迎えた撮影当日の現場は、生憎の雨天だった。
ロケ地となった廃倉庫のトタン屋根には雨だれの音が鳴り響き、ところどころある腐食でできた穴からは、雨漏りもしている。
陰鬱な場所だ。アクア個人としても、こういう場所は、そしてこういう天気は、あまり好きではない。じくりとした古傷の痛みが、なおそれを助長していた。
しかし、この「今日は甘口で」というドラマの最終回の撮影現場という意味では、この上ない雰囲気を醸し出していることも事実だった。
カメラに映ることはない雨と、S/N比の関係から適切な正規化をすれば消えてくれる雨音のノイズを取り除けば、残るのは薄暗くて陰気な、心理的に不安を惹起するが如くの廃墟の姿だ。それはこの最終回の原作該当部分が要請している舞台設定と、奇跡的にマッチしていた。
人は神ではない。だから天候を制御することはできない。もっとも最近では人工降雨装置による気候制御などという「神への挑戦」を人は始めているが、そんな「国家的プロジェクト」を、いち民間のドラマ風情が使えるわけもない。
つまりその謂わんとするところというのは――
「かな、俺たちどうも、ツイてるみたいだぞ」
「……ええ、そうね」
今アクアたちの置かれている状況が、あらゆる意味においてまたとない好機である、ということであった。
演技の世界において、リハーサルというのは単なる練習以上の意味を持つ。
それは、つまり対話だ。役者同士のコミュニケーションであり、そして役者と撮影スタッフの間でのコミュニケーションの場でもある。
役者は自らの演技によって、その役どころに対する理解と、それに対する表現の方法をプレゼンする。
ほかの役者はその主張を無言のうちに聴いて、対峙する自らの演技の在り方を適応させる。もしくはそれに、正面から喧嘩を仕掛けに行く。
スタッフはその意を汲んで、それらの無言の対話を理解して、彼ら役者陣を最も輝かせる画角を、間を、空間を、演出する。
当然、最後に実際に言葉を交わして最終的な合意をとることも、忘れてはいけない。
その全てが揃って、初めて個々の役者の演技は統合され、一つの作品になるのだ。五反田監督の下で学んだ十年の下積みの中で、アクアが理解した現場の在り方とは、常にそういうものであった。
カメラを置く前にドライを実施するのも、ランスルーの前にカメラリハーサルが必要とされるのも、そうした意思のすり合わせこそが、作品の完成度に寄与するからに他ならない。
だからアクアに言わせれば、今回の現場というのは基本的に最初から、『まともなものを作る気がない』のだ。
確かに、個々のスタッフそれ自体は優秀だ。演出に関しても、思ったより練り上げられている。
しかしその全てから、役者が疎外されている。言い換えれば、初めから役者に対しては何一つ期待などしていない。それは、きっとかなに対してですらそうだった。無論、飛び込みの形でこの場に現れたアクアに対してもである。
現場入りのあと、その場の最も上席の人間としてやってきていた鏑木に挨拶をしに行った時の、彼が自らに対して向けた表情を、アクアは思い返す。
自分の挨拶に対して、そっけなく応えて軽く会釈だけ返してきた鏑木の顔は、その言葉よりもよほど雄弁に、彼自身の意思を語っていた。
「何でもいい」、「誰でもいい」、「興味もない」。ただ、それだけである。
これから「売り込み」をかけねばならない相手だからこそ、そんな彼の自らに対する「初期値」というものを、アクアはよくよく認識していた。
そんな鏑木に、自らの名前を憶えてもらうために必要なこととはなにか。
昨日かなと交わした約束を成就するために、やらねばならないことはなんであるのか。
そういった諸々の方針を頭の中に描きつつ、アクアは今回の現場において初めてする演技に、リハーサルに入った。
――やっぱり、そうだ。
有馬かなはリハーサルの始まったあとのアクアの振る舞いを見て、胸中にそんな感情が浮かび上がるのを止められなかった。
今回、アクアに対して割り振られた役は、かな扮する主人公の少女をつけ狙うストーカーだ。
このドラマの最終話は、「今日あま」の前半部分の山場の一つにスポットライトを当てている。それまで人間不信で他者との関わりに消極的であり続けてきた主人公の「リナ*1」が、この作品のメインヒーローたる「青野カナタ」によってストーカーから身を挺して守られたことで初めて己の恋心を自覚する、そういうシーンだ。
つまり彼の演じることとなるストーカーという役柄は、主人公とヒーローの仲を進展させる展開のために用意された
言うまでもなく、扱いは悪い。演じた人間にプラスの印象が与えられるものでもない。本来割り当てられていた役者――これもまたどこの馬の骨とも分からぬモデルであったが――がその扱いに憤慨して役を放り出したのも、演技の世界における仁義には大層悖るが、心情としては理解できなくもない。
更に言えば、原作漫画においては流石にこのストーカーの存在に説得力を持たせるべく前々からの伏線やチラ見せによって一定程度の存在感を与えられていたところを、半クールドラマの時間的制約によってそれらが全てなかったことにされているために、このドラマにおけるストーカーは本当の意味で単なるぽっと出のキャラクターに成り下がっている。言うなれば、「肉入りマクガフィン」とでも称すべき存在だ。
そういうわけで、実のところこのストーカー役というのは、その扱いの悪さに比してまともに演じようと思うと途轍もない技量が要求される、大変にコスパの悪い役どころだ。正直なところ、かなはアクアに対して一縷の期待をかけていたものの、流石にさしもの彼とてこの役を一日でものにするなど不可能であろうと、ある程度の割り切りを以てこの場に臨んでいた。
しかし、それでも、かなは目にする。
今のアクアの立ち姿から、「恨み」を感じる。「裏切りへの憤り」が見て取れる。見えない圧迫感が、不快な「ズレ」の感覚が、少しずつ意識を蝕むさまを、錯覚するほどに。
その空気に中てられてか、隣に立つ青野カナタ役の男も、その演技の仮面が少しだけひび割れていた。
――鳴嶋メルト。このドラマのキャスティングの意図に漏れず、現在売り出し中の新人男性モデルだ。歳のほども、アクアやかなとほぼ同じときている。
モデルらしく自分の容姿に自信を持っていて、自分の外面の見せ方にはこだわりを持っているらしい。今日の撮影も、天候のせいで自分の髪がごわつくことにひたすら文句を言っていたほどだ。
そしてとんとん拍子に人気が出てきたタレントの例に漏れず、根拠なき自信をその身に纏っている。まさに、かつての有馬かな自身と同じように。
ついさっき、かなが座長の立場として彼にアクアのことを紹介しようとしたとき、丁寧に頭を下げたアクアのことを、眼中にもない様子で立ち止まることもなく無下に扱ったその立ち居振る舞いからも、彼の天狗さ加減は見て取れるだろう。アクア自身は全くもって、それこそ何の意にも介していない様子であったが、かなとしてはかつての自分の醜態を見せつけられているようで、見ていて居た堪れなかった。
ともかく、故に彼の演技はそういう無駄な自信と自尊心、そして虚栄心によってガチガチに固められていて、結果やらない方がマシなレベルのスカした台詞回しでもって作り上げられているはずの雰囲気をすべてぶち壊しにする、そんな悲惨なものなのだ。
最低でも、そのはずであったのだ。この間までは。
しかし今、それがひび割れていた。かの有名な、修復に失敗したスペインの教会のフレスコ画の如くに滑稽で、されど分厚く頑固な虚飾の仮面から、素の鳴嶋メルトが覗いている。素の鳴嶋メルトの感情が、少しだけとはいえ、台詞の中に載っていた。
それをさせるだけの力が、アクアの演技の中には宿っていた。
それは間違いなく、あの日と同じ光景だった。あの山村の入口、山道の上、かなの横で発されていた「何か」と根を同じくするものが、今のアクアからは漏れ出ていた。
――ああ、変わっていない。変わっていなかった。あいつはあのまま、あそこにいたんだ。
そのことが、かなにとっては無性に嬉しかった。
こんなどうしようもない現場の中で、自分に何の期待もしていないあの鏑木という男にそれでも自身のことを売り込んでいくならば、何が必要か。
アクアはその難問に、一つの答えを導き出した。即ちそれは、「場を作る能力」だ。
アクアは五反田監督の下での下積み期間の中で、撮影技術を含めた演出の技法というものを、ひたすらに詰め込まれ、叩き込まれてきた。
役者はどの画角に収めるのが映えるか。どう撮ることで、役者のどの感情を浮き立たせることができるのか。
どんな間合いで、どんなタイムスパンで、どんな色温度で、どんな被写界深度で、どんな音量で――そんな、五感に訴えるすべての情報の制御の仕方を、アクアは学んできた。
そしてそこに、アクアが「吾郎」の時代に医師として患者や妊婦との関係構築のために培ってきた、「客観的な印象の持たせ方」に関するノウハウを載せる。
最後に、この生来の顔立ちと佇まいで、積み上げた全ての要素に説得力を持たせる。
その組み合わせによって、アクアはある程度、今回のリハーサルの局面をコントロールした。目の前にして噴き出しそうになるほどの、「鳴嶋メルト」なるモデルの惨たらしい演技を、多少ぐらつかせることにも成功した。
この調子なら、本番でもうひと押し入れれば、多少は見れる絵面が撮れるのではないだろうか。撮影スタッフに無言のうちに伝えた演技プランも含めて、アクアは今回の仕事に、ある程度の手応えを感じていた。
「まったく、何が『復帰戦』よ。相変わらずじゃない、アクア」
一通りのリハを終え、本番までの僅かな休憩時間となったロケ現場の中、廃倉庫の入り口になんとはなしに佇んでいたアクアに向かって、かなが声をかけてきた。
「まあ、依頼主さまのご期待に背くわけにはいかないもんでね。そっちこそ、しっかりキレのある演技してたじゃないか」
「まーね」
口の端に笑みを浮かべれば、応戦するようにかなも不敵な笑みで返してくる。
「まあ、リハはリハだから軽く『当てて』みた感じだったけど、意外とやれるな、あのヒーローの。メルトだっけか?」
「確かにねぇ。あの『カタコト外人』としか思えないアレな演技してたところに比べれば、まあ、そうかもしれないわね」
目を瞑り、満足げにかなは笑む。
「……約束、守れそうか?」
その様子に、アクアの口からひとりでに言葉が漏れた。
「こんな作品を、それでもできうる限りの努力で、いいものに昇華させる」。あの日のカラオケボックスの中、握られた左手越しに見えた真剣な眼差しに、自分は応えることが出来そうであるか。そう、尋ねようとしていた。
「ええ、おかげさまでね」
果たしてそれに、かなは笑顔のままに答える。しかしすぐに、その目が伏せられた。
「……ホントはさ、私。あなたにそこまで期待してたわけじゃなかったの」
そして出てきた声は、どこか静かで、寂しさを含んだものだった。
「……なんだよ、口ではあんだけ『期待してます』って感じで言ってた癖に」
「だって、しょうがないじゃない」
混ぜっ返したアクアの物言いに、かなが反駁する。
「あなたも見たでしょ、この現場がどれだけ酷いか。あとあなたの役回りも。スケジュールだって。……こんなの、まともな現場じゃない」
それは、あるいは弱音だった。あの有馬かなが、弱音を吐いていた。
「けど、しょうがないのよ。旬が過ぎて十年、芸能界にいるんだかいないんだかわからないって言われてきた私が、それでもやれる大仕事なんて、そういうものしかないって」
アクアも、その言葉には黙り込むよりない。それは、この芸能界という世界で一度頂の景色を見た少女の、失意の記憶の吐露であるのだから。
共感できる何かを持たない自分に、それに何らの口を挟む資格すらもないと、アクアはそう思っていた。
「でも、仕事がもらえるってのは、それだけで有難いのよ。酷いときなんて本当に一個も仕事なんて回ってこなくて、でもいつでも仕事貰えるように稽古だけはしてて、けどその稽古、何のために続けてるのかわからなくなりそうで。何回辞めたいって思ったか」
訥々と、心情が紡がれ続ける。
「だから、鏑木さんには感謝してる。こんなんでも主演級の仕事だし、チャンスだから。チャンスをくれてるんだから。こんな私に」
そう言って、笑う。不敵な笑みでも、皮肉気な笑みでもない。どこまでも透明で、しかしアクアにとって、それはあまりに
「そこに、アクアが来てくれて。あの時みたいな演技、見せてくれて。私と一緒に頑張ってくれるって、言ってくれて」
――本当に嬉しかったの。
口元に笑みを浮かべたまま、かなは目を瞑る。
「仲間がいるって。
くるりと振り返って、二歩三歩と歩む。廃倉庫の中央、舞台の中心で手を広げて、かなはアクアに目を合わせた。
「ありがとう。この勢いで、本番も頼むわよ?」
そして、茶目っ気を込めて片目を瞑って見せてくる。
アクアは、それに言葉を返すことができなかった。
旬を過ぎた。そう、彼女は自分のことを評した。子役としての絶頂期を経験して、そこからの零落という現実に直面して、彼女はそう、自らのことを納得させたのだろう。
盛者必衰の理は、確かに誰であっても逃れられぬ運命だ。登り詰めたら、あとは落ちるだけだというのも、一面の真実ではある。
しかし、確かにアクアは見たのだ。遠い日の記憶の中、子どもらしい稚気と傲慢の中に、それでも見つけたあの輝きを。
時が過ぎた今もなお、「それでももう一度」と直向に夢を抱き続ける、その在り方を。
ならばそれを否定することなど、出来はしない。可能性があるならば、それが許されているのなら、そうやって努力を続けている者たちのことを、笑うことなどできようか。
――それが許されなかった子だって、いるというのに。
そう思うたびに、脳裏にかつてのあの色褪せた病室の姿がちらついて、アクアの心はかき乱される。
本当に度し難い。いつまで経っても、自分はあの心象風景から抜け出せてなどいないのだ。その事実をただ突きつけられているかのようだった。
休憩時間も、残り少ない。思考を整理するために、倉庫の外へと足を向けた。
その軒先に臨時で設けられた喫煙スペースには、この現場の監督である男性と、そして鏑木がいる。
本番前に今一度挨拶でもしておこうかと考えて、いざ近づこうとしたそのタイミングで、アクアは彼らの話し声を聞いた。
「雨酷いねぇこりゃ。ちょっとスケ押してるでしょ、撮りまだ?」
煙草を片手に軽い調子で、眼前の監督に尋ねる鏑木の声がする。
「雨漏りしているところが思ったより多くて……バミリの調整と、あとリハの時にメルトさんの所に雨粒落ちてきちゃって、その直しが終わったらになりそうです」
「そっかぁ……メルト、このあと雑誌の撮影あんだよね。もうちょっと巻けない?」
「どうでしょう……一発撮りでいければなんとか。ですけど、リハの感じならまあ、形にはなるかと」
「そうねぇ……」
ふぅ、と紫煙を燻らせて、鏑木が天井を向く。
「アクアくんだっけ? かなちゃんが連れてきたあの」
突然に自らの名前が出てきて、アクアはびくりと身を震わせる。彼らの前に出ようと思っていた身を反射的に物陰に隠した。
好機だと思ったからだ。この鏑木という男から見た忖度のない自分への評価を、知ることができると考えたからだった。
「ま、あの役やるのとかほんと誰でもよかったんだけど……現物見ると思ったより見た目がいい。間に合わせにしちゃ、拾いもんかもしれんね」
斯くして放たれたそれは、まさに今の彼から見た星野アクアという人物に対する寸評だ。真っ先に出てくるのが外見のことになるあたり、我が母の言うところの「面食いおじさん」というのは誇張とは言えないかもしれないと思わされる。
ただいずれにせよ、とりあえずフックは掛けられている状態なのは確かであるらしい。外見のことしか見られていない部分に釈然としないところを覚えるが、そうは言ってもプラスはプラスだ。これから本番のなかで彼の記憶に残る何かを見せることと、打ち上げに呼ばれるようなことがあればしっかり絡みに行くことを忘れなければ、今回の仕事における第一の目的は果たせそうである。その点では、現在地としては悪くなかった。
「確かに、そうですね。……有馬さんには、感謝してもしきれませんよ。今回のこともそうですけど、難しいところあるキャスト宥めたりとか、進行の旗振りしてくれたりとか。細かいところ色々やってくれますし」
そして同時に、かなの評価をもアクアは耳にする。監督のいうその言葉に、アクアはこれまでこの現場の中で積み重ねてきたかなの懸命の努力を感じ取った。
あの子役時代から考えれば、どれほどの変貌であろうか。それでも確かに有馬かなという少女は人間的に成長を遂げていて、そんな彼女の頑張りを評価してくれる人がいるということが、アクアにとっては自分事のようにうれしかった。
こういう評価の積み重ねが次の仕事へとつながるのなら、彼女がまた表舞台に立つ日はそう遠くないかもしれないと、そんな期待すらもアクアは懐いた。
しかし、アクアのそんな能天気な未来への展望は、続いた鏑木の言葉によって、粉々に砕かれた。
「あぁ、まあそうねぇ。誰にでも尻尾振って、いい感じに現場まとめてくれるから、使い勝手いいんだよね、あの子」
思わず、耳を疑った。
――あの人とは、付き合いが長くてね。
――だから、鏑木さんには感謝してる。
ついさっきかなが口にした言葉が、昨日の打ち合わせの時に聞いたセリフが、脳裏に去来した。
「割かし雑に使っても文句つけて来ないし、フリーだからギャラも安い。ネームバリューもある」
軽薄な言葉だ。そして酷薄な声色だった。背筋が凍る思いがした。
「ま、あの子がどういうつもりかはわかんないけど。けど僕としちゃ、あんな感じで使い回せる役者ってのは、それはそれで美味しい。あれはあれで、いい拾いもんだったよ」
そう言って白けたような息を漏らす鏑木が、有馬かなのことをどう評価しているのか、どういう使い方をしようとしているのか、分からないアクアではない。
「……ま、演技のことで色々言ってくるあたり、まだ勘違いしてるみたいだけど」
鏑木勝也は、有馬かなに対して既に見切りをつけている。
そして彼はかなのことを、雑に使える便利屋として使い潰すつもりだ。代替品が見つかれば、ポイ捨てすることすらも厭わない、そういうスタンスにしか見えなかった。
彼らが、喫煙所から去ってゆく。休憩はほどなく終わり、本番が始まる。
今、この軒先の物陰には自分一人だけしかいない。ただ孤独の中、トタン屋根を打ち鳴らす雨だれの音が、ずっと響き続けている。
右手に痛みが走る。我に返ってそちらを見れば、アクアは気がつかぬうちに、その右の拳を強く強く握りしめていた。
「何だよ、それ」
声が漏れる。
確かに、この世の中において努力が、能力が期待した通りに評価されることなどそう多くない。「出世は運」という言葉だってあるほどに。
アイがあそこまでの躍進を遂げたことにしても、彼女自身の能力のほかに、いくつもの偶然が積み重なっているのだ。世の中そんなものだという諦念の情は、アクアの心のどこかに確かに存在している。
しかし、それでも、それでもなお、アクアは強く思っていた。
――それは、違うだろう。付き合いが長いというのなら、いろんな現場に使っているというのなら、せめてあなたは、あなたぐらいは、なぜ見てやらないのか。
お門違いの義憤かもしれない。かなにとってですら、余計なお節介であるかもしれない。
それでもアクアにとって、直向きに夢を求めるあの少女が、それほどまでの仕打ちを受けなければならないことは、あまりに納得がいかなかった。
そのせいで、幼い時に見えたあれほどの輝きがくすんでしまっているのなら、それは断じて捨て置くことなどできなかった。
故に、アクアは決断する。
そうだとも。自分とて、「端役のキャストにしては拾いもん」程度にしか思われていないのは、甚だ心外だ。
何故ならば、自分はアイの子供で、五反田監督の弟子なのだ。あの人たちの期待は、確かにこの肩にかかっている。矜持だってある。
これまで積み上げてきたものをその程度にしか評価されないなど、耐えられない。
だから決断した。もう、遠慮なんてしないと。
だってそうだろう? もともとこの仕事を受けた理由なんて、鏑木勝也という特定個人に覚えをめでたくしてもらうこと以外になかったし、それ以外のことに対して責任を負わねばならない立場でもない。
出てくれと頼んできたのはかなであって、この番組の制作陣でもない。遠慮をする理由など、もとから一つもありはしない。
この番組にキャストを送り込んでいる事務所の間に綱引きがあることぐらい、当然理解している。しかしそれに忖度してやる義理など、アクアにはない。
ならば、ついでだ。
自分のことを大々的に
あなたが散々こき使って、使い潰すことすら惜しくないと思っている
アクアの瞳の奥で、一番星の輝きが、一際強い光を放った。
雨の降り続く、暗く澱んだ廃倉庫の中で、本番が始まる。
シーン六、カット五十一、テイク一。このドラマ最大の見せ場、ストーカーと青野カナタとの対決の一幕。
これまで散々な演技と酷すぎるエピソード構成で、完全に失敗作の烙印を押されたこのドラマの中、それでもここだけは、脚本も構成も相当に原作に寄っている部分だ。
かなは、この場に乾坤一擲の覚悟で臨んでいた。そもそも地上波ほどの視聴者が得られるわけでもないネットオリジナルドラマで、四話までの間に視聴者の七割以上が離脱していて、それでもなお、この最終話の一幕だけは、ここだけは挽回の余地がある。
そのために、努力は惜しまなかった。奇跡とも言える再会だってあった。
アクアは、アクアのままだった。
またとない幸運なのだ。こんなこと、二度とあるかわからないほどの。だからこれはチャンスだ。ともすれば、最後かもしれないほどの。
だからこそ主演として、座長として、自分が責任を持って、このシーンを良いものにして見せる。そのきっかけは、アクアが作ってくれたのだから。
チェックの声が響く中、目を閉じる。深呼吸を一つした。
――腹をくくれ有馬かな。ともすればこれは、アンタの十年のもがきの成果であるとすら言えるのだから。
監督の掛け声。カメラの照明の眩さ。それを逆光に、掲げられるカチンコの影。
目を見開き、前を見つめる。表情を作り、いよいよその時が来る。
――さあ、来い。
「よーい、スタッ!」
カチンコが、鳴らされる。
そして――その瞬間、この空間の全てが、可視化できるほどの重さを帯びた。
まずは、一当てだ。本番のカチンコが鳴らされるや、アクアは本来の立ち位置よりも少しカメラ側に陣取る。
とはいえそれは、今回っているカメラからは死角の場所だ。ドラマという箱庭の中には、その存在は映らない。
しかし現場は違う。ここは地続きの世界だ。そしてアクアが今立っているのは、青野カナタ役の鳴嶋メルトの最初のバミリの場所からギリギリ見ることのできる位置だった。
アクアはリハーサルのなかで、メルトに対して仕込みをかけている。自らの振る舞いの中で不気味さを掻き立てるだけ掻き立てて、心理的圧迫によって彼の演技をぐらつかせていた。
その時与えたストレスは、まだきっと心の中に残っている。
ストーカー役として着させられている衣装の、パーカーのフードを少しだけ上げ、片目だけを照明に載せて、メルトを睨む。正面のライトの明るさで収縮しきった瞳孔は、それが動物としての生理作用であるにもかかわらず、目の前の人間の精神的な不安定さすら錯覚させて、メルトには映る。立ち姿も立ち位置も、その全てでアクアはメルトのことを刺激した。すべて本気で、プレッシャーをぶち当てた。
闇の中に浮かび上がった不気味なまでの影が、その中に光る狂気を帯びた瞳が、メルトを射貫く。
――そうすれば、ほら。
虚飾の仮面は完全に剥がれ落ちる。鳴嶋メルトの演技プランは崩壊する。まあ、演技プランといえるほどの高尚なものではないだろうが、それ故に彼には、もはや立て直しは利かない。
そしてそこから出てくるのは、「恐怖に震え、緊張し、余裕のない、素の鳴嶋メルト」だ。それは今回のキャストの割り振りの思想を考えるに、『最も期待される青野カナタ像に近い』。
そのあたりで、一度アクアは闇に隠れる。そこにいたはずの人影が見えなくなる。どこかに息遣いを感じるのに、見つけることができなくなる。
その緊迫感が、メルトの台詞に真剣味を生む。対するかなも、それに応えている。
どうして私に構うのと、放っておいてと、そう言いながら自らの手を振り払おうとする少女を必死に繋ぎ止めようとして、一人にさせるものかとそれでも手を伸ばす。
その覚悟と必死さが、確かに言葉に載る。ただの鳴嶋メルトの叫びでしかないそれも、今この瞬間においては間違いなく青野カナタの台詞として機能していた。
段取りは整えた。あとはそこに、自分の演技を載せていくだけだ。
入りの場所、最初の一歩だけを、本来の場所から外れた水溜まりの中に選ぶ。気持ち大きく、白熱する二人の言葉を遮るように、響かせる。
彼らがはっと顔を上げ、あたりを見渡しても、まだカメラの照明に隠れてアクアの影は見えない。そこからわざと数秒のタメを作って、注目を引くだけ引いて、「ストーカー」としてのアクアは一歩を踏み出した。
指定のバミリまでの到達秒数と、そこに必要な歩数と、それから割り出される足音を響かせる間隔と、そのすべてを計算する。緊張感が緩まないように、狂気を感じさせるように、寸毫の狂いなく計算した結果を、現実に出力する。
今まで散々にかけたプレッシャーの積み重ねで、メルトにとって今のアクアは実像以上に不気味なものとして映っている。あとはそれを、強引にこちらに『引き寄せて』やるだけだ。
立ち止まり、顔をのぞかせ、言葉を載せる。思い出したくない記憶、十数年前のあの日の玄関の中で見た男の妄執を、この場に再現する。引きずられたメルトの演技がさらに熱を帯びてゆく。打てば響くように。
やはり、素養はある。アクアはそう思った。基礎を知らず、無駄に凝り固まったプライドが邪魔をして、彼自身が持ってるはずの輝きは覆い隠されていた。だから今だけは、それを乱暴に引きずり出す。それによって、鳴嶋メルトを、青野カナタを輝かせるために。
ナイフを抜く。メルトに向けて放っていたプレッシャーを、視線ごと有馬かなにぶつける。相手は天才子役で、そしてきっと天才女優だ。向けられた重圧に表情が反応したのは一瞬で、故にそれ自体がカメラに捉えられはしない。
しかし身体に走った緊張は伝播する。硬直した身体が、その無意識的な動きが、視聴者には「空気」の形で伝わる。果たしてできた間隙に、抜いたナイフを走らせながら、アクアは飛び掛かった。
そしてその刃がヒロインの、かなの身体に突き立てられる寸前、アクアは横っ面からメルトに殴られる。
演技のようでいて、演技でない。事実、アクアの頬には本当にメルトの右の拳が当たっていた。当然だ。今のメルトは演技をしていないのだから。そうするように、アクアが仕向けたのだから。
そして
今日ここで、この現場に臨むかなの気持ちを聞いて、その上で自分が吐くべきその言葉を思う。
これは、かなにとってさえも等しく呪いの言葉であった。キャスティングに、悪意すら感じるほどの。このストーカーの役が自分に回ってこなかった世界において、それはどれだけの鋭さで彼女の胸を抉るのだろう。
役を通してかな自身にすら直接に届くその呪詛は、どれほどまでに彼女の心を踏み躙るのだろう。
同じ停滞の泥沼へ、失意の闇へ、夢も未来も諦めろと、「お前も俺と同じところに落ちてこい」と、身勝手な共感と羨望と憎悪を滲ませ、
しかしそれは今この瞬間、アクアにとっては紛れもなく、かなに対する祝詞だった。
深く深く潜って、暗い暗い闇を描く。沈み切った深淵のその先に、光が灯る。自らの背後で増光されたライティングが、照らされるかなの周囲に燐光すらも生み出した。
だから全ては、このたった一つのセリフのために。
退廃と陰惨に彩られた空間に、一点だけ示されたその希望を思って。
多層に折りたたまれた感情をひとつひとつ解いて、その根底に眠っていた言葉を探す。
有馬かなという少女の影が、「今日あま」の主人公の、リナとしての少女の像が、その瞬間、確かに重なる。
だから――ほら。
『それでも――それでも、光はあるから』
刹那、彼女の背後の空が晴れ上がり、その天頂から光を降らせた。
まるでそれは本当の、祝福であるかのように。
ネットドラマ「今日は甘口で」は、結局のところその染み付いた悪評を完全に覆すには至らなかった。
しかしいわゆる「クソドラマ愛好家」界隈や原作のコアなファン、それに出演者についている少数のファンが何とか脱落せずに視聴を続ける中で放映された最終話は、下がり切った評価を少しだけ上向かせるほどには好意的に受け止められた、らしい。
「これができるならなんで最初からやらなかった」とか「最終話の演出にだけ気合いを入れ過ぎて他の部分をすべて犠牲にした」とかとあることないこと書かれてはいたものの、最終的にこのドラマに対しては、「最終話以外は一秒たりとも見なくてよい」という何ともコメントの難しい評価が与えられることになる。
必然的に、最終話に出演した主演の鳴嶋メルトはその株を上げ、ついでにヒロインの有馬かなに関しても、一時期の「オワコン元子役」という散々な評価からは、多少持ち直すことになる。もっとも、このドラマの最終回について話題にしていた人々は世間全体の中ではかなり限られたものであって、マス層へのインパクトになったかと言えば、全くそんなことはなかったわけではあるが。
とにもかくにも、アクアにとっての久方ぶりの演技の仕事は、そういう形で幕を閉じた。そして撮了のあとは関係者一同で打ち上げを行うのが、この業界の習わしでもある。
最終話、ワンカットの飛び入りでしかないアクアとしては誘われるかどうか半信半疑ではあったが、そうは言ってもキャストの一人であるからと、招待される形で打ち上げの場に参列することになった。
貸し切りのバーラウンジの中、アクアは中学校の制服の、つまるところ詰襟姿でドリンクのグラスを持っている。
そしてその横に、一つの影が近づく。誰何するまでもない。言わずもがなかなだ。いつもとは違うドレス姿で着飾って、彼女はこの場にしっかりと溶け込んでいた。
「お疲れ、アクア」
そう言って、手に持つグラスを掲げる。当然のことながら、双方ともにノンアルコールだ。
「そっちこそ」
会釈がてらに、アクアも同じ仕草で返礼をする。
中央から外れた壁際の一角に、アクアとかなは隣り合うように陣取った。
「そういえばあのカットのとき、あんたメルトにマジ殴りされてたけど大丈夫だったの?」
そのまま少しだけグラスの中身を傾けてひと段落するや、早速といった様子でかなが口火を切る。話題は当然というか、あの最終話の撮影のことだ。
確かにあの時、かなに向かってナイフを握って飛び掛かったアクアの横面を、メルトの拳は捉えていた。
「ああ、あれね。あれは俺が仕向けたことだし大丈夫。殴る演技とか意外と難しいし、本気でやってもらわないと画的に浮くからな」
それに、と続きを口にする。
「あのカット終わった後、メルトから謝られてね。だいぶビビってたっぽくて。……意外といい奴だと思ったよ」
実際、殴られたことでできた腫れはそこまで大したものでもなく、その日のうちには引いたのだから、アクアとしてはダメージはないに等しい。
更に言えば、謝られたついでにアクアは鳴嶋メルトと連絡先を交換していた。しっかり話してみて、意外と好感の持てる人柄であると思ったからだ。そういう意味では、アクアとしては一つの余禄を得たとも言えた。
「そう。ならまあ、よかったけど」
表情を緩めて、かなは頷く。そしてアクアに向き直った姿勢のまま、その全身をじろりと一頻り見回してきた。
改めて向けられる目線にアクアが少しだけ居心地の悪さを感じたあたりで、かなが一言零す。
「けど……なんて言うか、こう見るとアクア、あんた中学生なのよね」
何とも感慨深げな響きを持ったセリフだった。
「……何だよ、今更」
「いやだって、そんな恰好してるから」
そう言って、かなはアクアを指差す。
「こんな格好」というその言葉の示す意味は、アクアとしても言われずとも分かった。
自分の身体に視線を落とし、詰襟の肩口を摘まんで、言葉を返す。
「まーな。フォーマルな場所全部に何も考えずに制服着てけるのは、中高生の特権だし」
「確かにね。けど、とはいってもある程度の稼ぎある役者は高校生でも自分で服持ってるものよ? 結局のところ私たち、見られる商売なんだから」
なるほど、一理ある話だ。その辺り、アクアがここ最近参加した撮影の打ち上げはすべて裏方の立場であった故に、これは視点の違いと言うものなのだろう。
「肝に銘じておくよ、先輩」
「ええ、そうしておきなさい、後輩」
そう言って、互いに笑い合う。あの日の撮影からこのかた、アクアとかなの間には、そういう気安い空気が流れるようになっていた。
ともに肩を並べて、あのろくでもない現場を一話だけでも戦い抜いて、最終的にどうにか結果を出した。その成功体験が、まるでアクアとかなとの間に戦友のような関係性を構築していたのだ。
最低でも、アクアとしてはそういう認識だった。かなのほうが実際のところどういう考えであるかは、アクアとしては知りようもないことであるが。
そのまま暫く他愛のない雑談――高校の合格通知が双子ともどもやってきて、ルビーが年甲斐もなく喜んでいたことであるとか――を交わしながら少しばかり時間を潰していたところに、一人の女性がやってくる。
栗色の髪をボブカットにして、丸眼鏡をかけた女性だ。「先生」、そう声をかけながら、かながアクアの傍から離れてそちらの方に早足で近づいてゆく。斯くてアクアは、その人物が誰であるかを理解した。
吉祥寺頼子女史。今回のドラマの原作に当たる少女漫画、「今日は甘口で」の原作者だ。
彼女の立場で考えれば、今回のドラマ化企画は完全なる事故にも等しいだろう。自分が生み出した子供にも等しい作品を、商業的思惑でいじくり回され、出てきたものの質がこれでは、本当のところこの打ち上げにだって出たいと思うか怪しい。というより、アクアは自らが吉祥寺女史の立場ならば、欠席することを割と現実的に考えるだろうとすらも思う。
それでも今、彼女はかなに対して穏やかな表情で語りかけている。今回のドラマ、成り立っていたのはあなたの尽力があってこそだったと。
世辞の部分も、あるにはあるだろう。しかしアクアが覗く吉祥寺女史の目には、嘘は見つからない。
だとするならば、それは酬いだ。それこそが酬いだ。かなが重ねてきた、この作品に対する誠意と努力への。
彼女にはそれを、受け取る資格がある。アクアはそのことを、そんな今のかなの後ろ姿を、自分事のように嬉しく感じていた。
――そして、もう一人。
「おお、アクア君。こんなところにいたんだね」
自らに向けて掛けられた男の声に、向き直る。
「いやぁ、助かったよ。最終回、結構評判でね」
スーツでしっかりと身なりを整え、人当たりの良い笑顔を浮かべながら、彼はこちらへと歩み寄ってくる。
「あ、はい。お疲れ様です、鏑木プロデューサー。申し訳ございません、こちらからご挨拶に伺わなければと思っていたのですが」
そうだ。これこそが、星野アクアにとっての、今回のメインターゲット。
アイの過去を知る人物。フリーランスのプロデューサー、鏑木勝也が、そこに立っていた。
「お? いや、いいんだよそんなことは。でも本当に助かったし、僕としても収穫だったよ」
上機嫌にも思える声だ。最低でも、あの廃倉庫の喫煙所でかなのことについて言い捨てるように口にしていた彼のあり方とは、まるで違う。
つまり、アクアは今回の現場を通して、この鏑木勝也という男にはいくらかポジティブな印象を与えることが出来てはいたのだろう。
どうにも裏表ありそうな人物故にどれほどの信頼を置けるかはわからないが、最低でも彼がこういう形で自らのことを認知しているという事実だけは、アクアとして評価すべきであることに違いはなかった。
鏑木は、なおも話を続ける。
「もともと収益についてはどうにもならないと思ってたからねぇ。だから始めっから投資案件だったんだけど、でもそれで君みたいな子を拾ってこれたんだから、トータルでは得したよ」
「それは、どうも。ですけど、それについては……」
「ん? あぁ、かなちゃんのことね? そうだね、あの子にもお礼しておかなきゃいけないねぇ、確かに」
そう言って、ちらりとアクアの背後、かなの方へと視線をやる。しかしそれも束の間、鏑木はもう一度アクアのことをまじまじと見てきた。
「そういえば、アクアくん。君の所属は苺プロだったよね?」
「ええ、そうです」
そうか、と頷いて、鏑木は目を細める。
「そうか、なるほど。アイくんは、元気にしているかい?」
そしていきなり放り投げられてきた『今回の狙い』に関する直球の問いが思いがけずにやってきて、アクアは自分の目が見開かれるのを自覚した。
「え、ええ。……そういえば、アイさんが言っていました。鏑木プロデューサーによろしくと」
「お? そりゃご丁寧に。しかしまあ、僕が彼女のお世話をしていたのは随分と前の話だからねぇ……」
無論、嘘だ。アイは今回のドラマ収録に当たって、「あの面食いおじさんめ」と謎の憤慨をアクアに対して向けていただけでしかない。ただこういうものは方便だ。言うだけ言って、悪い方向に転がることはないのだから。
事実、そこから鏑木の話は、アイを中心としたものに移っていく。
「しかし、そうか。どこか見覚えがあると思っていたんだよ、アクアくん」
そう言って、もう一度視線が合う。一つ頷いて、鏑木は口にした。
「君、昔のアイくんと、よく似ているんだ」
心臓が跳ねる錯覚を懐いた。どうしようもなく自分のことを、見透かされているように感じた。
必死でその情動を押し込める。そして、実感した。なるほどこれは、確かに情報を引き出すにはうってつけの相手であると。
ならば、ここからがアクアとしての勝負だ。笑顔を貼り付けて、言葉を返していく。
「そうですか。そう言ってもらえるのは、なんというか、有難いですね」
「ふぅん? 君、アイくんのファンってこと?」
「それは……まあ、事務所の大先輩ですし、稼ぎ頭ですし。そんな人と似ていると評価いただけるなら、頑張った甲斐があったというものでして」
なるほどね、と頷く鏑木に、畳みかけていく。
「あ、そうです。さっき鏑木さんが仰っていた、その『お世話した』というの、もう少し詳しくお伺いしても?」
「あぁ、そんなこと。そうだね……」
そして、ついに話題は核心に入る。
鏑木の話す、アイとの最初の接点は、アクアが直接アイ自身から聞いたものと同じだ。つまり、ファッションモデルとしての仲介である。
そこから始まった鏑木とアイの関係は、単なるアイドルと業界人とのそれから、一歩踏み込んだ所にまで広がったという。
営業先の紹介に始まり、鏑木自身の持つパイプの融通に、果ては
それを聞いた瞬間、アクアは悟った。
――これは、逃してはならない。
いや、そもそも今、鏑木は男の『子』と口にした。ならばそれは、その時点でヒントだ。
ならばこの鏑木という男は、いきなりことの核心に迫れる情報を、握っている可能性が高い。
「今の、お話。アイさんが、事務所に隠れて会っていた人のこと、詳しくご存じですか?」
ん、と鏑木の片眉が上げられる。
「なに、そんなことが知りたいのかい? 身内のゴシップ拾って、どうするつもり?」
「いえ、その。……アイさんがどういう人生を送ってきたのか、興味があって。決して疚しいことに使うつもりはないです。同じ事務所ですし、尊敬している先輩ですし。そういうことは、絶対」
それは、一つとして嘘ではない。自信を持って断言して、この自分より少しだけ背の高い男の顔を見上げる。
しばしの沈黙が場を支配したのち、鏑木は目を瞑った。
「なるほどね。まあ、信じよう。アイくんのね……。わかった、教えてあげてもいいよ」
「本当、ですか」
「ただし」
そう言って目を見開き、鏑木はアクアに掌を向ける。
「バーターだ。僕の提案を、一つ呑んでもらいたい。いいかな?」
果たしてその日、アクアと鏑木の間に、一つの約束が結ばれた。
今話で今日あまにケリつけるためにとんでもなく長くなってしまいました。