ゲヘナ退学してよろず屋を始めた   作:あさなが

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005

 

「あなた、昔の女に撃たれた後始末を私にお願いしているわけ?」

「失礼な、私をいったいどんな人間だと思っているのか」アスカは笑う。「ただ、ちょっと仕事で誰かの怒りに触れただけさ。君も私も、そういう相手には事欠かないだろう? 刺激的な夜のダンス相手が、さ」

「相変わらず危ない橋を渡るのが趣味なのね。そのうち足を滑らせてステュクスを流されていきそう。その頃になって頭を冷やしても遅いわよ」

「忠告はありがたく受け取るよ」

 

 アスカはそう言って、デスクを挟んで対面に座る女に向けて微笑んだ。アスカが常日頃から会話のワイルドカードとして使っている、己の美貌を存分に活用した笑みだ。対話の相手は、彼女が日頃から懇意にしている情報屋だ。アスカはこの油断ならない事情通と、頻繁に仕事上の相談を交わしている。相手がどう考えているかはさておき、少なくともアスカは、この情報屋——無悪(さかなし)ワタノに信頼と言って良いほどの感情を抱いている。彼女の思考パターンから見て、これは非常に珍しいことだった。

 

 アスカの笑みに呆れたようなため息を返して、ワタノは手元の鞄を開ける。なめし革の光沢が品格を演出するような、寂れた事務所には馴染まない鞄だ。ワタノは鞄からホチキス留めされた紙の束を取り出し、机の上に置いた。アスカが恭しく受け取って、紙を捲る。しばしの間、二人の間には静寂が訪れた。

 退屈に耐えかねたのか、ワタノが口を開く。

 

「それで……、あなたは今、いったい何に首を突っ込んでいるのかしら? 秘密主義には賛成だけど、事情を説明されないで働かされるのは好みじゃないの。特にあなたの仕事の時は」

 

 手元の紙束から視線を上げて、アスカは答える。

 

「これがいささか複雑なんだよ。当の私も、全てを把握できているわけではない」そう言って、アスカは目を細める。「それに、事情というやつについては、君の方がよっぽど詳しいように思えるな。なにせ、たったの三日でここまで調べ上げたのだからね」

 

 アスカは手に持った紙束を指で叩く。二人はしばらく見つめ合う。先に折れたのはワタノだった。

 

「いいでしょう。あなたと睨めっこをしに来たわけではないの」ワタノは長い脚を組み替える。「深入りは避けるべきって、私はいつもあなたに言ってるわよね。どうやらその言葉は届いていないみたいだけど、今回に関してはそれでも言わせてもらうわ。あなた、トリニティを丸ごと敵に回すつもり?」

「そんなつもりは毛頭ないさ。もし私の行動が学校の不利益になったとしても、それは私が関与した結果に起きたことではない」

「あの学校が、その言い分で納得してくれると思ってる?」

「あるいは」紙束を机に置いて、アスカは手でそれを指す。「これが本当なら、私が関与していなくとも、遅かれ早かれ爆発していたさ。火種はずっと燻っていたんだ。少し風を送って、時期がいくぶん早まっただけだろう」

 

 机の上に開かれた紙面には、トリニティ校区でのヘルメット団の最近の活動状況についての情報がまとめられていた。

 

「それで、ワタノ。どう思う?」

「気になる点はいくつかあるわ。ヘルメット団同士の、銃撃戦を交えるような表だった争いが始まったのは三ヶ月ほど前から。だけどこの争いがどちらから始まったものなのか、周りを調べても確定的な情報は得られなかったの。お互い、向こうから仕掛けてきたの一点張り。子供の喧嘩にしてもお粗末よ」

「なぜ両者の言い分が食い違っているのかな? モフモフとピカピカには因縁があるが、昔からこの二者間の抗争は、始める時は表立って大きく始めるのが常だ。お互いの印象はともかく、小さく散発的なやり方は、今までの彼女らとは傾向が違うように思えるね」

「それに、あなたを襲撃した件も不自然。送られてきた写真をヘルメット団に見せて回ったけど、襲撃犯の名前すらわからなかったわ。本当にヘルメットは被っていたのよね?」

「ああ、そこを狙って撃ったのだから——」そこまで言って、アスカは言葉を止める。「いや、しかし……、そうだ、思い出した。襲撃犯のうち、助手席の撃ってきたやつはバイク用のフルフェイスヘルメットを被っていたのに、運転手はバリスティックヘルメットだった。だから顔面を狙って撃つべきだと思ったんだ」

 

 アスカを言葉を受けて、ワタノは顎に手を当てて考え込む。ちょうど、思索に耽っている有名なブロンズ像のように。

 

「それは不思議ね」ワタノが呟く。「あの辺りのヘルメット団は、襲撃の時に全く種類の違うヘルメットを被るなんてこと、しないわ。同じ種類のものを被って敵味方を区別しやすくするって慣習があったはずよ。特に街中で撃つなら、揃えなければヘルメット団同士の抗争を疑われる。この情勢でそんな不用意なことをするかしら?」

「確かにそうだ。少なくとも、トリニティ東部を根城にしている連中の仕業ではない」そう言って、アスカはワタノに視線をなげる。「しかし、そうだとして、いったいどこの誰が私を撃ってきたんだ? 誰が、この件から手を引かせたがっている?」

 

 アスカの疑問に、ワタノは笑みをもらす。

 

「あら。あなた、自分が清廉潔白な人間だと思っているの? それとも、自分の綺麗なお顔を傷つけるような不届き者はいるわけないって?」

「おや、君も私の見目が秀でていることにようやく気付いたんだね」

「昔からそうじゃない。私、あなたの顔面は素晴らしいと思ってるわよ? 本当、撃ち抜きたいくらい」

 

 そう言って、ワタノはアスカに向かって計算され尽くした微笑を返す。満面から攻撃的な香りの漂う笑みだった。君も十分に魔性だ、とアスカは思う。

 アスカは机に置かれた紙を取って、再び眺める。この話は終わりだ、という意思表示も兼ねたものだった。ワタノはその信号を問題なく受信して、微笑を撤回し、しばらく前から机の上で放置されていたカフェラテに口をつけた。どうしてここは毎度のように安物のインスタントコーヒーを自信満々に出してくるのだろう、とワタノは疑問に思ったが、それを尋ねることはしなかった。

 

「謎を解く鍵は……」アスカはワタノに見えるように紙を置いて、紙面の一点を指さした。「三ヶ月前、だ。ここで何かがあった。君の面目躍如の時だね。三ヶ月前に、トリニティで何が起こったのか、それを突き止めてくれ」

 

 アスカからの要望を受けて、ワタノはため息を吐いた。

 

「そんな簡単に言われて、はいできましたよ、なんて風にはできないわよ。あなたも知っているでしょう、世の中はそんなに甘くない」

 

 そう言いながら、ワタノは鞄からノートパソコンを取り出した。彼女の仕事道具であり、キヴォトスの秘中の秘が纏められたアカシックレコードであり、幾多の人生を破滅に導きうる爆弾でもある。彼女はその閻魔帳に視線を落とす。

 

「それで、どんなものだい? 私の勘は当たっているかな?」

 

 アスカはソファから身を乗り出して、さながらプレゼントボックスの中身を早く知りたがる子供のように、ワタノを急かした。

 

「そうやってがっついても、甘い果実は落ちてこないのよ。大切なのはね、辛抱強く待つこと。待って、待ち続けるから、一層甘いのよ——」

 

 ワタノの実感の籠った言葉は尻窄みに消えた。少し口角が上がる。どうしたのか、とアスカは目線で問いかける。ワタノはモニターを視界から外して、アスカと目を合わせた。

 

「だけど今回は例外みたい。甘い世の中になったものね」ワタノは膝に置かれたノートパソコンを持ち上げて、アスカに画面が見えるよう回して机に置いた。「探し物はこれじゃないかしら。私の勘は、これが当たりだって言ってるわよ」

 

 画面には、三ヶ月と少し前の日付が書かれた雑誌記事が映されていた。クロノススクールが刊行している、『黄金時代』という週刊誌の見開きページだ。派手なゴシック体で書かれた見出しには、『秘密警察か?! トリニティ正義実現委員会に新たな組織が誕生!』とある。どこにでもある、ゴシップが敷き詰められた低俗な週刊誌のような誌面に、アスカは眉を寄せた。

 

「これは?」アスカが訝しげに尋ねる。

「週刊誌の記事。組織改編をセンセーショナルに煽る書き捨て記事に見えるでしょうけど、内容はなかなか面白いわよ」ワタノは画面を拡大してアスカに見せる。「正義実現委員会のなかで秘密裏に発足した、組織犯罪に対抗するための新しい部署について書いている記事だけど……。なんでも、一般の委員会メンバーにも知らされていない組織で、ヘルメット団やブラックマーケットのマフィアの対策として、囮捜査や通信の傍受などの違法捜査も行っている、とか」

 

 アスカは眉根を寄せて記事を読んでいたが、やがて目を離してため息をついた。失望を波形にしたら、きっと今のアスカの口から出たような音だろう。彼女は露骨に気落ちして、画面を指差す。

 

「これが有力情報か? 眉唾物だな」

「ええ、これだけ見れば、確かにね」

 

 ワタノは身を乗り出して、キーボードを数回叩く。両者の体が近づいて、100% Loveのカカオとローズがアスカの鼻を掠めた。彼女がその香りに気を取られていると、ワタノが画面を指差した。アスカはそれを見る。

 

「気になったから、記事が出た後に少し調べたのよ。記事の内容が本当なのか。そうしたら面白いことが分かったの。この組織、どうやら実在するみたいよ」

 

 ワタノの指の指す先に目をやって、アスカは乾いた笑いをこぼした。画面には、『組織犯罪対策部門設立計画』と題された内部文書の写真が映し出されている。極秘の印が押され、百合園セイア、桐藤ナギサ、聖園ミカの三人と剣先(けんざき)ツルギの署名が見える。トリニティ総合学園の生徒会であるティーパーティーの三頭と、正義実現委員会の委員長という錚々たる顔ぶれに、アスカは思わず息をのむ。

 

「驚いた……。時々、君のことが無性に怖くなるよ。これ、いったいどうやって手に入れたんだい?」

「満月の夜の奇跡、と言ったところかしら」

 

 それだけ言って、ワタノは首を少し傾げて笑った。ワイルドカードだ、とアスカは直感する。彼女は襲撃される前にいた暖かいベッドの感覚を思い出す。ヴェールの掛けられた枕元から生まれる奇跡というのは、いつの時代も馬鹿にできない威力を持つものだ。脳の温度がゆっくりと上がるような感覚を、アスカは抱いた。抵抗によって電線が熱を持つように、アスカの思考が熱さを伴って脳裏を経巡(へめぐ)る。

 アスカは、すっかり冷めたカフェオレを啜り、ゆっくり時間をかけて嚥下した。五感の一つに意識を集中させるのは、冷静な思考を取り戻すために彼女が採用しているスイッチの一つだ。発散する思考をなんとか纏めながら、アスカはワタノを見つめる。

 

「確かに、ヘルメット団の表立った争いが始まった時期と、委員会の組織犯罪対策部門が動き始めた時期は一致するね。だけど、その二つがどう関わってくる?」

 

 ワタノはクスリと笑う。

 

「まだ頭が回ってないわね、そんなに衝撃的だったの?」憮然とした顔のアスカを面白そうに見つめながら、ワタノは言った。「ピカピカヘルメット団とモフモフヘルメット団との間に、この秘密組織が火種を作ったのよ。彼女らが、モフモフヘルメット団らしいヘルメットを被って、ピカピカヘルメット団の構成員を前触れなく襲う。モフモフヘルメット団に対しても同じように、ピカピカヘルメット団らしいヘルメットを被って襲う。そうしたら、お互い喧嘩を売られたと判断して報復のために争い合う。あとは、抗争で消耗した両組織を、委員会が潰して一件落着——そんなシナリオを書いていたのではないかしら」

 

 ワタノの言葉を受けて、アスカはああ、と嘆息する。

 

「なるほど、そうだ……。その仮説なら、全ての疑問に答えられる」

 

 先日のマツリとの会合を、アスカは思い出す。あのときマツリは、委員会の中に裏切り者がいるのではないかと探っている人々がいると話していた。委員会内部のモグラ叩きの原因は、おそらくこの記事だろう。機密情報が週刊誌に載ったことで、身中の虫を叩く必要性が出てきたのだ。

 そこまで考えて、アスカの脳は次第に回転数を増していく。マツリとの話を思い出してみれば、正義実現委員会がこのタイミングでイリーガルな部門を作った理由も、自ずと見えてくる。エデン条約が成立してエデン条約機構(Eden Treaty Organization)が発足した際に、トリニティ校区内に禍根を燻らせているヘルメット団が存在したままだと、将来的にゲヘナ学園の風紀委員をトリニティ校区内の治安維持に関わらせることになる。その干渉を嫌ったトリニティ内部の保守系反ゲヘナ派閥の働きかけによって生まれたのが、例の『組織犯罪対策部門』なのだ。

 だが、組織の発足が何者かによって外部にリークされたことで、ゲヘナ側に違法捜査を嗅ぎ取られないまま秘密裏に事を終わらせることが難しくなった。過去に違法捜査を行なっていたことがゲヘナ側に知られると、エデン条約機構が主導する治安維持行為において、正義実現委員会が捜査権の実際的な優越を握ることが難しくなる。エデン条約機構発足後の両校のパワーバランスを握る重要なピースが一枚欠けたことを重く見て、重点的なモグラ叩きを行い委員会内部をきれいに掃除しようとしている——というのが、マツリが言っていた裏切り者探しの内実だろう。

 

「襲撃犯は、秘密組織の存在を気取られたくなかったから、ピカピカとモフモフの件に首を突っ込んでいる私を排除しようと考えたのか。元ゲヘナ生の私に深入りされたくはなかったわけだ」

「結果として、それが裏目に出てたのは皮肉な結果ね。あなた、売られた喧嘩は買う(たち)でしょう?」ワタノがチェシャ猫のような笑みで言う。

「もちろん」アスカは頷く。「撃たれた程度で引き下がると思われたのは心外だね。生憎と、恨みを買うのは慣れているんだ。今まで幾つ仕入れたことか」

「随分と余裕そうね」ワタノは愉快そうに言う。「後で私に泣きついてくるなんてみっともない真似はしないでちょうだいよ?」

 

 ワタノの言葉を笑い飛ばして、アスカは不敵な笑みを見せる。

 

「ああ、君を失望させるようなことはしないさ。良い知らせを届けると約束しよう」

 

 アスカはそう言い放って、冷めたカフェオレを口に含んだ。もうすっかり味は悪くなっていたが、思考に集中していたアスカにとって、それは些細なことだった。

 

 

 

006

 

「残念だが、良い知らせを届けることはできないね」

 

 アスカがそう告げると、彼女の眼前に座る少女——繭雲アイは悲壮な顔で肩を落とした。経過報告のためという名目で喫茶店に呼び付けられたアイは、ついに盗人が見つかったかと意気揚々に待ち合わせ場所に到着し、集合時間の三十分前であるにも拘らずマンゴータルトと季節のフルーツティーを注文し、てっきり祝杯の気分だったのだ。そんな浮かれ気分が一言の下に払底されて、肩を落としただけで済んだのは彼女の精神が強靭であることの証左といえよう。『トリニティのヘルメット団のトップ』という壮大な夢を語る彼女にとって、この程度の挫折は大したものではないのかもしれない。

 

「じゃあなんでこんなカフェに呼び出したんだよ……。期待させるんじゃねーよこのやろー……」

 

 とはいえ、精神的なダメージは相応に受けているらしい。フルーツティーのブルーベリーが香る湯気を焦点の合わない眼で見つめながら、アイは机に項垂れる。憔悴した様子のアイに、アスカは笑いをこぼしながら言う。

 

「ここの紅茶は絶品でね、トリニティから友人が来たときは、決まってここでアフタヌーンティーを楽しむのだが」アスカはアイを見つめる。「どうやらお気に召さなかったようだね。おかしいな、ナギサは太鼓判を押してくれたんだが」

「アタシはアフタヌーンティーをしに、ここに来たんじゃないんだよ!」

 

 アイが声を落として言う。囁きながら叫ぶとは器用なことをするものだと、アスカは少し感心する。

 

「まあ、そう怒ることはない。代金は私が持とう。なにか他に食べたいスイーツはあるかい? ここのマカロンは結構いけると評判だよ」

「腹が減ったから怒ってるんじゃないんだ」アイは、店内に流れているピアノ曲をかき消さない絶妙な音量で言った。「マカロンは頼む。なんたってお前の奢りだからな」

「好きに頼むといい」

 

 宝石を取り返せれば採算が取れるからね、というアスカの内心は、アイには伝わらなかった。彼女が店員にマカロンを注文している間、アスカはお気に入りのマーガレッツホープのダージリンを傾けながら、脳内の帳簿にメモをつける。つまるところ、ただ支払いが後にずれただけで、アイがマンゴータルトと季節のフルーツティーとマカロンを無料で食べられるわけではない。

 アイが届いたマカロンに舌鼓を打つ間、アスカは数枚の紙が留められた紙束を机の上に出した。ここ数日での調査結果のうち、アイに教えても問題ない部分をアスカが編集した報告書だ。アイはそれを手に取ると、マカロンを咥えながら斜め読みした。

 

「結局、宝石の行方については未だ見当もつかないってことか?」アイが紙束を指差して言った。

「まあ、簡単に要約すると、そういうことになる」アスカはソーサーの上にカップを置いて、アイに応える。「だが、君達の組織にとって有益な情報を集めることができたよ。特に、正義実現委員会内部の恐ろしい暗躍なんかは、素晴らしい特ダネだと胸を張って言えるものだよ」

「なるほどな」マカロンを飲み込んでアイが言う。「実のところ、アタシらモフモフの中でも、宝石を盗んだのがフワフワなんじゃないかって言い始めてるのがいる。だが、あんたの情報が正しければ、正義実現委員会が手を引いてるわけだな?」

「かも、しれないね」

 

 そう言って、アスカは紅茶をゆっくりと飲む。実際のところ、アスカの内心としては、アイの言葉に全面的に賛成できるとは言えなかった。

 アスカは、先ほどのアイの言葉を反芻しながら、例の秘密組織の動向を考える。宝石泥棒がフワフワの人間という噂が流れているという現状は、正義実現委員会にとって好都合すぎる。偶然と片付けるべきではないと、アスカの脳が警戒信号を出していた。モフモフになりすましてピカピカとの抗争を誘発するという外からの攻撃に加え、フワフワに対する不信感を育てて合併を水に流そうとする中からの攻撃という二つの攻撃が行われていると考えた方が、現状に即しているだろう。

 返答を濁したアスカの微妙な顔をちらと見遣って、アイは腕を組んで考え込む。いくら絞っても上手い知恵は湧いてこないようで、あからさまに渋い顔をしている。

 

「随分悩んでいるようだね。困難の迷宮に迷い込んだときには、強い勇気が必要だ。だがね、最奥にいる怪物を倒しても、そこが終わりじゃない。問題は帰り道なんだ」

「いまさら真っ当な人生のための説教かよ?」アイはアスカの言葉を鼻で笑う。「昔話に興味はない。それとも、困った時は女に頼れっていう、あんたなりの人生訓か」

「そういうわけではないけれどね」アスカは柔らかい笑みを見せる。「宝石の行方を探すのも大事だが、君がリーダーとして組織をまとめるのも、忘れがちだが今やらなければならない大事な仕事だ。目の前の問題を追いかけて迷宮の奥まで歩いてきているが、ここいらで後ろを振り返ってみても良いのではないかな」

 

 アイは鼻を鳴らして、視線をアスカから窓の外へと移す。店から眺められる範囲には、様々な建物が背を競うように並んでいる。それぞれの建物は、ある種の風格に由来する統一感を持ちながらも、文化と時間の重層を体現するような多様さも持ち合わせている。いずれの建物にも、優美と躍動の二側面的なリズムで開けられた窓が設えられており、その周りには奇妙なほど変化に富んでいる細工が彫られている。それらの、トリニティ文化を表象するような建物の下には、丁寧に切り揃えられた敷石が並べられた石畳の通りが伸びており、洒脱な石造りの建築とマテリアルとして調和している。よく晴れた気持ちのいい午後に見る景色としては満点と言ってもいいだろう。

 

「あまり悩んでいても、良い考えは出てこないよ」アスカは静かに言った。「この店はカモミールティーも美味しい。考えを休めて、純粋に一杯のお茶を楽しんでみてはどうだろう。もしかしたら、思わぬ奇跡が飛び出すかもしれない」

 

 アイはアスカを一瞥して、大儀そうに口を開く。

 

「あんたはアタシのお母さんかよ」アイは口を尖らせる。「あんたが何を言いたいかは分かってる。()()()()()()()()()って、そういうことだろう?」

 

 悪戯を咎められた子供のような、不承々々といった調子の言葉だった。予想外の発言に、カップを口に運んでいたアスカの手が止まる。アイは机に頬杖をついて、黄色いマカロンをつまんで齧った。物憂げに目を細めながら、フルーツティーを口に流し込む。

 

「あいつらを疑いたくはないが、これまでの話を聞けば、そう考えざるを得ない。あんたは、モフモフのなかに正義実現委員会(クロ)のスパイが紛れ込んでるって思ってるんだろ」

 

 アイはアスカを見据えて言った。アスカは、目の前の脱力してスイーツを食べる少女に対する評価を修正する。若くしてヘルメット団一分派の団長を任されるだけはあると、彼女の紫紺の瞳を見ながら、アスカは評した。

 

「正解って顔だ」アイは皮肉げに笑ってアスカを見つめる。「この特殊部隊は、本気でモフモフヘルメット団を崩そうとしてるってわけだ。そのために、事務所の宝石を盗んで、フワフワのせいだって噂を流してる。そうして溝を作って、合併の話を流そうとしてるんだろ」

「おそらく、そうだろうね」机に置かれた調査報告書をめくって、アスカが言う。「この組織は表に出ることを嫌がる。スパイを送ったのか団員を抱き込んだのかは分からないが、彼ら好みのやり方だ」

「ふん、気に入らねぇな」

 

 アイはそう言うと、アスカの持ってきた紙束を自分の鞄にぞんざいに突っ込んだ。それから皿に並べられたマカロンを一つつまんで口に入れると、フルーツティーで流し込み、席を立った。

 

「もう帰るのか」アスカが彼女を見上げて言う。

「ああ、泥棒探しの目処も立ったしな。アタシはこれから忙しくなる」アイは鞄を肩にかけた。「そのブラック・ウィドウ達の情報はアタシにも共有してくれ。どうやらアタシ達が標的になってるようだからな」

「それは、追加の依頼、ということかな?」

「別料金ですよって?」アイはうんざりした顔を隠さずに言う。「アンタが良い仕事をするってのは認めるが、そう金がかかっちゃ依頼もできないぜ」

「オーケー、分かったよ。その分はサービスにしよう」

 

 アスカは手を振ってにこやかに言った。極めて経済的合理性のある笑みだった。アイはその顔を冷めた目で見る。

 

「じゃあ、またな」

 

 アイはそう言って、スリングで椅子にかけられていた銃を肩に担いだ。パーツが少ないため壊れにくく整備性も良いと、最近人気のアサルトライフルだ。アイはそのまま出口まで歩くと、扉の横に置かれていたスコーンの入った袋を目に留めて、それを手に取りレジまで持っていく。アスカはそれを見るともなく見ながら、アイが食べ切らなかったマカロンを齧る。全てを腹の中に入れてから帰っても良かったのでは、とアスカは思った。

 ガナッシュショコラのフレーバーを口内で広げながら、アスカは今後の展開を考える。ヘルメット団は、アスカの経営する事務所の得意客だ。モフモフヘルメット団からの依頼こそ初めてだったが、ゲヘナ学区内の顔馴染みのヘルメット団員から、傭兵や他組織の偵察を依頼されることは少なくない。今回の件を機に、トリニティ学区にも顧客が増える可能性も大いにある。それを視野に入れるならば、このままモフモフヘルメット団が正義実現委員会に解体されるのは、アスカにとって損失だ。良心を備えた市民として、モフモフヘルメット団という武装組織に法の裁きが下るのは喜ぶべきことなのかもしれないが、その秩序の外側に立つアスカにとっては、あまり歓迎できることではない。

 

 しばらく思考を巡らせて、アスカは一つの方策を立てた。それはこれまでも、厄介な同業者や面倒極まる治安維持組織を自分の視界から外すために、アスカが幾度か用いてきたやり方だ。それは良心を備えた市民として在るべき姿とは言えないものだったが、アスカにとってそれは大した問題ではなかった。実のところ、彼女は生まれてこの方、良心の呵責と呼べるものに苛まれた経験が一切ない。その面で言えば、彼女はこのキヴォトスという街の経営者として素晴らしい素質を備えていた。

 

 かつてキヴォトスで栄華を極め、鉄鋼業の王国を築いた安土竜(あんどりゅう)カネギはこう言ったという。「運命が銃弾をくれるなら、それで戦場を作ってみよう」と。現在でも、D.U.で事業を始め億万長者を夢見るベンチャー起業家らが先達として仰ぐ彼女の在り方は、この街の経営者の目指すべき姿となっている。今では誰もが彼女の真似をする——つまり、経営者に人倫など無用であるという、至極単純なモデルの模倣である。

 

 結局のところ、この街はそういう場所なのだ。




**週刊誌『黄金時代』**
ギリシア神話の農耕神クロノスが神々を支配していた時代のことを『黄金時代』という。クロノスの椅子に息子であるゼウスが座り『銀の時代』『青銅時代』『英雄時代』『鉄の時代』と続く。名前は金属で揃えろよと、命名の際に誰も指摘しなかったのだろうか?

** 100% Loveのカカオとローズがアスカの鼻を掠めた。**
『100% Love』とは、エス・パフュームから発売されている香水。私の知人がソフィア・グロスマンの熱心なファンで、何度か100% Loveの香りを嗅いだことはあるが、そのたびに新鮮な驚きを感じられる。香水単体では決して成立せず、それを身に纏っている人物まで勘案しなければ、この香水を評価することはできないように思える。それほどまでに独創的な香水。私が匂いで笑ったのはこれが初めて。

**困難の迷宮に迷い込んだときには、強い勇気が必要だ。だがね、最奥にいる怪物を倒しても、そこが終わりじゃない。問題は帰り道なんだ。**
ギリシア神話の、テセウスによるミノタウロス退治のエピソードを元にした言葉。テセウスの英雄的行動が主眼に置かれがちな神話だが、重なり続けるミノス王の失策や、毎年七人の若い男と七人の若い女を生贄として求めるというミノタウロスの謎の美食家設定、アリアドネの求婚を受け入れて子を成したのにすぐに別れて、後にアリアドネの妹と結婚するテセウスのハズレ男具合など、見どころの多い神話。

**ブラック・ウィドウ**
マーベル・コミックに登場する女スパイ。元はロシアのスパイだったが、アメリカに亡命しS.H.I.E.L.D.に加わり、今はアベンジャーズとして悪と戦っている。このS.H.I.E.L.D.という組織は、マーベル・コミックに登場する、ヒーローを管理する諜報機関のようなもの。字面が『連邦捜査部S.C.H.A.L.E』と似すぎているため「どっちがどっちだよ」となりがち。

**安土竜カネギ**
おそらく、アメリカの鉄鋼王アンドリュー・カーネギーの神秘を持った生徒。キヴォトスのベンチャー起業家大ウケの名言「運命が銃弾をくれるのなら、それで戦場を作ってみよう」の元ネタは、カーネギーが著書『道は開ける』(原題: How to Stop Worrying and Start Living)のなかで引用して有名になった言葉「運命がレモンをくれるのなら、それでレモネードを作ってみよう」(原文: If You Have a Lemon, Make a Lemonade.)である。カーネギーの名言として有名だが、実は初出はもっと古い。孫引きが有名になって原典が顧みられないのはあるあるだが、特にビジネス書界隈はその傾向が一際強いように思える。私の偏見か?
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