舞台「東京ブレイド」の稽古が始まってから、はや三日が経過した。
すでに二学期も半ばということもあって、昼頃から始まる舞台の稽古に関しても、アクアは放課後になって数時間遅れで直行することが半ば習慣となっている。当然、専業でやっている役者に比べてこの場に立てる時間はやや短いが、それ故にアクアは共演者――とりわけ劇団ララライの共演者に積極的に絡みに行くようにしていた。
それは演技や演出についての意見を貰うためでもあり、コミュニケーションをとることによってララライの輪の中に混ざるためであり、そしてララライの内部事情についてそれとなく聞き出す機会を窺うためでもあった。
幸い、ララライの若きエースとも称される黒川あかねの恋人、という公的な立場を得ているアクアは、ララライの人間たちから割と温かい空気で迎え入れられていた。もっとも、かの劇団の若手女優たる二人、化野めいと吉冨こゆきからあかねとの「彼氏彼女の関係」についてからかい交じりに色々と訊かれる羽目になっていてどうにも辟易させられたものだが、しかしそれでもすげなく扱われるよりはずっとマシであることは間違いない。
当然、稽古それ自体についても進んでいる。初日は棒立ちのまま、あるいは座ったままに本読みをして全体の流れをざっと確認するに終始していたが、三日目ともなると各々台詞は大方頭の中に入って、多少の動きを伴った稽古の形が作られていく。所謂「半立ち稽古」と呼ばれる段階だ。
そこまで進むと、各々の演技に対するスタンスやそもそもの演技力についても、大体見えて来る。
全体を俯瞰してみるに、やはり劇団ララライの役者たちの演技力は高い。ストレートプレイ主体の劇団であるがゆえに、特に優れた身体感覚からなる身体表現には目を惹くものがあった。
一つ一つの動きに感情が乗っている。舞台人であるからか、そこには舞台特有のクセのようなものが見え隠れしているものの、しかし板の上から自身の感情を遠くの人間にまで届けるという演劇の性質に鑑みれば、当然にそれは望ましい在り方だと言えるだろう。
しかしそんな中で特に目を惹くのが、やはり主演を努める姫川大輝であり、そしてその相棒役である有馬かなだった。
姫川の演技は、その動き一つ一つに無駄がない。意味が込められている。演者としての意図の表現、感情の表出、そして視線の誘導まで、一つの身振りの中に複数の狙いを織り込んで、しかしそこには全くわざとらしさが存在しない。
総体で見れば舞台人らしい大ぶりの演技をしているはずなのに、彼に注目した瞬間、それがどこまでも自然なものに感じられる。
彼が何かを言う度に、一度手を、足を動かすたびに、この無味乾燥なスタジオが強引に「東京ブレイド」における「新宿」の景色へと塗り替えられるさますら、錯覚する。つまり彼の演技というのは、暴力的なまでの『説得力の塊』とも表現すべきものだった。
それはすなわち、キャラクターの心情と、その身体表現との間に一切の齟齬がないということでもある。「チェーホフテクニックの理想を体現している」、とでも言うべきだろうか。
舞台役者としての、それはおそらく完成形だ。齢僅か十九、アクアから見れば三つほど年上でしかないのに、明らかに彼の演技はそういう「至高の領域」に手がかかっていた。
ただ、それでもなお――寧ろアクアにとって真に驚くべきは、それに相対する有馬かなの演技の方であった。
繰り広げられる稽古の中、かなの立ち居振る舞いを見て、アクアは理解する。
すなわち今の有馬かなの演技は、暴力的な才覚と血の滲むような努力によって練り上げられたマイズナーテクニックに裏打ちされたものであると。
マイズナーテクニック。現代演劇の世界における、主流の演技論の一つだ。
その神髄は、「反射」にある。外界からの刺激、そして内心の働き、そういったありとあらゆる情報の入力に対し、本能的とも言える反射によってふさわしい出力を返す。そうすればそこには、もはや演技をする意識など不要だ。心のままに振舞うだけで、それが完全なる演技となっているのだから、当然のことだろう。
そして有馬かなという女優は、そうやって自らの裡より湧き出でる「反射」の中に、「有馬かなとしての圧倒的な存在感」を無意識レベルで混ぜ込んでいる。幼少期の、生来の性格としての「目立ちたがり」の性質が演技の節々にどこまでも自然に練り込まれていて、それが彼女自身のルックスの良さと緻密に張り巡らされた身体感覚を通して、外界に向かってまき散らされている。そういう感性を、おそらくかなは最近取り戻したのだ。
これが所謂、かなの「恒星のごとき存在感」の内実であると、アクアは看破した。
結果として今のかなは、自分の意識の持ち方次第で相手の演技を引き立てることも、自らが前面に立って大見得を切ることも、変幻自在の役者となっている。何故ならば自身の中から吐き出される存在感をうまく調節するだけで、自分の舞台における立ち位置をいくらでもシームレスに切り替えられるからだ。
いや、そればかりではない。完成されたマイズナーテクニックを駆使する演者は、周囲の演技のレベルが高ければ高いほど、際限なく自身の演技のレベルを上げられるという。何故ならば外部からの刺激の解像度が上がれば、それに対する反射の解像度も、自然と上がるからだ。
ならばそこに、姫川大輝という凄まじい解像度を持った演技を繰り出す役者が合わさると、どうなるか。
ララライ側の役者全員が真顔になって、あかねが必死に手元のメモに何かを書き込み続ける中、アクアは己の口角が自然と上がるのを感じていた。
そうだ。これだ。これが有馬かなと言う役者だ。
初めて彼女と出会った日の、あの映画の撮影の折に見たどこまでもまっすぐな瞳の輝きが、そこから放たれていた光が、「天才女優」有馬かなが、とうとう演技の世界に帰ってきたのだ、と。
となれば、そんな彼ら「ブレイド」と「つるぎ」に対する「刀鬼」と「鞘姫」――つまりアクアとあかねも、それに負けぬほどの演技が求められる。最低でも、観客に向かって開示する情報の密度は、彼らと比べて負けてしまってはいけなかった。そこの部分のバランスが崩れると、劇全体の完成度自体が低く見られかねないからだ。
しかし実のところ、アクアにせよあかねにせよ、今回の稽古の立ち上がりにおいては、正直な話かなりの苦戦を強いられていた。
その日の稽古終わり、アクアはあかねに誘われるようにして、稽古場近くのファミレスにやってきていた。
学生カップルとしての初々しいデート――というわけではない。事実、テーブルを挟んでアクアの正面に座るあかねは、かなり深刻な表情をしている。
「アクアくん」
とりあえず夕食にと互いに思い思いのディナーセットを注文したあと、あかねはアクアにそう声をかけてきた。
顔を上げ、そして自らに視線を合わせたアクアへ向けて、あかねから真剣な声色で、問いが投げられる。
「今回の脚本のキャラ設定、どう思う?」
それは果たして、アクアのほうにおいても問題視せざるを得ないポイントであった。
今回の劇は「東京ブレイド」という漫画作品としては序盤にあたる、「渋谷抗争編」というエピソードを取り扱っている。そしてそのエピソードにおいて、アクアとあかね扮する「刀鬼」と「鞘姫」の二人は所謂「敵の頭目」としてのポジションを与えられているわけなのだが、アクアたちにとって頭の痛い問題というのは、まさしくその立ち位置にこそあった。
「まあ、なんと言うか……『渋谷』側のキャラクターの深堀りやってると尺が足らない、ってことなんだろうな、としか」
答えになっているかどうか分からないそんな答えを返したアクアに、あかねはしかし同意するように項垂れた。
すなわち、アクアとあかねの前に立ち塞がっている問題というのは、「刀鬼と鞘姫、特に鞘姫のキャラクター造型が、新宿側に比べて露骨になおざりになっている」という、その一点にこそあった。
漫画作品としての「東京ブレイド」は、熱い剣戟アクションとバトル展開以外に、それぞれの陣営における複雑な人間関係を踏まえた群像劇がウリとなっている。各陣営のキャラクター個別個別が魅力を持って描かれていて、そのキャラクター性によって大量のファンが生まれ、累計五千万部発刊という超絶的なヒットの原動力となっていた。
翻って今回の劇を見るに、ストーリーラインはあくまで「ブレイドを頂点とした新宿クラスタが出来上がるまで」と、「新宿クラスタが渋谷クラスタと全面衝突して繰り広げられる華麗で心躍るバトル展開」の二つだけを押し出そうとしている。
確かに、舞台の世界においてメインプロットとなり得るものは一つしかなく、そして時間に限りがあることを考えれば群像劇のような大量のサブプロットを展開している余裕はない。
しかしそのしわ寄せと言うのは確実に発生するものであって、まさしくあかねとアクアが被っているのはそういう性質のものに他ならなかった。
つまり、原作に存在していた深みあるキャラクター性が、渋谷クラスタの面々、とりわけ「鞘姫」からはごっそりと抜け落ちているのだ。もはや別人と言ってもよいほどに。
「あかね。多分だけど、原作漫画のことは忘れた方がいい」
「忘れた方が、って……」
「だってそうだろ。今回の劇はあくまでブレイド一派の『新宿クラスタ』側が主役で、俺たちはそれに立ち塞がる敵役だ。対立軸をわかりやすく見せるためなんだろうけど、俺たちには多分それ以上のことは期待されてない。そうとしか思えない、この本を読む限り」
取り出していた台本の拍子を、二度三度と叩く。
正直なところ、アクアはこの脚本に一頻り目を通した時に、「あかねがかわいそうな本だな」と感じていた。
理由は単純だ。目の前を見れば、明らかに不満げで、そしてやるせない表情を浮かべたまま、あかねがこちらに目を向けている。
「そりゃまあ、少しは分かるけど……でも」
声にもまた、それに通底する響きが宿っていた。
何を云わんとしているかは、アクアにも察せられる。
「『これじゃかなには勝てない』、か?」
問うた言葉に、あかねは少しバツが悪そうに目を逸らして、そして頷いた。
つまるところの問題は、キャラクターに対する書き込みの密度が、ブレイドとつるぎをはじめとする新宿側と渋谷側で露骨に違うことにある。
それの何がまずいのか。
言うまでもない。そんな状態では、「提示されている役柄に対する情報を整理して振る舞いを理解し、それによって役を自らの上に憑依させる」というあかねの演技のあり方は、その強みを生かせないのだ。自らの役どころを理解するための材料が、足りていないからである。
そのあたりのことは、アクアもまた憂いてはいた。
あかねが自分の中で「やり切った」演技ができなければ、きっと今回の舞台に悔いを残すだろう。それは忍びない。
ただそれと同じぐらいに、アクアもまたそんなあかねの相手役として、「金田一に顔を覚えてもらう」演技が出来ないとなれば、それは憂うべき事態に違いない。
よって今、アクアは手当てが必要であると判断した。
「まあ、俺個人としては『勝ち負け』ってのはよく分からないんだけど」
目を逸らしたままのあかねに、声をかける。
「納得のいく演技ができそうにないってなら、結局訊くしかないんじゃないか、演技プランについて」
「金田一さんに?」
背けられていた顔が正面を向き、目線がアクアと合う。
問われたそれに、アクアは頷いた。
「まあ、そうだな。あと……明日は、ほら」
「明日? って、あ」
一瞬だけ怪訝そうな顔をしたあかねが、そこで何かに気づいたような表情になる。
「そっか。GOAさん、明日いらっしゃるんだっけ」
「そういうこと」
我が意を得たりと、アクアは首肯した。
明日は稽古が始まって五日目ということもあって、一度通しの半立ち稽古を済ませたあと、余裕があれば荒立ちをやってみようという段取りになっている。
舞台「東京ブレイド」の全体イメージを確認するのには、よい機会なのだ。そのあたりで一度、脚本を担当したGOAにも確認をしてもらうというのは、スケジュールの流れとしては自然なものとも言えるだろう。
「せっかくの機会だし、色々訊いてみるのも手なんじゃないか」
「うん。……だけど、それってどうなのかな。基本的に演技のディレクションは演出から降りてくるものだし、金田一さんその辺り厳しいから……」
少しばかり身を乗り出すようにしてあかねに持ち掛けたアクアだが、しかしあかねの方は少しばかり後ろ向きな声で言葉を返してきた。
なるほど、理屈はその通りであろう。多数の演者を統制して一つの作品にする舞台演劇の世界においては、その演出を統括し、把握し、指示するのは演出家一人のみなのが理想だ。演出家の頭の中に描かれた世界を、演者は最大限現実に落とし込むことが求められている。
ただそうであっても、アクアはそればかりが全てではないと考えていた。それを金科玉条のように扱うことだけが、役者としての望ましい態度とは言い切れないだろうと。
「それはわかる。あかねのそういう筋を通すところ、俺はいいと思う。けど」
一度言葉を切って、正面からあかねを覗き込んで、改めて口にする。
「後悔したくないんだろ」
息を呑む音が聞こえる。あかねが、目を瞠っていた。
数秒の沈黙が流れて、果たして小さく息を吐く声がする。
「……そう、だよね」
次いでそんな呟きが、零れて落ちてきた。
俯くように小さく頷き、あかねがその顔を上げる。
「うん、確かにそうだ。……わかった、明日色々訊いてみるね」
そして、そう微笑んだ。
アクアがそんな彼女に頷き返すのと、テーブルに注文した料理が運ばれてくるのは、ほぼ時を同じくしてのことであった。
しかし、それでも、アクアは思う。
次の日の、つまり稽古五日目の場にやってくるのは、脚本のGOAだけ
今日のバラしの直前、終わりの挨拶の中で、それは共有事項として雷田Pより伝えられていたことだった。
即ち、明日の稽古の現場には、この舞台「東京ブレイド」の原作者である、「鮫島アビ子」女史がやってくる。
アクアは板の世界については幼少期に数度ほど経験があったばかりでそこまで詳しいわけではないが、それでも原作者レベルのステークホルダーが、まだ抜き稽古も終わっていない段階で稽古場の立ち合いにやってくるなどほとんど聞いたことがない。大体の場合は小屋入り前、稽古場での通し稽古が佳境を迎えるあたりでやっとその全体像を確認してもらうぐらいが精々だろう。
舞台化に協力的な、熱心な原作者だ。そうとも言えるかもしれない。ただアクアはどうにも、この段階での「原作者の視察」というイベント自体に、決していい予感を持つことができていなかった。
これは何かがある。というか、何かが起こる。それはアクアにとって、なんの根拠もない不安でも、単なる予想でもない。
ただ、それは今案じなければならないものでも、ないだろうか。
机の上に無造作に置いてある
而して次の日、そのアクアの懸念は、文字通り現実のものとなる。
稽古開始から五日目、荒立ちを一度通しで済ませたあと、いよいよ幾つかの部分についての抜き稽古が始まる。
おそらく最後の一週間が小屋入りと場当たり、そして
ただその日は昼の十二時という早々のタイミングで、この稽古場に一人のゲストを招いていた。言うまでもなく、「東京ブレイド」の原作者であるところの鮫島アビ子である。
彼女は、どういうわけか自らの付き添いに、アクアにとっては見覚えのある一人の女性を伴ってやってきていた。アクアが出演したネットドラマ「今日は甘口で」の原作者である、吉祥寺頼子だ。後に聞いたところによると、彼女は一時期アビ子を自らのアシスタントとして雇っていたらしい。言ってしまえば、アビ子にとっては師匠筋に当たる人物ということになるだろうか。
そしてその陰に半ば隠れるようにして稽古場の中に現れた当の鮫島アビ子は、頼子が女性としてはやや背が高めということもあるが、それでも女性としてさえ特に小柄な体躯と、およそ身だしなみなど気にしたこともないのであろう、ぼさぼさの黒髪をとりあえず短く切っただけという、なんとも性格を感じさせる出で立ちでアクアたちの前に現れた。
挙措は小動物じみていて可愛らしい。顔立ちもよく見れば整っている。その気になれば人前に出ても恥ずかしくない出で立ちに、そして振る舞いになれるであろうに、どうにもその彼女は明らかにこの場に対して気後れしているらしい。ならばそれもまた、おそらく彼女自身のパーソナリティによるものなのだろう。
つまりおそらく彼女は、人とのコミュニケーションがあまり得意ではない。
そして故にこそ、アビ子の前で見せた通しの荒立ちのあと、彼女自身から吐き出された言葉は、この稽古場そのものを大きく揺るがすものとなった。
――脚本、全部直してください。
荒立ちを見て、そこで今出せる精一杯の演技を見せた俳優陣に目を輝かせ、「これならいいお芝居ができる」と希望を持った声色で口にして、しかし「だからこそ」と意思を固めて、彼女は金田一とGOAの座る長机めがけて、そんなどこまでも直截的な文句を叩き込んだのだ。
瞬間、その場の空気の全てが、文字通り凍り付いた。
しかし同時にアクアは、こういう展開になる可能性については多少なりとも予測していた。いや、「脚本の全部を直せ」などという凄まじい要求がやってくるとまでは考えていなかったが、それでもアクアは渡された脚本を見るにつけ、嫌な予感はしていたのだ。
確かに、脚本の作劇としての完成度は高い。メインプロットのストーリーラインはしっかり構成されていて、見せたい部分をしっかり見せている。
観客に対して心情を説明するような長台詞は、場転や移動の最中にうまく収められていて、板の上で見れば違和感もないだろう。脚本家としてのGOAの腕前は、つまり確かだ。
ただそれでも、どうにもアクアは渡された脚本の中で、不自然な点を多く見つけていた。
気をつけて確認しなければ、気づかない違和感ではある。正直な話、五反田監督のもとで作劇技法に関する勉強をしっかりしていなければ、アクアも気づくことはなかっただろう。
ただ、ひとたびそれを意識してしまうと、その「サイン」は至る所から見つかる。つまるところこの脚本は、おそらく脚本家の本意ではない加筆の跡が散見されるのだ。
主にそれは各キャラクターの中の、心情を説明する部分にであった。
「東京ブレイド」と言う漫画は群像劇の側面を持っているがゆえに、各キャラクターの内面は漫画においてかなり克明に描かれている。これを舞台というメディアに落とす時に、内心のモノローグや大ゴマを使った見得の類をどう再現するかで、おそらくGOAはかなりの苦慮をしていた。
どの段階から原作者であるアビ子の監修が入ったのかわからないが、脚本の内のいくつかの部分に、GOA本来の筆致とは明らかにかけ離れたものがある。一言で言えばそれは、「自分の書いた内容に納得していない人間の書きっぷり」だった。
故にきっとそこが原作者監修の修正部分であるのだろう。ただ、本人が納得していないような代物は、大抵の場合他の人間からしても評価されないものである。
更に言えば、そうやってできた加筆部分が稼いでしまう尺を確保するために、おそらくは渋谷クラスタ側の陣営の人物描写が犠牲になっている。アクアやあかねに対するしわ寄せというのは、かなりの部分がここに起因していると、アクアは直感していた。
これほどに注文の多かったであろう脚本を何とか形にするようにまとめ上げて見せたGOAの力量は、疑うべくもない。ただ、こういう形である種歪に積み重ねられた修正は、積み重ねられているがゆえにきっと原作者の意図ともかけ離れている。
つまり今日原作者がこの場にわざわざ足を運んだのは、原作サイドと脚本サイドの間の、つまり「組織」と「組織」のやり取りでは到底埒が明かないと判断した原作者本人が、直談判しにやってきた構図なのだ。
それが、「脚本を全て作り直せ」というある種のちゃぶ台返しの形で、最悪の形で表出しているのだ。それが、アクアとしての結論だった。
事実として、今までの控えめな振る舞いから一転して凄まじい剣幕で脚本の文句を言い立てているアビ子の言い分は、それを聞くにつけアクアの懐いていた懸念をこの上ない形で証明するものであった。
――このキャラはこんなこと言わない! こんなことしない!
――キャラを変えるのは、無礼だと思いませんか!?
キャラクターの心情描写への増筆と、そのしわ寄せが来たキャラクター設定の変更は、おそらく共にアビ子のキャラクター解釈に対して真っ向から喧嘩を売っている。
その一部は、GOAがその場で抗弁した通りに、漫画と舞台というメディアの違いによるどうしようもない差分ではあろう。特に「ヨリの画角」と「モノローグ」のどちらもが使えないという制約は、実のところ原作の漫画が期待している「群像劇」というフォーマットとはあまり相性が良くない。
舞台の上でそれを実現する場合、所謂「時間停止」によって他の登場人物の動きを止めて、内心の描写を行う人物に対してスポットライトを当てるような演出がオーソドックスであるが、これを人数分やるのでは、劇が完全に間延びしてしまう。そういう「トメ」の演出をする対象は、どうしても限定せざるを得ないのだ。致し方のない部分は、少なくない。
ただそれ以上に、今この場でぶちまけられているアビ子の怒りはきっと、その後修正のたびに悪化していく脚本と、それを臆面もなしに上げてくる脚本サイドへの止めようのない苛立ちから来ているのだろう。彼女から放たれる攻撃的な台詞の数々は、はっきりとそう言うニュアンスを中に含んでいる。
そしてその類の問題が起こる原因など、アクアはおよそ一つしか知らない。
「コミュニケーション不全、か」
最終的にGOAに対して「この人才能ないんじゃないですか」とまでの凄まじい暴言をかましながら、付き添いの頼子に抑えられるようにして稽古場から連れ出されていったアビ子の姿を見て、アクアは一人、そう呟いていた。
稽古場のど真ん中で特大の爆弾を炸裂させたアビ子のこともあって、その日の稽古は早々に打ち切られた。
まあ、無理からぬことだ。演技の基礎の基礎、大前提となる舞台脚本が、ほかならぬ版権者であるところの原作者によって全否定されたわけなのだから、こればかりは不可抗力である。
あとの予定が詰まっている何人かの役者――その中には当然姫川大輝も含まれている――はそこですぐに現場を去っていったが、しかしアクアは頼子に呼び止められるような形で、Bスタジオ脇のサブルームの前にいた。
部屋の中では、プロデューサーである雷田と彼女自身の編集に対して、アビ子が怒りに任せて盛んに文句を言い立てている。
どれもこれも、脚本家であるGOAを公然と攻撃するような内容だ。そしてこの場には、アクアや頼子のほかに、その当人であるGOAが立っていた。
「ごめんなさいね、GOAさん。アビ子先生、自分の漫画のことになるといつもこうで……」
頼子が、GOAに向かってそう頭を下げる。
しかしそれに、GOAは首を振って答えた。
「いえ、これは僕の落ち度です。原作者のアビ子先生の意図をうまく汲めずに、いい脚本を上げられなかったのは僕のほうですから」
力ない笑みで、そして声だった。
彼の言葉を聞いて、アクアとその横についてきているあかねは、二人して顔を見合わせる。そのまま無言で、互いに頷いた。
「そんなことは、ないですよ。メディアの限界もある中で、GOAさんは完成度の高い本を上げてくださってます。あの金田一さんがOKを出したわけですし」
GOAの方へと視線を戻す。そしてアクアはそう彼のことをフォローした。
無論、アクアとて脚本の内容に不満が全くないわけではない。ただそれはあくまでも「自分に割り振られた配役の立ち位置」へのちょっとした文句であって、舞台「東京ブレイド」という総体を俯瞰するに、GOAは破綻のなく、完成度の高い脚本を間違いなく書いている。最低でもアクアは、そう評価を下していた。
「ありがとう。けどね、それでも原作者が納得しないものを作ってしまったことは、変わらないんだよ」
「ですが……」
アクアは部屋の中のやり取りに聞き耳を立てる。その中では、とうとう怒り心頭に発したらしいアビ子が、「今の脚本家を下ろして自分で本を書く」とまで言い始めていた。「そうしなければ劇の許諾を取り消す」、とまで。
背後で、あかねの小さく息を呑む音が聞こえた。アクアの背にも、汗が伝う。無論それは、いい意味では断じてない。
「聞きましたか、今の」
「ああ、うん。まあ、そういう風に言われるだろうなとは、ちょっとね」
どこか諦めたような笑顔をこちらに向けてくるGOAを見て、アクアの心中が俄かに突沸した。
その憤りにも似た衝動は、アクアの口をひとりでに動かしていた。
「いいんですか、これで。あの人、『連載の片手間に書いた自分の舞台脚本のほうが、プロの脚本に比べて何倍もましだ』って言っているに等しいですよ」
正面に、GOAを見る。すぐさまに、頼子に視線を向け直した。
「吉祥寺先生、失礼ですが、鮫島先生は週刊の漫画家ですよね? 連載に穴、空けられないと思うんですけど」
「え? ええ、そうね」
「だったら。だったら、そもそも今でさえ殺人スケジュールで漫画を描いておられる鮫島先生が、我々のためにどれぐらいの熱意で舞台脚本書けると思います? というか、そもそも書く時間ありますか?」
問うた言葉に、頼子は黙り込んだ。そのまま、首を横に振る。
そうだ。確かに彼女は今月刊誌に漫画を掲載している商業漫画家で、幾分スケジュールに余裕のある生活をしているようではあるが、それこそ「今日あま」でヒットを飛ばしていたころは、今のアビ子と同じぐらいの多忙さで仕事に当たっていたはずだ。そしてそんな極限のスケジュールの中にいる人間が、新たな仕事として「今までやったこともないであろう舞台脚本の書き下ろし」など、常識的に考えてできるはずがない。そのことを彼女は、頼子は身に沁みて理解している。
であるのならば、答えは一つだ。
「僕たちは役者です。上げられた脚本をできる限り形にして、いい劇を作り出すのは責務だと考えています。でもそれは逆に言えば、僕たちは上げられた脚本とは一蓮托生ということでもあります」
目に力を籠めるように、頼子に言葉をかける。気持ちごと押し出すような言葉遣いで。
「僭越なことかもしれませんが、鮫島先生の気持ちも、確かに分かりはします。ですが……いや、ですから」
GOAを挟んで向かい合わせだった場所から、一歩近づく。
「鮫島先生にも、僕たちの仕事のこと、分かっていただきたいんです。舞台のことを。ですので」
アクアは後ろを振り向いた。見たのは、あかねの方だ。そして問う。
「あかね。申し訳ないんだけど、前二人で行こうって話してたステアラの下見、人数増やしてもいいか?」
一瞬、あかねはキョトンとした顔をする。しかしすぐさま、彼女はアクアの謂わんとすることを理解したらしい。
流石の聡明さだ、と言うべきだろう。彼女は、一つ大きく頷いた。
「大丈夫だよ。けど、その分の埋め合わせは、今度してもらうね」
「分かってる。……ありがとう」
感謝と謝罪の意味を込めながら軽く肯き返して、頼子にもう一度向き直る。
「鮫島先生のご都合のつく日で構いません。ですので僕たちと一緒に、今回の舞台で使う箱でやる劇、観てはいただけないでしょうか」
それを口にした瞬間、アクアの隣にいたGOAが、肩を震わせる。
「それって……」
「ええ」
小さく呟くような声を漏らした彼を横目で見ながら、小さく首を縦に振る。視線を戻した。
「吉祥寺先生。僕たちのことを助けると思って、鮫島先生のお時間をいただけるようにお願いしてもらえませんか。……どうか、お願いします」
「は……いや、えっ? いやちょっと、アクアさん!?」
直立して、深く頭を下げる。頭上からはいきなりのことに混乱しているのであろう頼子の声が聞こえてきたが、アクアには頭を上げる気などまるっきりなかった。
なぜならアクアにとってこの状況は、何重の意味においても、必ず打開しなければならないものだからだ。
金田一に接近するためには、今回の舞台は確実に成功させなければならないものだし、そこで自分は自らの演技を、そして能力を、彼にアピールしなければならない。
二か月もの期間を使うのだ。空費などしていられない。自分にそんな余裕はない。
ともに才能ある脚本家と原作者が、こんなつまらないコミュニケーション不全によって決裂し、よい作品が作れるはずの未来を潰してしまうなど、あまりにもったいない。
その未来図を「仕方がない」と受け容れる脚本担当の姿が、どうしてもアクアの癇に障った。なぜかどうしても、他人ごとでないような気がしていたから。
そして――あかねにとって、この舞台はきっと焦がれていたであろう、「ようやくその才能を取り戻した有馬かなとの、ともに主役級で臨む初めての演技の場」だ。
こんな不完全燃焼の形で棒に振ってしまうことなど、認められない。そんな結末のために、アクアはJIFの舞台においてかなとあかねを引き合わせたわけではないのだから。
故にアクアは頼子が首を縦に振るまで拝み倒す態度を崩すことなく、果たしてその末に、彼女は折れた。
顔を上げて、そしてあかねの方を見る。
彼女もきっと、アクアの思惑を察したのだろう。真剣な表情で目線を頼子のほうへと向けて、深々と一つ、頭を下げた。
それを見た頼子の、いくつかの心情が綯い交ぜになったような曖昧な笑みが、アクアの印象に強く残った。
原作よりも色々な意味で前のめりになっていることで、アクアはかなり積極的に盤面を動かしに行っています。