天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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2-11. 咎と歩む

 「今ガチ」の収録も、そろそろ大詰めを迎えようとしている。

 恋愛リアリティーショーの常として、最終回は外でのロケと告白タイムとして枠が取られている。つまりその前の週――すなわちこの日の収録分が、今ガチの教室のセットで撮影を行う最後ということになっていた。

 

 なんだかんだと、アクアはこの場所に愛着を持つようになっていた。

 当然のことではあるだろう。なにせ週末だけとはいえ、三か月近い時間をこのセットとともに過ごしてきたのだから。

 しかしそれも、もう終わる。

 

 もともとは、鏑木に取引の材料として頼まれて参加した仕事だった。故に最初に持っていたモチベーションについては、今となっては大層疑問符を付けざるを得ないが、それでもここがいい現場であったという認識だけは、一貫してずっと持っていた。

 最低でも、あかねのあの騒動に関しては、共演者たちの人間性も、そして関係のよさも、どちらともがなければ乗り越えられなかっただろう。

 思いついたのはアクアで、作業の大部分をやったのもアクアだが、それでも彼ら彼女らの助力がなければ、アクアは何も成し遂げられなかったのだから。

 

 そして、そんな彼らと一緒に仕事をするのも、もうこれで終わりなのだ。

 そう考えると途端に寂寥感を覚えてしまう自分の分かりやすさに苦笑して、しかしそれとほぼ同時に、自らの横に足音が響いたのをアクアは感じ取った。

 その主を、アクアは知っている。

 

「アクアくん」

「あかね」

 

 横を向いて、視線が合った。彼女の声色も、纏う雰囲気も、彼女自身のものだ。最近の収録のなかで更に板についてきて、いよいよもって人格すら乗っ取られてしまったのではないかと仄かな恐怖を覚えるほどの、「あかね(アイ)」としての姿ではない。

 

「……寂しく、なるね」

 

 わずかに視線を逸らして、彼女は言う。

 

「私、この現場すごく好きだった。楽しかった。最初はいろいろ苦労したし、あんなこともあったりして……けど、みんな優しくて、助けてくれて。……アクアくんも。いや、アクアくんが」

 

 ぽつりぽつりと、言葉が重ねられていく。

 たどたどしくも直向な感慨の羅列に、それを受けるアクアの方が少しばかり気恥ずかしくなって、混ぜ返してしまう。

 

「……そういうのは、打ち上げで言うもんだろ。もうちょっと取っておくべきじゃないか?」

「あっ……たしかに、そうだったね」

 

 言いながらはにかむあかねの姿に、アクアはどうしても引き寄せられる。胸が騒いだ。

 最近、頓にこうだ。どんどんとアイの役作りの精度を上げていくあかねの姿に、夢と現実を、役と素の自分とを混同しそうになる。

 ――これは、よくない。

 かなに貰ったアドバイスのことを思い出して、頭を軽く振ってそれを追い出そうとする。しかしその寸前に、あかねが更に言葉を続けた。

 

「でも、お礼は言わせてほしいかな。キャラ付け、アクアくんの言う通りにしてみたら、すごく人気出たし」

「あぁ。でもいや、あれは本当に俺の発案だったのか、ちょっと判断つきかねるところがあるけどな」

「……たしかに。あの時のゆきとMEMちょ、すごかったもんね、圧と言うか」

 

 あの時の様子を思い出したか、あかねが控えめな笑い声を上げる。

 こういうところは、あかねらしい。アイであれば確実にアクアの方をからかってきたに違いない。そんな、無意識の比較をしてしまっている自分に内心で辟易して、しかし同時に生まれた疑問が、するりとアクアの口から出てきた。

 

「ああ、そうだ。お礼っていうなら、ちょっと訊きたいことがあるんだけど」

「え? うん。いいよ、なんでも聞いて」

「ありがとう。訊きたいことっていうのは、演技の話だ。そのアイの役作り、どうやってるんだろうって」

 

 それは、確かにアクアにとって疑問に思い続けていることだった。

 

 あかねは憑依型の役者だ。そして憑依型の役者が役を作りこむ時に最もオーソドックスなものと言われているのが、所謂「メソッド演技法」と呼ばれる理論である。

 その起源は比較的新しい。二次大戦直前、世界恐慌が吹き荒れるアメリカの劇場文化において、古典的な演技法とは違う「自然な演技」というものが強く訴求されるようになった文脈の中で生み出されてきたものこそが、このメソッド演技法だ。

 

 役柄への深い洞察が求められるかの方法論は、そのために自己の内面を掘り下げ、役の発すべき感情を自己の上に投影し、追体験するというステップを踏むことを役者に求める。

 そこにあるのは自己との対話である。逆に言えば、どうしても自己の中に存在しえない精神性を、役への分析のみから導き出すことは難しい。

 内面をつぶさに再現しようとしても、結果として出力されるものは、どうしても外面をなぞった何かに終始してしまう。

 

 しかし、黒川あかねが扮するアイは、そんな生易しいものではなかった。

 アイ――否、「星野アイ」という個人の持つ不完全な人間性と、そのアンバランスさが故に周囲の人間をひきつけてやまない特異なカリスマ性を、ほぼ完全な形で自己の上に再現している。

 

 強い興味を抱くのは当然のことだ。アクアという一個人としてだけではない、役者としてもである。

 

 果たしてそんなアクアの問いに、しかしあかねは途端に恥ずかしげに肩を竦めて、控えめに答えを返してきた。

 

「いや、そんな……そこまで大したことしてるわけじゃなくて」

 

 大したことしているだろう。内心でツッコむが、当然あかねはそれを関知しない。

 そのまま自分のスカートのポケットからメモを取り出す。アクアが何度も見た、ボール紙の表紙のいつものメモだった。

 

「やってることは、単純で。自分の役のことは、とにかく色々調べる。自分のなかで納得がいくまで調べて調べて、それを解釈していく感じかな。一応、やり方としてプロファイリングの勉強とかもしてるんだけどね」

 

 面映ゆそうな表情が、あかねの顔に浮かぶ。

 

 やはり、やっていることはメソッド演技法のそれだ。しかし本当に、それだけであそこまでの再現度を持った役作りができるものだろうか。

 結局、そこは才能と言うしかないのか。そう思ってアクアが口を開きかけて、しかしあかねの言葉は終わっていなかった。

 

「あ、でも。やっぱりどうしても調べきれないところとか、自分の中で納得できない部分は出てくるから、そういうところにはいくつか『設定』を足すことにしてるんだ」

「『設定』?」

「そう、設定。欠けてるピースを考えた時に、そこに何を埋めるとその人の行動と一貫性が生まれるのかとか、自分の中で感情を再現するときに納得しやすいかとか。『仮説』、っていう方がそれっぽいのかな」

 

 目を瞑って、歌うように、彼女は口にする。

 

「たとえば、今回の場合だったら……ちょっとこれは、大胆過ぎる『設定』かもしれないけど」

 

 そして――そこから次いで出てきた言葉が、アクアの思考を完全に静止させた。

 

 

 

「えっと。『アイは十五歳から十六歳にかけて子どもを産んでいて、その子は隠し子として表に出ていない』――とか」

 

 アクアくんの身内というか、先輩なのに、こういうことやっちゃうのは申し訳ないんだけどね。

 そう付け加えたあかねの台詞を、しかしアクアは全く聞いていなかった。

 

 

 

 アイとアクアたちの関係は、世間に対して本当に、徹底的に秘匿され続けてきた。彼女のパブリックなプロフィールの中には、アクアとの血縁関係はおろか、子供の存在の、その微かな匂いすらも存在しない。

 壱護社長にせよミヤコにせよ、そのあたりの対策は徹底していたはずだ。文字情報にせよ映像情報にせよ、公開情報からその仮説にたどり着くことは不可能に等しい。というか、不可能だ。発想すら浮かばないだろう。

 

 しかし確かに今、あかねはアクアたちの秘すべき核心にたどり着いている。不気味なほどに正確に、ヒントなどないはずなのに。

 

 あかねは言った。「自分が補完しているのは、その人の行動との一貫性の保持や、感情の再現のために必要な『設定』である」と。

 ならば彼女は、公開情報からそれほどまでに精密にアイのパーソナリティについて類推して、その上で作為的に生み出されている空白の中に、正確に答えを当てはめているのだ。

 

 恐ろしいほどの洞察力だった。本当に、恐怖すら覚えるほどの。

 

「アクアくん?」

 

 途端に動きを止めてしまったアクアに、あかねが怪訝そうに、あるいは心配そうに声をかけてくる。

 その呼びかけに、アクアもまた我に返る。

 

 まずい、怪しまれかねない。そう考え、気を引き締めて、アクアはもう一つ訊ねた。

 

「あ、ああ。ごめん。えっと、なら、もう一つ聞いていいか?」

「うん。全然いいよ?」

「ありがとう。その……だったらあかねは、自分の中にそうやって再現した『アイ』のこと、どれぐらい理解してるんだ?」

 

 恐る恐るの問いだった。一体彼女はあの日からの短い期間で、どれほどアイのことを咀嚼してみせたのか。

 斯くして、彼女は答える。

 

「どのぐらい……そうだね。ちょっと『設定』のことがノイズになっちゃってるかもしれないけど――」

 

 ――どういう生い立ちなのか、どういう気持ちでアイドルやってたか。あと……()()()()()()()()()()()()()、あたりは、多分正しく理解出来てると思うよ。

 

 

 

 その答えを聞いた瞬間、アクアの中の方針が、俄かに固まった。固まってしまった。

 如何なる意味においても、黒川あかねと言う存在は、逃してはならない。逃がすわけには、いかなくなってしまったのだ、と。

 

 

 

 彼女はアイのことを――いや、「星野アイ」のことを、知った。理解してしまった。洞察、推察とはいえど、核心に迫ってしまった。

 アクアたちが身命を賭して守らなければならない秘密に、近づきすぎている。これならいっそあかねがアイとアクアたちのことについて「確信に至る証拠」まで握っていてくれたほうが別のアプローチもあっただろうに、彼女自身はあくまでそれを「設定の話」と前置きしていることが、更に話をややこしくしていた。

 

 もはや彼女には、自分たちの観測範囲にいてもらわなければ何が起きるか分からない。

 そればかりではない。アクアが想定している「最悪」の目を引いてしまった場合、その累はそれこそあかねの方にすら及びかねない。何かが起きてしまってからでは、もう遅いのだ。

 

 今更ながらに、アクアは後悔していた。「あかねの役作り」という名目で、彼女に対してアイの名前を出したことをである。

 たったそれだけ、と言うかもしれない。しかしそれだけのことで、そんな軽はずみな行動で、アクアはいたずらに家族を危険に晒したかもしれないのだ。

 そうでなくとも、自らの事情の中にあかねのこと引きずり込んでしまったのだ。しかもそのことを、アクアはあかねに明かすことさえできない。

 

 ――本当に、どこまでも学習しないやつだ。救いようがない。

 アクアは真剣に、自分の頭を強かに殴りつけたくなった。

 

 

 

 いや、それだけならば、まだ自身の不注意を責めるだけでよかった。

 しかし、もっと救いようのないことに――アクアは今、そんな黒川あかねという個人の才能に、そして立ち位置にも、『利用価値』すら感じてしまっているのだ。

 そんな自分がいることを、アクアは否定できなかった。

 

 「仕方がないだろう」と、そう自己正当化を図ろうとする自分もいる。何しろあかねは、あれほどまでにアイのことを深く理解できる人材なのだ。

 しかも彼女は、「アイの男の好みについても、理解できると思う」とまで言った。

 ()()()()()()()()の、黒川あかねがだ。

 

 劇団ララライは、おそらくアイが、アクアたちの血縁上の父親であろう人物と出会った場所だ。ならば今もそこに所属している誰かが、あるいはそのOBである誰かが、当該の人物である可能性はかなり高い。

 そしてそれは、あかねにとってある程度容易にアクセスできる情報だろう。

 

 つまりあかねの存在は、アクアが自らの父親を探り当てるための強力な手段になり得るのだ。ともすれば、それだけで答えにたどり着けるかもしれないほどの。

 本当に、どれほどに得難い人物であることかと、そうどうしても思ってしまう。

 

 

 

 ――そして、だからこそ本当に度し難いのだ。

 勝手に彼女のことを自分の事情に巻きこんでおいて、しかもそんな彼女に、その能力に、魅力を感じている自分がいるのだから。

 彼女のことを「手放すわけにはいかない」などと言う傲慢な考えに、身勝手なまでの事情で裏書をして、これからのあかねに対する振る舞いを、正当化しようとしているのだから。

 

 故にこそアクアは、本当に、どうしようもないほどに、そんな自分自身のことが心底嫌いになりそうだった。

 まるでマッチポンプのようにこの状況を作り上げてしまった自分の迂闊さと、そして愚かさも、また。

 

 

 

 

 

 果たしてその翌週、今ガチの最終回の撮影において、このリアリティーショーにおける関係の清算が行われる。

 まずは鷲見ゆきと熊野ノブユキのカップリングだ。

 終盤が近づくにつれて、急に勃興した強力なカップリングである「アクあか」に押され気味になっていた彼女たちは、しかし二人の仲を急速に接近させてゆく描写で対抗していた故に、番組内でのカップルの成立は既定事項であると誰もが考えていた。

 しかし、ノブユキの花束を抱えた気合いの入った告白を、なんとゆきは拒絶する。まさに予想外の展開だろう。

 

 ――が、アクアはその内実をすでにゆきから聞いていた。

 彼女曰く、番組が終わってほとぼりが冷め次第、ノブユキとはリアルの交際関係に入るつもりであるのだという。

 この番組で表立ってカップルの関係が成立してしまうと、それはある意味での「公認カップル」として今後の仕事の幅にも影響してくるし、一定期間のSNSへの投稿が義務付けられていたりと、余計な束縛がついてくる。

 それを回避するためには、一度番組としてはノブユキのことを振っておいて、後で実際には付き合うほうが何かと都合がいい。

 「ノブくんと二人で決めたことなんだよ」と意味深な笑みを浮かべて見せてきたゆきは、やはりどこまでもゆきであったと言うべきなのだろうか。本当に最後まで、らしい少女であった。

 

 斯くしていきなり波乱の幕開けとなった告白ショーは、局面を次に移す。

 終盤の展開の中、アクアとあかね、そしてゆきとノブユキが一挙に距離を縮めていく中、結果的にややあぶれ気味となっていたケンゴとMEMちょは、消去法的に話をする関係になっていた。

 そういうわけで、一応アリバイづくりのような形でケンゴがMEMちょに想いを伝える。が、これに関してはお互いにある種の通過儀礼と認識していることだろう。

 もっとも、それにしてはケンゴの告白も跪いてギターまでかき鳴らしてみせる本格さではあったが、それはそれとしてMEMちょはあっさりとそれを振った。手を合わせて拝むようにしていたあたり、決まりの悪さはあったようだが。

 

 

 

 とにもかくにも、ここまでの流れで、三組のうち二組のカップルが不成立となってしまった。

 そうなると、必然的に残りの一組には強烈な期待の圧力がかかる。すなわち、アクアとあかね――「アクあか」の結末に、である。

 

 実際のところ、アクアはこの番組の中においてカップル関係を成立させるかどうか、本当に最後の最後まで悩んでいた。

 黒川あかねと言う個人に対してコネクションを持ち続ける方法などいくらでもあるからだ。すでに連絡先は交換しているし、実のところプライベートでいくつか会話をする程度の関係なら、アクアはあかねとの間にすでに構築し終えていた。

 例の事件のこともある。今後も交流を重ねていくことに不自然さはないし、ある種それぐらいドライな間柄の方が、劇団ララライのことについて彼女から情報を引き出すにあたっても、罪悪感を覚えることはなかっただろう。

 

 しかし、この前の週の撮影前の会話で、話は完全に変わってしまった。互いの心持ち次第で容易に切れてしまいかねない関係というのは、リスクとして大きすぎる。

 ある程度保証された関係性の中で、アクアはあかねを繋ぎ止めなければならなくなった。そういう決断を下さざるを得ない自分自身には大層嫌気が差していたが、しかしこれはアクアにとっては義務にも等しい。

 

 ならば、することは決まっている。やらねばならないことなのだから。

 そんな覚悟を決めて、アクアはあかねの隣に座った。

 

 

 

 高まっていく空気の中、アクアとあかねは互いに顔を見合わせる。

 虚構の上に座する「アクア」と、「アイ」の幻影を投影したあかねの瞳が交わる。

 植え込みの縁、縁石の上で、手を差し伸べる。おずおずと伸ばし返された彼女の手が、そこに重ねられた。

 

 あかねの熱を感じる。手の感触を。

 ――そうだ。触れればわかる。彼女はあかねだ。アイではない。それでも今、アクアは選ぶ。

 

 今ガチという物語の上においても、あるいはリアルにおけるあの事件の延長においても、アクアたちの結末は、ハッピーエンドでなければならないのだから。アクア自身のためにも、そうしなければならないのだから。

 そう自らを納得させ、故にアクアはそれを言葉にして――そして、あかねは受けた。

 

 肩を抱くように、互いに顔を寄せていく。アイとは違う、清廉で透明な花のような薫りが、アクアの鼻腔を仄かに満たす。

 目を閉じ、近づいた二人の距離が、ゼロになる。

 

 

 

 重なった唇の感触はどこまでも柔らかく湿っていて、それはアクアの胸中の深いところに、強烈な罪悪感と共に突き刺さった。

 

 

 

 

 

 こうして今期の今ガチは、アクアと黒川あかねのカップル成立という結末を以て幕を下ろす。

 「今ガチ」史上最多となる視聴者数と、彼らからの最高の評価を得て、アクアは鏑木から要請されたこの仕事を、無事完遂するに至った。

 つまりそれは、アクアに対する『報酬』の支払いを、鏑木に確約させるものでもあった。

 

 

 

 

 

 

 

「おぉ、アクアくん」

 

 今ガチの撮了後、最終回の放送の週の末に、番組の関係者を集めた打ち上げの宴会が執り行われていた。

 箱の大きさは、「今日あま」の時より広い。関係者の数にせよ予算にせよ、こちらの方が多くとられていたのだから、ある意味当然のことではある。

 その中で、アクアは全員での乾杯を済ませて少しだけ共演者の面々と話すなり、早々に店の外、路地裏の喫煙スペースへと足を向けていた。

 狙いは、当然にして今アクアの眼前で紫煙を燻らせている男――鏑木である。

 

 

 

「お疲れ様です、鏑木プロデューサー」

「うん、お疲れ。……今回、本当に評判良かったよ。『今日あま』のときは割合、という感じだったけど、今回は収益的にもかなり跳ねた」

 

 アクアの方に視線を向けて、鏑木は小さく手を挙げる。そのまま招くように手をひらひらとさせてくる。

 彼の促す通りに、アクアは二、三歩ほど鏑木の方へと近寄った。

 

「才能と言う意味でも、発掘はあったよ。ゆきくん、あれはよかった。今ガチ(ここ)に誘う前は、見た目はいいんだけどあまり表に出たがらない子でね。ちょっともったいないと思っていたんだけど、化けたね」

 

 そう続ける彼の口は軽やかだ。声も弾んでいる。機嫌自体は、かなりいいのだろう。

 

「アクアくん、君もだ。正直、僕の予想以上の活躍だったよ。映像監督見習いやってるって聞いてはいたけど、あの動画も完成度が高くてね。うちんとこのスタッフが、『彼を雇えないか』って本気で言ってきたくらいなんだから」

「……それは、どうも」

 

 その部分を褒められて、悪い気はしない。実のところ、アクアの自己認識におけるキャリアの長さは、どちらかと言えば五反田監督の下で撮影の勉強をしている分の方が上なのだ。

 磨いた腕を認められるのは、誰からであっても嬉しいことである。それは事実だった。

 

 しかしそこで、鏑木が少しばかり口元を歪める。

 

「ま、あの動画の素材に関しては、だいぶ綱渡りをしたみたいだけど?」

 

 皮肉気な口調だった。口ぶりは、言葉とは裏腹に非難の色まではない。

 じゃれつきか。そう判断して、アクアは少しだけ意識して相好を崩す。

 

「まあ、その節はディレクターにご迷惑をおかけしましたが。ただ一応、契約は守っていた認識ですよ? そこは抜かっていません」

「そうだね。出演交渉の時、君の事務所から『自前の撮影機材を使って撮った動画リソースの取り扱い』なんて話が出たときには、随分びっくりしたものだけど。……もしかして、こういうこともあると思っていたのかな?」

「まさか、それは買い被りですよ。ただ、こういうのもあれば自衛手段の一つにはなるだろうと、思っていたくらいです」

「なるほどねぇ……本当、俺の目は間違っていなかったな」

 

 軽い鞘当てのような応酬を経て、満足げな息を吐いた鏑木が、手に持っている紙たばこを灰皿へと押し付ける。

 

「ともかくもだ。君は約束の通り、『今ガチ』の中でいい仕事をしてくれた。予想以上のね。なら、それに対する『報酬』は、支払われなければならない」

 

 そして、アクアの方を真っすぐな視線で見据えた。

 

「アイくんの話だったよね。昔の」

「はい」

「いいだろう。そうだな……来週あたり、寿司でも食いに行くか。とっておきの話がある。どうかな?」

「ありがとうございます。空けておきます」

 

 アクアの返答に小さく頷いて、鏑木はアクアとすれ違うように店の中へと戻っていく。

 

 しかしそのさなか、ふと鏑木の足音が止まった。

 ――まあ、そうは言っても。

 小さく、彼の声がする。

 

「アクアくんのほうも、調べてはいるんだろう? ――劇団ララライ」

 

 背中合わせの姿勢のまま、鏑木が放ったその単語に、反射的に振り返った。

 鏑木は、自らの顔だけをアクアの方に振り向けて、含みのある薄っすらとした笑みを浮かべていた。

 

「うまくやるね、アクアくんも。あかねくんをちゃっかり引っ張って。……もしかしたら僕の話は、聞く必要もないかな?」

 

 眼光に、射竦められる。突きつけられたそれは、糾弾にすらも聞こえた。

 

「僕は、そんなことは――」

 

 考えていない、と言えるだろうか。するつもりはないと。

 お前は黒川あかねを利用しようと、露ほども思っていないのか。

 

 ……そんなわけがない。あの最終回の告白の舞台で、内心に何を思ってあかねと向き合っていたか、忘れたとは言わせない。

 お前は黒川あかねに対して、確かに利用価値を認めていたではないか。そういう打算を、持っていたではないか。

 

 どの口が、それを言うか。

 

 言葉を失い、立ち尽くすアクアに向けて、鏑木は笑み交じりの吐息をこぼす。

 

「まあ、いいさ。……来週、楽しみにしているよ」

 

 そう言い残して、彼は一足先にと言った風情で、打ち上げ会場の店の中へと消えてゆく。

 

 しかしアクアは、自身のことを探していたゆきとノブユキが店の外に呼び戻しにやってくるまで、ずっとその場所から動くことができなかった。

 

 

 

 

 

「ねえ、アクアくん」

 

 ゆき達の手で半ば連れ戻されるような格好で店に入ったアクアは、すぐさまにあかねと一緒に、カウンター席へと追いやられた。

 どうやら彼女たちは、そういう意味で要らぬ気を回したらしい。

 

 そして今、バーカウンターで横に座るあかねが、アクアにそう呼び掛けてきた。

 

「私たちって、どうなるんだろう」

 

 あかねを見る。彼女は顔を伏せて、両手に握っている自分のグラスにじっと目を落としていた。

 問うていることは明白だ。そして、それは今のアクアにとってあまり目を向けたくないものでもあった。

 

「……とりあえず、番組の契約はあるからな。半年ぐらいは、ある程度そういう関係を続けることになるだろう。最低でも」

 

 だからアクアはそう言って、しかし言ったそばから後悔する。

 内心に葛藤があるのはそうだが、何もそういう突き放した言い方をする必要はなかっただろうに、と。

 それでもあかねはその言い草に気分を害するようなこともなく、ただ小さくかぶりを振った。

 

「そうなんだけど、そうじゃなくて。だから、その」

 

 そこで一度言葉を切って、小さく息を吸って吐く。

 顔が上げられる。目線が合った。

 

「アクアくんは私のこと、本気で彼女にしたいって、思ってる?」

 

 そこに見える表情を、どう評価すればいいのか。

 疑問なのか、羞恥なのか、期待なのか。

 それとも、諦念なのか。

 

 その問いを受けて、アクアはいよいよ自身が進退窮まったことを直感した。

 目を瞑る。しかしあかねから向けられている視線が、逸れてくれることはない。

 

 

 

 かなに言われた言葉を思い出す。

 

 ――確かめてみればいいじゃない、そんなの。

 ――番組として最低必要な交際期間はあるんだし、そこで見極めなさいよ。

 

 そうなのだろう。それは今においても正しい。

 しかし自分の気持ちがどうあっても、彼女のことを手放すことはできないという、情とは異なる理によって判断を下している自分がいる。

 同時に、そんな身勝手な理屈で彼女を束縛していいわけがないと、己を糾弾する自分もいる。

 それだけじゃない。あかねの人間性に惹かれている自分も、もちろんいる。

 そしてあのとき、彼女の中に見えた「アイ」の幻影に、どうしても心を揺さぶられている自分も。

 

「俺は……」

 

 俺は、なんだ。あかねにどう思っていることを告げたらいいというのか。

 言葉の先が当て所を失い、惑うばかりのアクアに、しかしそこであかねの方から言葉が重ねられた。

 

「……ごめんね、アクアくん。答えづらいこと訊いちゃって」

 

 目を見開いた。

 あかね。そう、掠れた声が出る。

 

「ホントは分かってるんだ、私。だってアクアくん、私のこと異性として見てないし」

 

 言って、あかねが目を逸らす。その横顔に見える感情の色を、その痛みを感じて、アクアは本当に自分のことが嫌になった。

 余りにもやるせない。彼女にそんな顔をさせているのが自分であるという、その事実が何よりも。

 しかし、それでも、アクアに言えることはあった。

 

「……あかね」

 

 呼び止める。あかねの顔がアクアの方を向いた。

 

「今更こういうこと言うのも、何だけどさ。俺、本当に恋愛なんてしたことがないんだ」

「うん。それはまあ、知ってるよ。聞いたから」

「だからさ。そもそもと言うか、俺は人のことを異性として見るってことが、よくわからないんだよ」

 

 それは、嘘偽りのない本当の話だ。アクアとしてではない、アクアの前――吾郎の頃からのことである。

 

 吾郎として生きていたときの自分は、医学生と言うこともあって結構な数の女の子に声をかけられたことはある。

 将来性。社会的ステータス。そういうものに惹かれる女性の心理を、吾郎としては否定はできない。自分がそういうものを持つ側の人間であったからという面も確かにあるが、そもそも吾郎は人が人に向ける執着という種類の感情の中の、何を愛だと、あるいは恋だと峻別すべきなのかが、全く分からなかったからだった。

 だからその答えが知りたくて、そうした女の子のうちの何人かと付き合ってみたりもした。当然、「そういう経験」だってありはする。そうすることで、吾郎は彼女たちから向けられる感情の正体というものを知ることができるかもしれないと考えたからだった。

 しかし結局、吾郎には何もわからなかった。何もわからないまま、その女の子たちは最終的に吾郎の元から離れていった。

 だから吾郎にとって、そしてアクアにとっても、恋愛感情とはどういうものか、未だに分かってはいない。

 

「性欲の対象として見たら、それは異性として見たことになるのか? キスをしたら? 身体を重ねたら? ……俺には、そうは思えない」

 

 あまりに明け透けなことを言っている自覚はある。しかしそれは本音なのだ。

 今自らの横に座っている黒川あかねという少女に、そういう方向で嘘は吐けなかった。吐きたくなかった。

 

「俺は、君を魅力的な人間だと考えている。優しいところも。勤勉なところも。実は意思が強いところも。夢を持って、そのために沢山努力しているところもそうだ。役者としての力だって」

 

 滔々と、言葉が吐き出されていく。あかねの双眸が小さく見開かれる。その瞳が、少しだけ揺れている。

 

「だから俺は、君の人間性には間違いなく惹かれているんだ。だけど……」

 

 そこで、言葉が止まる。続けるならば、こうだ。

 

 ――だけど君に、性欲を持とうとは思わない。

 それは黒川あかねと言う少女に女性的魅力がないからではない。

 いや、間違いなくアクアはあかねの女性としての魅力は認めている。可憐さと高潔さを併せ持つような端正な顔立ちに、光の当たり方によって色を変える、深みを湛えた艶めく黒髪、強い意志を宿した碧玉の瞳も、アクアは間違いなく魅力的だとは思う。

 

 しかし、それでも、今アクアは誰に対しても、そんな己の欲望をむき出しにすることなどできなかった。アイのことを、ルビーのことを考えれば、今の自分にはそんな余裕も、そして時間もないからだ。

 まして相手が、あかねである。ただでさえ身勝手な理由で彼女を自分の手元に置こうとしているのに、その上に更に己の汚い欲求までぶつけるようなことがあれば、それで彼女を穢してしまうようなことがあれば、もはやアクアは自分で自分のことを許せる気がしない。

 だからアクアには、そんなことを考えようとする気すら起こらなかった。そういう話である。

 

「……だけど、それが君を異性として見ることになっているのかは、わからない。いや、多分ならないんだろうと、思う。……ごめん」

 

 故に、アクアはそんな内心の全てを押し込めて、あかねにそれだけを伝えた。そして、頭を下げた。

 

 沈黙が、場を支配する。

 失望させてしまっただろうか。そうかもしれない。契約として必要な期間が過ぎれば、「別れ」を切り出されるのはむしろあかねのほうからかもしれない。今まで、吾郎の時にも、そうであったように。

 ならば、そのあとも友人関係は続けていかなければ。いや、それは単なる我欲にしか過ぎないのではないか――そんなことをぐるぐると考えていたアクアに向かって、声が降ってくる。

 

「……やっぱり、私思うんだ」

 

 すっと、身が寄せられる。カウンターに置いたままの手に、掌が添えられた。

 あかねの手だ。顔を上げる。そうすれば、そこにはアクアのことを静かに見つめている、彼女の姿があった。

 

「アクアくんは、優しい。優しすぎるよ。もう少し、ワガママになってもいいんじゃないかな」

 

 湿った声だ。しかしそこに、どういうわけかアクアは、「アイの幻影」を見る。見てしまう。

 今のあかねの姿が、なぜかアイに重なった。今、彼女はアイの役作りなどしていないはずなのに。

 

 ――この期に及んで、俺はまだこんな。

 そう、急激に襲い掛かった罪悪感に、アクアは目を逸らそうとする。しかしそれは、アクアの頬に手を添えたあかねによって、止められてしまった。

 伝わる温もりに、思考が止まる。生まれた間隙に、音が届いた。

 

「私は、アクアくんにそう言ってもらえて、嬉しいよ。下手に好きって言われるより、ずっと嬉しい」

 

 不思議な目線だった。そこにいるのはあかねで、アクアに向けられているのも確かにあかねの、あかねとしての双眸であるはずなのに、なぜかそこからはアイと同じような情動を感じてしまう。

 まるでアイとあかねの二人が、全く違和感なく、同じベクトルの感情を重ね合わせて、同時にこちらに向けているような。

 

「……あかね」

「だからね。アクアくんがよければだけど、『お試しカップル』、しない?」

「お試し?」

「うん」

 

 そう言って、あかねが更に身を寄せてくる。ほとんど触れあうような距離から、彼女はアクアの顔をじっと覗き込む。

 

「お仕事として、じゃなくて、普通の彼氏彼女がするみたいなこともして。私も仕事とかあるし、そんなに頻繁には無理だけど。……でも、そうやっていく中で、アクアくんにもわかることは、あるんじゃないかなって」

 

 どうかな、と顔をかしげて、あかねはアクアに問いかけた。

 

 

 

 どうなのだろう。自問自答する。今の自分に、そんなことをやっている余裕があるのかどうか、と。

 

 己の、今までの軌跡を振り返る。

 芸能活動を再開して六か月で、アクアは父親捜しという意味においてはある程度形になる成果を上げた。

 

 アイがアクアたちを身籠る前の事情を知る男である鏑木勝也と、かなり太い関係を結べた。来週には、彼が知っているいくつかの情報を仕入れられるだろう。あるいは彼の先にある、よりアイの核心に近い人物とのコネクションを、彼経由で得られるかもしれない。

 劇団ララライの方でも、まさに今自らの隣にいる黒川あかねと面識を持てた。事と次第によっては、彼女を経由して劇団ララライの主宰である金田一敏郎に手が届くこともあるだろう。

 

 事前に準備をかなり重ねていたとはいえ、考えてみればかなりトントン拍子で自分は目的に対して近づけている。本来の想定ならば、ここまで辿り着くために一年ぐらいはかけているはずだったのだ。

 ただ、ここからはそうはいかない。何となれば、これ以上先の事情に立ち入るためには、どのみちアクアはあかねの所属する劇団の、「劇団ララライ」のことを深く知らなければならないからだ。

 ならば、あかねとの関係を深めることは、アクアの目的という視点で見ても理には適う。下心があろうがなかろうが、自らの恋人の所属する劇団のことについては、交流を進めていくうちに嫌でも知ることにはなるだろうから。

 

 だとすれば、問題はないのか。

 あかねのこと、アイとルビーのこと。どちらにより重きを置くか、天秤にかけることもなく、自分がその方法を選べるというのならば。

 

「……じゃあ、お願いしようかな」

 

 思慮の果てに、アクアはあかねにそう返す。

 罪悪感は、やはり胸に重くのしかかる。結局、あかねの存在を一つの手段のようにしていることに、変わりはない。それをあかねに黙っている自分の不義理は、いつか裁かれなければならない咎なのだろう。

 それでも今、自分がとれる最善の選択肢は、これなのだ。そう信じるより、他にはない。

 

 アクアのその返事を聞いて、蕾が綻ぶような柔らかな笑みを浮かべたあかねが、頷く。

 

「うん! じゃあ、これから『お試し彼氏』、よろしくね?」

 

 その表情を見て、今ひとたび強く痛んだ自らの心に蓋をして、アクアもまた同じように、あかねに向かって頷き返した。

 

「ああ。……よろしく」




本作のアクア(というか吾郎)は、さりなと死別するまではほぼ原作吾郎のままです。なので原作ほど激しくはないですが、やることはやっています。



あと、あかねにアイのことを話してしまったことは、作中でも述べていますが普通に悪手です。こういう「やらかし」をちょいちょいやってしまうのも原作のアクア(というか吾郎)からの引継ぎ要素ですね。いくら性格を多少改変しても元は同じ人間なわけで、性能が劇的に上がるわけではないよという話でした。
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