天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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2-7. 覚悟の夜

 アクアは十二年前のあの日から、雨の日が嫌いになった。

 理由など言うまでもない。古傷が痛むからだ。

 

 吾郎としての知見は、その機序をよく理解している。雨の日に古傷が痛むのは、湿度によるものではなく気圧に起因する。

 気圧の低下が体内でヒスタミンの過剰分泌を引き起こし、それが古傷に炎症を生む。更に内耳の気圧受容器が気圧の低下に反応して血流を制御するために血管を収縮させ、古傷の痛覚神経を刺激する。

 これらは生理作用故に止めることはできない。消炎鎮痛剤で対処こそできるが、アクアはその方法を選んだことはなかった。

 言うまでもなく、アイとルビーにあの時のことを極力思い出させないようにするためだった。

 

 

 

 外に出て、マンション付きの駐輪場から自転車を取り出す。

 吹き荒れる風は、思いの外強い。雨も烈しく降っている。故に場合によっては乗り捨てることをも考えなければならないが、ただ暢気に歩いている場合でないことだけは間違いない。そうでなくてもアクアは、あまり自らの体力には自信を持っていないのだから。

 タクシーを呼ぶことも考えはしたが、この天候で走っているかは五分五分だ。幸い、アクアたちのマンションは以前に聞いているあかねの住んでいるところからは割合近い。中目黒と祐天寺の間、目黒区役所にほど近い場所に位置する住宅地の中に、彼女の家はあった。

 

 

 

 山手通り沿いを、ひたすらに進み続ける。ペダルを漕ぐごとに、力を入れるごとに、アクアの右腿には鈍い痛みが走り続けている。体力もまた等しく、削られていくのを感じる。

 今ガチメンバーのグループチャットには、すでにあかねのことを迎えに行く旨を連絡していた。MEMちょあたりからは制止のメッセージが来ていたが、しかしアクアはそれに耳を貸すつもりもない。代わりに「何かあった時に集合できるようにしておいてくれ」とだけ書き残して、アクアはそれきりチャットアプリを閉じていた。

 

 アクアが家を出てから十五分、あかねが件のメッセージを送信してからはすでに二十分以上が経っている。あかねの予想される精神状態から動きそのものはそこまで素早くはないはずだが、そうは言ってもすでに彼女は外に出て、食べ物を買いに向かっているだろう。アクアはそう判断した。

 食料品を買える店は彼女の家の周辺にいくつかあれど、この台風の中でも開いているような場所はコンビニが精々だ。目黒区役所の周囲にあるコンビニをピックアップして、そこへのルートを確認する。

 

 周辺にあるコンビニは三か所だ。虱潰しに探すのは筋が悪すぎる。しかし彼女の家から三つのコンビニまでのルートを辿っていくうちに、アクアは一つの結節点に突き当たる。

 そしてあまりにお誂え向きなことに、それは歩道橋だった。思わずアクアの脳裏に最悪の想像が過ぎってしまうほどに。

 背筋が凍る。台風故の温い風と雨の中にあってなお、アクアは自らの身体の芯が冷えていくように錯覚した。

 

 ――間に合ってくれ!

 歯を噛みしめる。心に強く願いを抱いて、息を切らせつつもアクアは中目黒立体交差から駒沢通りへと入る。そこからたった三百メートルほどの距離も、一分足らずの時間でさえ、すでに体力をかなり消耗しているアクアにとっては永劫のように長く感じた。

 

 果たしてそんな奮闘の果てに、ようやくアクアは歩道橋にたどり着く。

 自転車から降りて、荒く息を吐きながらも、視線を上へと向ける。誰かそこにいないか、目を凝らして姿を探した。

 

 ……誰もいない、ように見える。そのことにひとまずの安堵を懐く。ならばとりあえず歩道橋の上に陣取って、どちらからあかねが来ても問題がないように待機するのがよいだろうか。

 しかしそう思って歩道橋の階段へ足をかけようとしたその瞬間、見上げた通路の上で、誰かが立ち上がったような影を見た。

 

 女の影だ。髪を短くまとめている。雨なのに、傘も差すことなく。

 のっそりと、立ち上がって、それは――。

 

 ――()()()()

 気づいた瞬間、アクアは弾かれたように階段を駆け上り始める。

 警鐘は頭の中であまりにけたたましく鳴り響き、気圧のせいか疲労のせいか、割れるように痛む。

 息も上がっている。視界がかすみそうだ。古傷の発する痛みはもはや刺すほどに募って、自分の身体に現実感がなくなってくる。

 それでもその感覚が、アクアに思い出させる。あの日あの朝、あの玄関で起こったことを。

 

 死とは、我が隣人である。起こるはずがないと思っていた別れの時は、いつだって唐突にやってくるのだ。それをアクアは誰よりもよく理解していた。

 階段を上りきる。視線を横に向けた。必死に姿を探して、しかし路上にはあかねの姿はなく――。

 

「やめろッ!」

 

 駆け出す。踏み出した一歩目が水たまりにとられ、バランスを崩した。

 それがどうした。倒れている暇などない。

 手をついた。右手が痛む。思わず声が漏れた。でも、なんとしても、一歩でも早く、前へ。

 時が来てしまう前に。

 

 

 

 

 

 歩道橋の欄干に、足がかかる。それまで身体に圧し掛かり続けていた重苦しさが嘘のように。左脚を蹴り出し、彼女の身体は軽やかなまでに持ち上がった。まるで何かに誘われるように。

 足が、欄干を跨ぐ。眼下を見下ろし、果てなく視界を彩って自らのことを誘う『光の海』を、夢見心地に眺めていた。

 あの先に行けば、楽になれるのだろうか。滲んだ世界に焦がれるように、欄干の上、起こしていた身を伏せて、いよいよその「境界線」の上に立ち上がろうと、脚を屈めた。

 

 

 

「――あかねッ!!」

 

 そして――その瞬間、横からやってきた腕が、彼女を身体ごと現実へと、欄干の内側へと強引に引き倒す。

 どさりとした音がした。苦悶に呻く声も。何が起きたのか分からず、一瞬の思考の空白が頭を支配する。

 ただそれもほんの数秒のこと、我に返った彼女――あかねは、自分の身に起きていることを少しずつ理解する。

 

 何も考えたくなくなって、何も考えずに身体が動いていて、眩く光を放つあの場所の上に登ろうとしていて、しかし今自分は誰かに、『他人の腕の中に抱え込まれている』。

 

 あかねは反射的に身を捩ろうとした。今まであの滲む光に誘われて、何もかも放り出して死に至ろうとしていた自分が、それでも総身を走る恐怖心に、嫌悪感に任せて、泣き叫ぼうとした。振り払おうとした。

 しかしそれと同時に、自らの思考に追いついてきた五感が告げる。

 私はこの感触を知っている。匂いを知っている。自分の背後で、路面の下敷きになっているその『男の子』が吐いている、荒い息遣いの声色の、その主を知っている。

 

「嘘、なんで……アクア、くん……?」

 

 身体のこわばりが解けて、震えた声が漏れる。恐る恐る振り返ったその先で、差し込んだ蒼い光があかねの目を灼いた。

 何かを堪えるように片目を瞑って、苦悶にか表情を歪めて、荒い息を吐きながらも、自分のことを抱えている腕を放してしまうことのないように。

 視線が合って、口の端が薄く笑みを象る。声を発するための小さい吸気の音すらもが、あかねの耳朶を強く打つ。

 

「よかった。……間に、合った」

 

 そんな呟きが聞こえると同時、強烈なまでに眩い光が、背後からあかねとアクアの姿を照らした。

 アクアが眩さに目を伏せ、あかねはその光源へと振り返る。

 

「――ちょっと! 君たち何やってんの!」

 

 それは懐中電灯の光だった。

 白く闇を貫くそれを掲げて、レインコートに身を包んだ警官が、あかねたちの前に立っていた。

 

 強く降り頻る雨の雑音と、眼下を通ってゆく車の騒音が、歩道橋の上の空間をただ支配していた。

 

 

 

 

 

 その後アクアとあかねの二人は、形としては保護対象として警察署に連れていかれる運びになった。アクアに関しては乗っていた自転車も一緒にである。

 まあ、こればかりは致し方のないことだろう。アクアはともかくとして、あかねはやったことがやったことだ。

 そして当然にというか、それぞれの保護者に対しても連絡が行く。あかねは言わずもがな彼女の母親であり、而してもう一方、アクアに関しては――。

 

 

 

「その、最初に連絡受けたときは、本当に心臓が止まりそうになったけど」

 

 軽い事情聴取だけ受けて早々に解放されたアクアのもとに、一人の女性がやってくる。

 取調室の外、ベンチに座るアクアの隣に、その彼女は腰かけた。

 

「しっかり見ていたのね、アクアくん。本当に……凄い子よ、あなたは」

 

 柔らかい声色で、言葉がかけられる。肩に手を回された。

 ふわりと薄く、香水の匂いが鼻腔を刺激した。

 

 アクアが視線を向けた先、ミヤコ夫人が、気遣うような笑みを浮かべて、アクアのことを見ていた。

 

 

 

「……凄い、ものですか」

 

 視線を外す。そしてまた、アクアは俯いた。

 それは彼女の――あかねの凶行をどうにか押し留めたあとに、ずっと考えていたことだった。

 

 あのとき、自分は思った。「よかった、どうにか間に合った」と。「この子を、死の瀬戸際から現世に引き戻せた」と。

 しかし冷静になった今、アクアは自覚する。せざるを得ない。

 どの口が、それを言うのかと。

 

「……いつもだ。いつも俺は間に合わない。気づいているのに、気づくべきだったのに、見逃して、踏み出せなくて」

 

 顔を覆っていた。今の自分の表情を、誰にも見られたくなかった。

 

「だってそうでしょう? あの時(十二年前)だって、僕はあれに気づけたはずだったんだ。チャイムの種類なんて、あれがおかしいってことなんて、五秒考えれば分かるはずだった」

 

 疼き続ける右腿が、その事実を突きつける。

 「お前はいつも間違える」。「色々考えていても、肝心な時に役に立っていない」。

 どれも、抗弁しようのない現実だった。

 

 アクアがアクアになる前の、吾郎のときから、ずっとずっと、そうだった。

 アイの分娩の場に立ち会う約束も守れず、そしてそもそも自分は――あの子に、天童寺さりなに、何もしてやれなかったではないか。

 

「今回だってそうだ。ミヤコさん、あなたに言われて、僕は分かっていたはずだったんです、あかねのこと。だからどうにかしようって思って。思っていたのに。けど、結局踏み出せなかった」

 

 その結果が、これだ。

 

「それで、手遅れになることだけは止められても、だから何だって」

 

 そうだ。俺は何も救えていない。アイの、ルビーの心に、消えない傷をつけてしまったあの時から、なにも進化していない。成長していない。

 そんなあまりに今更に過ぎる悔悟の情が、アクアの胸中には突き刺さり続けている。

 

「今日だって、アイも、ルビーも、心配させてる。僕はあの人たちを、傷つけてばかりだ」

 

 もっとも、それは本当に今更のことなのかもしれない。あの日二人に隠して、自分だけで自らの父親のことを突き止めようとしたあの時から、自分はあの二人のことを裏切り続けているのだから。

 ――本当に、救えない。何が救えないって、それでもどうにか、命だけは守り通すことのできた自分のことを、ほんの少しでも誇りに思えてしまっていることが、何より救えないのだ。

 

 アクアは自己嫌悪に歪む表情を、それでも覆い隠そうと今一度俯ける。しかしそこに、掌が乗せられた。誰のものかなど、問うまでもない。

 そしてそのままゆっくりと、掌が動かされる。頭を撫でられていることに気づいたアクアが顔を上げれば、そこには慈しむような表情でアクアのことを見つめる、ミヤコ夫人の姿があった。

 

「……それでも。それでも私はあなたのことを、立派だと思うわ。本当に」

 

 ――まあ、あの二人を心配させたことは、あとで謝っておきなさい。

 窘めるような口調で続きを口にして、彼女はアクアの肩を一つだけ叩く。

 

 その言葉にアクアが頷いた瞬間、いくつかの足音が廊下の中に響き渡った。

 駆け足の音だ。視線をそちらに向ける。

 

「アクたん! あかねは!?」

 

 見えた人影の先頭で、染めた金の髪を揺らしながら、一人の少女がアクアに問う。

 その彼女――MEMちょに目線を合わせて、アクアは自らの後ろを指さした。

 

「無事だよ。だけどやっぱり色々、限界ではあったみたいだ」

 

 事情聴取受けてるけど、もうすぐ終わるはず。そう続きを口にしようとしたタイミングで、扉の開く音がする。

 まさに今、終わったらしい。泣き腫らしたのだろう、目を赤くしたままの姿で、あかねが取調室から顔を出した。

 表情を見る。歩道橋の上の、全てを投げ出してしまうそうな程の危うさは、そこからは感じられない。

 ――どうにか、踏みとどまったか。そう思って声をかけようとしたアクアの横を、一人の少女の影が駆け抜けていった。

 

「――あかねぇ……っ!」

 

 それをゆきだとアクアが認識したのと同時に、乾いた音が廊下に響き渡る。

 平手の音だ。ゆきから、あかねへの。その音にこの場の全員の意識が向かって、しかしそれを、ゆき自身の言葉が上書いた。

 

「なんでっ……こんなっ……私っ」

 

 肩を掴んで、堪えきれないとばかりの声で零して、そのままあかねに向かって抱き着く。

 

「どうして、こんなに……相談してよ、もっと早く……っ」

 

 そのままあかねの胸に顔を埋めて、ゆきは嗚咽の声を上げる。

 

 正直なところ、この鷲見ゆきという少女のことが、アクアは些か苦手であった。

 今ガチの収録の中だけではなく、普段からでさえも、彼女は自らの胸襟を決して開かないからだ。その振る舞いも、発される言葉も、どこまでが彼女の本音であるのかわからなかったからだ。

 それでも今、あかねにしがみつきながら安堵と憤りの相半ばするような涙を流す彼女の態度ばかりは、偽りのない本心からのもののように、アクアには思えた。

 

 

 

 ゆきのすすり泣く音だけが廊下を支配し、この場の空気が少しだけ弛緩する。

 あかねもゆきの心情に引っ張られたか、その目が少しだけ潤んでいた。

 

 ゆきからまっすぐに向けられた怒りと心配の声色によって、彼女の心はようやく安定を見せたらしい。とりあえず、当面の危機は去ったとも言えた。

 

 

 

 しかしアクアは今回のことを、それだけで終わらせることはできなかった。

 

 確かに今回の事件を経て、今ガチメンバーの仲は結果的により深まることになるだろう。

 あかねのことはみんなで今まで以上に支えていければ、何とかこの番組をみんなで乗り切ることはできる、かもしれない。

 

 ――本当に? 本当にそう思うか?

 

 そんなわけがない。炎上は終わっていない。あかねを取り巻く状況の厳しさは、何一つ改善などしていない。

 彼女は、まだ何も救われてなどいない。何も、取り戻せてなどいない。

 

 

 

 アクアは立ち上がる。自分の中に、最後の覚悟を決めるために。

 至ってしまった破局でも、それでもそこから取り戻せるチャンスが、あるというならば。

 

「……あかね」

 

 顔を上げ、あかねを見る。自らの名前を呼ばれたあかねが、アクアの方を見た。

 碧玉の瞳と、視線がぶつかる。

 

「ひとつ、訊かせてほしい」

 

 そう前置きして、アクアは問う。

 

「これから、君はどうする」

「どう、って」

「『今ガチ』、続けるか、やめるか。こうまでなった以上、君には番組を降板する権利がある」

 

 この場にいる全員の、息を呑む音が聞こえた。

 

 

 

「このまま番組を続けることで、君の傷は広がるかもしれない。もっとひどいことを言われるかもしれない」

「おい、アっくん!」

 

 咎めるような声を上げたノブユキを片目だけで黙らせて、アクアは続ける。

 

「そもそも今君に起きている問題は、もう一定のラインを超えてしまっている。だから君は、法律を武器にする権利が十分にある。君のことをボロクソに言っている誰かにも。こうなることを分かっていて、視聴者数のために君を必要以上に悪者に仕立て上げた番組にだって」

 

 その証拠を、アクアは持っている。あの日、あかねとゆきの間に問題が起こったあの場所には、いつもの通り定点カメラが設置されていた。スタッフが持っていたカメラこそカットがかかった後には記録が止まっていただろうが、定点カメラの方にはカットのあとの映像もおさめられている。そして当然、番組側はその映像データを持っているはずなのだ。

 つまりあのオンエアの内容は制作サイドの能動的判断によるもので、よって今回起こってしまった問題は番組の落ち度とも言える。付け入る隙は、十二分にある。

 

「あるいは、そのあたりのことを材料に番組側と話し合って、交換条件として経緯を説明する声明を引き出すという選択だってある。……君は、怒っていいんだ。それだけの仕打ちを、君は受けている」

 

 アクアの周りは、絶句していた。隣にいるミヤコ夫人でさえも。

 

 もっとも、ミヤコ夫人が言葉を失っている理由は他の今ガチのメンバーとはおそらく違う。

 法律を盾にした喧嘩を仕掛けるということは、実質的に義理人情の世界である芸能界においては相手への絶縁状として機能する。もしあかねがそれをやった暁には、彼女はその界隈の関係者からは二度と仕事が来なくなる可能性が高い。無論、鏑木からもだろう。

 つまり、それはそれで後には引けない選択なのだ。アクアがあかねに示しているのがそういう類の片道切符であることを、ミヤコ夫人は認識しているのだろう。

 

 しかしあかねの現状は、それほどのことをしなければ取り返せないところまで来てしまっている。()()()()()()()()()()()()

 最低でも、アクアはそう認識している。故にこの選択肢を提示することについて、アクアに躊躇いの気持ちは微塵もなかった。

 

「君が苦しんでいるのは、君のせいじゃない。だから今その場所から降りることに、誰も文句なんて言いはしない。その上で、訊かせてくれ」

 

 茫然と自らの方を見るあかねに、果たしてもう一度、アクアは問いかけた。

 努めて冷静に、透徹な瞳の色で、問いを発した。

 

「それでも、番組を続けるか、それともここでやめにするか。君は、どうしたい」

 

 沈黙が訪れる。あかねが、顔を伏せた。

 ゆきが、あかねに寄り添った姿勢のままに気遣わしげな視線を向ける。アクアの後ろでは、きっと他の今ガチの面々も同じような表情をしているのだろう。

 

 

 

 アクアは、どれほどの間でも根気よく待つつもりでいた。しかしあかねがその口を開くまでは、そこから三十秒と経たなかった。

 唇が引き締められる。小さな呼吸の音が響く。そして、声が聞こえた。

 

 

 

「……私には、夢があるんだ。もっともっと頑張って、もっと有名な女優になるんだって。この場所でずっと、演技を続けていけるようにって」

 

 その声は小さく、震えて、掠れていた。

 

「失敗だって、たくさんしてきた。うまくいかなかったことだって。そのたびに、周りの人に助けられてきた。私のことを、助けてくれた」

 

 しかし、言葉は途切れない。弱くても、細くても、決して消えはしない。

 

「みんなにだって、そうなんだ。ずっと助けてもらってきて、それでもこんなことになっちゃって、なのに、こんな私を、励ましてくれて。助けてくれて。戻って来いって。待ってるからって」

 

 そこから、やがて少しずつ声に力が宿り始める。決意が灯り始める。

 

「怖いよ。正直に言って。もっとひどいことになるかもしれないって、すごく怖い。……けど、だけど……!」

 

 斯くて、あかねは顔を上げた。歯を食いしばるようにして、わななく肩を押さえつけるように自分で自分を抱いて、なお彼女はアクアのことを、睨みつけるような目線で見据えた。

 呼吸を一つ、目を一度瞑って、開く。唇が、再び動く。

 

「私は……やめたくない」

 

 果たして出てきたそれこそが、あかねの答えだった。

 

「これまでずっと助けてくれたみんながいて、夢だってまだ全然叶ってなくて。それなのに、こんなところで……」

 

 夢を抱いた少女の、誓いだった。

 

「私は、負けたくない……!」

 

 渾身の、覚悟だった。

 

 

 

 目を瞑る。

 アクアは逃げ道を示した。選択に値する逃げ道を。それでも、あかねはそれを選ばなかった。どれほどに苦しくても、彼女は自らの夢を選んだ。その覚悟を、彼女は投げ返してきた。

 だというのなら。だというのなら今こそ、自分もまた自分の覚悟を決めるべき時だ。

 材料は、もはや揃ったのだから。

 

「……わかった」

 

 目を開く。言葉に力を載せた。一歩踏み出し、音を立てる。耳目を集め、注意を惹いて、そこでアクアは、敢えて笑った。

 

「なら、あとは俺がどうにかする。……いや、俺()()が」

 

 振り返る。視線の先、呆気にとられたような表情でアクアの方を見ていた共演者たちめがけて、頭を下げた。

 

「というわけだから。……頼む。手伝ってくれ」

 

 そうすれば、すぐに彼らは応えてくれた。

 

「何言ってんだよアっくん。当たり前だろ、俺たち仲間だぜ?」

 

 ノブユキが。

 

「そうだぞ。あんま水臭いこと言うなよ」

 

 ケンゴが。

 

「そーそー。アクたんこーゆーマジメなところがあるよねぇ」

 

 MEMちょが。

 

「私だって! あかねがこんなことになって、このまんまじゃ終われないから!」

 

 そして、ゆきもまた。

 

 頷く。はじめからそういう答えが返ってくることは分かっていた。そういう現場なのだから。そういう現場だからこそ、アクアは自らの策に、勝算を持っているのだから。

 振り返る。あかねを見る。

 

「俺たちが、君の復帰の場を作る。絶対に。だから……もう少しだけ、待っていてくれ」

 

 ――君は、決して一人ではないのだから。

 視線に載せた無言の言葉に、あかねは小さく、しかしはっきりと首を縦に振る。

 

 

 

 あかねの目から、長らく止まっていたはずの涙が一筋頬を伝って、そして落ちた。




本作における地理条件はアニメ版準拠としています。
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