中天に架かる満月が、地を蒼く染め上げている。
人の営為が作り出す光は遠く離れて久しく、故に今この地上からは、淡く瞬く星の灯りの眩ささえも、仰ぎ見ることができる。
しかしここは、その全てから切り離され、塗りこめられた闇の中だった。
どうやってここにやってきたのか、それすらも分からない。歩いてきたのか、走ってきたのか。何を頼りにしたのか。今の自分の、「身体が憶えている」などと、そんな馬鹿な話はないだろうに。
それでも一つだけ確かなことは、今アクアが立つこの場所が、かつて雨宮吾郎が祖母と共に住んでいた、あの廃屋の中であるということだった。
その場所に、惨めにも全てを投げ出して、逃げてきたということだった。
己の姿すら見えないこの場所が、どうしようもなく心地よい。
ずっとここにいれば、自分という存在のことなど、意識しなくてもよくなるような気がして。
追想と共に世界に溶けて、なくなってしまえるような気がして。
――結局、あの日からのアクアの十三年は、何だったのだろう。
自問、ではなかった。何故ならそれへの答えなど、考えるまでもなく分かっているからだ。
『アクアの計画は、最初から破綻していた』。そうではないか。
取り繕うことに、意味はない。最も気を配らなければならなかったはずの場所を見落として、そこから目を背けていた自分には、これはきっとお似合いの末路で、必然の結末だったのであろうから。
アクアの、ルビーの父親を見つける。アイに頼らずに。……馬鹿な話だった。
だって、そうではないか。どうしてあの事件が起こった後、アイが何もしないと考えていたのか。仮にも自分が襲われて、そして自分の息子が、生死を彷徨う重傷を負ったというのに。
五歳の夜、布団の中で
それで彼女が、ただ守るべき存在でしかないと見做していた自分は、結局アイのことを心のどこかで見下していたのではないか。
彼女のことを、理不尽と恐怖に震える、か弱い存在に過ぎないと。
だから自分が、自分の力で守ってやらなければならないのだと。
本当に、時代錯誤も甚だしい。思い上がりが極まっている。
そして気づけば、彼女は着々と準備を進めていた。アクアに一切気取られることなく。いや、察そうともしなかった己が愚かなだけだったか。
冷静に考えれば、当然のことだった。アクアの母は、アイはあの時、アクア自身と同じ疑念を持ったはずだ。
いや、もはや考えるまでもない。当時の彼女のごくパーソナルな情報を知っている存在など、あまりに限られているのだから。
だから彼女もまた、アクアの父、つまり自らが身体を重ねた男のことを疑った。そしてそれが誰であるかなど、言うまでもなく彼女は分かっている。
すぐにそれを警察に伝えなかった理由は、明白だ。
一つは、確たる証拠がないこと。根拠のない疑いをもって「彼」を告発したところで、結果的に嫌疑なしの結論に至ってしまえば、もう二度と「彼」を糾弾することはできなくなる。
もう一つは、『アクアとルビーのため』だ。仮に「彼」のことが世に広まれば、いずれ必ずアイのことも、正確に言えば「アイに男がいた、隠し子がいた」ことも、衆目の下に晒される。
そして下手を打てば、「そんな相手にアイはあらぬ疑いをかけたのだ」、と評されることにもなりかねない。
そうなれば、アイドルとして当時絶頂にあったアイの芸能人生は絶たれる。それどころか、苺プロもただでは済まない。いや、廃業せざるを得なくなるだろう。
その時、誰がアクアとルビーを養うのか。
自分たちが破滅するだけならば、受け入れたかもしれない。しかしアクアとルビーを育てなければならない以上、アイはあそこでドロップアウトできなかった。
いや、きっとそれ以上にアイは、以降の幼いアクアやルビーが「十六歳のアイドルが生んだ隠し子」というスティグマを負い、後ろ指をさされながら生きることを、決してよしとはできなかったのだろう。
だから、ずっと待っていた。何も知らないふりをして。韜晦の仮面を被り続けて。
つまり自分は、何一つとしてアイのことを理解していなかった。理解しようとしていなかった。
さりなが憧れたアイドル。それ故に、吾郎もまた惹かれたアイドル。
アクアの母。ルビーの母。スターダムへと駆け上がってゆく、しかし「欠けた部分を追い求め続けている少女」。
そんな、表から見えるものだけしか見ないで、何もかも分かった気になっていた。
自我を持って、自らの意志で進む彼女のことを、アクアは一つとして認めていなかったのではないか。
見ないふりを、していたのではないか。
「――それで、このザマかよ」
ぽつりと、呟きが漏れる。暗闇に目が慣れた己が視線の先、祖母と共に映る
「馬鹿馬鹿しい」
本当に、馬鹿馬鹿しい。自分のことだ。
斯くしてアイは、吾郎があの分娩の日、行方不明になったのではなく「殺されたのだ」という情報を手に入れた。
そうすればきっと、おそらくそこからアイの入院先に関する情報を漏らした者には容易に行き着く。
すなわち、それもまたドームの日の時と同じ人物によるものであろう、と。そう断ずることのできるだけの情報を、恐らくは彼女は持っている。
だからこそ、わざわざアイは高千穂までやってきたのだ。そんなことは、この
果たして彼女は、見事に「全ての材料」を手に入れ遂せたわけだ。
ならばきっと、今度こそアイは動く。たとえ、自らに隠し子がいることを開示することになってでも。
だとしたら、アクアのやろうとしたことは何だったのだ?
今回のことで、きっとアイは自らのキャリアにおける未来を諦める。最低でも、仕事に影響が出ることは避け得ない。アイドルをやめて久しい今であってもだ。
ならばアイの未来は、不本意な形で閉ざされてしまう。それを、彼女は受け入れている。
しかしアイは、それで満たされるのか。全てをやり切ってなどいるものか。
そんなわけはない。あるはずがない。
であるのならそれはアクアにとって、何一つ成し遂げられなかったのと、同じではないか。
いつも、いつもそうだ。吾郎でもアクアでも、過去でも今でも、今まで自分は己の為すべきことを満足にやり遂げた試しなど、一つもない。
――いや、違う。今回ばかりは、そんな『単なる失敗』などではない。その程度の生易しいものであるはずがない。
だって、そうだろう。この十三年間において、アクアは一体何人の人間を利用した?
ミヤコも、壱護社長も。五反田監督、鏑木、金田一、雷田、GOA、頼子にアビ子だってそうだ。自分は一体、どれほどの大人を振り回してきた? いいように使ってきた?
それだけではない。
何よりもアクアは、取り返しがつかないほどに、あかねのことを巻きこんでいるではないか。
彼女の無駄になった半年を、アクアはどう償えばいい?
人一人の人生をこれほどまでに浪費して、あったかもしれない別の青春を抉り取った自分は。
所詮は過去の影法師、ずっとずっと何もできていない、こんな救いようのない亡霊のために、輝かしい今を生きる女の子を
これから一生にわたって続くかもしれない危険に、軽率にあかねを巻き込んだ自分は。
だから――ああ。
本当に、ここで朽ちてしまえばよかったのだ。溶けてなくなってしまえれば。
どうせ一度は死んだ身だ。十六年もの時間をドブに捨てたのならば、もはや悔いさえもないだろう、と。
これまでずっと何も成し遂げられなかった人間だ、これから先何かができるようになるとも思えない。この世にこれ以上しがみつく理由も価値も、もう見つけられはしない。
あの日、天童寺さりなを見送ったあの時から、ずっと考えていたように。
そう、思えればよかった。
でも、違うのだ。だって、アイが、我が母が今自らに掛けている思いのことを、アクアは何より知っている。
ルビーだって、そうだ。あの日刺された後、目を覚ましてからリハビリを終えるまでの半年以上の時間、ずっとアクアの隣にいてくれた彼女が何をアクアに対して思っているか、分かってしまっている。
「生きてほしい。幸せになってほしい。今日よりもよい明日を、明日よりも良い明後日を、そんな人生を、どうか」。
向けられているのは、そんな願いだ。単純な、しかしどこまでも強い祈りだ。
だからこそアイは、アクアにもルビーにも何も知らせずに、全てにカタをつけようとしているのだから。アクアのことを、あの場で押し留めようとしたのだから。
であるならば、そんな彼女たちの思いを踏み躙るようなことを、自らの生を無為に投げ出そうなどという行いを、アクアに出来るはずがあろうか。
――出来ない。出来るわけがない。それは彼女たちの最も望まないことだ。最低の愚挙で、最悪の裏切りなのだから。
そうだとも。そんなことは分かっている。分かっているのだ。初めから、全部。
アクアの右手が、握られる。額に、その握り拳が当たっていた。
――でも、それでも、だったら俺はどうすればいい?
何もかも投げ捨てて、諦めて楽になって、そして惰性に生きろとでもいうのか。アイの、そして壱護の用意した、役者としての栄達の路にただ乗っかって、重荷を背負い続けるアイのことを、道の半ばで夢が絶たれるであろう彼女のことを見て見ぬふりして、何食わぬ顔で生きてゆけというのか。
あかねに対する負い目も、素知らぬ顔で「なかったこと」にして、その上で今の恋人の関係をずるずると続けるべきだとでもいうのか。こんなグロテスクな関係に何一つの清算もなく、全てをそのままにして。
それを厭うのならば、もうなりふり構ってはいられないだろう。もう一度計画を立て直す必要がある。先に盤面に
そうだ。本気で手段を選ばなければ、まだ挽回の余地はあるはずだ。アイの『暴露』を止めるだけなら、手段はいくつかある。それで時間を稼いでいる間に、何としても自分が先に『あの男』にたどり着く。やってやれないことはないはずだ。そのための『手駒』は、未だアクアの手中にありはするのだから。
でも――そんなことをしたところで、彼女たちの喜ぶはずがあろうか。 そんな自分の姿を、母も、妹も、望ましいものだと思うだろうか。
そもそも、そうやって彼女のことを出し抜いて、それが本当に星野アクアのやりたいことなのか。やるべきことなのか。その行いが、アイの、あるいはルビーの幸福に繋がると、本気で思っているのか。
もしそうでないというのなら、アクアはまだそんなことのために、『彼女』に、あかね対して徒に罪を重ね続けるつもりなのか。今までよりもなお重く、度し難いであろう罪を。
でもまた同時に、これまで重ねてきた不義理の名分を立てるためには、せめてこればかりはやり通さなければ、ここまでアクアが巻き込んできた全ての人間に対して、その意味を与えることさえできないのではないか――。
思考が散乱する。袋小路に入り込んだ思惟は、いかなる結論ももたらさない。
掌が髪を掴む、ぐしゃりとした音が聞こえた。気づけばアクアは己の右手で顔を覆って、そして前髪を握りこんでいた。
「俺は……」
食いしばった口から、またしても声が漏れる。それはどこまでも浅ましく、この期に及んで、何かに救いを求めるような、声だった。
この期に及んで、そんなもののあるはずがないのに。
しかし――その瞬間、アクアは自らの発したものでない、音を聞いた。
扉が引かれる音。足を踏み出す音。
「アクアくん」
そして、自らのことを呼びかける音。
白く眩い光がこの場を染め上げ、アクアを静かに包んでいた闇の帳が、俄かに払い除けられる。眩んだ視界に目を細め、振り返った。
「ここにいたんだね、やっぱり」
そこには、今の自分が一番会いたくない相手がいた。
黒川あかねが、そこに立っていた。
それは、確信にも近かった。
まるで導かれるように、あかねはその場所に向かって歩いていた。
夜道を照らす灯りは少なく、たった一度自転車で走っただけの道には、見覚えなどほとんどない。
しかし、自らの足に迷いはなかった。林道を戻り、表通りを奥へ奥へと進んで、山の麓へと立ち入ったそこは、夕暮れの中一度見た、あの寂れ切った平屋だった。
自らの行いに、疑いなどない。それが必然のことであるかのように、あかねは閉め切られた出入り口の扉に手をかける。
そうすれば、鍵の外れていたそれは呆気なく、しかし重苦しい軋み声と共に開いた。
何も見えない暗がりの中に、それでも息づく何かがいる。誰かがいる。
掌の中、スマホに灯した光でその闇を切り裂いて、そして、あかねは見た。
暗く昏く、光の総てが喪われた瞳で、茫然とこちらに目を向ける、アクアの姿を。
あの林道の只中の、祠の裏の洞窟で起こったことを、あかねは反芻する。
焦りに声を上げたアクアと、その眼前に見えた白骨死体と。制止の声が間に合わず、その全てを目の当たりにしたルビーのことを。
頽れた彼女の姿を見て、しかし同時に現れたもう一人の人物が、何もかもをを塗り替えた。
彼女が、アイがやってきて、そして全てが終わったあと、両の肩に手を置かれていたアクアが、ふらつくように後ずさる。
その顔を見て、あかねは言葉を失った。
何も、見えていないかのようだった。瞳は収縮して、心すらここにはないようで。
後ろ歩きに進み続け、洞窟の壁に身体がぶつかって、たたらを踏む。
「アクア?」
問うたアイの声にも、なんの反応も示さない。しかしそこから数秒ののち、アクアは弾かれたように走り出した。
「あ、ちょっと……!」
手を伸ばしたアイを他所に、姿が遠くなってゆく。何も言わず、何も返さず、現実の全てが一つも目に入っていないかの如くに、彼はその場から消えた。
伸ばしていた腕から次第に力が消えて、だらりと垂れ下がる。アイの顔が、伏せられた。ルビーは、未だ奥にいる死体を、茫洋と見つめているだけだ。
半ば蚊帳の外に置かれたような自身のことを自覚して、故に瞬間、あかねの思考は俄かに回転を始めた。
アイが今、この場所にやってきた理由。そして、敢えて彼女がアクアとルビーを呼び捨てにしている理由。それをあかねに聞かせた理由。
アクアが、それに対してこれほどの反応を示した理由。どこかあの東京ブレイドの、舞台の時に通ずるほどの、危うい空気を纏っていた理由。
あの死体がここにある理由。それを見つけてしまった意義。アクアが、そしてアイが、この事実を知ることが、何を意味しているのか。
それこそが、アイがアクアに言った、あのたった一言に、繋がるというのならば。
全てに気づいた瞬間、あかねもまた走り出そうとしていた。
過去において、自らがアクアに対して立てた仮説が、現状と結びつく。
それがすべて真なのだとすれば、自分はすぐにでも彼を、アクアを追わなければならない。
そうしなければ、手遅れになる。
「あかねちゃん」
しかし、そこで一歩を踏み出そうとしたあかねを、呼び止める声がした。
振り返る。言うまでもなく、それはアイであった。
彼女はあかねを見ていた。これまで一度たりとて見たことのない、真剣な表情で、あかねを見ていた。
「……なんでしょう」
随分と冷たい声が出たものだ。そう、あかねは自覚する。
正直なところを言えば、あかねは憤っていた、のだろう。
言うまでもなく、アイにである。それはきっと、あかね自身がずっとアクアに対して感情移入をしていたからなのだろうが。
中立の立場において、アイとアクアの果たしてどちらが正しいのかなど、分かりはしない。
いや、正しいも正しくないも、きっとないのだろう。最低でも、それを判ずる権利など、あかねにはなかった。
故に、あかねは瞼を閉じる。一度だけ大きく息を吸って、そして目を再び見開いた。
視線が結ばれ、しかしすぐに逸らされる。
彼女は、ルビーを見た。そしてその先にある、白骨死体も自らの視界に入れたのだろう。
横顔に浮かぶ表情は、その意味は、なんであろうか。
あかねにはわからない。しかし今、アイは自らの「仮面」を脱いでいる。それだけは、確かだった。
「私は、さ。ルビーと一緒に、いないといけないから。……私じゃ、ダメだろうから」
逸らした目線をそのままにそう口にして、しかしそこでアイはあかねに向き直る。
正面から見る瞳が、アイの紫紺の虹彩が、一際煌めいてあかねには見えた。
「アクアを、お願い」
そして一言、彼女はそれを口にした。
どこまでも真っすぐ、あかねのことを見据えながら。
そこに込められた意味を、あかねは理解した。
アイがあかねに求めていることを。アクアに対して、どう接することを期待しているのかを。どういう言葉を、アクアに掛けてほしいのかを。
「……はい。任せてください」
だからこそ、あかねは『嘘を吐く』。まさしく目の前の女性から学んだ、強く厚い「嘘の鎧」を身に纏い、顔に貼り付けながら。
『彼のためなら、世界すら欺いても構わない』。たとえ彼の最愛の人を、相手にしたとしても。
その覚悟が、今のあかねには宿っていた。
そして、今自分はここにいる。こうして、アクアの前に立っていた。
「いつ、聞いたんだ」
力のない呟きが、アクアから漏れる。
何を。そう訊かずとも、言葉は続いた。
「バスの中か。隣にいたもんな、母さんが」
なんの躊躇いもなく、彼はそう口にした。
その意味を、あかねは理解する。
アイが、アクアとルビーのことをああ呼んだ理由。
それを、あかねは自らへの掣肘であると理解していた。「キミが何を理解しているかは、わかっているんだよ」と。彼女はそれを、敢えてあかねに伝えようとしてきたのだと。
しかし、それだけではない。アクアには、あのセリフは全く別の響きをもって伝わる。
――ここにいるのは、みんなグルなんだよ。あかねちゃんも、私たちのことを知ってるんだよ。
――だって、私が伝えたんだから。
そう言うメッセージを、アクアはアイのあの言葉から読み取った。彼がそう読み取るであろうことを意図して、アイは敢えてああいうことを口にしたのだ。
本当に、アイは嘘の使い方が巧みだ。彼女のことを『調べ』て、しかしそれ以上に彼女に接して、あかねはそのことを実感させられた。
どこを刺激すれば、今のアクアに一番『効く』のかを、きっと彼女は直感で嗅ぎ取ってみせた。今のアクアの弱点が、他でもないあかねであることを、アイは今日一日の邂逅だけで、理解したのだ。
すべては、アクアを止めるために。
あかねの中で、感情が突沸した。
それが最も確かな方法だと、あかねの中の『アイ』が共鳴していることが、本当に腹立たしかった。
故にあかねは、そこで
「聞いてないよ、なにも。今、アクアくんから聞いたのが、初めて」
そう、敢えて言い放った。
沈黙が、やってくる。あかねの言葉に、アクアは一つとて反応を示さない。
そのまま、一秒が過ぎ、十秒が過ぎる。あるいは一分ほど、互いにそのままであったかもしれない。
その末に、息を吸う音がした。アクアからだ。そして――彼は、嗤い始めた。
初めは、小さな音だった。声として聞こえない、くつくつとした空気の震えだった。
次第に、それが大きくなってゆく。笑い交じりに息を吸う、掠れた吸気の音を交えて、いずれ確かな音を為す。
果てに、それは痛みすら感じさせるほどの、乾ききった哄笑になった。伽藍堂のこの場所に、残響だけが響き渡るような。
思わず、あかねは奥歯を噛みしめていた。
やがて、長く続いたそれも、ふっつりと途切れる。天を仰ぐように哂っていたアクアが、顔を俯けた。
「……そうか」
また、小さな呟きを拾う。
「そう、いうことなのか。母さんは」
「アクアくん」
思わず、声をかけていた。
それは駄目だ。その思考に陥るのは。
「ハメたのか、俺を」
「アクアくん!」
踏み出していた。彼のもとに。何でもいい、止めなければいけないと。
「あかね」
「ダメ!」
大股で近づく。後ずさりしようとした彼の手を、強引に握った。
顔が上げられる。視線が合った。ほど近くの場所、暗闇に浮かび上がる彼の瞳は、恐怖に竦み、震えていた。
「放してくれ」
「イヤ」
「放せっ!」
手を掴まれたアクアが、あかねを振り払おうとする。右腕を振って、強引に引き剥がそうとした。
しかし、あかねは譲らない。譲るつもりもない。役者として鍛えている己の体幹を駆使して、彼を押さえつける。
そうだ。押さえつけられてしまうのだ、彼の身体は。女の身であるあかねであっても、これほどまでに容易く。
その事実が胸を刺し、痛みすら生じる。
スマホのライトを敢えて切って、ポケットにしまった。突如やってきた暗闇に、アクアの動きが鈍る。
そしてあかねはフリーになった右手で、手探りで探り当てた彼の左腕をも掴んだ。
「何すん――」
「落ち着いて! ……落ち着いてよ、アクアくん」
至近距離から発したあかねの声に、アクアの動きがようやく止まった。
闇に沈み、何も見えず、互いの静かな息遣いしか聞こえない、重苦しい空気が横たわる。
衝動に従って彼の言葉を押し留めて、しかしならばあかねは何を彼に語り掛ければいいのか、分からなかったから。
言葉を探し続け、時ばかりが過ぎてゆく。その停滞は、アクアの小さく息を吸う音で破られた。
「あかね。別れよう。別れるべきだ、俺たちは」
そして、声が漏れる。
「どうして?」
「だって、そうだろ。気づいてるんじゃないか、君なら」
「言ってくれなきゃ、分からないよ」
アクアの喉が、微かに鳴る。暗闇に慣れ始めている視界が、アクアの眼から発される昏い光の色を拾った。
幾度か繰り返された逡巡を経て、彼は言う。
「――俺は、君を騙してた」
その瞳と相似した、仄暗い響きを持った声だった。
「『アイ』の演技をする君を見て、『アイ』のことを話す君を見て、俺は君を野放しにはできないと思った。俺とルビーの母親のことをああいう形で知られたまま、自分の手の届かないところに行かれるのは危険だと思った。だから引き留めた。縛りつけた。……凡そ恋人にするような理由じゃないだろう、こんなもの」
雄弁に、彼は語る。
内心で、あかねはアクアに謝った。
――知ってるよ、そんなこと。でも私は臆病だから、君の口からそれを聞かなきゃダメだったんだ。ごめんね。
だって私は最初から、君がずっと罪悪感を抱えていることだって、分かってたんだから。
「君は正しい。『異性として見ていないだろう』って言ったときのことも。当たり前だよな、こんなものそれ以前の問題なんだから」
自嘲の響きだ。彼の内心にずっと渦巻いていた自罰の情が、初めてここで吐露されている。それを、あかねは知る。
「ずっと、君を裏切って、君の時間を奪い続けた。取り返しなんて、つくわけがない」
アクアくん。そう呼び掛けようとして、堪えた。
闇の中に見える彼の唇が、そこで歪んだ。
「――でも、もういいんだ。こうなったからには、もう終わりにしないといけない。だから」
「こうなったからには」、と。そう、アクアは言った。
脳裏に引っかかったその言い回しが、あかねの「予想」に一つの根拠を与える。
アイ、アクア、そしてあの白骨死体。あの場面で彼らがあの振る舞いをした必然性に。
故に、あかねは気づいた。気づいてしまった。
彼があかねに対して持っていた罪悪感の根源は、あかね自身が今まで思っていたそれよりも遥かに強く、そして深いものであったことに。
いつかの宵、五反田の家の寝室の中で彼に対して立てていたあかねの予想は、その分析は、彼の心情を網羅できてなどいなかった。彼の精神状態は、あの時点で既にもっとずっと深刻だったのだ。
もし今のあかねの予想が正しければ、彼はあかねが思っている以上に、いつもいつも心のどこかに巣食っている自責の念に圧し潰されそうになっていたはずだ。あかねにだけではない。それは誰に対しても、何に対してもだ。
しかもそれを、彼は決して外に漏らさぬようにしていた。そうしなければならなかったのだ。悟られてはならないから。気取られてはならないから。
酷すぎる。耐えられるはずがない。しかしそれでも、彼は頑張れていたのだ。頑張れてしまっていたのだ。
きっとそれは、そんな自らの最後の拠り所である、「使命」があったから。それがある限り、彼は何とか走り続けることができていたのだ。
だと言うのなら、そんな己の頼みの綱が、他ならぬ「母」によって否定された今のアクアは、一体何を頼りに生きればよいのだ。
どうやって、自身を苛む罪の意識と向き合えばよいのだ。
……何もない。
そうだ。彼にはもう、何もないではないか。
「君の大事な時間を、俺は無駄にした。取り返しのつかないことを、ずっとしてきた。許してもらえるなんて、思ってないけど、でも。……ごめん。本当に、ごめん」
だったら彼は、アクアは、「いつか耐え切れなくなる」のではなく、今まさに破綻しようとしている。
他でもない、ここで。この、夜の闇に沈んでいく廃屋の中で。
あかねの、目の前で。
――嫌だ。そんなこと、絶対に認めない。たとえそれを、君自身が望んだのだとしても。
故にあかねは、宿る悔悟と共にアクアが自らの罪を告解したその言葉に、強く自らの言葉を被せた。
「違うでしょ? そうじゃ、ないでしょ?」
そう、決然と言い放った。
内心に渦巻く、抑えようもない激情と共に。
「それでいいの? アクアくんは」
彼の身体を掴んでいる手をそのままに、向きを変える。一歩ずつ、歩き出した。
「は……? 何、言って」
「あれだけヒントを出されて、私が分からないとでも思った?」
浴びせかけたそれに、アクアがたじろぐ。一歩、二歩、彼の身体が下がってゆく。
逃がすつもりはない。追い詰めるように、あかねは前に向かって歩を進めた。
「この期に及んで、まだ嘘を吐くんだね、君は」
瞬間、アクアの瞳が揺れる。それが、窓際から差し込む淡く蒼い月明かりに照らされて、あかねからも見えた。
斯くて生じた意識の隙を衝くが如くに、腕に力を入れる。強引に、身体を押し込んだ。
どすん、と音がする。アクアの身体が、沈んだ。
三和土に据えられた式台に足がかかり、たたらを踏むように一段上に上がって、しかしその奥の上がり框は越えられず、そのまま尻餅をつくようにアクアは畳間に座り込む。
あかねが見下ろし、アクアが見上げる。
冷たい目を敢えて意識して、そしてあかねは今一度、目の前の青年の肩に手をかける。
「あかね、何を、ちょっ――」
そしてそのまま、彼のことを強引に押し倒した。
抜け出そうと反射的にアクアは暴れるが、しかし彼の男性としては貧弱な膂力では、完全に組み敷いた状態のあかねを押しのけることはかなわない。
そうだとも。それを分かって、あかねはこうしているのだから。
「憶えてる? アクアくんが舞台の稽古で、倒れたときのこと」
アクアは答えない。今だあかねの下で、藻掻こうとしている。
あかねもまた、アクアから何かが返ってくることなど期待していなかった。
「あの時さ。私、監督さんから聞いたんだよね。
瞬間、あかねの手にアクアの震えが伝わった。抵抗しようと突っ張っていた身体の動きが、止まった。
「彼氏彼女なら、いつか見ることになるだろうからって。……笑っちゃうよね。私たちなんてキスしたことも、『今ガチ』の時の最後の一回しかないのに」
あかね、と掠れた声がした。しかし、あかねはそれを踏み潰す。
「でも私には、その話だけで十分ヒントだったんだよ。アクアくんとルビーちゃんの、アイさんの間のことも。アクアくんが四歳の時に、何が起きたのかも」
また、アクアの身体が大きく震えた。力が籠る。あかねをもう一度、押しのけようとしてくる。
しかし当然に、それをあかねは許さなかった。
「ならもう、分かるよね」
「アクアくんがどうして芸能界に入ったのか」
「どうして私と『こういう関係』になろうと思ったのか」
「アイさんにアクアくんが何を隠してるのか。ルビーちゃんにも」
「今日のことだってそうだよ」
「アイさんが何を考えてあそこにいたのか」
「アイさんはなにをしようとしてるのか」
「アクアくんがどうしてあそこから逃げたのか」
「アクアくんがもともと、私のことをどうやって『使おう』としてたのか」
体重をかけながら、アクアの両腕を畳に縫い付けて、あかねは言葉の刃を振るい続ける。そのたびに彼の身体は震えて、次第に抵抗が弱まっていく。
心が軋む。刺すように痛む。今自分がアクアに対して何をしているのか、あかねはとてもよく理解しているから。
しかし、それでも止めるつもりはなかった。
「分かってる。分かってるつもりだよ、全部」
そう、言葉を結ぶ。敢えて最後だけ、努めて声を柔らかくして。
眼下に見下ろすアクアは、もう一切の抵抗を示さなくなっていた。
蒼く照らされる彼の顔は、逃避を示すようにあかねから逸らされている。横顔に浮かぶのは、諦念にも似た表情だった。
「……そうか」
果たして、少しだけ場を支配した沈黙の中から、アクアの掠れた声が聞こえる。
「じゃあ早速で悪いけど、忘れてくれないか」
どこまでも、それは投げやりな声だった。
「これは君が関わるべきことじゃない。ずっと、最初からそうだったんだ。だから」
小さく、弱く、打ち捨てられたような声だった。
一人で朽ちて行こうとする、全てを諦めた、敗者の声だった。
「全部忘れて、もう俺と関わるのはやめろ」
だからアクアはそうやって、あかねを突き放そうとしている。
こうしてやれば、あかねは自分に愛想を尽かすと思っているのだ。
頭に、一瞬で血が上った。
「……ふざけないで」
止めようがないほどに、声が震えた。
「馬鹿にしないでよ、私を」
彼の腕を、強く握る。そのまま握り潰してやろうかと言うほどに、強く。
アクアの横顔が、痛みに歪んだ。しかし、構うことなどあるものか。
「私は! アクアくんがそうやってずっと苦しんでるんだって、分かってた! 分かってて、だからずっと一緒にいたいって思ってた!」
気づけば、声を張り上げていた。至近距離から聞こえた大声にか、アクアが弾かれたようにあかねを見る。
海色の瞳の奥、塗りこめられた闇ばかりだったそこから、微かな光が覗いていた。
「だって、アクアくんはずっと独りぼっちじゃん!」
その彼目掛けて、あかねは叫ぶ。グチャグチャに乱れてしまった胸中から、言葉が溢れて止まらなかった。
「信じられる人もいない! 頼れる人もいない! アイさんもルビーちゃんも! そうやって全部全部一人で抱え込んで、全部全部自分のせいにしてさあ!」
「そうしなきゃいけなかったのは知ってるよ! 誰にも言えなかったのだって分かってる! けど、でも、そんなの悲しすぎるじゃん! 寂しすぎるじゃん!」
「私にもかなちゃんにも、ずっと『君はひとりじゃない』って言ってくれてたのに、アクアくんだけ、アクアくんが、アクアくんは……っ!」
いつかの時から、ずっと彼に対して思っていた気持ちの何もかもが、零れ落ちるように口を衝く。
視界がぼやけていた。感情を、制御できなかった。
「そんなのって、ないよ……っ!」
そして、アクアに覆いかぶさっていた。口の端から出ようとする嗚咽を、噛み殺すために。
そうだ。ここで涙を流してはならない。あかねは今、目の前の彼より強くなくてはならないのだ。
彼に庇護されるべき存在と、認識されてはならないから。最低でも、今だけは。
その決意が、あかねの情動の決壊をギリギリの場所で押し留めた。
呼吸を重ね、少しずつ冷静になっていく内心を意識して、あかねは身を起こす。
「だからね、アクアくん」
再び、アクアと目を合わせた。未だか細い彼の瞳の輝きを、覗き込んだ。
そしてあかねは、今暫く秘しておこうと考えていた己の決意を、アクアに告げる。
「私は、これからも君と一緒にいたい。君の味方でいたい。アクアくんが背負ってるものを、私も一緒に背負いたいから」
それを伝えるのは、今を措いて他にはない。そう、考えたからだった。
視界の先のアクアの目が、見開かれる。一瞬、その中の光がかつての輝きを取り戻しそうになって、しかしまた、それが萎れた。
彼は、再び目をあかねから背ける。そして口にした。
「……だとしても、やっぱりダメだ。もう遅いんだよ、今からじゃ。分かってるんじゃないのか、あかねなら」
しかしあかねは首を振る。
「アイさんのことなら、そんなことないよ。アクアくんは、まだ間に合う」
力強く断言したそれに、アクアが食って掛かった。
「なんで、そんなことが言える」
視線が合う。苛立ちに細められ、挑みかかるような目だった。
故にあかねは、そんな彼に向かって微笑んでみせた。
「
一瞬の停滞、沈黙を経て、その言葉を咀嚼したであろうアクアが、大きく息を呑んだ。
あかねの推測が正しければ、恐らくはアイもアクアも、東京ドームライブ当日に起こったあの事件にまつわる関係者を追っている。
実行犯自体はその後自殺したことが報じられたが、あのニュースの中でさえ、「一大学生では知り得ないはずのことを知っていた犯人に対して、情報を渡した共犯」の存在は指摘されていたのだ。
当事者がそれに気づかないわけがない。しかし互いに互いのことを思うあまり、彼らはどちらも「自らの家族に黙って、単独で」その人物を追おうとした。
何故そうする必要があったか。その「関係者」が世に知れ渡るのは、アイやアクアにとって都合が悪いからである。なら、彼らが考える「関係者」の人物像は、自ずと絞り込める。
アイとアクアとの関係――言い換えれば、「アイに隠し子がいること」を知っている人間だ。そしてアイ自身の交友関係の範囲を考えれば、答えはほぼ一意に定まる。
すなわちアイは、「アクアとルビーの父親が、ドーム直前のあの事件を悪意によって起こしたのかどうか」の証拠を掴もうとしていた。
そしてアクアは、「自分たちの父親が誰であるか、そしてその彼がどのような人物であるのか」を追っていた。
その二つの捜査が丁度交差するのが、つい先ほどあかねたちが目の当たりにしたあの白骨死体の存在だということなのだろう。それが最も自然な推測で、そして推理であった。
であるのならば、今回のことで有力な証拠を押さえたアイは、確かにアクアに対して先んじて動くことは可能となりはする。
しかしそこで、一人の、と言うより一つのアイドルユニットの存在が、彼女には立ちはだかるのだ。
言うまでもない。「新生B小町」である。
自らの娘が名目上のセンターを務める、自らがプロデュースしたアイドルユニットだ。しかも、かつてのアイがアイドルであった時のグループ名を、彼女たちは継承している。
例えば、もしこれからアイがドーム直前の事件のことでアクアたちの父親を告発するような展開になった場合、ほぼ必然的にアイとアクア、そしてルビーとの関係は世に広まる。アクアとルビーは、自動的に二世タレントとして認識されるだろう。
アクアはまだよい。彼は自らの演技力のみによって、酷評の嵐であった低予算ネットドラマの端役も端役の位置からのし上がり、己の才覚を世に示すことで今飛躍の時を迎えようとしているのだから。
しかしルビーは、違う。
もし彼女が今と同じアイドルとしてデビューしていたとしても、苺プロと何の関連もない事務所に所属していたのならば、きっと何の問題もなかった。アイたちは躊躇いもなく、『計画』を実行に移していただろう。いや、百歩譲って苺プロからのデビューというだけであったのなら、ギリギリ彼らは自身とルビーとの接点を切断する余地を残していたのかもしれない。
けれども、今のルビーは『B小町』だ。「アイのプロデュース」という後ろ盾を得て、その名前の威光によって――最低でも客観的にはそう見えるだろう――既に芸能界で輝きを放っていた一級品の才能を二人も招き、JIFの準メイン格でのお披露目などという誰もが羨むスタートダッシュを決めた。彼女がアイドルとして履いている下駄はあまりにも高く、そしてまたあまりにもアイから引き継いだものが多すぎた。
だとすれば、ひとたびアイとルビーの真の関係が世に出回れば、瞬く間に『新生B小町』の名声は地に墜ちる。かつての伝説のアイドルグループの後継と目される新進気鋭のアイドルユニットから、「親が自らの知名度を使ってあらゆるお膳立てをした、親の七光りアイドルユニット」へ。
ルビーもまた、その巻き添えになるだろう。というより、その非難の矢面に立つのは、他でもないルビーになる。
だからその全てをねじ伏せるためには、ルビーたちの「B小町」がすでに誰にも文句を言われないほどの強力な名声を、単独で得ている必要がある。具体的には、かつてのB小町が達成した「ドームライブの成功」ぐらいまではやってのけない限り、恐らくそういう方向の誹謗中傷は避け得ないだろう。
故にそれまで、アイは動けない。彼女が本懐を遂げるためには、まずルビーたちを押しも押されもせぬスターダムにまで押し上げなければならないのだから。
「アイツが……そうか、だから壱護社長は」
アクアの呟きを、あかねは聞いた。それは思わずといった、無意識から出た言葉のように聞こえた。
恐らく彼も、ここまでの短時間であかねと同じ結論へと達したのだろう。
基本的に、アクアは聡いのだ。精神的に余裕がなく、強烈な焦りによって近視眼的になっていた部分があっただけで、あかねから少しのヒントを与えれば、この程度の情報を読み解くのは造作もない。
「そうか、アイツが……助けられた、のか。俺は」
呆然とした声だった。しかしそれでも、色のついた声だった。
彼の目に、光が戻ってゆく。あかねが望んでいた、そして見たかった、アステリズムの宿った宝石のような双眸が、蘇った。
「アクアくん」
あかねは、静かにアクアに語り掛ける。
「今のアクアくんには、一人のほうがきっと楽なんだろうって、分かってる。誰かに『それ』を任せようとするのは、怖いんだろうなって。でも」
今度こそ、目と目を合わせて。心の奥底にまで届かせるように。
「それでも私は、君を独りぼっちになんて、させたくない。そんなの、耐えられないよ。君も、私だって。だから、だから――」
澄んだ心で、祈りすら捧げるように。
「お願い。――私を、信じて。頼ってよ」
そう、言葉にした。
アクアの瞳が、揺れる。あかねの下で、何度も逡巡するように、唇が動く。
小さく首を振って、何度か瞬きをして、その全てを辛抱強く待ったあかねに、ようやくアクアは口を開いた。
少しだけ、あかねから目を逸らしながら。
「俺は、君を、ずっと裏切ってた」
ぽつり、ぽつりと、言葉が紡がれる。
「黙って、騙して、『駒』みたいに」
か細い声だ。己を責める声だった。
衝動が湧き上がる。すぐさまにでも答えたい。受容したい。彼のことを肯定したいと。
しかしその全て抑えて、あかねはずっとアクアを見据える。
「許されるわけがないって、ずっと分かってて。償いきれるわけがないって」
一度強く瞑られた瞼が開く。目線が、ゆっくりと合わされた。
己の罪を理解して、それ故に恐怖して、どこまでも無垢で、そんなどうしようもなく愛おしい、双眸だった。
「なのに、そんな。今更君のことを、そんな。……そんなこと、俺には」
だからあかねは、それに首を振った。しっかりと、暗闇の中でさえも、彼の目に見えるように。
そのまま徐に、身体を倒した。それまでずっと、腕を取って握りこんでいた両の手を外して、アクアの背中に回す。
「関係ないよ、そんなこと、私には」
畳が発する乾いたイグサの匂いが、この場に長く長く積もり続けた埃の微かに饐えた匂いが、そして何よりも、アクア自身から発される、どこか涼やかさすらも覚える柑橘のような匂いが、あかねの鼻腔を満たした。
「アクアくんが望んでくれるなら、私はずっとアクアくんの側にいる」
潤んでゆく視界を、もはや押し留めようとすることもなく、あかねは掠れ気味に、それでも情感の全てを声に載せて、アクアに告げた。
「アクアくんを、ひとりにはさせない」
そんな、誓いの言葉を。
きつく抱擁した腕の中、投げ出されていたアクアの手が動く。
ゆっくりと、しかし確かに、あかねの背中に回された。
そして耳元で、アクアの囁く声を聞く。――「ごめん」、と。それと、「ありがとう」、と。
あかねの目から零れた涙が、アクアの服の襟元を、少しだけ濡らした。
このエピソードの投稿のタイミングで、以下のタグを追加します。
追加タグ: 「オリジナル展開」
元々アイが生存している以上原作と同じ展開にはなり得ませんが、このタイミングで完全に分岐しました。もう元の流れに戻ることはありません。
章題の「分岐点」とは、本章の出来事がアクアたちにとっての運命の分岐点であることと同時に、原作との分岐点でもあることを示していました。
そして本作においては、アクアは「戻って」これました。
正直、この回が本誌の最終話掲載のタイミングと被ったのは偶然なんですが、ちょっと運命的なものさえある気がしています。