――まずは、あかねが行きたいところに行こう。
道の駅から出立して、いざどこへ行こうかとなった折に、アクアはそうあかねに告げた。
その理由もまた、彼は口にしていた。つまりこれは、「埋め合わせ」であるということだ。
元々は、舞台の下見のために二人で行くことを予定していたステアラ観劇の「デート」が鮫島アビ子や吉祥寺頼子をも引き込んだ大所帯になってしまったことへの埋め合わせを、アクアがあかねに持ち掛けたことから始まる。だから最初、それはあくまでも別の日に別のデートを企画してもらうぐらいの軽い口約束でしかなかった。
しかしその後、抜き稽古のさなかにてアクアの身に起こったあの異変に、それを目の当たりにした夜に、あかねが内心において定めた一つの決心のもとアクアを自らの家族旅行へと誘ったのが、ある意味では転機だった。
結局、旅行の話自体は今回のMV撮影の宮崎旅行のこともあって流れてしまい、代わりにあかねがこの「苺プロの身内旅行」にお呼ばれする次第に相成ったわけだが、それをアクアはきっとどこか負い目のように思ってしまっているのだと、あかねは見ている。
よって彼からすれば、今あかねと過ごしている二人の時間とは、言ってしまえば「埋め合わせの埋め合わせ」、のようなものなのだろう。きっと。
本当に、律儀者である。そして気にしいである。あかねからすれば、アクアとこういう二人の時間を持てているだけで十分に満足であったし、むしろあかねはそんな今だからこそ、彼には休息の時間を与えてやりたかった。
何も考えず、ただ羽を休める。そんなひと時を、彼には持ってほしかったのだ。
徐に身を寄せて、そしてアクアの手を握りこむ。単なる手つなぎから、指を絡ませるような恋人繋ぎへ。冬の寒さの中に、熱源である互いの指の、掌の温もりを与え合うように。なんとなく、今の彼はそれを望んでいるような気がしたから。
そしてあかねは、顔を上げた。アクアを覗き込むようにして、口を開いた。
「じゃあ、私が行きたいところ、いくつか行こっか。高千穂なんて来たことなかったから、行きたいところ何個かピックアップしてたんだよねぇ」
努めて明るく声を張って、自由な右手であかねはスマホを取り出す。
「まずは……ここ。『天岩戸神社』。アマテラスの、天岩戸伝説がある場所なんだって」
「いいけど……でもそれここから結構遠くね? 平らなところ行くと八キロぐらいあるぞ」
「確かに。じゃ、最初はちょっと普通の場所だけど、『こっち』からいこっか」
冷静なアクアのツッコミにいつもの彼を感じて、あかねはくすりと笑う。そしてスマホの中もう一つの候補地を示した。
「高千穂峡」。もはや全国区となった、超有名なフォトジェニックスポットである。
こちらは、道の駅から比較的近い。距離にして一キロと少し、歩いて二十分ほどの場所だ。どうだ、とばかりに今一度アクアの方を上目遣いに見てみれば、彼は真剣な顔であかねのスマホを見ていた視線をこちらへと合わせて、僅かに表情を綻ばせた。
「いいんじゃね? 俺も賛成。けど、その前に」
そこまで言って、アクアは顔を今しがた後にした道の駅の方へと向ける。
「先にメシにしよう。ランチ時だしな」
振り返り、微笑んだ。
その声の色は、つい今しがたアイやアネモネと交わしていた言葉の響きに比べて随分と柔らかいもので、故にあかねはそれが無性に嬉しくなって、同じように顔に笑みを浮かべながらも頷いた。
「うん! そうしよっか」
今来た道を戻りつつ、しかし最低でもあかねにとって、その足取りは軽いものであった。
道の駅併設のレストランで腹拵えを終えた――共に「高千穂牛丼」なるご当地メニューを頼んだアクアとあかねであった――二人は、そのままの足で高千穂峡へと向かった……わけではなく、一度観光案内所を兼ねたバスターミナルに立ち寄った。
そこで一つ、『借り物』をする用があったからである。
「いやぁ、頼るべきは、『文明の利器』、だよねぇ」
辿り着いた高千穂峡、その駐輪スペースにて、
「全くだな。高千穂は山ばっかだし、色々巡るってなると、こういうのがないとキツい」
あかねに賛意を示しながら、ヘルメットを取ってこちらも自転車からその身を降ろしたアクアに、しかし少しだけあかねは気になったことを問う。
「アクアくん、この場所来たことあるの? なんか色々手際いい感じだったし、地理にも詳しそうだし」
それに、アクアはわずかの時間静止した。自転車から降りようとした姿勢のまま、あかねの方に視線を合わせて固まって、暫しの後に息を吐く。
「まあ、多少は。……俺、実は生まれはここなんだよ」
「ここ……って、高千穂ってこと!?」
「ああ」
驚きに声を上げたあかねに、しかしアクアは冷静な声の響きを崩すことなく返してきた。
事実、それはあかねにとっては強い衝撃を伴った事実であった。勝手に、アクアは東京生まれ東京育ちであるという印象を持っていたからである。
こればかりは偏見であると自覚しているが、アクアのどこか日本人離れしたような容姿が、この高千穂という神話の町にはどうしても馴染まない。
いや、そればかりではない。「あの日」よりあかねがアクアの出生に対して思っている「確信にも近い推測」を基にすると、「『彼の母親』はわざわざ高千穂くんだりまでやってきてからアクアとルビーを産んだ」という結論が導けてしまう。
有り得るのだろうか。いや、そういうこともあるのかもしれない。これほどの僻地を選んだ理由が、「世間の目から自らを徹底的に秘匿するため」であるというのならば。
――いや、今はそれはいい。
暗い影を内包した予想を、その思惟を、しかしあかねは努めて追い出す。アクアに悟られないように、「黒川あかね」自身を自分に憑依させるようにして、あかねはアクアの言葉に反応してみせた。
「じゃあ、実はこの旅行、帰省も兼ねてだったりする?」
然るにアクアは、その問いに何とも言えない笑みを浮かべる。
「違うんだよ、それが。あくまでMEMの知り合いのクリエイターにMV撮影頼むって話が先で。その人の拠点が高千穂だったのは、本当に偶然」
「ひえぇ……すごい確率だね、それ」
「……まったくだ」
アクアの声色に、表情に、嘘は見られない。無論、あかねが今そうしているように、アクアの方も演技の仮面をかぶってこの場を誤魔化そうとしている可能性は無きにしも非ずではあったが、それでも彼の語る言葉には不自然な点も、矛盾もない。
ならば、きっとそれは本当のことではあるのだろう。
まさに、天文学的確率とも言うべき事象だった。聞く人が聞けば、「もはや運命ではないか」と断じてしまうほどの。
「ま、それはいいだろ。とりあえず、行こうか」
感嘆しきりのあかねをよそに、アクアはどうにも淡々とした態度のまま、いよいよ自転車から降りてあかねの方へと近寄る。
そのまま、自転車に乗りこむ前にそうであったように、彼は再び自らの右手をあかねに向かって差し出してきた。
また、手を繋ごうと言っているのだ。そのことに少しだけ胸を温かくして、あかねは頷く。
程なく二人の空間は、互いの手によって、指によって結ばれた。
緑生い茂る、観光シーズンとしては旬の五月あたりとは様相を異にして、一月の高千穂峡は苔むした岩肌が武骨に峡谷に対して反り立っているような、どこか厳かさすら覚える威容を見るものに印象づけている。
冬の寒さに命は枯れ、空の低きにある陽光はこの場に届きはしない。どこか荒涼として、しかしその中に宿る次の季節への展望が、その熱が、奥底には渦巻いている。
高千穂峡一番の名所とも言われる「真名井の滝」のほど近くに架かる橋から渓谷を見下ろし、あかねはそんな自然のダイナミズムのようなものを、この場所から感じ取っていた。
オフシーズンに近いとはいえ、三連休ということもあってか人の姿はそこそこある。静謐な空間を二人だけのものにするほどのロマンチシズムは、ここにはない。
されど今、遠くに聞く人々の話す喧噪と、眼前に見える瀑布の奏でる水音と、その二つは相容れないもののようでありながら、ともにあかねとアクアの時間を、この空間の中で切り取って、浮き上がらせているようにさえ思う。
「今まで、さ。デートとかでこういうところ、来たことなかったよね」
自然と、あかねからはそんな言葉が漏れ出ていた。
「こういう? ……ああ、自然とか、そういう話か?」
「うん」
すんなりと察してみせたアクアに、あかねは肯く。
「まあ、確かに。都心にいると、どうしてもな」
「そうだね。でもさ、神宮の森とか、御苑とか、東京でも公園デートみたいなの、してもよかったかなって、今ちょっと思っちゃった」
自分の中から、苦笑が漏れ出る。
この場所の空気に中てられているのかもしれない。都心にいるときに比べて圧倒的に密度の薄い、緩やかに流れてゆく時間そのものに、無意識にあかねは「癒し」のようなものを感じ取っているのだろうか。
「アクアくん、いや私もか。……ずっと、忙しそうにしてたから。忙しかったから」
出てきた言葉に、自分で納得する。
アクアの、お試しとはいえ「恋人」の立場からずっと彼のことを見てきたあかねにとって、常に常に彼は、何かに追われるように生きていると思わされてきた。舞台稽古の中でも、それ以外の場所でも。
彼の生き方には、「遊び」がない。自分の一挙一動に、必ず意味がなければならないのだと、そんな内なる叫びすら感じてしまうほどに。
それが、あかねにとっては少し苦しかった。ずっとどこかで、そう思っていたのだ。直接はそれを言えずとも、今あかねがアクアに対して口にしているのは、畢竟そういう意味の台詞だった。
「そうか。まあ、確かに最近は仕事ばっかりだったしな。特に高校入ってからは。『芸能界』って、マジでガキも容赦なくこき使うんだなって、思い知らされたよ」
そんなあかねの思いを知ってか知らずか、アクアの答えはある意味で表面的なものに留まっている。
しかし、それもまた事実だ。あかねとしては共感できる部分もあった。
「確かに、そうだよね。稼げる間に稼いどけ、売れる間に名前は売っておけって感じ。そうじゃなきゃ埋もれるだけなのは、そうだけど」
アクアの方に向けていた視線を、前に戻す。見下ろす渓谷の水面、五ヶ瀬川の上には、貸し出されたボートで川下りを楽しむ人々の姿が見える。
見渡す限りにおいては、その半分がカップルで、そしてもう半分が家族連れだ。微笑ましさすらも感じて、あかねの頬が少し緩んだ。
「けど、たまにはね。……ねえ、アクアくん」
再び、横を見る。視線を感じたか、アクアもまたあかねの方にその顔を向けてきた。
目が合う。澄んだ蒼、藍玉の虹彩から放たれた光を受けて、あかねは正面から言ってみせた。
「私、嬉しかったよ。アクアくんがここに来るの、誘ってくれて。きっかけはかなちゃんかもだけど、こうやって二人でゆっくりできるのって、すっごく貴重だと思うから」
向けられたアクアが、小さく目を見開く。しかしそれも数秒のことで、彼は吐き出した息と共に、徐に瞼を閉じた。少しばかり、顔が逸らされる。
「そういうのは、最終日に言うもんだろ」
あはは、と声を出して、あかねは笑った。
「前も聞いたよね、それ。『今ガチ』のとき。でも、私は今言いたいかな、今日は」
身体ごと、アクアに向き直る。握られていた左手に、アクアの右手に、あかねは自らの右の掌を重ねた。
彼の腕を持ち上げて、その手を自らの腕に抱きしめるように引き寄せる。おい、と窘めるようなアクアの声は、敢えて無視した。
「……ねえ、アクアくん。ついでにもう一個、わがまま言っていいかな」
上目遣いを意識して、彼を見上げる。逸らされた顔のまま、流し目のような構えでこちらを見てくるアクアに、あかねは甘えるように笑いかけた。
「ボート、一緒に乗ってほしいなって。下の人たちみたいに。……だめ?」
もう少しだけこのまま、この場所で、こんな時間を彼と過ごしたかったから。
彼の胸中に常に残っているであろう「義務」のような何かは絶えずとも、せめてこのひとときが、彼の心に巣食ったそれを一瞬であっても覆い隠してくれればいいと、願ってしまうから。
たとえ単なる身勝手であっても。それが所詮、黒川あかねのエゴでしかないのだとしても。
「……ああ。わかった」
「やった」
しばしの沈黙を経て、口の端に笑みを浮かべながら頷いたアクアの響かせた声色は、どこか険のようなものがとれた、円みを帯びたものに聞こえた。
それが、あかねには何よりも嬉しかった。
珍しいあかねからの「おねだり」を聞いて、アクアはこの高千穂峡の五ヶ瀬川の上流に向かい、ボートを借りる。
オフシーズン近いこともあってか、普段ならば事前予約でいっぱいとなっているらしい貸しボートも、運よく一隻だけ空いていて、当日券で借り受けることができた。
近くのボート乗り場から、手漕ぎのそのボートに二人で乗り込む。漕ぎ手を担うのは、当然ながらアクアだ。
それを申し出たアクアにあかねは何かもの言いたげな顔をしていたが、それは敢えて無視をした。
あかねの言い分も分かる。アクアの高校生男子にあるまじき貧弱ぶりはすでに彼女の知る所で、無条件に漕ぎ手を任せるのはどうかと思われても致し方のないところではあるのだろう。稽古期間中、彼女にかけていた迷惑のことを思えば、なおさらのことだ。
が、それとこれとは話が別である。いくらなんでも、男女二人でボートに乗っておいて女の子の方に漕ぎ手を任せて自分だけ安穏としているなど、男として有り得ない。みっともないというか、あまりに情けなさすぎるだろう。
「子どもっぽい」とあかねは言うかもしれないが、ここを譲れないのは男の性というものだ。
果たしてそんなアクアの頑なな様子に根負けしたか、微かな苦笑いと共に漕ぎ役を譲ったあかねを前に置いて、アクアはがっしりと自らの両横に括りつけられたオールを掴む。
貸出の期間は三十分、時間はあまりない。五ヶ瀬川の只中に、少し急いで漕ぎ出した。
ほど近くから見る五ヶ瀬川の水面は、冬の寒空の下、遊歩道の上から見た鈍色のそれと違って、深みのあるエメラルドグリーンにすら見えた。岩肌の苔の緑が反射しているのか、それとも水深の浅い川であるがゆえに、遠浅の海のような理屈でその色を緑に見せているのか。
こういう時、ありのままの自然を直接に感受するのではなく、いちいち理由や理屈に思考が行ってしまうのは、どうにも「吾郎」由来の理屈っぽさが悪さをしている。そうアクアは思う。
特にこの場所、高千穂にやってきてから、アクアは内面の中における吾郎の部分が強く自分の中に顔を見せているように感じていた。曲がりなりにも、ここは故郷であるから、なのだろうか。
漕ぎ手を志願したアクア自身の、漕いでいるオールが川の水をかき分けるばしゃばしゃとした音が、定期的に響く。両側に険しく切り立った崖のような岩肌は、下から覗けば圧倒的な高さというものをアクアたちに意識させた。
遊歩道のある位置からの高低差はおよそ二十メートル程度らしい。建物に換算すれば、五階建てということになるだろう。そして渓谷としての断崖はそこからさらに上天に向かって伸びていて、七キロメートルにも及ぶ高千穂峡全体でその高さの平均はなんと八十メートルだというのだから、驚かされる。
気の遠くなるほどの期間をかけて、この五ヶ瀬川が岩を侵食し続けた結果である。その縷々たる営為の前には、人間一人のちっぽけな業など些事に過ぎないのではないかと、そんなことさえ思わされるような。
……いや、そうも言ってはいられないか。アクアは慌てて思い直す。そして丁度そのあたりで、あかねがアクアに話しかけてきた。
「アクアくん、だいぶ元気になったよね」
突然の言葉である。どういうことかと一瞬アクアは彼女の真意をはかりかね、首を傾げた。
「ああいや、舞台始まる前のことだよ。……あ、ごめん! ヤなこと思い出させちゃったかもしれない」
無言の問いを受けて、あかねは自身の意図を説く。しかしすぐさま何かに気がついたかのように、慌てた様子でわたわたと手を振った。
「……ああ、そういう」
その彼女の振る舞いに、アクアもまたあかねの言わんとするところを理解する。故にそんな、どこか茫洋な響きの言葉と共に、僅かに視線を虚空へと向けた。
「別にいいよ、全然。でもそっか、心配かけさせてたんだな。ごめん」
「いや、謝らないでよアクアくん! 私のほうが、色々……」
軽く頭を下げたアクアを見て、あかねもまた泡を食った様子でぺこぺこと頭を下げ返してくる。
完全な謝罪合戦だった。もしこの場に傍観者がいたとすれば、その彼をして滑稽だとさえ表現してしまえるほどには。
けれども同時に、それがあかねの責任感の強さから来るものであることを、アクアは知っている。善性と評すべきものであることも。
ただアクアからすれば、そんな彼女の在り方には些かの頑なさをも覚えざるを得ないのも事実だ。もっとも、そんなことを言おうものなら「アクアくんがそれ言う?」などとまたふくれっ面で反駁してくるのは目に見えているけれども。
ともあれ、アクアとしては特にそれ以上追及することはない。早々に話を切り上げて、少しだけ方向性を転換した。
「まあでも、あのおかげで演技の引き出しが一個増えた感はある。カントクさまさまってのはあるけど、あかねにもいろいろアドバイスしてもらったしな。特に、『自分の消し方』のあたりとか」
「あぁ……」
あかねもまたそれに、どこか腑に落ちたような表情で頷く。
五反田監督のスタジオでの『特訓』の終盤、アクアが「アクアとしてあかねの『アイ』に耐える」という当初の方針を転換して、己の自我を裡から棄て去ることであかねの『アイ』を受け流す方向で演技プランを練ろうとしたときのこと、そうは言ってもアクアとして一度もやってこなかった「自己を消す」というテクニックをどう自らのものとすべきか考えたときに、アクアはその第一人者であるところのあかねを真っ先に頼った。
そこには特に後ろめたさなどない。演技のことで、先達に教えを乞うのはいかにも当然と言うべきなのだから。特に卓越した技量を持つ役者からその技術を吸収できる機会があるのであれば、それを逃す方がむしろ役者としては恥ずべきことである。故になんの躊躇もなくアクアはあかねにアドバイスを求めたし、あかねもまた自らの得意分野において「アクアに頼られた」という事実が殊の外心に響いたのか、本当に親身になって彼女自身の演技のやり方を伝授してくれた。
当然、だからとてアクアは今「黒川あかねの演技法」を完全に自らのものとできたわけではない。しかしあの時、舞台「東ブレ」の終盤でアクアが見せた「刀鬼に操られているがごときの迫真の演技」は、あかねのアドバイスによって花開いた新たな「役者・アクア」の境地であることには違いなかった。
「でも、確かにあの時の最後のアクアくん、本当にすごかった。隣でさ、倒れてて目も開けてないのに、ちょっと『ぞわっ』ってしたもん」
アクアの言葉を受けて、あかねがそんな風にあの時の一幕のことを顧みながらも口にする。
「私も、負けてられないな」
「そうか? 俺はまだ全然あかねに追いつけてる気しないけど」
「そんなことないよ。アクアくんは、私ができないお芝居の仕方、色々できるでしょ。トータルで見たら、私だってうかうかしてられない。自分の方がすごい役者だなんて、そんなこと全然」
そうやって、演技のことを口にしているときのあかねは、どこまでも真面目さを内包しながらも、しかし同時にいつも楽しそうだ。
本当に、演技が好きなのだろう。芝居ができるということが。それを感じるにつけ、アクアはあの時のことを想起する。
「今ガチ」のさなかに起こったあの不幸と、その後の顛末のことを。
もう少しうまくやれたのではないか、彼女が苦しまずに済む結末はあったのではないかという悔悟は、アクアの心中に尚も残ってはいる。
「禍福は糾える縄の如し」とは言うものの、あの日彼女が経験したであろう苦しみは、齢十七の少女に課せられてよいものではなかったはずだ。これほどの夢を、思いを、「演技」というものに対して強く強く抱えていた彼女が、それでも一時はその未来を閉ざすことを、自ら命を絶つことを選びかけたという事実は、それほどまでに重い。
そして同時に、だからこそ今、ここであかねがアクアに向かって穏やかで憂いのない笑顔を見せているこの時間の価値というものを、どうしようもなく意識する。
あの番組で起きた事件のその先に、あかねが自らの未来を紡げている今日があるというのは、きっととても幸せなことなのだろうと。得難いことであるのだろうと。
「アクアくん見て! ほら着いたよ、真名井の滝!」
そんな風に、ぼんやりとあかねを、そして周囲の崖の岩肌を眺めながらも思惟に沈むようにして一心にオールを漕いでいたアクアの耳が、しかしそこでふと声を拾う。
言うまでもなく、その主は目の前にいるあかねだ。投げ出していたアクアの膝をポンポンと叩いて、彼女は右前方に広がる情景にアクアの視線を誘導した。
つい先ほどまで、自分たちが見下ろしていた場所を、今度は下から見上げる。落差十七メートルの瀑布が作り出す水飛沫が、霧のような湿り気を帯びた空気となって肌を撫でていく。
絶え間なく川面に叩きつけられる滝の水が奏でる、どこか清々しさすら感じられるような音のカーテンが、その傍に浮かぶこの小さな青いボートの上を、本当の意味で二人だけの世界に変える。
オールから手を放し、アクアはあかねと同じように、遠目からは白紗のようにも見える眼前の名瀑の、その流れ出ずる場所へと目を向けた。
「こっちから見ると、遊歩道の方からとは全然迫力違うね」
「だな。人間は見下ろす時よりも見上げるときの方が高さを意識しやすいとは言うけど」
二人して、そんなどこか当たり前のような感想を言い合う。
もう少し気の利いた言葉を発することもできたのかもしれないが、しかしアクアはあかねに対して、何か言葉を飾ろうという気はどうしても起きなかった。
そしてきっとそれは、あかねもまたそうなのだろう。
「ねね、もうちょっと近くに寄ろうよ。レインコート着てるし、ちょっとぐらい濡れても大丈夫でしょ」
「……まあ、俺はいいけど。あんまり近づきすぎると滝壺に吸い寄せられそうだから、少しだけな」
無邪気に笑ってアクアのことを誘うあかねの、その年相応とも思われる振る舞いに、アクアは表情を緩めて頷く。
放していたオールを持つ。方向を変え、滝の水が打ちつける川の左側目掛けて、一つ二つと漕ぎ出した。
次第に近づく滝から発される飛沫を、併せて放たれている、轟音のようにも思われる水音をその身に受けながら、あかねはどこか童心に返ったような笑みを、そして声を上げている。
そんな彼女の姿を正面に見て、アクアは再び天を仰ぐ。
あかねの今には、きっと重くのしかかるような憂いなどない。時を忘れ、我を忘れ、そういう当たり前の今日を、彼女は生きている。生きることができている。
その何でもない彼女の在り方は、一見してありふれたもののようでありながら、しかしこの世界の中では当然のものでなどありはしないことを、アクアは知っている。
だからアクアはそんなことでも、そんな程度のことであっても、ここで彼女と過ごす今に、このひとときに、訳もなく救われたような気が、確かにしていた。
そして、それ故にアクアは思う。この輝きを、決して消させてはならないと。
なればこそ、そんな彼女の未来に暗い影を落としかねない『あれこれ』には、もう決着をつけなければならないのだ。
そのことを、アクアは改めて意識せざるを得なかった。
三十分の制限時間ギリギリまで、ボートの上にて五ヶ瀬川の渓流と打ち付ける滝の清涼さを満喫したアクアとあかねは、陸に上がるやすぐさまに、次の目的地へと足早に向かう。
結局、気づけば高千穂峡には一時間半ほどの長居をしてしまっていた。食事に一時間弱かかっていることを考えれば、移動時間を引けば残り二時間ほどしかない。
流石にお膝下の高千穂峡で散々時間を過ごしていながらお参りをしないのは無礼に当たるということで、高千穂神社で一頻り手を合わせた二人は、そのままの足で第二の目的地、天岩戸神社へと直行した。
全力で電動アシスト自転車を飛ばせば、何とか三十分程度でその場には辿り着く。二人して軽く息を切らしながらやってきたそこは、「岩戸川」と呼ばれる川と、それを取り巻く鬱蒼とした森を鎮守とした広大な社域を持つ神社であった。
「ここのことはね、来る前に結構調べてきたんだよ」
得意げな顔で、あかねはいつものメモを取り出す。そこがスマホでないあたりが、彼女らしさだろうか。
「この神社、大きく分けて西と東に分かれててね。そこの岩戸川を挟んで、それぞれ本宮がある珍しい神社なんだけど、実はもともとは二つは別々の神社だったんだって」
へぇ、とアクアは声を上げる。実のところ、アクアは「吾郎」としても、この神社の存在こそは当然知っていたものの、詳しい由緒の類までは知識として持っていなかった。
ある意味、地元民あるあるである。自分の生活圏内にある観光名所にはなかなか行かないものだから、その気で勉強してきた県外の観光客の方がよほどにその場所に詳しい、などと言うのは、実際よくあることなのだ。
「しかもね、合併したのは結構最近でさ。今から五十年ぐらい前*1なんだって!」
「五十年前……」
しかし、そこに続けられたあかねの言葉を、思わずアクアは反芻していた。
今十六歳のアクアと、それに更に遡ること約三十年の生涯を生きた雨宮吾郎。その二つを合わせると、大体四十五、六年となる。
もはやかつてのこと過ぎて記憶など何一つ残ってはいないが、それでも吾郎は確かにその時、この世において初めての産声を上げたのだ。――母親を犠牲にする形で。
五十年という具体的な数字が、この高千穂という地が、俄かにその実感をアクアに思い起こさせる。
「……アクアくん? どうかした?」
自らの隣でぱったりと押し黙ってしまった格好のアクアのことを案じたか、あかねがアクアの方を覗き込むようにして、問いかけてくる。
気遣わしげな声だった。それを聞いて、その響きに宿るものを打ち消すかのように、アクアは努めて明るく彼女に返した。
「大丈夫。なんでもないよ」
もっとも、あかねはその聡さ故に、アクアの今の態度に宿っているであろう不自然さをきっと嗅ぎ分けてしまうのだろう。しかしその上で、彼女は敢えてそれに目を瞑るのだ。
そのことを分かっていて、そうなることを期待して、アクアは斯くの如くに振舞っている。狡いやり方だとは分かっているが、それ以外に方法を知らないのもまた事実だった。
「そっか。じゃ、そろそろお参りしようよ」
果たしてあかねはそんなアクアの意を汲み取る。表情を緩め、笑顔を作って、彼女はアクアに手を伸ばしてきた。
「ああ。……そうだな」
アクアもまた、それに乗る。あかねの伸ばしてきた手を取って、それを握って、アクアたち二人は天岩戸神社の洞窟のある方――西本宮に向かって、一歩踏み出した。
天岩戸神社は、その広さに違うことなく、見所の多い神社であった。
西本宮から案内されることで見ることができる、アマテラスの岩戸隠れの伝承があると伝わる本物の「天岩戸」の遥拝所から、神話に伝わるその洞窟を遠目に見た。とは言えその実像は完全には見渡せず、外側一帯に張られている注連縄が、見物客にそこが天岩戸であると知らしめる役割を担っているばかりではあったのだが。
西本宮から離れ、岩戸川を遡上すること十分ほど、岩戸隠れの際に集まった神々がアマテラスを天岩戸から連れ出す方法を詮議したと伝わる河原、「天安河原」にも立ち入った。
ごつごつとした大きな岩が転がる、川の上流域らしい河原の姿である。参拝客が積んだのであろう石の塔が、そこかしこに見られた。
あかねが言うには、「願いを込めて河原の岩に石を積めばそれが叶う」のだという。
「私たちもやってみる?」
そう問われたアクアは、首を横に振った。
それは、迷信の類だ。そんな不確実なやり方で、縋らなければ叶えられない願いなど、固より分不相応としたものだろう。
神を、超常の存在を信じるか。そう問われれば、今のアクアはそれに部分的には頷かざるを得ない。何より自分が、雨宮吾郎の記憶を、人格を引き継いで再びこの世に生を享けるに至ったアクアこそが、その最も卑近な体現者であるからだ。
しかしそういう存在を「あて」にするのは、絶対に違う。アクアは今もなお、それだけは自らの心に強く定めていた。
そこから東本宮の方も一頻り参拝していれば、いつの間にか空はすっかりと、鮮やかな茜色に染められようとしていた。
スマホの時計を見る。時刻は五時を過ぎたあたり、見れば西のかたの山の向こうに、そろそろ陽も落ち始める頃合いだ。
「いやぁ、色々回ったね」
境内から外に出て、鳥居に向かって一礼するや、ぐっと伸びをしながらもあかねはそう言って、アクアに賛意を求めてくる。
「だな。結構歩いたし」
そうだねー、とあかねは頷いた。
実際、道中の自転車での移動を含めれば、アクアたちはかなりの量の運動をしている。もしかしたら、明日一日は足のあたりが筋肉痛になるやもしれないな、などと如何にも情けない予想さえ、アクアは自らに対して立てていた。
「じゃあ、そろそろルビーちゃんたちのところに行く?」
当然にというべきか、あかねはアクアに対してそんな確認交じりの問いを発する。ここからルビーたちのいる場所、つまりアネモネのスタジオまでの距離は、自転車で移動して三十分と少しといったところだ。「六時ぐらいに向かう」と予め伝えていたことを考えれば、確かにそれはまさしく丁度いい時間ではあるのだろう。
しかし、アクアはその問いに首を振った。
「いや。もう一か所だけ、寄らせてほしいところがある」
あかねのことを、真っすぐに見る。視線を向けられて、あかねは訝しげな様子で首を傾げた。
「別にいいけど……今からだと何か見ようとしても、時間ないと思うよ? この辺りのお店とかも、日が沈んだら閉じちゃうところばっかみたいだし」
「分かってるよ。だから、これはそういうんじゃなくて」
尚ももの問いたげなあかねから、一度視線を逸らす。彼女の向こう、遠くの場所を見た。
しかしそれも束の間のこと、アクアは意を決してあかねと目を合わせる。そして今一度、口を開いた。
「行きたいのは、知り合いの家だ。……いや、違うな」
小さく首を振って、アクアは言い直す。
「
宿す真意は、言うまでもない。
向き直り、正面から見据えた三歩先に座しているあかねの、その息を呑む音が、アクアの方からもはっきりと聞こえた。
本作におけるアクあかの足が電動キックボードではなく電動アシスト自転車になったのは、別に大した理由ではないです。
この話を書くにあたって下調べとして高千穂の観光案内を見ていたら、電動アシスト自転車の貸し出しはあったのですが電動キックボードはなかったからというだけの話です。