天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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予定通りではありますが、お待たせいたしました。更新、再開します。


第三章 分岐点 (アニメ二期)
3-1. 秋風吹かば


 八月の初め、夏の熱気が渦巻く湾岸エリアの中で行われたJIFは、そしてその中で鮮烈なまでの印象を満座の観衆に与えた新生B小町のデビュー劇は、アクアを含めた苺プロの若手にとってはっきりとした一大画期となった。

 

 彼女たちのデビューを機に、苺プロの中は一斉に慌しくなった。理由は単純である。所属タレントの売り出しが始まったのだ。その旗を振るのは当然にして、壱護社長に他ならない。

 彼は新生B小町のことを、「新時代のハイブリッドアイドル」として売り出すことを画策していた。何を以てハイブリッドとするかと言えば、すなわち「ネットとリアル空間」である。

 

 まずはネットの側のプロモーションとして、MEMちょや苺プロ所属YouTuberのコネクションを可能な限り使った動線の構築を進めていく。例えばそれは、コラボ動画やコラボ配信を積極的に打つことによってだ。

 それがある程度機能し始めたところで、今度は自分たちのチャンネルの独自企画としてメンバー個々人の特技を生かした動画や配信を載せることで、一気に視聴者の固定化を図る。

 

 ルビーは持ち前のダンス能力と恵まれたルックスを活かした、ネットでバズっている色々な音楽の「踊ってみた動画」を中心としたパフォーマンスを。

 かなはようやくにして取り戻した強烈な引力を伴う演技の力を使って、「お題に沿ったミニドラマ」の実演や、有名ドラマのシーン再現を。

 MEMちょはそもそも持っているYouTuberとしての企画力を使った、B小町独自のコンテンツを。

 

 それぞれ持っている強みを、インフルエンサーの繋がりを使ってネットの空間に喧伝すれば、その効果は抜群だ。「B小町」の名前そのものが持つパワーとの相乗効果もあるのだろうが、あっという間に彼女たちのチャンネル登録者数は三十万人を超え、MEMちょ自身のチャンネル登録者数にすらも迫ろうとしていた。

 

 そしてもう一方、リアル側に関しても壱護社長は手を抜かない。彼は新生B小町を、彼自身が構築してきたコネを使えるだけ使っていくつかのバラエティ番組にねじ込んだ。

 その際彼が選んだ基準は、世帯視聴率ではなく業界人の視聴率である。そこには地上波もBSもネットテレビも関係なく、業界人からの注目度が高く、しかし世帯視聴者数はそこまで高いわけでもない小規模の番組を重点的に選別して、そのうちの優先度の高い二、三件ほどに猛烈な売り込みをかけて、B小町の出演を取り付けていた。

 

 こちらの狙いは分かりやすい。つまりこれは、「種蒔き」だ。

 テレビの世界はネットと違って、旧態依然とした序列の論理が支配している。如何に「アイのプロデュースするアイドルユニット」という大義名分があれど、それゆえの知名度はあれど、活動実績がほとんどない新人同然の状態のルビーたち新生B小町をそのまま使ってもらえるような現場はない。

 故にB小町に最初に求められるのは、「業界人に名前と顔、それにキャラクターを覚えてもらう」ということだ。そのために、壱護社長はそうした「業界人の視聴率が高いバラエティ」を活用していた。

 ここでしっかり顔を売っておけば、アイ絡みのバーター案件も取ってきやすくなる。「こういうのは初動が肝心なんだ」と、壱護社長は得意げな顔で主張していた。

 

 

 

 壱護社長のこうしたマーケティングやプロモーション戦略は、アクアにとっても他人事ではない。

 今のアクアは「今ガチ」におけるあの騒動のこともあって、お茶の間の中においてですらいくらかその名が知れ渡っている。

 「自殺未遂すら起こした恋愛リアリティーショーの問題を東奔西走して解決した、演技派でイケメンの、更にプロ顔負けの撮影技術すら持っている若手俳優」。実情はどうあれ、現状のアクアにはそういうパブリックイメージが定着し始めていた。

 もっとも、アクアから見たあの時の顛末というのはマッチポンプと評するより他にないわけで、故にその結果得た世評など素直に受け取ることは到底できないのだが、ただマーケティングという面においてこれが強力な武器であること自体は理解していた。売り出しを始めるのであれば、今を逃してはならないという事実も。

 

 売れたいのか、売れたくないのか。世間に認められたいと思うかどうか。アクア個人のモチベーションとしては、そこまで強烈な功名心というものはない。

 しかし壱護社長が、そしてあるいはアイが自らにかけている、かけてくれている期待は、裏切れない。故にアクアは壱護社長の手配のもと、所謂「若手枠」の地上波バラエティにさえもいくつか出演する身にまで、急激なステップアップを果たしていた。

 

 本当に、凄まじいまでの環境の変化だ。一気に自分が「芸能人」になってしまったことを、自覚せざるを得ない。

 正直なところ、自分を取り巻く現実に認識がまるで追いついていない。それほどに、悪し様に言えば強引なまでに、壱護社長はアクアのことを、そして新生B小町のことを、芸能界において大々的に売り出し始めている。それはかつてアイが辿った伝説的なスター街道を彷彿とさせるものがあった。

 

 

 

 ただその一方で、最近のアクアとして最も注力することが求められているのは、そういう「バラエティ番組への出演」とは違う所にこそ存在していた。

 

 

 

 

 

 部屋の中に、機械の稼働音が響いている。モーターの音だ。

 そのモーターが回しているのは、ベルトコンベアである。そして更にその上で、一人の男が必死に足を動かしていた。

 

 一定のペースを刻んで響く足音に、荒く空気を吐く音が重なる。

 かれこれ三十分ほどの間続いているその光景は、しかし丁度そのタイミングで鳴ったアラームの音によって終わりを迎えた。

 減速していくモーターの音が響いて、その末に動作を止めた機械の上、男――アクアは目の前のバーに掴まって身体を預けながら、喘ぐような荒い息を止められずにいる。

 果たしてそこに、また一人の影が差した。横から腕が伸ばされる。そこにあるのは、一本のスポーツドリンクのペットボトルだ。

 

「あ、時間みたいだね。お疲れさま、アクアくん」

 

 その肩にタオルをかけ、笑みを浮かべてそれを差し出してきた少女の――黒川あかねの姿を横目に見て、アクアは無言のままに、ただ頭を下げた。

 

 

 

 アクアがやってきているのは、中目黒周辺にあるとあるジムだった。

 時は十月下旬、舞台「東京ブレイド」のキャストはすでにフィックスしていて、顔合わせの時期ももうすぐそこのところまで迫っている。

 つまるところアクアは、そこから一か月間の舞台稽古に加えて、更に一か月、つまり十二月まで続く舞台のことを、本格的に考えなければならない時期にやってきていた。

 

 今回アクアが参加する舞台の原作である「東京ブレイド」という漫画は、その名にある通り刀を得物とした登場人物同士の剣戟アクションこそがウリである。

 それは舞台においても全く同じであって、つまり演者はほんの一部の例外を除いて、段平をぶん回しながらチャンチャンバラバラと殺陣をすることが必須となっていた。

 

 アクアが割り振られている役どころである「刀鬼」にしても、それは同じだ。

 というより、今回の舞台の原作該当部分において、「刀鬼」の役どころとは主人公の「ブレイド」と対比となるライバルであり、最後の見せ場において直接対決を求められているキャラクターである。それすなわち、竹光とはいえども長物を振り回し、更にワイヤーアクションも交えた激しい剣戟の応酬を、劇中においてブレイドやその第一の従者たる「つるぎ」に次いで長くこなさなければならないのだ。それが、アクアに与えられた使命であった。

 

 それの何が問題なのか。

 言うまでもない。アクアの体質に関わる部分が、その役を演じることに困難をもたらしているのだ。

 

 四歳のあの日、アイのドームライブ当日に起きたあの事件の影響で、アクアの運動能力の発達は不十分なものとなってしまっている。

 一応、演技の勉強をする過程において、自分の身体を己の意思によってコントロールする能力――所謂「身体感覚」については相当入念に叩き込まれているために、小学校に上がったばかりの頃のようなどうしようもない鈍臭さは、確かに今のアクアにはない。

 しかしそんなアクアにも、どうしようもないことはある。それこそが、常人に比べてどうしてもつきづらい筋力と、それに見合った持久力の貧弱さである。

 

 困った話だ。筋力にせよ持久力にせよ、せめて舞台の期間ぐらいは水増ししておかなければ、長丁場となる舞台の稽古やその先にある本番をまともにこなすことはできない。

 よってアクアは役が本決まりとなった十月の頭ごろから、週末を中心として一人ジム通いを続ける身となっていた。そうでもしなければ他の出演者に伍していくことなど不可能であるというある種の強迫観念が、今のアクアには存在していたのである。

 

 そして、そんなアクアの愚痴と言うか、弱音を聞いて、一人の少女が立ち上がる。

 つまりそれは他でもない、アクアの「お試し彼女」をやっている、黒川あかねであった。

 

 

 

「なんか、いつもごめんな。ここ三週間ぐらい付き合わせてる気がして」

 

 ルームランナーを使ったカーディオワークアウトを一度切り上げ、水分補給をしながらも、アクアはジムのベンチに隣同士に腰をかけているあかねにそう声をかけた。

 

「いや、全然いいよ! 私だって、今回の舞台のためにはそろそろ体力づくりしないとなぁって思ってたし」

 

 対するあかねは、そう言いつつもアクアの方を向いて、屈託のない笑みを浮かべて言葉を返す。

 一時期、今ガチの中で思い詰めた表情ばかり見せていた頃のあかねに比べれば、それは見違えるほどの変化だ。アクアはそのことを、間違いなく喜ばしく感じていた。

 

 

 

 アクアは今ガチが終わってから、「お試しカップル」の関係としてあかねと何度かの逢瀬を重ねている。

 逢瀬、と言うとどうにも色気のありそうな響きだが、実際のところは普通の学生カップルがやるような喫茶店巡りや水族館デートと、二人してそう突飛なことはしていない。

 上がる話題にも、『そちら向き』の話はない。特にカップル成立から早々に「東京ブレイド」の舞台の話が持ち上がってきていたこともあって、アクアとあかねの間で交わされる話というのは専ら役作りや演技に関する議論であり――そして今回の舞台の中核となる、劇団ララライについての話であった。

 

 正直なところ、アクアは結局未だに、今ガチの収録中にあかねに対して考えていたいくつかのことに対して、自分の中で納得する結論を見つけ出せずにいる。

 すなわち、「アクア自身の目的たる『父親捜し』のために、あかねを利用することを是とすべきかどうか」である。

 

 理を、そして利を考える自分の中の自分は、強く主張する。「自分が何のために黒川あかねと渡りをつけようと思っていたのか思い出せ」と。「アイのことを、ルビーのことを大事だと思うのならば、どれほど苦しいことであろうが、あかねを『利用』することを躊躇ってはならないはずだ」と。

 しかし情を司る部分が、それに強く反発していた。「それだけはできない」と。「黒川あかねという少女の心情をそれほどまでに踏み躙って、その上で得られる安寧などを、自分はアイにもルビーにも誇れたりするものか」と。

 

 思考がぐるぐると回る。ならばそもそもあかねをこのような形で側にいさせていることそれ自体が罪であろうに、しかしそれはアクアにとって、あかねの「最悪」を想定した防衛策でもあって、だったら初めからあかねに「アイの役作り」などさせなければこんなことにはならなかったろうに――そう、自分では止めることのできない堂々巡りが、ずっと脳裏を支配している。

 ただその中で、アクアは一つだけ、あかねに対する「罪滅ぼし」をやっていた。

 

 

 

 「今ガチ」の収録が終わってしばらく経ったころ、あかねは自らの所属する事務所に対して、待遇の改善を公然と要求した。

 番組の中で起こった炎上騒ぎにおいて、あかねは事務所から如何なるサポートも受けることができていなかった。というよりも、そもそも彼女は初めから、恋愛リアリティーショーに出演する際のメンタルサポートや演出に関する相談などという一タレントとして当然に受けるべきケアを満足に受けていない。

 仮にも彼女は未成年者だ。であるのにも拘らず、黒川あかねというタレントに対する扱いが、まるでなっていない。そういう理由をいくつか並べ立てて、あかねは外部の事務所への移籍をちらつかせてみせたのである。

 

 奇しくもあかねは、当の「今ガチ」という番組によってブレイクを果たした。舞台「東ブレ」の予定がひとまず入っているゆえにそれが直ちに仕事には結びついていないものの、すでにいくつかの映画やドラマ出演の打診が、彼女の方には入っているらしい。

 つまり、彼女は「これから売れる」タレントだ。事務所からすれば、将来の金のなる木と言えるだろう。そして、そんな彼女と言う才能が花開いた途端に他所の事務所にかっさらわれるのでは、事務所としては大損もいいところに違いない。

 よってあかねと事務所は色々と話し合い、結果あかねはそれまでのギャラ配分八対二という奴隷もかくやと言うほどの劣悪な契約を、なんと五対五、丁度折半のラインにまで引き上げることに成功した。

 

 この交渉の中で彼女のサポートをしたのが、他でもないアクアだった。

 というより、そもそもあかねに対して「事務所内での待遇の改善を交渉した方がいい」と強く提案したのがアクアだった。更にその際の戦略やシナリオに関しても、同時に彼女に対してアドバイスを行っていた。

 その中の骨子が、あかねに対する苺プロからの移籍のオファーである。アクアはミヤコと壱護社長に相談して、あかねと苺プロとの間で事務所移籍に関する交渉をする「ふり」をしてみせていた。つまりあかねが自らの所属事務所にかけた揺さぶりの中の「外部の事務所」とは、すなわち苺プロのことを指している。

 

 無論、最初こそあかねはそういう「プロレス」に多少の難色を示した。

 根本的な話ではあるが、そもそも芸能事務所というのは不文律として引き抜きを禁じている。その不文律を破った者に対する報復もまた、公然と行われているのが芸事の世界だ。故にたとえブラフであっても、事務所に喧嘩を売るが如き所業に心理的抵抗があるのは当然のことかもしれない。更に言えば、どうやら彼女は自らのマネージャーに対していくらかの情を持っているらしく、そんな彼に迷惑をかけるということそれ自体をよく思っていなかった。

 

 しかし、そもそも「今ガチ」における彼女の失敗は、事務所が彼女を守らなかったから起きたことだ。結果として彼女は自殺未遂を起こすところまで追い込まれたのに、結局事務所は彼女に何もしなかった。

 先に義理を果たさなかったのは、事務所の方である。ならばあかねには、事務所の移籍をするのに十分な理由があるとすら言えよう。

 マネージャーのことにしても、「今ガチ」の期間中において彼女を適切にサポートできていたとはとても言えはしない。もっともその全てをマネージャー個人の責に帰すべきとまでは言えまいが、最低でもあかねにとって今の事務所の環境がその才能に見合っているとは口が裂けても言えないのもまた事実だ。

 

 とはいえ、あかねの心情というのは慮って然るべきものだ。よってアクアは、「そんなにマネージャーのことが気になるのならば」と、オファーに際して「マネージャーごと引き取る」内容で書面を発出するようにミヤコに依頼をかけた。

 それを受けたミヤコも、そして壱護社長の方も、アクアから聞いたあかねの待遇の酷さにはひどく同情的で、更に黒川あかねという女優の将来性のことを考えれば、プロレスではなく本当に彼女のことを苺プロに引き抜くのもやぶさかではないと言う態度であった。すなわち、あかねとあかねの事務所との待遇改善の交渉が決裂した場合は、本当にあかねを苺プロ側にマネージャーごと招き入れることを、彼らはアクアに許した。

 そうすれば、あとはこちらのものである。苺プロ側のオファーの本気度をそのままあかねの事務所側に伝えてやれば、さしもの向こう側も折れざるを得ない。結果として、あかねは彼女のマネージャー諸共に、事務所内部における待遇の大幅な改善を勝ち取るに至っていた。

 

 一連の交渉が済んだのは大体九月の下旬ごろのことだったが、生真面目にもあかねはそのとき、苺プロの事務所まで親御さんと共に菓子折りを持ってやってきた。

 住んでいるところからも分かるが、育ちがよいということなのだろう。表向きは「熱心なオファーをかけてくれた苺プロへの感謝を含めたお断りの挨拶」であったが、その実において彼女は純粋にアクアに対して感謝の意を伝えに来た、らしい。

 

 「また助けてもらっちゃったね」とはにかみながら、顔に朱を散らしてアクアに相対したその時のあかねの姿に何を思うべきであるのか、アクアにはどうにもよくわかっていない。

 何せアクアにとってこれは、せめてもの罪滅ぼしなのだ。外形的にはその謝意は受けて然るべきものであったが、一方で内心は複雑なものであった。故に彼女の親御さんを含めて「二度も自らの未来を切り開いてくれた恩人である」という態度を取られてしまっては、アクアはどうにも決まりの悪い思いをするほかなかった。

 

 

 

 ともかく、そんな彼女の待遇改善に関する交渉が一段落してからこちら、あかねはアクアに対して更に一歩距離を詰めた態度をとるようになってきていた。

 十月から始めているジム通いに毎度付き添って、彼女曰くの「筋トレデート」をするようになったのも、おそらくはそういうことなのだろうとアクアは推測している。

 

 そしてそんな現状にどういう評価を下すべきなのか、アクアは未だに確たる考えを持ててはいない。

 

 

 

「どう、かな。多少はマシになってきたと思うんだけど」

 

 そんな長い長い思惟を脳の片隅で繰り広げながらも、アクアはあかねにそう訊ねる。何がマシになってきたかと言えば、すなわちアクアの持久力のことだ。

 アクアの身体は、どういうわけだか酷く筋力がつきづらく、落ちやすく、そして心肺能力が維持しづらい。「吾郎的な」というか、医学的な見地でものを言うのであれば、テストステロンの分泌量が常人より少なく、そして基礎代謝が増えづらいと言うことになるだろう。

 まあ、どういうわけもなにも、四歳のときのあの事件のせいなのはわかり切っているのだが、いずれにせよ本気で一定の体力を維持しようと考えると、アクアにはこういう形での継続的なトレーニングがどうしても必要だった。

 

「うーん。まあ、最初に比べればかなり? 普通の男の子に比べると結構心許ない感じだけど、でもまあこれぐらいならなんとかお芝居もできるんじゃないかな」

 

 故にアクアの問いに対するあかねの回答も、そういう曖昧なものにならざるを得ない。

 何せ十月の初めの折、トレーニングを始める前に測定したアクアの身体能力は、普通にあかねに負けていたのだ。まあ、舞台役者としてあかねは常に一定のトレーニングを積んでいるという面はあるにせよ、同じ世代の高校生の女子に筋力以外のすべての運動指標で劣っていると言う事実は、分かってはいたもののアクアにとってはかなりの衝撃であった。

 筋力だけは辛うじてあかねより勝っていたが、それですら「辛うじて」なのだ。つまりアクアの筋力というのははっきり言って「ちょっと鍛えた女子並」ということになる。

 その時アクアの横であかねの浮かべていた何とも言えない表情は、間違いなくアクアに強烈な課題感を植え付けていた。

 

 であるからにして、それが多少は見られるものになったという今日のあかねの評というのは、アクアにとっては決して悪いものではないのだろう。

 

「ならまあ、よかったか。顔合わせ、もう来週だろ?」

「そうだね。アクアくんは、かなちゃんと一緒に来るんでしょ?」

 

 漏らした声に、あかねが同調する。

 その中、こちらに向けられた深い碧の瞳に宿る光には、しかし少しだけ込み入った心情が映っているようにも思えた。

 

 黒川あかねと有馬かなという二人の少女の関係は、どうやら思っているよりもだいぶ複雑であるらしい。そのことを、アクアは三か月ほど前の、JIFの日に認識した。

 互いに、確かに相手の能力は認めている。あかねのほうはそうでもないが、かなはあかねの人品すらも評価している。しかし二人の間には、友情と言えるようなものはない。

 敵視し合っているかといえばそういうわけでもないのだが、どうにも彼女たちの間には、会う度に緊張感のようなものが漂う。それでも、あかねはかなのことを、かなはあかねのことを、明確に特別視していることだけは確かだ。

 

 人と人との関係の在り方に、口を挟む資格などアクアにはない。しようとも思っていない。ただ願わくば、そんな二人にはもう少し仲良くやってもらった方が何かと将来のためになるとは思うのだが……しかしそれとて、アクアの勝手な願望に過ぎないのだろう。

 

「まあ、事務所も学校も同じだしな。必然的にというか、そうなると思う」

「そっか。……いいなぁ、かなちゃん。アクアくんと同じ学校って」

 

 話しているうちに、気づけば顔合わせの日の段取りのことに話題は移っていて、そこであかねがそんな羨望の響きの混じったような声を上げた。

 確かに、あかねはかなとアクアが所属している陽東高校とは全く違う学校へ通っている。ただそれが羨まれるほどのことなのかは、アクアとしてはわからない。

 

「まあ、うちの高校は公欠の基準緩いからな、特に芸能科は。……けど、正直俺はあかねの高校の方が、将来のためにはなるんだろうとは思うぞ」

 

 なぜならあかねの通う高校は、都内でも一二を争う進学校だからだ。共学の高校としてはおそらく東京で一番と言ってもよい。

 

「そうかなぁ」

「そうだよ。それは絶対だ」

 

 それはすなわち、黒川あかねという少女の頭の出来が非常に秀でていると言うことを意味してもいる。おそらく彼女は役者の道に進まずとも、いくらでも大成できるだけの素質と言うものがある人間なのだろう。

 もっとも、だからこそそういう彼女のことを、己の都合のために側に置き続けているばかりの自分のことが、アクアはどうにも度し難いと思ってしまっているのだが。

 

 ただ、それをあかねにわかりやすく態度として見せるのも違う。アクアは故にそんな内心のことにしっかりと蓋をして、あかねに対して笑みかけた。

 

「まあ、とにもかくにも来週からだし、頑張ってこうか」

 

 果たしてそれに、あかねも同じような笑みを返して、一つ頷く。

 

「そうだね。じゃ、そろそろ休憩上がりにして、もう少しトレーニング頑張ろ」

 

 そのまま立ち上がって、アクアに向かって手を差し伸べた。

 

 

 

 

 

 ここのところ俄かに多忙になり始めたアクアにとって、「次の週」というのは一瞬でやってくる。

 その週末のこと、アクアはかなと連れ立って、とある大規模スタジオへとやってきていた。言うまでもなくそれは、舞台「東京ブレイド」の顔合わせのためである。

 

「今更だけど、あなた黒川あかねと一緒じゃなくてよかったの」

 

 入口から中に入らんとする所で、かながくるりと振り返るようにアクアを向いて、そう問うてきた。

 

「別に。仕事場にそういう余計なものを持ち込む方が俺は好きじゃないし、同じプロダクションの君と一緒の方がいいだろ」

 

 JIFの一件以降、かなとアクアの間にあったどこかギクシャクとした空気は霧散していた。ある種それまでの通り、アクアとかなの間には気安い会話を交わす関係が戻っている。

 

「それともなにか? 君は俺と一緒だと気まずいか?」

「全く? そりゃ今の私はアイドルだけど、別に同プロの俳優と一緒に現場に行く分には誰からも文句言われないでしょうしね」

 

 にやりと笑って、また背を向ける。それにしても、と彼女は続けた。

 

「劇団ララライが『2.5』ねぇ。時代は変わったってことなのかしらね」

 

 アクアの方からは見えないが、きっと彼女はその口の端を皮肉気に歪めていることだろう。

 ただ彼女の言うことは、アクアとしても少し同意できる面があった。

 

 

 

 劇団ララライは、典型的なストレートプレイを主とする演劇集団だ。もとは創設者である金田一敏郎が、演劇の専門学校に所属していた同輩たちと立ち上げた小さな劇団らしい。そしてそういう、所謂「サークル演劇」が志向する劇のスタイルというのは、やはり大衆受けよりは所謂「本筋」のものになりがちである。

 当然に、所属する俳優の腕は確かだ。板の世界においては、かの劇団は今かなりの名声を獲得しているのも事実ではある。

 しかし、如何せんそうした性質の劇団であるがゆえに、若手の俳優というのがあまり多くない。ある種の停滞感が漂っている面は、否めないのだという。この辺りはすべて、あかねから仕入れた情報だ。

 

 

 

「ララライも、やっぱり新しい空気みたいなのを入れたいんじゃないか? それこそ前かなが言っていたような話だ」

「あぁ……『板の上でお金にならない仕事ばっかしててもしょうがない』ってやつ?ま、そうよねぇ……」

 

 もっとも、それはあかねとの間の売り言葉に買い言葉の応酬の中で出てきたものではあったが、ただ間違いなく一面において事実である。

 そしてだからこそ、アクアは今回の場においてララライに、そして「金田一敏郎」という人間に接触する機会を得たわけなのであって、そのことについてはむしろ好機であると感謝すべきものであった。

 

 

 

 そんな話をしながらも、顔合わせのための部屋のある廊下へとたどり着いたところで、アクアとかなの二人は見知った顔に遭遇した。

 パンキッシュな菫色に染めた髪を外ハネにして短く切り揃えた、やや童顔の若者だ。

 

「あら? メルトくん?」

「……あ、うっす」

 

 そんな遠慮がちな挨拶で、彼はアクアたちの方に近づいてくる。

 誰何は不要である。つまり彼は、鳴嶋メルトであった。

 

 

 

 アクアは、以前の共演の時にこの鳴嶋メルトという人物と連絡先を交換している。それどころか、チャット上ではありつつも多少はコミュニケーションをとる仲であった。

 よって彼がこの舞台「東ブレ」にアサインされていることは、アクアとしては既知の事柄であった。

 故に、そこからはアクアが場を引き継ぐ。

 

「久しぶり……っていうのも、なんか変か」

「お、おう」

 

 かなが立つ場所から二歩ほどメルトの方に近づく。そして小さく手を上げながらそう言ってみせれば、どこか遠慮がちな態度でメルトは頷いた。

 前聞いたところによれば彼とアクアは同い年、というよりも同じ学年であるはずなのだが、どういうわけか彼からはこういう一歩腰の引けたような態度を取られてしまう。チャットアプリ上のやり取りにおいてすらもそうであった。

 理由とすればおそらく、以前「今日あま」の現場で見せた彼自身の態度や、その時の演技のことについて色々と負い目のようなものがあるからなのだろう。アクアとしてはそこまで気にする程でもないのだが、彼の方が気にすると言われれば、それについてこちらから言えるようなことは何もない。

 

「『キザミ』だったか?」

「そう、だな」

「練習、いろいろやってきてるんだろ?」

 

 故にアクアは、そう言葉をかける。

 真意は明白だ。すなわち、「練習してきているのなら胸を張ればよい」と、そういう話である。

 どこかおずおずとした態度のままに頷いたメルトに向けて、アクアの方もまた頷き返した。

 

「あの鏑木さんがアサインしてるんだから、そう酷いことにはならないって思ってるんだと思うぞ。だからまあ……」

 

 言いながら近づいて、アクアはメルトの二の腕のあたりをぽんぽんと軽く叩いた。

 

「とりあえず今日は顔見せぐらいだろうし、そんなガチガチになる必要もないんじゃないか?」

 

 そう言って自らの目を覗き込んだアクアに向けて、メルトは一瞬その目を瞬かせる。

 しかしそれも束の間のこと、彼の表情が、ふと和らいだ。

 

「……そう、だな。サンキュな、アクア」

 

 そう言って頭を軽く下げて、メルトは歩き始める。行き先はこの建物の中のBスタジオ、すなわち顔合わせの場所だ。アクアもまたかなに向かって目配せをして、そして三人連れ立って、いよいよ現場に足を踏み入れた。

 

 

 

 

 

 大量の登場人物が出てくる群像劇としての性格を帯びている「東京ブレイド」の舞台化ともあって、顔合わせかつ稽古の現場である「Bスタジオ」は、なかなかの広さを誇っていた。

 舞台セットを設置することも可能な高い天井に、隙間なく敷き詰められた防音設備と合わせて、確かにこれは舞台稽古のための空間だと思わされるものがある。

 

 その中にて、集まったキャストの間で淡々と初対面の挨拶は進んでいた。

 

 まずは扱いとして外部キャストとなっている、鏑木がブッキングした面々から一言ずつ述べていく。

 先陣を切って、メルトが。そして次にかなとアクアが続く。

 更にその次、敢えてプリン髪に染めた髪をボブにカットした、如何にも「軽い」出で立ちをした優男――曰く「2.5次元俳優」としての経験が豊富である「鴨志田朔夜」なる役者が自らの名前を名乗れば、丁度そのあたりでこのスタジオに入室してきた白黒ジャージの男が、以降の場を引き継いだ。

 

 「雷田」と名乗ったその彼は、今回の舞台のプロデューサーであるのだという。おそらく彼が、以前鏑木が口にしていた「知り合い」であるのだろう。そう、アクアは判ずる。

 そしてそんな彼の横で、スタジオ全体を俯瞰できる位置にある長机の前に陣取っている壮年、と言うより中年の男を、雷田は「金田一敏郎」であると皆に紹介した。

 

 墨色の髪をややぼさっと伸ばして、更に口からは無精ひげをも生やしている男だ。身なりを整えればきっと見れた容姿をしているのだろうが、どうにも今の彼からはアクアにはくたびれた印象を感じさせられた。

 ただ、発される声は元舞台役者らしく通っていて、そして周囲を睥睨する眼光は鋭い。良くも悪くも職人気質と言うべきなのだろうかと、そうも思わされた。

 

 ――彼こそが、自分がこれから気に入られなければならない相手だ。

 アクアはあかねから、この金田一敏郎なる男の為人についてはいくつか聞いていた。情報収集のために聞き出したと言うよりは、舞台「東ブレ」の話の中で自然と彼のことが話題に上ったというのが正しいだろう。そのおかげでアクアの心があまり痛まなかったのは幸いであったが、兎も角も彼、金田一敏郎という人間は、良くも悪くも「舞台人」であるらしい。

 つまり彼に顔を覚えてもらうためには、それ相応の「才能」を見せる必要がある。すでに完成された演技力でもいいし、成長の余地でもよい。とにかくそういう「光るもの」を見せることで、彼はその人物に対して興味を持つのだと、あかねは語っていた。

 ならば、やるしかない。稽古期間を含めて二か月程と長丁場であることは確かだが、こういうものは時として「急がば回れ」でもある。並行してララライの共演者たちから聞き出せる情報を聞き出していけば、タイムロスをとやかく気にする必要もないだろう。

 故にそう、アクアは内心で覚悟を決める。

 

 その最中も、更に雷田によるキャストや関係者の紹介は続く。

 金田一の隣、栗色の髪をした穏やかな表情の男性を指し示し、今回の舞台の脚本家だとアクアたちに向かって告げた。ペンネームであるのだろうが、その名前を「GOA」と言う。

 そこからは、劇団ララライ側のキャストの紹介が次々とその名を呼ばれていく。

 

 ララライは劇団の性質として、構成員の平均年齢としては高めであるらしい。ただ今回は「2.5次元舞台」と言うこともあって、その中でも若手の面々ばかりを選り集めていた。

 「みたのりお」、「化野めい」、「吉冨こゆき」、「林原キイロ」、「船戸竜馬」、そして「黒川あかね」。「みたのりお」氏こそやや年嵩に見えなくもないが、そのほかはせいぜいが二十代前半だろうと思われる。

 なるほど、彼らのこの舞台に向ける本気度というのは確かなものであるようだ。

 

 

 

 しかしアクアはそのあと、そんな益体もない感慨など吹き飛ばす衝撃を受けることになる。

 

 その震源地は、ララライの役者勢の中、最後に呼ばれた一人の俳優だった。

 今回の舞台における主役、「ブレイド」を演じる青年。アクアからほど遠い、アクアの立つ場所から反対側の壁にもたれかかり、座り込んで居眠りをしているその彼が、金田一に蹴られるようにして叩き起こされる。

 いてて、と気だるげな声を発して、彼は顔を上げた。

 

 無造作でまとまりのない黒髪、整えられていない無精髭、しかしそんな様相であって分かる整った顔と、掛けている角縁の眼鏡の下に覗く、紫紺の瞳。

 瞬間、ほとんど顔など視認することもできない程に遠くにいたはずのその姿に、アクアは無意識にか、総毛立っていた。

 

 ――姫川大輝。

 

 月9ドラマの主演に、帝国演劇賞の受賞歴と、綺羅星の如くの経歴を持つ実力派の若手俳優だ。劇団ララライの枠を飛び越えて、芸能界の中においても確固たる立ち位置を確保する彼だが、しかしアクアにとってはそんなことなど露ほども関係ない。

 ただ、それでも、どうしてか、アクアはそんな姫川の姿を目にして、不自然なまでの『同族感』を意識させられていた。

 

 まるでそれは、生き別れになった家族であるかの、ような。

 

 浮かんでしまったそんな想像を頭を振って追い出し、アクアは雷田の音頭に合わせて、初日の挨拶の発声をする。

 しかしそれでも、心中に燻り続けるその「予感」はこの日、アクアの中から決して消えてはくれなかった。




第三章、開始です。

原作の方はなんかもう……お労しいことになっていますが、本作も本章にていよいよ大きな動きが出てきます。原作からも、少しずつ乖離が始まります。もう少し先、具体的には舞台編までは原作からあまり離れませんが。

ちなみにこの時点で、B小町にせよアクアにせよ大体中堅編でルビーが深ワンに出始めたぐらいの知名度があります。それもこれも、壱護が最初からハッスルしているからです。




あと、当初11話構成と言っていましたが、大嘘でした。第二章を超える17話構成(+番外編1話)になります。
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