「東京ブレイド」の原作者たる鮫島アビ子が稽古場に「襲来」した次の日、案の定というか、稽古の一時中断が告げられた。
こればかりは、致し方のないことだ。そして逆に言えばそれは、前日にアクアが頼子に対してお願いをした、アビ子を誘っての演劇鑑賞の機会が生まれたことを意味してもいる。
果たしてその日、頼子から早速アクアに対して連絡が入った。「明後日、アビ子先生の原稿のデッドの翌日ということで時間が取れそうだから、観劇できそうです」と。
ならば、善は急げである。そこからすぐさま折り返しで、アクアは明後日のアポイントメントを取った。
そもそもそれですらも、稽古期間で言えば三日間のロスなのだ。アクアの試みが最大限うまくいけば、そこからおそらく二日ほどでリバイスされた脚本が上がってくるだろうが、それで五日分の欠損である。稽古期間には多少の予備日が用意されているとはいえ、厳しい情勢に変わりはない。その機は逃せなかった。
同時に、その日の予定を押さえるべきは、アビ子や頼子だけではない。当然ながらあかねもであるし、更にはもう一人、結果として凄まじい女所帯になってしまう故にある種中和の要員として、そして小屋入り前に実際の劇の感覚を掴んでもらうためにも、アクアは鳴嶋メルトをこの催しに誘った。
あとは、この集まりの中で蚊帳の外にしてしまうのはいくらなんでも気が咎める故に、かなにも一応誘いを入れておく。
その結果として、本来なら二人で――すなわちデートの一環として出向くつもりであったあかねはもちろんのこと、それ以外の二人も二つ返事でアクアの誘いに乗ったことで、当日の「ステアラ観劇会」はあっという間に六人所帯というそこそこの規模のものに膨れ上がってしまった。
もっとも、それはアクアの予定において障害となるものではない。すぐさま稽古場の中にいた雷田に対して関係者枠での六人分のチケットの手配を頼む。当然にその経緯は説明してのことである。
「当日、鮫島先生はステアラの中に来られます。劇を見た後でしたら、おそらく先生も多少劇のことをご理解いただけていることでしょうし、もう一度腰を据えて話す機会だと僕は思いますが、どうでしょうか」
そう自らの動機と狙いを説明すれば、彼は真剣な表情のままにアクアに対してチケットの融通を許した。
「考えるねぇ、アクア君。でもこういうの、ホントは僕がやらなきゃいけないことなんだけど」
「いえ。そもそもこれは、飛び道具ですし。僕が吉祥寺先生と知り合いだったから使えた手ですから。ただ」
雷田の少しばかり冗談めかしたその問いに、アクアはそれでも真面目を貫徹した態度のままに答える。
「僕は、どうしてもこの劇を成功させたいんです。本当に、それだけのことですので」
なぜならそこには、一つの嘘も存在しないからだ。アクアの個人的な望みのためにも、今回の舞台に関しては絶対に頓挫して貰っては困るのである。
そんなアクアの返答に雷田が何を考えたかまではアクアの知る所ではないが、いずれにせよアクアにとっては首尾よくチケットの調達に成功したことが全てであった。
果たして次の日、アクアたちは漫画家先生二人を迎えて、豊洲にある今回の目的地、「ステージアラウンド」へと足を運んでいた。
晩秋から冬へと季節が移ろう、玲瓏なる空気と染み入る寒さが天を満たす陽気の中で、アクアたちは集まっている。
六人と言う大所帯だ。しかもその中で、人数バランスとしては「演者サイド」であるアクアたちの方が多い。
「あ、あの、その……三日ぶり、です……?」
当然にというべきか、アビ子は付き添いの形でやってきている頼子の背後に隠れるようにして、そこからちょこんと顔だけ出してアクアたちに向かって挨拶をする始末だった。
これは、間違いなく頼子と一緒でよかった。アクアとしては、そう思わされるばかりである。
ただ、よくよく見ればアビ子のこちらを向く視線の中からは、三日前に感じた「警戒心」のようなものが、ほんの少しだけ薄れている気はがする。
だとするならば、もしかすればあれから二日の間に、何か彼女の心境に変化があるような出来事でもあったのかもしれない。
ならばそれはきっと、他でもない頼子の手によるものなのであろう。そう直感する。
確かに、あくまでも推測に推測を重ねたものである故にそれが真に起こったことであるかは定かではないが、それでもアクアは内心で、彼女に確かに感謝していた。
いや、そもそもこの場に気難しいところがあるであろうアビ子を連れてきてもらえたこと自体、アクアからすれば謝意を伝えるべきことなのかもしれない。
「はい、三日ぶりです。あの時はご挨拶もできず、申し訳ない」
「は、え、あ、いえっ、その」
まあもっとも、相変わらずこちらからの挨拶にはあたふたと戸惑って、どうにも小動物じみた挙措を見せるばかりのアビ子の態度は一朝一夕には変わらないのではあるが。
ともかく、いずれにせよここからやることは一つだ。
すでに用意してある今回の劇――「スマッシュヘヴン」なる、卓球を題材にした、こちらもまた漫画原作の「2.5次元舞台」である――の観劇チケットをそれぞれに渡して、早速にアクアたちは劇場の中へと入る。
「アクアくんは、ステアラの舞台見に来たことってあるの?」
流石に六人まとめて一綴りの席は用意できなかったようで、二人組ずつに分かれての座席配置となった劇場の中、薄暗い観客席に隣同士で腰掛けたあかねが、アクアに向かって問いかける。
「かなり昔、だけどな。六、七年前ぐらいに、一回」
「六、七年前……って、もしかして出来たばっかりの頃ってこと!?」
観劇のマナーを守るべく声を潜ませて、しかしあかねはアクアの言に、驚きの叫びを上げた。
「えぇ……あの頃ここホントに人気で、抽選でしかチケット取れなかったから私全然取れなくて……」
羨ましいなぁ、と純粋な羨望の声が、あかねから発される。
ただ、アクアとしてはそれにどう答えたものか、何とも悩ましい。
「まぁでもあれは、『関係者枠』だったから。俺が演出の勉強してたときの師匠が、ちょっとそのあたりに関わってて」
つまりは五反田監督のことである。基本的に彼は映像畑の人ではあるのだが、アクアが幼いころにいくつかの舞台の端役を演じたこともあるように、板の世界とも彼は少しだけ伝手がある。そういう意味で、アクアの最初の、そして今日まで唯一の機会であったステアラでの観劇というのは、平たく言えば「付き合い」によるものであったのだ。
「だからあの時は、あんまり真剣に見れてなかったんだよな。だから正直その時のこと、あんまりよく憶えてない」
故にそう言って小さく苦笑いを浮かべたアクアに対して、あかねはこちらも小さくその頬を膨らませて見せた。
「勿体ない。宝の持ち腐れだよ、それ」
しかしそれも、すぐに笑顔に変わる。
「けど、だったら今日はアクアくん、新鮮な気分で見れるんじゃない?」
「……そうかもな」
無邪気な、しかしどこか悪戯っぽい表情で自らのことを覗き込むあかねに、アクアはどこか気恥ずかしさをも覚えて、目を逸らしていた。
「そうでなくても、今日は『場当たり』の感覚で見に来た部分もあるし」
しっかり色々見ておくさ、と続けたあたりで、照明が更に暗くなる。
緞帳代わりのスクリーンに投影されていた「スマッシュヘヴン」のキャラクターたちのイラストも消えて、いよいよ劇の始まりの予感が場を満たした。
広がる静寂が期待を掻き立て、暗闇に沈む感覚が、板の上に広がる幻想へと意識を傾けさせる。
映画館のそれともまた違うこの一瞬だけは、映像芸術の世界の中には存在し得ない、演劇だけの確かな魅力だ。
そして張り詰めた緊張が頂点に達したその時に、劈くような劇伴が、開かれるモニターが、観客を舞台の世界へと強引に引き込む。
ステージアラウンド公演、「スマッシュヘヴン」が、始まった。
午後の公演だったこともあって、閉演を迎えた劇場から外に出て全員が落ち合った頃には、陽は既に西の空に傾きかけていた。夕景と言うには些か早く、しかし昼と言うにはどうにも時間が経ちすぎている、そんな頃合いだ。
落ちてゆく陽光によって山吹色に照らされたステアラの外観を臨むカフェのオープンテラスに、アクアたち六人は集まっていた。
「鮫島先生、今日は忙しいところご足労いただいて、本当にありがとうございました」
全員分の飲み物がテーブルの上に運ばれたところを見計らって、アクアはそう切り出す。声をかける先は、当然にアビ子だ。
皆それぞれに椅子に座っていて、故に彼女には逃げ場がない。果たしてアビ子は頼子の背中に隠れることもできず、しかしせめてもの抵抗と言うべきなのかアクアの視線から逃れるように顔を俯けて、蚊の鳴くような声で答えた。
「あ……ぇと、はい、その、こちらこそ」
どうにも、まだ慣れてはくれないらしい。曰く「イケメンと美人は目の前にいるだけでテンパる」ということらしいが、まあこれで彼女と面と向かって話をする回数としては未だ三回を数えてもいないのだから、仕方がないだろうか。
気長にやるしかない、とアクアは思い直す。努めて声を柔らかく、言葉を続けた。
「いかが、でしたか。今回の」
問いに、アビ子はちらりとアクアに視線を向ける。しかしまたすぐに顔を伏せて、それでもはっきりと答えた。
「その……はい。なんて言うか……すごく、よかったと思います。えっと……私が思ってた『舞台』とは、全然違ってて」
返ってきたそれに、アクアはあかねを見る。無言のうちに、互いに頷いた。
他の、かなとメルトの二人も、手応えを得たような表情をしている。つまりそれは、間違いなく好機だった。
「今回の舞台ですけど、あれの本書いてるのGOAさんなんですよ」
「GOAさん……あ」
とうとう、アビ子の顔が上がる。彼女もその名前には覚えがあるはずだ。何せそれは、あの日にアビ子が散々にこき下ろし、自分の漫画の脚本担当としては向いていないと、排撃しようとした人物の名に相違ないからだ。
「そう……なん、ですね」
どこかバツの悪そうな響きで、彼女は言う。
宜なるかな、だ。そしてそれは、アクアにとっても他人ごとではない。正直なところ、上がってきた今回の「東ブレ」の脚本を見て、初日の読み合わせの時点からどうにもしっくりこない部分があったのはアクアも同じだったからだ。
しかし今の、「スマッシュヘヴン」の劇を見たうえで今一度「東ブレ」の脚本に戻れば、これはまさに「ステアラ向けに最適化された脚本となっている」ことがよくわかる。
無論、修正箇所が嵩んだ結果「気持ちの良くない部分」が出てきているのは確かで、未だ引っかかりを覚える自分がいることも否めない。
ただそれには、やはりリライティングの作業の中で起こってしまった意思疎通の問題が大きく作用していることは疑いない。鮫島アビ子の懸念がそこにあるというのであれば、それはしっかりと修正したうえで、それでも今回の舞台は「現行のGOAの著した脚本をベースにはするべきだ」という思いが、アクアの中で大きくなっていた。
「来月、僕たちはあの場所に立ちます。あの場所で、鮫島先生の『東京ブレイド』を、現実世界に持ってくる。そういう覚悟で、僕たちは芝居をするつもりでいます」
故にアクアは、強く主張する。
「そのためには、やはりどうしても、舞台のことをよく知っている方が書かれた脚本と言うものは必要なんです」
しっかりと、アビ子の目を見据えた。
彼女は、目を逸らさない。
「それは……分かりますけど、でも」
「分かっています。僭越ながらですが、僕も鮫島先生のご懸念については多少なりとも理解しているつもりです。ですから」
そう、アクアが言葉を続けようとした辺りで、如何なるタイミングの良さか、この場に一人の影が差す。
全員で、横を見る。そこにいたのは、いつもの通り白黒のジャンパー姿にサングラスをかけた、見覚えのある男性だった。
「……雷田さん」
「やぁやぁ、お疲れさま、皆さん。……それと、アビ子先生」
陽気な調子でテーブル目掛けて声をかけてきた彼は、しかしアビ子のことをその視界に収めるなり、俄かにその言葉に真剣味を宿らせる。
ゆっくりとした手つきで、彼はそのサングラスを、外した。
「今日はわざわざご足労いただいたこと、大変恐縮です。アビ子先生から見て、今回の劇、どうでしたか」
それはつい先ほど、アクアがアビ子に対して投げかけた問いと全く同じものだった。アビ子の視線が、アクアに向く。
アクアはそれに、ただ無言で頷いた。彼に、雷田に向けて何を言うかは、自分がコントロールしていいものでは決してないと考えたからだ。
故にそのまま、アビ子はもう一度雷田に向き直る。言葉が、聞こえた。
「凄く、よかったです。私の、『東京ブレイド』の舞台も、ああいう風にできればいいって、思いました」
「そう、ですか」
雷田が、小さく目を見開く。それもつかの間、感慨を込めたように目を瞑って、頷いた。
どこか覚悟を決めるような、そんな空気を纏って、彼は一つ息を吸い、そして吐く。口を一瞬だけ引き結び、右の手を握って、もう一度言葉を発さんとした。
「でしたら――」
「あの」
しかしそれに先んじて、椅子を引く音がする。カフェのテーブルから、アビ子が立ち上がっていた。雷田の言葉に被せて、彼に向かって声をかける。
「雷田さん、お願いがあります」
小さめの、それでも意思の乗った声だった。
「あの脚本家の方と、もう一度今回の舞台の脚本について、
あの日、怒りに任せて言葉の刃を振り回していた彼女の姿は、そこにはない。
癇癪ではなく、明白な目的意識を持って、今アビ子は雷田に向かって、交渉を持ち掛けていた。
「直接……」
そう、躊躇するような態度で、雷田が口の中で言葉を転がす。
理屈はわかる。そもそも脚本家と原作者の間に直接のパスを設けず、組織と組織が接点を持ち合って作業を進めていく理由は、「責任の所在を個人に決して帰させないこと」にある。
もし仮に何らかの要因で訴訟沙汰にでもなった場合、法廷の場で戦うのは会社同士である。発生する金銭のやり取りも、その責務を負うのは必ず会社でなければならない。それが、現代日本の社会における仁義であるが故に。
だからアビ子のその提案は、ともすればその垣根すら超える越権行為だ。「頭越し」とも言うべきものだ。今回の「舞台化プロジェクト」を統括する立場として、そのステークホルダー全員に対する責任を持つ者として、彼女の言葉に難色を示すのは、ある意味では当然のことであろう。
「私も、色々考えたんです。今回の劇を見て、アクアさんにもいろいろ教えてもらって。今日の舞台、脚本はGOAさんらしいじゃないですか」
しかし、それでも、アビ子の意志は固い。訥々と続けられるそれは、反論を押し留めるだけの力を持っていた。
「ああいう劇を作っていただけるなら、私はGOAさんにお任せしたいと思います。けど、私にも譲れない一線はあります。それは、直接お話しないと伝わらないって、分かりました」
――ですから。
そう言葉をつないで、アビ子はねめつけるような視線で雷田を見据えた。
「ですから、GOAさんと直接話させてください。それが、絶対条件です」
断言されたそれに、雷田は自らの顎を引く。今一度その目を瞑って、而して数秒後、彼は頷いた。
「……分かりました。そうしましたら、詳しいところを詰めないといけないので、申し訳ないんですがバックヤードの方に来ていただけますか?」
当然、それにはアビ子の方も否やはないのだろう。
望むところと言うことか、問いかけにはすぐさまに首肯して、雷田の方に向かって一歩踏み出す。
しかしそこではたと気づいたかのように、彼女はアクアたちの方を向いた。
「あ、えと。今日は、色々とありがとうございました。おかげさまで、やりたいこと、見えた気がします」
ぺこり、と頭を下げる。そのまま彼女は、対するアクアたちの返事を聞くこともなく、雷田とともにこの場を去っていった。
「アクアくん。これで、よかったのかな」
アビ子のいなくなったテーブルの上、隣に座っているあかねが、アクアに問う。
向けられた視線の中には、期待と不安が相半ばしている。
無理からぬことだ。そうアクアは思う。彼女からしてみれば、ただ単にアビ子と一緒に同じ劇を見て、そのあとに多少の会話をしただけなのだから。
しかし同時に、アクアたちに踏み込める領域と言うのは精々ここまでであるということも事実だった。あとは当事者の、大人たちの世界で、そして論理で決まることだからだ。
「まあ、俺たちにできるのはここまでだ。あとは鮫島先生と雷田さんを、信じるしかない」
あかねに説いて、アクアは視線の向き先を変える。他でもない、頼子に向かってだった。
「改めてですが。今日はありがとうございました。鮫島先生の付き添いにご足労いただいて」
「いえ、全然。私も面白い舞台が見れましたし、漫画のアイディアなんかも、浮かんできちゃったりして」
頭を下げたアクアに、頼子は茶目っ気含みに微笑んでそう返す。
「それに、アビ子先生もきっと、心のどこかでは悩んでたのよ。だから私の方からも、きっかけを作ってくれたアクアさんには感謝しなくちゃって思ってて」
「いえ、そんな畏れ多い」
向けられた感謝に、咄嗟にそう口走ってしまったアクアのことを見て、頼子はくすりと笑う。
「まあ、あの分ならきっと、うまくいくんじゃないかなって、思う。あの子をずっと見てきた私が言うんだから、大丈夫よ」
そんな励ましの言葉を聞いて、アクアは無言のうちにもう一度だけ頭を下げた。
そうであればいい。何せあれは、きっと誰にとっても不幸なすれ違いだったのだ。
絡んでいた糸を解きほぐして、アクアにとって望ましい未来を手繰り寄せることができるのであれば、それに越したことは何もないだろうから。
その後、果たしてアクアの打った手の効用が吉と出たか凶と出たかは、次の日には早々に明かされることになる。
本来なら必要とされるはずの稟議の過程すらもプロデューサー権限で吹っ飛ばし、超特急で上がってきた、「新たな脚本」によって。
「なるほど……こうなったか」
金田一がこの場にやってくるのに先立って、おそらく徹夜明けなのであろう、どこか振り切れたところのあるテンションをしていた雷田から各々が受け取った改訂版の脚本に目を通しつつ、アクアはひとりごちる。
有体に言えば、今回上がってきた脚本は、もはやこれまで想定されていたものとはほぼ別物だった。
まず目を引くのは、凄まじい量の刈り込みである。特に心情描写のための説明台詞に関しては、そのほとんどが消滅していた。
場転の際の埋め草としてどうしても必要な情景描写に関する台詞程度しか、そのあたりの部分は残っていない。
代わりに、そこにあるのは凄まじい量のト書きだ。つまり今まで心情を台詞で説明していた部分が、ほとんど全部身振り手振りの演技によって無言のうちに表現されるように置き換えられていた。
その効果は、ある意味では分かりやすい。それぞれが台詞を介さずに自らの心情を表現できれば、各々の描写に必要な時間は減る。その分、多種多様な登場人物に等しくスポットライトを当てることができるという寸法だ。
すなわちそれは、アクアたち「渋谷クラスタ」側の登場人物への書き込みの量が激増したことを意味する。ならばそれは、間違いなくアクアたちにとってはプラスの影響を持つ変化ではあった。
「今回の脚本……これなら、私の中の『鞘姫』のキャラクター理解と合ってる!」
「『刀鬼』もだな。原作のイメージからずれてない。不自然さはなさそうだ」
事実、アクアの左隣ではあかねが表情を綻ばせながら、弾んだ声を上げている。アクアからしても、そんなあかねに合わせる形で「刀鬼」のキャラクター造型を深めていけばいい分、ある意味ではやりやすい。
身体表現を余すところなく使って感情を示さなければいけないのは確かだが、それにしたって伊達に五反田監督のもとで演技の勉強をしていたわけではない。むしろこれぐらい演技力が求められる台本の方が、金田一に対するアピールができると考えれば、都合がいいとすら言えた。
まあ、唯一懸念があるとすれば、この座組の中で一人だけ厳密に言えば役者ではない人物が交ざっていることだろうか。
「けどアクア、これかなり難しい台本よ。あなた基本的にカメラ演技の人でしょう。できるの?」
「当然。演技法の訓練は、実のところ板ベースで受けてたからな、俺は。ただ……」
そこまで口にした上で、アクアは自らの右隣に立つ青年を見る。
その彼は今まさに、手元の台本に目を落としつつはっきりと顔を青くしていた。
言うまでもない、鳴嶋メルトである。
彼が手にした台本の上に存在しているのは、膨大なまでのト書きによる心情表現の指示である。そしてト書きによる指示の厄介な点は、そこにどういう感情が込められているのかを自分自身で判断して、実際にそれを身体表現として表出させなければならない点にある。すなわち、ト書きを読むと言う営みは、実質的には「行間を読む」行動を必ず伴う、とも言えるだろう。
脚本が渡されたとき、それをパラ見した上でかなが零した言葉は、故にこの本の性質をこの上なく喝破していた。
――何これ、役者に演技の内容全投げしてるじゃない。とんでもなく思い切ったことしたわねこの台本。
そう口にしたかなの表情は闘志すら含んでいて、間違いなく彼女自身のモチベーションの向上に寄与していたことは間違いない。
ただ全く同じものを、多少は演技の勉強をしたとはいえども実質的には素人から一歩踏み出した程度に過ぎないメルトがどう捉えるかなど、火を見るよりも明らかであった。
「これ、マジかぁ……」
明らかに、それは弱音だ。顔にははっきり、「この台本をこなせる気がまるでしない」と書いてある。
更にぺらぺらと手に持つ本を手繰るや、彼はへたり込むように地面に座った。
「こんなのいきなり渡されても、どうしたらいいか……」
アクアも、それには共感できる部分はある。実質的に今までの五日間の稽古はほとんど無に帰したも同然であるからだ。
しかも、残りの予定から考えれば読み合わせをし直す暇などない。今日こそ流石に半立ちから荒立ちに終始するだろうが、おそらく明日からはもう抜き稽古になるだろう。
第一、こういう身体表現を駆使した演技というのは、修練がものを言う。つまり年レベルの積み重ねだ。それが圧倒的に足りないメルトが、他の役者たちに食らいついていくのは至難の業である。
「アクアには、別にこんな演技なんてことないんだろ? いいよなぁ」
「まあ、年季の違いだな、こればかりは。演技まともにやり始めて九か月の人間に抜かれちゃ困るよ」
羨望の目で見てくるメルトに、苦笑で返す。そのまま、アクアは正面のかなを見た。
「とはいってもあれだろ? 『新宿』組は個別で色々練習やってるんだろ?」
「まーね。姫川さんが大体午後一は来られないから、夜に別にスタジオ借りて居残りしたりしてる」
「だったら……」
「ええ」
アクアの言わんとすることを理解したということだろう、かながメルトの方にすっとその目を向ける。
「アンタの大根ぶりなんて今に始まったことじゃないんだし、私たちが責任もって鍛えてあげるわよ。感謝しなさい?」
――ま、そのかわり、根性入れてついてくることね。
最後にそう、チクリと刺しながらも不敵な笑みを浮かべたかなに対して、メルトがどうにも引き攣った笑みで以て返す。
そうだ。この稽古の場は、誰もが一人ではない。一か月に及ぶ稽古の期間は、必然的に役者同士を「チーム」にする。だから確かにメルトが持っているのは厄介な懸念であっても、彼は必ずそれを乗り越えるだろうと、アクアはそう信じていた。
新たな、そして前途有望な台本を手に、稽古はリブートする。
やりがいのある仕事だった。自らの目的のことを抜きにしても、これほどの力量を持つ演者とともに同じ板の上に立てることなど、そうあることではない。
故にアクアは、自らの根底に存在する義務感の中に、確かな「楽しさ」をも感じていた。
演技をすることへの。自分の演技を誰かに届けることへの。あるいは、打てば響くような演技を見せるかなと、あかねと、そして姫川大輝という巨大な才能と、持てるものをぶつけ合うことへの。
だから、なのだろう。率直に言えばアクアは、演技にのめり込んでいた。
またそうであるが故に――そこにぽっかりと広がっていた陥穽に、まるで気がつかなかったのだ。
新たな台本をベースとした稽古が始まって五日ほど、稽古期間としては半ばが過ぎたあたり、抜き稽古による重点的な演技チェックも終盤に入る。
クライマックスの場だ。新宿クラスタと渋谷クラスタの大々的な衝突が繰り広げられ、その中では当然、アクア扮する刀鬼と姫川大輝によるブレイドのぶつかり合いも、華々しく繰り広げられる。
いよいよ始まった殺陣の稽古だ。体力に劣る面のあるアクアに考慮して、立ち稽古で使う模造刀は軽めのものを用意してもらっているが、それでも繰り返される立ち回りの稽古に、交わす剣戟の連続に、否が応にも体力は削られていく。
そして今日、この場でアクアが行う稽古の最後の場面がやってくる。
ブレイドと繰り広げる激しい剣戟の最中、横から割って入ったつるぎの一閃によって得物を弾き飛ばされ、致命的な隙を晒した刀鬼に、ブレイドはトドメを刺さんとする。
絶体絶命の境地に陥った刀鬼が覚悟を決める。しかしその刹那、一人の人物が彼らの間に割って入る。
飛び掛かるブレイドの剣閃は止まらない。その一刀は、刀鬼を庇うようにして両手を広げた『その女』を、斬り捨てる。
すなわち、鞘姫を。
少し脱線にはなるが、アクアが役を演じるときの演技法は、やや特殊だ。
例えば、黒川あかねと言う役者は、緻密なプロファイリングと天性の感性によって自意識レベルから自らの在り様を組み替えられる、異質なまでのメソッド演技の使い手である。
またもう一人、有馬かなはそれとは全く対照的な、十数年間にわたる努力によって積み上げられ、そこにもともと持っている天賦の存在感や説得力を上乗せして強化された、お手本のようなマイズナーテクニックの体現者である。
アクアは、この二人のように突き抜け切った能力はない。どれか一つを極める限りにおいては、アクアは所謂「天才」と呼ばれる役者たちには逆立ちしても敵わない。
だからこそ、アクアはどちらも使う。メソッド演技法の要領で役柄の理解と没入を行って、しかしその自分を俯瞰し、周囲の情報の入力に対して最も望ましい「反射」を、無意識の中で行えるように備える。そこに、本番においては観客やテレビの前の視聴者の視線を誘導するための、音や「間」を駆使した表現技法をありったけ盛って、自らの演技の説得力を限界まで積み増しする。これが、十二、三年ほど積み上げたアクアの、アクアならではの戦い方であった。
つまりアクアは演技の最中、その役柄においてどのぐらいの没入が必要であるかを場合場合で判断して、自分の意識レベルをある程度出し入れしている。
今回の場合、刀鬼というキャラクターは基本的には情動を内面化した、一言で言えば「クール」なキャラクターである。よってその普段の立ち回りにおいては、没入は最小限に留めて、より俯瞰した演技をするように自らを律している。
しかしこの瞬間、目の前で自分のことを庇った鞘姫がブレイドに斬られ、鮮血をまき散らしながら倒れてゆくこの場においてだけは、そしてここからの一幕全体においては、刀鬼は自らの裡に内面化されている情動を一気に表へと放出する演技が必要だ。
だからこの部分の抜き稽古の間、アクアは自らの認識を刀鬼の内側にかなり深く「潜らせて」いた。あかねほど徹底した憑依、没入とは言えぬまでも、アクアはこの一幕において、自らを刀鬼へとかなり近づけていたのだ。
真に迫った、裂帛の気合いで振るわれた
一瞬のトメの演出のあと、ゆっくりとした速度で、斬られた
その刹那、
しかし、しかしその瞬間、アクアが見た
それはきっとあかねにとって、おそらく無意識の中で作ってしまっていたのであろう役だった。自らの婚約者である刀鬼を見ているからこそ、そんな彼を守ろうとしたからこそ、彼女はその瞳に、無意識に『とある人物』を重ねてしまった。
瞳に、星が散る。纏う空気も、どこか似ていて。
そこには、いたのだ。
故に瞬間――刀鬼に深く没入していたからか、あるいは体力を消耗し、判断能力が落ちていたからなのか、アクアは抗いようもなく、一瞬で
視界が、世界が、刹那、塗り替わった。
脳裏に、いつかの光景が浮かぶ。あの日あの朝、あの場所の、マンションの玄関が。
開いたドアの向こう、腰溜めに構えられたナイフが突き出される。
叫ぼうとする。しかし声が出ない。眼前の情景に、干渉できる術は何もない。身体が動かない。指一つ。
アクアの眼前、届かないその場所で、無限に引き延ばされる時を切り裂いて、その銀色の殺意が、『彼女』の腹を刺し貫く。
音など聞こえないはずなのに、どこまでも不快な、鋼が肉を引きちぎる音が、耳にこびりつく。
抜かれた刃、後ずさる身体。間に合わなくて、駆け寄って、そのままに彼女は、尻もちをつくように倒れて。
起こらなかったことだ。そのはずだ。あの日自分は間に合ったはずなのだ。代わりに我が身が刺されたとて、あんなことは最低でも起こらなかった。
頭では理解していて、しかし引き寄せられた情動が、それを否定してくれない。
いや、違う。それはいつか起き得ることだ。あの日起きなくても、いつ起きてもおかしくないことなのだ。
手を拱いていれば、何もしなければ、あのマンションでなくとも、あの朝でなくとも。
だからそれはずっと、ずっと恐れていたことなのだ。
十年を越えて、されど片時も忘れていなかった、「可能性の悪夢」なのだ。
崩れ落ちた彼女の、母の、
自分が見ているのは現実ではない。分かっている。分かっているのに。
そこにいるのはアイではない。あかねだ。鞘姫だ。知っているのに。
現実感のかけらもない、幻夢に支配された官能の中に、嗅覚だけが、
歪んだ視覚の中央、明滅するような斑の赤に染まった世界の中に、微かに唇が動くのを見る。消えてゆく命の灯を、最期に燃やすように。
ひび割れたようなノイズが聴覚を侵して、発されているはずの音は聞こえない。
しかしそれでも、見える。分かる。識っている。
なぜならばそれは、他でもなくあの時のアクア自身が、アイに対して放ったものと、寸分違わず同じであったが故に。
その、
それを理解した瞬間、「聞いて」しまった瞬間、割れるような頭痛と、劈くような耳鳴りが、アクアの認識のすべてを圧し潰した。
気づけば、アクアの視界は横倒しになっていた。
思考が、意識が、現実に立ち返っている。そのことに、しばらく経ってから気づく。
息が上がっている。気持ちが悪い。身体に、力が入らない。
目の前に見えているはずの景色は、しかし星が散ったような輝きに覆われて、何も見えない。
声も遠い。頭が痛い。割れんばかりに。
故に、そこでやっと理解する。
――迷走神経反射性失神だ。もしかしたら、自分は本当に一瞬、気を失っていたかもしれない、と。
「――くん! 起きてッ! アクアくんッ!!」
声が聞こえる。言うまでもない、あかねの声だ。
「っ……あ、かね」
「アクアくん!?」
「アクア!」
身体が仰向けにされる。未だぼやけ、星の光に塗りつぶされたままの視界に、辛うじてあかねの顔が見える。そしてもう一人、かなの顔も。
肩に置かれた手に、どうにか動く左手を重ねた。息を呑む音とともに、あかねが大きくこちらにその身を乗り出す。
そしてそのまま、彼女は覆い被さるようにアクアに抱き着いてきた。
そのさなか、覗き込まれた瞳の奥に、ついさっきまで浮かんでいた光は、もうどこにもないはずなのに。
それでもアクアはあの瞬間、あかねの上に確かに浮かんでいた瞳の煌めきのことを、どうしても意識せずにはいられなかった。