天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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2-10. 過去と現在の狭間で

「黒川あかね、なんとかなったみたいね。よかったわ」

 

 苺プロの事務所の中で、かなが不意にアクアに声をかける。

 

「え? ああ、まあな。『余計なおまけ(アクあか)』がついてるのはあかねに申し訳ないけど」

「……ほんとにね」

 

 アクアの零した言葉に、かなが首肯する。なぜかその言葉には、いやに実感がこもっていた。

 アクアの言った「おまけ」の意味と、かなが認識したそれが果たして同じものであるかどうか。疑念はないでもなかったが、アクアは訊ねようとまでは思わなかった。

 

「けど、本当によかった。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 しかし、続けて放たれたかなの言葉の調子を聞いて、アクアは問わざるを得なくなる。

 

「……そう言えば、前あかねのことを知ってるって言ってたか。知り合いなのか? もしかして」

「まあね」

 

 そう、一言だけ返したかなの横顔には、いくつもの感情が折りたたまれているようにアクアには映った。

 

「同い年の役者だし、同じオーディションに出たことだってある。私は中学生になる前に、一回『終わって』しまったけど、あの子は違った」

 

 かな、と声をかけようとして、しかしやめる。

 アクアが、かなの自己認識を否定できるわけもない。アクアが作れるものがあるとすれば、力になれる何かがあるのだとすれば、それはかなの未来だ。過去ではないのだから。

 

「あの子は、本物の天才よ」

「それはまあ、肌で感じてるところだけど」

「いや、甘いわね」

 

 言いながら、かながアクアの方を見る。その目に宿る光は、真剣そのものだ。

 

「あなたはまだ、黒川あかねの本気を見ていない。賭けてもいいわ」

 

 断言される。

 

「だからアクア、あなた黒川あかねのことを『守ってやらなくちゃいけない』とか、『助けてやらなくちゃいけない』とか、思ってるんでしょうけど」

 

 柘榴の瞳に、意志が載る。

 

「――いつまでそう言っていられるかしらね」

 

 そう言い捨てたかなの言葉の意味を、アクアはそこから程なくしてその身をもって知ることになる。

 

 

 

 

 

 アクアが、半ばゆきとMEMちょに誘導されるように、あかねに対して「アイ」の演技を求めた、その次の週のこと。

 「今ガチ」の教室のセットの入口には、制服姿に着替えたアクアとあかねの姿があった。

 

 今週から、あかねが「今ガチ」の収録に復帰する。

 実に三週間ぶりのことだ。予定されている放送回も、もう残りはそう多くない。「放課後に集まった高校生たちの活動」という番組のコンセプト通り、収録は一学期いっぱいを以て終わるのだから。

 だからこそ、アクアをはじめとする今ガチの面々は、今度こそあかねをしっかりとサポートするつもりでいた。結局のところ、「役作り」のアドバイスというのもその一環ではあったのだ。

 

 アクアの目の前で、あかねが番組のスタッフに向けて挨拶をしている。

 ここまで迷惑をかけたことを詫び、代わりに自分の頑張りでお返しさせていただくと、謙虚さを持って、しかしある意味で大胆に、彼女は約束の口上を述べて、頭を深々と下げる。

 そこにあるのは、覚悟だ。そして誠意でもあった。あかねらしい在り方だ。アクアにとって、好ましい在り方でもあった。

 

 横に並ぶ。目配せをする。合った視線の中、双眸に揺れは見られない。

 意志の強さゆえか、あるいは自信によるものだろうか。先週、あの控室(図書室)のなかで決めた役どころを、果たしてあかねはどのように解釈したのか。

 

 小さく、無言のうちに会釈して、アクアは一足先に教室に入る。

 カットは、教室に先に入っているアクアが、長らく休んでいたあかねが久しぶりにこの教室に現れたことに、驚きつつも安堵の声を上げて歩み寄る所から始まる。番組スタッフには、そういう演出で行く旨をすでに伝えてある。

 

 バミリはない。しかしやることも立ち位置も決まっている。アクアが窓際に立ち、憂い顔で外の景色を見つめる態勢に入れば、「スイッチ」が入ったことを察した撮影スタッフが、カメラ回しの開始を告げる。

 意識を「アクア」に入れ替える。あかねに対する純粋な心配の念を表に出し、後悔すらも滲ませながら、掛かっているカーテンの端を掴んだ。

 

 それと同時に、教室のドアが開く音がする。はたと顔を上げ、アクアは背後を見る。

 そこにいるのは、あかねだ。少しだけ俯いている顔ははらりと垂れ下がった前髪に遮られていて、その下の表情は伺えない。

 

「あ、かね……」

 

 掠れた声で、呼びかける。手がカーテンを離れ、身体が向き直って、ふらふらと、引き寄せられるように歩く。

 

「あかね……本当に?」

 

 声の端が震える。信じられないと、しかし裏にある歓喜の情を隠せないような声色で、アクアは一歩一歩あかねに近づき、目の前に立つ。

 

「うん……ただいま」

 

 顔を伏せたままに答えるあかねに、アクアは安堵の息を吐く。

 

「そっか。……よかった。本当に」

 

 穏やかな顔で、そのままアクアはあかねに向かって手を伸ばそうとして、しかしすんでのところでそれを引っ込める。

 衝動のままに動いて、女の子の、あかねの身体に触れそうになったことを羞じるように、アクアもまた俯く。

 

 しかしそこで、今度はあかねが声を上げた。

 

「聞いたよ? あの動画のこと。私のために、すごくすごく頑張って作ってくれたって。……その前の、あの日のことだって」

 

 それは、未だ等身大のあかねの声だ。役を演じてはいない。

 どうしたのか。あの時の話を忘れているわけではないはず。そう、「アクア」ではないアクアの部分が囁いて――

 

()()()()

 

 しかしその瞬間、アクアは目の前の少女が、決定的な変質を遂げたことを察した。

 

 

 

 空気が入れ替わる。振る舞いが。閉じられていた身体が開かれ、呼吸の頻度も変わり、そこから一歩踏み出された、歩幅すらも上書かれる。

 思わず、素の認識のままに反射的に顔を上げてしまったアクアに向けて、あかねが口を開く。

 

「お返し、させてよ」

 

 言葉と共に、俯いていた顔が、ゆっくりと露わになる。

 自信に満ちた表情の中に、慈しみの色が見える。

 映し出された現実が、記憶とオーバーラップしていく。上げられた口角も、そしてアクアのことを見据えている、見開かれた双眸さえも。

 

「誰よりもまず、君に」

 

 そこに宿った光を見て、アクアは否応なしに気がついた。

 

「いいでしょ? ねぇ――」

 

 今目の前に立っているのは、あかねとは違う誰かだ。

 

 

 

 そうだ。今アクアの目の前には紛れもなく、いつの日かの記憶の中の「その人」が、立っている。

 

「――()()()?」

 

 十二年前の、アイが。

 「あの日」、あの悪夢が起こらなければ、間違いなくその先に座していたのであろう、幼き日のアクアの母の姿が。

 『二十歳のアイ』が今、確かにアクアの前に立って、しかし同時に『今のアイ』がいつもの日々において向けているものと全く同じ色を宿した視線で、アクアのことを見つめていた。

 

 

 

 アクアにとって『本物』の二十歳のアイというのは、あの事件の直後であったが故にどうしようもなく弱り切っていて、しかしそれを虚勢で完全に覆い隠した、強くも弱い存在だった。

 夜の闇に震えて、掻き抱かれる胸の中で悲痛なまでに乱れる呼吸の音を聞いた、あの日々を思い出す。それは狂おしいほどの自己嫌悪と後悔と、そして無力感の象徴だった。

 

 ――それなのに、今は。()の、目の前にいるのは。

 「アクア」が、アクア自身と共鳴する。

 在り得たかもしれない可能性が、しかし自分は掴むことのできなかった幻影が、そこにはいる。

 

「あかねだー! ホントに帰ってきてる!」

「ただいまーMEMちょ! みんなも!」

 

 その笑顔も、あるいは声すらも。黒川あかねであって、黒川あかねでない。

 知っていた。あかねという役者の恐ろしさというものを。分かっていたはずだった。

 じゃれつくように抱き着いてくるMEMちょにも、他の今ガチの面々にも、平等に笑顔を振りまく。(あい)を配る。

 

「そういやあかね、大丈夫だったのか?」

「どゆことノブくん?」

「いや、あの……つまり」

「あぁ、炎上のこと? まあ、確かにキツかったよ? だからあんなことも起こしちゃったわけでさ? あぁ、やっちゃったなーって」

 

 しかし、その視線がアクアに向く時だけ、はっきりと色が変わる。声もまた、同じように。

 

「けど、みんなが……アクアが、あそこまでやってくれたらさ? そりゃもう私だって、うじうじなんてしてられないよ。だから――」

 

 あかね(アイ)が、アクアに歩み寄る。その一挙手一投足に、全員の注目が集まる。

 どこまでも軽やかに。踊るように、歌うように。

 「私を見ろ」という強烈なまでの主張が、場の空気の全てを支配して、あかねの存在を世界の中心に据えた。

 

 斯くも全員の視線を一手に集めながら、あかねがアクアのほど近くで、上目遣いに見上げてくる。

 

「――ねえアクア、無理してない?」

 

 そして放たれた言葉に思わず声を上げそうになるのを、アクアはすんでのところで抑え込む。

 堪えきれた自分のことを、褒めてやりたいぐらいだった。

 

 なぜなら、それはアクアが生涯の中で何度もアイ本人から聞いた言葉であったからだ。

 

 あのストーカーに刺されて生還したあと、病院の中で動かない身体に鞭を打ってリハビリに励んでいた時も。

 五反田監督の所で盛んに演技の練習をした、その帰りにも。

 そしてつい最近、あかねのために色々と奔走を続けていた数週間の中においても。

 

「いや……その」

「私、心配だよ。アクア頑張り屋さんだから。それで助けてもらった私が言うのもなんなんだけどさ」

 

 少し拗ねたような声色も、そこに宿る少女のあどけなさも、同時に内在する『母』の慈しみさえも、何もかもが重なる。

 記憶と、幻影と、今目の前にある現実が、収束していく。

 

「だから、さ――今日は私、アクアと一緒にいたいかなっ」

 

 そう言って至近距離で微笑んでみせたあかねの双眸が、その輝きが、今一度アクアを射貫く。

 光の向けられた先、どうしようもなく乱される心の中で、どうにかして冷静な部分をかき集めて自らの表層に「アクア」を再構築して、アクアはぎこちなく頷いた。

 

「やったっ」

 

 片目を閉じて、無邪気な喜びを表出させるさままでもが、強く心の奥底を揺さぶる。

 後悔の象徴で、希望の影法師で、重なりあわないはずの現在と過去が同居しているあかね(アイ)の姿から、アクアは目を離すことができなくなっていた。

 

 

 

 

 

 その収録の回の放送を機に、「今ガチ」の潮目は完全に変わった。

 インターネット上での炎上事件と、そこからの自殺未遂というショッキングな出来事を、文字通り身を挺して庇って、東奔西走して解決まで導いた「アクア」に対して、「あかね」ははっきりとした恋心を自覚する。

 それは今回のことで無理をしたアクアに対する感謝から来るものであったが、同時にそんなアクアの献身的態度に対する心配の念も、あかねは懐いていた。

 故に彼女は一念発起する。もともとアクアは高一で、あかねは高二だ。いつまでもアクアに助けられて、導かれているばかりではいられない。

 

 だから、あかねは変わった。自らの「能力」を、「意思」を、もはや隠さなくなった。

 

 時に、役回りとしてカメラを抱えて孤立しがちなアクアのことを、輪の中に入れて。

 時に、同じ役者として、アクアが抱えている課題や疑問にアドバイスをして。

 陰に日向にアクアを見て、世話を焼いて、あるいは導いて。

 

 そんな、まるで『姉』のような振る舞いで、あかねはアクアと交流を深めていく。

 

 誰の目をも惹きつけてやまない、しかしアクアにだけは世話焼きな「姉さん女房」の表情を見せるあかねに、少し気圧されながらも着実に絆されて、心を開いていくアクア。

 「今ガチ」における「アクあか」の関係性は、そういう少年のいじらしさと、少女の母性すら感じさせる甘い包容力をウリとして、視聴者の心にクリーンヒットした。

 斯くして「アクあか」は、終盤の今ガチにおけるメインプロットとして急速にその存在感をアピールし、今ガチの人気それ自体も併せて押し上げていった。

 

 

 

 

 

 

 

「へぇ? 凄いじゃん、この子。これ、あの時の私かぁ……アクアにああいう風にしてあげられてたら、よかったのかなぁ」

「黒川あかね。黒川あかね、ね。よし憶えた。黒川あかねちゃん」

「いやぁいるもんだねぇ、天才って。あれかな、この分だと、やっぱりアクアの『カノジョ』になるのかな? そしたら、もしかしたら会えるかもっ」

「楽しみだなぁ、あかねちゃん」

 

「あかねちゃん……劇団ララライ、か」

 

 

 

 

 

 

 

 あかねの復帰以降、今ガチというコンテンツはますますの流行を見せ始めている。放送はもはや最終盤、残り数回程度しかないにもかかわらず、再起したあかねの強烈なキャラクター性と、彼女の復帰にまつわるストーリーそのものが、もはや今期の今ガチという番組自体を社会現象と呼んでもよいほどにまで昇華させていた。その相手役であり、彼女の復活劇の立役者となったアクアもまた当然に、世間からの注目の対象となっている。

 

 しかし――そんな華々しい活躍と向けられる賞賛の一方で、アクアは最近自分自身の心の動きに、解消しようのない大きな疑問を抱えていた。

 

 ――『守ってやらなくちゃいけない』とか、『助けてやらなくちゃいけない』とか、思ってるんでしょうけど。

 ――いつまでそう言っていられるかしらね。

 

 かなからかけられた言葉が、脳裏に強くリフレインする。

 その洞察は、本当に正しかった。いや、かな自身が想定しているものとはきっと違う部分もあるだろう。しかし、今のアクアが抱えている心中の葛藤が黒川あかねという少女に起因することだけは間違いがない。

 

 二十歳のアイ。彼女の過去のようでいて、しかし現実には存在しなかった、幻影の母の姿。それを見せつけられることは、アクアにとって過去と向き合うことと同義だ。

 そしてそんな「過去の母のあり得たかもしれない可能性」が、母性すら内包した真っすぐな好意を寄せてくる。

 

 確かに、それは演技だ。あかねとアクアの間で繰り広げられているのは、互いにキャラクター付けを行ったうえでの恋愛劇だ。

 しかしそうであっても、そんなあかねの振る舞いは、「アクア」という分厚かったはずの鎧すらも容易く貫通する。

 素のアクアの胸中に慙愧の念を巻き起こし、戻らない過去に郷愁を覚えさせ、そんな彼女に向けている感情が、「アクア」のものかアクア自身のものか、境界すらも曖昧になる。

 

 悩みは深まる。そしてこれは、おそらく個人では解決の難しい問題だ。

 ルビーには相談できない。無論のことアイにも。なれば、話を持ちかけるべき相手というのは、アクアの中で一人しかいない。

 

 斯くしてアクアは、その少女――有馬かなにメッセージを送る。

 「今日の放課後、二人で出かけないか」と。

 

 

 

 アクアのその選択は、自分の悩みの相談に加えて、また一つの狙いを秘めていた。

 かなを苺プロに引き入れたのは五月ごろ、つまり二か月前のことだ。しかし彼女は苺プロの所属となってからこのかた、特に仕事を振られているわけでもない。

 偏にそれは、ルビーのアイドルデビュー計画のための人員集めが捗々しくないからである。MEMちょの勧誘にしても、建前上恋愛リアリティーショーに出演している間は難しい。

 つまり今の有馬かなは、苺プロの中で完全に無聊を(かこ)っている。何かと最近事務所を訪れることが増えたルビーとの間で仲良くしてはいるようなのだが、だからと言って苺プロに勧誘しておいて「釣った魚に餌をやらない」状態になっているのは、アクアとしても心苦しい。

 故にそういうところへのケアの意味を含めて、アクアはかなをプライベートで遊びに誘うことにしたとも言えた。

 

 

 

 その日の放課後、二つ返事でアクアの提案に承諾の意を示したかなとアクアは落ち合う。

 ルビーとアイには帰宅が夜になる旨をメッセージで飛ばして、アクアたちが向かったのは、東京の湾岸エリアにある複合アミューズメント施設だった。

 

 

 

「あのさ、誘われた私が言うのもなんなんだけど」

 

 着いた先、まず手始めにということで、二人は示し合わせてボウリング場に入る。

 良くも悪くもと言うか、芸能の世界で接待スポーツと言えば、ゴルフかボウリングだ。当然に二人して経験は多い。ファーストチョイスとしては無難なところと言えるだろう。

 そして着いたブースの中、かなが早速といった様子で口を開いた。

 

「あんた、黒川あかねと番組の中でよろしくやってるじゃない。私とこんなことして大丈夫なの?」

 

 だってこれ、ぶっちゃけデートじゃない。

 言外にそんな響きを滲ませて、かなが問いかけてくる。

 しかしそこにあるのは、どこか満更でもなさそうな響きだ。こちらを糾弾するであるとか、案ずるようなものはあまり感じない。

 じゃれついているのか、あるいは。ただアクアとして、返す言葉は変わらない。

 

「別に同じ事務所の所属タレント同士がどこ行ったって誰も文句言わないだろ。それに今日に関しては、君を誘いたかった。君じゃなきゃだめだった」

 

 嘘ではない。というより、今日のアクアの主眼というのはあらゆる意味で有馬かなに他ならない。

 

「えっ……あっ、そ、そう」

 

 しかし当然、いきなりそんな直接的な言葉を投げかけられれば、当惑もするだろう。かなが意表を突かれたような様子で言葉を返すのも無理はない。

 ただなんにせよ、アクアとしてやることは変わらない。徐に立ち上がり、ハウスボウルを取りに行くべく、アクアはかなに声をかけた。

 

「まあ、とりあえず一ゲームやろうぜ。負けた方が勝った方にジュース一杯奢りだ」

「へぇ……面白いわね。いいわよ、受けて立とうじゃない」

 

 敢えて炊き付けてみせたアクアに、かなが不敵に笑って返す。

 斯くて二人はまず、ストレス発散とリフレッシュのために、ボウリング勝負と洒落込んだ。

 

 

 

 ボウリングというスポーツは、スポーツの中では比較的スタミナを消費しない。平均五キロほどもある重い球を片手で抱えなければならないにせよ、一ゲームにおいて動く歩数はどんなに多くても百五歩なのだから、当たり前と言えば当たり前だ。

 どういうことかと言えば、基本的に体力面で並の男子に大きく劣るアクアであっても、十分に熟せるスポーツだという話である。

 

「あー、負けよ負け。あんた腹立つぐらい上手いわね……」

 

 一ゲームを終え、勝負の結果として約束通り自販機からジュースを二本買ってきたかなが、アクアにその片方を手渡す。

 

「サンキュ。まあ、監督の付き合いで結構やる機会多かったからな、一時期。慣れだよ慣れ」

 

 ボウリングレーンのブースの椅子に座って、ボトルの蓋を開ける。そのまま一頻り喉と唇を湿らせて、アクアは再び口を開く。

 

「まあ、とりあえず場が温まったし、ちょっと話するか」

 

 言いながら、かなを自分の隣の席に誘う。促されるままにその場所に陣取ったかなの姿を確認して、アクアは切り出した。

 

「まずは一個目の用件というか。そろそろルビーのアイドルの計画、始めようと思ってる」

「……あぁ、そういうこと。仕事の話ね」

「まあ、まずはな」

 

 何とも表現しようのない笑みを浮かべたかなに対して、アクアは一つ頷く。

 大量に人がいるとはいえ、ボウリングのピンが絶えず倒れる音が響き、環境音が大きいこの場所は、密談をするには実のところ悪くない。

 

「君には申し訳ないことをしてる。苺プロに誘っておいて、結局二か月ぐらいほったらかしになってるからな」

「ホントよ。まあ私は子役時代にアホほど稼いだからお金には困ってないけど」

「アホほどって……だからまあ、今日誘ったのはある種ご機嫌取りでもあるんだ。本人前にして言うのもなんだけどさ」

 

 アクアが決まり悪げに口にする。かなが小さく失笑した。

 

「なるほどね。ま、悪い気はしないわ。それで?」

「ああ。だからその、ウチの社長経由で入っている話を先に伝えようと思って。モチベにもなるだろうって」

 

 そこで一度言葉を切って、いよいよ本題に入る。

 

「今ガチの収録が終わった後、俺はウチのアイドルユニットの最後のメンバーとして、MEMを勧誘しようと思ってる。契約関係は整理済みだ。あっちが受けてくれれば問題ない立て付けには出来てる」

「はぁ。……って、MEM? あんた正気?」

 

 一か月ほど前、全く同じ話をルビーにした時とよく似たリアクションに、アクアは思わず噴き出す。

 

「なによ」

「いや、まあ……この話はルビーにも言ったんだけど、同じ感じの反応だったから、それで。……まあここまではいいんだ。で、もしこれをMEMが受けてくれた場合なんだが……」

 

 もう一度、呼吸を挟む。そしていよいよ、苺プロの上の人間以外には基本的に知らされていない『その情報』を、かなに告げた。

 

「来月あるジャパンアイドルフェス。そこの『シーステージ』*1が、初陣になる。君たちの」

 

 アクアの眼前で、かなが大きく目を見開いた。

 

 

 

 果たしてそのインサイダー情報は、どうやらかなのモチベーションの向上には十分働いた、らしい。

 その後、JIF出演の準備としての体力づくりに加えてルビーの音痴矯正のための歌唱指導を依頼したアクアに、かなは二つ返事でOKを出した。

 と言うより、歌唱指導の方はむしろかなの方から提案されたものだった。経緯はよく知らないが、彼女は一時期ボイストレーニングを盛んに受けていた時期があるらしく、ルビーの音痴の話を聞くや、彼女はかなりの危機感と共に謎の積極性を発揮して、アクアにその話を持ち掛けてきたのだ。

 事程左様に、人間、明確なゴールがある場合とない場合とでは露骨にやる気に差が出るものだということか。やはり自身の判断は間違いではなかったと、アクアは強く確信した。

 

 斯くしてそこから俄然気力がみなぎってきた様子のかなは、目の前のボウリングに対しても持ち前のパフォーマンスを発揮する。次に投げた一ゲームはまさに彼女の独擅場といってもよいほどで、アクアは文字通りボコボコにされた。

 そこから、いっそ腹立たしいほどの笑顔でお返しのジュースをねだる彼女の姿には、どこまでも彼女らしさが溢れている。故に今、アクアは思いっきり煽られているのにも拘わらず、ゲームとしては完敗を喫したにも拘わらず、その心中はむしろ晴れやかと言ってもよかった。

 良くも悪くも、ストレスの発散にはなっただろうか。彼女の視線を前に向かせる一助には、なれただろうか。内心でそう、アクアは考えていた。

 

 そうであればよい。何せこれからアクアは彼女に自分の悩みを――彼女にとってはあまりいい気のしないであろう悩みを、打ち明けねばならないのだから。

 

 

 

 間に仕事の話を挟んで、二ゲームほどボウリングに興じていれば、時間としても頃合いとなってくる。アクアたちはそのまま一度夕食代わりの軽食を済ませて、今度はカラオケブースに入った。

 場所を変えて、そして話題も変える。いよいよここからが、アクア個人としての本題とも言えた。

 

「いやぁ、あんたとカラオケ来るの半年ぶりぐらいかしら? ま、あん時は特に歌うとかなかったけど!」

 

 放課後にアクアと落ち合った直後に比べて露骨に機嫌がよくなっているかなに、アクアは苦笑する。

 何とも現金な子ではある。しかしそれが彼女らしさとも言えるし、アクアは彼女のそういうところが、嫌いではなかった。

 

「そうだな。けど、あれから半年経つか……」

「ね。早いものよねぇ」

 

 しみじみと言った風情で互いに口にして、しかしすぐにアクアは我に返る。

 そうだ。ここはカラオケボックスで、つまり正真正銘の、二人きりの空間だ。

 ここに彼女を誘った理由を、そろそろ自分としても果たしておきたい。アクアは思い直して、かなの方へと顔を向けた。

 

「ま、とりあえず一曲ずつは歌うか。ただ」

 

 視線を受け、少しだけその首を傾げて見せたかなに、アクアは真剣な声色で告げる。

 

「そのあと、少し相談に乗ってほしいことがある。今日の用件の、もう一個だ」

 

 今までと打って変わって深刻なまでの表情を見せたアクアに、かなはその目をぱちくりとさせた。

 

 

 

「今ガチの話だ。あの事件を何とかしたあと、番組の方向として俺とあかねのカップリングを売り出そうとしてるのは知ってるよな」

「……ええ、まあ」

 

 互いに一曲を終えた後、切り出したアクアに対して、どうにも複雑そうな声色でかなが返す。

 今日一日においてずっとそうではあるが、今ガチについての話――と言うより、あかねとアクアとの関係が話題に上るたびに、かなはこういう今一つ釈然としない反応を見せてきた。

 

 やはりというか、かなはこの話に対して、端的に言って快く思っていないことは確かなのだろう。しかしその感情の向き先が何に対してか、そのあたりがアクアにはどうしても推し量れていなかった。

 ただ、今のアクアにその辺りのことを考えている余裕はない。すぐさまに話を先に進めていく。

 

「まあ、それをやるにあたって、あかねにいくらかアドバイスをしてな。『役作りをしたほうがいいんじゃないか』って。どうせ恋愛劇するんだし、自分の素でやるのもどうだろうってな」

「恋愛『劇』? なに、あんたと黒川あかねはそういう感じなの?」

「え? いやまあ、そうだけど。だって仕事だぞ」

「……ふぅん?」

 

 しかしその話を聞くなり、またもや露骨にかなの機嫌が上向く。

 

 なんとなく、アクアはかなの考えていることが分かってきた。

 これはルビーに関しても同じだ。今アクアたちの家の中で、「今ガチ」に関する話題は半ば出禁となって久しい。理由は言うまでもない。その話が出るたびにルビーが不機嫌になるからだ。

 故に今のかなのこの振る舞いにしても、おそらくはそれと同じような心理なのだろうと、アクアはとりあえず結論付けた。

 

「とにかく、続けるぞ。まあそれで、俺たちはあかねに『アイのキャラ付けをやってみたらどうか』って提案したんだ。まあ、半ばゆきとMEMに強制されるような感じだったけどな」

「アイさん? ウチの事務所の? って、あぁ……『あれ』、そういうこと」

 

 そのあたりまで話せば、かなは概ねその事情を察する。

 

「……君に言われてたことだけど。『あかねの本気はヤバいぞ』って。本当だったんだな」

 

 故にそれ以上の説明は不要だろうと、アクアはいくつか言葉を飛ばす。当然に、かなも追随してきた。

 

「そうよ。言ったでしょう、あの子は天才だって。で? それだけじゃないんでしょう?」

 

 アクアは無言で頷く。

 

「カメラからどう見えてるかは分からないけど、あれは『アイ』だ。しかも十二年前の。恐ろしいほどに『アイ』なんだ」

「そうね。で?」

「だから……」

 

 そしてそう、問われるがままに続きを言いかけて――アクアはしかしそれを、寸前で堪えた。

 

 

 

 ――いま、自分は誰に対して、何を言おうとしていた?

 そこに気づいて、背中を冷や汗が伝ったのを自覚した。

 

 

 

 今回の相談の中で、アイが自らの母であるという情報それ自体は、確実に伏せるつもりでいた。

 しかし、ならばアクアは一体何を、どういう形でかなに対して言うつもりでいたのか。

 

 二十歳のアイの姿が、自分の過去の悔悟を余りに浮き彫りにするせいで、それが演技すら通り抜けて自分の本心を揺さぶるものだから、どうしていいかわからない。

 自分と役柄との境目が、曖昧になるようにも錯覚する。役柄としての「アクア」が「あかね」に対して向けている感情が、果たして「アクア」のものなのか、アクア自身のものなのか、それすらも混ざり合っているように思えてならない。

 自分の心中に、どう整理をつけるのが果たして正しい在り方なのかどうか。

 

 言いたいことはそれで、しかしその前提となる情報は、断じて他人に対して明かしてよいものではない。

 アクアはそこでやっと、自分が悪手を打ってしまった可能性に思い至った。これならば、むしろ相談すべきはミヤコに対してであったのではないかと、今更ながらに後悔する。

 

「どうしたの、そこで黙っちゃって」

 

 俄かに固まってしまったアクアに、怪訝そうにかなが問いかける。その声によって現実に引き戻されたアクアは、頭に手を当てながらもかなの方を見た。

 何を言うべきか、言わざるべきか、慎重に選別をしながら、言葉を紡いでゆく。

 

「……あの『アイ』は、本物だ。俺が芸能の世界に入ろうと自分で決めたときの、アイそのものなんだ。だからどうしても、俺の素の部分が引っ張り出される。『役』では済まなくなる。いつも会っているはずのあの人が、俺が四歳の時の空気感で、本当にそこにいるみたいに思えて、だから」

 

 どうにも支離滅裂な言葉だ。しかしかなはそれを、ただ無言のままに聞いている。

 

「役作りとしてやってる『アクア』と、自分の中の境界が曖昧になりそうなんだ。俺は誰を見ている? あかね? アイ? それを見てる俺は誰なんだ? どういう自己認識で俺はあそこに立っているんだ? って」

 

 そう、何とか開示してよい情報をフィルタリングして、アクアはかなに問いかけた。

 対するかなもまた、真剣そのものの表情をしている。今までのおちゃらけた雰囲気も、不機嫌を露わにした態度も、そこにはない。

 

 どうすればいい。無言で問いかけたアクアに対して、かなはしばし目を瞑る。

 しかしそれもほんの束の間のこと、彼女はあっさりと言葉を打ち返してきた。

 

「確かめてみればいいじゃない、そんなの」

 

 予想外の言葉だった。アクアの目が瞠られる。

 

「結局、あの番組の流れ的にもうあなたと黒川あかねはカップルとして成立させられるでしょ。止められる流れじゃない。違う?」

「それは、まあそうだけど」

「だったら今悩んでてもしょうがないんじゃないの? どうせ付き合う流れになるんなら、番組として最低必要な交際期間はあるんだし、そこで見極めなさいよ」

 

 返ってきた答えは、随分とドライなものだった。

 アクアとしては、もう少しかなが機嫌を悪くするのではないかと多少の覚悟はしていたのだ。故にそれは少しばかりの驚きで、アクアは思わずかなの顔をまじまじと見てしまっていた。

 

「……なによ、不満?」

「いや、そういうわけじゃないけど……なんかこう、こういう話聞かせて、気分は良くないんじゃないかって」

 

 言った途端、かなが露骨に呆れたような溜息を吐いた。

 

「あのね。今更過ぎない?」

「……すまん」

「いや、まあいいけど。そりゃね、私としちゃ複雑よ。なんでアンタの惚れた腫れた聞かされなきゃいけないんだって。仕事だけどさ」

 

 そう、一度アクアの方を刺してから、続きを口にする。

 

「けど、アクアが言ったんでしょ。『役者は、自分を選んでくれた人間の期待に応えるのが仕事だ』って」

 

 はっとさせられた。それは、確かにアクアが言ったことだ。遥か昔、かなとの唯一の共演の場であった映画の撮影の舞台で、その控室で、かなを諭したときの言葉だった。

 

「忘れてないわよ、私は。あなたのあの時の言葉、あれは正しい。十年以上この業界にいて、本当に痛感した」

 

 目を伏せながら、思い出を辿るように口にして、そこでかなは再び顔を上げる。

 

「それはあなたも同じことでしょう。どういう経緯(いきさつ)で『今ガチ』なんて請けたのか知らないけど、けどやる以上は最後まで責任をとるのが役者の仕事よ、良くも悪くも。だったら、そこに私が不機嫌ぶつけたってしょうがないじゃない」

 

 それに、と言葉が継がれる。

 

「アクアあなた、本当に悩んでそうだったから。だったらアドバイスの一つもくれてやるのが、先輩としての務めってもんでしょう。違う?」

 

 言い切ったかなが、アクアの顔を覗き込む。

 声にも、瞳にも、表情にも、あるのは確かな気遣いだった。否応なしに気づかされて、アクアは目を瞑る。

 

「ま、半年ぐらい付き合ってみて、『違う』と思ったんなら早いとこ別れてあげなさいよー? かわいそうだから、黒川あかねが」

 

 しかし間髪入れずにやってきた二の句は間違いなくいつもの有馬かなのそれであって、思わずアクアは苦笑していた。

 

「……そうだな。そうするよ」

 

 同時に、そんなかなの在り方に救われている自分がいることも、また紛れもない事実だった。

 

 

 

 果たしていくらか心の重荷が取れて気が軽くなったアクアは、そのままかなと二人でカラオケに興ずる。

 そこでかなの思った以上の歌唱力の高さに舌を巻き、また興味本位でデンモクに「有馬かな」の名前を入れたことで、彼女の埋没させておきたい黒歴史を掘り出してしまって一悶着あったりもしたのだが、それはまた、別の話だ。

 

 ともかくアクアはその日の中で、これからの「今ガチ」における指針にある程度の目処をつけた。

 同時に、いよいよ助走期間に入るルビーのアイドルデビュー計画についても、次第にそれが形を帯びてゆくことに、多少の手応えを感じていた。

 

 斯くしてこの日、かなと過ごしたひと時は、アクアにとって間違いなく実りのあるものとなった。

 

 

 

 

 

 しかし――そのすぐあとの収録で、アクアは思い知らされることになる。

 

「たとえば、今回の場合だったら……ちょっとこれは、大胆過ぎる『設定』かもしれないけど」

 

 黒川あかねが、どれほどの特異な才能を持った、脅威的な人物であるのかを。

 

「えっと。『アイは十五歳から十六歳にかけて子どもを産んでいて、その子は隠し子として表に出ていない』――とか」

 

 アクアには、黒川あかねのことを悠長に「見極め」ている暇など、ないのだということを。

*1
アニメ一期第11話、JIFマップより。




かなのあかねに対する台詞が原作と正反対レベルで丸くなっているのは、アクアの性格改変による影響です。
それと原作よりもある程度しっかりした立場の苺プロにいるという安心感も、多少は作用しています。
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