていて、飾りつけが全くないんだよね。彼女ら曰く、ヘルメットを磨くという行為のみが、ヘルメットに対する全ての愛の表明であるべきで、余計な装飾はヘルメットの純粋性を汚す行為だと考えてるみたい」
「へえ、ある種の原理主義者なんだ」
「これが原理なのかもわからないけどね」マツリはため息混じりに言った。「供述調書からそのまま抜き出しただけだし、言ってる本人もどこまで理解しているのかは疑問だなあ。十中八九、指導者的なメンバーが言っていたことの受け売りだよ」
「そうやって受け売りだけの人間を増やしていってシンパを作るのさ。あの規模の組織だと、構成員全てに思想を共感させるのは不可能だからね。言われたことを復唱するだけのやつも組織には必要なんだ」
「世知辛い組織論だね」マツリは苦笑する。「モフモフは反対に、ヘルメットには飾りをたくさんつけたほうがいいって考えているわけ。この、お互いがヘルメットに対して抱いている考えの違いが、最初の火種だったみたい。まあ、今となっては、そんなことはもう関係ないんだろうけど」
アスカは、先日事務所にやってきた
「なるほど、それでか。少し納得がいったよ。どうにも不思議だったんだ。なぜ彼女らの被っているヘルメットには、不必要な毛が生え揃っているのか、とね……」
「種を風に乗せて飛ばすためだと思った?」マツリが皮肉げに笑う。「だけど、全く不思議だよ。どうしてこんなちっぽけな意見の違いで、争いが生まれてしまうんだろう」
「難しい問いだね。君の率直な疑問の完全な答えを、私はまだ持ち合わせていないんだ」アスカは眉を下げて、大切な友人へ非礼を詫びるかのように言った。「でも、ひとまずの答えを出すことはできる。私が思うに、世の中には腹の減った奴が多すぎるんだろう。みんなして飢えを満たそうと躍起になっている。だけど厄介なことに、なぜだか食った瞬間にはもう腹が減っているんだ」
「ずいぶん示唆的」興味深そうにマツリはつぶやく。「だけど、欲深さが争いを生み出すって意見には賛成かも。私の学校はそういう人だらけだから」
マツリの言葉に、アスカは目を細める。望外に耳寄りな情報が聞けそうだ、とアスカは直感した。
「なるほど。そういえば、君は前にも私に、友人関係の悩みを相談してくれていたよね」
「そう……。最近はエデン条約も近づいてるから、委員会の中に裏切り者がいるんじゃないかって、みんな口々に噂してるの。窮屈なんてもんじゃないよ、私は下っ端だからまだマシだけど」
「話に聞くトリニティ流だね。どうにも私とは相容れないやり方だ」アスカは眉を顰める。「権力愛好家たちの政治的モグラ叩きに付き合わされるのは、治安維持組織の宿命みたいなもの。それがどういう付き合いなのか、という点が問題だ」
「少なくとも健全なお付き合いじゃなさそう」マツリは肩をすくめる。「実際、誰の派閥が何を考えてる、みたいな話は私の耳にも入ってくるくらい。その話が、派閥の裏切り者によるリークなのか、あるいはなんの根拠のないデマなのかは、外からじゃ判断できないし。裏切り者探しをしたくなる気持ちも、分からないわけじゃないんだけどね」
「心中お察しするよ。学校から足抜けした私には想像することしかできない苦しみだけど、もし私がその立場なら、きっととっくに逃げ出ているだろう」
「アスカには政治は似合わないよ」マツリが微笑む。「今みたいに自分の道を進んでるほうが、アスカらしくて好きだな」
「嬉しいことを言ってくれるね」
アスカはそう言って、マツリの頭を一度撫でた。マツリの顔が再び綻ぶ。
「もし、もしさ」マツリは言葉に詰まりながら言う。「もし、エデン条約が成立したら、悪人はみんな捕まえられるようになるかな?」
アスカは少し考えるそぶりをしてから、マツリの目を見て言う。
「ああ、きっとそうなるさ。学区外に逃げた犯罪者だって、ゲヘナ学園の風紀委員と協力して、牢屋に送れる」アスカはマツリの手を握る。「ゲヘナの風紀委員長は恐ろしく強いからね。きっと捕まえてくれるだろう」
もしそうなったら、困るのは自分のような後ろ暗い種類の人間だ、とアスカは脳内で反駁する。誰だって、あの小さな悪魔に追いかけられるのは御免被るだろう。昔の苦い記憶を振り切るように、アスカは笑顔を作る。
「さあ、難しい話はこの辺りで切り上げて、昼食にしようか」アスカは椅子から立ち上がって言った。「どうやら君は一足先に済ませたようだけど、私はまだなんだ。この近くでおすすめの店はあるかい?」
004
全てが綺麗に終わったときには、もうすっかり夜になってしまっていた。健全な人々は眠りにつき、不健全な街がゆっくりと体を起こし始める、そんな時間だった。エレベーターを待ちながら、この扉の向こうに知り合いがいたらどう言い訳しようと、アスカは想像する。考えるに値しない可能性だと判断して、アスカは思考を止めて忘却する。予想通り無人のエレベーターが到着し、馬鹿なことを考えていると苦笑を浮かべる。木目に囲まれたエレベーターの中で、アスカは部屋で寝かせたままにしているマツリのことを思い浮かべ、彼女の帰りの下着の心配を脳裏に浮かび上がらせたが、それも些事と判断して忘却することに決めた。起きた頃には乾いているだろうと、甘い未来予測を立てる。受付でマツリの代わりに明日の朝までの支払いを済ませると、アスカはホテルを出て、薄暗い駐車場からネオンの明るい外へと歩いた。
ホテルの前の通りで歩道の防護柵に腰掛けていると、黒いセダンが、アスカの前に静かに停まった。しばらく前に、電話で呼びつけたタクシーだ。待たせることもなく、後部座席のドアがゆっくりと開けられる。良いタクシーかどうかは停まり方を見ればわかる、というのがアスカの持論だ。彼女の基準によれば、この車は合格だった。周囲を見回してから、アスカは身体をレザーシートの上に預けた。第三空港まで、と運転手に短く伝えて、窓を開け外の景色に目をやる。特段興味を惹かれる光景ではなかったが、運転手が食べていたであろうチョコレートの匂いが充満する車内から気を逸らすには、それが一番良い方法にアスカには思えた。重力加速度を感じさせないようなストリンジェンドで、彼女を乗せたタクシーは街を走り始めた。流れていく煌びやかな都市の光は、不定形なリズムで車内を明滅させる。
数百メートルほど進んだところで、タクシーは信号待ちの列に並んだ。前には白い軽自動車、後ろには夜に溶け出しそうな黒のピックアップトラックが並んだ。
「旅行ですか?」
退屈から逃げるためか、運転手が口を開いた。バックミラーを目の動きだけで見て、アスカの様子を伺う。
「ああ」
湧き上がる煩わしさを隠そうともせずに、アスカは答えた。視線は依然として、窓の外から動かない。
「ご友人と? それとも、お一人で?」
形だけのにこやかさを保ったまま、運転手は再び話しかける。どういった神経なら、こんな乗り合っただけの車内で好き好んで会話などしようというのか、アスカには理解ができなかった。返答を求めるように頻繁に視線をバックミラーに向ける運転手に辟易して、アスカは答える。
「友人とだ」
運転手は大きく二つ頷いた。まるでそちらが正解の選択肢であったかのように。
「今は、ご友人は一緒ではないのですか?」
「もう帰った」
「そうですか。この辺りは遊ぶところもありますからね。休日に遊びにいくには良いところでしょう」
「ああ」
「あそこには行かれましたか? アニエス通りを抜けた先の植物園には、ありとあらゆる品種のバラが展示されていますよ。トリニティの名所です」
「行ってないな」
「あそこには数百本の青いバラが祭壇のように飾られているモニュメントがありまして、初めて見たときはいたく感動したものです。青いバラは、元々自然には存在しないものだった、という話はご存知ですか?」
「ああ」
「実は、トリニティで流通している青いバラの品種は、あの植物園が開発したものだそうです。不可能な美しい花を咲かせる、なんとも詩美なものですね」
運転手が情熱を交えて語る言葉を数分ほど聞き流しながら、アスカは車の外に意識を割いていた。黒のピックアップトラックがタクシーの右背後につけていた。同じピックアップトラックが、しばらく前からアスカの乗ったタクシーと同じ道を走っていた。運転手はいまだに滔々と、いかにバラという花が美しいかという議題について論じていた。何度目かの赤信号で停まったときに、アスカはスマートフォンで、停まっているピックアップの写真を撮った。
「なあ、運転手さん」アスカは視線を窓外に固定したまま問いかけた。
「どうしました、お客さん」
「運転は得意か?」
「ええ、ハンドルを握るのが仕事ですからね」
「それは良い」アスカはショルダーホルスターから銃を抜き、スライドを引いて薬室に弾が込められていることを確認した。「カーチェイスの経験は?」
「はい?」
「コツはな……、アクセルを踏むときは豪快に、ブレーキを踏むときは慎重に、だ」
「お客さん、一体なんの話をしてるんです?」運転手は振り返って尋ねた。
「これから起きることについて」
アスカは、キャッシュトレィから拳銃を構えた手を出して、運転手の脇腹に銃口をつけた。運転手が体をこわばらせる。
「信号が青に変わったら、アクセルを全開にして車を出せ。事故は起こすなよ……。アクセルは豪快に、ブレーキは慎重に」
信号が青になる。運転手が背中をシートに押し付け、体重を乗せてアクセルを踏んだ。周囲の車が流れていくにつれて、後ろのピックアップが近づいてくる。アスカは足首から小さなリボルバーを抜いて、姿勢を下げた。空腹の獣の唸り声のようなエンジン音がアスカに近づく。二台の間を遮る車がなくなると、ピックアップの窓が開けられる。ヘルメットを被った女が、開かれた窓から身を乗り出して、握り込まれた短機関銃をタクシーに向けた。
「だと思った、畜生め」
アスカが小声で吐き捨てる。彼女は体を後ろに向けて、女を狙って撃った。突然の銃声に驚いたのか、運転手がハンドルを揺らす。アスカが撃ち込んだ数の何倍かの銃弾が、タクシーのリアガラスを破ってシートに穴を開ける。内装のそこここに弾がめり込んだ。悲鳴を上げながら、運転手は追跡者を振り切ろうと路地の方へハンドルを切る。アスカはピックアップの運転手を狙って薬室が空になるまで発砲した。返礼とばかりに銃弾の雨が吹き荒れる。
タクシーが細い路地へ曲がると、後を追ってピックアップも、壁に太い腹を擦りながら入ってくる。地面に置かれた植木鉢や立てかけられた自転車が、脇目も振らず暴走する二台の戦車に跳ね飛ばされていく。さながら竜巻が通ったような有様だ。
短機関銃の甲高い銃声が止むと、アスカは後部座席の塹壕から頭を上げて、マガジンに装填されていた七発を全て運転手に向けて撃った。運転手は鼻血を噴きながらヘッドレストに頭を叩きつけ、跳ね返ってハンドルにもたれかかった。クラクションの音が鳴り響く。助手席の射手は目を丸くしながら、気絶した運転手の襟を掴んでハンドルから離す。そのまま助手席から手足を伸ばして運転を代わった。
タクシーは路地を抜けて、通りへと出た。そのままハンドルを切って通りを走り始める。ピックアップもそれに気付いて、ブレーキを踏んでハンドルを切った。叫び声のような音と煙を吐きながらタイヤがスリップし、制御が効かないまま通りを走っていた車に横から突っ込む。ものすごい轟音とともに、ぶつかって同じような鉄の塊となった二台は通りを横切って、向かいのスイーツショップに突っ込んで、そこで止まった。
「オーケィ、これで逃げ切ったぞ」アドレナリンが出ているのか、獣のような笑顔でアスカが叫んだ。「ブレーキは慎重に、だ!」
真っ青な顔をしたタクシーの運転手は、穴だらけになった車体をふらつかせながら、通りの脇に停めた。震える手をハンドルから離して、不安定な呼吸を二、三度続ける。すっかり砕け散ったパーテーションを超えて身を前席に乗り出し、アスカは尋ねる。
「おい、ここは目的地じゃないぜ」憔悴した運転手に視線を送りながら、ニヤリと笑って言う。「それとも、代わりの車を出してくれるのかい、運転手さん?」
**青いバラは、元々自然には存在しないものだった**
秤アツコのバレンタインストーリーで、青いバラとチョコレートを渡すシーンがある。文脈からして自分で育てたバラのように思えるので、キヴォトスでは青いバラの品種がある、という設定にしてみた。先生が稀に生徒に渡す『きらめきの花束』も青バラだが、恋人でもない女性に贈るものとして相応しくないと思うのは私だけか。