舞台「東京ブレイド」は、その初日からかなりの好評を博したらしい。チケットの売れ行きも上々で、今回のプロジェクトのプロデューサーである雷田がホクホク顔をしていたのをアクアは何度か目にしていた。
柄にもなく、エゴサーチまでしてしまう。普段であれば、自分の演技に対する世評など特に気にする必要すら感じないが、今回は事情が事情だ。
劇団ララライの主宰、金田一敏郎に目をつけてもらうような演技が、出来ていたか。それを最も客観的に評価できるのは、自分とは何の関わりもない世間からの評価なのだ。良くも、悪くも。
果たしてアクアが東ブレの舞台について言及している反応を探せば、自身の演技に関連するコメントは結構な数存在していた。
曰く、「第二幕の終盤はヤバい。見なきゃ損」。
曰く、「刀鬼のキャラクター再現度半端ない」。
また曰く、「最近の東ブレは『刀つる』多かったけど、やっぱ王道は『刀鞘』だって!」。
概ね、好意的な反応ではあるだろう。してやったり、としたところでは間違いなくあった。
いや、それだけではない。
寧ろアクアにとって何よりも嬉しかったのは、初日の終わった夜のこと、全員参加の打ち上げが終わり、家に帰ったアクアを待ち構えていた自らの母から、アイからもらった言葉であった。
同じくアクアのことを出迎えに上がっていたルビーさえも差し置いて、リビングに迎え入れるのさえ待てないといった様子で、玄関の土間に立ったままのアクアの肩に手を置いて、目を輝かせながら彼女は興奮気味に口にした。
「今日のアクアの演技、すごい良かったよ! やっぱアクアには役者さんの才能あるね! いやー、ほんと天才っ! 天才役者っ!」
そのうち飛び跳ねるのではないかと思ってしまうほどのテンションで発されるそれに、しかしアクアはどうしても、自らの過去を想起させられた。
それはアクアが初めて出演した映画、五反田監督が本当に監督として撮った、あの「それが始まり」を見に行ったときのことだ。
家族連れで見るようなエンタメ性の高さはない、ある種「典型的な低予算邦画」であったからか、そこには観客こそあまりいなかったが、しかしその帰りしな、アイはいつの間にか寝入ってしまったルビーを背負いながらアクアへと視線を合わせて、そしてアクアの演技を賞した。
――いい演技だったよー! すごく不気味っていうか、気持ち悪い感じがよく出てた!
――アクアなら、誰よりもすごい役者になれるよ! きっと、絶対!
あの時かけられたそれは、アクアの心の中に今もなお残っている。その声の響きすら。
それは祈りか、あるいは願いか。いや、そんな大上段に構えたものではなく、もっとずっとカジュアルな何かなのかもしれない。
それでも十数年の時を超え、アイがあの時自らに向けて言ったことを嘘にはしなかった自分は、たとえ金田一の、「目的」のことなどなくとも、少しは誇れる何かになれたのではないか。
そう思った。そう、思いたかった。
兎も角、内外に一定以上の評価を得て、客観的には成功と言ってもよいクオリティを見せることに成功したアクアの演技であるが、それはアクア自身の認識において、「自分を敢えて手放す」ことで得られるものだった。
第二幕終盤、鞘姫が斬られてから、彼女が「傷移しの鞘」の力で蘇るまでの一連の演技において、アクアの身体は「刀鬼」によって操られていた。最低でも、アクアの自己認識はそうである。
故にこそその最中、ブレイドにがむしゃらに斬りかかる演技において、アクアは普段の自分では到底できない身体の動きさえもできてしまっていた。どうしても体力が足りない故に早くに息が上がってしまうのは致し方ないところではあるのだが、それもまた「怒りに我を忘れて暴れまわり、体力を消耗する刀鬼」という演技プランには確実にマッチしている。だからというか、それは蓋し好都合としたところであった。
ならば何故、アクアがそういう演技の仕方を選んだのか。
それは結局のところ、ある種「妥協の産物」であった。
何度も続けられた五反田監督のスタジオでの特訓の中で、アクアは気づいたのだ。「アクアとしての自我を少しでも持っていれば、アイのエッセンスを演技に載せているあかねには必ず引っ張られてしまう」と。
ならばどうするか。簡単なことだ。あの瞬間だけ、アクアはアクアを捨てればよい。
メソッド演技法を活用した役への没入によって、刀鬼のパーソナリティを自身の内面に再現しつつ、マイズナーテクニックを駆使して環境への反射を無意識レベルまで落とし込む。その組み合わせを完璧に制御しきれれば、もはやその瞬間において、「アクア」の存在は自分の中から消し去れる。必要がなくなるのだ。
ともすればそれは、人為的に解離性同一性障害を引き起こそうとする行為に近いだろう。
しかしそのぐらいのことをしなければ、あの瞬間の
それだけではない。もしアクアの試みがうまくいけば、それは今までアクアがやってきた演技からは一段も二段も階梯を登った場所に手が届くということを意味している。
はっきり言って、異質といってよい演技だろう。故にこそ、金田一の目には必ず留まる。
ならばやらない手など、ありはしなかった。
そして、そんなアクアの奮闘の答え合わせがやってくるのは、初日の舞台からそこまで時を置かずしてのことであった。
舞台の初日から、幾許かの時が過ぎた、ある日のこと。
その日は次の日が休演日ということで、舞台終わりの楽屋の中もどこか弛緩した空気というものが流れていた。
演技カロリーの高さ故に終演直後には未だほぼ全員が疲労困憊になっているのは事実だが、しかしそんな日々にもようやく慣れ始めていて、つまるところその日は――いや、その日『も』、主に劇団ララライのメンバーを中心に夜の部の後の「打ち上げ」を敢行しようという気配が充満していた。
因みに彼ら劇団ララライの中で、こういう時の宴会番長として音頭を取るのはなんと「みたのりお」氏である。完璧な七三分けをワックスで固め、常にスリーピースのスーツをかっちりと着込んで角眼鏡まで掛けている、見た目においてはこの面々の中では誰よりも堅物にしか思えない彼が、無駄に溌溂とした声色でほうぼうに「今日も呑みに行くか」などと誘うのだから、世の中分からないものである。
分からないものといえば、そんな彼に追随する形で周辺の店舗情報をピックアップし、先導して案内する気満々のあかねもである。アクアの隣でスマホとメモを片手に「当日団体客OKの焼肉店」を早々に押さえようと張り切っている姿は、普段の彼女の冷静で嫋やかな振る舞いとははっきりと一線を画していて、アクアとしては新鮮でならない。
まあ、彼女もまた舞台人ということなのだろう。そうやって人生を楽しめているのであれば、それに越したことはないに違いない。
しかしそれより、アクアにとって余程に大事だったのは、「この日の打ち上げに金田一が参加を決めた」という、ただその一点であった。
金田一敏郎という人物は、昔気質というか職人肌の人物であると同時に、人の和というものをことのほか気にするタイプである。それは特にこの舞台が始まってから、アクアとして意識することが多いところであった。
自分はあくまでも演出であり監督者で、役者同士の繋がりの只中に無理に入ろうとする野暮はしない。特に今回の舞台は役者が若年層中心である故か、どこか一歩引いたような態度を崩そうとしなかった。
つまり打ち上げのような場においても、彼は今まで顔を見せることなど初日の時の一回程度しかなかったということだ。
そして彼のような立場の人間にとって、初日の打ち上げというのは基本的には利害関係者へのあいさつ回りが主である。同じ打ち上げの場に参加しているとはいえ、アクアはその時金田一と接触するようなチャンスは一度もなかった。
そういうわけで、アクアには未だ金田一と腰を据えて話をする場というものが作れていなかったのである。
だからこそ、これは好機に他ならない。もしかすると楽日まで彼とまともに話をする機会はないかもしれないと一人懸念を抱えていた身からすれば、間違いなく降って湧いたような幸運であった。
故にアクアも当然に、今日も今日とて開催される打ち上げに参加することを決める。
「しょーじき、私大人数の飲み会とか苦手なのよねぇ……騒がしいって言うか、いまいちノれないって言うか。アンタもそうなんじゃないの?」
「……いや、でも俺は今日は行くぞ」
「んじゃ私も行くわ」
自らの隣、白けたような顔で楽屋の中のやり取りを聞いていたかなが、しかしアクアの言葉を聞くや面白いほどの変節を決めたことに小さく笑って、アクアは座っていた椅子から立ち上がった。
「掌返すの早くね?」
「うるっさいわね……!」
そんな風に、少しばかり彼女のことをからかいながら。
そこから少し時が経ち、アクアたちの姿はステアラ近くの焼肉店にあった。当然にというか、あかねのアテンドによるものである。
宴も中頃、盛況の只中にあって、東ブレ舞台の主役級演者十一人に金田一を加えた十二人は、それぞれに七輪を囲んで歓談している。
この中で未成年者であるのは、あかねにかな、メルト、そしてアクアの四人だ。それ以外の面々は成人であるからにして、思い思いにアルコールを手に取って、その顔を朱に染めている。
口も滑らかに、それぞれに演技論や今回の舞台のことと、役者ならではの話題に花を咲かせていた。
その中で一際この場の中に馴染んでいるのは、実のところ他でもない有馬かなであったりする。
彼女はどういうわけか顔を誰よりも赤く染めて、自らの演技に対するスタンスを声高にぶつけるように、対面ののりおと論を戦わせている。しかも、その口もなんと言うか、明らかに回っていない。
アクアは首をひねる。彼女は未成年者であって、事実としてかなが頼んでいたのはあくまでジンジャーエールであるはずだ。その手に握られているジョッキの中には、確かにジンジャーエールのものと思しき淡い金色の炭酸が入っている。
まさか、ジンジャーエールではなくモスコミュールやジンジャーハイボールの類でも頼んでしまっているのではないかとアクアは一瞬ばかり危惧したが、それならそれで一口飲んだだけで味の違いは判るはずだし、そういうわけではないのだろう。
つまりかなは、もうはっきりと「場に酔っている」のだ。
――何が「大人数の飲み会は苦手」だ。誰よりも楽しんでるじゃないか。
アクアは内心でそうひとりごちる。
「はい、アクアくんこれ焼けたよ」
「ああ。……ありがとう」
「んーん。けど……かなちゃん、あれホントに大丈夫なの?」
アクアの左隣、両手に一つずつトングを掴んで無駄に器用な焼肉奉行ぶりを見せつけているあかねが、アクアにそう訊ねてくる。
アクアからしてみれば、あかねのこういう場における謎の献身ぶりというか、ある種の仕切り癖のようなものにも一言二言言いたいことはあるのだが、もはやこれに関しては彼女の骨髄にまで染み付いている習慣のようなものなのだろう。
止めてどうこうなるものでないことは、すでに「今ガチ」の時の経験ではっきりしている。よってアクアはそんなあかねの在り方には何も言うことなく、隣である種の痴態を繰り広げているかなの方を一瞥した。
「まあ、酒は入ってないから。……いいんじゃないか、本人楽しそうだし」
怪訝そうな顔で同じくかなの方を見ているあかねに、そう返す。
「まあ、あれも可愛げだろ。なんなら、あとでからかってやればいいんじゃないか?」
ついでに付け加えた言葉に、あかねが小さく目を見開く。しかしそれもほんのわずかの間のことで、彼女は二つ三つほどの瞬きをアクアに見せた後、俄かに破顔した。
「たしかに。いつもかなちゃんには言い負かされてばっかしだし、たまには弱みの一つや二つ握らないとね」
そんな風に、悪戯っぽい笑みを浮かべたあかねに一つ頷いて、そこでアクアは一度席を立った。
アクアにとって、今日この宴会の場にやってきた狙いの、つまり本命の相手に、そろそろ接触すべき頃合いであると考えたからであった。
その相手、すなわち金田一敏郎は、この個室の突き当り、つまり最も上座側の場所に座っている。幹事席というか、下座に陣取っているあかねの隣にいるアクアから見ると、ほぼ真反対とも言うべき位置だ。
そちらの方を一瞥するに、どうやら彼はその対面に座っている今回の舞台の主役、姫川大輝と何やら歓談中であるらしい。ただ、特段手が埋まっているというわけでもなさそうだ。一つ「突撃」する分には、頃合いだと言えるだろうか。
意を決して、彼の横へと歩を進める。
「お疲れ様です。こちら、よろしいですか」
声をかけてみれば、金田一は既にいくらか酒が入っているか、微かな赤ら顔を見せながらアクアの方へと視線を向けた。
「ん? おお、お前か。構わんぞ、ほらここ座れ」
いつもの仏頂面でありながら、しかしその声は心なしか柔らかい。
彼がその右手で、自らの隣をポンポンと叩く。誘われるように、アクアは彼の右隣に着座した。
「お前の芝居、なかなか評判がいいらしいな」
アクアが腰を落ち着けるなり、金田一はアクアに視線を向けることなく、七輪の中で肉が焼けるさまを眺めながらも、しかしそんな言葉を発する。
「俺もお前は、どうにも面白い演技をすると思っていた。稽古のころからな」
「ありがとうございます」
「いや。……このところ、お前の芝居もいくらか
思わぬところから、金田一のアクアの演技に対する評価というものが聞けた。
どうやら、思いの外彼はアクアの芝居というものを好意的に見ているらしい。
基本的に、素面のうちは演者に対する肯定的な評価をなかなか見せようとしない彼だ。事実として金田一は稽古期間の中、自らの前で「刀鬼」を演じるアクアに数多のディレクションを容赦なく降らせてきたし、そしてそんな時に彼が浮かべていた表情というのは、いつもいつも険を帯びた、言ってしまえば「仏頂面」であったのだから。
覚悟こそしていたが、金田一の心象という壁は高い。
そう思っていたところ、しかし「実は自らの頑張りが彼に幾らか評価されていた」、とここで知れたのは、アクア個人としても喜ばしいことであった。当然に、「彼に取り入る」という意味においてもである。
「それは、恐縮です。鏑木さんから送り出されてきてますし、あの人の顔に泥は塗れませんから」
よって、アクアはそんな変化球から彼の心中に攻め入ってみる。
金田一と鏑木は同年代で、そして彼は学生時代に劇団ララライに所属していた経験があるという。その言を信じるならば、鏑木は金田一と同じく、劇団ララライの草創期のメンバーである可能性が高い。
すなわち彼の存在はアクアにとって、金田一のいくらかデリケートな話題にアプローチするには、うってつけの「話のタネ」であった。
「ああ、そうだったな」
そうしてやれば、金田一はまさにアクアの目論見の通り、その話題に食いつく。過去を思い出すように、言葉を続けた。
「アイツはうちの劇団の立ち上げメンバーの一人なんだ。同じ演劇専門学校に通っていてな、サークル演劇やるために立ち上げた小さな劇団だったんだよ、最初は」
小さな笑みを、金田一は口元に浮かべる。
「鏑木さんも仰ってましたね、それ。もとは小さな劇団だった、って。でも今は、ストレートプレイの世界だと押しも押されもせぬ名門じゃないですか」
「よせ、おだてるな。そんな歯が浮くようなこと言って」
「いえ、別にそんなつもりは。ただ、こうなるまでにはいろいろ苦労とかもあったんじゃないかなって、思って」
確かに世辞ではある。が、決して嘘はついていない。
それはアクアにとって信条とも言えるものであった。欠片も本心のない、心にもないことを言って他人を誘導するようなことは、どういう大義があってもアクアとしては避けるべきだと考えていた。
全てが嘘で塗り固められた人間の言うことは、誰も信じない。よしんばその時だけ騙せても、いずれそんな人間は誰からも信頼されなくなる。
果ては、自分で吐いた嘘で自分自身をも騙すような人間になってしまう。そうなれば、もう終わりだ。その瞬間、自分はきっと怪物に成り果てているであろう。
そうはなりたくなかった。それがいくらアイを、ルビーを護ることにつながるのだとしても。
――いや、これは脱線だな。
内省を脱し、アクアは金田一の方に向き直る。彼はアクアの言葉に今一度過去を反芻するように、頬に手を当てていた。
「そうだなぁ。まあ確かに最初の方は、本当に仲間内だけで始めた小さな劇団でしかなかったわけで、メンバーも少なかった。だからやりたい演劇をしようとなると、メンバー集めから始めなきゃならんくてな」
待っていれば、程なく彼は語り始める。
「まあ色々と手は打ったもんだよ。ワークショップ開いて人間集めて、公演回したこともあった」
――まあ、あれは失敗だった。今となっちゃ懐かしい限りだがな。
そして金田一は、アクアの求めていた情報の核心に近い言葉を、いきなりその口から漏らしていた。
自分の瞼が見開かれるのを、アクアは自覚した。
劇団ララライのワークショップ。立ち上げ当初、小規模の劇団だったころに行われた施策。
アイがララライのワークショップへ参加したのは、今からおよそ十八年ほど前のことになる。ならばそれは、彼が今言及した「人集めのワークショップ」の話と綺麗に符合する。
そこで起きた「失敗」と、そして鏑木の言った「アイが色気づいた」という台詞の意味を、アクアは内心で重ね合わせる。
「『失敗』、ですか」
アクアは自然とそんな言葉を発していた。
「信じられないですね、金田一さんのそんなお話」
「そりゃまあ、若いころの話だからな。失敗の一つや二つするもんさ。お前もそうだろう」
「まあ、そうですけど。……けどそう言われると、ちょっと気になっちゃいますね。何が失敗だったんですか?」
努めてにこやかに、そしてさりげなく問う。
こういうものを大上段に聞けば、警戒もされる。こういう「ぶっこみ」の類は、なんの気なしといった態度でぶつけてみるのが後腐れない。情報も引き出しやすい。
しかし金田一のガードは堅かった。
「悪いが、それは話せんな」
「そこを、なんとか。そんなところで切られちゃったら、気になってしょうがないですよ。せめてこう、さわりだけでも」
「ダーメだ。ガキにできる話でもないんだ、諦めてくれ」
食い下がってみたが、意思は固いらしい。「ガキに出来る話でもない」と口を滑らせた辺りもう一押しの予感こそするし、その中身から考えてアクアにとっては本命に近い情報の可能性がある故に、何とも惜しいが。
もう少し距離を縮めなければ、これ以上の情報は取れないか。そう断じ、ひとまず撤退することをアクアが考えたところで、しかし思わぬところから援護射撃が入った。
「なら、ガキじゃなけりゃ聞かせてもらえるってことですかね? 金田一さん、その話」
アクアが、そして金田一もまた顔を上げる。その声の主を、ともに見た。
それは金田一の正面、眼鏡をかけた一人の青年から発されていた。
「姫川さん……」
言うまでもなく、それはこの劇団ララライの筆頭役者にして、今回の舞台の主演、姫川大輝に相違なかった。
「姫川、お前もか」
「まーまー」
片眉を上げて少しばかり凄んでみせた金田一を受け流し、姫川大輝はアクアに向かってちらりと視線を送ってきた。
そこに込められた意思は明白だ。
――ここは俺に任せろ。そう、彼は言外に口にしていた。
姫川大輝とアクアの二人は今、実のところ顔見知り以上の仲となっている。
きっかけは、やはり稽古の中で積極的にアクアが劇団ララライの面々とコミュニケーションを図ろうとしたことだろう。アクアとしても、それは彼らに自分の顔を覚えてもらうために常に意識していたことであったし、そうでなくてもどういうわけか、アクアはこの姫川大輝という人間に対して、特に理由のない親近感というものを、彼と初めて出会った顔合わせの時から懐いていた。
そしてどうやら、それは相手側――大輝の方も似たようなものであったらしい。稽古が始まって一週間もすれば、アクアと大輝の間にはある程度の関係性が生まれていた。稽古の休憩時間には割と彼の方から話しかけられることもあったし、アクアがあかねと特訓を始めることになった第三週までの間は、稽古の後にも何度か夕飯に誘われたことすらもあった。
尤も彼がアクアに主に問うてくるのは、他のララライの連中と同じようなあかねとの関係に加えて、かなとのあれこれまでもが含まれていた故に、アクアとしては時たま居心地の悪さすら感じることがあったが、まあそれはご愛敬としたものである。
いずれにせよ、そうした交流の中で姫川大輝という人間が意外と茶目っ気のある愉快なパーソナリティをしているのはアクアの知る所であったし、そして彼の目線が語る彼自身の意思というのも、すでにアクアはいくらか読み取れるような仲になっていたのである。
徐に立ち上がり、大輝は卓を回りこんで、金田一の真後ろにしゃがみこむ。アクアの反対側から、彼の肩を抱いてみせた。
そして言う。
「まあ、こんなとこでするような話じゃないってのも分かりますし、ここはひとつ
いい店知ってるんですよ、とどこか悪どい笑みを浮かべて、彼は金田一に提案した。
いつもの気怠げな大輝の声色の中に、しかし確かな好奇とからかいの色が宿っているのを、アクアは聞く。
視線の先、大輝がつとアクアに顔を向ける。眼鏡の向こう、その目はどこかおかしそうに細められていた。
固より長居するつもりはあまりなかったらしい金田一を引き連れて、アクアと大輝は一足先の「足抜け」を決め込む。
金田一は残された面々のために万札を何枚か置いていって、そしてアクアはあかねとのチャットに、「姫川大輝と金田一との三人で別行動する」旨の連絡を入れた。当然、家族に対してもである。
果たして大輝に連れられる形でアクアたちが足を運んだのは、とある会員制のバーであった。
そのカウンターに、金田一が座る。そして周囲を固めるのは女性たちだ。
この店の従業員――というより、寧ろ「コンパニオン」と表現すべきだろうか。当然にというか、芸能界にいくらか身を置く自分から見ても、彼女たちは十二分に見目麗しかった。
無論、それは大輝の手配によるものだ。周りを取り巻く彼女たちに囃し立てられるようにテキーラを呷る金田一の姿を横目に、彼はそこから少し離れたテーブル席にて、アクアに悪戯っぽく言葉を発した。
「ま、おっさんの失敗話なんて滅多に聞けねぇからな。俺も気になっちまって」
「酒をもう少し入れれば口を割ってくれるかも、ってことですか」
「そうだ。分かってるじゃねぇか」
――いいかアクア。男ってのはな、綺麗なお姉さんから注がれた酒は断れねぇもんなんだよ。覚えとけ。
片方の口の端をにやりと吊り上げて、大輝はアクアにそんな「講釈」を垂れてくる。
「それ、姫川さんがそうだってだけの話なんじゃ」
「え? ま、そうとも言うな。でも可愛い女の子が嫌いなやつなんていねぇだろ。だって見ろ、おっさんもいい感じに飲まされてるじゃねぇか」
悪びれもせず、いつもの調子で言ってのける大輝を見て、アクアは小さく息を吐いた。
まあ、その神秘的とすら言えるほどの芝居の技量や才覚に比べて、彼の人格がだいぶ「俗っぽい」ことはアクアもすでに認識している。あるいはそれは、親しみやすさとも言い換えられるものだろう。
ただ同時に、彼が自らの遠慮のなさを向けるのは、ある程度「内側」の線引きをした存在に対してだけであることもまた、アクアはこれまでの経験によって意識していた。
「……金田一さんと姫川さんは、どういう関係なんです?」
だからと言うべきか、自然にそんな問いが出てくる。金田一の為人を知るという面においても、それは意味のある質問ではあった。
「え? おっさんと? あー……」
しかし対する大輝は、そこで俄かに口ごもる。言うべきか、言わざるべきか。そんな迷いのようなものが感じられた。
「いえ、無理にとは言わないので」
「ん。いやまぁ、別にそういうわけじゃねぇんだけどな……」
ここで無理矢理に聞き出して大輝との関係を悪化させるのは下策だ。無理をせずに引こうとしたが、しかしそれにも大輝の答えは歯切れが悪い。
答えたくない、というわけではないのか。そう思い、どうしたものかとわずかにアクアが思案したところで、俄かに横から「部外者」がやってきた。
「おい姫川ぁ! お前グラス空っぽじゃねぇか」
「あ? ……んだよおっさんかよ」
部外者というか、むしろ当事者というか。そんな酒に焼けたような声と共に、一人の男が大輝の肩に手を回し、絡みに来る。
言うまでもなく、金田一だ。どうやら向こうのバーですっかり出来上がってしまったらしい。大輝がコンパニオン相手に「金田一に度の強い酒をしこたま飲ませろ」と注文を付けていたのだから、当然の帰結とも言えるのかもしれないが。
「俺ばっかにガバガバ酒を飲ましおってからに、一人だけただじゃ済まさんぞこの恩知らず!」
出てきたそのセリフに、アクアの顔が上がる。
「ここまで育ててやったのは俺だってのに、ほら呑め! お前も呑め!」
「……はいはい呑みますよ。お姉さんウイスキー、ダブルで」
「ん、おっけー」
その声に含まれているのは、どこか親子の情にも似ている。
それはまるで、アクアは決して自ら言ったことなどないが、己と五反田監督との間の関係にすら、似ているような。
「アクア。俺と金田一さんの関係だったよな」
席から離れていったコンパニオンの女性を見送って、大輝がアクアにそう口を開く。
「まあ、この際だから言っちまってもいいか。……俺はな、実は養護施設出身なんだよ」
続けざまに放たれたそれに、アクアは目を見開いていた。
養護施設出身。その意味するところはある程度明白だ。
姫川大輝には、監護者がいなかった。最低でもその存在が必要となる時期に、彼には親がいなかったのだ。
それがいかなる事情によるものなのか、そこまで深入りする気はない。その権利も、恐らくはアクアにない。
「そんな、ことが」
「ああ。で、施設出た後にララライの世話になってな。金田一さんには、いろいろ面倒見てもらってて」
ただそれでも、アクアにはわかった。なぜ彼と自分との間に、奇妙なまでの近親感を覚えたのか。
同じなのだ。生まれたときから母も父もいなかった自分――「雨宮吾郎」としての自分と、姫川大輝の境遇は、きっと。故に彼の醸し出す雰囲気に対して、アクアはどこか「似た者」の空気を感じ取っていたのだろう。
「コイツみたいな『欠けてるヤツ』ってのはな、いい芝居をするんだよ」
そしてその「同質性」の根源を、目の前の男は、金田一は見抜いている。
「自分が『欠けてる人間』だって分かってるから、『欠けていない人間のふり』をするために必死になる。だからそういうヤツはよく他人を観察する。いい役者になるための資質だ」
「人聞きの悪いこと言うな、おっさん」
「実際そうだろうが、ああ?」
大輝の反駁に凄んでみせた彼が、そこでアクアを向く。顎をしゃくるようにして、こちらの方にも言葉をかけてきた。
「お前もそうだ。お前たちはよく似ている。だから芝居のやり方も似てくる」
急に向けられた矛先に、アクアは目を瞬かせる。
「僕が、姫川さんと」
「そうだ。お前の演技の、周りの『引っ張りこみ方』なんて、ありゃ姫川とそっくりだ。今はまだ場数ってもんが足りんが、伸びしろは十分にある。
「確かに。アクア、お前の終盤の刀鬼の演技とか、油断してたらこっちが持ってかれそうになるぐらいには『濃い』ぞ。自信もっていい」
「それは……ありがとうございます」
急に始まった褒め殺しとも言えそうな展開に俄かに面映ゆくなって、アクアは自らの後頭部を掻く。
しかしそこで不意に、金田一が真剣な表情を見せた。
「けど……それだけじゃねぇ。……そうか」
同時に、『どこか納得したような表情』を。
斯くして、彼は言う。
「お前さん、似てるんだな、アイツに」
それはアクアにとって、あまりに聞き捨てならない台詞であった。
「……アイツ?」
思わず、アクアは金田一の双眸を覗き込むように視線を合わせていた。
同時に、直感する。「これから彼が言おうとしている言葉は、自分にとって一言一句の聞き逃しも許されない何かである」と。
その声色と裏腹に、どこか譫言のような調子で、金田一は続ける。
「そうだ。そう考えれば、見てくれも似てるじゃないか。なんで気づかなかった、俺は」
「金田一さん?」
「もう三十路か、アイツも。たまには顔ぐらい、見せにくりゃ、いいものを」
問いかける声も、届かない。言葉を重ねるたびに、金田一の目は蕩けていく。
理性がなくなりつつある。夢見心地に近いのだ。
故に今彼は、本来ならば決してアクアに対して口にすべきでないはずのことを、きっと口にしていた。
「何だって、アイツ、花、ばっかり……」
そしてそんな途切れ途切れの言葉を最後に、金田一は大輝の背後、ソファの背に凭れ掛かるようにして意識を手放した。
いびき交じりの寝息が聞こえる。すなわち、彼は完全に寝入っていた。
「やっべ、呑ませすぎた」
すっかり夢の世界に旅立ってしまっている金田一の横で、大輝が言う。
眼鏡の奥の瞳が、「失策だった」と語っていた。
すぐに立ち上がり、金田一の後ろに回り込む。自らの肩と腕で彼の身体を抱えて、そのままソファへと寝かせた。
「お姉さん、ごめんだけどおっさんのこと見ててやってくんね?」
「はいはーい、任せて」
そのまま、また先ほど大輝の横に座っていたのとは別のコンパニオンの女性にそれだけ伝えて、彼はまた席へと戻ってくる。
「すまん、とちったわ。『恥ずかしい過去』ってやつは、俺の方から聞いとくよ」
「ああ……いえ」
どっかりとソファに座って、大輝がアクアにそう言ってくる。
しかしアクアの方は、どこか上の空であった。金田一が今しがた口にした台詞が、アクアの内心で組み立てていた推理と合わさって、一つの有力なシナリオを作り上げていたからだった。
「……アクア? どうした」
怪訝そうな声が、アクアに降りかかる。
いつの間にか、すっかり俯いていたらしい。アクアは顔を上げ、大輝の方に視線を合わせた。
「いえ。その……実のところ、聞きたいことは、聞けたかもしれない、というか」
言葉を選びつつ、答える。今回の話、アクアの本当の意味での狙いというものは、決して彼に悟られるわけにはいかなかった。
たとえこの、自分にとって「他人とは思えない」姫川大輝という役者が相手であっても、である。
「……ふーん? ま、いいや」
そして彼は、そんなアクアの様子のことは放っておくことにしてくれたらしい。俄かに表情を緩め、テーブルの上に置かれたグラスを掲げた。
「じゃ、ちょっと呑むか。女の子たち横に呼んでさ」
――あ、お前は酒飲むなよ。未成年だからな。
言いつつ、茶目っ気をこめて片目を瞑って見せた大輝に、アクアは苦笑と共に自らのグラスを掲げ返すことで答えとした。
大輝とアクア、二人の時間は、まだ終わらない。
自宅マンションの鍵を、音もなく開ける。そして事前連絡をしていた故にチェーンロックの外れている扉をこちらも静かに開いて、アクアは家の中へとその身を滑らせた。そのまま後ろ手に鍵を閉め、チェーンロックもかける。
その全てを終え、アクアは大きな息を吐いた。
あの後、凡そ一時間ほど女の子を交えて飲み物片手に歓談したアクアと大輝は、いつもの通りにこやかに別れた。
「今度はサシで呑み行こうぜ」と、本気なのかそうでないのかわからない調子で言ってのけた彼のことを、少しばかり思い返す。
――やはり、彼とは他人の気がしない。
それは金田一の言う、「同じ根源を持った人間」同士の同族意識によるものなのだろうか。
一面では、そうかもしれない。しかし同時に、アクアはどうしても、何か予感めいたものを彼に対して覚えている。
が、それは今のところ詮ない話だろう。そんなことよりアクアが気にすべきは、今回のことで金田一から得るに至った「手がかり」のことに他ならない。
彼は言った。「お前さんは、アイツに似ている」、と。つまり彼の見知った人物の中に、『アクアとよく似た容貌をした誰かがいる』ということだ。「演技も似ている」というニュアンスでもあったことを考えれば、それは役者、ないし元役者ということになる。
そして、そんな「誰か」を指して金田一が言った「もう三十路」という言葉も、アクアは憶えている。
金田一が若いころにした失敗。
十八年前のワークショップ。アイが知り合った、そして体を重ねたであろう男。
アクアとよく似た容貌、演技に携わっていた、おそらくは元ララライの役者。
アイの今の年齢は、
全てが組み合わさって、アクアに一つの答えを示す。
だからそれは、きっと「最後のピース」だった。アクアが自らの血縁上の父親の存在に、辿り着くための。
ならば、アクアのやらなければならないことも、自ずと決まってくるのだろう。灯りの落とされた真っ暗な廊下の中、アクアはポケットの中からスマホを取り出す。
時刻は日付が変わり、零時を少し過ぎたあたりを示している。待ち受け画面の中、チャットアプリに通知のバッジがついていた。
その相手など、言うまでもない。
きっと彼女はそれを、寝る直前にアクアに対して送ってきたのであろう。
こちらの身を案じ、そして「姫川さんに勧められてもお酒は飲まないこと」などと、それにはどこか母親のような目線での忠言まで付け加えられていて、アクアの中からは自然と苦笑交じりの笑みが漏れていた。
そうだ。そして自分は、いよいよ以て彼女に、あかねに対して一つ頼みごとをしなければならない。
そういう覚悟を決めるべきタイミングがやってきたのだと、改めて自覚する。
なんとも罪深いことだろう。されど、いやだからこそ、彼女にこんなことを頼むのは、これが最初で最後であるべきなのだ。
目を瞑った。スマホの画面を切って、今一度ポケットにそれをしまう。
――まあ、いずれにせよそれは、今日やる話でもないだろう。
――今のところは、まずはシャワーでも浴びようか。
家人の寝静まった自室の只中、更けゆく夜の帳に包まれながら、アクアは一人、内心でそう呟いた。
いよいよ本章における本題、プライベート編に入ります。ここから物語は大きく動きます。
ということで原作と違ってこっちの方に話数を割いています。
そして本話ですが、復讐心で倫理観がぶっ壊れている原作アクアとは違うので、本作のアクアは無許可でDNA検査をかけるようなマネはしていません。よってアクアはこの時点で、姫川大輝が自分の異母兄弟であることは知りません。
代わりに、原作と比べてアクアの演技力が劇的に向上していることで金田一の中でアクアとカミキの印象がダブりました。
本章における最初の、原作との大きな分岐点です。