打ち上げの時間は、その後も恙なく過ぎてゆく。
あかねとの話も一段落ついて、もう一度関係者との間であいさつを済ませれば、あとはただだらだらと過ごすばかりだ。
乾杯のあと、早々に鏑木と話をつけるためにその場を離れていたことで、あまり話ができていなかった共演者の残りの面々ともいくらか言葉を交わしたし、そんな歓談の輪の中心から外れたところで二人仲睦まじく話すゆきとノブユキの二人の様子に、確かに
しかし、とにもかくにも、いずれ時間はやってくる。時は深夜、予定されていた貸し切りの時間を過ぎたことで、この場はお開きとなった。
そうすれば、あとは帰るだけだ。帰りのルートが同じメンバー同士で別れて、その場からは三々五々に去ってゆく。
今ガチの共演者の括りにおいては、アクアとMEMちょの二人と、それ以外だ。
アクアにとってそれは同時に、今日の自分に課されている目的のもう一つを遂げるべきタイミングだった。
つまり、この「今ガチのメンバーとして最後となる打ち上げの日」こそが、アクアにとって件の計画の――MEMちょの苺プロへの勧誘の、最初で最後のタイミングだとは、ずっと考えていたからだった。
これまでのあかねとのやり取りにおいて、アクアには確かに顧みねばならぬことはあまりに多かった。これから考えなければいけないこともである。
しかし同時に、それでも今日この場における目的の一つは、決して忘れていなかった。
当たり前だ。忘れていいわけがない。他でもないルビーの、妹のためなのだから。
深呼吸を一つ、気持ちを切り替える。
今考えるべきは、自分自身のことなどではない。向き合うべきはまさしく、今自らの横に立つMEMちょという一人の少女に相違なかった。
さようならと手を振りあって、全員が帰路に就く。それはこの「今ガチ」という座組みの終わりであり、以て今ガチの共演者たる六人の、共演者としての最後の瞬間でもあった。
宴の余韻が残り、いよいよ夏を迎える夜の仄かな熱気と、盛り場の極彩色が彩るアスファルトの上で、アクアはMEMちょと向かい合っている。
「たしか君は、この辺りだったよな」
「そう。ま、業界の界隈の人、みんなこの辺りに住んでるしねぇ、便利だし」
そう言って、彼女は笑う。
目黒――とりわけ中目黒一帯というのは、確かに芸能関係者が多く住んでいる場所だ。YouTuber、配信者とはいえ、この場所に居を構える理由として、そういう面はあっておかしくない。
「まあ、確かにな」
賛意を示しつつ、アクアは間合いを見計らう。話を持ちかけるタイミングを、いつにするか。
しかし一方のMEMちょは、この場から動こうとしない。名残惜しげに、ゆきやあかねたちが去っていった方を眺めて、立ち尽くしていた。
そこから、声が漏れる。
「寂しい。寂しいなぁ」
それは確かに、はっきりと寂寞の情を帯びた声色だった。
「もう終わっちゃったんだよなぁ、今ガチ。私、この現場本当に好きだった。楽しかったなぁ」
宴のあと、過ぎ去ってしまった時を惜しむように、愛おしむように、彼女はそれを言葉にする。
「……まあ、そうだな。本当に、本当に色々あったけど、いい現場だったと思う」
賛意を示せば、MEMちょがアクアに振り返る。
「でも、アクたんはあんま寂しくないんじゃない? だってほら、あかねが彼女だしぃ?」
途端に、彼女の声にからかうような響きが戻る。思わず、アクアは苦笑していた。
「そうかもな。……でも」
しかし同時に、そこがアクアにとっては仕掛けのチャンスだと直感した。
そうだ。この場を名残惜しいと思っている今を措いて、彼女との関係がギリギリ切れていないこの瞬間を措いて、切り出すべきタイミングはない。
故に、アクアは一歩踏み込む。
「君も、まだ寂しいって言うには、早いと思う」
それを聞いて、MEMちょが目を瞬かせた。
「ほぇ? どういうこと?」
――かかった。そう直感する。
まずはフックに成功した。ならば、ここからはアクアの土俵だ。
「MEM、君言ってただろう、今ガチの収録中。B小町のこと、『みんなの憧れだった』って」
「え? あぁ……アクたんよく憶えてるねそんなこと」
「そりゃそうだ。ウチの事務所の元ユニットなんだから。……まあそれはよくて」
そこで一拍置いて、アクアは自らの仮説をベースに、話を持ちかけた。
「B小町の曲、ほとんど憶えてるって言ってたよな。相当なB小町フリークだなって思ってたんだけど……もしかして、そもそもアイドルに憧れてたクチだったりしないか?」
問うた瞬間、分かりやすい反応が返ってきた。「ぎくり」、と言ったところだろうか。
アクアに向けられていた笑顔が引き攣る。しばしの沈黙が場を支配して、果たしてそのあとに、MEMちょが諦めたように口を開いた。
「アクたん、察し良すぎるよ……あんまり不用意なこと言うもんじゃないね」
そう一頻りぼやいて、答えを返してくる。
「……そーだよ。ここだけの話にしてほしいんだけど、そもそも私、最初はアイドル志望だったんだよねぇ」
声の中に含まれているのは、回顧と、そして諦念だ。
「けど、まあ色々あってね。挫折と言うか、諦めちゃったんだけど。でも結局、この業界のこと諦めきれなくて、それでまあ、TikTokerやって、YouTuberやって。今では何とか、一端のインフルエンサーって感じ?」
――人生どう転ぶかわからないよねぇ。
しみじみと口にしながら、MEMちょが空を仰ぐ。
アクアは直感した。
間違いない、これは行ける。
七三だと思っていた可能性の針が、ほぼ十ゼロに振れた瞬間だった。
故に、逸る心を落ちつけて、アクアは今一度MEMちょに問う。
「……なあ、MEM」
「なに?」
「今からでも、その夢見られるってなったら、見たいと思うか?」
「……はぇ?」
そう、まずは敢えてぼかして注意を惹く。
目論見通りにこちらを見て、首を傾げてみせた彼女に、アクアは次こそ直接的な言葉を叩きつけた。
「もし、俺が君のことを、ウチがこれから立ち上げるアイドルユニットの一員として苺プロに勧誘したら、君は受けてくれるか?」
こちらを向いていたMEMちょの表情が、完全に固まった。
「え? いやアクたん、何言ってるの……冗談だよね?」
「俺が冗談で、人の夢を弄ぶような人間に見えるか?」
かなの時と同じだ。ここはもはや畳みかける。
幸い、かなの時と違ってMEMちょは最初の感触からしていい。そこまで無理な圧力をかける必要もない。
「アイドルと言う意味では寄り道をしているかもしれないけど、今の君のインフルエンサーとしての能力は、知名度は、アイドルとしては唯一無二と言っていい武器だ。見た目だっていい。あの鏑木プロデューサーのお眼鏡に適っているんだ、悪いわけがない」
本気も本気であることを、態度で伝える。
狼狽え混じり、困惑しきりであったMEMちょの態度が、それによって少しずつ変わっていく。
現実感のない茫洋とした視線に、光が灯ってゆく。
「アクたん……それ、信じていいの?」
「本気も本気だ。一応、君と君の事務所の契約関連も洗って、ウチとの契約も問題ない立てつけでやれそうだってところまで、当たりはつけてる。正直なところ、俺はかなり前の方から、君のことを誘うつもりではあったんだ」
MEMちょはもはや言葉すらも失っている。
しかし、表情を見ればわかる。彼女の目線は、顔つきは、希望を見ている人間のそれだ。あり得なかったはずの幸運が、目の前に見えたときのそれであった。
ならばあとはもう、クロージングをかけるだけだ。
「もし俺の誘いを受けてくれるなら、早速で悪いけど、ウチの事務所に来てほしい。……来て、くれるか?」
アクアのその誘い文句に、MEMちょはただ無言のまま、首を縦に振って返した。
もはやそこに、言葉など必要なかった。
「前から聞いちゃいたが……マジで連れてくるたぁ驚いた」
深夜も深夜、日付が回るか回らないかという頃であるのに、苺プロの事務所には壱護社長自らが待ち構えていた。その横には当然にというか、ミヤコもいる。
もっとも、それは今日の打ち上げの前にアクアから彼らに対してMEMちょをスカウトする旨を伝えていたからではあるのだが、そうは言っても壱護社長は今の今までどうやら半信半疑であったらしい。
「いやだって、あのMEMちょだぞ? ……お前、スカウトとしても食ってけるんじゃないか?」
「買い被りすぎですよ。俺はその気のない人間をやる気にさせるような腕はありません。……それに、これはあくまで妹のためですから」
MEMちょのことをソファに座らせて、その前で壱護社長とアクアがそんな軽口を叩き合う。MEMちょの隣にはミヤコが座っていて、控えめに言ってこの状態は、MEMちょにとっては「包囲網を敷かれている」ように感じられるに違いない。
実際、この事務所に着いてから――というより、壱護社長の顔を拝んでからというもの、彼女の顔からは凄まじい緊張が見て取れた。
まあ、無理もない。何度も思わされたが、この事務所の社長であるところの斉藤壱護という人間の出で立ちは何をどう考えても堅気のそれではないのだ。「なんかヤバいところに来てしまったかもしれない」という思いすら懐いていてもおかしくないほどには、彼女はガチガチになってしまっている。
せっかくの優良物件を、社長の強面のせいでフイにしてしまうのはあまりにもったいない。社長とのやり取りはその程度で切り上げて、アクアはMEMちょへのフォローに回ることにした。
「まあ、ウチの社長こんなナリだけど、腕は確かだから」
「こんなナリとはなんだこんなナリとは」
「いや細身のグラサン兼用眼鏡掛けてる染めた金髪の男とかどう考えても身構えられるのはしょうがないでしょう……とにかく」
横から茶々を入れてきた社長にあっさりと言葉を返して、アクアはミヤコの方に視線をずらした。
「契約業務はミヤコさん担当でしたよね? 立てつけについては前話していた感じで大丈夫だと思うのですが」
「ええ。MEMさんは個人事業主としてやっているみたいだし、ウチからもエージェント契約の形にすれば、多分大丈夫のはずよ。……ですよね? MEMさん」
隣に座るミヤコから水を向けられて、MEMちょの肩がびくりと跳ねる。
なんというか、まだ少し緊張というか、はっきり言えばビビっているらしい。その証拠に、ミヤコに言葉を返す彼女の声の端は、未だにやや震えていた。
「はい……。えっと、私は今一応『FARM』って事務所にお世話してもらってるんですが、そこともそういう契約形態なので、大丈夫のはずです」
「ならまあ、問題はなさそうね。アクアくんからも確認はしているけど」
ミヤコが頷く。彼女の方と話を進めることで、MEMちょからも緊張はいくらか抜けたらしい。
ただ、それでも未だ、その顔は晴れない。緊張による全身の強張りと入れ替わるようにして、表に出てきたのはどこか、「後ろめたさ」を含んだ表情だった。
アクアには見当がつかない。契約上の問題はクリアされたはずだ。配信業務に関するエージェント契約を結んでいるFARM側と、アイドルとしてのエージェント契約を結ぶ苺プロ側に競業避止義務に反するなにかがあるようにも思えない。
分からなければ、訊くのがいいか。そう思って口を開こうとしたところで、しかしミヤコの方が一足先に言葉を発した。
「けど。MEMさん、あなた。まだ私たちに言っていないことがあるんじゃないかしら?」
「あー……えっとぉ……」
随分と真っすぐ訊くものだと、アクアとしては思わされる。MEMちょのほうも、思い切り図星を突かれたような引き攣った表情を浮かべていた。
どうやら、ミヤコにはMEMちょのいまいち煮え切らない態度の理由がわかるらしい。呆れ交じりのような息を吐いて、続けた。
「……私から言った方がいいかしら?」
「いえ! 私から言いますぅ!」
斯くてミヤコから促されて、MEMちょは観念したように口にする。
「えっとぉ……私、年齢サバ読んでましてぇ……」
そして出てきたのは、そんなある種突拍子もない言葉だった。
「あぁ! そういうことか! 何か違和感あったんだよなぁ……」
驚きに目を瞬かせたアクアの横で、壱護社長が納得したような様相でポンと手を叩く。
「え? あったんですか? 違和感」
「そりゃな。童顔だし、体つきも子どもっぽいし、普通の人間にゃまあ分からないだろうけど、俺らはもともと地下アイドルのスカウトやってたんだぜ? そういう目利きがないとやってけねぇだろ」
「そういうこと。私たちの目は、流石に誤魔化せないわ」
アクアの疑問に、夫婦ともに答える。なるほど、昔取った杵柄といったところだろう。
「いや、でも俺は全然気づかなかった……」
呟く。やはり自分にスカウトは無理だなと、アクアはつくづく思わされた。無論、なるつもりもないが。
ただ、それはそれとして考える。
年齢を多少誤魔化していたところで、見た目が若々しければそこに何の問題もないはずだ。あとは当人の後ろめたさが許容できるかどうかの話でしかない、と。
「けど、それの何が問題なんだ? 逆サバ読んでるってなら、未成年者契約になるから取消権周りで面倒そうだけど、そういうわけじゃないんだろ?」
「いやまぁ、そうなんだけどぉ……」
何とも歯切れが悪い。ミヤコの方に目線を向ければ、彼女もアクアに頷いた。
「別に私たちは気にしないわよ。配信者なんてみんなそんなものだし、実際の年齢がどうでも、見かけがしっかりしていれば、何も問題ないでしょう?」
そうだろう。何か問題になるとは思えない。それこそ、役所に照会をかけなければならない何かをするのでもない限り。
故にアクアは正直なところ、この期に及んでMEMちょが何をそこまで憂いているのかが理解できていなかった。
ただ、ミヤコの方はある程度それにあたりがついているらしい。ちなみに、と改めて切り出した。
「一応、契約上問題がないかどうかを確認しないといけないから、実年齢の方も教えてもらえる?」
そしてどうやら、それが「あたり」であったようだ。言った瞬間、MEMちょがまた露骨な反応を見せた。
明らかに挙動不審だ。あのぉ、とかそのぉ、とかと随分と逡巡を見せた末に、ようやく決心がついたような表情で、しかし隣のミヤコにだけ分かるように耳打ちを始めた。
果たしてそれから数秒後、ミヤコの顔色が変わる。
徐に指を折りはじめ、その末に彼女は叫んだ。
「――肝据わりすぎじゃない!?」
「申し訳ございませぇん!!」
MEMちょのほうもMEMちょのほうで、弾かれたように頭を下げる。もはや座っているソファから降りて土下座でも始めんとする勢いだ。
アクアも当然にその一部始終を見ているわけで、ミヤコが折った指の本数を数えていた。
一回握り拳が作られてから、指が返っている。つまり六本か七本だ。
だとすると彼女の本当の年齢は――。
「二十五?」
「聞こえてたのぉ!?」
ぎょっとした表情でこちらを見たMEMちょに、アクアは首を振る。
「いや、ミヤコさんが指折ってたの見てたから……」
――しかし、二十五か。
アクアは思う。つまり今のアクアからすれば九つも歳上だ。むしろ「吾郎」のほうが年齢としては近い。
自分は大体二十八、九で死んでいるわけで、つまり彼女はその時の吾郎と比べて三つ四つほど若いだけということになるだろう。
なんというか、信じられない思いだった。最低でも、吾郎として生きていたころの三歳下の女の子で、これほどまでに若く見える子は周りにいなかった。
「けど、そうしたら……MEM『さん』とお呼びした方が、流石にいいんでしょうか……?」
「やめてぇ! アクたんそれは傷つく!」
アクアの問いに、もはや涙すら流しそうな勢いで、MEMちょが懇願してくる。
なんだか、悪い気がしてしまう。流石に九歳も年上の女性に、年上と知ってしまった女性に、今ガチの中でやっていたような平たい喋り方をするのは気が引けるというそれだけの話だったのだが、思いの外MEMちょは気にしているらしい。
……いや、流石に内心で嘘はつけない。確かに少しだけ、からかってやろうという意味合いは込めていた。ただ本当に、悪意のようなものはまったくなかったのだ。故にこれ以上彼女のことを弄るのはやめようとアクアは心に決めた。
「二十五……すげぇな。流石にそこまでとは思わなかった」
隣では呆然と壱護社長が呟いている。流石に彼をしても、実年齢がそれほど行っているとは思えなかったのだろう。
無理もない。二十五と言われた方がむしろ信じがたいほどなのだから。
が、それでもアクアは思う。
「けど……それの何が問題なんだ?」
ぽつりと出てきたその言葉に、MEMちょとミヤコの視線が向いた。
「確かに、年齢がバレるような……例えば車の運転とか、酒だのタバコだのとか、ギャンブルとか、そういうことはできないだろうけど。車はともかく、残りに関してはそもそもアイドルやってる間は御法度みたいなもんだろ?」
でしょう? とアクアは壱護社長の方を向く。当然に、彼も頷いた。
「だな。まあウチは恋愛禁止みたいなことはするつもりもないが、そこら辺のアイドルとしてのイメージが下がりそうなことはどの道させらんないからな」
我が意を得たりと、MEMちょの方に視線を戻す。
「ですよね。……だから、年齢なんて言わなけりゃいいだけだろ。今までと何も変わらない。違うか?」
本心から、そう問う。
何せそれを言うなら、アラサーの精神を持った男がアイの子供としてバブバブやっていた自らの過去の方がよっぽどヤバいのだ。ルビーの他には誰にも言うつもりなどないが、いずれにせよあれに比べれば今のMEMちょの年齢詐称など些事に過ぎないだろう。
この世の終わりのような表情をしていたMEMちょが、そのアクアの問いに救いを求めるかのように、声を上げた。
「だってぇ……二十五なんだよ? アイドルの世界じゃ二十歳ですらもうオバサン呼ばわりなのに……」
「夢見たんだろ、アイドルになりたいって」
向けられた自虐交じりの弱音を、切って捨てる。
「事情もいろいろあったんだろうけど、俺は聞かない。けどさ」
敢えて、向ける目線に力を籠める。そしてアクアは強く言い切った。
「叶えられる夢なら、叶えるべきだろ。手が届くんなら」
MEMちょの目が、見開かれる。
それまで彼女の身体を覆っていた悲観的な空気が、俄かに霧散した。
「――そうだそうだ! いいこと言った! さっすがお兄ちゃん!」
そこに、この空間にいなかったはずの人物の声が割り込む。
アクアにとってそれは、誰何するまでもない。つまりは妹だった。
「ルビー、お前来てたのか」
「あったりまえじゃん! 新しいメンバーが増えるかもしれないんでしょ? って……」
自らの兄の声に答えて、そのままルビーはぐるりと部屋を見渡す。そうすればすぐさま見えた目当ての人の、つまりMEMちょの姿に、彼女は一気にテンションを振り切らせて駆け寄った。
「うわぁ、本物! 生MEMちょ! すご!」
ずっと見てたよ! と机越しに飛びつく。弾みでアクアが少し隅に追いやられてしまったが、まあ致し方もない。
正面からルビーの輝く瞳に見つめられて、MEMちょも些か当惑気味に見える。ただそこにあるのは、僅かな羨望と、しかしそれより大きい希望の光だった。
「ルビーあんた、ノックぐらい……って」
更にそこから、追いかけるようにもう一人――かなが事務所の中に入ってくる。途端に視線がアクアと合って、結果そこには奇妙な沈黙が生まれてしまった。
理由は、まあ想像がつく。しかし今はそれをとやかく言っている場面ではなかった。
「かな、そっちにいるのがMEMちょだ。一応勧誘には応じてくれそうなんだけど」
「……えぇ、聞いていたわ。年齢のことね」
互いに抱える心情を呑み込んで、言葉を交わす。
「正直、私には身につまされる話よ。本当に……」
そういうかなの目の端には、よく見れば涙が浮かんでいる。慌てて視線を逸らしたアクアに、かなの声が届いた。
「ほんと、残酷よ、年齢制限って。私も小学校高学年になったら、子役の事務所には仕事ないって言われて、それで……」
なるほど、とアクアは自らの過去を顧みて考える。自分が高学年以降、五反田監督に裏方の仕事の修行へと移らされたのも、かながそのあたりからとんとドラマに出てこなくなったのも、その根源は同じということなのだろう。
苦労したんだな、としみじみ思わされた。そんな彼女から出てくる言葉を、アクアには笑う気にも茶化す気にも、なれなかった。
「……そういうことだ、MEM」
未だルビーにひっつかれて困惑中のMEMちょにむけて、アクアは声をかける。
「君に参加してほしいアイドルユニットは、そこの俺の妹の『ルビー』と、そっちの『有馬かな』が、今のところメンバーだ。それに君が入って三人。自分で言うのもなんだけど、妥協のないレベルのメンバーだと思う」
それに、と言葉を継ぐ。
「二人とも、君の年齢なんて気にしてるか?」
問われて、顔を上げてアクアの方を見たMEMちょが、首を左右に振る。
そうだろうと頷いて、次に横を見た。
「社長。あなたの目から見て、どうですか?」
「そうだな。……正直な話、素材は一級品だ。俺がB小町を集めたときよりもな。ま、アイにだけはまだ届かねぇが」
こちらの問いに含まれる意図を察したか、壱護社長がそう答える。口の端には笑みが浮かんでいた。
そこで「アイには及ばない」と言うあたり、やはり壱護社長にとってアイの存在は間違いなく特別なのだろう。当然にそれは、アクアにとってもルビーにとっても、同じことだ。
しかし、ルビーには夢がある。そんなアイをも超えるアイドルに、いつかなってみせるのだという、夢が。
「そりゃそうですよ。……けど、永遠にそうってわけじゃない」
「お? 言ったなお前」
「あなたもですよ、壱護社長。アイだけが最高傑作で、それ以上のアイドルは結局作れませんでしたでは、ちょっと悔しくないですか?」
挑発的に敢えて笑って口にしたアクアに、壱護社長の眼鏡の奥の目が、俄かに見開かれた。
それはアクアからしてみれば、予想とは異なる反応だった。アクアはあくまで、このやり取りの中で壱護社長を焚きつけるつもりでいたのだ。売り言葉に買い言葉のように、彼から意欲的な言葉を引き出すつもりの行動だった。
しかし今、目の前の壱護社長は全く違う振る舞いをしている。
一度開いていた目を、閉じる。まるで、
ただそれは、ほんの一瞬のことでしかなかった。小さく首が振られる。そして口が動いた。
「……そうだな。確かに、そうなんだよな」
そこから、彼の顔つきが変わる。笑顔の質が変わる。穏やかなそれから、挑戦的なものへ。アクアが本来想定していた流れへと、収束していく。まるで今までの数秒のことは、幻であったかのように。
「……言うじゃねぇか」
そして、言葉が返る。そのまま、彼はMEMちょたちの方に顔を向けた。
「俺としちゃ、君の加入は大歓迎だ。ミヤコ、お前は?」
「私もよ。正直、最初からこれほどの知名度を持っている子が入ってくれるなんて、運が向いてるとしか思えないもの」
そうだ。この場にMEMちょの加入に反対する者など誰もいない。
当たり前だ。年齢のことなど言いさえしなければ、彼女の持つインフルエンサーという唯一無二のキャラクター性も、そして鏑木の基準をパスするほどのルックスの良さも、何よりアイドルという職業に対する熱意も、手放すには惜しい才能なのだから。
「というわけだ。MEM、君がウチに入ることに、反対する人なんてここにはいない」
「うんっ! MEMちょ、アイドルやろうよ、一緒に!」
そして最後に、ルビーが至近距離からMEMちょにダメ押しの一言を放つ。
「だって――憧れは止められない、夢は終わらないんだから!」
MEMちょの手を握りながら、その目を覗き込むようにして、ルビーはそんな『殺し文句』を言ってのけた。
果たして彼女に向けられた、燦然と輝きを放つ紅玉の瞳は、きっと彼女の胸中に最後まで眠っていた小さな蟠りまでもを、焼き尽くしてみせた。
ルビーの言葉に頷いたMEMちょの顔からは、もはや一片の曇りすらも、アクアは見つけることができなかったのだから。
斯くして、長らく停滞していたルビーのアイドルデビュー計画は、ようやくにしてそのスタートが切られることになった。
翌日、アイも交えて苺プロの事務所に集められた面々に、壱護社長は高らかに今後の計画を発表する。
今回デビューするアイドルユニットは、予定の通り「アイのプロデュースするアイドル」として世に売り出す。
メンバーはルビー、かな、MEMちょの三人で、基本的にはセンターをルビーに任せるが、三人組と少人数であるために扱いは極力平等とする。
そんな彼女たちの初陣の舞台は、三週間後に迫った
そして、彼女たちの冠するユニット名は――『B小町』。
アイのプロデュースする、アイがかつてセンターを務めていた、伝説のアイドルグループの後継。その名を名乗ることについては、ルビーからの強い希望があったらしい。
たとえその光り輝く名を冠するに相応しいアイドルとしての完成度を、文字通りの初陣から求められることとなるとしても、彼女はそれを称することを敢えて選んだのだ。
その名前を選んだルビーを前にして、壱護社長が浮かべていた「何か覚悟を決めたような表情」を、アクアはきっと忘れることはない。
果たして――怒涛のような三週間が、そこから始まった。