「そう言えばさぁ」
「今ガチ」の収録も軌道に乗り、流れとして中盤に差し掛かったあたりの頃のことだ。自宅のリビングの中で、ルビーがアクアにそう語りかけてきた。
この場にいるのは、二人きりだ。平日ということもあって、アイはまだ帰っていない。
「ん?」
「いや、えっとさ」
そこで言葉を切って、ルビーが視線を宙に彷徨わせる。しかしすぐに意を決したように、もう一度アクアに目線を合わせた。
「私の、アイドルのやつ!」
そう言って、人差し指をアクアに向ける。
「人のこと指さすのはやめとけ。行儀悪いぞ」
「あ、ごめん……じゃなくて!」
アクアの指摘に一瞬だけ怯んで、しかしルビーは主張した。
「メンバー集め、どうなってんの!? 先輩だけ呼んで、終わりになっちゃってんじゃん! もう二か月経つよ!?」
ああ、とアクアは納得する。
無論、アクアとして忘れたわけではなかった。一応、陽東高校の中は一般科も含めて多少の物色はしていたのだ。当然、今ガチの収録が始まってからもである。
「それなぁ……うん、悪いとは思ってる」
「悪いって……!」
「でも、仕方ない面もあるんだぞ」
そう言って、アクアは事情をルビーに説いた。
陽東高校の芸能科は、原則芸能プロダクションへの所属が入学の必須要件である。というか、募集要項においては「芸能プロダクション所属であること」がまず掲げられている。それが身分証明になるからだ。
そういう意味では、有馬かなの存在とはかなり稀有だったのだ。おそらくセルフプロデュースを行うためか、あるいは子役時代に稼いだ財産の管理のために法人でも立ち上げていたのだろう。そこに自身を所属させることで、入学要件を満たした。それぐらいしか考えられない。
もっとも、そのあたりの契約はミヤコ夫人に一任しているゆえにアクアとしては詳しくは知らないが、ともかくかなのようなフリーランスは基本的にあの学校の芸能科にはいない。
「他所のプロダクションにいる子を公然と引き抜きとかできるわけないんだよ。お前の友達の、寿さん? あの人も、だから無理だ」
そして一般科の方を見てみても、そもそも彼らは芸能科の人間とは文字通り住む世界が違う。中高一貫ということもあってあちらはあちらで世界を構築していて、例えばルビーがいきなり乗り込んでいっても上手くいくビジョンがまるで見えない。
「だから、最低でも高校の中で探すのは、かなり難しい。とりあえずここふた月ぐらい色々当たってみたけど、まあそうとしか言えないな」
「でもぉ……」
とまあ、アクアとしては理を説いたわけであるが、当然にそれで納得するルビーではない。
なぜなら、これは夢だからだ。夢を抱く心というのは、理屈ではない。アクアとしてもそれに対して理解はしていた。
そしてそれ故に、アクアはもともと今暫く隠していようと思ったことを、ルビーに話すことにした。
「……まあでも、可能性がないわけじゃない」
「ほんと!?」
言った瞬間、ルビーががばりと顔を上げて、アクアににじり寄る。
すごい圧だ。それぐらいの熱意をもって自分もメンバーを探せばいいものをと思わないでもなかったが、なんだかんだとアクアはルビーに甘い。
「ミヤコさんには内緒だぞ? まだ可能性レベルでしかないから。母さんには……まあ隠しててもバレるんだけど」
そう前置いて、アクアは自らが見繕ったその『候補』のことを、話し始めた。
「今ガチ」も中盤に差し掛かって、概ね番組としての構図は安定化しつつある。
やはりというか、アクアの推測通り、今の番組の核を構成しているのは、鷲見ゆきと熊野ノブユキのカップリングーー通称「ゆきユキ」だ。あの「今ガチやめたい」事件から自分のことを話題の中心として見事に売りこんでみせたゆきは、そのまま流れるように番組の中央に陣取り、盤面全体を制圧した。
ある意味最も真っ当な姿勢で今回のリアリティーショーに臨んでいるのがこの鷲見ゆきという人間だ。今回の番組を足掛かりに、芸能界においてステップアップを果たす。キャストをブッキングした鏑木の期待に最もよく応えているのが、彼女だと言えよう。
更に、そんなゆきとノブユキの関係に嫉妬心を見せつつも絡んでいこうとするケンゴという三角関係を構築できたことで、今期の「今ガチ」はその評価を確立した。もともと結構な潜在視聴者を抱えているこの番組は、しかし視聴者数としても評価としても、今期が歴代の中で最も盛り上がりを見せているという。
一方、残りの三人はどうなっているかと言えば、アクアはその初回こそゆきにある種「粉をかけられた」状態であったものの、しかしそんなゆきを中心とする恋愛模様からは一歩距離を置いていた。
代わりによく絡んでいるのが、MEMちょである。
MEMちょは、肩書きとしてはYouTuberだ。故に彼女は動画の撮影や編集という一連の技術を持っている。つまり、役者兼映像監督見習いというある種共通する肩書きを持ったアクアとしては、交流を重ねることについて視聴者への説得力があるのだ。
よって互いに、MEMちょは自分のYouTubeのための動画を、そしてアクアは自身の「映像監督見習い」という肩書をフル活用すべく、演出の一環として番組のスタッフに提供するためのプライベートショットをスマホや時には本格的な撮影機材を使って撮りつつも、二人であるある話や苦労話に花を咲かせて、少しずつ歩み寄っていく――という筋書きを、アクアはMEMちょと共謀して作り出していた。
これはこれで、ネットのウケがいい。「アクMEM」の関係性は、ゆきを中心とした熾烈な恋の鞘当てによってある種の緊迫感が演出されている今期の今ガチの中で、一服の清涼剤として機能しているらしい。あちらがメインプロットならば、こちらはサブプロットだ。そういう意味では、アクアもまた番組の中に自分の立ち位置をある程度確保することに成功していた。
そして当然そうなると、オンでもオフでもアクアはある程度MEMちょのことを知ることになる。
撮影の合間、カメラが回っていない所で、MEMちょはアクアに対して頻りに一つのことを尋ねてきていた。
――アクたん、苺プロなんでしょ? アイと同じ事務所だよね?
つまりそれはアイのことであり、ひいてはアイドルグループ「B小町」のことである。
彼女のB小町についての造詣はかなり深い。なにせ、合計三十曲ほどリリースされているB小町の曲の大部分を知っているし、一部は振り付けまで憶えているというのだから、大層なフリークぶりである。
どうしてそこまでB小町に熱を上げているのかと問うた時、MEMちょは笑顔で答えてきた。
「だって、B小町は『みんなの憧れ』、だからねっ!」
それは紛れもなく、ファンの声だった。ルビーがそうであるように、B小町という存在に夢を見る少女の声だった。
故にこそ、アクアは一つの推測に至る。
「そう、なんだ。……MEM、もしかして、君は」
それを問いかけようとした瞬間に、二人の間にカメラの光が映る。
果たしてその意味するところを察したMEMちょはくるりと振り返って、アクアに意味ありげな笑みを浮かべつつ、その人差し指を口に当てた。
「……なーいしょ。知りたかったら、私ともうちょっと仲良くすることだねぇ」
シームレスに「今ガチ」の文脈に繋げてきたMEMちょに、アクアは「アクア」として、薄い苦笑を浮かべる。
「……そう、だね。善処するよ」
果たしてその一幕は「アクMEM」の胸キュンポイントとして界隈で取り上げられることになるのだが――大事なのは、そこでアクアが得た推測についてである。
「は? え? MEMちょ? お兄ちゃんマジで言ってる!?」
斯くしてそのあたりの事情を話したアクアに対して、ルビーは目を剥かんばかりの驚きで反応した。
まあ無理もない。相手は十万人以上のチャンネル登録者を抱える大物YouTuberだ。無論、苺プロのネットタレントの最上位、看板であるところのぴえヨンに比べれば少ないは少ないが、ネット配信者の中では上澄みも上澄みの人物であることに違いはない。
それでもアクアは、彼女のことを十分に勧誘できる可能性を持った人物であると考えていた。
「割とマジだ。可能性としては七三あると思ってる」
「そうなんだ……そっか、MEMちょ……」
因みにその時、それとなくMEMちょの契約形態についても、アクアは確認している。
「YouTuberってこともあって、あの人は個人事業主だ。事務所との契約はあるみたいだけど、所属契約じゃなくて、事務所登録の形になってるみたいだな。いわゆる『エージェント契約』ってやつ。だから苺プロとしても、同じスキームで契約を持ちかけることは十分できるはずだと思う。だからあとは……」
「うん! 『誠意』、だよね!」
数か月前に有馬かなを口説き落とした時のことを、ルビーはしっかり覚えているらしい。それはアクアにとって悪いことではなかった。頷いて、ルビーと目を合わせる。
「そうだな。まあ、あっちにどれだけやる気があるかどうか、ってのはあるけど。だからまあ、収録終わったタイミングで打診しようとは思ってる」
「そっか……え、でも」
しかしそこで、ルビーは一つの懸念に気がついたらしい。怪訝そうにアクアに問いを投げかけてきた。
「あれだよね? 『今ガチ』でお兄ちゃん、MEMちょとなんかイイ感じになってるじゃん。あれでカップル成立しちゃったら、アイドル無理じゃない?」
お、とアクアは思う。ルビーもなかなかに頭が回っている。いや、これは気づいて当たり前のことかもしれないが。
しかし問題はない。なぜならそのあたりのことも、アクアはすでにMEMちょと合わせているのだから。
「確かにな。普通はそう思うよな。けど、そのあたりは大丈夫だ。なんせMEMは、
そうなのだ。そもそもMEMちょが今ガチに参加した理由は、この番組を通して新規視聴者層を開拓し、自分のチャンネルに導線を引くことである。というより、それ以外にはない。
よって余程のことがなければ、彼女はこの番組でカップルなどという余計な「お釣り」を引っ張ってこようとは思っていない。それはアクアに対しても同様である。
「えー、じゃあお兄ちゃん、最初から失敗するって分かっててMEMちょとあんなことしてるの?」
「当然。というかそのあたりのことは、ある程度MEMと合わせてある」
「あー! いけないんだそういうの、やらせだやらせ!」
「やらせって……まあそうだけど」
ルビーの糾弾の声に、アクアとしては反論はできなかった。
しかしアクアとしても、こういうところで相手を探そうなどという気はさらさらない。というよりも、そもそも「相手を探す」などということにかまけている暇はない。当たり前のことである。これはあくまで鏑木勝也から交換条件として斡旋された仕事だし、自分としては与えられた仕事さえ完遂すれば、誰にも文句など言われないと考えていた。
あとは、それに加えてララライとのパイプ――黒川あかねとの関係をある程度構築することも、必要だと考えてはいたけれども。いずれにせよ、そんなことに現を抜かすほどの余裕も余暇も、今のアクアには存在していなかった。
そのあたりに意識が向いたことで、アクアは連鎖的に、自分の抱えているもう一つの問題のことを思い出した。
「ゆきユキ」とケンゴの三角関係を表に、「アクMEM」のむず痒いプラトニックな恋愛模様を裏に据えている今期の今ガチではあるが、果たしてその関係図の中で、一人だけ明確に疎外されている人物がいる。
言うまでもなく、黒川あかねのことである。
三対三の男女で構成されている今ガチは、本来ならばそれ故にあぶれ者を出すことはあまり想定されていない。しかしケンゴがノブユキとゆきをめぐる恋の鞘当てを始めてしまったことで、結果的に彼女は物語の中からはじき出されてしまった。
これは今ガチが「リアリティーショー」である故に起こってしまっている事態とも言える。すなわち、参加者の中でこの番組への参加のスタンスがまちまちであることから、出演者間でのすり合わせ――悪く言えばやらせがしにくいのだ。
特に、あかねの立場からすると参加者の男性陣の動機が悪かった。ノブユキにせよケンゴにせよ、積極的か消極的かの差こそあれ、割とこの番組に対しては本気の恋愛をすることを考えて臨んでいる。そして彼らは特に何か役を演じるといった経験もない。それはつまり、あかねの「役者」としての得意分野が非常に活かしづらいということを意味していた。
そういう意味では、あかねは最初からアクアに対して何らかの話を持ち掛けていればよかったのかもしれない。お互いに役者である以上、手を結んでできることはきっとあったのだろう。
無論、逆も然りだ。番組が始まってからの立ち上がりの動きの中で、アクアの方からあかねに対して、同じ役者として「恋愛劇」を持ちかけるという選択肢も、間違いなくありはした。
しかしそれを、アクアは自らに対して決して許容できなかった。そんな振る舞いをする自分を、受け容れられなかった。
何となれば現状、アクアが黒川あかねと繋がりを持っておきたい理由の大きな部分を占めているのは、「劇団ララライの情報が欲しい」という下心に他ならないからだ。そしてそんなもののために、たとえ「劇」であるとはいっても「恋愛」という形で人の心を弄ぶような真似は、どうしてもアクアにはできなかった。
よく知らないが故に、分からないが故に、ずっと追い求め続けているものであるが故に、「愛」という情動に根差すべき人と人との繋がりを、そんな利己的な欲求によって汚してしまいたくないのだ。それはどうあっても動かすことのできない、アクアとしての根幹であり、明確な価値基準だった。
故にアクアは黒川あかねに対してそういう方向のアプローチをすることは頑なに避けていて、代わりに安全圏から高みの見物を決め込むつもりのMEMちょとお互い納得尽くの「恋愛劇」を始めることを決めた。ある意味においては、それは逃げですらあったのだろうと、今にして思う。
ともかく、始めはそんな小さなボタンの掛け違いだった。あるいは「間の悪さ」とか、「運の悪さ」とでも言うべきものだったのかもしれない。しかし今となっては、もはやアクアからすれば手の入れようはほとんどない。作劇における登場人物の関係が確立してしまった以上、今更あかねとの接近描写を作り始めても唐突感が生まれるばかりであるし、最悪それには視聴者からの悪評を貰いかねないのだ。
そして恋愛リアリティーショーにおける視聴者からの悪評は、容易に本人たちへの誹謗中傷に繋がる。あかねとしてもそういうリスクは冒せないだろうし、アクアもアクアでそういう分の悪い博打を仕掛けることには、どうしても抵抗があった。
結局そういうわけで、今期の今ガチにおけるあかねのパブリックイメージとは、すなわち「空気」である。あの番組のなかで、あかねは完全に透明化してしまっていた。
これが、つまり空気と化しているのがアクアであれば、まだよかった。流石に画面に映っている時間がゼロ分ではブッキングした鏑木に申し訳が立たないし、それでは彼の言う交換条件を満たせたとは言えないだろうが、今のアクアには「カメラマン」という唯一無二の個性がある。恋愛模様に全く参戦せずとも、いくらでも出番を主張することはできた。
しかしあかねにはそういうものがない。今ガチという舞台において、役者という肩書は実のところ何の役にも立たないのだ。そして真面目が服を着て歩いていると言っていいほど生真面目な彼女は、今の自分の現状に対して傍目にもわかるほどの焦りを感じていた。
それは、あらゆる意味において忌避すべき展開だった。あかねとの個人的なコネクションの確立をこの現場における狙いの一つとしているアクアにとって、この番組への出演があかねにとって「思い出したくない記憶」になってしまうのは、いかにもまずい。
いや、それは単なるアクアの個人的目標でしかない。最悪、ほかのアプローチもとれる故に、それだけならばまだリカバリーは利く。
問題なのは、こういう状況に追い込まれて、生真面目でどこか思い詰めてしまうところのあるあかねが、どういう行動を取ってしまってもおかしくないというところにこそあった。
しかし結果的に、アクアがそういう危惧を懐くようになった時点で、すでに全ては手遅れになってしまっていたのだ。
端的に言えば、初動から間違っていた。アクアはそのことを、時が進むにしたがって理解させられることになる。
ルビーとアイドルデビュー計画のことを話してより先も、今ガチの収録は淡々と進んでゆく。そんな中でアクアは、どうにも自らの胸中に嫌な予感が増大していくのを意識せざるを得なかった。それはあの日、ドーム公演の日の朝にリョースケなる男に襲われた時にも通じるような、そういう種類の予感だ。
当然に、それは黒川あかねと言う少女に対してである。このまま手を拱いていては、何か取り返しのつかないことが起きてしまうような、そういう無形の焦燥を、アクアは確かに懐いていた。
故にアクアはカメラが回っていない所を完全に見定めて、あかねと接触することを常に心掛けていた。
相談に乗ろうとした。演技の経験では圧倒的に若輩でも、カメラ演技における演出側のロジックの理解に関してだけは確実にアクアの方に一日の長があったからだ。
現状の今ガチにおける関係図を見える化して、そこに自分をどう落とし込むのがよいのかと、ロールプレイングもした。
キャリアの差が歴然故に僭越極まりないことではあるが、これから予想されるいくつかのケースを想定した、エチュードをやってみたりもした。
そして――ある種最後の手段として、MEMちょに許可を取った上で、アクアとMEMちょとの間の一幕の中にあかねの見せ場をどうにかして用意することも、何度かあった。
打てる手は打った。そのはずだった。しかしアクアがどれほどに手を尽くしても、彼女の中のどうしようもない焦りは消えてくれない。いや、寧ろどんどんと悪化していった。
そうなれば、流石にアクアも気づく。彼女を苛んでいるものの正体が、功名心や自尊心のような内心の問題というよりは、むしろ外部要因からくるものであるということを。
実際、一時期から彼女は、さながら
同時にその頃から、あかねは俄かにゆきとノブユキとケンゴの三角関係の中に割って入り始めた。
つかず離れず、蠱惑的な小悪魔のような動きを見せながらも男二人と駆け引きを続けていたゆきから、彼らを引きはがそうとする
――悪手だ。アクアは直感した。いや、誰にでもわかるだろう。あかねは生真面目な少女で、そして根はどこまでも優しい。そんなことをするのには、あまりに向いていない。
劇の方向性としても、説得力に欠けている。なぜなら彼らとあかねとの間には、そこまで特筆すべき接点などなかったのだから。
向いていないことをやっても、評価は上向かない。世間のあかねに向ける目は冷ややかだ。
当然だろう、そもそもあかねが演じているのは、憎まれ役であるところの悪女なのだから。どこまでも向いていないそんな役柄を、演じることを強いられているのだから。
そんなことが分からない彼女ではない。そのはずだ。しかしそんな事すらやらねばならぬほどに、きっとあかねは追い詰められていた。
アクアはその要因を多少なりとも推測してはいたが、だからこそ下手に動けなくなっていた。アクアがそれをするというのはつまり、彼女の背後にいるであろう「大人」に対して喧嘩を吹っ掛けることに等しいからだ。
それはアクアだけではなく、あかねにとってさえもリスクだ。今のアクアはどこまで行っても子どもであり、それ故に分限と言うものがある。どれほどに歯痒くとも、やってはいけない一線というものが、そこにはあるのだ。
結果、時を経るごとにどんどんと追いこまれていく彼女に対して、もはやアクアに打てる手は尽きてしまっていた。
斯くて加速度的に悪化していく情勢が致命的な決壊点を迎えたのは、それからそう時をおかずのことであった。
「そのこと」が起きた日、アクアは現場に居合わせることができなかった。故にアクアが撮影の当日に見たのは、怯え切った眼で泣き崩れるあかねと、それを抱きしめる、頬に傷を負ったゆきの姿だった。
経緯は、その後ケンゴから聞くことができた。「悪女」としての演技の延長線か、それとも状況が悪化の一途を辿ったことで一過性の強迫性障害に至ってしまっていたのか、自分からケンゴに話しかけに行ったところでそれを横から引っ張っていこうとするゆきに、あかねは衝動的に手を上げてしまった。
そしてその爪の先が運悪くゆきの頬を掠り、更に運が悪いことに、彼女はその日の休憩時間中、ほかでもないゆきにジェルネイルを施術してもらっていた。
本当に、総じて運が悪かったのだ。その運の悪さの結実が、ゆきの頬に一本の傷として刻まれた。
その日のことは、まだマシだった。罪悪感と自己嫌悪でパニック障害を起こしかけていたあかねを、当の傷をつけられたゆきはすぐさま許し、そして慰めた。
ゆき自身がどういう思いであかねのことを許したかはわからない。打算も多少はあっただろう。下卑たことを言うならば、道徳的な優越感による行いかもしれない。
それでも、定点カメラを除いて撮影機材の止まっているその場所で、カメラのための演技をする必要はない。ある程度の本心で、おそらくゆきはあかねを許した。
しかし、それがなんだというのか。
本当の問題は、これが今ガチの放送に載るということだ。
その結果など、もはや言及の必要さえなかった。
「あーあー、酷いことになってるわねぇ、黒川あかね」
苺プロの事務所の中、応接セットのソファに寝転がりながら、かながスマホを眺めている。当然、見ているのは今ガチに関連するツイッターの話題だ。
ゆきのある種獅子奮迅の働きもあって、今ガチは中高生を中心に社会現象一歩手前ともいうべき注目を集めていた。よってそれに関連するニュースは、ツイッターにおいて十分トレンドに乗るだけの話題性を秘めている。
それは、正の面も負の面も、関係はない。いや、いつもどこかで誰かに対して「正義の鉄槌を下したい」と思っている人々にとっては、むしろ負のニュースの方が手ごろなエサであり、故にそれは強力な拡散力を持っている。
「かな。申し訳ないけど、これは笑い話じゃない」
横に立つアクアの声は硬い。その顔も、全くと言っていいほど笑っていなかった。
「なに、私がいるところでほかの女の心配?」
「かな!」
混ぜっ返すように口にしたかなに対して、アクアは思わず声を荒らげてしまう。すぐさま我に返るように、小さく俯いた。
「……ごめん」
「……別にいいわよ。私も悪かったわ」
そう言って、かなが身を起こす。スマホに向けた視線はそのままだ。今起きている問題――黒川あかねのインターネット上での炎上のありさまに、ずっと目を通し続けている。
「ほんと、最悪ね。何が最悪って、黒川あかねが謝ったことよ。あの子の事務所、リスク管理の教育とかロクにしてないのかしら」
そう言って、皮肉気に口を歪める。ただそこには、あかねのことを揶揄するような響きはなかった。
「わからない。けど今回の話、もともとあかねが追い詰められたから起きたことだ。……あの子、何かに追い立てられるような顔をしていた」
「へぇ? ……あなた、事務所のこと疑ってるわけ?」
かなの問いに、アクアは答えない。それを口にすることは憚られた。
しかしその無言こそが、おそらくは何よりも雄弁な答えだろう。かなは、それに何かを言うこともなかった。
「ま、いいわ。しっかし、いくらあんたが黒川あかねの心配したところで、炎上が消えてくれるわけじゃないのよ」
「分かってる。分かってるさ、それぐらい」
そう言って、目を閉じる。
起きてしまったことは仕方がない。それはわかっている。
「でもお兄ちゃん、そのあかねちゃんって子、どうなるの?」
「……分からない」
かなの、そしてアクアの正面に立っているルビーが上げた疑問の声に、しかしアクアは答える術を持っていない。
「確かに多少の炎上なら笑い飛ばせるやつ、っていうのはいる。もはやいくら燃えようが痛くも痒くもない、ついでに行き過ぎた誹謗中傷には開示請求かけて賠償金せしめられるから儲けもの、みたいな神経のやつも、いるにはいる」
しかし、そこでアクアは首を振る。
「けど、どう考えてもあかねはそういうタマじゃない。そういうタマなら、初めから謝罪のツイートなんてしない。それに」
そこまで言って、アクアは顔を横に向ける。座ったままのかなの手元のスマホへと、視線を向けた。
「あかねは実力派の若手女優、として売り出していた。努力家で、真面目だって。けど今回のことで、そんな評価は全部崩れる」
パブリックイメージとは、すなわち大衆の評価だ。自分自身で形作れるものではない。
「黒川あかねという個人の履歴の中に、『今ガチ』で炎上したことは必ずついて回る。あのときゆきに手を上げて、傷をつけた。そういうエピソードと一緒に」
「『デジタルタトゥー』、ってことね」
かなが、アクアの謂わんとすることを代弁する。
「実際、時が経てば忘れられることかもしれない。時間薬は何にでも有効だからな。けど、記録は永遠だ。最低でも、本人の認識としては」
だから、これは本当の意味ではすでに取り返しがつかないのだ。こうなってしまったこと、それ自体は。
それを言ったきり、アクアは黙り込む。かなもルビーも、そこに差し挟める言葉を持っていない。
しかしもう一人だけ、今のこの事務所には住人がいた。
「まぁ、こういうことが起きてしまうところが、恋愛リアリティーショーの怖さよね」
全員がその声の主に目を向ける。すなわちそれはこの事務所にいた最後の一人、応接スペースの横の事務机で作業をしていたミヤコ夫人だった。
「ドラマとは違って、素の自分に近い部分を曝け出すのがリアリティーショーの面白いところで、でも怖いところだわ。リアリティーショーの歴史は世界の中で二十年ぐらいあるけれども、その中で五十人ぐらいの出演者が自殺している」
――自殺。その言葉に、アクアの肩が大きく震えた。
頑なに言わないようにしていた「可能性」だった。言ってしまえば、真実になってしまうかもしれないから。
しかしミヤコ夫人に言われたことで、アクアはその現実を直視せざるを得ないことを、改めて意識させられた。
「アクアくんが考えているのは、そういうことなんでしょう?」
ミヤコ夫人の目線が、アクアと合う。
有無を言わさないその瞳の光に、アクアは頷かざるを得なかった。
「共演してて、わかるんです。あの子は本当に真面目で、ずっと努力している。人のアドバイスは、どんなものでも聞こうとする」
「リアリティーショーに出るには一番向いていない人材ね」
呆れたような口調で、かなが口を挟んだ。
「ま、私もあの子のことは知ってるから。だいたいアクアの言う通りの子よ。腹の立つことにね」
――ほんと、なんでリアリティーショーなんかに出ようと思ったのかしら、黒川あかね。
そう言って、また皮肉気に口元を歪めた。
アクアがかなを窘めたさっきのこともそうだが、どうやらこの有馬かなという自らの先輩はあかねと面識があるらしい。
そう言えば、とアクアは思う。かなとあかねは、学年的には同じだ。もしかしたら、ドラマで共演した経験があったりするのかもしれない。あるいは、オーディションで競い合うようなことも。
しかし、今重要なのはそこではない。まさしくミヤコ夫人の言う通り、現状は極めて悪い。アクアは割と真剣に、あかねが早まった行動に出てしまう危険性を意識していた。
そもそもこれまでの今ガチの展開において、彼女は相当に精神的に追い詰められていたのだ。何が起こっても不思議ではない。
そう考えたとき、アクアの中で決心が固まった。
「……ありがとうございます、ミヤコさん。考えがまとまりました」
こんどはアクアの方からミヤコ夫人に目線を合わせて、頭を下げる。
そのまま、アクアは苺プロの事務所から退出した。
――とりあえず、打てる手は打たなければ。
そう考えて、アクアは自らのスマホを取り出す。
メッセージングアプリを、その中の「今ガチ」出演者のグループチャットを開いて、アクアは意を決してメッセージを打ち込んだ。
アクアがやったのは、月並みなことだ。
とにかく、メッセージを欠かさない。接点を絶やさない。
俺たちはここにいる。君のことを忘れていない。何でもよいから、とにかくそれを伝え続けることだった。
果たしてほかのメンバーも、それに便乗する。真っ先にアクアに同調したのはゆきだった。MEMちょも、ノブユキもケンゴも、一緒に彼女にメッセージを投げかけた。
世界の全てから否定されているわけではないのだと、その事実を言い続ける。あかねの反応を、根気よく待つ。
そうすることで、もしあかねからSOSのサインが出たときに、何とか間に合うことができるように。
あくまで対症療法で、間に合わせだ。しかし今のアクアには、それ以外に手立てはない。今のあかねの心をどうにか決定的な崩壊から遠ざけるための方法を、アクアはそれしか知らなかった。
そして同時にアクアは、今の盤面を逆転させるための算段をつけ始める。
幸い、手元に材料はある。作り上げるべき「作品」の構想も、頭の中で描けている。
しかしそこには、まだ二つだけ部品が足りていなかった。
一つは、注目度。「今ガチ」の炎上は、トレンドに乗っているとはいえ基本的には中高生から若年層を中心としている故に、高度にクラスタリングされたネットの世界に終始していて、マス層へのリーチにはあと一歩足りていない。しかしこれ以上の燃料をわざと投下するなどアクアは己の心情としてやりたくもなかった。
そしてもう一つは、アクア自身の勇気である。今アクアが構想している策を実行に移すとなれば、アクアは自分が「今ガチ」の中に構築している役どころから飛び降りねばならない。下手をすればそれは、あかねをも巻き添えにしかねない選択だ。勝算の方が遥かに高くとも、あかねの『最後の一押し』になってしまうリスクを冒すのは、やはり怖かった。
そんな恐怖心故に、アクアはその一歩をどうしても踏み出せずにいた。
そんな雁字搦めの心情のまま、アクアはいざというときに動ける準備だけを進めて、しかし時間は無情にも過ぎてゆく。
そしてあかねの炎上から、早くも一週間が経った。
先週末にあった収録に、あかねはやってこなかった。それでもみんなが送っているメッセージには答えてくれている故に、まだ最悪の事態にはなっていないことだけは確かだ。
しかし事態が好転しているわけではない。未だにあかねに対する誹謗中傷は続き、まとめ記事も量産され続けている。
この日、東京は季節外れの台風による大雨に見舞われていた。交通網は麻痺して、いくつかの学校も休校を決めている。アクアたちも家でじっとしていた。ルビーも、そしてアイもである。
そんな中でも、あかねに対してメッセージを送ることは忘れない。一日に四回、「今ガチ」のメンバーのうち、必ず二人でメッセージを送り続けている。
その最中でのことだった。時刻は夕方、ノブユキの送った一つのメッセージに、あかねから返答があった。
『大丈夫? ちゃんとメシ食えてるか?』
そんな彼の問いに、彼女はただ一文のみで答えた。
――『ご飯、買ってくるね』、と。
そのメッセージを見るなり、アクアの脳内にけたたましいほどの警報音が鳴り響く。
十二年ぶりの感覚だった。決定的な欠落を前にした、本能に根差す警告だった。
あの日に負った古傷が、酷く痛む。そしてその痛みこそが、アクアに告げる。
動け、星野アクア。今動かないと、お前はもう間に合わないぞ。そう、囁いていた。
――偉そうな口を。今まで
内心にそう言葉を叩きつけて、しかしアクアは立ち上がる。今一度強く走った右腿の痛みに顔を顰めて、それでもそのまま玄関に向かって歩き出す。
「アクア? どうしたの?」
その音を聞き、姿を目敏く見つけたアイに、自らの母に向かって、アクアは告げた。
「ごめん。ちょっと、外出てくる」
「は? いや待ってお兄ちゃん、今外台風――」
「分かってる」
ルビーの反駁を、眼力だけで抑え込む。
何も言えなくなった二人に頭を下げて、アクアは外に目を向ける。扉を開け放った。
「多分、一時間ぐらいしたら帰る、と思う。……ごめん、行ってきます」
そう言い残して、開いた扉から一歩外へと足を踏み出す。
その瞬間、どこかに落ちた遠雷の音が、アクアの鼓膜を、心さえも強かに揺らした。
本作のアクアはいろいろ手を尽くそうとしましたが、結局はあかねの炎上は止められませんでした。
せっかく性格改変入れているのに今のところ挙げられている戦果がしょっぱい感じの本作アクアですが、あかね周りに関しては正直なところ不可抗力です。
というのも、この時点でのあかねの性格と周辺環境を考えると、炎上に至るあかねの環境の悪化を起こさないためにはぶっちゃけ初めからアクアが「アクあか」目指して動くしかないのですが、それが(本作アクアの性格上)無理である以上もはやどうすることもできません。初手から詰んでます。
まあ、本当の意味での諸悪の根源はあかねの事務所のパワハラ社長なんですけどね。