天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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3-4. あなたは、ひとり

 それは何の変哲もない、抜き稽古の中のワンシーンであるはずだった。

 

 物語のクライマックス、刀鬼を庇った鞘姫がブレイドに斬られて致命傷を負い、彼の目の前で倒れ伏す場面。それを演じる。

 

 カラン、と乾いた音がする。鞘姫の持っていた鞘、「傷移しの鞘」が、その手からするりと抜けて、地面に落ちる音だ。

 あかねはそこから、わざとスローモーションを意識した身体の動きで、地面へと崩れ落ちてゆく。

 

 この動きは、実のところかなり筋肉を酷使する。やっていることはスクワットや空気椅子のそれなのだから、当然と言えば当然だろうか。

 その中で、あかねは身を捩ってアクアの方を見る。この一瞬、二人の間に視線を絡ませる動きは、鞘姫のキャラクターの完成度を高めるためにどうしても入れておきたいものだった。

 

 

 

 避けたかった戦いだった。しかし「盟刀」という因縁がこの世に存在する限り、その所有者――「剣主」たちの衝突は運命で、止めることはできない。自らもまた等しく、盟刀という宿業の担い手である故に、そのことは否応なしに理解できてしまうのだ。

 ならば、せめて。せめてこの「新宿クラスタ」との戦いで、誰も傷つくことのないように。刀を抜くということは、誰かを傷つけることであるのだとしても、それでも自分の目に見える範囲ぐらいは、誰も斃れてしまうことのないように。

 愛しいあの人が、誰かを殺めてしまうことのないように。

 だからこそその最後、自らの愛するたった一人の男の、刀鬼の盾になれたことを、自らの誇りに思って。

 しかしそれが故に、彼を置いて先立ってしまう自分のことが、少しだけ悔しい。

 

 ――もっと、一緒にいたかった。あなたと。

 

 そんな心情の全てを凝縮して、あかね(鞘姫)アクア(刀鬼)を見る。目に宿すべき光の意味など、一つしかない。

 果たしてその、「狂おしいまでの愛」を含んだ瞳をほんの一瞬だけアクアの方に向けて、いよいよ力尽きたように、あかねはばたりと床に倒れる。

 

 そうすれば、あとはその姿を目の当たりにしたアクアが、呆然と床に膝をつく。流れは、そうなっている。

 

 

 

 しかし、いつまでたっても彼の気配が自らの側に来ない。膝をつくどさりとした音もない。

 目を瞑っている故に、何が起こっているかわからない。

 間を持たせたいのか。いや、それにしてはいくら何でも時間が経ちすぎていないか。

 

「ストップ。……おい刀鬼。どうした、そこで突っ立って」

 

 怪訝そうな金田一の声がする。演出意図に反したということだろう、演技を止めるようにとの言葉と共に。

 あかねもまた、没入していた「鞘姫」の在り方から離脱する。目を開け、どうしたのかとアクアを見た。

 

「……おい、刀鬼?」

 

 しかし、その瞬間にあかねは気がついた。

 目の前に茫洋と立つアクアの瞳から、光が消えている。

 

 これは尋常ではない。役に入り込み過ぎているなどと言う次元の話ではない。

 今のアクアは、何か常軌を逸している。取り返しがつかないほどに。

 

「アクアく――」

 

 故にそう、あかねは声をかけようとして、立ち上がろうとして――その瞬間、ふらついたアクアはあっという間にバランスを崩して、受け身すら取ることなくその場に崩れ落ちた。

 

 

 

 アクアの頭がコンクリートの床に打ち付けられる鈍い音が、稽古場の中に響き渡った。

 

 

 

「アクアくんッ!?」

「えっ、ちょっと、アクア!?」

 

 一瞬で、血の気が引く。跳ね起きるように立ち上がり、あかねはアクアの側に身を寄せた。

 遠くの方からはかなが、同じようにして矢も楯もたまらずといった様子で駆け寄ってくる。

 

 最悪の想像が頭をよぎり、しかしすぐさまあかねの脳は急速に回転を始める。

 

 胸と腹は動いている。手を当てれば、鼓動も感じた。心停止はしていない。心室細動の、急性不整脈の兆候は見られない。

 いびきも聞こえない。倒れる寸前に、頭を押さえるような、頭痛を訴えるような行動も見られなかった。ならば脳卒中の危険性もおそらくない。いや、あそこまで強烈に頭を床に打ち付けた以上、頭部という意味ではリスクはないわけではないが。

 

 しかし、それ以上に所見がある。

 脈が速い。息も浅い。顔を見れば、彼は半ば白目を剥いて、その瞳孔は完全に開ききっている。手を握れば、指は冷たかった。

 末梢に血が通っていない。中枢に血が集まっている。急性肺血栓塞栓症、エコノミークラス症候群の可能性を一瞬疑って、流石に稽古で継続的な運動をしている今のアクアにそれは起き得ないだろうと否定した。

 つまりこれは、おそらく一時的な脳貧血か。

 

 そこまで一息で考えて、あかねはアクアの身体を無理矢理に横倒しにする。左半身を下に、回復体位を取らせた。

 そしてそのまま、強く呼びかける。

 

「アクアくん! アクアくん起きて!」

 

 そのあたりまで来れば、ただならぬことが起きているのを察した稽古場の全員が、俄かにざわつき始める。しかしあかねはそこに気を回す余裕などなかった。

 

「アクア? ちょっとどうしたのよ! アクア!」

 

 アクアを挟んであかねの対面に座ったかなが、アクアの身体を手で揺する。

 

「かなちゃん、ごめん。揺すらないで」

「あっ……」

 

 彼女の手が引っ込む。思ったより遥かに冷たい声に、言葉遣いになってしまったが、それほどに今のあかねには余裕がなかった。

 努めて、そこからあかねは声を張り上げる。名前を呼び続ける。かなもまたあかねに同調するように、アクアの名を呼びかけた。

 一時的な意識レベルの低下ならば、呼びかけ続ければ回復する可能性が高い。これで目が覚めなかった場合は、どこかをつねったりして逃避反応があるかを調べねばならないが、あかねは正直なところそんな可能性など考えたくもなかった。

 

 故にあかねは、そしてかなは決死の呼びかけを続け、果たしてそこから三十秒と経たないうちに、アクアの眉間には俄かに皺が寄る。

 焦点がどこにも合わず、混濁していた瞳に、そこでやっと力が戻ったのが、確かに見えた。

 

 目が動く。顔が。そして視線が、あかねとぶつかる。

 掠れたような声でも、確かに自らの、あかねの名前を呼んだアクアの姿を見て、あかねは安堵のあまり、気づけばアクアのことをひっしと抱きしめていた。

 

 

 

 

 

 当然にというか、アクアに対する今日の分の稽古は強制的に打ち切られた。

 その時、同時に「救急車を呼ぶべきか」とも問いかけられたが、それについてはアクアから固辞した。

 

 自分の身に何が起きたかは自分が一番よく分かっているからだ。心因性の迷走神経反射性失神で救急車まで呼ばれる理由は、どこにもない。

 無論、立っている状態から突然気絶したことで、床に無防備に倒れ込んで頭こそ打っていたが、それもいきなり真後ろに倒れたわけではなかったからか、特に外傷もなかった。

 ただ流石に、ここから何事もなかったかのように稽古に戻ることは出来なかったし、許されなかった。故にアクアは付き添いのあかねと共に、稽古場をあとにすることになった。

 

 そして同時に、今日予定されている抜き稽古のシーンとしては刀鬼の相手役としての出番しかもはや残っていないあかねの方も、その時点で今日の稽古からは外れるようにと金田一が指示を出していた。

 アクアが稽古に参加できない以上、今日のあかねにやれることはないからだ。あるいはそれは、自身の「恋人」たる人間がすぐ側でああいう倒れ方をしたのを目の当たりにした精神的ショックについても配慮されてのものだったのかもしれないが、しかしいずれにせよ、現状がアクアのせいであることには何の変わりもなかった。

 

 

 

「……ごめん、ごめんな。俺のせいで」

 

 稽古場であるBスタジオから外れた小部屋の中、アクアはぽつりとあかねに言う。

 脳貧血への対処のため、アクアは仰向けに寝そべった状態で足を挙げ、足裏を壁につけていた。

 所謂、下肢挙上の体勢だ。傍目から見ればおかしくもある姿勢だが、しかしこれが当面の状態の回復には最も効果的である。それはアクアの、と言うよりも「吾郎」の知見に他ならない。

 

 そんなアクアの姿を横目に、あかねはふるふると首を横に振る。

 

「そんなこと……気にしすぎだよアクアくん、それは、いくら何でも」

「けど、今日の稽古」

「もう!」

 

 なおも重ねたアクアのそんな謝罪は、しかし強引にあかねによって遮られた。

 寝そべるアクアの横で、足を抱え込むようにして座っているあかねの方から、腕が伸ばされる。その手に持っているミネラルウォーターのペットボトルが、額に押し当てられた。

 時は晩秋、底冷えするリノリウムの床の冷気が漸く自らの身体の熱で和らいだところにやってきた突然の冷感に、少しばかり身が震えた。

 

「今大事なのはアクアくんの方でしょ! はいお水!」

「……ありがとう」

 

 とはいえ、流石に寝そべった姿勢のままに水は飲めない。一度身体を横に倒してから、徐に身を起こす。

 

 しかしその瞬間、アクアの身には酩酊感にも似た強烈な不快感が襲い掛かる。頭から血が引いて、再び視界の半分を光輝が塗りつぶした。

 頭痛までもがぶり返して、思わず呻いてしまう。身体が、ぐらりと傾いた。そしてそれを、あかねは見逃さなかった。

 

「アクアくん!? ……ほら」

 

 清廉なる薫りが、柔らかな感触が、アクアを包む。抱き留めるようにして、ふらついたアクアの身体はあかねに支えられていた。

 

「まだ、つらい?」

 

 落ち着いた声が、気遣うような声が、聞こえる。瞬間、()()()()()()()()を押し殺して、アクアは答えた。

 

「かも、しれない。ちょっと、まだ立てなさそう。……ごめん」

「いいんだよ、気にしないで。大丈夫だから」

 

 どこまでも柔らかな声だった。こちらを案ずるような。

 

「その調子だと、ちょっと一人じゃ歩けないかな。……おうちの人に迎えに来てもらう?」

 

 しかし続けられたその言葉に、アクアは反射的に首を振った。

 

「……ごめん、それは無理だ」

「どうして?」

「それは……」

 

 されど、そこからが続かない。

 

 理由としては、この上なくはっきりしている。

 妹に、ルビーに知られたくないのだ。そして何より、アイに知られるのが一番まずい。

 

 無論、迎えを寄越すように頼めばやってくるのはミヤコだろうが、早晩それについてはアイやルビーの知ることになるのは間違いない。そうなれば、理由を聞かれる。

 ルビーならばまだいい。誤魔化しが利く。しかしアイは無理だ。無理なのだ。

 あの天性の瞳には、嘘なんて通用しない。どんな誤魔化しも取り繕いも、あっさり見抜かれてしまう。

 

 今日の顛末がなぜ起こったかなど、はっきりしている。自分が役に没入しすぎたせいで、「刀鬼」が「鞘姫」に向ける感情が、アクア自身のそれと混線したのだ。しかもその時、あかねは自らの「鞘姫」としての演技に、かつて「今ガチ」のあの事件の末に得た、「アイ」の存在をオーバーラップさせていた。おそらくは、無意識に。

 故にアクアは見事にそれに引きずられ、結果がこの体たらくである。

 

 そんなことがあったと知られようものなら、一体彼女から何を言われるか。彼女が、何を思うか。あの悪しき記憶はせっかく風化して、彼女たちは前へと進もうとしているというのに。

 故にアクアは今回のことを、絶対にアイに知られるわけにはいかなかった。

 

 しかし一方で、その事情をアクアはあかねに決して言えない。言えるわけもなかった。

 必然的に、アクアはひたすらに黙り込むしかないのだ。

 

 何とも情けない話だと、笑いたくもなる。

 ただ、あかねはそんなアクアの態度を、きっと汲み取ったのだろう。訝しげに首を傾げていたその姿勢を戻し、表情を和らげる。

 

「わかった。けど、アクアくん一人じゃ歩けないでしょ? ……私の家、来る?」

 

 そして、そんな誘いをかけてきた。

 聞くや、アクアの心臓がわずかに跳ねる。いきなりそんなことを言われるとは思ってもみなかったからだ。

 ただ言われてみれば、確かに今のアクアとあかねの関係ならば、それも一つの選択肢ではあるのだろう。

 しかし流石に、アクアとしてはその提案を是とするわけにもいかない。

 

「いや、それは流石に申し訳ないよ、君の親御さんに。……だから」

 

 故にアクアは、あかねに一つの「代替案」を話す。

 果たしてそれに、あかねは頷いた。

 

 

 

 

 

 あかねに肩を支えられるようにしてスタジオの外に出たアクアは、そのままアプリでタクシーを呼ぶ。そう時を置かずにやってきた車に乗って向かった先は、即ち五反田監督のスタジオ――兼実家だった。

 呼び鈴を鳴らし、出てきた御母堂に「先ほど連絡させてもらいましたが」とだけ伝えて、監督を呼び出してもらうよう頼む。

 そこから数分後、少しばかり迷惑そうな表情で出てきた監督は、未だグロッキー状態のアクアと、それを支えるあかねの様子に俄かに血相を変えて、そのままアクアのことを寝室のベッドの上に叩き込んだ。

 「ちょっと休めば大丈夫」とごねるアクアを「うるせぇ黙って寝てろ」と強引に押し切って、監督は部屋の明かりを落とした寝室の扉を、バタリと閉め切った。

 

 

 

 寝室に繋がる廊下の上に立ちながら、あかねはどこか「父親と息子」のようにも感じられる彼らのそんなやり取りを、ただずっと無言で眺めていた。

 扉を閉じ、「まったく」、と呆れたようなため息を一つついてから、鳶色の髪のややくたびれた風体をした壮年の男――アクア曰くの「監督」、五反田が、あかねに目線を合わせる。

 

「君は……どっかで見たな。えぇっと……ああそうだ、『今ガチ』か」

「はい。『黒川あかね』と言います。ご挨拶が遅れて申し訳ありません」

 

 すっと頭を下げたあかねに、五反田はやや狼狽したようかのようにその体を少しのけ反らせる。

 

「お、おう。ご丁寧に。『五反田泰志』だ。で、君は……つまり『そういうこと』か?」

 

 その意味を問い返すほどの野暮ではない。理解できないほど察しも悪くない。

 問われたそれに、少しだけ頬が熱くなって――しかし、同時にそれとは全く違う場所から湧き出した感情が、あかねの中の羞恥を一気に掻き消した。

 少しだけ、俯く。そして頷いた。

 

「はい。アクアくんには、本当にお世話になっています」

「……そうか」

 

 返ってきた彼の、五反田の声の響きに忍ばされた感情はきっと、あかねにとってその全てを察するにはあまりに複雑なものなのだろう。

 それはまるで本当に、アクアの「父親」のようですらあって、どうしてもあかねの胸中をざわつかせずにはおかなかった。

 

「とりあえず、座れるところで話、するか」

 

 口元を少しだけ緩めるようにして、彼はあかねにそう持ち掛けた。

 

 

 

 季節は冬に差し掛かって、すっかり落ちるのが早くなった陽はすでに東京のビル林の向こうに隠れている。

 紫紺に染まり、一日の終わりを予感させる宵の風景を窓に描くリビングの中、あかねと五反田は向かい合っていた。

 

「あー……ちょっと、『これ』、いいか」

 

 言って、煙草を吸ってみせる真似をした彼に頷く。五反田は掃き出し窓を開け、ベランダへと出て行った。

 晩秋の夜風が吹きこみ、それが少しばかり肌寒い。咥えた紙たばこにライターで火をつけて、彼はあかねを一瞥した。

 

「あいつ、今日何があった」

 

 そして、問うてくる。当然の質問だった。故にあかねは今回のことに至った経緯を、つぶさに説明する。

 抜き稽古とはいえ、今日はクライマックスのシーンを中心に金田一がチェックしようとしていたから、アクアは午後一からずっと、ほとんどエンドレスで稽古を続けていたこと。

 その最後の最後、あかね扮する鞘姫が彼の目の前でブレイド、つまり姫川大輝に斬られ、致命傷を負って倒れる一幕の稽古に至ったときのこと、それを目の前にしたアクアから突然反応がなくなって、そのまま意識を失って倒れたこと。

 あかねの見立てでは、それは「役に没入し過ぎたことによるパニック発作」だと思われること。

 

 その一部始終を聞いたあと、五反田は何かを堪えるように瞳を閉じた。

 

「なるほど、な」

 

 そう言って、更にもう一度煙草を吸う。

 あかねから顔を背け、ベランダの向こうに紫煙を吐き出して、改めて彼は大きく息を吐いた。

 

 

 

「始めに言わせてもらうが」

 

 そう前置きして、彼は言葉を口にする。

 

「アイツに演技を教えたのは、俺だ。だから俺は、アイツの演技のやり方みたいなものも、当然知ってる。その上で、だけどな」

 

 ベランダに身を預け、五反田は断言した。

 

「アイツは、そんなヤワじゃねえ。役の中に多少入り込んだ程度で、いちいちパニック起こしてひっくり返ったりなんかしねぇんだ」

 

 吸っていた煙草を、まだ半分にも達していないのに、携帯灰皿にねじ込む。そして早々に、彼は部屋の中へと戻ってきた。

 

「最低でも俺は、アイツがそんなことになるのを見たことがない。が」

 

 そこまで言って、どかりとソファに腰掛ける。あかねの対面に位置しているそこから、五反田はあかねの方に身を乗り出した。

 

「えぇっと、黒川さん、だったか? さっき、ちょっと気になること言ってなかったか。『アイツが午後一からほとんど出ずっぱりで稽古してた』、とか」

「あ……はい。そうです。今日の稽古、アクアくんが出るところを中心にずっとやっていて……」

 

 問われ、あかねは頷く。それを見るや、五反田はあかねの正面で腕を組んだ。

 

「そう、か。……なるほどな」

 

 そして漏らした声には、どこか納得のような響きまでもが、含まれていた。

 

「何か、あったんですか?」

「いや、まあ、なんと言うか、だな」

 

 あかねの当然の問いに、一瞬だけ五反田が逡巡する。しかしその末に、彼はどこか諦めたように項垂れて、そしてあかねの方に視線を戻した。

 

「……下世話なことを聞くけど。黒川さん、アイツの『カノジョ』ってなら、アイツの裸とか、見たことあるか」

「……ぇ、えぇぇっ!?」

 

 直後に放たれたのは、そんな突拍子もない台詞で、だからあかねは思わず飛び上がるような反応を見せてしまう。今度こそ、紅潮する自分の頬を止めることはできなかった。

 何を言うのか、この人は。反射的にそう思って五反田の方を凝視する。

 

 しかし、だからこそ気づけた。彼の目は、表情には、あかねを揶揄うような含みなどない。台詞とは裏腹に、五反田はどこまでも真面目な態度で、あかねにそれを訊ねている。そのことを理解させられた。

 故に、あかねはただ無言でぶんぶんと首を横に振る。そうか、と五反田の呟く声を聞いた。

 

「まあ、けどこれぐらいは、いずれ知ることになるだろうしな」

 

 そんな前置きをしてから、彼は話し始める。

 

「……アイツ、右の腿の付け根のとこな、でっかい傷があるんだよ。傷跡っつうか」

「傷跡……やけどの跡、とかですか」

「うんにゃ、違う」

 

 あかねの言うことに首を振って、そこで見せた彼の表情は、そこから語られるアクアという人物の来歴を、きっと象徴していたのだろう。

 

()()()()()()

 

 ひっ、と音がした。他でもない、あかね自身の喉からだった。

 

 

 

「アイツがガキんとき……いやまあ別に今だってアイツはガキだが、十年とちょっと前のことな。確かアイツが……四歳ぐらいのときだったか。まあ、でっかい事件に巻き込まれて」

 

 そう語る五反田の声は、どこか「言っていいことといけないことを選別している」かのようだった。

 あかねは、それにデジャヴを懐く。同じようなことは、時々アクアの方もしているような。

 

「巻き込まれたっつぅか。被害に遭ったっつぅか。アイツ、妹の前で刺されてな。()()()()()でっかいナイフで、右脚を」

 

 手でサイズを見せながら、五反田が語る。

 目測で十五センチから二十センチぐらいだろうか。子供の脚の太さを考えれば、貫通してもおかしくないほどの長さだ。そう、あかねは直感する。

 聞くだけで、あかねは具合すら悪くなりそうだった。

 

「脚の動脈やられなかったのは、運がよかったんだろう。まあ、死にかけたのは確かなんだが、どうにか生き残った。けど」

 

 五反田が目を瞑る。その時のことを思い返しているのだろうか。

 

「まあ、刺された傷自体は別に問題なかったんだが……血がな、流れ過ぎたとかなんかで、結構寝たきりだったらしくて。それでアイツ、一年ぐらい病院の世話になっててな。リハビリとか、なんとかで」

 

 そうだろう、とあかねは思う。たとえ動脈が損傷していなかったとしても、太い静脈が何本も走っている太腿をそれだけの大きさのナイフで刺し貫かれれば、大量出血に至るのは当たり前だ。

 まして五反田曰く、当時のアクアは四歳の子供である。死に至らなかったのは、本当に奇跡だったに違いない。

 

「まあそれで。俺も医者じゃねぇから詳しいことは分かんねぇんだけどよ。まあ、アイツ四歳から五歳ぐらいの一年と少しの間、全然まともに運動できなかったらしい。で、それがなんか悪さしたらしくてな。……黒川さん、アイツが体弱いっつぅか、あんま体力ねぇの知ってるか」

「はい、それは。今回のお芝居の前、アクアくん『身体鍛えなきゃ』って言ってて」

「……そうか」

 

 痛ましい、とすら表現すべき表情を浮かべて、五反田が項垂れる。首をふるふると振って、言葉が尚も続いた。

 

「まあ、黒川さんの知っての通りだ。アイツは体力がない。黒川さんの言うことを聞く限りじゃアイツも分かってて鍛えてはいたんだろうが、やっぱり他の、普通の高校生男子に比べりゃ圧倒的に疲れやすいことに変わりはない」

「じゃあ、アクアくんが倒れたのは疲労、ということですか」

「それもある。が、それだけじゃねぇだろうな」

 

 彼が、自らの口元を歪める。それは皮肉にか、或いは別の意味が籠っているのか。

 

「体力がなくなるってことは、咄嗟の判断力が落ちるってことだ。黒川さんの話を聞く限りじゃ、多分その稽古、アクアはかなり役の中に没入(はい)ってたんだろう。で、クライマックスのシーンの稽古の時にゃ、ほとんど体力が残ってなかった。そこに、黒川さんが斬られる内容の演技が入った」

 

 そこまで話されれば、なんとなく事情は察せられる。

 

「役に没入し過ぎて、自分の感情と役の感情の区別がつかなくなって、そこに(鞘姫)の斬られる演技が入ったことで、アクアくんの子供の時の体験がフラッシュバックした、とかですか」

 

 故にあかねはそう自らの推測を話す。

 そしてそれに五反田は、わずかの間を置いてから、頷いた。

 

「……まあ、そういうこったな」

 

 

 

 話は、そこで切り上げられる。五反田はあかねに対して、「ちょっと様子を見ててやってくれ」と言い残し、自らの書斎に入っていった。

 

 

 

 常夜灯のぼんやりとした明かりが、辛うじて調度品の影を映し出す。そんな寝室の中、あかねはベッドの上で目を閉じ、静かな寝息を立てているアクアの横で、物思いに耽る。

 

 ――アイツ、こっちが気をつけてやんねぇと何も言わねぇし、無理すんだよ。だからアイツが起きようとしてても、二時間ぐらいは寝かせといてやってくれないか。

 その去り際、五反田の言っていた言葉をあかねは思い出す。

 確かに、それはそうなのかもしれない。最低でもあかねが知るアクアは、誰かに対して自らの弱いところを吐露するような人間ではなかった。

 

 彼のことを、きっとよく見ているのだろう。アクアが「俺にとっての『師匠』」だと評し、また五反田の方も「アイツに芸を仕込んだのは俺だ」と公言して憚らない関係は、アクアの言うことが正しいのならば、十年以上にも及んでいるのだから。

 本当に、それは「父と息子」のようで、しかし故にこそあかねは気づく。

 

 ついさっき、あかねが五反田に対して問うたこと。「アクアが倒れた理由は、疲労によって必要以上に役柄に引きずられてしまった故の事故だったのか」というあかねの推測に、彼が見せた反応を。

 その時の彼の一拍の反応の遅れは、あかねにとってはそれだけで致命的なものだった。

 

 あかねは、見抜いてしまった。あれは、嘘をついている。正確に言えば、本当のことを言っていない。

 傍証だってある。今回のような抜き稽古に入る前、荒立ち稽古で一通りの動きを確認した数日前、アクアとあかねはあの鞘姫が斬られる一幕を、同じように演じていた。

 

 荒立ちとはいえ、本気も本気だ。アクアはしっかりと「刀鬼」を作りこんでいたし、あかねもまた自分の中に「鞘姫」を抱え込んでいた。鞘姫になっていたのだ。

 更にはその直前、アクアは姫川大輝と殺陣を繰り広げていた。小道具ではなく台本を巻いて刀に見立てたものであったとはいえ、それでも激しい動きを伴う剣戟の応酬であったことには変わりない。アクアの筋力や体力のことを思えば、かなりの消耗であったに違いない。

 しかし、その時は何も起こらなかった。アクアは「刀鬼」の演技を全うした。

 鞘姫が致命傷を負って倒れ伏したあと、彼は呆然自失に膝をついた。生きる気力すらも、失ったように。しかしブレイドに挑発されたことで激発し、ブレイドへの、或いは『渋谷抗争』という争いそのものへの憎悪を、そして自分自身への後悔と嫌悪を燃やして、本能のままに、獣のような動きでブレイドに文字通り喰らいつく。

 そんな痛々しさすら観客に感じさせるような、迫真の「刀鬼」の姿を、見事に演じてみせていた。

 

 前提条件は、ほとんど変わらない。なのにあの時、あの抜き稽古の一幕においてだけ、何故アクアはああなったのか。

 

 あかねは、その答えを一つだけ持っていた。

 何となれば、荒立ちの時と今回とで、明確に演技プランに差分を作っていたのは、他でもないあかね自身であるのだから。

 

 

 

 以前、あかねはアクアという青年の在り方について、考察をしてみたことがある。

 それは今ガチが終わってからしばらく経った時のことだ。お試しとは言え「彼氏と彼女」の関係になったことで、アクアという人間の為人を理解したいと考えたからだった。

 

 何か一つ道が違っていれば、あの歩道橋で命を落としていただろう自分を、そうでなくとも、女優としての未来は絶たれてしまっていたかもしれない自分のことを、何の打算もなく救ってくれた。

 ずっとお世話になっていたとはいえ、客観的に見て待遇としてはあまりよくはなかった事務所のことで、彼にとっては何の得もないであろうに、契約の見直しの後押しまでしてくれた。

 そして、言葉には到底できない、有馬かなとの関係性のことも。

 

 受けた恩は、あまりに多い。しかしなぜ、彼はここまでしてくれたのか。そこまでのことができるのか。それを、知りたかったからだった。

 

 

 

 彼氏彼女の関係としていくらかの時を過ごせば、その人の振る舞いにおける癖と言うのは、ある程度見えてくる。「なくて七癖、あって四十八癖」とも言うのだ、その人らしさと言うのは、日常のふとした動作に滲み出てくる。

 そしてその中で、あかねは気づいた。

 

 アクアは、何かあるたびに周囲のことを気にする癖がある。ほぼ無意識的に、彼は自身の周囲に目を配るのだ。しかもかなり頻繁に。

 おそらく、それは彼自身も自覚はないであろう行いだ。それぐらい、彼の日常における動作の中には、周囲を見渡そうとする行動が自然に組み込まれている。

 

 特異な行いであることは確かである。そしてその理由を、あかねは理解することができてしまっていた。

 本来想定される発達段階から考えて、不相応なまでに成熟している精神も、周囲のことに過剰なまでに気を配ろうとするその視野の広さも、視座の高さも。

 

 ――アクアは、アダルトチルドレンである。それが、あかねの彼に対する見立てだった。

 

 自己肯定感が低く、責任感が強く、内心を隠したがり、誰かのために手を差し伸べることをやめられない。

 どれもこれも、アダルトチルドレンの類型に強く当てはまっている。特にその中で、世話焼き(イネイブラー)と呼ばれるタイプが、彼のパーソナリティには最も近しいだろう。

 

 アダルトチルドレンは、機能不全の家庭で生まれ育った子供に多いと言われている。

 しかし、彼の話を聞く限りにおいては、彼の妹のルビーからは、特にそのような傾向は見られない。性格は天真爛漫、誰からも愛されるような人当たりの良さを持っていて、家族からは十分な愛情を受けて育っていることを、それは強く物語っている。あかね自身、あのJIFにおけるB小町のファーストライブの只中で、「ルビー」というアイドルが振りまき続けている巨大な感情の湧き出す元が、そういう恵まれた家庭環境にこそあるのだということを、強く印象付けられていた。

 

 なら、兄妹で家庭における境遇が違うのか。例えば、アクアが継子であるとか。

 そんなわけはない。ルビーとアクアは双子なのだから、二人は確実にその血を分けた兄妹には相違ない。

 

 ならば、答えは一つだ。つまり彼は家族の中で、必然的に父親役を務めなければならなかった。だから、彼だけがそういう育ち方になった。なってしまった。そういうことなのだろう。

 

 

 

 そして今、そんなあかねの彼に対する見立てと、今日のアクアの身に起こったこととの間で、一つの線が繋がった。

 

 今日、あかねが自らの演技プランに取り入れたのは、今ガチの際にアクアから言われて身に着けた、母性を宿したアイの情動であった。メソッド演技として自らの感情を呼び起していく中、「鞘姫」が「刀鬼」に対して懐いたであろう、「身を捧げるほどに強烈な愛」と同じ質量を持った感情としては、今ガチのあの事件が起きた後、アイの生涯を追体験していく中で獲得した「狂おしいほどの母性を内包した愛」こそが、最も相応しいものであると考えたからだった。

 

 その瞳を向け、彼に自らの死にゆくさまを見せたことで、彼はそんなあかね(アイ)に引きずられ、昏倒するまでに至ってしまった。意味するところは、それだけで半ばはっきりしたようなものだろう。

 更にそこには、五反田から聞いた追加の情報までもが結びついていく。

 

 彼が四歳のころに、巻きこまれた事件。その中で彼が負った刺し傷。

 四歳と言うことは、つまり十二年前だ。そして十二年前のアイは、二十歳である。あのドームライブがあった年だ。

 

 あかねは当然に、知っている。そのドームライブが終わった次の日、「実はアイはその日の早朝、辛くも生還したものの、自宅のマンションにおいて何者かからの襲撃を受けていた」、というニュースが出回ったことも。

 事件そのものはもはや完全に風化していて、故に今や思い出す者などほとんどないであろう。それでもあかねは、アイにまつわるあらゆる資料を収集していた関係で、そのニュースの存在をも必然的に認識していた。

 

 アイが巻きこまれた襲撃事件と、その同じ年に起こったアクアの事件。

 『アイの死』を彷彿とさせたあかねの演技に、あれほどの反応を見せた彼の姿。

 苺プロの社長夫妻、斉藤壱護と斉藤ミヤコが、最低でも戸籍上は両親であるにもかかわらず、芸名として頑なに自分たちの名字を明らかにしようとしないアクアと、そしてルビー。

 それだけではない。『アイの名字も、また等しく公表されていない』のだ。

 

 

 

 アイに対するプロファイリングをしたあの日、ほとんどゼロに近いものとして棄て去っていた「恐ろしい可能性」が、今やあかねの背後には、ひたりと追いついてきていた。

 いや、それよりもなお、彼の身に起きたことの残酷さは、何倍も大きく、そして重い。

 

 もはやあかねは、その可能性をほぼ確実視していた。状況証拠があまりに揃い過ぎている。彼の言動、アイの言動、そして彼らの事情を知っているであろう五反田の言動、その全てに整合性を取ろうとした場合、それ以外に納得のいく仮定など存在しない。

 

 ――アイの隠し子とは、すなわちアクアとルビーの二人だ。

 ――そして彼は、アイのドームライブの当日の早朝、おそらくはアイを庇うような形でその身にナイフを受け、生死の境を彷徨った。

 

 もはや「設定」などと言って誤魔化すことなどできはしない。それはほぼ確実に、彼の身に起こったことなのだ。

 

 故に、かの事件が起きてより先、彼はアイとルビーと自らの三人の家族の中で、「自分が母親と妹を守らなければならない」と使命づけてしまった。そうせざるを得ない何かが、事情のようなものが、恐らく彼にはあった。

 

 彼は、大人にならざるを得なくなった。そうしなければ、家族を守ることなどできなかったから。

 大人になるために、周りをよく観察するようになった。もう二度とあんな事件を起こさないように、守るべき家族の周囲に怪しいものがないか、見張るためにも。

 結果として、彼は誰に対しても助けの手を差し伸べるような人間になった。そういう生き方を、せざるを得なくなってしまった。

 

 そして今も、彼は一人で戦っている。彼にとっての、たった二人の家族のために。母親と、妹のために。

 

 

 

 だからなのだろう。アクアは、本当に自らの弱いところを見せようとしない。内心をほとんど明かさない。クールさの中に優しさを忍ばせて、常に「理想の大人」であり続けようとしている。

 しかしそれでも、あかねがアクアと今のような関係になってから、アクアはあかねに対して、時折その表情を変えるのだ。「何かを堪えるような表情」をするのだ。「後ろめたさを抱えたような表情」を。

 その理由も、分かってしまった。なぜアクアが、あかねと「お試しカップル」のような関係で、結びつきを持とうとしたのかも。

 

 あかねが、アクアに言ったからだ。「アイに隠し子がいる」と言う設定の話を。

 自分たちが絶対に隠さねばならない秘密に近づいた女だ。野放しにはできない。囲い込む必要がある。危険だからだ。

 もしあかねがアクアの立場であったとしても、そうしただろう。そしてそのことを、アクアはずっと気に病んでいる。彼があかねに時折向ける表情の裏にあるのは、他でもない罪悪感だ。

 そんな事情を、あかねにどうしても伏せなければならないのにも拘らず、その上で自らの傍に縛りつけている、そうせざるを得ない自身への、強烈な自己嫌悪なのだ。

 

 

 

 気づけば、あかねは両の手を強く強く握りしめていた。爪が掌の皮膚を破ってしまいそうなほどに、強く。

 視界が、滲む。こみ上げる感情は、憤懣にさえ似ていた。

 あかねには分かる。理解できてしまう。そうやって育ったアクアは、そうやって大人にならざるを得なかったアクアは、それ故にもはや誰をも本当の意味で頼ることなどできないのだ。

 本心を明かし、胸襟を開いて、信ずるに値する誰かに自分を委ねる。そんな「脇の甘い」ことを、彼は己に対して決して許しはしないであろうから。

 

 そしてもし、そうであるのならば。

 あれほどに、あかねに対しても、有馬かなに対しても、「君は一人ではないのだ」と、それを示すために心を砕いてきたというのに。そんな彼の姿を、あかねはずっと見てきたというのに。

 でも結局、一番孤独なのは、他でもない()()()()()ではないか。

 

 

 

 目の前で静かに眠る少年に、目を向ける。閉じられた瞼の中にあるはずの蒼き光宿す瞳を、想起する。

 彼はきっと、次に目を覚ました時も、何でもないように振舞うのだろう。

 起き上がり、こうして己の傍に座るあかねを見て、こんな自分に付き合わせてしまったことを、謝りさえしてみせるのだろう。

 

 自分がそうなった原因のことなど、おくびにも出さずに。

 自分の囚われている孤独など、抱えている困難など、最初から存在していないかのように。

 

 ――なんて、惨い。

 荒れ狂う胸中を、歯を食いしばって押さえつける。

 今のあかねは、どこまでも無力だ。そんな彼のことを理解して、しかし自分には何一つ出来ることがない。

 あかねの捻り出せる如何なる言葉も、きっと彼には響かない。「私はアクアくんの味方だ」などと伝えても、アクアには何一つ届きはしないのだろう。

 

 届かないのは、言葉だけではない。たとえあかねが自らの身体の温もりで彼を癒そうとしても、それさえも彼の心を徒に傷つけるだけだ。

 なぜなら他でもなく、あかねを側に置いていることそれ自体が、彼にとってはきっと許されざる罪科なのだから。そう、認識してしまっているのだから。

 

 でも、分かる。あかねには分かってしまう。

 その先にあるものは、予定調和の如き破綻だ。そんな罪悪感を抱え、自分以外の誰をも信じることができず、ただ孤独に、世界の全てを自らの背に負うほどの覚悟で先に進もうとしているアクアは、しかしいつか必ず、その重さに耐えきれなくなる。

 そうなれば、彼の心は壊れてしまう。

 

 どうにかしたい。彼に命を救われて、未来を示されて、これほどまでに恩を受けているのに。そんな彼が何一つ報われることもなく、ただ零落していくさまを傍観するしかないなど、受け入れられるわけがない。

 ……いや、そんな理由など何もいらない。理由などどうでもいいのだ。

 そんなものがたとえなくとも、もはやあかねはアクアのことを放ってなどおけはしない。

 

 ――なんでもいい。私は、このどうしようもなく優しくて、なのにどこまでも孤独なアクアという青年のことを、助けたいのだ。今度は、私が。

 

 

 

 強く、目を閉じる。零れてしまいそうになる涙を、強引に押し留めた。

 

 涙を流してはならない。彼に悟られてはいけない。

 今までのあかねの在り方を、すぐに変えるわけにはいかない。

 しかし同時に、あかねは決めた。

 

 少しずつだ。一歩ずつだ。彼の内側に入り込む。外堀を埋めるでもいい。

 彼に、自分のことを身内だと思ってもらえるように。遠回りであったとしても、それ以外に道はないのだから。

 そして、いつか彼の重荷を共に背負おう。それができる自分に、きっとなってみせよう。

 

 

 

 静かに、あかねは目を開く。ほぼ時を同じくして、少しばかり身動ぎする仕草と共に、アクアもまた目を覚ました。

 茫洋とした視線が宙を彷徨い、その果てにベッドサイドに座るあかねの上に焦点が結ばれる。

 しばしの無言、沈黙を経て、目の前の青年は、アクアは掠れた声で口を開く。

 

「……あ、れ。あかね?」

 

 戸惑いを含んで放たれたそれに、あかねは微笑んだ。

 微笑んで、ただ一言だけ声を発した。

 

「うん。おはよう、アクアくん」

 

 その声の響きの中に含ませた心情のことは、きっとあかねだけが知り得るものだ。

 

 それでいいのだと、今はいいのだと、ただそう、あかねは考えた。




原作と異なり、アクア(とルビー)は自分たちの名字を公表していません。これはアイが生きていることで、家族バレのリスクを軽減させるために二重の対策をかけているからです。

よって本作では、原作において「星野」とアクアを呼んでいた人物の呼称が変わります。
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