「はじめに、言わせてください」
今ガチの面々がこの場を去り、あかねも母親に連れられて帰ってゆく。
警察署の中に唯一残った自らの「保護者」であるミヤコ夫人を前にして、アクアはこれからのことを口にした。
「僕はこれから、結構な横車を押します。寝技に近いことをやるつもりです」
「……何をするつもり」
ミヤコ夫人が、目を細める。アクアの言葉の中に、ただならぬ気配を感じ取ったのだろう。というより、そもそも今のアクアの言いっぷりは、そういう「無茶」の予感を色濃く感じさせるものなのだから、当然の態度でもある。
「今、黒川あかねのパブリックイメージは大きく毀損しています。それはインターネット上の書き込みが作り上げていますが、そもそもインターネット上で炎上に加担している人間の比率は、およそインターネット利用者のうちの数パーセント未満と言われています。ミヤコさんには釈迦に説法でしょうが」
「確かに、そういう話は聞いたことがあるわね」
アクアの言葉に同調するかのように、ミヤコ夫人は頷いた。それもそうだろう。そもそも苺プロはネットタレントを多数抱える「ネットに強い事務所」なのだ。そのあたりの事情を知らないはずはない。
「たかだかその程度の、場合によっては百人に一人より少ない人間の意見が、大衆のイメージを決定づけてしまう。なら、それよりも大きなうねりをわざと起こして、すべてを塗り替えることさえできれば、あかねについた悪評は
違いますか。そう問うたアクアに、ミヤコ夫人は腕を組むことで返した。
「理論上はそうね。……もしかして、そういうこと?」
彼女の声が低くなる。ならば恐らく、感づいたのだろう。「横車を押す」というアクアの意味を。
「どういうことか、認識があっているかはわかりませんが。……そのためには、まずあかねの今回の事件についてリーチする人間の絶対数そのものを増やす必要があります。さらに言えば、今のあかねへの非難一色の状態から、賛否両論にまで世論を傾ける必要がある」
「いい。わかった、あなたが何をしようとしてるか。……あなた、今日のこと、ここにいる記者にタレこむつもりね?」
アクアは無言で、それを肯定した。ミヤコ夫人が、頭に手を当てる。
「分かってます、だいぶ無茶なのは。僕の計画がうまくいけば一過性のものにはなりますが、その間あかねのストレスが増えてしまいかねないことも……分かっています」
「分かってるなら、なんで」
「ですけど。ですけど、その仕込みがないと、次の打ち手の効果が限られるんです。そうやって話題にリーチする層を増やさないと……」
分かっているでしょう、と。
皆まで言わずとも、認識は共有できている。ミヤコ夫人が、どこか呆れたように溜息をついた。
「……着地点は見えてるのね」
「それは、はい。手札も揃ってます。いくらか、
言い切ったアクアに、じろりと目線が向けられる。
そこにいるのはアクアのマネージャーとしてでも、保護者としてでもない、「芸能プロダクションの運営者」としての斉藤ミヤコだった。
声が発される。硬い声だった。
「損益分岐点は」
「黒川あかねの話題の沈静化。ポジティブな評価に傾けられればプラスです」
「勝算は」
「九割五分」
「失敗した時のリスクは」
「最初のニュースの拡散までは確実に成功します。ですからその効用以上のものが期待する水準に満たない可能性が、残りの五分です」
「リスクマネジメントの方法は」
「リスクは保有します。うまくいかなかった場合でも、『二の矢』の部分は最低でも世論に影響を残せます。最初のニュースほどではないとしても」
矢継ぎ早に問われる声に、アクアは次々と答えていく。
この部分までの想定は、今日の騒動が起こる前までに何度もシミュレートしていた。何も考えずに走り出せるほど、この決断は容易なものではなかったからだ。
そして、ここで問いの声が途切れる。しばしの沈黙が流れて、その後ミヤコ夫人は、諦めたように息を吐きだした。
「……あなた、本当に子ども?」
出てきた声は、感心から来ているようにも、あるいは呆れから来ているようにも、アクアには聞こえた。
ただいずれにせよ、答えるべきことは一つだけだ。
「ずっと、考えていましたから。炎上が起きてから、ずっと。ただ今まで踏ん切りがつかなかっただけで、でも……」
右手を握る。そこに視線を落とした。
アクアは思い出す。つい十分ほど前、自分に正対していた少女の、黒川あかねの双眸を。言葉に宿っていた覚悟を。
「あかねが、ああすることを望んでいるから。だから、せめて僕も」
顔を上げ、再びミヤコ夫人と目を合わせた。
琥珀の虹彩の中に、己の像が映りこんでいる。
そこに見える自分は、確かに一つの覚悟を決めた男の顔をしていた。そう、アクアは自分を評価した。
「……そ、わかったわ。なら、やってみなさい」
全てを聞いて、ミヤコ夫人がそう口にする。しかしすぐに、「でも」と人差し指を立てた。
「無理はしないこと。深追いもしないこと。ヤバそうだと思ったら、私に相談すること。いいわね」
「そんな、ミヤコさんにご迷惑をかけるわけには」
「いいわね?」
付けられた条件に抗弁しようとしたアクアの口は、威圧感すら纏ったミヤコ夫人の追撃によって塞がれてしまう。
「いい? あなたは子どもなの。十六歳の子どもなのよ。どれだけ言うことが立派でも、やることが立派でも、あなたには責任を取るだけの能力がない。資格がないの」
続けざまに、諭された。
思い上がるなと、それはそういう声色にも思えた。
「それは……分かって、ますけど」
「だったら、分かるでしょう。私は、あなたの『保護者』なんだから」
目を見開く。
確かに、それはそうだ。しかしそれはあくまで書類上のもので、アクアとミヤコ夫人の実際の関係は、あくまで雇用主とその従業員か、マネージャーとタレントのそれでしかないはずだと、アクアは思っていた。
それでも、ミヤコ夫人は違うという。
「なんたって、私はあなたのおむつを替えたこともあるのよ? あなたはもう、憶えていないかもしれないけど。……だから」
そう言って笑って、そして彼女は一歩、二歩と近づいて――アクアのことを、軽く抱きしめた。
「頑張りなさい。いざとなったら、頼りなさい。……あなただって、一人じゃないのよ」
ふわりと薫った香水の残り香と共に、身体が離れていく。
何も言えず、身体を動かすこともできない。しかしそんなアクアのことを、ミヤコ夫人――ミヤコが小突く。
「さ、時間ないんでしょ? 行ってきなさい」
その言葉に、我に返る。眼前のミヤコに一つだけ礼をして、そのままアクアは記者室のほうへと駆けた。
この日散々身体を酷使したおかげで疲労の溜まった身体は重かったはずなのに、それでもその瞬間だけは、アクアの足取りはどこまでも軽いもののように感じられた。
次の日、黒川あかねの自殺未遂のニュースが世に出回った。「今ガチ」を放送しているネットテレビ局が自社の番組の宣伝を兼ねたメディアで発表していたこれまでニュースとはわけが違う、新聞社や地上波テレビ発のニュースとしてである。
結果、今まで中高生を中心とした幅広い注目を集めていたとはいえ、ある程度限られた世界の中だけで話題になっていた「今ガチ」とあかねに対する議論は、完全に全国区レベルのそれにまで押し上げられた。
ネット上の世論の勢力図は、概ねあかねに対する擁護の反応が八に、彼女に対する根強い批判意見をぶつけるものが二と言ったところだ。流石に命に関わるニュースとあっては、それでもなおあかねを叩くことに対するリスクを考えれば批判の声が弱まるのも当然ではある。
ただ、あかねに対するパブリックイメージは、顕著な改善を見せたわけではない。「リアリティーショーの闇の部分の犠牲者、被害者」という同情的な見方が増えたとはいえ、それは裏を返せば「ストレスを苦にして自殺未遂に至る、メンタルのあまり強くない人間」という印象が付けられたようなものでもある。あかねがそこまでに至ったストーリーを、彼らは知らない。故にそういう表面的イメージでしか、彼らはあかねを語れないし、語ることもしない。
もっとも、一応アクアはそんな彼女のイメージをもある程度覆し得る情報を持ってはいた。
それはいつぞやの、ゆきが「今ガチやめたい」事件を起こした後、次の週の収録前にしていた会話である。
あの時、MEMちょは自分のチャンネルの登録者数の増加で暖かくなった懐具合のことについて、ノブユキから「事務所と収益折半だから随分と儲かっているのではないか」とイジられていた。それがそのあとの「焼肉食事会」につながるのであるが、今はそこはどうでもいい。
問題は、そのとき同時にあかねが、自らの所属する事務所がのギャラの配分を「八対二」であると明かしたことだ。
これだけ聞けば、「タレントの取り分が八」と取るのが普通だ。随分良心的な事務所であると考える者もいるだろう。
しかし実態は逆だ。「
その話を聞いて、アクアは内心で驚愕していた。無論、あかねが好きで所属している可能性がある故に口には決して出さなかったが、「それは所謂『悪徳事務所』と言うのではないか」と、内心で言葉にしていたほどには、である。
そこに今回のあかねに関する顛末を加味すると、彼女の所属する事務所はやはりどうしても内側に大きな問題を抱えている可能性が高い。
よってその辺りのことを週刊誌あたりにタレこんでみれば、あかねの「被害者論」は更に活発になり、彼女についた汚名のかなりの部分を無効化できる可能性は、確かにあった。と言うより、その可能性はかなり高いと言えるだろう。
ただ、アクアはこの方針については真っ先に見送っていた。
だいたい、そもそもそういうダーティーな情報であかねの身の回りを騒がせることになれば、彼女の心労が増すことは明らかだ。
そんな事態をあかね自身が望むわけがない。愚にもつかない選択である。あかねに対して何の断りもなくそんなことをやっていい道理など、どこにもありはしなかった。
しかしその一方で、あかねのイメージアップのために追加の戦略が必要であるという現実には、変わりはない。
故にこそ今、アクアには別の道が、「次なる手」が必要なのだ。
果たしてそのための材料も、既に自らの手の中には揃っていた。
アクアは今期の今ガチにおいて、自らのことを「役者兼映像監督見習い」と名乗っている。そしてその肩書に説得力を持たせるべく、アクアは劇中において度々カメラを握っている。
それはポーズではない。実際にアクアは自らの撮影機材を使って今ガチの面々の恋愛模様やオフショットを撮って、そしてそれを契約を基に番組側に提供している。実際、「アクアが撮ったもの」として番組側がその内容を放送に載せたことは、一度や二度のことではない。どころか、結構な割合でアクアの撮ったシーンが演出に使われている。
アクアが番組側と締結している契約の内容は、こうだ。
まずアクアが撮影したデータについて、番組に対して提供し、放送に載った内容に関しては、その著作権を番組側に譲渡し、著作者人格権も放棄する。
一方、そのうちの放送に載らなかった部分、ないしアクアが番組側に提供しなかった部分については、その著作権や著作者人格権はアクアに帰属する。なお出演者のパブリシティ権や肖像権の問題があるため、撮影した内容を番組の外において公衆送信する場合は、各出演者との個別の交渉を必須とし、そこに番組は関与しない。ただしその中でも、ツイッターをはじめとする番組の公式メディア上にそれらを公開する分においては、パブリシティ権や肖像権に関する契約を番組側が代行したものとして、出演者への個別の交渉を必要とせずに公開することを認める。
総じて好意的というか、随分とこちらに対して譲歩した内容で契約は結ばれている。特に、アクアが番組に提供したデータの中でも放送していない部分の権利をアクアの側が保持してよいことになっているというのは異例と言ってもよい厚遇である。
これが鏑木の差し金によるものなのか、それとも苺プロの、つまるところ壱護社長やミヤコの手腕によるところなのかは、アクアとしては分かっていない。あるいは両方というセンもあるが、とにもかくにも今の局面において大事なのは、アクアは自らが撮影し、そして番組が使わなかった部分や番組に提供しなかった大量の映像データを、番組の公式メディアを通じてならば自由に発信できるという、ただその一点である。
無論のことではあるが、アクアは初めからこういう展開を想定して現場への撮影機材の持ち込みを公然とできるように振舞った――わけではない。しかし恋愛リアリティーショーという番組の性質を考えれば、それがともすれば「防衛策の一つ」として働くことになるであろうと考えていたことは事実だ。当然、もっぱら自衛のためにである。
結果、その布石が巡り巡って黒川あかねを窮地から救うために使われようとしているのだから、世の中とはわからないものである。
その次の週の撮影日のこと、アクアは撮影の空き時間を見繕って、収録にやってきている今ガチの面々――すなわちあかね以外の全員を集めた。
場所は、図書室のセットの中だ。ここは多くの場合控室として使われているのもあって、定点カメラも監視カメラも置かれていない。番組スタッフに聞かれたくない話をするのにはうってつけだった。
「先週の件だけど。あかねのことをどうにかするために、手伝ってほしいって頼んでた、あれのこと」
切り出したアクアに、全員の視線が集まる。それぞれ神妙な表情で、彼らはアクアのことを見ていた。
「あかねの自殺未遂の話がニュースになって、ことはかなり大きくなった。このまま放っておくと、話がどういう方向に転がるかわからない。だから、手を打ちたいと考えている」
そう仕向けたのはアクアだが、それは言わない。狡いやり方ではあるが、こればかりは方便だ。
「その言い方だと、アクたんにはやりたいことがもうあるんだね?」
アクアの言い口に対して、MEMちょが鋭く切り込む。そちらに視線を合わせれば、興味深げな瞳の光がアクアを覗いていた。
無論、その通りだ。アクアは頷く。
「『コンテンツにはコンテンツで』、だ。あかねを炎上させたのが『今ガチ』というコンテンツなら、その炎を吹き飛ばすほどの力を持ったコンテンツがあれば、印象の上書きを狙える。ここまで注目度が高くなってるんだ、うまくやりさえすれば」
「なるほどぉ? 今の大ごとになっている『風』の力を使って、『バズ』を狙いに行くわけだね?」
MEMちょが腕を組んだ。二度三度頷いて、その口を小さく歪める。
「悪いこと考えるねぇアクたん。ちなみに、何を出そうとしてるの?」
「俺が今まで回してきたカメラのデータだな。制作サイドに出さなかったデータはかなり大量にある。まあ、オフショット集みたいなものと思ってくれればいい」
「へぇ。……面白いじゃん。つまりアクたんが作りたいのは、制作サイドが選ばなかった『もう一つの今ガチ』ってわけだ」
『もう一つの今ガチ』。確かに、言い得て妙なのかもしれない。アクアの内心としては、そこにさらにもう一つの狙いを忍ばせることを考えてはいるが、大筋で言えばMEMちょの言う通りだろう。
「まあ、そういうことになるな。ってわけで、みんなにちょっと相談なんだけど」
そこまでいって、やっと本題である。すなわち今日集まった全員に対して、アクアが助力を頼みたい部分の話だ。
「基本的には、映像データは俺のを使おうと思ってはいる。けど、それだけだと俺の色が前に出過ぎる。だからいくつか、みんながスマホとかで撮ってきたこの現場の画像とか動画とか、そういうものも使いたい」
それが、いわば依頼の第一の部分である。
まずはということで、アクアはMEMちょに問いかけた。
「……MEM、君はどれぐらい持ってる?」
「え? いやぁ、そんなには……えぇっと、写真は百枚ぐらい? 動画はちょっとわかんない」
百枚。アクアは口の中で復唱する。
「静止画百枚、か。……選別すること考えたら、まあ何とかか。もらうこと、できそうか?」
「当然。どーぞどーぞ」
「ありがとう」
礼の言葉と共に小さく頭を下げたアクアに、ノブユキからも声がかかる。
「なら俺も。メっさんほどはないけど、結構出せるものあると思うぜ?」
「それは、助かる。頼めるか?」
「おう!」
親指を立てて見せてきたノブユキに、こちらも軽く礼をする。
そうすれば、今度は「次は俺だ」とばかりにケンゴが手を挙げた。
「なら、俺は曲だな。BGM、欲しいだろ?」
そう言って、背負っていたギターケースをこれ見よがしに掲げる。
「BGM……そうか、確かに」
その言葉を受けて、アクアは手を口に当てていた。
言われてみれば、であった。音響の、というよりも劇伴の効果は、はっきり言って馬鹿にできない。映像が多少粗削りでも、ストーリーが未熟でも、その難点を音楽の質の一点突破で強引に解決している映像作品など、世にいくらでもある。
最低でも、巷にある権利フリーの音源を使うよりもずっと質が上がることは間違いない。そして今回の動画が「今ガチのみんなの手による制作物だ」とアピールする効果まで、そこには生じている。
アクアにとっては自らの考えにはなかった視座であり、同時にそれが実現できるのであれば、この上ない援護射撃だと言えた。
「それは、かなり助かる。……けどそれ、流石にロハっていうわけには」
「いや、いいぜそんなこと。あかねを助けるためだろ? 金なんていらねぇよ」
「……そっか」
目を瞑る。
世界にあるのは、悪意だけではない。最低でも今この瞬間、この場にいる彼らの献身や共感というものは、心に確かな熱を生ずるほどには純粋で、そして尊い。
「……ありがとう」
その熱を抱えながら、アクアはケンゴに、ノブユキに、そしてMEMちょに、頭を下げる。
果たして、最後。
アクアは、いつの間にか自らの横に立っていた少女――ゆきに向けて、視線を合わせた。
「あ、やっとこっち見てくれた」
そう言って、彼女は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
相変わらずな様子に内心少しだけ身構えてしまったアクアに、しかしゆきは今までとは少し毛色の違う提案をしてきた。
「ねえ、やっぱりあかねの誤解を解こうと思ったら、『あそこのカット』は必要じゃない?」
「『あそこの』? ……ああ、なるほど 」
言われて、アクアはすぐさまにゆきの言わんとするところを理解した。
「あの時、カットがかかった後の話か」
「そ。私のことぶっちゃったあかねのことを、私がやさしーく抱きしめてあげたところ」
その言いっぷりに、アクアは察した。つまりゆきは、あそこでカメラが止まっていなくとも、番組が定点カメラの映像を使うことを決めたとしても、自分は確実に美味しいポジションを確保できるように立ち回っていたわけだ。
本当に強かな少女である。ため息が漏れた。呆れにか、感心にか、そのあたりは自分でもよくわかっていなかったが。
「定点カメラの位置、意識してたんだな」
「そりゃ当然。私、これでも『撮られる』ことでお金稼いでるんですけど?」
ゆきが胸を張る。してやったりというか、完全にドヤ顔をしていた。
アクアの正面にいるノブユキが、何とも微妙な表情でゆきのことを見ている。まあ、これが「鷲見ゆき」なのだ。良くも悪くも。
ともかくも、アクアは頭を回す。
一応、自分の計画においてはあの周辺の出来事を抜きにしても、あかねの評価を上向かせるだけのコンテンツを作れる自信はあった。伊達に五反田監督の弟子をしていないという矜持もあった。
ただ、確かにあの時の一連の流れがあった方が、大衆にとっては「わかりやすく」なる。圧倒的に。
しかし、アクアは認識している。
もしそのデータを使おうとするならば、アクアたちはそれ相応のリスクを抱え、覚悟を決めなければならない。
故にそのことをゆきが果たして分かっているのかどうか、アクアは確かめる必要があった。
「……それはわかった。けど、あの時俺はあそこにいなかったから、カメラは回してなかった。だからその映像が欲しい場合は、番組との交渉になる」
今まで視線しか向けていなかったところを身体ごと向き直って、アクアはゆきに説く。
「しかもあのあたりは、番組が意図的に落とした部分だ。それを包み隠さず流そうというのは、つまり番組に対する『公然とした反逆』ということでもある」
あえて、アクアは強い言葉を使う。ゆきが小さく目を見開いた。
「加減を間違えれば、今あかねに向かっている批判の矛先が、番組に向く。番組は当然そのリスクを認識しているから、まずそういう映像は出し渋る。……それにもし、俺たちのやったことでそういう事態が起きたら、番組側から訴訟を起こされるリスクもある」
この部屋の空気が、俄かに重くなった。アクアがそうさせたのではない。全員がそのリスクを認識したということだ。
「そのとき、矢面に立つのは俺たちじゃない。
わかっているのか、とアクアは無言でゆきに問うていた。
ゆきの瞳が揺れている。理屈では認識していたはずのことだろうが、それを改めて言葉にしたことで、重大さに意識が向いたのか。それともそもそも、そこまでのことだと思っていなかったのか。
と、そこでアクアは自分がかけていたプレッシャーを緩めた。表情を少しだけ和らげる。
「……まあ、それは最悪の想定ではある。立ち回りをしっかりして、内容も確認すれば、そこまでのことにはまずならない、とは思う」
そうやって、一瞬空気を弛緩させる。しかしすぐさままた引き締めにかかった。
「けど、最低でも番組側はそういうリスクを想定する。なにごとも最悪を意識するのが、ビジネスの世界だ」
そして、今一度ゆきに問う。
「ゆき。それでも、あの時の映像データを番組から引き出そうと思うか? これは『すべき』とも『すべきでない』とも違う。君がどう思っているかを、虚心坦懐に訊いている」
これは、ある種の「試し」でもあった。何事も、「自分は損をしない場所」から勝負を仕掛けようとし続けてきた彼女に対して、果たしてその立場を捨てる覚悟はあるのかと、そうアクアは問いかけていた。
長い静寂が横たわる。アクアはゆきから視線を外すことなく、威圧すらかけるほどの眼力で、沈黙する彼女のことを見据え続けている。
アクアとしては、どちらでもよい。あのときの映像がなくとも、説得力のある作品を作ってみせる自負はある。故にこれはどこまでも、鷲見ゆきという個人の問題だった。
果たして、俯きがちに無言を貫いていたゆきが、徐に顔を上げる。視線がぶつかった。
表情を見る。それは、どこか憤りを内包しているようにも、アクアには思えた。
「……アクアが私のことをどう思っているかは知らないけど。私はね、あかねのこと好きだよ。嘘なんかついてない」
出てきた答えは、一見して全く答えになっていない。
しかし、アクアには解る。彼女は、向けられた問いの奥底に流れているアクアの隠された疑念を、きっと正確に見抜いている。
「アクアの方こそ、どうなの。あかねのこと助けたいって思う理由は、なに」
だからこそ、そういう問い返しがくる。挑むような目つきで、ゆきはアクアに逆襲を仕掛けてきた。「そういうお前はどうなんだ」と。
なるほど、それはアクアにとってはなかなかに芯を食った疑問だ。答えるに、慎重さを以て当たらねばならない問題でもあった。
息を大きく吸う。肚を決めて、呼気に言葉を載せた。
「夢が、あるだろ。あかねには」
そうだ。色々ととってつけた理屈の全てを剥がして、最もシンプルな一言でアクアの中の動機を述べるのであれば、結局はそこに帰着する。
「叶えたい夢がある。それに対して努力している。未来に望みを持っている。報われなければならないって思うのは傲慢だろうけど、でも、それでも、あんなことで、あんなやり方で摘まれていい夢じゃない。踏み躙られていい努力じゃない」
アクアにとって、それは本質なのだ。きっと、アクアがアクアとなるよりも前からの。
「『逃げない』って、言っただろう。『負けたくない』って、あかねは。だったら、俺は俺のできる範囲の全てで、それを援けたい。そう思うことを、それをすることを、俺は恥だとは思わない」
啖呵を切る。ゆきを、彼女が自身に向けているそれと同じほどの力強さで、アクアは見据え返した。
しばしのにらみ合いが続く。結果、先に動いたのはゆきの方だった。
「……ま、そりゃそっか。アクアの方が覚悟キマってるの、当たり前だもんね」
少しばかりバツの悪そうな笑みを浮かべて、彼女は頭に手を当てる。
しかしすぐに、その表情を真剣なものへと変えた。
「けど、私も本気だよ。本気で、あかねを助けたい。だから、私も覚悟を決める」
一歩を踏み出す。アクアを見上げる。そして、ゆきは言い切った。
「アクア、これからスタッフさんのところ行くつもりなんでしょ? ――私も行く。私も、一緒に頭下げるから」
確かにそれは、覚悟を決めた人間の眼だった。
アクアはその時、初めてこの鷲見ゆきという少女の人間性を、好ましく思えた気がした。
その日の収録の終わり際、夕景が校舎を茜に染め上げる只中に、アクアはこの番組のディレクターと裏庭で対峙していた。約束の通り、ゆきと一緒にである。
「話は、聞いてるよ。あかねのあの時の映像の話だよね。ま、当然あるにはあるよ」
しれっとした態度で、ディレクターはそう言う。そしてその次に何を言うかも、当然アクアは認識していた。よって先手を打つ。
「使わないと決めた映像データですし、難しいことは理解しています。そもそも、あの時のあのカットをああいう使い方で出したのは
「そうだ。僕たちは『今ガチ』というショーを撮っている。演出に方向性があることは、君たちも納得しているはずだよ? あかねもね」
ディレクターの言い分は、なるほど正しい。出演者と番組との間を結ぶのは契約であり、同時にそれのみを以て両者の関係は定義される。最終的には、そこに帰着するのだ。
しかし、人と人との関係は、それだけではない。
「そうかもしれません。ですけど、それでは僕は、僕たちは納得できません。あかねがああなって、ああなった現場で、何もなかったみたいな顔で、仕事なんてできません」
そう、強く主張する。
甘ったれた言葉だ、と言われれば、否定するのは難しい。「それはプロの行いではない」と諭されるかもしれない。
しかし結局、人の根幹をなすのは情だ。そして情によって動くのがこの芸能という世界の道理であることを、アクアは知悉している。
「私も! ……私も、あの場所にいて、あかねとああなって、それで今こんなことになってしまっているのは、つらいんです」
アクアを援護するように、後ろから声がする。ゆきの声だ。
「あかねとは、これからのこともいっぱい話してて。この現場が終わっても、仲良くしていたいねって。一緒にまた、仕事できたらいいって。だから私、あかねがこのままになっちゃうの、どうしても嫌で……っ!」
迫真の台詞だと、内心でアクアは感嘆する。やり取りの直前に、アクアが持ち込んだ文脈が自分に何を求めているのか、ゆきは瞬時に判断した上でこの行動に出ていた。
先刻の休憩時間の中でアクアと話した中で得た、あかねの夢のこと、将来のことまで、その言葉の中には含まれている。それが人の心を揺り動かすものなのだと、彼女は理解した上で、敢えてそれを武器にしてみせていた。
確かに、彼女が言っていることそれ自体は全て彼女自身の本音ではある。しかしこれほどまでにそれを効果的に使い、感情を揺さぶるような言葉遣いをさらりとしてみせるのは、ゆきだからこそだろう。
これで全くもってわざとらしくはないのだから、恐れ入る。ゆきがこの場に出てきてくれたことは、アクアにとって百万の味方を得たに等しいのかもしれなかった。
「だから、お願いします! ディレクターさん、あかねを助けてください!」
「僕からも、お願いします。あかねを助ける判断ができるのは、あなたしかいないんです。どうか、僕たちを、あかねを助けてもらえませんか。……お願いします」
そして、二人ともに深々と頭を下げる。
下げた後は、それを上げることなく待ち続ける。最低でも、ディレクターが何かを言うまでは。
そこからどれほどの時が経ったか。もしかしたら一分ほどかかったのかもしれない。沈黙の果てに、ディレクターが言葉を口にする。
「……頭上げて、二人とも。話できないから」
そこまで言われて、ようやくにして二人ともに顔を上げる。
正面に見るディレクターは、分かりやすく渋面を作っていた。渋面というか、どこか諦めたような表情をしていた。
「いくら言われても、これは内規の問題だ。だから心苦しいけど、映像は出せない。……というのが、多分制作側の人間としては正しいスタンスなんだろうけど」
そんな、何とも歯切れの悪い言い方で、ディレクターは横を向く。被っている帽子を、目深にした。
「たしかに、君たちには未来がある。それを守るのも、大人の役目、か」
そして放たれた呟き混じりの一言で、アクアは自らが賭けに勝ったことを察した。
果たしてアクアはその狙いの通り、目当てとなる定点カメラの映像を含めた大量のオフショットのデータを手に入れることに成功した。
ただし、そこには一つだけ条件が付けられた。それは、アクアたちが作ってアップする動画のストーリーに、『とある要素』を加えること。
転んでもただは起きぬとばかりのディレクターの「遣り手」ぶりに、アクアは内心で苦笑する。そのディレクターの提案が、もともとアクアが想定していたストーリーと奇妙にも符合していた事実にも。
当然に、アクアは快諾する。
斯くしてここに、手札は揃った。
「……いや、今回は助かった。ありがとう、ゆき」
ディレクターとの「対決」の場からの帰り、アクアはそう、ゆきに礼を述べる。
今回の交渉において、MVPと称されるべきは間違いなく彼女だった。彼女の言葉が、態度が、確実にあのディレクターの心を揺さぶった。その結果として、彼は折れてくれたのだから。
「でしょ~? 私、役に立ったでしょ?」
神妙なアクアの振る舞いに、ゆきが得意げな顔で返す。しかし、すぐにその顔を膨らませた。
「分かってるんだよ? アクアがちょっと私のこと苦手なんだなって」
飛んできた言葉に、アクアは頬を引き攣らせる。
――やばい、バレてる。そういった心持ちであった。
「……ごめん」
「いや、謝られると逆に傷つくわ。……そうじゃなくて」
ゆきが立ち止まる。つられて止まったアクアのことを、彼女はほど近くにまで近寄って、見上げた。
いつかの光景と、構図が重なる。
「アクアには、もうちょっと私のこと、信じてほしいかな。だって私、アクアのこと、結構好きなんだよ?」
そして、そう言いながらもゆきは笑った。まるで、あの時と同じように。
「……ほんと、そういうところだぞ」
故にこそアクアは、そう返すことしかできなかった。
あの日とは裏腹の、夏の夕暮れの光景だった。
「ちなみにだけど、あれでディレクターが首縦に振ってくれなかったらどうしてたの?」
「まあ、まずないとは思ってたけど……次は利を説くかな。俺たちの動画を世に出すことで、番組にどういうメリットがあるか。今の状況が、番組にどういうリスクをもたらすか。そのあたりをプレゼンする」
「それでもだめなら?」
「……そしたら、もう懇切丁寧に『ご説明』するしかないだろうな。未成年者を使ってることのリスクとか、あかねがメモを取っていることが物的証拠になるとか、契約書があっても相手が未成年だから、公序良俗規定違反とか信義則違反でいくらでも無効にできる余地があるとか。あなたたちはそういう訴訟リスク抱えてますけどそれでいいんですか、とか。まあ、材料はいろいろあったからな。場合によっては、あかねの事務所の上の方の人間引っ張り出してもいいし。というか本来所属タレント守るのなんて事務所の仕事であるべきだろ」
「……あのさ。私、正直アクアの方が怖いと思うよ、私よりも」
「そうか?」
「そうだって」
「そうか……」