天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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3-5. 後悔など、要らないから

 ふと、目が覚める。鮮明になっていく意識が、アクアに覚醒を強いた。

 惚けている認識も等しく、急速に正常になる。果たして、暗がりの中かすかに見える部屋の掛け時計に、アクアは今の時刻が寝入った時より一時間半ほど経っていることを知った。

 

 監督に、半ば押し込められるようにして寝かされたベッドから身を起こす。

 ベッドサイドの椅子には、あかねが座っていた。アクアが寝ている間に、見舞いに来てくれていたということか。

 声をかけたアクアに対して、返してくる彼女の見せる微笑みは普段のそれと微塵も変わることなく、しかし自分の体たらくに彼女の貴重な時間を使わせてしまったことには、どうにも申し訳ない思いがしていた。

 

 あかねが言うには、監督はアクアのことを「二時間ぐらい休ませておけ」と言っていたらしい。「それまでアクアが起きようとしても、強引にでも寝かせておけ」と。

 五反田監督らしい言い草である。ただ一方で、もしそうだとするなら、アイとルビーには帰りが遅くなることの連絡が必要だとアクアは考えた。

 何せ今だって、もう時計は十九時を回っている。いつもの稽古のスケジュールなら、そろそろ稽古場を出ている頃だろう。アイやルビーに口を酸っぱくして言われている帰宅の定時連絡をすっぽかせば、何を言われるかわからない。

 

 アクアの持っていた荷物の類は、ここに着いたタイミングで五反田監督に半ばひったくられるような形で回収されていた。恐らくは、リビングにあるだろう。無論、スマホも含めてである。

 だからアクアはそのあたりの事情を口にしつつ、ベッドから立ち上がって部屋から出ようとする。しかしあかねが、そんなアクアのことを両の手でやんわりと押し留めた。

 

「それは、大丈夫。監督さんの方から、連絡してるって」

「監督が? ミヤコさんにか?」

 

 黙って、首が縦に振られる。

 どうにも釈然としないが、あかねが頷いた以上、そうではあるのだろう。そんなところでアクアを騙す必要性は、彼女にはないだろうから。

 

「だから、さ。ちょっとだけ、お話しようよ。あと三十分ぐらい」

 

 アクアの内心を知ってか知らずか、こちらに視線を向けたあかねが、今ひとたび小さく笑む。

 どこまでもいつも通りに、まるで何もなかったかのように。

 

「……そう、だな」

 

 そして、そんな彼女の在り方にどこか救われる自分がいることも、また確かだった。

 

 

 

 そのあと、アクアはあかねと本当に他愛もない歓談に興じていた。

 話題の中心は、やはりと言うか「新生B小町」のことだ。アクアの妹たるルビーが、そしてあかねと一言では表せない関係にあるかなが、ともに参加しているユニットなのだから、ある意味では当然のことだろう。

 

 なんだかんだで、あのJIFのライブ以降、あかねもB小町の動向を追っているらしい。彼女たちのネット配信は結構な割合で見ているし、テレビの方もまた、ゲストの形で呼ばれることが増えてきたバラエティ番組さえ、あかねはチェックしているという。

 驚かされるものがあった。女優業一本でやっていることをある種誇りのように思っているであろうあかねにとって、完全に「マルチタレント」の方向に舵を切りつつある今のかなのことを、快く思っていなくとも不思議ではないと考えていたからだ。

 

 ならばそれは、意識の変化だろうか。あのJIFの日に、何かあかねの心中において画期があったということなのだろうか。

 いずれにせよ、インターネット空間と従来のメディアのどちらでも少しずつ確実に存在感を主張しつつある彼女たちB小町の躍進は、彼女にとっても決して悪いものには映っていない。それは、間違いのないことだった。

 

「そういや、ウチの社長が言ってたけど。東ブレの舞台が終わってかなの身体が空き次第、ワンマンやるんだってさ。B小町の」

「ワンマン……ってなんだっけ」

「え? ああ、『単独ライブ』のこと」

 

 その証拠にと言うか、アクアの話題提起に、あかねは飛びつく。

 

「ほんと!? もうそんななんだ」

「ああ。東ブレ終わって年明けてってことだから、多分二月か三月。二千人クラスのハコだって」

 

 ひえぇ、と感嘆の声が上がった。あかねからだ。

 アクアも同感である。デビューが八月だったことを考えれば、そこからわずか半年という凄まじく短い期間で、新生B小町はすでに二千人レベルの収容客数を誇るイベント会場で単独ライブが挙行できるほどのファンを抱える存在へと急伸している。

 げに恐ろしきは壱護社長の手腕と言うべきか。しかしそれにも増してきっと、ルビーたち三人のタレント性、スター性と言うものも、きっと大きく作用しているのだろう。

 

 着実に、と言うには些か以上に速いテンポではあるが、それでもルビーは、我が妹は、自らの心に抱いていた夢の路を、確かに進めている。

 アクアにとってみれば、それに勝る喜びと言うのは、きっとないのだろう。そう、思わされていた。

 

「それと……まああかねは半分『B小町』の身内だし、ここだけの話だけど」

 

 故にアクアは、更にもう一つのニュースまでもを口走る。

 

()()、出すらしい。しかも三曲。まあ、ライブするにしたっていつまでも十年とか二十年とか前の『先代』の歌ばっかりというわけにはいかないから、当たり前っちゃ当たり前だけどさ」

 

 言って、アクアは口の端を吊り上げた。

 

「新曲……」

「ああ。そうすればアイツらも、そろそろ一端のアイドルって言っていいのかもしれないな」

 

 だろう? とばかりに無言のままにアクアが問えば、あかねもまた黙って、しかし笑顔で頷く。

 

 アクアの身に今し方起きたことを考えれば、これは逃避にさえ近いのかもしれない。けれども今のアクアにとって、ただ自らの妹の、ルビーの先に広がる輝かしい未来の話だけを彼女と共有できる時間というのは、それだけで心が安らぐものだった。

 だからそんな二人の間の時間は、暫くの後に五反田監督がアクアのことを起こしにやってくる時までずっと続くことになった。

 

 

 

 

 

 その後、結局アクアは五反田監督の家で夕食すらもお世話になることになってしまった。どうやら監督自ら、ミヤコに対してその旨の連絡を入れたらしい。きっと彼女経由でアイとルビーには、今日の顛末がいくらかぼかされる形で伝わってはいるのだろう。

 いや、それよりもアクアが驚いたのは、今日の五反田家の夕食のためのキッチンに立っていたのが、あかねであったということだった。

 どういうつもりだと五反田監督を問い詰めようとしたところで、当のあかねがその訳を話した。

 

 ――今日、アクアくんがお世話になったし、私も色々監督さんからお話聞けたから、お返ししたくて。

 

 そんなことを言われてしまえば、流石にアクアも彼女の手伝いをしなければならないだろう。そう思って台所に立ち入ろうとしたところを、しかしこれもまたあかねにやんわりと断られた。「病み上がりみたいなものなんだから、じっとしてて」、と。

 気を回し過ぎだ。そう思ったが、ただそれもまたあかねのあかねらしさであり、彼女のいいところなのだ。ならばアクアには口を挟める部分はない。大人しく食卓に座って待つより、他にはなかった。

 

 

 

 斯くしてアクアは彼女が手ずから拵えた夕食に気後れするところはありつつも舌鼓を打って、そしてその帰り際、あかねと連れ立って五反田監督の書斎にやってきていた。

 理由は、一つだ。

 

「で、早熟。お前これからどうする」

 

 書斎の椅子に座った五反田監督が、そんなどこまでも単刀直入な問いを、アクアに向ける。

 意味するところは、はっきりしていた。

 

 あかねによる「鞘姫」の演技プランを完遂するには、おそらくあの場面、ブレイドに斬られ、自らの盟刀「桜花」とその鞘「傷移しの鞘」を手放しながら崩れ落ちてゆくあのシーンにおいて、感情の表現に「アイ」の成分を使うのは外せない要素だ。

 確かにあの演技は、舞台の上ではどこまでも効果的だったからだ。客観的に見て、あの瞬間に観客の注目を一気に引きつけつつ、「刀鬼」への強烈な愛情を表現するのに、あれ以上の方法はない。

 ならばそれに対する己が、彼女の「アイ」の演技に耐えられるようにならなければならない。

 

「方針はいくつか、ある。……あの瞬間だけ、『没入』の深度を浅くするとか」

「できるか? お前それ」

 

 間髪入れず問い返されたそれに、俯く。

 言われずともわかる。おそらくは厳しいだろう。アクアも「刀鬼」の役柄を板の上に再現するためには、あのシーンにおいて最も強烈な感情表現を求められている。

 その始点は、「鞘姫が斬られた瞬間」だ。正確には、そこのトメ演出からである。だからアクアはその時点で、演技プランとして「刀鬼」への没入を最大化させる必要があった。

 それを、鞘姫から視線を向けられた一瞬だけ、急に浅くするなど不可能だ。現実的ではない。

 

 無言で首を振ったアクアに、「だろうな」と監督が頷く。すぐさまに、指を二本立てた。

 

「俺としちゃ、提案できるのは二つだ。一つは、純粋にもっと体力をつけること」

 

 人差し指を立て直し、彼は言う。

 

「疲れてっと、役者ってのはある種トランス状態になっちまうからな。もともとだいぶ深く潜ってる所にそれが合わさると、思いっきり引きずられる。だからそうならないように、もう少し体力的に余裕を持たせようって話だ」

 

 なるほど、正論である。そして地道でありながらも、成算の持てそうな提案ではあった。

 しかし彼に言わせれば、それは前座でしかないらしい。もう一つの方が本命だとばかりに、監督は二本目の指を立てる。そして、口を開いた。

 

「もう一つは、『慣れること』だ。何遍も何遍も、同じ状況で同じ演技をやって、耐性をつける」

 

 アクアが、そしてあかねが息を呑む。

 間髪入れず、あかねから反駁が飛んだ。

 

「監督さん、それは……アクアくんの負担が大きすぎます」

「そうかもな。けど、俺としちゃそれしかないと思うぜ」

 

 わかっているんだろう? そんな含みすら持たせた問いに、今度はあかねが俯く。

 

「人間、どれだけハードなトレーニングをしても限界ってもんはあるし、稽古に穴空けるほどやったら本末転倒だ。ドーピングでもすりゃちったぁ話は違うかもしれねぇが、それはそれでちょっとどうなんだって話だしな」

 

 「ドーピング」などという物騒な言葉が彼から出てきたことに、隣に立つあかねが肩を震わせたのが見えた。

 正直なところ、それはアクアも同じだ。今更ながらに自分の身体能力のことを俯瞰して、五反田にそこまでのことを思われていたことに、少しばかり衝撃を受けているのも事実だった。

 しかしそんなアクアたちの思いをよそに、監督は話を続ける。

 

「まあ、そもそもだ。嬢ちゃんは分かってると思うが、ぶっちゃけ本番の負荷ってのはもっとキツい。役者は本番なんて、体力限界なところをアドレナリンキメてやり通してるみたいなもんだしな」

 

 あかねに向けていた目線を、五反田監督はアクアへと戻す。

 

「そりゃ、体力はつけとくに越したこたぁない。けど、根本的にお前の今の問題をどうにかするには、それしかねぇと思うがな」

 

 ――後悔、したくねぇんだろ?

 続けられたそれは、まさしくいつかアクアがあかねに言ったことと寸分違わず同じものだった。

 

 

 

 その通りだ。今回の舞台の仕事に当たって、アクアには失敗など許されない。

 

 本来、演技というのは客の方を向いてすべきものだ。今回の舞台を見に来てくれた観客に満足してもらうことこそが、役者としての本分ではある。

 しかし今のアクアにとっては、明確にそれより上に位置すべき目的がある。

 言うまでもない。「金田一の目に留まるように役者としてアピールをすること」だ。そうすることで、アクアは彼との繋がりを得ようとしている。ひいてはそれによって、彼からララライについての情報を、引き出そうとしている。

 

 確かにその行動は、結果的には観客にとって満足度の高い演技の実現に繋がりはするのだろう。しかしアクアの中の優先順位はずっと逆転してなどいない。主客が転倒することなど絶対にない。

 そしてだからこそ、妥協は許されないのだ。千載一遇とすら言える好機を、決して無駄にはできないのだから。

 固より時間は有限だ。二か月という長い期間を投資しておいて、何の成果も上げられませんでしたなど、あり得ていいわけがないのだから。

 

 故にアクアはその問いに、頷くよりほかになかった。

 

 

 

「……そう、だろうな」

「アクアくん!?」

 

 ばっと、あかねがアクアの方を向く。しかしそれを、アクアは敢えて無視した。

 

「大丈夫だ。最初の一回で不意打ちを食らったみたいなところはあるし、次からは多分あそこまで酷いことにはならない。監督もそう思ってるんだろ?」

「んだ。じゃなかったら流石の俺もそんなことは言わねぇ。稽古一回やるたびに二時間ぶっ倒れられちゃたまんねぇしよ」

 

 言い合って、互いに薄い笑みを浮かべる。どこかそれは、もっと幼いころに、アクアが五反田監督に演技のことを盛んに教わっていたころの空気感にも似ていた。

 

「そういうこったから、二人とも、明日から稽古が終わった後、ジムとかである程度自分のことを追い込んでからここに来い。ああ、別の番組の収録とかがある日は来なくていいけどな」

 

 意味するところは、はっきりしている。

 

「お前に演技の指導すんのなんて相当久しぶりな気がするが。……だからって手は抜かねぇぞ」

 

 挑戦的な目線と表情で、五反田監督はアクアに言葉を投げつける。その手に持っている東京ブレイドの台本を、もう片方の掌に叩きつけながら。

 

「ああ。……望むところだ」

 

 故にアクアは、心配そうに自らのことを見つめてくるあかねを半ば捨て置くようにして、同じような笑みを浮かべながら、監督に対して頷いて見せた。

 

 斯くして、アクアとあかねの二人に五反田監督を加えた「秘密の特訓」が、その幕を開けた。

 舞台「東京ブレイド」の初日まで、残り半月程の頃のことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 ひとたび目標が定まれば、時が経つのはあっという間だ。

 もともと、稽古期間が半分を切ると、抜き稽古から立ち稽古、そして小屋入り、場当たりにゲネと、こなさなければならない行程が一気に増える。時間を浪費している暇はなく、次から次にやってくる課題をこなしているうちに、あっという間に本番はやってきてしまう。

 それは黒川あかねにとって、舞台をするたびに経験させられてきた、ある種いつもの感覚であった。

 

 しかし、今回はそれだけではない。

 なにせ今回の劇は、「有馬かなとの共演」なのだ。

 しかも、ここ十年ほどのずっとつまらない演技を繰り返してきた、「褪せて」しまっていたかなではない。「新生B小町」というアイドルユニットとして、大衆に自分の存在感を見せつける在り方を「思い出した」有馬かなが、その暴力的な才覚を存分に発揮することのできる相方(姫川大輝)とともに、何一つ遠慮なく暴れ回る。これから自分が相手しなければならないのは、そういう存在だった。

 自分から挑発しておいてなんではあるが、あまりに強敵だった。「そんなかなちゃんに勝ちたい」と切った啖呵も、しかし初日が近づくにつれ、重い課題感となって胸に押し寄せてくる。

 

 故にあかねは、ひたすらに役作りに没頭した。

 日々擦り切れるほどに台本を読み、キャラクターの解釈を更新し、心の中の「鞘姫」と対話する。「黒川あかね」として生きている日々の中、たまに「鞘姫」としての自我が表に出てきてしまっているのではないかと錯覚する瞬間があるほどに、役へと没入していく。

 メソッド演技法の使い手は、「役の深淵を覗いてはならない」と言われることがある。役のことを理解しすぎて、その役が持っている心の闇を自分のものと分割できなくなって、精神に異常を来すことすらもあるからだ。それによって自死に至ってしまった俳優も、決して少なくはない。

 しかし今のあかねには、そんな自制など働いていなかった。最低でも、「東ブレ」の舞台が続いている間だけは、自分は「鞘姫」から戻れなくてもいい。そこまですることで初めて、あかねは「有馬かな」という巨大な才能に抗し得るのだ。そう直感していた。

 いや、それだけではない。自分がそこまで役に潜り込もうとしている理由には、確実に「もう一人の存在」があった。

 

 言うまでもない。アクアのことだ。

 あの日、アクアが倒れた日の翌日からこの方、アクアとあかねは稽古場での稽古が終わり次第、まず一時間ほどジムで身体を追い込んで、そのまま五反田のスタジオに直行して「特訓」に明け暮れる日々を過ごしていた。アクアが出演しているバラエティの収録のために稽古自体に参加できなかった二日ほどを除いて、毎日である。

 

 その「特訓」とはすなわち、あの時アクアが昏倒した一幕をひたすら再現することに他ならない。五反田が演技指導と代役としてのブレイド役を兼ね、鞘姫が彼に斬られてから、刀鬼が逆上して本能のままにブレイドに襲い掛かるまでの一連の流れを、アクアとあかねは幾度となく繰り返した。彼が、自らの情動を引きずり出されることなく、「刀鬼」として純化された強い感情だけを、引き出すことができるようになるまで。

 始めの方は、本当に酷いものだった。確かにアクア自身の言う通り、あの最初の、稽古場の時のようにいきなり心因性の脳貧血を起こして失神してしまうほどの深刻な反応を見せることはなかったにせよ、それでも彼の心に顕著な精神的ストレスがかかっているのはあかねからも手に取るように分かった。

 あかねがスタジオの床に崩れ落ちる演技をするたびに、アクアの呼吸は大きく乱れた。過呼吸の症状を呈することもあったし、そのまま口を押さえて頽れて、何度彼がトイレに直行したか、もはや思い出せない。

 ただでさえ稽古のあとのトレーニングで身体的な負荷が限界に近くなっているところに、精神的にも強烈な負荷をかけるのだ。この「特訓」が始まってから、アクアの顔色は日に日に、目に見える形で悪くなっていった。

 

 何度、「もうやめよう」と言おうと思ったか。

 いや、実際に一度あかねはアクアに言ったのだ。特訓を始めてから三日程が経った頃のこと、五反田のスタジオでアクアがトイレに駆け込んだ回数が両手ですら数えきれなくなったあたりで、もはやそれを見ている自分の方が居た堪れなくなって、あかねは半ば懇願するようにアクアに提案していた。

 「私の方がセーブするから、無理しちゃだめだよ」と。「こんなやり方じゃ、アクアくんが持たないよ」と。

 

 しかし、アクアはそんなあかねの言葉を一蹴した。首を振って、強い力が籠った瞳で。

 ――後悔したくないんだろ。

 ――俺だって、後悔したくないから。

 そう、彼は言った。そしてまたすぐに、自分の心の傷に念入りに塩を塗り込むような芝居にのめり込んでいく。

 

 生き辛すぎるだろう、あまりにも。あかねは思わずにはいられない。

 

 彼のその選択が、あかねのためばかりであるとは思わない。というよりも、そんなところまで自分のためだと思うほど、あかねは思い上がってはいなかった。

 しかしそうであっても、あんなほとんど自傷行為でしかない営みを続けることに、彼は何の躊躇いもないのだ。

 そんなことを、彼はできてしまう。そうなってしまった、そうなれてしまった根源の部分を推察できているからこそ、あかねはそんなアクアの生き様に、心すらも痛くなる。

 

 それでも。いや、だからこそあかねも、彼と同じ質量の熱意を傾ける。覚悟を。それが、彼に寄り添うために出来る今の自分の精一杯の誠意であると、信じたから。

 だからあかねは、今回の舞台にある種鬼気迫るほどのモチベーションを持って臨んでいた。故に確かに、目に見える形で自らの芝居の質というものが磨かれていくのもまた、自身の肌で感じ取っていた。

 

 

 

 ならば、今自分がいるこの場所は、その全ての結実に他ならない。

 ステージアラウンドの楽屋から、外へ出る。すでに化粧も終わっていて、鞘姫としての衣装――白と梅色の襲をも、その身に纏っている。

 ここに立つ自分は、まさしく鞘姫だ。情緒も、思考すらも、彼女に引きずられている。今自分の傍にはいない、姿の見えない、別の控室にいるであろう「刀鬼(アクア)」の身を、無意識に案じてしまうほどに。

 

 蛍光灯の寒々しい光に照らされた、舞台袖まで続く廊下を、一人歩く。草履の固い底の部分が床に甲高い音を鳴らし、その残響が誰もいないこの場の遍くに、ただ拡がってゆく。

 その一歩一歩が刻まれるたびに、初日の始まりに向けた高揚感も、否応なしに高まってゆく。

 しかしそこに、また一つの音が混ざった。別の楽屋の扉の開いた音だ。しばし目を瞑りながら歩いていたあかねが目を開く。

 

 眼前に、像が結ばれる。先に座していたのは、山吹色の衣を纏い、同じ色の瞳でこちらを見つめる少女の姿だ。

 ――つるぎ。そう、口の先まで出かかって、しかしあかねは言い直すが如くに呼びかける。

 

「かなちゃん?」

 

 眼前にいる彼女が、勝気な表情で口の端を歪めた。

 

「……本当に、何年ぶりかしらね。アンタと共演するの」

 

 その響きの中に中に含まれた「意味」は、果たしてなんなのであろうか。

 

「そう言えば、読んだわよ。()()()()()()()()()()()()

 

 しかしそんな疑問は、ぶつけられた彼女の台詞のせいで一気に霧散する。

 

「『インタビュー記事』……? あっ」

「姫川さんがくれたのよ。……アンタほんとに、私のファンだったのね」

 

 かなの目に、揶揄うような光が宿る。あかねの頬が紅潮するのが分かった。

 彼女がわざわざあかねに言及する「インタビュー記事」なんて、一つしかない。

 遥か昔のこと、あかねが所属していた児童劇団「劇団あじさい」での初演インタビューだ。

 

 そこで自分が何を語っていたかなど、あかね自身のことなのだから、わざわざ思い出そうとする必要もなかった。

 

「ちょっ、かなちゃん……! っていうか姫川さん、何で……!」

 

 鞘姫としての情緒が、一気に黒川あかねに引き戻される。

 まずい、よりにもよって有馬かな本人に「あれ」が知られるなんて。

 とんだ弱みを握られた。彼女のことだ、笠に懸かって何を言ってくるか。そう、内心で覚悟を決めた。

 

 しかし彼女は、その続きを口にしない。気づけば向けられた目線さえも、真剣なものへと戻っている。

 一瞬、目を瞑って、そしてかなはもう一度言葉を発した。落ち着いた声色だった。

 

「まあ、確かにあの時の私は何でもできた。何でもできる気がしてた。根拠のない自信、ってやつね。あなたが思ってた私ってのは、つまりただの虚像よ」

 

 それは、と思わず反論の声を上げようとしたあかねだったが、しかし続けざまに放たれたかなの声に、それは遮られる。

 

「けど、今は違う。あなたがどう思ってるかは知らないけどね、私も私で研鑽は、積んできたつもりよ」

 

 あなたがそうであるように、ね。

 そう言って、また笑う。

 

「かなちゃん――」

「だから」

 

 言葉を切り、彼女が俯く。静かな呼吸の音が、一度だけ聞こえた。

 その末に、かなは今一度顔を上げた。瞳に宿る閃光が、あかねのことを射貫いた。

 

「私はアンタとまた演るの、楽しみにしてたのよ。こんなこと言うのも、無粋だろうけどね」

 

 瞬間、空気が膨張する。本当に、そんな錯覚を、あかねは懐いた。

 その中央に立つのは、他でもなく目の前の少女だ。有馬かなだった。

 

「『かつて天才と呼ばれた子役』と、『今まさに天才と呼ばれている女優』。いいじゃない、燃えてきたわ」

 

 言葉に籠められた戦意よりもなお旺盛な炎が、笑顔に宿る。

 

「お偉方の意図なんてどうでもいい。私は今しか興味ない。あなたも、そうでしょう? 黒川あかね」

 

 故に、まさにそれに引きずられるように、あかねもまた自らの顔に笑みを浮かべていた。

 

「そうだね。私もずっと、かなちゃんと演るの、楽しみにしてた」

 

 声にも、彼女と同じベクトルの意思が載る。

 

「今のかなちゃんとなら、ずっとずっと凄いお芝居、できるような気がするから。――だけど」

 

 そして今、あかねはかなに対して、「宣戦布告」する。

 

「今日の舞台。勝つのは私だよ」

 

 かなから放たれる強烈な空気を切り裂くように、言葉を届ける。そのままかなの返事を聞くこともなく、あかねは彼女の脇を通り過ぎようとした。

 しかしそこで、あかねは小さい笑い声を聞く。思わず、立ち止まって横を見た。

 

 その声の主は、かなだった。かなが、小さくもはっきりと、声すら出して笑っていた。

 

「そうね。あなたはそう言うでしょうね。なら、こっちも同じ言葉を返させてもらうわ」

 

 かなが、あかねを見る。

 そこには、壮絶なまでに美しく、引き込まれるようで、しかしまき散らすような闘志をそのままにした笑顔が、あった。

 

「――勝つのは、私よ」

 

 ぶつかった視線に、火花が散るさますらも幻視する。

 互いに、覚悟は十分ということだ。ならもう、言葉は不要だろう。

 

 役者ならば、これ以上の思いは、演技で伝えるだけ。それでいい。それがいい。

 故にあかねは、目を瞑る。かなとの邂逅で引き出されていた「あかね」の意識を、「鞘姫」へと置換した。

 

 瞼を開き、前を見る。つるぎ(かな)はすでにこの場から立ち去って、廊下の奥にその姿を消さんとしている。

 一人、佇む。心象の中の渋谷を現実へと重ね合わせて、果たして鞘姫(あかね)は静かに、一歩を踏み出した。

 

 ――さあ、参りましょう、刀鬼。

 

 そうすれば、もはや鞘姫(あかね)の心中には、漣一つとて立つことはなかった。




鞘姫の盟刀の名前「桜花」は、アニメ特典の東京ブレイド設定資料から引用しています。

そして本作の設定としては、POP IN 2に加えて推しの子キャラソンで出てきているB小町楽曲のうち残り二曲(Say What? と深海52hz)もこのタイミングで依頼していることにしています。ファーストワンマンまで旧B小町楽曲 + POP IN 2だけで勝負というのもなんか変だな、と思ったので。

リアルの方な話をすると、あの二曲にはすでに振り付けがついているので、恐らく登場は三期になりそうですね。
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