部屋の奥、居間に置かれている座卓の前に、しかし隣り合わせで座る。
アクアが淹れた緑茶の入った湯呑が、二人の前で湯気を立てている。
「まあ。……その、だな」
それに手を付けることなく、しかし行儀よく隣に座って顔を俯けているルビーに、アクアは僅かに口ごもりながらも声をかけた。
勇ましく『宣戦布告』してみせた割にはどうにも煮え切らない言いっぷりだと、アクアは己を俯瞰する。ただそれは、今この場において何より先にルビーに向けてすべきことがあるという意識が、アクアの中に働いているが故の態度だった。
そしてそれはそのまま、アクアの継いだ二の句となって顕れる。
「昨日は、ごめんな」
「……何が?」
「いや、あの後のことだ。お前と母さんにあの場任せるみたいなことになって、俺は」
「ああ、そゆこと」
しかし、それにもルビーは素気がない。ちらりとアクアの方を見て、乾燥しきった声と共に、首を横に振った。
「別に。いいよ、全然。気にしてないし」
「そうか」
ルビーに向けていた視線を、正面へと戻す。
どこまでも、静かなばかりの部屋だった。壁にかかった時計の秒針の音だけが、やけに大きく聞こえている。互いに口を開くことなく続く沈黙は、あまりに重苦しい。物理的な重量さえ錯覚するほどに。
それを掻き分けるように、アクアは一つ息をする。俯き気味だった顔を上げて、再びルビーの方に、視線を合わせた。
「なあ、ルビー」
呼びかける。しかし彼女は、そのままだ。
アクアの発した声の残響が部屋の中に溶けて消えたあたりで、ようやくぽつりと言葉が返ってきた。
「なに」
もう一度、深呼吸する。
――さあ、これを言えばもう戻れない。その覚悟はできているか。
自問し、言うまでもないと内心で笑った。
そうだとも。そうでなければ、そもそもアクアはこの離れの扉を叩くことさえもしなかったであろうから。
口を、開いた。
「今日、一日中お前のことを見てて、流石に訊かなきゃいけないと思った」
ぴくりと、ルビーの肩が震える。
しかし言葉はなく、顔もこちらには向かない。横顔の中の表情は、一切の色が抜け落ちている。
続けた。
「今日のお前のパフォーマンスは、正直凄いと思った。今まで、見たことなかった。ぞくっとしたよ、本当にな」
「……ありがと」
「けど、だから訊きたい」
こちらを向けと、意思を声に含めながら、問いを発した。
「あの白骨死体。お前と、どういう関わりがある」
ぴたりと、ルビーの動きの一切が止まる。呼吸のために上下していた胸さえ、静止した気がした。
たっぷり十秒ほどの無言の時を経て、ルビーが答える。
「関係ないでしょ、お兄ちゃんには」
「そんなわけがあるか。なあ、分かってるとは思うけどさ」
言葉を切って、敢えて強い口調で残りを口にした。
「どう見たって大丈夫じゃないぞ、今のお前。一日中そうだ。それ見せられて、知らんぷりなんてできるか」
違うか? そう念を押すように述べたアクアのことを、ようやくルビーはちらと見る。
そのまま一度、辺りを見回すそぶりを見せた。そして、彼女は顔を上げる。
「もしかしてさ」
何かに気がついたかのように、その双眸がかすかに細められた。
「
質問と言う体の、それは確信を込めた確認だ。アクアは、頷く。
「そうだ。あかねに頼んだ。……意味は、分かってるよな」
答えはやってこない。じっとアクアを見据えるルビーの瞳には、どこか澱んだ情念の色すらも見える。
威圧感すら滲んだ視線を、瞬きさえすることなく向けてくるルビーに、アクアは正面から目を向けた。
「……そう」
斯くして、その睨み合いとも言える緊張が生み出した停滞を、ルビーが破る。
小さく、ほんのわずかに頷いて、しかしルビーは目に込める力を強くした。
「アクアさ、最初に約束しなかったっけ。私たち、『前』のことは詮索しないって」
語気もまた、強くなる。敢えてアクアのことを「お兄ちゃん」ではなく「アクア」と呼んでみせたことが、彼女の意思の表れだろうか。
「お前は兄とは言いつつも、結局は他人ではないか」、と。
さもありなん、だろう。確かに、互いに双子となる「前」の記憶を持つアクアたちは、その根源においては純粋な家族とは言い難い。
しかし、だから何だというのか。
アクアにとって、今ここで引き下がるのは致命的だ。取り返しのつかないことなのだ。
ここで押し負けるわけにはいかない。ルビーと家族であるためには。彼女を「留まらせるため」には。
彼女と同じだけの力を込めた瞳で、そして声で、アクアはそれに相対した。
「『よっぽどのことがなければ』、って約束だったと思うぞ。俺は今のこれは、『よっぽどのこと』だと思ってる」
斯くして互いに、もう一度睨み合う。
その末に、またも折れたのはルビーだった。
ため息が聞こえる。顔を背け、目を瞑って、そしてもう一度目を合わせてきた。
「そ。分かった。じゃあ、話してあげる。お兄ちゃんだけの、特別だよ」
言葉とは裏腹ににこりともせず、そしてルビーは、とうとうそれを口にした。
「あの人はね。
出てきたその「呼び名」に目を瞠ったアクアをよそに、彼女は言い切った。
「私に生きる意味をくれた人だった」
あまりにも、決定的な言葉だった。
心の奥底で、ずっと意識して打ち消し続けてきた「可能性」が、今目の前にある。
取り繕いようもない。誤魔化しも利かない。有り得ないと思っていた、有り得るべきでないと思っていた、「可能性」だった。
「お兄ちゃん、なんか気づいてそうだけどさ。私、『前世』じゃあんまり長く生きられなかったんだよね。十二歳? ぐらいで死んじゃってて。病気だったんだよね。四歳ぐらいから入院しててさ」
彼女の語る言葉が、アクアの――違う、雨宮吾郎の過去を思い出させる。
「難しい名前がついてる病気。ガンみたいなやつが、脳に出来るの」
ああ、知っている。とてもよく知っている。
病名は、退形成性星細胞腫。忘れたことなどない。
「十二歳まで生きてたのにさ。小学校も、行ったことない。生まれたのは東京なんだけど、いたのはほとんど
天井を、ルビーは見上げる。過去を思い起こしている。
「あの中が、私の世界だった。狭くて、退屈で、つまんなくて……寂しかった。ずっと、独りだったから」
滔々と、語りが続く。気づけば、無意識のうちに手が握られていた。アクアの手が。
「私がママのファンになったのも、病院の中だった。病気もどんどんひどくなって、お薬のせいで髪が抜けて、でも全然治らなくて、身体がうまく動かせなくなって」
目が閉じられる。
「その時に、B小町のこと知ったんだ。ママの、アイのことも」
口元に、少しだけ笑みが浮かんでいた。
「『前』の私とアイって、同い年だったんだよね。だから同い年の子があんな場所で、あんなに大人っぽくって、あんなに綺麗で……羨ましかったけど、でもそんなことよりずっと、『すごい』って思ってた。キラキラしてて、私まで元気になるみたいで。だから、ママは私の『推し』になった」
今までずっと、感情の抜け落ちた、乾いて沈んだばかりの声色だった彼女の言葉に、色がつく。
その姿にさえ、アクアは『かつてのあの子』の面影を見出していた。あの日の残照を、重ねていた。
「せんせに会ったのは、そのちょっとあと。B小町のライブを見に、病院抜け出して東京に行こうとかバカなこと考えてさ。車椅子乗ったまま裏口の方から脱走しようとして、それで捕まったのが最初。今でも覚えてるよ、ずっと忘れない」
語られるエピソードが詳しければ詳しいほど、それを
それでも、アクアは黙っていた。黙って、ルビーの言葉を聞いていた。
「そこから、せんせと仲良くなってってね。B小町のこと布教して。でもせんせは最初の頃ホント酷くてさ。アイのこと説明した時なんて言ったと思う?」
「……いや」
「あのバカ、DVDのジャケット見て『CG加工してるかもしれないから実際可愛いかどうかなんて分からないだろ』って言いやがったんだよ!? 酷くない!?」
それも、よく憶えている。あの時眦を思いっきり吊り上げて猛り狂うように反論してきた「君」の姿だって、忘れてなんていやしない。
もはや遠く、そして輝かしい記憶だ。本当に。
その時の怒りでも思い出したかのように声を少し荒らげたルビーが、しかしまた笑う。
瞳は未だ澱み切ったままで、しかし纏う空気の温度だけ、日向水のように和らいでいた。
「でもね。それからずっと、せんせは私のところに来てくれた。B小町のことも、ママのこともすぐに好きになってくれた」
実際のところ、吾郎がアイのファンになっていく過程は、そこまで単純なものではない。『彼女』があれほどまでに楽しそうにB小町の、そしてアイのことを語る姿に、共鳴する心を抱えていただけだった。最低でも、吾郎の認識ではそうだった。
ただ、いつの間にかそれが「アイのファン」としての心理にすり替わってはいたのだろう。そのことを自覚したのは『彼女』が死んだあとのことだったけれども、きっとそれより前のどこかの時には、すでに吾郎はそうなっていた。
そうさせる力を持っていたのだ、『彼女』は。――今もまた、そうであるように。
「いっしょにおバカなこともたくさんやった。病室でB小町の曲大音量で流してカラオケ大会やってさ、『好きなアイドルの曲を歌うことで分泌される、せろとにん? が患者の心身に及ぼす影響の実験なんだー』、とか、ほんとバカみたいなこと」
バカだバカだと言いながら、声はその全てを愛おしむように柔らかい。
過ぎ去って久しい追想を手繰る彼女の語りは、それ故にアクアの胸の奥底さえ刺激し続けている。
「本当に、楽しかったなぁ。私に『アイドルになったらどうだ』って言ってくれたのも、せんせだったんだよ。『退院してアイドルになったら、俺が推してやるよ』って。……そう、言ってたんだよ」
しかし、そこでルビーからの言葉が止まった。
俯いて、手が握られる。手の甲が蒼白になるほどに、強く。
そして、ポツリと再び声が聞こえた。
「私、アイドルになったよ? 一回死んじゃったけど、でもママの子供になってさ。まだまだアイドルとしてはこれからだけど、でもいつかママと同じ場所に、ドームに立つって決めてたんだよ? 『生まれ変わったら』って、あの時の約束、私は守ったよ?」
呟いている。それは独り言だ。アクアに対してのものではない。
「なのに、なんで。なんでせんせは死んじゃってるの? なんで殺されてるの? なんで、殺されなくちゃいけなかったの?」
しかし横で漏れ出るそれを聞く痛みは、アクアの中でとめどないほどに増幅する。
ざわりと、またも空気が粟立った。
「お兄ちゃんさ。私、聞いたんだ。せんせを殺した奴、ドームの前にアイのところに来た奴と同じなんだって。ママを殺そうとして、お兄ちゃんを刺した奴と、同じなんだって」
「……誰に聞いた、それを」
「誰でもいいでしょ」
アクアの問いを一刀のもとにばっさりと斬って、ルビーは顔を上げる。
ゆるりと合わされた目の中、一段と昏く、強烈な憤怒と怨念を宿した切先の如き眼差しが、アクアに向かって伸びていた。
「……そいつは死んだ。自殺だ。もうこの世にはいない」
「そうだね。でも、せんせを殺した奴はもう一人いる」
確信をもって、断言する。澱んだ瞳の色をそのままに。
「せんせが死んだ日は、ママが私たちを産んだ日で。病院の周りに怪しい男が二人いたって。一人は、お兄ちゃんを刺した奴。もう一人は、
「中学生ぐらいの男」。その言葉に、アクアは思わず目を閉じていた。
アイが子供を産んだのは、十六歳だ。高校一年生の年頃となるだろう。
つまり、アイが身体を重ね、そして子を生した相手が、当時のアイと同年代の相手であったという前提に立つのならば、その男を指す「中学生ぐらい」という形容は、アクアが追おうとしている「彼」の想定される年齢にほど近い。
離れていた点と点が、線で繋がってゆく。どこかでアクアが恐れていた、「彼」の人物像への暗い予想さえも。
「それも、同じ奴が言ってたのか」
アクアの問いに、ルビーは答えない。しかし事ここに至っては、沈黙こそが全ての答えであった。
「ママのことをよく知ってるのは、ソイツなんだ。だから二回もママのところに来た。ママを殺そうとして――」
見開かれた瞳に、涙が溜まってゆく。そして、一筋それが零れた。
「せんせを殺した。お兄ちゃんに怪我させて、もう少しで死んじゃうところだった。私の一番大事だった人を奪っておいて、もう一回なんて」
口の端が歪む。浮かんだのは笑みだ。
それは楽しさから来るものではない。笑うしかないほどに激しく深い、怒りによるものだった。
「そんなの、許せるわけないじゃん。ねえ、そう思うでしょ?」
右手が伸びる。アクアの膝の上に乗った。上目遣いに見上げて、震える声で、ルビーは言う。
「だからさ。邪魔しないでよ。大丈夫、お兄ちゃんに迷惑はかけないから。ママにだって。先輩にもMEMちょにも。全部、私一人でやるから」
その目に、声に、振る舞いに宿ったものを、アクアは理解した。
つい昨日までのアクアが抱えていたものと、それは似ている。しかしきっと、これはそれよりもなお徹底していて、固く冷たく、そして救いがたいものだ。
ならば今、彼女のことを何も知らない、
「……だったら、一つだけ訊かせてくれ」
それでも、否、だからこそアクアは訊かなければならない。
「お前は、ソイツを……その、『中学生ぐらいの男』を、殺すつもりなのか」
ルビーの双眸を真っすぐに見据えながら、問うた。
「どうなんだ」
言い逃れは許さない。その意思を強く瞳に籠めた。今日の昼間、ルビーの目の中に宿っていた凄まじいまでの憎悪は、アクアにそんな致命的な予感さえも抱かせていたからだった。
互いに目を合わせたまま、少しの時が経つ。ルビーが、小さく唇を開いた。
「……分かんないよ、どうしたいのかなんて。でも」
一度、声が途切れる。目が伏せられた。
しかし次の瞬間、再び上げられた顔の、その双眸の中からは、昼間に見た彼女のそれと寸分違わぬほどに烈しい、赤褐色の昏い輝きが放たれていた。
「私は、そいつを絶対に許せない。許さない」
――地の果てまでも追いかけてやる。絶対に逃がさない。
それはそんな、言い表しようがないほどに深く澱んだ、復讐心の発露だった。
嘆息する。小さく頭を振っていた。たった一夜で、あの一件だけで、自らの妹はこうなったのか。こうなってしまうのか、と。
そこに至る因果に思いを馳せ、導くべき結論を意識して、故にアクアはいよいよもって、己の肚を決めざるを得ないことを意識した。
これまでどこか茫洋と抱くばかりであった『可能性』という名の憶測が、もはや目を逸らすことのできない現実となって今、眼前に立ち現れていることも。
「止めろって言っても、聞かないよな」
「うん。ごめんね」
「まあ、だろうな」
返ってきたそれはあまりに当然すぎる受け答えで、アクアの口許からは苦笑すら漏れる。
だって、そうだろう。今の、「兄とは言えども究極的には他人」のアクアでは、ルビーの心など動かせるわけがない。そんなことは、初めから分かっている。
「じゃあ、母さんだったら? お前がそんなことして、いい顔するわけないだろ」
だから、アクアはもう一つ問いかけた。今この時、ルビーにとって最も大事であるはずの人を、引き合いに出した。
沈黙が、やってくる。ルビーが視線を逸らした。言うまでもなく、逡巡しているのだろう。
当たり前ではある。彼女の中で、きっと「せんせ」と「ママ」の二つを皿に乗せた天秤が、揺れている。
しかし、それでも結局、彼女は止まらなかった。
目線をこちらから外したまま、無言で首を一つ横に振った。
「一生のお願い。ママには言わないで」
そしてそんな注文を、アクアにつけた。
「そう、か」
視線が下を向く。瞼を閉じる。
ポツリと、言葉が漏れ出ていた。
アクアは、正直なところ最後の最後まで、自分の正体についてルビーに明かすことは生涯に亘ってないと考えていた。
今の彼女の語る「かつての話」を聞いて、なお一層その気持ちが強まったほどだった。ルビーに対して、自らの過去のことは、「雨宮吾郎」のことは、話すべきではないとさえ考えていた。
この期に及んで、韜晦など必要ない。白を切る意味もない。
ルビーの正体を、ルビーの「前の誰か」を、アクアは理解した。せざるを得なかった。
――ずっと、ずっとここにいたんだね。
それが、アクアの、吾郎の内心の全てであった。
己の心を、なんと表現すればよいのか。
嬉しい。そうだ、間違いなく嬉しい。それは彼女がアクアの傍にいたからではない。
前の彼女には、確かに戻れはしない。前の生で抱えていた苦しみも寂しさも、本当の意味で報われることは、満たされることは、きっとないのだろう。
彼女の終わりの時、ついぞ病室に現れることのなかった、彼女の母親のことも。
天童寺さりなは、天童寺さりなだ。雨宮吾郎が雨宮吾郎であるように。
だから、あの時
しかし、それでも、彼女はここにいる。
ルビーか、さりなか。そんなことはどうでもよい。
『彼女』は生きているのだ。生きて、ここにいるのだ。そして夢を追っている。それが出来る生を歩んでいるのだ。今度こそ、
それ以上の望みなど、救いなど、ありはしない。
だからこそ、アクアは彼女に自分の存在を明かしたくなかったのだ。
「生きる意味をくれた人」と、確かに彼女はアクアにそう言った。目の前に座る人物の、アクアの正体を知りもしない今の彼女が、それでも雨宮吾郎という人間を、そう評した。
しかし、もしそうであったとしても、アクアは所詮は「かつて吾郎であった人間」でしかない。
過去の影法師だ。ずっと、自らのことをそう断じている通りに。吾郎の吾郎としての時は、結局あのアイの出産の日で止まっている。そしてもう進むことは二度とない。
そんな人間が、もう一度「吾郎」を名乗ってルビーの前に現れれば、どうなるか。
ルビーの生き方が、歪む。もはやこの世のどこにも存在しない雨宮吾郎の影をいつまでも追い、それを兄に重ねて、過去の幻影から彼女は抜け出せなくなってしまう。そうではないか。
であるのならば、彼女は知らない方がよいのだ。「吾郎」のことなど、「アクア」のことなど。知らないまま生きてゆくべきなのだ。
「天童寺さりなが死んだあと、数年後に宮崎にて失踪した雨宮吾郎は、日本のどこかでは生きているのかもしれないが、しかしそれを知る術はない」。そういう認識のまま、彼女にとっていつか雨宮吾郎の存在は、そっと追憶の中で愛でるべき遠い思い出へと褪せていく。そうなって然るべきだったのだ。
それを、アクアは悔いない。惜しいとさえも思わない。忘れてもらってもいいと、思っていた。
寧ろそれこそが、あの時何もできなかった、何一つ彼女にしてやれなかった雨宮吾郎が最後にできる、天童寺さりなへの手向けであると、そう思っていたから。そう信じたかったから。
しかし今、その前提が崩れようとしている。
あの死体を見て、そこに至る「雨宮吾郎の死の真相」を知って、憤怒と憎悪に身を焦がし、ルビーは進んではいけない方向に進もうとしている。
アクアが踏み止まれたその境界線を、あかねに救ってもらった破滅の淵を、今度は彼女が跨ごうとしているのだ。
せっかく掴んだ夢が、掌から零れ落ちる未来がやってくるのだとしても。それでも、彼女はもう止まれない。止まる気がない。
ならばそんな彼女には、誰の声さえも、きっと届かない。アイを、自らの母を天秤に掛けてさえ、戻ってくることを拒絶した今のルビーには。
そうだ。それほどの覚悟を決めてしまった彼女は、もはや立ち止まることなど考えもしないだろう。
――ただ一人、雨宮吾郎その人が生き返りでもしない限りは。
自らのこれからしようとしていることを、今一度反芻する。
これが難しい選択なのは分かっている。アクアが抱えていた懸念は何も解決していない。
「雨宮吾郎」という名の幻が、ルビーを過去に縛りつけてしまう。そういう危惧は、むしろより重くさえある。今この瞬間、吾郎の死を知った直後の彼女にそれを知らせることが、真に彼女のためになると思えるほど、アクアは楽天家ではない。自惚れてもいない。
だからこれは、エゴだ。星野アクアという個人の、我儘だ。
あの子の、『明日』が欲しいと。彼女の視線の向く先にあるべきは、暗く鎖された未来ではない、今日よりもよい明日に決まっていると。そういう、私欲だ。
だって彼女は、アクアにとってただ一人の血を分けた妹で、かつて吾郎が見つけた希望の象徴で、けれども同時に永遠の悔悟の対象で、だから今度こそ、自分に出来ることの全てをもってその力になろうと、そう心に堅く定めた相手なのだから。
そんな存在こそが、「星野アクア」にとっての「星野ルビー」にほかならないのだから。
ならば、躊躇などいらない。もう、迷ってはいられない。
ずっと閉じていた目を、徐に開く。
静かに、ゆっくりと、顔を上げた。
「でも、やっぱり俺は嫌だ。……憶えてるんだ、全部」
ルビーを見る。その眼の中を覗き込んだ。双眸に映るアクア自身と、目が合った。
「あの冬を越えて、五月になったら。B小町が宮崎に来るから会いに行こうって。チケット、東京まで買いに行ってさ」
瞬間、ルビーの瞳が縮んだ。目が、大きく見開かれた。
「心配させたよな、あの時は。東京にいるファンの子が連絡くれたときも、『ストーカー女が職場にまで電話かけてきた』とか、
「あ、え……?」
茫然と、当て所を失った声が響く。
現状を理解できない。目の前で何が起きているのか、分からない。そういう色をした、呼吸と混ざり合った、掠れきった声が。
「元気になったら、渋谷にでも原宿にでも連れて行ってやるって。アイドルのスカウトが来たら、俺が見極めてやるって。憶えてる。全部憶えてる。忘れたことなんて、一回もない。一瞬もない」
思い出が口を衝くたび、アクアの胸中すらも乱れていく。自分の発する言葉に引きずられるように、秘めておくべきだったありとあらゆる情動が、暴れ出す。
「『春が来たら』とか。『元気になったら』とか。守れない約束ばっかりして、俺は逃げてた。二人でバカやってた時だってそうだ」
気づけば、まるで懴悔のように、アクアはあの時の自分の愚かさを呪っていた。
「『その時』なんて永遠に来なければいいって、そうやってずっと考えないことにしてて、だから俺は何もできなかった。何もしてやれなかったんだ」
今それを「君」に言ったところで、詮ない話でしかないだろうに。
それでもなおこんな懺悔が止まらないというのなら、つまり自分は吐き出したかったのだろう。誰に向けても、言えるはずのないことだったから。
ならばあるいは、アクアは心のどこかで許しさえも求めていたのかもしれない。もう永遠に届くことなどないと、そう思っていた、あの日の「君」に対して。
「もっと前から気づけてれば、見ないふりさえしてなければ、『お母さん』のこと、せめてあの日に呼んでくることぐらい、できたはずなのにって。それが、ずっと頭から離れなくて」
そうだ。ずっとずっと、それは後悔であり続けていた。
そしてその後悔こそが、今のアクアを形作っている。
だから、伝えるのだ。ルビーに。妹に。今確かにここにいる、ただ一人の「君」に。
彼女の肩に、静かに手を置く。そこから伝わる暖かさが、痛みすらもたらした。
きつく目を瞑る。こみ上げてくるものを強引に押し付けるように、肩で息をした。
気を落ち着けて、静かに目を開けて、もう一度口を開く。
「でも、いるんだろ? 『君』はここに」
アクアの手が、ルビーの身体の震えを感じ取る。息を呑む音がした。収縮する瞳が、呼吸に合わせて波打つ。
「ずっとやりたかったことで、夢みたいだって話してて、でも今、君は追っかけてるじゃないか」
彼女の中で次第に、確実に形を帯びているであろうアクアの「正体」を、もう隠すこともない。
「もしそうだって言うなら、俺はそれだけでいいんだ。それ以上なんて、いらない」
「嘘、うそだよ、そんな……」
声の端を震わせて、呆けたように呟くルビーに構うことなく、言葉を重ねた。
「それなのに。それなのに、そんな簡単に、全部投げ出すようなこと、言わないでくれよ」
視界が滲む光が、目の前に結像する少女の輪郭さえも乱す。
ならば今『君』から見える自分はどこまでも情けない姿のはずで、でもアクアにはもはやそれを堪えることなどできはしなかった。そしてもう、そのつもりもなかった。
「せん、せ……?」
「夢を叶えるところが、見たいんだ。それだけでいい。それ以外なんて望まない。ずっとずっと、俺はそう思ってたんだよ。お前が『君』だって、気づく前から。なあ――」
零れ落ち、頬を流れ伝う雫の感触をそのままに、アクアは手を載せていた彼女の、ルビーの肩を掴む。
少しだけ身を寄せて、正面にその瞳を見て――
「――さりなちゃん」
そして、その名を呼んだ。
震える腕が、少しずつ掲げられる。
「ほんとに、あなたなの……?」
彷徨ったルビーの手が、アクアの肩に、そして首に触れた。
「せんせ、なの……?」
救いさえ求めるような、湿り気を帯びた声だった。
思わず目を逸らそうとして、しかしそれだけはやってはならないと、覚悟とともに目線を合わせ続ける。
逃げることは、許されないのだから。
「今は、アクアだよ。お前の兄の、星野アクアだ。……だけど」
ダメ押しのように、アクアはルビーに「答え」を示した。
「俺は君のことを忘れたことなんて、一度もない。
肩を掴んでいた手が、振り払われていた。身構える暇すらなく、アクアめがけて金糸の髪が飛び込んでくる。
勢いに任せて広がるそれに、一瞬だけ視界が覆われる。彼女の頭がぶつかった肩口に、衝撃と共に鈍い痛みがやってきた。
襟元を、掴まれていた。
声にならない声が、聞こえる。いつかの病院で、十三年前のあの場所で、ぼやけきった視界とともに耳にした、あの声と同じだった。
しかし、今は目も見える。手も、腕だって動く。あの時とは、違う。
自らの身体に取り縋り、顔を伏せて小さく首を振っているルビーのその身体を、だから今度こそアクアは、両の腕でしっかりと抱きしめることができた。
声が聞こえる。せんせぇ、せんせぇ、と。
何かを堪え続けているような押し殺した声で、それ以外の言葉を忘れてしまったかのように、ずっとルビーはそれだけを口にしている。
肩を震わせ、掴まれているアクアの襟は、その力の強さを示しているかのように強く皺が寄っている。押し付けられた顔から零れているであろう涙が、胸元に冷たさを感じさせた。
全てを知覚して、アクアはルビーのことを抱き留めている手で、彼女の背中をさする。時折、ぽんぽんと叩きながら。
ルビーが落ち着くまで、こうしていようと思っていた。
「なんで。なんで、言わなかったの、今まで」
か細い声で、ルビーが問いかけてくる。顔を上げることなく、故にアクアの服に、身体に阻まれた、くぐもった音だった。
「実は気づいてたんじゃないの、私のこと」
どこか恨みがましささえ籠っているように、感じられる。こちらのことを責めているような。
でもそれば、致し方のないことなのかもしれない。
「疑ったことは、ないわけじゃない。『もしかしたら』って思ったことは、正直何回もあったよ」
「じゃあ、なんで」
誤魔化すべきか、とも思った。
いくらでも言い訳はつく。「確証が持てなかった」とか、「お互い詮索はしないことにしてたから」、とか。
言い包めるだけなら、造作もないだろう。今、アクアのことを雨宮吾郎と強く同一視している彼女に対してであれば。
そう思って、しかしその思考だけで、強い拒否感が胸中を支配する。
反吐が出そうだった。ルビーに対して、今のルビーに対して、そんなことを思いついたことそれ自体が、恥ずべきことだった。
分かっている。今アクアがルビーにすべきことを考えれば、これは偽るべきものではない。断じてない。
だから、アクアは己の心の正直なところを、そのまま答えた。
「失礼なことだって、思ったから。さりなちゃんに、ルビーに」
「なにそれ……どっちも私じゃん」
「そうだな。……その通りだ」
全てが明らかになった今となっては、確かに間抜けにすら思えるかもしれない。小さな苦笑が、口の端に浮かんでいた。
しかしすぐに、それも元に戻る。ルビーを掻き抱く腕の力が、無意識のうちに少し強くなった。
「けど。生きてるじゃないか、お前は、今を」
腕の中で、ルビーが息を呑んだ音が聞こえた。
「それなのに、俺ばっかり昔の後悔をいつまでも引きずって、その相手を勝手にお前に重ねて。そんなのダメだろって、ずっと思ってた。それだけはしちゃダメだって」
力を込めて、しかし壊れ物のように、どこか相反する態度で、アクアは自らの妹のことを包み込み続ける。頭に手をやって、そして撫でた。
「君に何もしてやれなかった。俺は、何一つ。その代償を誰かに押し付けて、それで許された気になるのも、絶対に間違ってる。何もできなかったことは、変わらないんだから」
アクアにとって、そこに宿る意思とはどこまで行っても悔悟に他ならない。
しかし、それでも今、アクアは前に進まなければならない。自らの後悔と共に永遠に過去にしがみついて、自傷行為に耽溺していた今までの自分とは別れを告げるのだと、そう決めたばかりなのだから。
俯けていた顔を上げる。腕の中に抱きしめたルビーに頬を寄せた。びくりと震えた彼女の身体を、もう一度深く包み込んで、アクアは言う。
「けど、君はここにいる。俺の前にいる。なら、いつまでもそうしてるわけには、いかないよな」
再び、ルビーの肩を掴む。力を込めて引き剥がすようにすれば、彼女の身体はあっさりアクアから離れた。
互いに、視線を合わせる。泣き腫らしたルビーの顔は涙でぐしゃぐしゃで、充血しきった目が、双眸の紅玉の赤をなお深く引き立たせている。
「
でもそんな彼女が、アクアにはとても美しく見えた。
だからアクアは、その瞬間笑っていた。憂いなき笑顔で、ルビーに対してそう言えていた。
対するルビーもまた、アクアと同じように、涙に濡れた顔に笑みを浮かべる。
大きく頷いて、そして口を開いた。
「――私も。
そう、アクアに対して言葉を返すルビーの瞳は、つい今しがたまでの濁り澱んだそれではない、確かな光を、煌めきを帯びている。
全く同じ、互いの生に対する感謝を交わして、二人は共に、静かに笑い合っていた。
原作(そしてアニメ)の「再会」回はおよそろくなものではありませんでしたが、こちらでは真っ当な「再会」となりました。
因みにルビーの語っているエピソードは、小説「一番星のスピカ」から引用しています。本作の吾郎は「さりなが死んだあとにさりなの病室で見つけたメッセージカードから何を読み取ったか」で以降の性格が大きく分岐しているため、それまではほぼ一番星のスピカの吾郎まんまのことをしています(差分は女遊びがそこまで激しくないぐらい)。なので「推し活健康論」も大真面目にこの男はやっているということです。
なお、原作と違って黒星ルビーがカミキのことを「殺す」までガンギマっていなかったのは、アイが生きているからです。
自分がカミキを殺して人殺しになればアイが悲しむ、アイを不幸にするという認識が、その一線を越えることを押し留めていました。
そして次話が本章の最終話となります。