JIFまでの残りの一週間は、本当にあっという間のことだった。
当日におけるB小町の枠は、夕方から夜にかけての四十五分ほどとなっている。JIFはステージによってグループごとの枠の長さがまちまちであるのだが、第二のステージ格の「SEA STAGE」に参加するグループには、それだけの長さの時間が与えられていた。
因みにメインステージ格の「TOP STAGE」に出てくるグループは一時間、「STAR STAGE」あたりの新人や無名グループには三十分が、それぞれ割り振られている*1。
自分たちの存在を観客に見せつける時間だ。長ければ長いほどいいとも言えようが、しかし同時にそれは、それほどの長い時間をパフォーマンスを落とすことなくやり切って、そして観客を惹きこみ続けることを求められているということでもある。たとえ伝説のアイドルグループの名を受け継いでいるとしても、「アイのプロデュース」と言う箔によって、一足飛びにこのJIFの舞台の中でも頂点に近い場所へと連れてこられているのだとしても、実質的にはデビューしたばかりの新人アイドルでしかないルビーたちにとっては、ハードルとしては高いと言わざるを得ないだろう。
しかし、それが何だというのか。ルビーはそう思っていた。
ずっと、長い夢を見ているような気がしていた。今自分が立っているここは、「天童寺さりな」であったころの自分が、どれほどに乞うても得ることのできなかった場所なのだから。
自分のことを愛してくれる母親がいる。しかもそれは、自分が焦がれてやまなかった憧れの存在だ。
慈しんでくれる兄がいる。ずっと自分のことを大事にしてくれて、夢を叶えようとする自分のことを、その願いを、いつだって支えてくれている兄だ。
身体だって、自由に動く。どこにだって行ける。そして今、焦がれるほどに夢見た舞台に立とうとしている。その一歩を踏み出そうとしている。
三週間の、いや、有馬かなから受けた二週間ほどのシゴキを含めたら一か月以上にも及んだ特訓は確かに身体には辛くて、しかしそれほどに自分の身体を苛め抜くことができることそれ自体が、どうしようもなく嬉しい。
母にして、自分にとって「前世」からの憧れであるアイに、手ずからアイドルとしての手解きを受けられることなど、天にも昇る気持ちだ。
合宿のようにして、MEMちょとかなとの二人で寝食を共にするのは、修学旅行よりもよっぽど刺激的で、心が躍った。
そして特訓に打ち込むルビーたちのことを案じて、アクアがたびたび買い出しに出かけては差し入れをして、こちらのことを労ってくれていたことに、胸が暖かくなった。
アクアと言えば、一週間前のリハーサルのとき、どうにもいまいちナーバスになっていそうだったかなのことを気にして、何かまたサポートをしていたらしい。
本当に、ウチの兄は世話焼きで、そして女たらしだ。ルビーにとって心中複雑なものがあるのは事実だったが、しかしそれは確かに意味を持っていた。
その日以降、かなの調子はいくらか上向いていて、前日の最終合わせの時にはルビーたち三人共に、アイからも「これなら大丈夫そう」とのお墨付きを貰えるほどには自信を持ったパフォーマンスができるようになっていたのだから。
ともかく、今自分はそれほどまでの後押しを受けて、この場にいる。
JIFとは、世に数多あるアイドルたちにとって、一つの夢の結実ですらある。「STAR STAGE」や「BALL FACTORY」*2のような小規模なステージであっても、そこに出場することそれ自体が一つの目標となるほどには、目指すべき場であるのだ。
そんな場所に、それも「SEA STAGE」などという、大手レーベル所属のアイドルが犇めき合うような煌びやかなステージに、これからルビーたちは立つ。
本当に、夢を見ているようだった。
しかし、今は違う。ここに立つ自分は、寝ながらにして見る夢に揺蕩うためにここにいるのではない。
しっかりと目を覚まして、両の足を地につけて、全身全霊を以て、叶えられる夢を叶えるために、私は今ここにいるのだ。そう、ルビーは心に定めていた。
本番十分前、出演者控室から出て、ステージ下の裏手に、ルビーたちは三人で集まっている。
すでにステージ衣装には着替えていて、イヤーモニタも頭につけてある。あとは、名前が呼ばれるのを待つばかりの身だ。
「いやぁ、緊張するぅー!」
「だよねぇ~……」
しかし、たとえどれほどの覚悟をしたところで、この直前の緊張と言うのはどうにもならない。
陽東高校の入試の時にせよ、ルビーは自らが緊張しいであるということについてはつくづく自覚させられていた。
「……ほら、そこのトーシロ二人共。『緊張する』って口に出したらもっと緊張するのよ、そういうのは心の中にとどめときなさい」
故にMEMちょと一緒にそのどうしようもない緊張感を分け合っていたところに、その場にいるもう一人――かなからの忠言が飛んできた。
ルビーはそちらへと目を向ける。裏手の出口のすぐそばの場所、そこに立つかなはルビーたちに背を向けていて、しかしどうにも自然体に見える。
ステージからの逆光を受けた彼女の身体が、こちらに向かって影を長く伸ばしている。そこにあるのは、どこか「歴戦の勇士」を思わせるような貫禄だ。
やはり、伊達に重曹は舐めていないということか。……もとい、子役はしていないということか。
ルビーはかなの子役としてのキャリアの長短にそこまでの興味を持ってはいなかったが、しかしこの場における彼女の振る舞いには、そういうどこか凄みのようなものを感じさせられていた。
「先輩は緊張してないの?」
だから、そう訊いてしまう。そしてそれに、かなは小さく、どこか呆れたような息を吐いて答えた。
「バカね。してるに決まってるじゃない」
言って、振り返る。
「けどね。こういうのは大体、実際に客の目の前に行ったら吹き飛ぶもんなの」
見れば彼女は、口の端にニヒルな笑みを浮かべていた。
「緊張なんてのは、心の余裕よ。無駄なこと考えてる暇があるから、緊張するのよ」
なるほど、含蓄のある言葉だ。ルビーはそう思わされる。
「ルビー、あなたはいつも通りでいい。振りについては、アイさんから無意識でも踊れるように仕込まれたでしょ。なら、逆に何も考えない方がいいわ。あなたは、ただファンだけ見てなさい」
そのままに、どこか年長風を吹かせるようにして、ルビーにアドバイスを向けてくる。
「MEMちょ、あなたはそもそも持っているファンが多いから、たぶん客席のかなりの部分はあなたのファンよ。だからあの場所にいるのはあなたの味方で敵じゃない。今までのあなたの活動を信じなさい」
返す刀でMEMちょにも、そんな激励の言葉をかけていた。
確かに、それはありがたい。ルビーとしても、自分の横にこれほどの冷静さを持ってあの舞台の上に立ってくれる「先達」がいるという事実は、やはり心強いものがある。
でも、ならばかな自身はどうなのだろう? 彼女はそういう言葉を、かけてくれる相手などいないのに。
その疑問が、ルビーの口からぽろりと出た。
「先輩は? 大丈夫なの? 先週は……」
しかしそれは、ほかでもないかな自身の眼光によって断ち切られる。
ルビーを真っすぐに見据えるかなの視線には、はっきりと「余計なお世話」と書かれていた。
「私は、いいのよ。大丈夫。……アクアに、いろいろ言われたしね」
そう言って、また少し笑う。
きっとそれは、先週のリハのあとにアクアがかなを呼び出していた時のことなのだろう。ルビーは確信する。
「ま、人の心配できるぐらい余裕が出てきたってなら、いいんじゃないかしら」
そう流し目で告げて、かなはルビーに今一度背を向ける。
つまりそれは、時が来たということを示していた。
大歓声とともにルビーたちの前にパフォーマンスをしていたグループは下手側へとはけてゆき、今かの舞台はルビーたちのための、ルビーたちのためだけの場所へと成り代わる。
程なく、暗幕を掻きわけてルビーたちの眼前に現れたスタッフが、声をかけてくる。
「『B小町』さん、そろそろです。スタンバイお願いします」
前を向く。全員、声を合わせて返事をした。
静かに、ルビーが瞼を閉じる。
いよいよだ。いよいよここから、私たちの時間が始まる。
ずっと焦がれていた夢の時間だ。そして、これからその上を走り続けることになるだろう、星の旅路の第一歩だ。
母と同じB小町の名前を背負って、私は今からそこに立つ。
母と同じように、同じ星の下を生きる誰かに、希望を届けるために。私がかつて貰った光を、今度は誰かに受け取ってもらうために。
そして願わくば、
秘めた強い思いを胸に目を見開いて、ルビーは三人の中央に立つ。深呼吸を一つして、外へと足を踏み出した。
そうすればもう、そこには震えも緊張も、ありはしなかった。
――流石は社長。宣伝も抜かりないということね。
それが、有馬かなが「SEA STAGE」の舞台に上がった直後に抱いた感想だった。
JIFの中でも第二の、つまり準メインの格を持つこのステージは、当然に収容客数も多い。今年は屋内開催となっている「TOP STAGE」と違って、「海の科学館」の駐車場スペースに大きく構えられたこの場所*3には、その解放感も相まってかなりの見物客が詰めかけている。
そうだ。「詰めかけている」のだ。YouTubeとTwitterを巧みに使った告知は、インフルエンサーとしてのMEMちょの手腕も相俟ってかなりの層へのリーチに成功したらしい。今日が初めてのライブである完全なる新人アイドルの自分たちからしてみれば、環境として驚くほどに恵まれていると言えた。
振られているサイリウムの色を見る。かなが視認した限りにおいては、MEMちょの黄色が半分、ルビーの赤が三割強、そして残りがかなの白と言ったところだろうか。
正直なところ、かなは驚いていた。
導線を作り出し、そもそも大量の固定客を持っているMEMちょのファンが最も多いのは分かるし、常日頃から「心からアイドルが好き」と全身で表現して、誰の目をも惹きつけてやまない輝くような笑顔を振りまき続けているルビーが、それまで全くの無名であったと言えどもアイドルオタクからの大きな支持を集めるのも理解できた。
だから意外だったのは、そこではない。
かなだ。かな自身のことだった。確かに、三人の中において向けられている
アクアの言葉を思い出す。「俺を信じてくれ」と、かなの目をのぞき込むようにして言い放った、彼のことを。
そうか、と理解した。
かなは今まで、自分の両肩の上には、「有馬かな」という商品で商売をする大人たちの思惑と期待ばかりがかかっていると思っていた。それを遂げることが、自分の存在価値なのだと。それによって、自分は誰かに認められるのだと。認められるべきなのだと。
しかしここでは違う。今は違う。この人たちは、純粋に私を見ている。「『天才子役・有馬かな』の幻影」ではない、「ただの有馬かな」を見ている。
自然と、口角が上がるのが分かった。そして瞬間、かなは思い出していた。
「見られるというのは、私を見てくれているというのは、こういうことだった」と。
最前列の、関係者エリアを見る。かなたちの正面、カメラのすぐ横の場所に立っている青年の姿を。
ご丁寧に、赤と黄色と白、全部のサイリウムを両手の指に挟んで、彼は、アクアはその腕を掲げている。顔を上げて、こちらを見ている。
そして同時に、かなは見た。同じ関係者エリアの、彼から更に少し離れたところにいる、黒川あかねの姿も。
――何しに来たんだ、あの女。
そう思ってしまった自分のことは、誰も責められないだろう。
かなからすれば、何の脈絡も前触れもなく現れたサプライズだ。そしてよりにもよって黒川あかねが、こんな場所にわざわざやってくる必要など、本来はないはずなのだ。
しかし同時に、彼女がここにいる理由それ自体を、察している自分もいた。
つい先日のこと、あかねがSNSにアクアとの「デート」の写真をアップしているのを見つけていたからだ。
正直、その時は少しだけ胸が痛くなった。二人のそれが現状「仕事」であると分かっていても、自分とアクアとの間にあるのは単なる友達の関係だとは認識していても、アクアが自分から離れてしまっていくようで、
しかし、彼がどうしてあのタイミングで、あかねとそういうことをしたのか、今なら解る。何故ならあかねの手にあるサイリウムの色は、『白』だからだ。
つまり彼女を、黒川あかねをこの場所に呼んだのは、他でもないアクアであることを、かなは理解した。
かなとあかねの関係は、実際のところどこまでも複雑だ。間違いなく知り合いで、しかし友達ではなく、ライバルのようでいて、もしかしたら仇敵とも言うべきなのかもしれない。
顔を突き合わせると、どうしても互いにいがみ合ってしまうのだ。遥か昔、初対面となったオーディションの会場で彼女に会った時から、ずっとそうだった。その時の自分は、それが黒川あかねであることを知る由もなかったけれども。
しかしそれでも、最低でもかなは、相手のことを間違いなく天才と認めている。今まで一度も、彼女に直接それを伝えたことはなかったとしてもだ。
ならばあかねは、どう思っているのか。ただ何であれ、彼女がアクアの頼みを聞いてこの場所にやってきていることが、白のサイリウムを持っていることが、きっとすべてなのだろう。
本当に、お節介をしてくれる。あの日自分がアクアに投げつけた言葉を聞いて、それで返してくる答えがこれだというのだから、なんと言っていいのかわからない。「この朴念仁が」と暴言を吐いても許されるかもしれない。
ただそれでも今目の前に立つ彼が、アクアと言う青年が、自分に対して何を言いたいかはよく分かった。
「誰もいないなんてことはない。君は、一人ではない」。――そう、言いたいのでしょう?
目線のみで問いかける。そして今、アクアのそれと、確かに合った。
結ばれた視線の向こう、彼が無言で頷く。かなもまたそれに、頷き返していた。
同時に、音楽が流れ出す。かなたち新生「B小町」のセットリストの一曲目、旧B小町の楽曲のリアレンジである、軽快なダンスナンバーだ。
それに合わせてステップを踏み、歌声を上げて、B小町の、B小町としての有馬かなのパフォーマンスが始まる。
――いいわ。あなたが私をその気にさせたんだから、その責任はあなたが取りなさい、アクア。
――こういう私が見たいんでしょう? なら、見せつけてあげるから。
――アンタの妹からファンを奪っちゃっても、恨むんじゃないわよ?
瞬間、自身の胸の内の何かが、弾けたような気がした。
それは、伝説の再演のようですらあった。
ステージの上、存在感が爆ぜる。強烈な引力に、視線が引き寄せられる。
そこにいるのは、その源である存在は、即ちかなだ。有馬かなだった。
手の動き、足の動き、歌声に笑顔まで、何もかもにはち切れんばかりの自信が漲っている。その自信が、強烈なまでの「説得力」を生んでいる。
役者として培われた身体感覚が、身体の隅々までを完璧に制御して、「最も見られたい自分」を無意識のうちに演出する。
完成されたアイドルのダンスは、振りの中においても絶対に顔を隠さないという。そしてその顔に溢れる強固なまでの
今のかなが体現しているのは、まさにそれに他ならなかった。
長い時の中、ひたすらに押し殺して、抑えつけていた彼女本来の輝きが、今ここで解き放たれている。
それは才覚であり、本能であり、つまり有馬かなという少女の本質だ。その恒星のごとき存在感は、容赦なく周囲を塗りつぶし、食らい尽くそうとする。視線の全てを、自分に有無を言わさず集めようと牙を剥いていた。
だが、そう易々とはいかない。なぜなら、他のメンバーとて彼女に決して劣ってなどいなかったからだ。
かなと反対のサイドにいるMEMちょは、全身から絶大なる幸福感をまき散らすようなパフォーマンスを披露している。方々に向ける笑顔が、振りの合間に細かく挟まる遊びのようなアドリブが、MEMちょのインフルエンサーとしてのいつもの素顔とリンクするようにして、この場に集まったファンの心を揺さぶる。
一度は手放したはずの夢を掴めた幸運を、この場にいる全員に知らしめたい。だって私はアイドルだ。アイドルをやっている。アイドルを、やれている。そんな強力なまでの自己主張が、かなの生み出した恒星の重力の中に、決して褪せない煌めきを見せる。
しかし、きっと何よりも、彼女たちの中央でルビーの見せる一挙一動こそが、結局はこの場の主役であった。
確かに、かなのような完成されたダンスでもなければ、歌でもない。
MEMちょのような、圧倒的な場慣れも感じない。
しかしそこにあるのは、言葉よりもよほどに雄弁な、『感謝の念』だった。
自分が懐いた「アイドル」という夢を、誰も笑わず、誰も貶さず、この場所まで導いてくれたことへの。
こんなに恵まれた場に立たせてもらえて、それを自らが焦がれ、ずっと思い描いていた夢路の出発点とできることへの。
そして――そんな自分のことを初めてこの場で目にしている人も多いだろうに、それでもこれほどまでの熱気で以て迎えてくれる、自分たちのことを見てくれて、応援してくれている、目の前の遍く人々への。
だからきっと、これこそが「スター性」なのだろう。そう、誰もが思う。
有馬かなの巨星の存在感を貫き、MEMちょの多幸感を主張する煌めきをも突き抜けて、彼女の声が、思いが、拡がってゆく。
果たしてその彼女の身振り手振りの中に、見せる笑顔の裡に、人々は明確にその場にいないはずの誰かの影を見た。
十年前に解散した伝説のアイドルグループ、この襲名ユニットの先代に当たる「B小町」の絶対的センターであった「アイ」の影を、確かに彼女に、ルビーに重ねた。
恒星の引力が夢の煌めきを取り込もうとすれば、放たれる煌めきは、そこに宿った「楽しさ」という感情は、負けじと更に勢いを増す。
そうして場に満たされた「楽しさ」を焚べるようにして、三人の中央から放たれる「アイドル」という存在への愚直なまでの賛歌が、よりその説得性を増してゆく。力強く、場を満たしてゆく。
それぞれの個性がぶつかり合い、散らされた火花によって更に燃え上がって、一秒ごとに互いを強くし、高め合いながら、その階梯を登ってゆく。
これが初のライブだと言われて、誰が信じるだろうか。彼女たちから放たれる暴力的なまでの「説得力」は、「存在感」は、経験も技術も、理屈すら超越して、時すらも忘れさせるほどに、聴衆の心を掴んでみせた。
故に、この場に詰めかけた観衆は、ファンたちは、理解する。
確かにこれは、この「新生B小町」というアイドルユニットは、かつてのB小町の後継者に相違ないと。
そしてあるいは、それをもいつか超越しうる可能性を秘めた「伝説」の始まりの、目撃者となっていることを。
そんな予感を誰しもに抱かせて、新生B小町の初ライブは、盛況のうちにその幕を閉じた。
夢のような四十五分は瞬く間に過ぎ去って、あの熱狂の坩堝の中にいた証拠はもはや、浴びせかけられていた歓声によるものだろうか、未だ火照っているままの自分の身体の裡にしか存在していない。
ステージ衣装を脱ぎ去り、ここへやってきたときと同じ服に袖を通して、かなはルビーたちと共に楽屋をあとにする。
果たしてそこから、新生B小町の実質的なマネージャーであるミヤコの運転する車へ乗り込もうと駐車場に足を運んだところで、その車の側に立っていたアクアがかなのことを呼び止めた。
「かな、ちょっとこっち」
そう手招きするアクアに誘われて、かなは車から離れる。どうやらミヤコはあらかじめアクアから何かを聞いていたのだろう、そんな二人の振る舞いに何かを言うこともなく、かなたちを送り出していた。
しばらく歩を進め、JIFのメインステージ横の公園へと二人は辿り着く。アクアが足を止め、おもむろに手を挙げた。
アクアの視線の先に、かなもまた目を向ける。環状の植え込みが取り巻く空間の只中、そこにあったのは、一人佇む少女の姿だ。
「あかね」
アクアの呼びかけに、その彼女が顔を上げる。小走りで、こちらに向けて近寄ってくる。
つまりそれは、その少女の正体とは、問われるまでもなく黒川あかねに他ならなかった。
「アクアくん! ……あ」
アクアのすぐそばにまで駆け寄ったあかねが、側に立つもう一人の、つまりかなの存在を視界に収める。
「かな、ちゃん」
こちらに視線が向いた。そこに宿る色は、その意味は、果たしてなんであろうか。
しかしそれを考えるより先に、かなの口はひとりでに動いてしまっていた。
「……まさか、あなたが私のファンだったとはねぇ、黒川あかね。そうならそうだって早めに言ってくれたらいいのにぃ」
それは、ともすれば揶揄の響きすら込めた言葉だ。
いや、明白にそうだった。あかねがかなに向けているその目線を、顔を認識した瞬間、かなの内心において自制のタガはいとも簡単に外れてしまっていた。
「いっつもツンツンツンツン突っかかってくるのにねぇ? ……あ、好きの裏返しってやつ? 小学生男子みたいな。『好きな子には意地悪しちゃうんだ』、みたいなぁ?」
「おいちょっと、かな」
そうなると、もう止まらない。自分では止められなかった。
なぜならば、そもそもにしてずっと、かなとあかねの関係とはそういうものだったから。
共演の場に出るたびに、楽屋でも控室でも、二人の間に交わされるのはそういう刺々しいやり取りであり、空気だったから。
故に窘めようとするアクアの声すら無視して、かなは何も言葉を返してこないあかねにさらに口撃を加えようとする。
ダメだと分かっているのに。ひとたびそれを始めてしまったら、互いに理性的なやり取りなどできなくなるのに。
しかしそのとき、あかねが無言のうちに、かなに一歩歩み寄った。
眦を吊り上げて、何かを口にしようとして、しかしそれを堪えるように一瞬だけ俯く。
呼吸の音が、一度聞こえた。小さく首を振って、そして彼女から、声が発された。
「……そうだよ」
かなの思考が、止まった。
「そうだよ。私はずっと、かなちゃんのファンだった。子どものころ、テレビでかなちゃんを見てから」
上げられた顔の中に見える瞳が、その底に一瞬見えた煌めきが、かなから一切の言葉を奪った。
「私はかなちゃんの、子役の頃の演技が好きだった。『私を見て』って、そうやってずっとキラキラしてて。周りの子のこと全部食べちゃうみたいな演技が、好きだった」
かけられたそれは、全て本気だ。一つの嘘もない主張が、かなの耳朶を鋭く打つ。
「だから今のかなちゃんの演技が、嫌いだった。全部全部分かったような態度で、『自分が周りのことを引き立ててあげてるんです』みたいな演技が。そうやって、自分はうまく立ち回ってるって、見せつけてるみたいな演技が」
故に続けられた言葉もまた本気のそれで、だからかなの頭の中に、一気に血が上ったのが分かった。
「なにそれ、アンタなに分かったような口利いてんの? なにその『自分は全部正しいんです』みたいな言い草」
荒れ狂う胸中をそのままに、言葉が垂れ流されて止まらない。
「前から思ってたけど、アンタいつもそうよね、黒川あかね。そりゃアンタはいいでしょうよ。板の上でお金にならない仕事ばっかやっても誰にも文句言われなくて、そうやって巧い演技だけしてればみんな褒めてくれて、さぞかし気持ちいいんでしょうねぇ? 『天才役者』とか持て囃されて、さぞご満悦でしょうよ。けどねぇ!」
「分かってる」
しかしそれも、あかねに遮られた。きっぱりとした、強い口調だった。
「分かってるよ、かなちゃん。いや、本当は分かってなかったのかもしれないけど。でも今は分かる。アクアくんにも、言われたから」
反射的に、アクアの方を見た。
彼があかねにこの話をしたのがいつのことかなど、流石にわかる。
――本当に、いらんお節介を。
半ば苛立ち紛れに、そう思う自分を否定できない。
「けど、そう思っちゃうぐらい、私は昔のかなちゃんの演技が好きだった。本当に、好きだったんだ」
まだ言うか、こいつ。そんな苛立ちが体中を駆け巡って、そろそろ怒鳴り声さえ上げかねない自分をどうにか堪えようとして、しかしその時、あかねが一歩、さらに踏み出した。
「……だから」
そしてあかねはやおら、かなの右手を掴む。そのままそれを、両手の中に包み込んだ。
「ちょっ、アンタなにして――」
「今日のかなちゃん、すごくよかった。本当に凄かった」
そこに飛び込んできた言葉に、かなは再び固まった。
「キラキラしてた。本当に、昔みたいに。私が好きだったときの、かなちゃんみたいだった」
目すらも閉じて、自らに言い聞かせるような口調で、あかねは言葉を続ける。
「なによ、それ」
「かなちゃんは、終わってなんてないよ。私の好きだったかなちゃんは、まだここにいるんだから」
続けられた台詞に、また声を奪われた。
――有馬かなは、終わってなんていない。
そう言った。黒川あかねが。
「だから私、またかなちゃんと演りたい。共演なんて何年ぶりって感じだけど、でも今日のかなちゃんがまた見れるなら、私は絶対、一緒に演りたい」
目を瞑ったまま、歌うように続ける。口元に笑みを湛えて、楽しそうな言葉だった。
その表情のままに、あかねは目を開く。かなの瞳を覗き込むようにして、あかねは一度息を吸う。そして――
「それで、私は――そんなかなちゃんに、勝ちたい」
そう、笑顔で言い切った。
「……言ってくれるじゃない、黒川あかね」
気づけば、かなの口からはそんな言葉が出ていた。
それまで腹の中に渦巻いていた憤りも、あかねに対して「余計な入れ知恵」をしてくれたアクアへのほんの少しの苛立ちも、口に出さねば収まらないほどには胸を衝いていたはずなのに、すべて吹き飛んで、どこかに消えていた。
今日の自分を見て、それを好きだと言って、そんな自分に勝ちたいとまで言った。
黒川あかねがだ。癪ではあるが、それでも確かに才能を認めざるを得なかった、まごうことなき天才役者の、黒川あかねがだ。
それを聞かされて、滾らない役者などいるわけがない。自分でも、口の端が吊り上がっていくのがよく分かった。
「なら、その機会は割とすぐでしょうね」
「すぐ?」
「ええ。だってそうでしょう? 黒川あかね、あなたのところにも来ているはずよ、舞台の仕事」
ゆえにそんな、未来の話をもかなは口にしてしまう。
新生B小町の告知動画を出したあたりに前後して、かなのもとには苺プロ経由で一つの仕事の打診があった。
アサインしてきたのは鏑木Pらしい。つまりそれは、舞台「東京ブレイド」への出演依頼であった。
「舞台? あ、『東ブレ』? もしかして、かなちゃんにもオファー来てるの?」
「ええ。そこの、アクアにも来てるわよ」
目線をアクアに送る。そうすれば、彼もまた黙って頷いた。
そうなんだ、とあかねは口の中でつぶやく。
「かなちゃん、何役?」
「『つるぎ』よ」
「『つるぎ』役かぁ。私のところに来てるのは『鞘姫』のオファーなんだよね。アクアくんは?」
あかねから向けられた目線に、アクアがキョトンとした表情をする。
自分に水が向けられるとは思っていなかったのか、しばらく経ってから彼は答えた。
「……俺は、一応『刀鬼』役の話が来てるな」
その話を聞いて、そして彼の答えにぱっと顔を輝かせたあかねを見て、かなの胸が少しだけちくりとした。
「東京ブレイド」という漫画作品の中で、「刀鬼」は主人公である「ブレイド」のライバル陣営――「渋谷クラスタ」の筆頭キャラクターだ。そして「鞘姫」はその渋谷クラスタのトップであり、また刀鬼の婚約者でもある。
くだらない商業的思惑だ。分かってはいる。そもそもアクアとあかねの関係が仕事のそれであるとも理解している。あかねの反応を見る限りにおいてはそれもどうだか怪しいものではあるのだが、一応はそうだ。
……いや、そうやって自分を納得させているだけかもしれない。なぜならそもそもかな自身、自分がアクアに向けている感情の正体がなんであるのか、まだ完全には確定しきれていないのだから。
ただもしそうであったのだとしても、かなは今聞いたあかねの配役に対しては、正直言って心躍るものがあることもまた事実だった。
「ブレイド」の前に立ち塞がる最初の敵にして、今回の舞台の時系列においては実質的にブレイドの第一の従者のような扱いであるつるぎと、そんなブレイドに相対するライバルである刀鬼の婚約者である鞘姫。
陣営もキャラクター性も、何もかもが正反対で、だからこそ演じ甲斐があるというものだろう。正面からこの天才役者と向き合う機会でもあるのだ、好機以外のなにものでもなかった。
「なるほどねぇ。黒川あかねの『鞘姫』と、私の『つるぎ』……面白くなってきたじゃない」
未だ掴まれたままの手を優しく振り払ってから、改めてかなはあかねに手を差し伸べる。
「本決まりは多分来月ぐらいで、稽古期間一か月と考えれば、十月の末あたりに顔合わせかしら。……楽しみにしているわ、本当にね」
そう言葉をかけたかなに対して、あかねは一瞬その目を丸くする。しかしそれは本当に少しの間のことで、果たしてあかねもまた、笑みを浮かべてその手を取る。
「うん。こっちこそ。あ、でも」
一度、言葉が切れる。あかねの顔に浮かんでいた笑みが、俄かに好戦的なものへと変わった。
「――勝つのは、私だよ」
向けられたのは戦意だ。役者としてのプライドと言ってもいい。
それはしかし、いつものかなとあかねの間にあるような、摩擦を感じる刺々しいものではない。
だからかなもまた、同じ純度の闘争心のみを以て、言葉を返した。
「あら、そう。だったら、くだらない『ファン目線』なんてさっさと取っ払うことね。――私に呑まれても、知らないわよ?」
沈黙が降りてくる。見合った目線はそのままに、やがてかなとあかねのどちらともなく、笑い声が上がった。
握手の姿勢も変わらない。しかし互いの手を握る力は少しずつ強まっていって、すぐにでも互いのことを食らってやろうという無言の中のプレッシャーが、周囲にまで拡散していく。
その空気に中てられて少し表情を引き攣らせているアクアの方を横目に、かなは思った。
――結局、私たちの関係はこういうものなのだ。
けれども、この世界の中でかなのことを見てくれている存在がここにもいるのだと分かったことは、それがほかでもない黒川あかねだと知れたことは、きっとかな自身としてどこまでも心強いものには相違ないのだと、素直に思えた。
斯くして夜の帳が下り、宴は終わる。
その日確かに人々が目撃した「伝説の始まり」は、それを取り巻く人々の、携わった者たちの時計の針を、大きく前へと進めた。
星野ルビーは、
有馬かなは、失くしてしまって久しい光をようやくにして取り戻した。
MEMちょもまた、届かなかったはずの夢の路を、もう一度歩き始めている。
黒川あかねは、あの日以降屈折した感情を懐くばかりだった有馬かなの新たな在り方を、受け容れることができた。
「ルビーはアイドル。アクアは役者さん。夢、叶えられたのかな。だったら、いいな」
而して同時に、それは「更にもう一人」にとっても等しく、停滞していた時間から脱するに値する、標石に相違ない。
「なら、そろそろかな。そろそろ、なんだろうな」
故に、彼らの世界は動き始める。
「私たちも、始めないと。だよね――斉藤社長」
そして、その運命も。
第二章終了です。
本章は本当に9割5分ぐらい原作沿い進行で目新しいものがなかったので、その分が少し心苦しいところがありました。
が、どうしてもアニメ一期部分は登場人物が出揃うまで物語の展開を動かしづらいところがあるので、致し方ない部分もあったかなと思っています。
一応、差分はあります。具体的には、かなちゃんは原作より早めに覚醒しました。本作のアクアが、アイを庇って刺されたとき以来久しぶりに(原作の成果を超えるという意味で)意味のある仕事をしたとも言えます。
もっとも、原作よりだいぶかなちゃんの物分かりがいい気がしますが、これに関しては幼少期のアクアとの接触がいい方向に転がったということで、ご納得いただければ。
と言うことで、ここで一度書き溜め作業に入りますので、毎日更新は途切れます。
想定では一か月ほどお時間をいただき、十一月頭あたりから第三章を更新していくつもりでいます。
現状の想定では、第三章は11話構成です。すべて書き上げてから毎日更新の予定です。
早めに仕上がれば、その分早めるつもりでいます。その場合は作品概要欄にてご報告させていただきます。