「今日は甘口で」の収録から二か月余りが経ち、アクアとルビーは無事、陽東高校の芸能科へと入学を果たした。
芸能科というその名前に恥じることなく、クラスメイトとなる子たちの容姿のレベルは高い。いや、容姿というよりも、立ち居振る舞いかもしれない。
他人に対し、自分のことをよく見せる。そのありかたを、もはや無意識レベルに叩き込まれた者達の集まりが、すなわちこのクラスだ。そういう意味では、役者として「再入学」を果たしたばかりのアクアも、それ未満の「アイドルに夢見る少女」でしかないルビーも、どちらかと言えばその感性は一般人に近いのではないかと思わされる。
とはいえ、ルビーはあれで天性の愛嬌を持っている。おそらくは彼女の「以前の誰か」か、あるいは母親であるアイ譲りの。それが幸いしたか、彼女はあっという間に隣の席の女の子と打ち解けて、仲良くなっていた。
名前は「寿みなみ」、キャノンファイア所属のグラビアアイドルらしい。アクアは吾郎の時代からそちらの方向には疎いもので彼女の活動実績についてはあまりよく知らなかったが、どうにも最近ミドジャンの表紙を飾ったこともあるそうで、つまるところなかなかの大物とも言えるだろう。そんな子ともあっさり仲良くなってみせた我が妹の様子に、これならば彼女がこのクラスで肩身の狭い思いをすることはなかろうと、アクアは内心で安堵した。
もっとも、そんなルビーがアクアの方にも友達ができたかどうか頻りに気にして、挙句の果てにはもののついでとみなみに対してアクアのことを「友達のおすそわけ」などと紹介し始めたあたりでは、どうにも辟易とさせられたものだが。
ただ、これについては仕方がない面もあるのだ。アクアはそう、半ば諦め交じりの納得もしていた。なぜならば、そもそも精神の成熟度の問題もあって幼稚園の中ですら積極的に交友関係を広げようとは思っていなかったアクアが、あの事件で休園して以降完全に同世代の交友関係を構築しなくなったことを、ルビーはずっと気にしていたのだから。
アクア自身の話をすれば、五反田監督経由で業界の中に複数の知り合いを作っている今、そこまで自分のことを孤独な人間だとは思っていなかった。とはいえそれはあくまでアクアの自己認識でしかなく、ルビーから見たアクアは確かに完全なる一匹狼だ。平たく言えば「ぼっち」である。
それを気にしてのことだったのだろうか、ルビーは小学校の間、やたらと自分の友達――当然のことながら全員女の子だ――をアクアに紹介してきた。それこそ、学年が変わってクラス替えが起こるたびにである。
アクアとしても、正面きったルビーからの紹介は断りづらい。必然的に、アクアの小学校における付き合いというのは女子に集中することになった。
つまるところルビーのこれは、その頃の振る舞いの完全なる延長線上に存在している。ならばそれを無下にする選択は、アクアにはない。
故にこの、神奈川出身であるのにも拘らず曰くの「ノリ」でなかなか堂に入っている関西弁を操る少々個性的な少女とも、アクアはとりあえず挨拶を交わす程度の仲にはなっていた。
それ以外で特筆すべき点と言えば、同じ学年、同じクラスに「不知火フリル」がいたことだろうか。
一年生ということもあり、どちらかと言えば「芸能人の卵」の多い芸能科クラスの中の、本物の芸能人で、かつ有名人だ。清純派を以て鳴らす、「国民的美少女」の美名でお茶の間を騒がせるマルチタレントであり、そういう意味では現在のアイと路線としては近しいところがあるかもしれない。アクアの記憶が正しければ、バラエティ番組で確かアイとの共演経験もあったはずだ。
その姿を見てルビーが完全なファンガールと化していたところがアクアにとっては何とも頭が痛く、しかしそれ以上にびっくりさせられたのは、その不知火フリルがアクアのことを認知しているという事実だった。
どういう経緯でそうなったのかはいまいちよくわからないが、どうやら彼女はあの黒歴史級クソドラマであるところの「今日は甘口で」を見たらしい。世評の促す通り、最終話だけを、ではあったが。
それで、あの時の単なるストーカー役であるアクアに興味を持ったと、そう彼女は言った。「あれ、よかった」と。どういう風の吹き回しかアクアとしては首をひねるばかりだが、ただあの不知火フリルともあろう者が、役者としてひよっこ未満でしかない現状のアクアに対して世辞を言う必要もないであろうし、事実ではあるのだろう。
そしてそこからの流れで、アクアは自らの妹を不知火フリルに紹介することになったのだが――そこで、問題が起こった。
アクアにとってというよりは、ルビーにとってではあったのだが。
「ママぁー! ミヤえもーん! 助けてぇー!」
その日の夕方、ルビーは自宅ではなく、斉藤夫妻の家――というより、苺プロの事務所へと駆け込んだ。アクアも引きずられるようにして、彼女に付き添っている。
丁度そのタイミングでは、ミヤコ夫人とアイの二人が事務所に詰めていた。恐らく何らかの打ち合わせのためであろう。
ちなみに、壱護社長はいない。と言うより、アクアが事務所に足を運ぶときは、何故か壱護社長は事務所を外していることがほとんどだった。
なんでも、アイに加えて元B小町のうち苺プロへの残留を決めた面々の営業のために、業界の関係者への売り込みや打ち合せを精力的にこなしているからだというが、それにしてもここまで顔を合わせる機会がないというのは不思議なものである。
そう言えば、ルビーもそんなことを言っていたな、とアクアは思い出す。すなわち最近、壱護社長とまともに面と向かって会話しているのは、星野一家という括りではアイぐらいなものだった。
何か釈然としないところがあるのは確かだが、ただ実際問題として壱護社長が多忙の身であることは本当らしい。そういうわけで、現在苺プロ所属タレントのプロデュース業務は主にミヤコ夫人が担当している。
必然的に、アクアにせよルビーにせよ、苺プロの中で最も接点の多い相手はミヤコ夫人となっていた。
「おいルビー、二人の邪魔しちゃだめだろ」
「いや、別にいいよーアクア。ほらルビー、おいでおいで」
ともかく、仕事中の二人の邪魔はよろしくないだろうと窘めるべくアクアは声をかけて、しかし当のアイの方がそう言ってルビーのことを腕の中に迎え入れる。
進学したばかりとは言え、高校生になった娘の在り方として、あれはいいのだろうか。そう思わないでもなかったが、まあアイにせよルビーにせよ、本人同士が満足しているのであれば別にいいのかもしれないと思い直す。あれはあれで、幸せなことなのだろうと。
部屋に乱入した時の半泣きの顔はどこへ行ったのか、至福の表情で母の腕に抱かれているルビーのある種の現金さに大きなため息をついて、アクアは二人に対して経緯を説明すべく口を開いた。
「ミヤコさん。そろそろルビーの計画、進めていきたいという話なんですが」
ルビーの計画……というより、正確には「ルビーのアイドルデビュー計画」だ。
「ええ。高校入学を区切りに……という話だったわよね。それは、大丈夫だけど……どうしたの?」
「えっとですね……」
当然向けられた疑問に、アクアが答える。
ホームルーム終了の直後、不知火フリルから話しかけられたアクアは、自らに加えて妹のことを彼女に紹介しようとした。まあ、家族のことだから当然と言えば当然である。
そしてその時に、ルビーは自らの隣にこのクラスで初めてできた友達であるところの寿みなみを伴っていたわけだが、自己紹介を進めていく中で、ルビーは自分だけ何一つ芸能界における実績はおろかろくな活動実態すらないことに、強烈な劣等感と危機感を覚えた――のだという。
特にフリルに思いっきり気遣われてしまったことが、甚くルビーの心に刺さったようだ。「このままじゃいじめられる」とか、愚にもつかないことを言って嘆いてみせていた。
「まあ、僕としてはおいおいでいいとは思うんですけどね。でも、ルビーの精神衛生的に……」
「なるほど、ね……」
頬に手を当てて、ミヤコ夫人が悩ましげな表情をする。
なんというか、アクアが世に生まれ落ちてそろそろ十六年、ミヤコ夫人も四十路に差し掛かろうというほどなのに、彼女はいつまでも若々しい。もっとも、その隣にいるアイに至ってはそもそもまともに歳を取っているのかすら怪しいレベルの外見を保ち続けているので、なぜか釣り合いはとれているのだが。何とも恐ろしい事務所である。
とまあ、そんな益体もない考えが頭の中に浮かんだあたりで、ミヤコ夫人が答えを発した。
「まあ、始めようと思えばいつでも始められはするのだけど……」
そう言って、ミヤコ夫人が目配せする。その視線の向く先は、ルビー……ではなく、彼女を腕に抱いたままのアイだ。
見られていることを察したか、アイが顔を上げる。
「苺プロでアイドルやるーってことは、
言いながら、お腹のあたりに頭をぐりぐりと押し付けているルビーの方に目をやる。その金糸の髪を撫でながら、彼女は続きを口にした。
「だから、『これでいいやー』って風には、決めたくないんだよねぇ」
その目には、真剣な光が宿っている。
つまり、アイはルビーと一緒にユニットを組む相手に関して、一切の妥協を許すつもりはないらしい。
地下アイドルのような路上スカウトなどもっての外だし、生半可なオーディションなど許せない。そういうことである。
「となると、かなり大掛かりなオーディションを計画しないといけなくて。一応、B小町の知名度のこともあってウチとしてはそういうことをできないわけでもないんだけど……」
ミヤコ夫人がそこまで言ったあたりで、アクアは察した。
「時間も金もかかる。と、いうことですか」
「そう。あともしそれをやるなら、ルビーちゃんにも頑張ってもらわないといけないから……」
「ああ……」
皆まで言う必要はない。アクアは完全に理解した。
何を頑張ってもらわないといけないのかと言うと、単刀直入に言えば、「歌」である。
ルビーは、率直に言って音痴だ。
なぜそうなのかは全く分からない。アイは当然抜群の歌唱力を持っているし、アクアも人並み以上に歌う能力はある。音響の勉強をしたついでにピアノ演奏をほんの少しだけ齧ったことで、音感が鍛えられた面は確かにあるのだが、それにしてもである。
つまり、星野家のなかにおいてルビーだけが歌唱力に問題を抱えている。アイの手によって呼吸法をはじめとするボイストレーニングの類は施されていて、その分かなりマシになってはいるのだが、それでもどうにも音感が今二つほどであるのと、音を当てるための声帯の絞りの調整があまりうまくできないのが、ルビーの現状における大きな課題となっていた。
大規模オーディションによって集められた選りすぐりのアイドル候補生は、それ故に歌も踊りも、ルックスにしても、高水準で纏まっている。というより、そういう子をオーディションで選ぶことになる。
その中で、確かに身贔屓で見ずとも抜群のルックスを持って、ダンスもかなりこなせるとはいえ、あのどうしようもない歌唱力のルビーをセンターに据えようとすると、そこの部分で見劣りしてしまう。それでは意味がない。
だからそういう規模のオーディションを実施するのであれば、それに並行してルビーの歌唱力矯正を本腰入れて始める必要が出てくるのだ。
そして現状、苺プロにそのあたりの計画は存在していない。
「なるほど、確かに一朝一夕でどうにか、というのは厳しいですね」
アクアはミヤコ夫人の言い分に、流石に頷かざるを得なかった。
ただ、同時にアクアは思う。
ルビーにとって、時間は有限なのだ。アイを追って、アイと並んで、いずれアイを超えてゆきたいとすら願う彼女にとって、一日一日の重さとは相当なものだ。
まあ、本当にアイを超えたいならそろそろまともに歌の練習をしろというド正論はあるとはいえ、準備に万全を期すことをあまり考えすぎると、石橋をたたき割るというか、角を矯めて牛を殺すような結果にすらなりかねない。
となると、選択肢は限られる。
「なら……僕とルビーで、『これは』と思った子を引っ張ってくるなら、どうでしょう?」
「……あなたが、スカウトマンをやるってこと?」
「まあ、そういうことになります」
そう言って頷いたアクアに、しかし横から言葉が飛んでくる。
「え? アクアがスカウトさんやるんだ?」
アイだ。アクアは横を向く。
輝く瞳と、目が合う。そういえば最近、ここまで真正面からアイの双眸と向き合うことはあまり多くなかったと、そんなことを思い出す。
「ルビーも、だけど。ルビーが仲良くやれそうで、俺が大丈夫そうだって思う相手なら、納得できるかなって。母さんも、ミヤコさんも」
アクアのその言葉に、ルビーもまた顔を上げる。アイの身体には抱き着いたまま、視線だけがこちらを向いた。
そしてそんなルビーの頭を撫でたまま、アイが小さく笑む。
「なるほどねぇ。……というか、だけどさ」
そこで言葉を切って、アイは人差し指をアクアに向けてきた。
「アクア、実はそれ、もう紹介したい子いるんじゃないの?」
にんまりと笑んで、瞳がのぞき込まれる。
心すら見透かされたような錯覚を懐いた。それは嘘を許さない、天性の
――ああ、これは敵わない。
直感的に思わされて、アクアは両手を挙げていた。
「……ま、わかるよな、母さんには」
「そりゃまあ、アクアのことだから」
ふふーん、と得意げに言いながら、アイの笑みが悪戯なそれに変わる。
「なんなら、いまアクアが呼びたい子が誰かも、わかっちゃうかも」
「……勘弁してくれ」
本当に、敵わない。何もかも見透かされた今のアクアには、ただバツが悪そうに頭を掻く以外、できることは何もなかった。
ともあれ、その日アクアが掲げた方針はアイとミヤコ夫人の承認の上で進められることが決まった。
そして明くる日のこと、アクアはルビーとともに、その対象である一人の少女を学校近くの公園へと呼び出していた。
まあ、そこまで勿体付ける必要もない。
「で? 呼ばれたから来たけど……」
つまりそれは、有馬かなのことである。
「メッセージ見たから知ってるけど、ほんとにアンタだけじゃなくて妹もいるのね」
「ああ。正直なところ、これはルビーに関係する話だからな」
そう言って一呼吸置く。一度目を閉じ、そして開いた。
かなの瞳をまっすぐに見据えて、アクアは言い切る。
「単刀直入に言う。かな、君のことを、苺プロに迎え入れたいと思う。で、ルビーと一緒にアイドルをやってほしい」
直後、辺りには静寂が訪れる。
かなが、その目をぱちくりとさせた。
「ちょ……っと待って。待って」
手の平をアクアの方に向けて、かなが絞り出したような言葉を発する。
「アンタその……正気?」
「冗談で言っているように見えるか?」
間髪入れずに返したアクアに、かながのけぞる。
「いや、えと、その」
「今、苺プロでは十年ぶりに、アイドルプロデュース業を復活させようとしている。当然、アイの後継としてだ」
「いや、だから」
「ルビーはもともとアイドル志望だったから、まあ社長権限みたいな形でこのプロジェクトの創立メンバーになってるんだけど……できれば早いうちにメンバーを揃えたいらしい」
「あの、話……」
「スカウトにはリスクがある。オーディションは手間も金も時間もかかる。だから俺がルビーと一緒に、『この人なら』っていう子を直接誘うことになった。その一人目が、君だ」
待ってほしいとかなはアクアに請うているが、こういうものは勢いが大事なのだ。無論、勢いで完全に押し切って判を押させる詐欺じみた所業に手を染めるつもりはないが、インパクトを与えるという意味では最初のインプットは一気に畳みかけるほうが効果的だ。
果たしてかなはアクアの気迫に完全に押され、一歩ずつ後ずさってゆく。
そしてそのたびにアクアが一歩ずつ前に迫っていった結果、最終的には公園のベンチに腰を下ろしたかなを、その真正面でアクアが見下ろす構図になっていた。
「待って。待って。本当に待って。……つまり私は、アクアからしたら、アイドルやれるタマだと見えてるってわけ?」
「じゃなきゃ誘ってない」
これは本心だ。そしてそれは、ルビーも同意するところだった。
彼女曰く、特にかなの背格好と、その童女のようなあどけなさが同居した顔立ちは、一定層の熱狂的なファンを必ず惹きつけるものらしい。
アイのファンではあったものの、最低でも自己認識としてはアイドルオタクではなかったアクアからすればそのあたりはよくわからない感覚だが、まあルビーが言うならそうなのだろう。
腰を下ろし、片膝立ちになって、アクアはかなと視線を合わせる。
「君も自分で言ってただろう。『自分の顔は、鏑木Pから仕事を貰えるぐらいには整ってる』って。俺もそうだと思う。最低でもあの『今日あま』の現場で、君の外見はあのモデル連中に全く引けを取ってなかった。というか俺としては、水準としては君の方が上だと思った」
直截的な物言いだ。かなの頬に朱が差す。照れているのか。まあ、ここまで明け透けな誉め言葉を聞けば、照れもするだろうか。
「その、それは……ありがと」
「しかも今の君はフリーだ。のくせに知名度もある。俺からすれば、君は絶対に押さえたい優良物件なんだよ。一緒に演技して、実感したことだ」
アクアの口は、ただ真実を語っている。こういう場に、虚飾など不要だからだ。
「今の俺達には、ルビーには、君の力が必要だ。君としても、苺プロ所属になることのメリットはあると思う。女優業の斡旋も、まあ社長次第だけど、できると思うから」
そうだ。アクアの勧誘にはそういう意味も含まれている。
鏑木が言っていた。「今のかなちゃんは、フリーだから知名度のわりにギャラが安い」と。
今のかなの立場は弱い。鏑木相手でなくとも、容易く使い潰されてしまう可能性は常について回っている。
アクアとしては、そんなことは我慢ならなかった。今も夢を追い続けている有馬かなという少女の可能性を、摘んでしまいたくなかったから。
アイの、B小町の後継アイドルユニットの一人として芸能界における商業的価値を高めることができれば、それはかなの再度の飛躍の原動力には、必ずなる。彼女の奮闘が、報われるようにできるのだ。
賭けではあるかもしれない。それでも決して、分の悪い賭けとは思っていなかった。
「ルビー、お前からも頼め。お前のユニットなんだから」
当然、かなにしてもその程度のそろばんは弾いているはずだ。冷静に考えれば、この提案はかなにとってはメリットしかない。
それでも、女優からアイドル兼業女優への転身という決断は、確かに一大決心に相違ない。
故にアクアはルビーに水を向ける。最後にものをいうのは、いつだって誠意だ。
当事者であるルビーが、膝を突き合わせて、直接にかなに頭を下げる。そういう在り方こそが最後に人の心を動かすのだということを、アクアはこれまでのあらゆる経験の中で実感していた。
ルビーが頷く。そしてベンチに呆然と腰を下ろしているかなの隣に、同じように座った。
息を吸って、目を閉じる。
そして再びそれが開かれたとき、空気が変わった。
「えっと、その……『有馬かなさん』」
目線に誠意を宿す。本気の意志が言葉へと載る。
故に、名前を呼ばれたその瞬間、かなは弾かれたようにルビーを見た。
紅玉の瞳が瞬く。思いが形を持って世界に現れたような、そんな錯覚すらも呼び起された。
横顔を見たアクアからしてもそうなのだ。正面からその姿を見たかなの衝撃は、どれほどか。
「私と一緒に、アイドル、やってください。……お願いします」
正面からかなの姿を視界に捉えて、ルビーはそう、単刀直入に口にした。
それを受けたかなが、息を呑む。それはきっと、ルビーから発される強烈な存在感に、圧されたからなのだろう。
――たしかに、これは天賦の才だ。
アクアは思わずにはいられない。アイの娘だからなのか、それとも別の要因があるかは分からずとも、自らの言葉に、存在に、これほどの説得力を持たせることのできる「星野ルビー」という女の子は、間違いなくアイドルになるために生まれてきたような人間なのだろう。
彼女の願い、「アイを超えて見せる」という夢も、もしかしたらルビーなら、叶えられるのかもしれない。アクアは今目の前に広がっている光景を見て、そんなことを考える。
そして、斯くも強く、透徹した意志の力をぶつけられた有馬かなという少女が一つの結論を出すまで、そこまで時間はかからなかった。
「これで、あなたは苺プロ所属ということになります。これから、よろしくお願いしますね」
所は変わって苺プロの事務所の中、無事にかなの確保に成功したアクアとルビーは彼女のことを事務所へと誘い、そのまま流れるように、有馬かなと苺プロとの専属マネジメント契約は締結された。
机に置かれた契約書と誓約書の一式は、その証だ。
ミヤコ夫人がそう言いつつ事務所側保管の契約書を回収した側で、かなは何とも複雑な表情を浮かべていた。
「そう、そうなのよね。これで私は苺プロ所属。……アイドル、アイドルねぇ……」
今更ながらに出てきた現実感に、少し気分がナーバスになっているということだろうか。
致し方のないことではある。環境の急変に対して精神的ストレスを抱えるのは、何も人間だけの話ではない。動物だってそうだ。それは本能にも近い心理的働きで、理性で押さえることは難しい。
ならばそれに対してケアをするのは、彼女のことを引っ張りこんだアクアの役割だ。義務と言ってもいい。
契約処理が終わったことで席の空いた、かなの座るソファの横へと、腰を落ち着ける。
「お疲れ。……ありがとうな、かな」
努めて声を和らげるようにして、アクアはかなに言葉をかける。顔が上げられ、目が合った。
「大変な決断だったとは思う。けど、後悔はさせない。絶対に。『アイの後継』っていう武器を持ってる
噛んで含めるように、道理を説く。これまでフリーでずっと活動してきて、損得勘定という意味では常にシビアな決断を迫られ続けてきたかなという人間に対しては、それが最も効果的だとアクアは考えていたからだ。
果たして、かなの瞳の中に見える不安を内包した揺れが、少しずつ収まっていく。
「最終的な判断は社長になるだろうけど、多分君たちのユニットを売り出す時は、対外的には『アイがプロデュースするアイドルユニット』としてアピールすることになると思う」
正確には、これは壱護社長の発案だ。故に苺プロのアイドル再始動プロジェクトが、そういう立て付けで行われるのは実質的には確定事項となっている。
やはりマーケティングという意味では、彼の手腕は、あるいは才覚は図抜けたものがある。アイという絶対的才能があったとはいえ、伊達に地下上がりのアイドルユニットを天下一にまで押し上げたわけではないのだ。
かなの目が、小さく見開かれる。あのアイが、と微かに呟く声が聞こえた。
「アイのおかげで、ウチの事務所はそこそこいろんな場所にコネがある。アイのプロデュースするユニットという大義名分があれば、バーターだって利く。女優という面でも、俺たちは君のことをサポートできる」
それを聞いて、かなの目に俄かに力が籠る。
不安で茫洋としていた彼女の気配に、一本の筋が入った。背筋も、伸びてきた。それをアクアは察する。
「そっか。……たしかに、そうよね」
故にアクアは力強く、かなに頷いて見せた。
「君の夢は、俺の夢でもある。みんなの夢でもある。
そして右手を差し出す。これは仕上げだ。かなをその気にさせるための。
しかし同時に、一片の嘘偽りもない、アクアの本心でもあった。
「一緒に夢を見よう。改めてよろしく、かな」
数瞬の沈黙ののちに、かなの右手もおずおずと伸ばされて、そして握られる。
「――ええ、よろしく、アクア」
そう言ったかなの顔は、確かな希望の光を裡に宿しているように、アクアには思えた。
うちの兄は、とんだタラシだ。女の敵だ。
「監督のところに行ってくる」と手を振って、この事務所から去っていくアクアの姿を見て、ルビーは改めてそれを認識した。
今しがた、自分の目の前のソファーの上で繰り広げられていたやり取りを思い出す。
アクアは、あれで全て本気なのだ。下心などなく、この「元天才子役」の、かなの成功を本気で願って、応援している。
本気だから、そこにはなんの遠慮もない。腰が引けたところもない。真っ直ぐに言葉がぶつけられる。
――お兄ちゃんは、もう少し自分の顔面と言葉の暴力について考えるべきだと思うんだ。
これまでの人生の中で、ルビーは自らの兄に対して何度そう言おうと真剣に悩んだか、もはや思い出せない。
小学校の時も中学校の時も、ああいう性質はずっと変わらなかったアクアは常に常に女子から人気で、しかしアクアの方には全くその気がないものだから、涙を呑んだ子の数は数えきれないほどだ。
そして今、かながその毒牙に見事にかかっていた。
アクアが事務所から出て行ったあとも、かなはずっと自分の右手に目を落としている。
ついさっき、アクアと握手を交わしていた右手だ。言葉もなく、身動ぎすらもなく、ぼーっと右手ばかり見て、きっと思考は上の空だろう。
あーあ、と思わずにはいられない。ルビーは居た堪れなくなって、ソファーの向こう、かなの正面に立った。
「せんぱーい。かなせんぱーい」
声をかける。そうすれば意外にも、かなはすぐに反応した。
「ん。なによ」
「いや、ずっとぼーっとしてたから。帰らなくていいの?」
あぁ、と声が漏れるのを聞いた。
自分が随分とこの場所でぼーっとしていたことに、かなはようやっと自覚がいったらしい。
「そうね。うん……」
しかし彼女はそう言ったきり、また黙り込む。
ダメだ、これは重症だ。取り返しがつかなくなる前に、この先輩のことを引き戻さなければ。
ルビーは思って、今度こそアクアのあの「悪癖」について言葉にしようとした。しかしその寸前、かなの方から声がかけられた。
「そうだ。ルビー、あなたアクアがこの間の撮影のあと、何か別の仕事もらったかとか知ってる?」
唐突な問いに、ルビーの思考がリセットされる。見れば、いつの間にかかなの表情は真剣味を帯びていた。
流石は元天才子役ということか。そんな、かなが聞いたら失礼極まりなくて怒りそうなことを考えながら、ルビーは問い返す。
「え? どゆこと?」
「いやほら、あの前の現場で今のアクアも結構すごかったから。アイツの仕事とか見て、盗めるところは盗まないとって思って」
言い訳という感じでもない。つまりこの瞬間、かなは自らの意識を切り替えて、女優としての自分を確立させてルビーに問いを投げかけているらしい。
「なるほどねぇ。女優さんだぁ」
「そりゃそうよ。私は女優。最低でも、ずっとそのつもりでいるわ」
なるほど、とルビーは思う。ならば、これはある種渡りに船かもしれない。今アクアが受けている仕事について紹介してやれば、かなも多少はアクアの現実を認識するに違いない。
「お兄ちゃんの仕事ね。あるにはあるよ」
そう言いつつ、ルビーは事務所の机に置かれているノートパソコンを一台取り出して、かなの机の前に置いた。
そしてそれを開き、一つのページを開く。
「『これ』、なんだけど」
そこに映ったものを見て、かなの目が大きく見開かれた。
「は? え、なにこれ……」
映し出されているのは、アクアを含めた六人の男女が一堂に集まる姿。
そして中央に据えられた題字は――『今からガチ恋始めます』。
アクアの今やっている仕事とは、つまり