007
朱鷺鴇アスカの朝は、一杯のブラックコーヒーから始まる。どこかへ旅に出かけた夜の忘れ物をマグカップで掬い取るように、目を覚ましたばかりの太陽から隠れてコーヒーを淹れるのが、彼女が一日の初めに行う儀式だ。彼女が中学生だった時から使い続けている白磁のケトルから、手元のネルフィルターへ慎重に湯を垂らす。数滴づつ、まるで乾いた大地へ種を植えるように、挽かれたコーヒー豆を蒸らしていく。ある種の瞑想のような状態だ。蒸らしが終わると、顔をサーバーに近づけて、肺のなかを豊かな豆の香りで満たす。口の端に笑みを浮かべて、アスカは深く息を吐く。夢の世界から持ち帰ってきた眠気のかけらを全て排気したような爽快感が、アスカは気に入っていた。
ケトルを持ち直し、ゆっくりと回すようにお湯を注ぎ入れると、下に据えられたポットに黒々とした液体が溜まっていく。緩慢に、しかし確実に、ポットの中にコーヒーが溜まっていく。幾度かに分けて、マグカップ二杯分の量を淹れるのがアスカの常だ。
ポットにコーヒーが溜まりきったことを確認して、サーバーを外してカップに注ぐ。彼女が中学生の頃から使っている、小さなヒビが入ったカップだ。急激に熱を加えられたことで伸び縮みしているのか、年を経るごとにヒビが大きくなっているように見える。代わりのカップを買わなくてはいけない、とアスカは毎朝リマインドしているが、それを実行に移すのはまだ先になるだろう。
コーヒーを注ぐと、カップから手に熱が伝わってくる。手を離したくなるのを堪えながら三分の二程まで注ぐと、冷まさないよう間髪入れずに口を付ける。朝一番のコーヒーは熱くあるべし、というのが彼女の掲げる金科玉条だ。この習慣によって、彼女は一日の始めを舌が火傷した状態で過ごす。
喉を煮沸消毒するような温度のコーヒーを舐めるように啜ると、ようやく頭が働き始めるのを感じる。いささか面倒な起動シーケンスを終えると、アスカの一日は、実際的な意味でようやく始まる。
脳を解凍してまともに働くようにしたところで、アスカは事務所の扉を開けて、外の床に置かれた新聞を取る。配達員が道中で襲われておらず、このビルのオーナーである一階のカフェの店長が正常に起床できた場合のみ、問題なく新聞がアスカの手に渡る。今日はいくつかの幸運が積み重なった幸運な日だった。残念ながら未だ安定供給の段階には至っていないが、そもそもアスカが新聞を読むことが稀なため、大した問題ではない。とはいえ、今日は彼女が新聞を読もうと考えている稀な日で、彼女はこの偶然に感謝した。細かい砂埃のついたビニール袋を破いて、中に入っている窮屈に折り畳まれた朝刊を取り出す。ソファに座って紙面を広げると、どこそこで銃撃戦があったとか、どこかの社長が捕まったとか、そんなようなことが並べたてられている。読む価値のある内容が書かれていることは少なく、書かれている内容を全てミキサーに入れてジュースを作れば、毎日同じ味がするであろうことは間違いない。
アスカは退屈そうな顔をしながら、荒い手付きで紙を捲る。しばらくそうしていると、目当ての記事が目に留まった。『トリニティ正義実現委員会にはびこる腐敗を暴く!』という見出しのスクープ記事だ。内容は、正義実現委員会内部の秘密組織が、ゲヘナ・トリニティ両校の生徒達を不法に監視し、自由な課外活動の権利を侵害している、というものだ。「帰宅途中に銃撃された」という哀れな被害者の涙ながらのインタビューも添えられた、まさに警察権力の腐敗を象徴するようなスクープ。条約を控えた現在のゲヘナ・トリニティ両校を大いに刺激することは火を見るより明らかだった。アスカはそれを見て満足げに笑う。自分の悪戯にはまる人を見る子供のような、悪性の笑みだった。
この記事が出る三日前、アスカはクロノススクールに通う知り合いの記者と会い、幾らかのまとまった金を渡した。過日の調査で手にした成果に関する記事を書かせ、それを三日後の新聞に載せる、という契約だった。この企みは十全に履行され、今朝の朝刊の見出しには声高らかに正義実現委員会を非難する記事が載った。よりにもよって、
もしこれが偶然の産物だったなら、トリニティ学園の上層部は神に恨み言の二、三を漏らして運命を憎むことだろう。エデン条約の調印が迫る、政治的な波風を立てたくないこの状況でそんな記事が出たとなれば、正義実現委員会の対外的イメージに大きな傷がつく。情報が漏れるのは今回で二度目だ。委員会内部にとっては、もはや例の秘密組織がモグラであり癌となっている。あとは彼女らが内側で勝手に叩いてくれるだろう。これほど大きな騒ぎにすれば、肝いりの計画とて解体せざるを得ない。そして、アスカの財布は無事に司法の魔の手から守られる。
アスカはヒビを避けながらカップに口をつけ、抜けるような苦味に身を委ねる。彼女は今、何も予定がなく、喫緊の問題も解決し、全てが順調に運んでいる平日の朝を、慣れ親しんだソファの上で満喫していた。日は既に昇り、そろそろ昼が顔を出してきそうな頃合いだ。安楽の中で日向ぼっこを楽しんでいると、ジムデスクの上に置かれた携帯電話が鳴った。取りに行くべきかたっぷり迷って、アスカは重い腰を上げた。発信者は非通知だ。訝しがりながら電話に出る。
「あの記事は貴方かしら?」
ワタノの声だ。彼女は単刀直入に尋ねた。装飾的な挨拶を使うのは趣味ではないようだ。
「読んだんだ。どうだった?」
「前の電話はこの件だったのね。ようやく腑に落ちたわ」何か楽しいことでもあったのか、上機嫌そうな声で言う。「貴女、今回だけでそれだけ敵を作ったか分かってる? いまトリニティでは、あの記事を垂れ込んだ人間を捕まえて磔にしようって勢いよ」
「それは怖い」アスカは大袈裟に声を震わせながら言う。「もし私が火刑に処されそうになったら、君が助け出してくれるんだろう?」
「お断りよ。その火でマシュマロを焼いてあげるわ」
「なんてことを。私たちの友情は所詮その程度だったのか」アスカは苦笑する。「炎如きで焼け落ちてしまうものではないはずさ。もっと熱いことを何回もした」
「貴女を炭にするいくつかのメリットのうちで一番大きいのは、その熱を覚えている人間がこの世から一人いなくなる事ね」そう言って、ワタノは笑った。「ええ、冗談よ。貴女にはまだやってもらわなくちゃいけないことがいくつもあるんだから……」
「助かるよ、本当に」
「それで、何か手を貸した方がいいかしら?」
「いや、必要ない。また君の手を煩わせるわけにはいかない」
「あら、いつ遠慮なんて覚えたのかしら」ワタノは皮肉げに言う。「何かあったら電話しなさい。なるべく予定は空けておくわ」
「そうするよ」そう言ったところで、アスカは思いついたように言葉を継ぐ。「ああ、そうだ。一つ儲け話があるんだけど、どうだい? 探して欲しい人がいるんだ」
「ずいぶん唐突なオファーね。どういうつもり?」ワタノは訝しげに尋ねる。「貴女から持ち込まれる儲け話は、大抵が面倒ごとなのだけど」
「今回のは違う、日頃の礼みたいなものさ」
電話の向こうでワタノが慎重に息を吸った音が聞こえた。数秒の沈黙。
「考えておくわ。いつまでに返事が欲しい?」
「なるべく早めがいいかな。宝石の山が逃げちゃうから」
「宝石?」ワタノは反射的に聞いた。「どういうこと、相手はアルセーヌ・ルパン?」
「そんなたいそうな相手じゃないよ、ただのけちな泥棒さ」アスカは笑う。「君にとっては簡単な仕事だよ。報酬は美しい宝石をいくらか。どう、受ける気になった?」
アスカは熟練したセールスのような声色で提案する。いくらかの静寂の後に、ワタノは言った。
「ええ、素晴らしい仕事だわ。詳しい話を聞こうかしら」
呆れと愛情がちょうど半分の割合で混じった感情のまま、ワタノはアスカの提案を受けた。いつもの彼女より、いくらか機嫌の良さそうな声だった。
008
それからしばらくの間、アスカとワタノは古くからの友人としての会話を楽しんだ。悪友との長い電話を終えると、アスカは一つ深い息を吐いた。厄介な仕事が順番に片付いていくのを頭の中の予定表で確認する。一つの依頼が円滑に終わろうとしている。よろず屋として働いてきた数年の経験から、アスカは小さな収束の気配を感じ、心地よい満足感を抱いていた。仕事に金銭以外の何らかの価値を見出すとしたら、きっとこの不思議な感覚あたりが相場だろう。アスカにとっては悪くない報酬だ。美味しいコーヒーのある朝のように、静かな安息をもたらしてくれる観念的な満足だ。
古びたソファーに身を投げ出しながら、アスカは考える。全く予定の入っていない平日の使い道をいくつかリストアップして、今日の自分にもっとも最適なものを吟味する。しばらく悩んでから、アスカは机の上に置きっぱなしだったタブレット端末を手に取った。サブスクリプション方式の動画配信サービスで古臭い映画でも見ようと、画面に指を滑らせる。目に留まったのは、スパイが宇宙開発競争を巡る争いに身を投じ、その過程で出会った美女とキスをする映画。幾度も踏襲されてきたストーリーを大真面目に繰り返す陳腐な映画だが、アスカはそのありふれた展開を悪くないと思っている。この映画に限らず、単純な緊張を繰り返し、食べ飽きたようなカタルシスで締めるという紋切り型のストーリーに対して、アスカはある種の愛着を抱いていた。おそらくは、彼女が子供の頃に愛読していた、使い古されたトリックをどうだと書き綴る児童向けミステリー小説に由来する趣味だ。
アスカはサムネイルをタップして、今日という日を古い映画のために使おうとソファに横になる。数年前の記憶と全く違わないオープニングが始まり、その懐かしさに思わず笑みが溢れる。ここにポップコーンがあれば完璧だったろうな、と彼女は想像した。そのまま望洋とした眼差しで、アスカは画質の悪い映像を見続けた。
しばらくして、物語も佳境に入り、劇的でありきたりなラストシーンが近づいてきた頃、事務所のチャイムが遠くで鳴った。アスカは原子炉から逃げ出そうとする主人公の勇姿から目を離して、出入り口のほうを見る。最悪なタイミングの訪問者に舌打ちをしながら、緩慢に身体を起こした。この時間に訪ねてきそうな友人の顔を幾人か浮かべる。メッセージの一つも寄越さないでチャイムを鳴らすような友人の心当たりは多かったが、そのいずれもが、天気の良い暇な午後とは調和しない人間だ。アスカはパソコンの置かれたデスクまで行き、スリープモードを解除して玄関のリアルタイム映像をモニターに出す。写っているのは何かのIDカードのようなものを身につけた大人だ。記憶のどこかに引っ掛かるような感覚。最近、この大人の顔をどこかで見たと、アスカは直感する。それがどこかは思い出せないまま玄関まで歩き、靴箱の中の自動式拳銃を取り出してチャンバーをチェックして、扉の前に立った。ドアスコープの向こうの何某はにこやかな顔を浮かべている。何者だ? アスカは警戒度を引き上げる。
「誰だ?」アスカは険のこもった声で問う。
「お、出てくれたね」扉を一枚隔てた先で、何某は呑気にそう独りごちた。「えっと、『連邦捜査部S.C.H.A.L.E』というところから来たんだ。知ってるかな。
S.C.H.A.L.Eという名前に、アスカの脳のどこかが反応する。少し前にD.U.で起こった暴動の際、中心地となっていた建物の名前が、確かそんなようなものだった。あの
思考の途中で、先生が声をかける。
「ここは、君の事務所で合ってるんだよね? 何でも屋をやってるって聞いたけど」先生はアスカの出方を伺うように、慎重な口調で言う。「よかったら、ちょっとお話をしない? 君のことを聞きたいんだ」
宗教勧誘か、あるいは得体の知れないビジネスコンサルタント、あるいは何らかの公権力に属する人物、アスカはそう判断して、手に握られている拳銃のセーフティーを外す。今にも撃とうというアスカの気分を扉越しに感じ取ったのか、先生は困惑を顔に出しながら庇うように手を前に出す。どうやら勘は良いらしい。
「ちょっと待ってほしい! 私の話を聞いてくれないか。君にとってもメリットがあることだと思う」先生は矢継ぎ早に言葉を並べ立てる。「私に敵対の意思はない。武器も持ってないし、そもそも私は一発でも撃たれたら死んでしまうかもしれない身体なんだ」
「それってすごく運が悪い」アスカは、扉の向こうにかろうじて聞こえるほどの声で話す。「私とこうして直接話をするならまず、撃たれても怪我しない丈夫な身体であるべきだった。そして、信頼の置ける武器を持ってくるべきだった。私は自分の命を軽んじている奴が嫌いだし、自分を預けられる武器を手元から離す奴はもっと嫌いだ」
「待って、お願い!」先生は飛び退いて、室内から射線が通っていないドアの横の壁際に身を隠す。「今日のところはひとまず引き上げるから、銃は下ろして欲しい。敵対の意思がないのは本当だし、君だってわざわざ無駄な争いをしたいわけじゃないでしょ?」
壁に張り付いて問いかける先生をよそに、アスカはゆっくりと扉を開ける。
撃たれると判断して、先生は身を固くしながら、懐から取り出したタブレットを胸に抱く。扉を開けて外に出たアスカは、目を閉じて縮こまる先生の額に銃口を突きつけた。
「バーン」
アスカはそう言って、バレルを先生の額にこつんと当てる。先生がおずおずと目を開けると、いたずらっ子のように口角を上げているアスカが目に入る。
「え、えっと……?」
状況が飲み込めていない様子の先生が、小さな声で言う。アスカは突きつけていた拳銃を額から外して、手慣れた様子でマガジンを抜き、スライドをオープンさせて先生に見せる。弾はどこにも見当たらない。
「あの、もしかして、撃つつもりはなかった、とか?」
遠慮がちに尋ねると、アスカは空のマガジンをポケットに入れ、スライドを戻した拳銃を無理やりズボンのウエストに押し込んだ。腰が抜けている先生を見下ろす。
「敵を前にして目を閉じるのはいただけないな。想像の中で一足先に天国を見てたのか?」アスカは鼻で笑いながら言う。「目を開けてないと何もできないぜ。黙って撃たれる以外、何も、な」
空になった手を、先生に向かって差し出す。先生はその手を握って、勢いをつけて立ち上がった。座り込んで汚れたスーツを手で払って、先生はアスカに向き直る。アスカは先生を見つめる。無言の交信が数瞬。
「改めて、連邦捜査部S.C.H.A.L.Eから来た、先生です」
先生は、これまで幾度となく披露してきたであろう完璧な笑みで挨拶をした。今の先生の心拍数を考えると、これは驚くべきことと言える。
「みっともないところを見せちゃったね、恥ずかしいな」
「次からは銃を持って出かけろ。それとも、後生大事に抱えてるそのタブレットが身を守ってくれるのかい?」
「まあ、そんなようなものかな」そう言って、先生はタブレットに目を落とす。「忠告助かるよ。銃を向けられるのには慣れてなくて」
「だから目を瞑って撃たれるのを待ってたのか? 一回ぐらい撃たれてみようって?」アスカは呆れたように言う。「これはあいつの見込み違いかもな」
アスカの囁くような独り言を、先生は聞き流した。あいつとは誰のことなのか、ということが気にならないわけではなかったが、それを尋ねられるほどアスカが自分に対して心を開いていないだろうことは容易に察せられた。
アスカは、マガジンから抜いたまま靴箱の上に放り出されていた九ミリ弾を戻しながら、先生についての話を思い出していた。扉を開ける少し前に、彼女はワタノから聞いた話を記憶から検索することに成功した。ワタノ曰く、先生は「台風の目となり得る」人物だという。アスカ自身の今の所感では、どうにもそんな雰囲気は感じない。ワタノが持ってくる情報が間違っていたことはほとんど無いため、アスカは基本的に彼女のことを信用しているが、眼前の人物が「台風の目」となるのかはいささか疑問だった。
当の先生は、先ほどの緊張が抜けていないのか、借りてきた猫のように事務所の真ん中で所在投げに立ちながら、あちらこちらを見回している。随分と落ち着きのない様だ。濃いグレィのスーツに身を包み、首から「S.C.H.A.L.E」と書かれたIDカードを提げている。髪は烏のように黒く、短く切られている。しかしながら、顔立ちは中性的で、どちらとも解釈の可能な容姿だ。どうにも捉えどころのない人間だ、とアスカは思う。
先生を古いソファーに座らせて、アスカは事務所のオフィスデスクに体重を軽く預ける。彼女の警戒心を表現するような距離感だ。
「それで」デスクに腰を預けて、アスカは先生に声をかける。「一体何のためにここに来たんだ? まさか依頼ってわけでもないだろう」
「ああ、そうだね。その話をしよう」心ここに在らずの顔を一息に引き締めて、先生が言う。「単刀直入に聞くね。君は、彼女にお金を渡して今日の新聞記事を書かせたのかな?」
そう言って、先生は一枚の写真を胸ポケットから取り出す。アスカが三日前に接触した、クロノススクールに通う記者の顔写真だ。その事実を正確に認識する前に、アスカはデスクの引き出しを開けて愛用の拳銃を取り出して、素早い動作で先生に向けた。数え切れないほどの反復が生み出した、一切の無駄が省かれた動きだった。今回アスカの手にある銃は、.45ACP弾がマガジンに七発、チャンバーに一発込められた状態だ。換言すれば、殺すつもりの状態。
一瞬にして、呼吸すらも躊躇うほどの緊張感が室内の全存在に叩きつけられる。太陽が雲に隠れて冷気を感じるような、そんな唐突な変容だった。前触れなく訪れた、死が間近に迫る寒気に髄を冷やしながら、先生は息をゆっくりと吸い、酸素を全身に行き渡らせる。そうでもしないと、高鳴り始めた心臓がそのまま動きを止めてしまいそうだった。それほどまでに強烈で純粋で鋭利な殺意。恐ろしく切り替えが速い子だ、と先生は内心でアスカを評する。矛を納めたと判断したのは、どうしようもなく早計だったと後悔する。しかし、先生はアスカから目を離さない。今度目を瞑ったら、そのまま一切の躊躇いなく撃ち抜かれ殺されるだろうという絶対的な確信が、今の先生にはあった。頭蓋が砕け、中に収められていた脳漿が支えを失って溢れ出し、それら全てがこの部屋の冷たい床の上に広げられる、その鮮烈なイメージ。その圧倒的な恐怖を前にして、先生は毅然とアスカの目を見つめる。
「一体どういうつもりなんだか、分からないな」アスカは先生の頭を照星と照門に重ねながら問いかける。「自殺志願者か何かかい、それとも正義のためには命を惜しむなって、コミックのヒーローに言われたのか?」
「いや、これは私の意思だよ。私はそうする必要があると——」
「私には幾つかのルールがある。一つ目は、法の外で生きるなら正直に生きるべき、だ」先生の言葉を遮って、アスカは滔々と語る。「だから、今お前にして欲しいこと、お前がするべきことを、隠し立てせずに丁寧に教えてやろう。——言葉を選ぶ時には慎重に選ばなくてはいけない。もしかしたら勘違いをしているのかもしれないが、お前が今一番するべきことは
先生はアスカの言葉に応えず、ただ沈黙を返した。耳をつんざくような静寂が二人の間を支配する。視線だけが雄弁にものを語っていた。まるで伝説にある英雄と魔王との戦いのような攻防が、屹と開かれた互いの両の眼によって行われている。
先に旗をあげたのはアスカだった。彼女は大振りな手つきで、持っている銃にセーフティーをかけると、先生に向けていたのを下ろして腿に手を置いた。
「はあ、まったく」アスカはため息をつく。「まるで私の方が間違ったことをしているみたいな強情さだ。君ほど面倒な人間はそういないよ」
嵐が過ぎ去ったのを感じて、先生は一度大きな深呼吸をする。一歩先の死線がなくなった開放感ゆえか、膝の力が抜けそうになるのを、気力で堪えて立ち続ける。まっすぐ立つという、それだけのことにここまで力を使わされたのは初めてだった。先生は、未だアスカの手の中にある、金属特有の光沢が輝く拳銃を目に留める。二度とこれを向けられるのは御免だなと、至極当然の感情を抱く。
「それに、ここで君を殺したら、二度とワタノに口をきいてもらえなくなりそうだな」アスカは退屈そうに言って、ゆっくり足を組んだ。「で、用事はその手に持ってる写真のことか。その子のことを私が知ってるかって?」
アスカの言葉に先生は頷く。それを横目で見て、アスカは小さく笑う。
「知ってるよ、もちろん。彼女は古い友人さ。彼女がいつも着けてる三日月の形のピアスは、私が贈ったものなんだ」
「彼女にお金を渡して、今朝の新聞の記事を書かせたのは本当?」
「よく聞けるな。いつ私の気が変わって、撃たれてもおかしくないのに」笑った顔を貼り付けながら、アスカは言った。「正義実現委員会のゴシップの話なら、イエス、だよ。彼女に幾らかのお小遣いを渡して書いてもらったものだ」
「それは、何のために?」
「質問が多いね……。私の稼業のためさ。私にも生活があるからね。お金を稼がなくてはいけない」
「お金を稼ぐため、か。そのために、あの記事を新聞に載せさせたんだね?」
「そうだよ。ねえ、これって何のための質疑応答なんだい? このまま質問に答えていけば、私にぴったりのニュースでもレコメンドしてくれるのかな。それとも、私の心の奥の隠れた欲望が見えてくるとか?」
「いや。ただ、私がどうしなければいけないかが、少し明確になる」そう言って、先生は真顔のままアスカの目を見つめる。「どうやら、君と少し話をした方がよさそうだね。あの記事のせいで、どれだけの人が困ったか」
「なるほど、今のは性格診断だったか」アスカはじっと笑う。「しかし、お話という言葉が聞こえたけれど、まさか本気じゃないだろうね。どうして私が説教なんてされなくてはいけないんだ?」
「説教なんて、そんな大層なことじゃないよ。ただ、自分のしたことが、結果的にどれだけの人の迷惑になっているのか、ということについて、ちょっとね。連邦生徒会でも、あの記事はかなり問題になったから」
先生の言葉を鼻で笑って、アスカは反駁する。
「どうやら、私がいったい何の仕事をしているのか、先生はまだよく理解していらっしゃらないようだ」アスカは足を組み直す。「私はよろず屋の活動の一環として、お悩み相談をやっていてね。さまざまな人たちの悩みを頑張って解決するという仕事をしているんだ。今回、私はその仕事に則って、ある相談を解決するために例の記事を出してもらったに過ぎない。これは私が下した経営判断であり、その判断の根拠は経済的合理性にある。君がレッドウィンター的な経済思想を持っているなら、君の信仰の自由は保障されているし私も否定はしないが、君も私の思想を否定するべきじゃない。違うかな」
「否定なんてするつもりは全くないよ。そんな権利は私にはない。君も考えがあってやったことだろうし、それは私も分かってる。だけどね……、それはそれとして、苦情の一つ二つは受け付けてるよね?」
試すような先生の言葉に、アスカは苦笑を漏らす。毒気を抜かれたようなため息を吐いて、彼女は先生を見る。どれだけの人が、ついさっきまで自分に銃を突きつけていた人間に対して、この口上を述べられるだろう。アスカは内心で少なからず驚嘆していた。
「なるほど、確かに。言葉の代わりに爆弾を投げつけてくるような不良連中には銃弾で以て応えるが、理性的に言葉でってことなら、私が追い返す理由はない。これで、善きサマリア人であれ、なんてことを言うなら追い返すところだけど、どうやらそんな風でもないしね」
「納得してくれたようで何よりだよ」先生は優しく微笑んだ。「君が書かせた記事が原因で、トリニティは蜂の巣をつついたような大騒ぎになっているんだ。内容といいタイミングといい、すごい衝撃だったんだろうね。あの記事が原因で、ゲヘナ学園が一方的に合同訓練の中止を宣言したり、正義実現委員会とティーパーティーが対立したり……。大変だったんだから、本当に」
「それは御愁傷様。てんやわんやだったわりには、私のところに来るのが早かったように思えるけど、誰が私だと突き止めたんだい?」
「それは言えないね」
「残念、そこまで優しくはなかったか」
アスカは顎に左手の指を沿わせる。彼女が考え事をする際のルーティーンのような仕草だ。アスカはそのまま先生を目を覗き込むように見つめる。
「しかし、うん、大体分かったよ。私を探し出したのはヒナだろう?」そう言うと、アスカは猫のように笑う。「瞳孔が開いた、図星だね。君が探し出したのならそう言うだろう、君はそんな性格だ。答えを濁したのは生徒だから。トリニティは記事を見てまず内部犯を疑うだろうし、ゲヘナは記事の出どころなど気にしない、私はそう踏んでいたからあの記事を出したんだ。きっと私には気付かないだろう、とね。だが今、私の前には君がいる。そして君は先ほど、正義実現委員会とティーパーティーが対立したと言っていた。つまり私の予想通りの展開だ。イレギュラーはゲヘナの動きと君の存在。すなわち、連邦生徒会として君がゲヘナの風紀委員を動かして、私を見つけるほど仕事をしたってわけだ。君はどうやらよほどヒナに気に入られているらしい。そして君もヒナを信頼している。だから護衛も付けずに私の元にやってきたんだ。ヒナは私のことをなんと言っていた?」
驚きのあまり思わず口を開いていた先生は、その問いかけで我に帰った。
「……頭がいい子だとは聞いていたけど、びっくりしたな」先生は静かに言った。「まるで君は物語の中の探偵だね」
「先生にお褒めの言葉を貰うとは、生徒冥利に尽きるね」
「だけど、一つ訂正するところがある。私がS.C.H.A.L.Eの権力を使って、ヒナをこの件の捜査に加えた、というわけではないんだ。彼女が、自分から率先してやったことだよ」
「へえ、そうなのか」アスカは目を細めて頷いた。「それはおもしろいな。私はてっきり、君がヒナを動かしたんだとばかり思っていたけど」
「彼女が自らやったことさ」そう言って、先生は首を傾げる。「ところで、ずいぶんヒナのことを知りたがっているけど、君はヒナの友達なのかな? 彼女も君について色々言っていたけど……」
「色々? 一体なんて言われてたんだ?」
「それは私からは言えないね」先生は微笑む。「一度、二人でゆっくり話してみたらどうかな。お互い、積もる話があるだろうしね」
「無いさ、話すべきことなんて」アスカは投げ捨てるように言う。「話はそれで終わりかい? 私の通常業務に戻りたいのだけど」
「そうだな……。じゃあ、今日はお暇するよ。きっと君は、自分の選択について、ちゃんと考えられる子だろうからね。次に大きなことをしたら、その時はまたここに来ることになるかもしれないけど、今日はひとまず、これで終わりにしよう」
そう言うと、先生は腕時計をちらと見て、出口の方に顔を向けた。じゃあね、と朗らかに言って玄関へ向かって歩く。
「そうだ、モモトークを交換しようよ」先生が振り返って言う。
「断る。ホームページにメールアドレスが載ってるから、そこに連絡してくれ」
「それじゃあ、君から私に連絡する方法がないよ」
「そのときは紙飛行機でも飛ばすかな」
玄関まで着くと先生はしゃがみ込んで靴を履く。少しくたびれた風の革靴だった。立ち上がって体を少し反らすように伸びをする。
「そろそろお昼時だし、私の奢りでご飯でも食べに」
「行かない」アスカは先生の背中を押して外へ追いやる。「次は苦情じゃなくて依頼を持ってきてくれよ、ここはよろず屋なんだから」
「あはは、分かったよ。絶対依頼するね」
そう言って、先生はアスカの事務所を去っていった。エレベーターに乗り込むのを見届けると、アスカはここ数ヶ月のうちで最も大質量のため息を出す。話をしただけとは思えないほどの疲労感を抱えながら、先ほどまで先生が座っていたソファに身を投げ出す。安息日はすっかり台無しになってしまった。
アスカはクッションに顔を半分埋もれさせながら考える。どうやら面倒な相手に目をつけられてしまったようだ。ただのお節介焼きならともかく、あれはきっとそんな言葉で収まるような人間ではないだろう。アスカには、先生との関係がこの一件で綺麗に終わるとは到底思えなかった。
だが、良いこともあった——アスカはそう判断する。先生の登場によって、アスカの脳はある可能性に思い至った。いくら空崎ヒナとて、記事が出てから数時間で記者の居場所を突き止め私の名前を聞き出すというのは、不可能ではないが、かなり現実味の薄い話だ。この時期の彼女は仕事に忙殺されているだろうし、今回の一件はゲヘナ風紀委員が率先して首を突っ込むべきものではなかった。トリニティの内側で起こった火種はトリニティに消させるのが、いつもの彼女のやり方だろう。彼女が捜査に加わる動機はないはず。そう考えたからここまで大きな一手を打ったのだ。どうして今回はここまで派手に動いたのか?
アスカはソファから立ち上がって、オフィスデスクへと歩く。使ったばかりの愛用銃が、無造作に置かれたままになっている。彼女は一番上の引き出しを開けてその中に銃を入れると、引き出しの奥から写真立てを取り出した。しばらく暗い引き出しの奥でそのままにされていたのか、表面には灰色の細かい埃が薄らと積もっている。アスカは埃が飛び散らないよう慎重に写真立てを引き出すと、デスクに置かれたティッシュボックスから一枚を引き抜いて、傷付けないよう丁寧に埃を拭った。綺麗になったことを確かめて、アスカはデスクの上にそれを置く。簡素な木組みの枠の中には、ゲヘナ学園中等部の制服を着たアスカと、一般生徒の制服を着た羽沼マコトが、並んで写っている。アスカは写真の中で笑う二人を見つめる。
空崎ヒナ、とアスカはほとんど声もなく呟いた。学園にいた頃の記憶が幻燈のように脳裏に映し出される。ある日の放課後、中等部棟の廊下を歩いているとき、まだ高校一年生だった彼女に呼び止められた。それが彼女との初対面だった。彼女はアスカに、風紀委員室まで着いてくるように、と言った。訳も分からず渋々着いていくと、そのままコンクリート打ちっぱなしの狭い部屋に連れていかれ、そこで初めて、アスカへの用事の内容を明かした。彼女は、アスカが金欠の友人に現金輸送車の襲撃プランを提供したことについて、大層お怒りのようだった。なぜそんなことをしたのか、と供述を取られている間、アスカは、どうしてその件が風紀委員に露見したのか、ということについて考えを巡らせていた。アスカの立てた計画は、完璧に遂行したのなら、友人とは全く無関係の他校の不良に容疑が向くように作られたものだったからだ。その友人から計画に問題があったなど聞いていないし、ニュースでも容疑者として挙げられていたのはその不良生徒だった。
結局答えは分からず、取り調べの最後に、アスカは彼女に尋ねた。どうして私が計画したと分かったのか、と。彼女はその問いにこう答えた。
——情報部員として生徒の情報を頭に入れた上で、最初に現場を見た時に、貴女ではないかと思ったの。清廉潔白な人間が初めて犯す犯罪は、過度に杜撰か過度に完璧か、そのどちらかだから。貴方は“完璧な犯罪”を志すタイプよ。そういう人は危険なの。
その言葉を聞いたとき、アスカは呆れると同時に驚いた。そんな曖昧な判断で私を疑ったことに対する呆れと、直感の域まで昇華された犯罪者に対する経験的判断力に対する驚きだ。あの一件で彼女から注目されたことで、なんの因果か羽沼マコトの目に留まり、多種多様な厄介事の渦中に身を置く学園生活を送ることとなったのだ。
やはり、そうだ。昔の錆が浮いた記憶を掘り返して、たちの悪い思い出がフラッシュバックすると同時に、アスカは自分の思いついた可能性への確信を深めた。やたら上手く事が運んで、気が付いたら自分の後ろまで手を回されている、この嫌な感覚。この感覚には覚えがある。アスカは何度も、この悪性の達成感を飲まされそうになった事がある。これは、ゲヘナ情報部のやり方だ。
アスカは脳が熱を持っているのを感じる。——トリニティから帰る際に私を襲撃したのは情報部だろう。まるでトリニティの動きを掴ませたいのかと思えるほどに、あの襲撃はお粗末なものだった。きっと情報部は、以前からモフモフヘルメット団を監視していたのだ。モフモフが私に依頼したことをきっかけに、情報部は私を使って正義実現委員会の違法捜査を白日の元に晒そうと考えた。そのために彼女らは、「ヘルメット団を装った正義実現委員会による襲撃」を演出し、私に違法捜査を気付かせたわけだ。もしかしたら、ワタノの助言も情報部からの差し金だったのかもしれない。
彼女らはいつも表には出てこない。水面下で大量の人員を動かし、必要なことだと判断したならなんでもやる。技術も物量も他学園とは並外れた、ゲヘナのインテリジェンスを担う組織。おそらく彼女らは、エデン条約前にトリニティ側の膝を折ることを狙ったのだろう。学園外に向かう諜報員の目を内に向けさせ、条約締結に際する連邦生徒会や各企業連合への種々の根回しを遅らせることで、外交上の手札の優位を握ろうとした。そこで優位を取るために内ゲバを誘発させたのだ。アスカの存在は、この一連の謀略と情報部の繋がりを切り、ただの自営業の傭兵が考えなしに火種をばら撒いた、というポーズを取るためのデコイに過ぎない。トリニティがどれだけ記事を追っても、私にたどり着くだけで情報部には手が届かない。その上で、ヒナが記者を見つけるという後始末も行い、今回の記事に情報部は無関係だという連邦生徒会へのアピールも行なった。たしか彼女は元情報部だったはずだ。今回の計画のことも承知だったのだろう。
こうして事が終わってみると、依頼を受けた時からずっと、彼女らのゲームのためにポーンとして動かされていたわけだ。それに思い至って、アスカは諦めのような賛辞を心の中で呟く。アスカは、自分が久しぶりに顔を合わせた友人との会話のような、奇妙な心地よさを抱いていることに気付いた。それもそのはずで、少し前までは彼女もゲームのプレイヤーの一人だったのだ。彼女の胸中には、言い知れない懐旧の念が確かにあった。
アスカは誘われるように写真立てへ手を伸ばす。不敵に笑うマコトの顔に指を添える。彼女もこの件に一枚噛んでいるのだろうか、とアスカは想像する。彼女のことだ。条約の調印式に向けて隠し球の一つや二つは用意しているだろう。それが一傍観者の立場から見えるものかは分からないが、彼女が何を仕掛けるのか、あるいはしくじるのか、アスカはそれが楽しみにも思えた。
009
都市というのは、昼と夜で異なる顔を見せるものだ。それは、昼の間に眠っていた魔物が月に呼び覚まされるからであり、魔物らは太陽が隠していた混沌の衣に身を包んで大道に溢れ出る。それは、ある意味では黎明と言えるだろう。夜には特有の思惑が息づく。ブラックマーケットと呼ばれるこの場所では、特に。
テクノがお似合いなネオン菅の、緑赤混煌なけたたましいビビットカラーは、さながら暗闇を拒むかのように、辺りを原色に染めている。空気でさえも間隙なく波打つこの街には、静謐や気品などなく、永続的に覚醒を踊り続けている。
四方をケミカルな裁断機に囲まれた末に、天然の夜も死滅したようで、人々はその中でこぞって原初への回帰を試みている。ダンスにアルコール——発展の名残や進化の過程を古いビデオテープで逆回しにしているかのようなこの場所は、停滞とは無縁だ。街の中心から少し外れた地区で、この魔窟に全く似合わないか、あるいはお誂え向きな一人の少女が、兎のように恐る恐る建物の間を歩いていた。まるで日の光から逃げてきたように。
彼女は懐のバッグを大事そうに抱えながら、通りから伸びる路地裏へと飛び込む。スリングで斜め掛けしたサブマシンガンを片手で支え、迷いない足取りで彼女は歩く。目的地は、しばらく前に折られたままで放置されている街灯を目印に少し進んだところにある、隣の建物に手を付いて片足立ちをしているような四階建ての雑居ビルだ。テナント募集の張り紙もなく、寂れた外壁には、表通りとは対照的に、時間だけが張り付いて汚れている。
覚悟を決めたように深呼吸をして、少女はビルの非常階段に足をかける。錆で赤茶けた階段が、吹き抜ける風で一泣きした。シャッターが居心地悪そうに身動ぎして、安い建て付けのドアがここから逃げ出そうと蠕動する。人々に忘れ去られた古いビルだ。ぼろぼろに風化した外付けの階段を登った先に、少女の目的地がある。蹴り抜いたら折れそうな支柱と裏腹に、安心して登れと自慢げな非常階段のステッカーが貼り付けられている。そのステッカーが破れかけていることが一番の不安材料になっているという点を、このビルの管理人は知覚していないようだ。ステッカーは誇らしげに、自分が役立つ有事の時を待っている。彼女は手摺を掴んで身を持ち上げる。ここを登るには、バケツ一杯分程度の覚悟が必要だ。一段一段踏むごとに、至る所が軋み始める。赤御影石のような踏面へ慎重に足を乗せて、さながら寝た子を起こさないようにする母親のような足取りで、少女は非常階段を登る。少しして、目的地である三階の扉の前に立った。分厚い木製の扉を叩き、中に身を滑り込ませる。
時代の風に飛ばされかかっている雑居ビルを見上げて、アスカは目を細めた。右手には不良から奪ったショットガンを携えている。キヴォトスのどこでも手に入る、ポンプアクション式のショットガンとして定番の製品だ。持ち主の手によって行われたであろう黄色の塗装は、雑な扱いのせいか、所々が削れている。リトラクタブルストックには手製で肉抜きが施されており、何のキャラクターなのかも判別できないぬいぐるみのストラップが括り付けられている。大義そうに肩に担いで、アスカは雑居ビルの脇へ歩く。
尾行者がいないことを確認して、アスカは今にも崩れそうな非常階段を登っていく。甲高い金属音が闇の中に響く。三階に到着し、塗装の剥げた扉の前に立った。壁に手を触れて周りに視線を巡らせる。壁に付けられた監視カメラに向かって手を振り、担いでいたショットガンを下ろす。そのまま、扉の蝶番に銃口を当てた。
「
アスカは口の中でそう呟いて引き金を引いた。上の蝶番に一発、下の蝶番に一発、錠前に二発。接続部を失った扉を蹴り飛ばし、部屋の中へ倒れさせる。部屋には、驚愕に塗れた顔でホルスターに手をかける少女と、カウンターの向こうで姿勢を低くする、この店の店主と思しき人物の二人がいる。アスカはフォアエンドを引き、少女を狙って撃った。素早く排莢しもう一発撃ち込むと、少女は床に倒れる。それとほぼ同時に、カウンター奥で屈んでいた店主が顔を出して、裏に隠されていた銃を出す。ストックを外しピストルグリップを付けた、コンパクトなショットガンだ。アスカは店主に向けて一発撃つと、間髪入れずに銃を店主に投げつけた。マガジンチューブの七発を撃ち切ったからだ。素早い動作でショルダーホルスターから愛用の拳銃を抜き、店主を三発撃つ。店主は衝撃で壁に頭を打ちつけて、そのまま倒れ伏した。
アスカは倒れた少女の元へ行くと、彼女が背負っているバッグを取り、中身を見る。空であることを確認すると、今度は店主の方へ近づき、カウンターを乗り越えて周囲を眺める。しばらくして、床に落ちた白い袋に目を止めた。その袋を開けて中を見る。中には、色取り取りの宝石が嵌め込まれたアクセサリーや、精緻な細工のジュエリーがこれでもかと詰め込まれている。アスカは目当ての品を見つけて笑みを浮かべた。店を見渡すと、その袋以外にも値の張りそうな品々が多数並んでいる。砕け散ったショーケースの中に鎮座するそれらのお宝を見ながら、アスカは一つ頷く。まさに喜色満面といった表情だった。
しばらくして用事を済ませると、アスカはすっかり重くなったバッグを肩に提げて外へ出た。部屋の中は全ての戸棚がひっくり返されて、さながら台風でも来たような有様になっている。店主が目を覚ました時の絶望は、想像するに余りあるものだろう。犯罪現場を後にしたアスカは、ポケットから携帯電話を取り出した。少し操作して電話をかける。通話の相手はアイだ。
「どうした?」アイは眠たげな声で電話に出た。「今度は良い報告なんだろうな」
「ああ。正真正銘、胸を張って良い報告と言えるだろう」アスカは笑いながら言った。「喜ぶといい、君の依頼は達成された」
「本当か!」アスカは驚きと喜びを混ぜたような声で叫ぶ。「それって、宝石を無事に取り戻せたってことだよな?」
「いかにも、そういうことさ。多少の手間はあったが、売り飛ばされる前に回収できたよ」
「よかった、よかったぜ。もう期待してなかったんだが、まさか本当に見つけてくれるとはな。それで、泥棒は今どこにいるんだ?」
「既に私がとっちめておいたけど……。だけど、まあ、君たちがどうこうするのを止める理由はないか」そう言うと、アスカはビルを見上げる。「あとで位置情報をメールする。気絶しているからしばらくは起きないだろうけど、居なくても私に文句は言わないでくれよ」
「ああ、そん時はそん時だ。そいつの名前はわかるか?」
「
「そうか、助かる。明日の昼にあんたの事務所に行く。詳しい話はそこでしよう」
「了解。マンゴータルトを用意して待ってるよ」
アスカは電話を切って、携帯をポケットに戻した。重い鞄を提げて、彼女は夜の街を悠々と歩く。この金をどう使おうかと想像するだけで、アスカはクリスマスプレゼントをもらった子供のような気分になる。幸福と希望で胸がいっぱいのテーマパーク的な気分。
アスカにとって、金というのはそのまま自身の幸福量とイコールの存在だ。彼女はその仕事柄、裕福が行きすぎて健全な人間性を喪失してしまったような人間を幾人も見てきた。決まって人類に対するリスペクトが欠けていて、友情や愛情に市場の原理を導入する酔狂な人間だ。しかし、彼女はその在り方にこそ憧れているのだ。
それだけ裕福な人間になれたらどれだけ幸福だろう、とアスカは夢想する。ブラックマーケットの不健康な夜景の中で、アスカは一人静かに笑った。
**ネルフィルター**
コーヒーをドリップする際に用いるフィルターの一種。フランネルという織物でできたフィルターで、単に「布フィルター」とも呼ばれる。チビメイド様とは無関係。
**アルセーヌ・ルパン**
フランスの小説家モーリス・ルブランによる小説『アルセーヌ・ルパン』シリーズの主人公。世に知られた怪盗だが、もはや子孫のほうが有名になった感は否めない。昔から思っていたのだが、アルセーヌ・ルパンの名前はアルセーヌの方なので、子孫が「ルパン三世」と名乗っているのはおかしい。「ルパン・アルセーヌ三世」と呼ぶか、名字がルパンで名前が三世のキラキラネームだと納得するか、どちらかであるべきではないだろうか。というか、ルパン二世はどこにいるんだ。
**スパイが宇宙開発競争を巡る争いに身を投じ、その過程で出会った美女とキスをする映画**
映画『007は殺しの番号』(原題は『Dr.No』)のこと。MI6に所属する主人公のジェームズ・ボンドが、マーキュリー計画の中止を目論む悪の組織と戦う映画。映画としての「ジェームズ・ボンド」シリーズの第一作。東西冷戦が発火寸前まで熱を持っていた時代の映画ということもあって、プロパガンダ的な側面が醜いほど強調されている。米ソ宇宙開発競争の一場面を題材にとったところとか、この時代に第三勢力として台頭し始めた中国が敵役になっているところとか、当時の歴史的背景を頭に入れて見るとなかなか面白い。ストーリーは、1961年の映画なこともあって、陳腐な展開という感想が出るもの。とはいえ、いい映画であることは間違いない。現代でも続編が出ている「ジェームズ・ボンド」シリーズの第一作として十分な出来だと思う。ショーン・コネリーがかっこいいから、それを目当てに見てもいい。ちなみに、美甘ネルのコールサイン「ダブルオー」の元ネタは、ジェームズ・ボンドのコードネーム「007」から。これを「ダブル・オー・セブン」と読むか「ゼロ・ゼロ・セブン」と読むかは、当人のセンスと信条に委ねられている。
**法の外で生きるなら、正直に生きろ**
ボブ・ディランの楽曲『Absolutely Sweet Marie』の歌詞の一節を改変して引用。原文は、「But to live outside the law, you must be honest」というもの。曲名から分かる通り、『Absolutely Sweet Marie』はこんな物騒な文脈で使われた言葉ではない。悲しい別れを歌ったラブソングだ。刑務所にいる間にどこかに行ってしまった恋人に語りかける歌。ボブ・ディランが歌ってるから美しい歌になってるけど、他の誰かが歌っても「自業自得だろ」となってしまう歌だと思う。むしろボブ・ディランが歌っても「自業自得だろ」って思う。
**善きサマリア人であれ**
新約聖書、ルカによる福音書第10章25節から37節にてキリストが語っている、隣人愛に関するたとえ話。ある人が道で強盗に襲われて、息も絶え絶えの状態で倒れていた。通りがかった祭司とレビ人は彼を無視して通り過ぎたが、サマリア人は彼を助けた。サマリア人は彼を宿屋で介抱し、宿屋の主人に彼の世話を頼み代金を払った。キリストはこのたとえ話で、律法(モーセが神から与えられた法。十戒や儀式の手順などの、信仰者が守るべき規律)における「隣人」とはどういった人物であるかを説明している。このたとえ話の中では、サマリア人こそが怪我人の隣人だと示される。この話の神学的解釈は教派によって差異が見られるが、慣習的に「善きサマリア人であれ」と言う時には、「困っている人を助けるような人でありましょう」程度の意味。キリスト、大して例える必要性のない薄教訓を、要素の多いたとえ話にしてよく分からなくさせがち。
**Say 'hello' to my little friend!**
映画『スカーフェイス』の名台詞。トニー・モンタナ(役者はアル・パチーノ)がこのセリフを叫んで扉の向こうの敵にショットガンをぶっ放す。扉は爆発でもしたように吹き飛んで、向こうにいる敵をノックアウト。これぞキヴォトス流。