天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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3-15. 回帰不能点を越えて

 互いの腕の中で、まるで混じり合うかのように、あかねとアクアは自らの身体に宿った温もりを分け合っていた。

 ずっとそうしていたいとさえ、思ってしまう。しかし同時にそれが永遠に続くものであってはならないことは、きっとどちらともが理解していた。

 

 それからいくらかの時が過ぎて、二人は示し合わせたように身体を離す。

 十三夜の月明かりだけが頼りのこの空間の中で、手と手を取り合って、共に立ち上がった。

 

「……改めてだけど」

 

 向かい合ったその場所で、そうアクアが口にする。あかねの聞く限りにおいて、それは今までの何に比べても円く、また優しげな声だった。

 

「色々隠してて、ごめん。だけど、手伝ってほしい。俺たちの血縁の上の父親のことを突き止めて、それで……母さんのことを、止めたい」

 

 正面に立って、彼はすっと、その頭を下げる。

 拒否する理由などない。異論などあろうはずがない。だってあかねは、そうなることを望んで、そうであることを望んで、ここまでやってきたのだから。

 

「当然だよ。私にできることはするから、何でも言って、頼ってほしいな」

 

 頷いて、言葉を返す。自然と笑みが浮かんでいた。

 正面から彼がそう言ってくれることが、嬉しかったのだ。救いのようにすら、感じられた。だからあかねは嘘一つない、晴れがましい声でアクアにそう伝えて、しかしアクアの方は、それに小さく首を横に振る。

 

「何でも、ってわけにはいかない。あかねが危なくなるようなことは、させられない」

「そっか。優しいね、アクアくん」

 

 答えはそれは紛れもなくあかねの本心だった。けれどもアクアはそれを聞いて、僅かにあかねから目を逸らす。目線が下を向いて、そこから小さな声が聞こえた。

 

「……優しいとかじゃ、ないと思うけどな。当然だろ、人として」

 

 彼の口調は、どこか投げやりだ。吐き捨てるような響きさえ、含んでいるかのようだった。

 そんなアクアを前にして、自ずと気づく。こちらに向かって話しているようで、その実今の彼の言葉は、きっと他ならぬ彼自身に向けられている。

 だって、あかねにはこれほどまでに理解できる。彼の本当に言いたい、心の内に沈んだ声が、聞こえる。

 ——「側に置く」ことが、「利用すること」であると知っていて、それでもあかねのことを手放そうとしなかった俺は、いつかあかねのことだって、死地に追いやっていたかもしれない。ならばそんな自分が、今更こんなことを賢しらに口にするなど、白々しいにもほどがあるだろうに、と。

 だから多分、それは反語なのだ。あるいは自嘲の台詞でさえ、あるのだろう。

 

 胸の中が、むず痒くなった。表現の難しい感情を抱えて、あかねはアクアの手を取る。はたと顔を上げて、あかねに視線を合わせた彼に、敢えて拗ねたように言葉をかけた。

 

「そんな顔しないの。分かってるよ、私は」

「そっか。……そう、だったな」

 

 言葉などなくとも、意思は伝わる。痛ましさを抱えた彼の表情が、ふと柔らかさを宿した。それを見て、あかねも口の端に笑みを浮かべながら頷く。

 

「それで、私は何をすればいいの? アクアくん、してほしいことがあるんでしょ、私に」

「……ああ、その通りだ」

 

 手を離しながら更に言葉を重ねる。対するアクアもまた、そこで俄かに己の表情を引き締めた。

 

 

 

「あかねには、一つだけ調べ物をしてほしいと思ってる」

 

 声の芯に、力が入る。いつもの冷静沈着な、アクアの声が戻ってきていた。

 

「アイは、母さんは、十四歳から十五歳にかけての一年と少しの間、劇団ララライのワークショップに参加していた」

 

 その只中、彼の口から出てきた一つの事実に、あかねは小さく息を呑む。

 

「そっか、だからララライなんだ」

「そういうことだ。で、そこで出会った男と、アイはおそらく恋愛関係になった。交際して、……その、性行為をした」

 

 最後の一言をあかねに言う時の、彼の逡巡するような言葉遣いが、どこか愛おしい。くすりと笑みが漏れていた。

 

「……笑うなよ」

「ごめんね。それで?」

「ああ。それで、この間舞台の打ち上げで一回金田一さんが来たことがあっただろ。あの時、姫川さんと一緒に場所変えて、まああの人酔い潰して聞いたことなんだけどさ」

「あー、アクアくん悪いことしてる」

 

 冗談交じりに非難してみせれば、アクアは苦笑気味に口元を歪めた。そのまま、言葉は続く。

 

「言うなって。とにかく、その時金田一さんが俺に言ってきたんだよ。『お前は、アイツに似てるな』って。演技の仕方も、見た目も」

 

 そこで、そのアクアの言い草で、あかねにもようやく合点が行った。彼が何を自らに頼もうとしているのかも。

 

「なるほど。つまりアクアくんは、私にその『アクアくんに似た男の人』が誰か、調べてほしいんだ」

 

 確認を兼ねた問いを、あかねは発する。

 対する彼は、それにどこか遠慮がちに頷いた。

 

「そう、だな。そういう、ことになる。つまりは――」

 

 一度言葉が切れ、やや逸らされていた視線が合う。

 どこか「覚悟」というか、「決断」のようなものを内包した表情で、アクアは続きを、すなわちあかねへの「依頼」を、口にした。

 

「ララライの過去資料が置いてあるデータベースとかに、そいつと思しき映像データとかがないか、洗ってほしいんだ。ターゲットは十八年前前後、アイが十四歳の頃だ。おそらく、そいつは劇団のOBだろうから」

 

 正対するアクアの双眸の中、完全に力を取り戻した瞳が、強い輝きを宿してあかねのことを見据えていた。

 

 

 

 正直なところを言えば、それはあかねからしてみれば非常に容易い頼み事だった。拍子抜けするほどにである。

 「頼る」というぐらいなのだから、もう少し踏み込んだことを依頼されると思っていたのだ。具体的に言えば、「その『彼』の現在の動向を追ってほしい」だとか、そういう類のものを。

 

「それだけでいいの? もう少し、色々調べられそうだけど」

 

 故にあかねは訊き返す。自分でも分かる、意外さを宿した声だった。

 しかし、それを受けたアクアの眼差しがそこで俄かに鋭くなる。

 

「『それだけ』って……だいぶ無茶なこと頼んでるだろ、俺は」

 

 口にする彼の語気は、さっきよりも強かった。

 まるで「憤り」の色すらも籠っているかのように、あかねには聞こえる。彼自身にか、それともあかねに対してなのかは、分からないが。

 

「俺はララライからしたら部外者なんだ。それが、『ララライの内部の情報が欲しい』って言ってるんだぞ、君に。本当、『お前が言うな』って話だけど」

 

 ただ、その底に流れているものがなんであるかは、流石に理解できた。

 

 つまりアクアは、この期に及んでまだあかねに対して後ろめたさを抱えているのだ。

 今までここでずっと繰り広げてきたやり取りがあって、なお。

 

 本当に、しょうがない人だと思った。しかしそれがアクアという人間のどうしようもない善性なのだということも、あかねは理解している。

 だから、あかねは敢えて彼に向けて頬を膨らませてみせた。

 

「……まだそれ言う? アクアくんさぁ、ちょっと『人を頼る』の下手すぎ」

 

 わざとらしいほどの不満を込めた声で、アクアに文句をつける。

 それを受けて、彼は少しだけ視線を逸らした。図星ではある、ということだろう。

 

「だって、しょうがないだろ、こんな――」

「だっても明後日もないよ。アクアくんの力になりたいって思ってるのは、君に誘導されたからなんかじゃない」

 

 であるのなら、やはり理解させる必要があるのだろう。あかねの気持ちを、改めて。

 そう意を決して、あかねは未だ自らのほど近くに立つ彼の頬に、伸ばした手で触れた。

 

 弾かれたようにこちらを見るアクアに、あかねは笑みかける。

 

「君が私を最初に助けてくれた時のことを、私はずっと憶えてる。……だから」

 

 そして、自らの嘘偽りのない言葉を、正面から伝えた。

 

「私はアクアくんに頼ってもらえて、嬉しいんだよ。本当に」

 

 アクアの小さく息を呑む音が、この静かな廃屋の中に響く。

 真っすぐにぶつけた本心が闇の中に溶けて、彼の表情が緩んだのを、あかねは見た。

 

 

 

「そう、か」

 

 数秒ほどの沈黙を経て、目を瞑りながらも彼はそう言う。自らの頬に触れているあかねの手に、アクア自身のそれをそっと重ねた。まるで、壊れ物を扱うかのように。

 そしてやんわりとあかねの手を頬から離し、閉じられていた目を開く。

 

「なら、あかね。もう一個だけ、頼んでいいか」

 

 確固たる響きを持った声だった。今までのあかねとのやり取りで、心の整理がついたということだろうか。

 

「うん。大丈夫だよ」

「ありがとう」

 

 当然、あかねに否やはない。軽く頷きながら続きを促して、そうすればアクアは居住まいを正しながら、あかねにその「もう一つの頼みごとを」を口にした。

 

「劇団の中で、その『彼』について知ってそうな人から、話を聞いてくれたりしてもらえれば、助かる。あくまで、劇団の中だけだ。外まではいい」

「全然いいけど……『外はいい』って言うのは、どういうこと?」

 

 瞬間、アクアはあかねにぴたりと目を合わせた。

 今度こそ、それは断固とした力の籠った目線だった。彼の瞳の中の輝きが、強さを増している錯覚を懐くほどには。

 

「言っただろ、『危ないことはさせられない』って。そいつはもしかしたら、『あのストーカー』に俺たちの家の住所をわざと教えたかもしれないんだ、あの時。刺激しすぎるのは、正直言って怖い」

 

 言葉にも、同じ真剣さが込められている。「これは譲れない」という意思も。

 

 つまり彼は真剣に、あかねの身を案じているのだ。

 であるのならばそれは、彼から頼られる立場として、信頼されるべき相手として、あかねもまた尊重しなければならないところだった。

 

「そっか。確かに、そうかもしれないね。……わかったよ、無理はしない」

「それと」

 

 首肯したあかねを一瞥した後、立て続けに彼は己のスマホを取り出した。

 暗さに慣れていたあかねの視界に、彼の掌から発される画面のライトの眩さが沁みて、思わず目を細める。

 しかしそんなあかねのことは関知せず、彼は続けた。

 

「あかね。これは正直頼みづらいことではあるけど」

 

 言いながら、アクアはその掌の中にあるスマホの画面そのものを、こちらに見せてくる。

 眩しさを堪えながらそれを見れば、なぜアクアはそういう言葉遣いをしたのか、あかねにも分かった。

 

「あかねには、このアプリをスマホに入れておいてほしい」

 

 そこに表示されていたのは、『位置情報共有アプリ』のダッシュボード画面だった。

 

 

 

 それを見て、一つ合点がいくものがあった。

 つい先ほどの、宿に向かう方向とはまるで違う、あの林道の中にカラスを追いかけて入っていった時のことだ。

 あの祠の前で待っていたあかねは、あの時アクアから現在地の情報を一切訊ねられることなく、それでも彼は迷いもせずにあかねたちのところへとやってきた。

 カラスを追いかけながらルビーの嘯いた、「この辺に土地勘がある」というのは双子であるアクアにしろ同じではあるだろうが、しかしそうだとしても、どこにいるか情報すらもないあかねたちの場所をあれほどまでにあっさりと特定してみせるためには、何らかのからくりの力が必要だ。

 そしてそれこそが、今彼が持っているスマホの、そのアプリなのだろう。

 

「ルビーちゃんのスマホにも、入ってるんだよね」

「ま、流石に気づくよな、あかねなら」

「まあ、ね」

 

 そしてそれを、アクアはあかねのスマホにも入れさせようとしている。アクアは、あかねの現在地情報を把握しようとしているのだ。

 理由は、きっとルビーに対するそれと同じなのだろう。

 

「それぐらい危ないって、アクアくんは思ってるんだ」

 

 無言で、アクアは頷く。しかしすぐに、彼の口が開いた。

 

「それもある。けど、それだけじゃない。……あかねの『演技』のことが、ちょっとな」

「演技……ああ」

 

 どういうことかと首を傾げようとして、その必要もないことを思い出す。

 あかねが「今ガチ」の時に習得した「アイの演技」は、その後のあかねの演技におけるバリエーションの一つとなっている。

 自分の中への役柄の投影だけではない。その中で、あるいはそこに付加する形で、「黒川あかね」という役者の存在感そのものを増大させるためのテクニックとして、あかねはあの演技のエレメントを活用するようになっていた。

 そのことを、アクアは危惧している。つまり、「アイを彷彿とさせる演技を使うようになったあかねは、アイに近い存在として目を付けられる可能性がある」のだ。劇団ララライという共通項を持っている故に、可能性は人一倍とすら言えよう。

 

 そう考えれば、アクアがあかねに対してこれまでずっと抱えていたのであろう「負い目」の正体も、よりクリアに見えてくる。

 あかねにアイのことを教えたことが、結果的にあかねがアクアたちと同じようなリスクを抱える存在になる遠因になった。それ自体が、きっとアクアにとってはもはや「罪」だったのだ。そういう意識で、ずっとアクアはあかねと接し続けてきたのだと。

 

 本当に、どこまでも、彼は優しい。いや、この「責任の所在をなんでもかんでも自分に帰そうとしてしまう」ところは、寧ろアクアという人間の歪みと評するほうが、正しいのかもしれない。

 それを「人の()さ」であるなどと称揚するのは、きっと間違いなのだ。アクアが本当の意味で幸福を享受するためには、それはあかねが引き取らなければならない類の重荷であった。

 

「わかった、いいよ。だけど」

 

 あかねは、アクアのその依頼を諾しながらも、人差し指を立てる。

 

「『演技』のことは、君のせいじゃない。私が、私の責任で、私の意思として、やったことだよ。それは、()()()()()ほしいな」

 

 スマホのライトに照らし出された彼の顔が、その目が瞠られる。

 言葉を失ったように目を瞬かせて、暫くの後に、彼は目を伏せた。

 

「……敵わないな、あかねには。本当に」

 

 そして、彼は諦めたように口にする。口元には、薄っすらとした笑みが浮かんでいた。

 

 

 

 斯くして、これからの方針は固まった。

 アクアがアイやルビーたちとやっているそれと同じように、あかねとアクアとの間で互いの位置情報を確認できるようにする。その上で、あかねはアクアからの頼まれごとを引き受けた。この旅行から帰ったら、さっそくあかねは動くことになるだろう。

 それはきっとアクアにとって、時計の針を大きく進めることを意味している。

 彼はもう、後には退けない。そして退くつもりも、きっとない。あかね自身が、そうであるように。

 

 そしてもう一つ、アクアにはやらなければならないことが残っていた。

 これまでの彼の精神状態のまずさから気づけていないであろうそれを、あかねは指摘する。

 

「アクアくん。もう一個だけ」

 

 あの廃屋から外に出て、星明りの下を共に宿に向かって歩くその道すがら、あかねはそう切り出して、アクアの注意を引く。

 視線がこちらに注がれたことを認識してから、あかねもまた彼に顔を向けた。

 

()()()()()()()()()。今日はもうだいぶ遅いし、今夜のところは私が面倒を見るけど」

 

 そうすれば、皆まで言う必要はなかった。どちらともなく立ち止まり、そしてアクアはあかねに頷く。

 

「そうだな。明日アイツらは外ロケで早いらしいから、昼のうちに時間を取るのは厳しいだろうけど」

 

 前置いて、それでも彼は約束した。

 

「明日の夜、ルビーと話す。それは、俺の責任だと思うから」

 

 断固たる声で、きっぱりと述べられたアクアの言を聞いて、あかねは自らの首を縦に振った。

 

「それがいいと思う。……こんなこと、私が言うのはお門違いだよね。ごめんね」

「そんなことはないよ。あかねがアイツのことを気にしてくれるのは、俺としても嬉しい。これは嘘じゃない」

 

 アクアの腕が伸びてくる。その手が、あかねの手に触れた。

 びくりと、図らずも肩が震える。構うことなく、アクアに手を取られた。

 そして、握られる。優しくも大きい、彼の掌の温もりが、寒空の下であかねの心すら温めていくように、感じられた。

 

「あかね。……本当に、ありがとう」

 

 真っすぐに目を合わせ、アクアがあかねの身体を緩やかに引き寄せる。

 その力に抗うことなく、あかねはアクアの腕に自らの身を委ねた。

 包み込まれた腕の中で、首を振る。

 

「いいんだよ。私がしたかったことだから」

「それでも。ありがとう」

「……そっか」

 

 互いの体温を伝え合うようにして、小さくも穏やかな声で、二人囁き合う。

 たったそれだけのことが、あかねにとってはこれほどまでに嬉しかった。

 

 

 

 

 

 

 

 夜が、明けた。高千穂滞在の二日目がやってくる。

 それはアクアにとって、きっと単なる一日の始まり以上の意味を含んでいた、のだろう。

 

 

 

 世界さえも、塗り替わったような気がした。

 真夜中、雨宮吾郎の実家であったあの廃屋の中、対峙した少女の、あかねの姿を思う。

 

 彼女に言われるまで、アクアは気づいていなかった。

 

 ――君はずっと独りだ。誰かを信じることも頼ることもできずに、一人で生きようとしている。

 

 意識したことも、自覚したこともなかったそれが、しかしあかねから指摘された瞬間に、どこか腑に落ちた。

 自分自身ですら認識できていなかった、星野アクアの明確な歪みだった。

 

 いや、それはきっと「雨宮吾郎」としての自分から引き継いだ、宿痾ですらあるのだろう。

 

 

 

 ずっとずっと、自分は世界の中でただの異物のような気がしていて、その気持ちは正直なところ、今も消えていない。

 だからなのだろう。アクアは無意識のうちに、自分の生に対する意味を、いつも自分の中ではない、どこかに求めて生きてきた。

 「アイを、ルビーを護るため」などと、生きる理由を外部化して、大義名分にして、アクアは誰に対しても歩み寄ろうとしてこなかった。

 誰にも言えない秘密を抱える自分の在り様を金科玉条として、誰を「信じる」こともなく、「頼る」こともなく、「使う」ことしかしてこなかった。

 

 今更になって、気づく。それは、他責の生き方だ。醜い在り方だった。

 どんなに人を騙すことを忌避していようが、誠意を見せることを信条としていようが、そんなものは免罪符にならない。アクアの生き様の歪みは、そのまま己の不誠実さに跳ね返っていたのだから。

 

 

 

 そして――だからこそ今、それすらも踏み越えて、アクアと世界の間に横たわっていたはずの透明な壁すら貫いて届いた彼女の、あかねの言葉と思いが、アクアの心には強く刻まれている。

 

 これほどまでに救い難い自分に、あの時のあかねは手を差し伸べてくれていたのだ。言い表せないほどの不義理を働き続けて、彼女の半年を無為にしたような男に。

 それを烏滸がましいと思う自分は確かにいて、彼女の手を取る後ろめたさは、未だ決して小さくはない。

 

 けれども、それでも今、アクアは伸ばされたその手を、取りたかった。

 アクアにとってそれは、間違いなく救いなのだ。そしておそらくは、アクアの周りの全ての人々にとっても。

 自責という名の陶酔の海へと浸ったまま、その手を意味もなく払いのけるのでは、今までと何も変わらない。そんな自分を羞じているなら、アクアは変わらなければならない。踏み出さねばならなかった。

 

 故に、アクアはあかねの手を取った。正面から、全てを話した。

 許しを乞うて、そして彼女を頼ったのだ。

 

 

 

 その決断を、アクアは後悔していない。

 次に進むべき道は眼前に拓けて、逼塞していた現状にも、光明さえ差し込んでいる。

 あかねがアクアのことを許してくれたという事実は、彼女と本当の意味で負い目のない関係を構築するに至ったことは、それほどまでに心強い。

 彼女と自分との間に結ばれたそれにつけるべき名前こそ未だアクアの中で確定などしていないが、それでもアクアの心に確かな拠り所ができたことだけは、紛れもない事実だった。

 

 だからこそ、アクアはもう一つのことを考えなければならない。

 それがつまり、昨日の去り際にあかねと交わした約束だった。妹の、ルビーのことだった。

 

 

 

 昨日の夜、あの洞窟の中で野晒しにされていた白骨死体を、つまり雨宮吾郎の遺体を見たルビーは、明らかに尋常でない反応を見せていた。

 当然、人の朽ち果てた死体を正面から目の当たりにした精神的ショックは、大きいだろう。それは人間ならば、否、きっと生物ならば誰しもが持っている、本能に起因する心の動きだ。

 

 ただ、あの時ルビーがアクアたちに見せていた様相は、それだけで片づけられるものではきっとない。それとは違う「何か」が、あのルビーからは見え隠れしているように、アクアには思われた。

 いや、アクアだけではない。きっとあかねもまた、ルビーのあの時の様子には同じことを思ったはずだ。だからこその忠告だったのであろうから。

 

 

 

 アクアの内心には、たった一つだけ『可能性』が浮かんでいる。あるいはこの高千穂の地にやってきてからずっと、内心に渦巻いていた可能性が。

 しかしそれは同時に、アクアにとって最低でも今のところは否定しておくべきものであった。

 

 ルビーのことを、血を分けた妹以外の『何か』と重ねることに、アクアは強烈な忌避感を抱えている。それだけはしてはいけないと、ずっと自らを戒め続けてきた。

 だからこそ、その『可能性』と向き合うのには、未だ心の中に準備が足りていなかったのだ。

 

 

 

 それでも、アクアには選択が突きつけられようとしている。

 

 この日、アクアはあかねと共にB小町のMVの外ロケに同伴することを決めていた。

 あかねとの従前の約束、埋め合わせを兼ねた「デート」は、昨日の時点で終わっている。そして二人ともに、今日は寧ろあの雨宮吾郎の死体を直接目にすることになったルビーの方にこそ目を配っておかなければならないということで見解の一致を見ていた。

 だからこそ、本来は部外者であるアクアとあかねの二人はB小町の面々に同行することを志願したし、また昨日の経緯(いきさつ)について報告は受けていたらしいミヤコも、その申し出に同意した。

 

 そして、そんなアクアたちと全く同じ考えをするものが、この場にはもう一人いる。言うまでもない、つまりアイだ。

 あんなことがあった昨日の今日というわけで、アイとアクアとの間に流れる空気は如何ともしがたい。しかし今朝宿の中で顔を合わせた二人は、とりあえず昨日のことを「なかったこと」にして会話を交わした。そういう暗黙の了解が、互いの間には作り出されていた。

 彼女からの呼び名も「アクアくん」へと戻っていたし、そんなアイに対しては、アクアもまた相応の態度をもって接していた。

 

 旅行が終わった後のことは、まだ分からない。共に整理はついていないかもしれない。しかし今のところ、互いの共有する認識に齟齬はない。

 ある種の平穏が、アクアとアイとの間には保たれていた。

 

 

 

 しかし、ルビーは違う。

 今日、彼女はどういうわけか、かなり早起きをしていたらしい。死体発見の連絡と共にやってきた警察の事情聴取を経て、ルビーたちが宿に戻ったのは午前三時などという相当に遅い時間であったにも関わらずである。

 つまり、ルビーはほとんど寝ていない。そういうことも作用していたのか、朝一にスタジオに集まった時、彼女の反応はどうも鈍かった。

 

 ルビーたちの昨日のことで、こちらを案ずる素振りをしていたアネモネの言葉も、ろくに聞いていない。「アンタのことを言っているのよ」とかなに促されて、やっと言葉を返す始末だ。

 しかし、ならば眠気が抜けない様子なのかと言われれば、そんなこともない。

 だからアクアに言わせれば、寧ろあれは『ずっと考え事をしている人間』の態度だった。目の前のことなどまともに見えておらず、ずっと己の思考の中に没頭している、そんな立ち居振る舞いだった。

 

 そして、外ロケの場としてやってきた小川――恐らくは五ヶ瀬川の源流のあたりだ――の中のワンカットが、とうとう今日のルビーの内包している異常さを、はっきりと白日の下に曝した。

 

 

 

 外界からの如何なる情報の入力に対しても鈍い反応ばかり示し続けていたルビーだったが、しかし流石に芸能人の端くれとも呼べる存在になったというべきか、撮影スタッフからの呼びかけにはしっかりと答える。

 既にいくらかの撮影を終え、しかし冷え切った小川の水に足を浸したことでガタガタと震えながらスタッフに対してカイロを要求している有馬かなのどこかコミカルな姿にも、ニコリともしない。眉すら動かさない。まるで幽鬼のような足取りで、俯いたままに岩場を進み、ルビーは川辺に立つ。

 

 準備が整ったと判断したカメラマンが、レンズを向けて掛け声をかけた。

 

「じゃあ撮りまーす! よーい……スタッ!」

 

 その瞬間、この場に突如として吹いた身を切るが如くの冷たい川風と共に、アクアの背筋に寒気が走った。

 

 空気が、変わる。まるで世界のレイヤーすら切り替わったかのような致命的な違和感と、そして強烈な圧力を感じた。

 源泉は、ルビーだ。ふらりと動く挙措から、微細な身体の動きからさえ、凄まじい存在感が放たれている。

 一歩を踏み出し、ゆっくりと川にその足をつける。身震い一つすることなく、ルビーはその中に座り込んだ。

 ただならぬ空気を無差別に辺り一面に放射しながら、斯くてそこでルビーは顔を上げ、視線をカメラと合わせる。

 

 そして、アクアは理解した。

 これは、演技ではない。彼女自身の意図によるものでさえない。

 余人には読み解けないかもしれないが、それでも彼女の兄である、家族であるアクアには、分かってしまった。

 

 彼女の瞳から放たれているのは、強烈な憤怒で、そして憎悪だ。

 怨念とすらも呼ぶべき激情を、一切の加工もない感情の塊として、まるで八つ当たりのように、ルビーは辺り一面に撒き散らしている。

 

 それが結果的に、強力無比な意思の引力となる。彼女が時空の中に突如として生じさせた巨大な質量が、万有引力の法則に従って周りにある全てのものを引き寄せるように。

 

 その瞬間、ルビーはこの場における「特異点」となった。

 MVの撮影も、結果できるであろう映像も、本来であれば「新生B小町」のスタンス通り、そのスポットライトは三人に平等に当たるようになっているはずだったし、実際そうした戦略のもとにカット割りは組まれていた。

 しかし、その全てをルビーは「浚って」いく。ディレクションの通りの身振りと表情づくりこそ守っていて、振りの中でアイドルとして求められる笑顔を絶やすことはなかったが、それでも今のルビーは他者との協調などまるで考えていない。

 

 故にこそ、その存在が浮き上がる。引き寄せられる。かなの、そしてMEMちょの二人のカットの中でも、そこにいないはずのルビーの姿をどこかで探してしまう。三人が集まって撮られたカットにおいては、そんな彼女に吸い寄せられた視線が、まるで離れてくれない。

 かつてJIFでかなが見せた、「私を見よ」というあのパフォーマンスを恒星のそれに譬えるならば、今のルビーのこれはさながらブラックホールだ。

 より暴力的で、強引で、有無を言わせぬ力だった。主張などなく、意識すらもなく、ただその存在だけで、全てが彼女にひれ伏すような。

 

 ダークで、そしてミステリアス。何も知らない画面の向こうの人々は、今のルビーをそう評価するのだろう。しかし彼女の為人を知って、彼女の身に起きたことがなんであるかを理解しているこの場の人間にとって、それはそんな生易しいものではない。

 もっと深刻で、陰惨で、不安定なものだと、理解せずにはいられなかった。

 

 

 

 制御できない情動を衝動のままに世界に対して敷衍させ、それによって見る者全てを自分の領域の中に引きずり込む。言うなればそれは、説得性による暴力とも評すべき振る舞いだ。

 

 なるほど、星野ルビーという存在は、今この瞬間に自らの持てる才能を開花させたのだろう。

 しかしこれは、あまりに危ういものだった。彼女が心中に抱えているものは、明らかに常軌を逸している。

 

 そしてもし、彼女のそれがあの「雨宮吾郎の遺体」にこそ端を発しているのだとすれば――アクアは、もはやその事実から目を背けることなど、許されはしないのだろう。

 場所をスタジオに戻し、ダンスパートの残りの部分を撮られながらも、未だ無遠慮とも言える攻撃的な引力を周囲に押し付け続けているルビーを見て、アクアはそのことを心に定めた。

 

 

 

 

 

 その日の夕刻のこと。昨日に引き続いて、あかねとともに寝泊まりしているルビーの許に、アクアは訪ねる。

 あかねには事前に連絡を入れて、席を外してもらっていた。同時に彼女には、他のB小町の面々やアイたちと一緒に土産物を買いに外に出掛けてもらっている。

 

 謂わばそれは、足止めだ。

 そうしておいて、誰にも邪魔の入らない空間で、アクアはルビーと話をしなければならなかった。たった二人の場所で。

 それが必要であるということ、その意味というものを、アクアは強く認識していた。

 

 

 

「ルビー、いるか?」

 

 旅館の中、ルビーとあかねが寝泊まりする離れの一室を訪ねると、その引き戸となっている玄関扉は中からあっさり開いた。

 開けたのは、当然にルビーだ。既に部屋着に着替えている彼女は、アクアの前に立ってその表情をピクリとも動かさない。

 能面のような顔だ。感情の一切が、抜け落ちている。昼のMV撮影で辺り一面を支配していたあの重圧にも似た存在感すら、霧散していた。

 

「……あかねちゃんは?」

「俺たち以外の全員と土産買いに行ってる。一時間ぐらいしたら戻ってくる」

「そっか」

 

 声も、素気ない。今朝早くの彼女と、それは変わらない。

 しかし、アクアは気づく。あの時よりもなお、今のルビーが纏っている空気は重い。昏く、澱んで、どこか粘ついていた。

 胸の奥底で、彼女は何かを心に決めている。決めてはいけない類の、何かを。

 

「で、何の用?」

 

 だからこそアクアは、ここにやってきた。

 もしかすれば、いや、きっとどちらに転んでも、アクアとルビーの関係はこれ以降、もはや後には戻れなくなる。その境目に、今の自分は立っている。

 

 でも、それがなんだというのか。固より自分は、もう後に退くつもりなどない。

 ならば、構いはしない。

 

 

 

 アクアは一言、何でもない口調のままに、ルビーに告げた。

 

「お前と、話をしに来た」

 

 ルビーから向けられた朱き執念を込めた目線と、アクアが自らの覚悟を載せた蒼の視線が、その場で静かにぶつかった。

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