二学期が終わり、年が明ける。
舞台「東京ブレイド」は最後まで大好評を博したままに千秋楽の日を迎え、それは舞台に出演した俳優陣、とりわけ若手の役者たちの評価を大幅に向上させることに繋がった。
まずはあかねだ。彼女には、千秋楽のあと早々に映画の主演の打診があった、と聞く。彼女自身はそれについて、「上映館数はそれほど多くない映画だからまだまだ精進が足りていない」と自らを戒めていたものの、それでも映画の主演に十七歳の若さで抜擢されるのは大躍進と言うべきだろう。
次にかなだが、彼女は現状「アイドル兼業女優」として売り出そうとしている関係上、すぐにドラマや映画の主演の仕事が舞い込んでくるわけではなかった。しかし彼女の「演技派アイドル」としての名声は今回の舞台によって確固たるものとなり、シリーズものドラマの一話限りのゲスト出演に幾つかのCMのオファーと、着実に「かつての栄光」に手が届きつつある。
意外なのは鳴嶋メルトだ。基本的には今回の舞台の俳優陣の中ではキャリアが浅く、演技力においても一歩も二歩も劣るとされていた彼だが、しかしキザミの、特に匁との一騎打ちの演技に関しては内外でかなり評価された。SNSの中でも、前評判から考えれば圧倒的によい芝居をしてみせたメルトへの称賛の声は大きい。
「ハマればいい演技をする」役者だし、アクションにも強い。そういう認識を持たれたことが幸いしたか、何と彼は来年度から始まる特撮番組で主演級の立場を獲得した。まさに、若手イケメン俳優の理想的なキャリアと言うべきだろう。
どこか照れ臭そうに「東ブレ」共演者のグループチャット上でその話を明かした彼を、姫川大輝と自分とで随分と囃し立てたのは、ついこの間の話である。
そして――このあたりのムーブメントについては、アクア自身においても全く例外ではなかった。
アクアの演技、とりわけその終盤における「感情を爆発させた刀鬼」の演技は、どうやらアクア自身が想定していた以上のインパクトを見に来た人々に与えていたらしい。実のところ、アクアに関しては千秋楽が終わるより前から、すでにいくつかのテレビ局からドラマ出演の打診を受けていた。と、いつの間にか実質的にアクアのマネージャーを務めているミヤコが、アクアに、そしてアクアの母であるアイに明かしていた。
その種自体は、壱護社長が蒔いたものだ。「今ガチ」で多少顔が売れていたとはいえ、それまでほとんど無名に等しかったアクアという役者が、たかが2.5次元舞台一個で名演を見せたところで、それがすぐさま次の仕事に繋がったりはしない。如何に今の2.5次元舞台が若手の登竜門として業界から着目されているとしてもである。
だから現状の、アクアにとって「ブレイク寸前」の雰囲気は、JIFが終わった後に凄まじい勢いで壱護社長がねじ込んだいくつかのバラエティー番組でテレビ局側に顔を売っていたことが要因としては大きい。東ブレでのアクアの演技は、そういう意味では「最後の一押し」とも言うことができた。
ここまで来れば、アクアは彼の意図を察することができるようになる。
つまり壱護社長は、そしておそらくはアイは、アクアとB小町を、ひいてはルビーのことを、可能な限り速やかにスターダムに押し上げようとしていた。
芸能事務所の社長として、自分たちの商品の価値を上げるためにあらゆる手段を惜しまないのはある意味で当然ではあるし、アイはアイで、自らの息子娘の芸能界における躍進を望む心理というのは、あって不自然ではない。
しかし、同時にアクアは思う。いくら芸能界において時流を掴むこと、旬を逃さないことは大事であるとはいえ、これはどうにも生き急いではいないか、と。
どう表現すべきか、アクアとしては難しい。しかしどうしても、壱護社長のアクアやルビーに対するプロデュースのやり方は、どこか何かに追い立てられているような、そんな
まるで、『タイムリミットまでにアクアたちをスターにする必要がある』かのような。
――いや、考え過ぎか。
アクアは思い直す。それはどちらかといえば、もう残りの期間が二年になったアクアの「父親捜し」のスケジュールを意識するがあまり、勝手に抱いてしまっている決めつけのようなものかもしれない。
そういう意味では、焦っているのはむしろ自分なのだろう。何せ、壱護社長の売り出し攻勢によって二月ごろからはかなりの密度で仕事が入ることが半ば既定路線になっているアクアにとって、二年という期間はその実際の響きに比べて圧倒的に短いのだ。
ぼさぼさとしていれば、あっという間に過ぎ去ってしまう。故にこそ、アクアはある意味、この宮崎旅行の間で父親捜しに関してはある程度の決着をつけなければならなかった。
そうだ。だからこそアクアは、覚悟を決めねばならない。
あかねに、十八年ほど前のララライの内部事情について調べてもらう。
それを思えば思うほど、アクアは胸が軋むのを自覚する。
どう取り繕おうとも、今の自分が客観的に見て「色恋で関係者を釣って内偵をさせる下衆」であることははっきりしているのだ。やっていることはまるっきりスパイのそれで、彼女に対するアクアの不義理はもはや極まっているとさえ言っていい。
良心が、咎めるのだ。自分がやっていることはどこまでも汚く、到底許されることではないと分かっている。
――何が、「最後にものを言うのは誠意」か。妹に対してそんな綺麗事を口にする傍らで、俺は誠意とはおよそ正反対の行いを、裏切りを、常にあかねに対して働いているではないか。
そう己を糾弾する己が、ずっと頭の中には居座っている。
しかし、それでもやるしかない。「黒川あかねを私欲によって利用している」と、その謗りは免れ得なくとも、ここまで来た以上はもはや後戻りは許されないのだ。
今から自分自身が劇団ララライの内部データベースを漁れるような立場になろうなどと、そんな悠長な選択ができるほど、時間に余裕などないのだから。
だって、そうではないか。そもそもアクアが最初に自らの父親を突き止めると決めたときから、もう十三年もの時が経っている。
確かに、今までアイとルビーの身に何も起こらなかったのには、すなわち彼女たちの身の安全を確保するにあたっては、アクアの尽力は多少なりとも存在はしていた。
具体的に言えば、アイの警護における人員の配置であるとか、現場が終わった後の帰宅ルートの選定であるとか、あるいはアイの自宅の位置をバレさせないようにするべく、アイの住民票における現住所を苺プロの用意した別物件――規模の大きくなった苺プロの第二オフィスとして活用しているものだ――に設定して、郵便物や宅配の類もそこに届くように徹底するであるとか、そういった細部にわたる進言の類を、アクアは壱護社長たちに積極的に行ってはいた。
しかしそんな諸々の「対策」について、それを実際に遂行していたのは結局のところ壱護社長で、そしてミヤコだ。つまりアクアは、アイたちの身の安全に直接コミットできていたわけではない。
口だけは一丁前でも、実際に身体を動かしてアイを護っていたわけではない。それは覆しようのない事実である。
ならば結局、今のアクアはその上に、彼らの努力によって作り出された安寧に、胡坐をかいているに過ぎないのだ。そう断ずるよりない。
故にこそ、だったらせめて、決定的ともいえる手がかりを掴んだ今、十数年越しの「父親捜し」に決着をつけに行かねばならないのだ。でなければ、アクアはもはやアイにも、そして壱護社長やミヤコにも顔向けできない。
元々常に自身の生涯における一大目標であり、必ず為さなければならないものであった「父親捜し」という業は、もはや今のアクアにとっては、本当の意味で全てに優先して成し遂げねばならない喫緊の課題へと変わっていたのである。
そしてそんなことをずっと考えていたが故に、アクアは宮崎旅行の日が近づくにしたがって、どうにも物思いに耽ることが多くなっていた。
アイやルビーはそんなアクアの様子をどこか訝しがっていたようだが、しかし彼女たちの方も、アクアに直接その理由を問うてくることはなかった。「そういうこともあるか」と、そんな程度で放念してくれているのだろう。今回ばかりは、彼女たちのその配慮がアクアにとってはありがたかった。
斯くして、年が明けて最初の三連休がやってくる。
その初日の土曜日の朝、アクアたち苺プロの面々の姿は、羽田空港の国内線出発ロビーにあった。
当然にと言うか、そこには黒川あかねの姿もある。
「えっと、……お邪魔します」
ベージュのキャリーバッグを手に、どこか肩を竦めるようにして、あかねはアクアの隣の場所から全員に向かって頭を下げる。
もっとも、あかねにとって苺プロの面々は必ずしも初対面というわけではない。特にミヤコと壱護に関しては、いつぞやの移籍騒動――という名の「あかね銭闘計画」の後始末の時に一度会っている。この中であかねに直接の面識がないのは、それこそアイとルビーぐらいのものであると言えた。
故にそこまで他人行儀になる必要もないのだが、こればっかりは彼女の持って生まれた人間性なのだろう。
「来たわね、黒川あかね」
と、そんな彼女目掛けて、一歩を踏み出す人物がいた。つかつかと歩いてあかねの前に陣取り、腰に手を当ててそんな言葉を宣う。
「あ、かなちゃん」
言うまでもなく、有馬かなであった。
その姿を視界に入れて、あかねがふと顔を綻ばせる。縮こまっていた肩もまた、籠っていた無駄な力が抜けたのか開いていた。
「ありがとうね、かなちゃん。誘ってくれて」
いつもの二人の間の空気感はどこへやら、随分と柔らかい言葉遣いで、あかねがかなに対して礼を述べる。
しかし対するかなは、自らがどこか挑みかかるような態度であかねに声をかけたところから、却ってそんな真っすぐな言葉を浴びせられたことで、僅かばかりたじろいでいた。
「……別に。アンタがアクアを『家族旅行に拉致っていく』なんてトンチキ言うから、それよりはってだけよ。感謝される筋合いはないわ」
顔を背けて、そんな憎まれ口を叩いてみせる。ただその声色に、鋭さも力もなかった。調子が狂う、と言ったところだろうか。
ただ一方のあかねは、むしろそれを聞いて更にもう一歩ほどかなに近寄ってみせた。
「それでも、だよ。私、同年代と一緒の旅行なんて今回が初めてだから、すごい楽しみにしてて。二泊三日、よろしくね?」
こてんと首を倒して、かなにそんなお願いまで口にする。
アクアにとってもあかねのその態度はいささか不思議なものに映ったが、ただ彼女の心情は理解できなくもない。
「苺プロ」という集まりの中に唯一参加して、「外様」を意識せずにはいられなかったところに、たとえそれがどういう関係性であるにしても慣れ親しんだ顔が現れれば、態度が自然と柔らかくなるのは人情としたものだろうから。
「……勝手にしなさい」
「あっ、ちょっと……」
が、それを真正面から受けるかなにとってはやりにくいことこの上なかったのだろう。そんなあかねの圧力から逃げるように、捨て台詞を吐いて彼女は逃げ出してしまった。
まあ、こちらもこちらで分からないでもない。というより、かなはこういう真正面から向けられる感謝の念のようなものに慣れていないのだ。
良くも悪くも擦れてしまっているというか、これもまた長年の芸能生活の中、芸能界を一人で戦い抜いてきたことで身に着けてしまった防御反応のようなものなのかもしれない。
どこか微笑ましくもそんなかなの姿を見送って、しかし彼女の姿が離れるや、突如今度は別の、さらに一人の声がアクアたちの横からかけられた。
「わっ、ほんとにあかねちゃんだ……!」
軽い足音を響かせながら、その声の主がアクアたちの――と言うより、あかねの方へと駆け込んでくる。
そしてそのままあかねの正面に回った彼女は、つまりルビーは、何の遠慮もなくあかねの両手をその手に取った。
満面の笑みで、ルビーがあかねを見つめる。その紅玉の瞳は、こちらから見ても分かりやすいほどに爛々と輝いていた。
「あ、え、えっと……ルビーさん、ですよね?」
「はいっ! アクアの妹のルビーです! 名前憶えてくれてるんですね! ありがとうございます!」
今にもその手をブンブンと振り回しそうな勢いで、ルビーはあかねにぐいぐいと迫る。
そうなれば、今度はたじたじになるのはあかねの方だった。
「『今ガチ』見てました! あと『東ブレ』も! なんか、もう凄かったです! キラキラしてて、すっごく綺麗! って感じで!」
「あ、ありがとう、ございます……?」
いや、というより初対面のはずの相手にここまで物怖じせずに絡みに行くこと自体が普通ではないのだ。あかねの反応の方が、むしろ自然だろう。
我が妹ながら、途轍もない肝の据わり方をしている。これでライブの前やらでは一丁前に緊張してみせるのだから、分からない。そう、アクアは率直に思わされていた。
「いや、ホント! ってか、あかねさん近くで見るとすっごい綺麗! 可愛い! 声も綺麗だし! 羨ましい~!」
「そんな……可愛いのはルビーさんの方がずっとですよ。JIFの時も……」
「あ、そう言えば見に来てくれてたんですよね! ありがとうございます!」
「あっ、えと……」
がっしりと手を握ったまま、そんな調子で容赦なくあかねに言葉を浴びせかけるルビーに、しかしそろそろアクアは声をかけることにした。
「その辺りにしとけ。あかねが困ってる」
そこでやっと、ルビーの視線があかねから外れる。
アクアの方をちらりと見て、そして彼女の纏う空気が露骨に変わった。
「あ、お兄ちゃん。いたんだ」
「いたんだ、じゃないだろ」
途端にいつものテンションに戻った妹のある種露骨な態度に、アクアは溜息を吐く。
もっとも、アクアからすればルビーのこう言ったミーハー気質は今に始まったことではない。アイが最推しであることはずっと変わらない彼女だが、しかし高校に入学するタイミングでは「不知火フリルちょーかわいいマジ推せる」と、自らのクラスメイトであるフリルを相手にきゃーきゃー言っていたのをよく覚えているし、今ガチの打ち上げの後、MEMちょを苺プロの事務所に連れてきたときの彼女の反応もまた、記憶に新しい。
まあ、それによって人生を楽しめているのであれば、アクアからすればとやかく言うものではないのかもしれない。当然、それには「誰にも迷惑をかけなければ」という但し書きこそつくが。
――推しがいると、世界が輝く!
いつかどこかで自分にそんなことを言った少女の影が、そこでふとアクアの脳裏にちらつく。
頭を振る。それは過去のことだ。努めて、認知の外へと追いやった。
しかし、そんなことを思っている間にも、ルビーの暴走はまだ続く。というより、そこからが本番ですらあった。
あかねに視線を戻すなり、握ったままの手を胸の方に持ってきて、思わせぶりな表情を彼女は浮かべる。
「あかねさん、こんな兄ですけど、どうか『末永く』よろしくお願いします!」
そして何を言うかと思えば、これである。
――お前それ、分かってて言ってるのか。
一瞬そうツッコみそうになったアクアだが、立て続けに放たれた言葉にアクアはルビーの真意を察せざるを得なかった。
「私もあかねさんみたいな『お姉ちゃん』が出来るなんて、夢みたいです!」
「おねっ……えぇぇ……っ!?」
つまりはそういうことだ。恐ろしいことに我が妹は、「末永く」という言葉を文字通りの意味で使っていた。誤用でもなんでもなかった。
「何言ってくれてんだお前」、と、よっぽどアクアは言いたかった。
何せ、いくらなんでも気が早すぎる。と言うより、アクアの認識からすればあかねとは正直なところ『そういう関係』ではないのだから、ルビーのその早とちりにもほどがある爆弾発言はすぐさま否定しなければならないものだった。
が、今それをやってしまっては確実に墓穴を掘る。火を見るよりも明らかだ。
どうしたものか。そう内心悩ましく思っていたところを、しかし思わぬところから助け舟はやってきた。
「ルビーちゃん、そのぐらいにしておこ? 私にも挨拶させてよ」
どこまでも聞き馴染みのある朗らかな声が、更に横からアクアたち三人のやり取りの中に割り込む。
反射的に振り向いたアクアと、そしてルビーの視線の向こう、紫紺の輝きを瞳に宿した黒髪の女性が、自らに指を差しながらも笑顔を浮かべていた。
「初めまして、だよね。アイでーす。よろしくねっ」
「は、はい。あの……黒川あかねです。お初にお目にかかります」
ルビーに手を掴まれたまま、あかねがその女性――アイと視線を合わせる。
相変わらず、こうして外にいるときに正面から見る彼女は、天真爛漫を体現するような煌めきの中に隠しきれない強烈な存在感を内包し、そして周囲に放っている。そう、半ば反射的に思わされた。
それは天性のものか、長年芸能界の頂点近くに君臨してきたものとして培われたであろう「大御所のオーラ」のような何かなのか。いや、その二つが組み合わさってのものなのだろう。
当然にというか、そんな彼女と真正面から相対することになったあかねはどこか気圧されたような様子でぺこりと一つ礼をする。
「今回は、その……お世話になります、アイさん。私の分のお金、全部そちらから出していただけるということで、本当に恐縮です」
「え? いやいやそんな畏まらないでいいよー。私がお世話するわけじゃないし、てかお金出すのアクアくんだしさ」
が、それを受けたアイの方はあくまでもフレンドリーさを崩すことなくそう言って、さらにあかねの方に近づいた。
目配せを受けたルビーが一つ頷いてあかねから手を放し、一歩引く。その間にアイが入り込んで、あかねの正面に立った。
背格好の関係でほんの少しだけ見上げる形になるアイが、トレードマークとも言える笑顔を浮かべたまま再び口を開く。
「アクアくんにもよくしてくれてるんだよね? ありがとっ」
「あ、はい。それは、こちらこそというか」
初対面の相手であっても何一つ構えたところがないアイの様子にか、あかねは少し困惑気味にも映る。或いは、畳みかけるかのようなアイのペースに呑まれていると言った方が正しいだろうか。
無論、アイの方は全く調子を変えない。うんうん、と大きく頷いて、自らの身体の前で軽く両手を合わせた。
「私もさ、あかねちゃんとは一回お話してみたいなぁって思ってたから、楽しみにしてたんだよー」
「そう、なんですね。なんと言うか、光栄です」
「だからさ」
アイはそこで言葉を切る。わざと更に少しだけ腰を屈めて、上目遣いを演出して、人差し指を立てた。
「あんま固くならないで、ね。仲良くしよっ」
そう言って、彼女が片目を瞑るのと同時に、辺りに空港のチャイムが鳴り響く。
羽田発熊本空港行き*1の国内線のチェックイン手続きが始まったことを告げるアナウンスだ。ソファに腰を下ろしていたMEMちょが、ミヤコが、そして壱護社長が、立ち上がった。
「……じゃ、そろそろ行こっか」
俄かに慌しくなり始めた空気に遮られて、アイとあかねとの間の会話は、そこで打ち切られる。
その言葉と共にあかねから背を向けたアイの後を追って、アクアたち三人もまたチェックインカウンターへと歩き始めた。
斯くしてあかねにとって、アイとの初めての邂逅は、そんなどこかある種一方的なやりとりに終始する形で、その幕を閉じた。
アクアの――否、「吾郎」としての経験が物語るに、空の旅と言うのは基本的には自宅から空港に着くまで、正確に言えば飛行機に乗るまでが一番大変なものである。
逆に言えば、ひとたび機内に入って、そして離陸してしまえば、もうあとはあっという間ということだ。無論、国際線ともなれば勝手は全く違ってくるが、国内線に限ってはそういう印象が、アクアの中では先行していた。
今回もまた例外ではない。羽田と熊本との間のフライト時間は一時間四十五分ほどであるが、そのうちの最初の三十分と最後の三十分は離着陸に充てられているために色々と慌しく、機内で気を抜いていられる時間は結局四十五分ほどしかない。横に座っていたあかねは飛行機に乗ることなど海外旅行のタイミングでしかないからか、退屈しのぎに色々と話のタネを考えてきてくれていたらしいのだが、結局その十分の一すらも消化することなく、まさしくあっという間に熊本空港へは辿り着いてしまった。
目的の空港へと無事降り立った苺プロとあかねの一行は、そこでレンタカーを調達する。
今回は八人という大所帯である故に、そして各々がそこそこ大きなキャリーケースを持ってきているが故に、借りたのは小型のマイクロバスだ。
壱護社長を運転手として、一路アクアたちは東へと向かった。
宮崎行きの旅行であるというのに、何故アクアたちは宮崎空港ではなく、わざわざ熊本空港へとやってきたのか。それは、これから一行が向かわんとしている場所に関係している。
宮崎県は、九州の中では鹿児島県の次に大きい県である。つまり広さと言う意味ではなかなかのものだ。そしてその中で、アクアたちが今回向かおうとしている場所は、県の北西端の山合いに存在していた。
――宮崎県、高千穂町。
アクアからすれば、それはもはや運命ではないかと皮肉すら吐きたくなるほどの、因縁の地である。
アクアの生まれた地であり、「吾郎」の実家があった場所。
天童寺さりなと出会い、そして無力のままに彼女を見送らざるを得なかった場所。
アイ――星野アイの担当医となり、彼女の双子の子供の出産を手伝って、そしてその末に、自分が殺された場所。
その全てが、他でもない高千穂という、この長閑な
ともかくも、これからアクアたちが行くところは、そういう立地にある。
そしてかの地に向かうにあたっては、県の南東端に位置する宮崎市の更に東の海岸沿いにある宮崎空港から、東九州自動車道を使って延岡経由で延々と陸路移動を強いられるよりは、熊本空港から阿蘇経由で山を抜けてくる方が圧倒的に早いのである。それこそ、一時間は違ってくる。
そんな常識的な判断によって、アクアたちは熊本方向から高千穂へとアプローチしようとしていた。
行きの飛行機の座席順とは違って、今アクアの横にはルビーが座っている。かなの隣にMEMちょ、ミヤコは助手席で壱護社長と隣り合わせであり、そして半ば余り物のような組み合わせで、あかねはアイと隣り合わせるように席についていた。
もっとも、それを積極的に望んだのは実のところアイである。どうやら彼女は、アクアが思っているよりも強い興味を、黒川あかねという少女に対して持っているらしい。出発前、羽田空港で彼女に対して述べていたことは、決して嘘ではなかったということなのだろう。
それは果たして、役者としての黒川あかねに対する興味なのか、それとも「アクアの恋人」としての彼女へのそれであるのか、またあるいは別の何かなのか。
アクアには見当もつかない。彼女たちが話している、と言うよりも、アイの方が積極的にあかねに対して話しかけているらしいその中身も、アクアの位置からは詳しく聞くことはできない。
しかし、アクアはひとまずそれについては捨て置くことにした。聞きようのないものをここから気にしても仕方がない。アイがあかねに対して悪い感情を持っていないこと、そしてそもそも『あかねの名前をしっかり覚えている』ということが分かっていれば、今のところは十分だ。そうやって、自らを納得させた。
だからむしろ今、アクアとして少しばかり気掛かりなのは、隣に座っているルビーの方だった。
熊本空港に着いたときこそ、その物珍しさにかありとあらゆるところにスマホのカメラを向けてはシャッターを切り、興奮しきりの様子だった彼女が、しかし車に乗って阿蘇の山道を越え、宮崎県の県境を跨いだころから、俄かに静かになった。
具体的には、山道の中一つの案内標を目にしてからである。
「ようこそ 神話と 渓谷と 安らぎの町 高千穂へ」。国道218号線の只中、熊本方向から宮崎県に入って暫くののち、アクアたちの目の前に現れたそれは、いよいよ一行が目的地たる高千穂町へと足を踏み入れたことを端的に示していた。
それが何を意味するかなど、アクアでなくとも理解できるだろう。
つまりルビーは「高千穂」という地名そのものに、何か思うところがあるのだ。その態度を、彼女は隠そうともしていない。
「転生による記憶の持ち越し」などと言うインチキをしている身で何を言うかと言う話だが、アクアは自らがアクアとしてこの世に生まれ落ちたあたりのことは、幼児期健忘によってもはやあまりよく憶えていない。
そこだけ真っ当な人間としての認知機能を踏襲しているのが何とも言えないところだが、アクアがまともに覚えている最初の記憶というのは、ルビーと一緒にアイの販促ライブでサイリウムを一心不乱に振ったあの一連の出来事ぐらいなのだ。
まあ、あれもアクアが一歳になったかどうかの頃のことなわけで、それを記憶しているのならば十分に立派とも言えようが、ともあれ重要なのはそこではない。
つまりルビーは、そしてアクアも、アイがあの病院――宮崎総合病院で二人を産んだ直後のことなど、高千穂のことなど、全く憶えてはいない。そのはずなのだ。
なのになぜ、彼女はこの地に対してそこまでの反応を示すのか。アクアの知らないところで、アイから自らの故郷のことでも聞いていたのか。
あるいはそれとも、
反射的に、脳裏にまた『あの記憶』がちらつく。春に出会い、ただ一年の時を過ごし、しかしそれはどこまでもあの鎖された病院の世界から出ること能わずに、「次の春、B小町のライブが宮崎であるから一緒に行こう」などと、そんな叶うことのない希望を抱かせたままに、鈍色の季節の只中に消えていった、一つの命の灯火のことが。
しかしそれを、アクアは強く打ち消した。もはや何度目かも分からないほどに、眼前の妹とあの少女の影を重ねる自分のことを、強く戒め、諫め、そして恥じる。
それは、やってはならないことだ。侮辱なのだ。星野ルビーという、今世における我が愛すべき妹に対しても、そしてあの日の少女に、天童寺さりなに対しても。
故にアクアはそんなルビーの様子に何も言うことはできず、斯くしてそこから二十分と経たずに、一行は目的地――高千穂の道の駅へと辿り着いた。
日本の田舎というのは、港町でもない限りは基本的にその九割が盆地である。
それは高千穂においても全く例外ではない。一月上旬の冷えて澄み切った空気は、山を越えて吹き付ける寒風と相俟って厚手のコートから露出した肌を切り裂くようにも感じられた。
そんな冬の盛りの寒空の中、この高千穂の道の駅にて、一人の女性がアクアたちのことを待ち受けていた。
「遠路はるばる、ようこそお越しくださいました! 」
高千穂の道の駅名物である、アメノウズメとアメノタヂカラオの大きな顔の石像が鎮座する場所のすぐ横で、右手をアクアたちの方に伸ばすようにして、その彼女は言う。
黒髪の一部に菫色のメッシュを入れ込み、額に丸縁のサングラスをかけている、どこかパンキッシュな出で立ちの女性だ。
「映像ディレクターの『アネモネ』です! 今回、B小町の皆さんのMV撮影を担当させてもらいます」
切れ長の目の中、瞳には好奇心の光が宿っている。B小町の三人に対して、如何にも興味ありげな様子だ。それを証拠に、彼女の表情もまた、どこか面白そうな笑みを湛えている。
人当たりもよく快活でありながら、しかしクリエイターらしい事物への執着、職人気質な部分も同居している。アクアはこのアネモネと自ら名乗った女性に、そんな印象を持った。
インフルエンサーにしてクリエイター、と彼女のことを評したMEMちょの物言いは、確かにこれならば言い得て妙だろう。壱護社長が責任者としての挨拶にかかるより前、アネモネとハイタッチを交わしながら旧交を温め合っているMEMちょを見つつ、彼女自身のインフルエンサーとしての人脈の広さに、アクアは改めて舌を巻いていた。
大人たちが事務的なやり取りをしている横で、子供組――と言うよりB小町の三人は、でかでかと据えられた石像と一緒に記念撮影に勤しんでいる。
そこから少し離れた場所では、あかねがそんな三人の様子を微笑ましく眺めながら、ちゃっかりその姿をスマホのカメラに収めていた。
……いや、違う。よく見れば彼女のレンズが映しているのはかなだ。というより、かなしか映っていない。
柔らかな微笑みを浮かべながらも、そこから微動だにせずあかねはひたすらかなの姿をカメラで切り取り続けている。言葉一つ発することなく。
アクアは、さっと目を逸らす。見なかったことにした。
なんと言うべきか、東京ブレイドでかなの「取り戻した」演技を間近に見てからと言うもの、あかねのかなに対する接し方はどこか変わったような気がする。当人同士が正面きって話すときにこそ未だ妙な緊張感が漂っていることは確かだが、しかしそれ以外の部分において、あかねはかつての「有馬かなに憧れていた幼き日の自分」のことを、少しずつそれとなく表に出しているようにも思われるのだ。
遠い昔、巡り合わせの不幸によって捻じ曲がってしまった自らの過去の憧れが、「東ブレ」のかなの芝居をトリガーにして、反動となって出てきている。そんなところだろうか。
無論、だからと言ってあかねは、かなを単に「憧れるだけの対象」として見ているわけでもない。事実として「東ブレ」の公演の最中においては、彼女たちは常に互いに火花を散らすような対抗意識をむき出しにした芝居をずっと続けていた。
すなわち、あかねとかなの二人の間においては、「相手に打ち克つ、相手を超えてみせる」という意思は変わらず強く存在している。在りし日の憧憬によって目が曇ってしまっているわけではない。
であるとするならば、むしろ今のあかねのこうした「変容」というのは、きっとあかね自身にとっても悪くないことなのだろう。敢えて良く言えば、彼女がかなに対してずっと懐いてきた屈折した感情が正常化していくステップだ、とも評価できるのだから。
――まあ、何にせよあかねのあれはおそらく一過性のものだ。かな自身に迷惑をかけない分別も弁えているようだし、そっとしておくのが正解だろう。
そう思いながら、道の駅の先に続いていく高千穂の山々の、雪によって白んだ稜線をぼんやりと眺めていれば、そんなアクアの手持ち無沙汰そうな姿を見てか、話しかけてくる声があった。
「いい場所でしょ、ここ」
横を見る。そこにいたのはアネモネだった。にんまりとした笑みを浮かべて、彼女はアクアのことを見ていた。
「そう、ですね。自然が多いですし、ゆっくり時間が流れてる気がします。東京とは違って」
「だよねぇ! 私そういうのが気に入って、ここでお仕事してるんだぁ」
「……アネモネさんは、ここが出身というわけではないんですか」
「うん、そだよ。こっち来たのは、純粋にここが好きだから」
その彼女の言葉に、図らずも少しばかりの嬉しさを持ってしまうのは、結局のところ「吾郎」としての記憶が、この場所を自らの故郷だと認識しているからなのだろうか。
「それ以外にもー、ここはいろいろ神社があったりもして。パワースポット、的な? だからお客さんも割と喜んでこっち来てくれるし、悪くない場所なのよね」
「あ、知ってますそれ! 芸能の神様が祀られてる神社があるんですよね!?」
そこに、さらに一人の声が、そして小柄な影が割り込んだ。
赤銅の髪の上、黒い野球帽を被ったそれはつまりかなであった。その後ろからは、おそらく一頻り写真を撮り終えたであろうMEMちょやルビーも同じように近づいてくる。
「そうそう。名前は、確か……」
「アメノウズメノミコト、ですよね。そこの石像の、女形のお面の方。それと、かなの言ってた神社は、『荒立神社』って名前だ。ここからはそこまで遠くない場所にある」
「あ、それそれ! アクアくん、だっけ? よくご存じで!」
「いや、まぁ……」
途端に気まずくなって、目を逸らす。
かつて自分はこの街に、吾郎として住んでいたのだ。そのぐらいのことはある意味常識に近い。なんとなくそれを褒めそやされるのは、違うような気がした。
「芸事の神様なら、やっぱお参りは外せないわよね! ここ来たの初めてだし、何かのご縁ってことで!」
アクアとアネモネの話を聞いて、かなが俄かにその表情を輝かせる。
芸能の世界に携わる人間は、意外とこういう縁起ごとやおまじないを重視する。舞台に入るにあたっては神主を呼んで祈祷をするし、映画の撮りはじめには成功祈願の願掛けを関係者一同で行う。
「東ブレ」の舞台稽古においても、その稽古場には神棚が置かれていた。
芸事の起源が、神と人とを結ぶ御神楽、神事にあるという面は、やはりそこに大きく作用しているのだろう。
もっとも、アクアは彼らのそれとは全く別の『事情』によって、神、というよりも、人の科学によっては解き明かすことのできない不可思議な何かがこの世には少なからず存在するということを、認識させられていたのだけれども。
「ああ、そうだな。どっかで荒立神社には全員で参拝しよう。だけどな」
と、そこに更にまた一人、男の声がする。アクアの背後からだ。
そしてこの宮崎旅行の中、アクア以外の男というのは一人しかいない。
「君たちのスケジュールはちぃっとばかし詰まってるんでな。MV二本撮りだし。……ってことで」
アクアの振り返った先、果たしてそこにいた、サングラス兼用のいつもの眼鏡で目元を隠した壱護社長が、あえて冷や水を浴びせかけるようにB小町の面々に告げる。
そしてそれを受けたアネモネが、手近な位置にいたかなの肩をがしっと掴んで、そのまま彼女を引きずるかのような力強さで歩き始めた。
「そうそう! 申し訳ないんだけどー、B小町の皆さんは今から衣装に着替えてスタジオに入ってくださいねぇ! スケジュール押してるんでぇ!」
「あ、えっちょ、アネモネさんっ!?」
いきなりのことに一瞬たたらを踏んだかなが、最終的には押し出されるようにアネモネの前を歩かされる様を見つつ、壱護社長はいつの間にかアクアの側に立っていたミヤコに言う。
「じゃあミヤコ、スタジオの方は頼んだ」
「ええ。けど、壱護はどうするの?」
「ああ。……ちょっと、な」
ミヤコからの疑問のまなざしを受け、彼は自らの横にいるアイをちらりと見遣った。
「そーそー、社長と私はちょっとここで用事があるんだよねー」
視線を向けられたアイが、壱護社長の言葉を継ぐかのようにそう言う。
「ま、別に大した用事じゃないからすぐにスタジオ行くよ。行って二時間ぐらいかな? そんなにもかからないかも。みんなのアイドルやってるとこも、すっごく見たいし!」
「……そう、分かったわ。なら、こまめに連絡は頂戴」
「だいじょぶだいじょぶ! 分かってるって!」
そう言ってひらひらと手を振って見せたアイをもう一度だけ一瞥して、ミヤコは先に歩いて行ったB小町の面々に追いつくべく小走りに去ってゆく。
果たしてこの高千穂の道の駅には、アクアとあかね、そしてアイと壱護社長の四人が残された。
「……ま、そーゆーことだから」
一瞬生まれた沈黙を埋めるように、アイが声を発する。
「アクアくんたちはどーするの? やっぱデート?」
眼前のアクアと、そしてやや遠巻きに今までのやり取りを見守っていたあかねとの間で視線を彷徨わせながら、アイがそう問うてくる。
アクアも彼女に倣って、あかねに対して目配せした。無言のままに、彼女をアクアの横に呼び寄せる。
その意を汲んだか近づいてきたあかねを隣において、アクアはアイに向かって一つ頷いてみせた。
「まあ、そうですね。ちょっとその辺りぶらぶらしようかと思います。五時間、六時間ぐらい。終わったらスタジオに行こうかな、と」
「いいねいいね、それがいいよ! 行ってらっしゃい!」
いつも自宅の中で見る彼女とは全く違う、
「それじゃあ、あかねちゃん。アクアくんのこと、よろしくね?」
「えっ……あっ、はい! こちらこそ!」
あかねの返答に笑みを浮かべて頷いて、そのままアイと壱護社長の二人は、アクアに背を向けて歩き去ってゆく。
そんな二人の様子を見送りながら、アクアは無意識のうちに自らの胸に手を当てていた。
「……どうしたの? アクアくん」
あかねが、アクアの方をのぞき込むようにしながら、問いかけてくる。その時初めて、アクアは自分の今の振る舞いを自覚した。
慌てて手を下ろし、そしてその手をそのままあかねに向けて差し出す。
「なんでもないよ。じゃ、とりあえず俺たちも行こうか。『埋め合わせ』だし、まずはあかねが行きたいところに行くってことで」
そうすれば、しばらくの沈黙と停滞の末に、あかねの方からも、おずおずと手が伸ばされる。
あかねの左手が、アクアの右手に結ばれる。隣り合わせて手を繋ぎ、二人もまたこの道の駅から歩き出した。
彼女の手の温もりを、確かに掌に感じる。
ついさっきまで覚えていた言いようのない胸のざわつきを、しかしそのひと時だけは、アクアは忘れられるような気がした。
メルトが特撮の役をもらった話については、これ実写の配役が発表される前に考えていたことです。なので思いっきり現実に追突されました。
あと、本話にはアニメで挟まれてた小ネタをちょくちょく入れています。
そして次回は、アクあかデート回です。