今に至る事態の、その発端は紛れもなく凶事であった。
しかしそこからの紆余曲折の末に、結果的にアクアとルビーの二人は互いの「前」のことを認識し合って、そして共に思いを確かめ合うことができた。
喜ばしいこと、ではあるのかもしれない。
ただ、だからとて「二人はその後、幸せに暮らしました。めでたしめでたし」――とはならない。そのことを、アクアはよくよく認識している。
一頻り「再会」を喜び合った二人は、しかしどちらともなく身体を離して、座卓を横に向かい合っていた。
いつの間にか冷めてしまったお茶を口にしながら、先にアクアが言葉を発する。
「ルビー……さりなちゃん? まあ、ルビーでいいか。ルビー、お前が『聞いた』とかいう、俺が死んだときの不審な男の話だけど」
理由は単純だ。ルビーに「敵討ち」を思い止まらせたとて、その原因となった出来事が消えてなくなってくれるわけではない。
アクアがアクアとしてここにいるということが、何よりの証左だ。
当然に、ルビーもそれは分かっている。その話を向けられて、しかし先ほどのように異様な空気までは発することなく、しかしアクアと同じ冷静な態度で、彼女は無言で頷く。
「そいつが、母さんの情報を『もう一人』の奴に、つまりあのストーカーの男に流して、それで母さんが襲われた。結果的に俺が刺されるだけで済んだわけだけど、逆に言えばそいつは、
話を聞いていたルビーの動きが、ぴたりと止まった。アクアがそういう言い回しをした意味を、当然にルビーも理解したということだ。
「お兄ちゃん、それって」
「俺は、そいつの正体を結構前から探してた。それこそ、リハビリが終わって退院したあたりから」
「誰なの? お兄ちゃん」
当然の問いに、一瞬アクアは逡巡する。
アクアの仮説は、もしかしたら今のルビーの精神にはよくないものかもしれないと。
ただ、もはやそれに意味がないことはアクアが一番よく分かっていた。そういうところも含めて、アクアはもう戻れない場所まで来ているのだから。
「誰か、まではわからない。けど、どういう立場の人間かは、ほぼ確実に予測がついてる」
一度言葉を切り、呼吸を挟む。
そしてそこからは、一息に言い切った。
「『俺たちの、血縁上の父親』。そいつは、多分そういう人間だ」
果たして案の定、ルビーの目は大きく見開かれた。口に、両手が当てられた。
「父親、って、そんな……」
「『処女受胎』とか言うなよ? 憶えてるんだからな俺は、あの与太話」
そう言って、かつてルビーがアクアに対して主張した「双子の生まれに関するトンデモ」を使って茶化してみせて、しかしすぐに表情を真剣なものに戻す。
「あの時のアイの交友関係とかを色々考えたら、それ以外に可能性はほとんどない。これはまず間違いのない推理だと思う。ただ」
未だ驚愕の中から抜け出せずにいるルビーに向かって、説き続ける。
「確証があるわけじゃない。実際に俺たちの家にナイフ持ってやってきたストーカーはもう死んでる。そいつから聞き出すのは無理なんだから、当然だよな」
一度そこで、ルビーの反応を待つ。
数秒ほどの時間を経て、ようやく自分の中でアクアの言葉を咀嚼したのであろうルビーがそれに頷いたのを見届けて、アクアも頷き返しながら続きを口にした。
「だから俺は、俺たちの父親のことを突き止めた上で、そいつがどういう人間かを知ろうと思った。いや、『思っていた』」
「……思って、『いた』?」
その最後、アクアが言い換えたその言葉の端に食いついたルビーの問いを受けて、アクアはルビーから視線を外した。
出入口の襖に、目を向ける。まだ、ここには誰もやってくる気配はない。
それを念のため確かめて、アクアはルビーへとまた顔を向け直した。
「ほんと、馬鹿って言うか、呑気な話だけどさ。俺が刺されて、死にかけて。それなのに、何にもしてないわけがなかったんだよ。母さんが」
そうだろ? そう付け加えたアクアの言葉に、しかしそれより先んじて短く息を止めたルビーは、ついさっきアクアがしたようなものと全く同じ素振りであたりを見回す。
同じようにアクアに視線を戻して、重々しい態度で頷いた。
「じゃあ、あの時ママがあそこに来たのって……」
「ということだ。そもそも宮崎の話が出てきたタイミングで母さんがあんなに分かりやすく反応してたんだから、気づいとかなきゃいけなかったんだろうけど」
後半で軽く自嘲の笑みを浮かべたアクアが、しかしすぐに表情を元に戻してルビーに説く。
「母さんも、多分俺たちの父親が怪しいと思ってるはずだ。もしかしたらルビーとは別の『誰か』を経由して、『前の俺』を殺したヤツの情報を持ってたのかもしれない。ただ」
何をか。アイがあの事件のことについてどうしようと考えているか、その懸念についてである。
「母さんは多分、十分な情報を集めきったら、それを警察に持っていく。殺人教唆の公訴時効は殺人と同じで今は無期限だし、殺人未遂は二十五年だ。立証できるかはともかくとして、告発する分には何の問題もない。けど、もし告発が受理されて俺たちの父親に関する捜査が始まったら」
「私たちのことが、世の中にバレる……?」
「……まあ、そうなるんだよな」
アクアの言葉を引き継いで、その最も重要な部分を自らの口から言ってみせたルビーに、アクアは頷く。
それがどういうリスクをもたらすか、分からないルビーではない。忽ちにして表情を深刻なものに変えた彼女に対して、アクアはきっぱりと口にする。
「だから俺は、母さんが動くより先に、俺たちの父親のことを突き止めなくちゃいけないんだ」
そこからが、ある種の本題であるとも言えた。
「多分さ、世の中的には母さんの方が正しいとは思うんだよ。仮にも雨宮吾郎は殺されていて、母さんは殺されかけて、俺は刺されてるんだから」
それはあかねに諭されたあと、冷静になった頭で考えた結論だった。
正直なところ、世間に対して誠実な行いをしているのは、恐らくはアイの方だ。
我が子を守るために、そしてかつて為されたであろう悪を裁くために、彼女は何も間違ったことをしていない。
全部分かっている。
しかし、分かっていてなお、アクアはそれを良しとできなかった。
「けど、俺たちと母さんのことが世間にバレたとき、母さんはものすごくダメージを受ける。バッシングされるだろう。タイミングが悪ければ、お前もだ」
理由は、結局それだ。
アクアの行動原理は、ずっと変わっていないのだから。
母を、そして妹を守る。それはなにも、命だけの話ではない。
「だから母さんは、あと壱護社長も、俺たちをかなり急いで売り出そうとしてる。特にお前が芸能界の中で独り立ちして、母さんの力がなくても十分売れっ子扱いされるまではな。
つまりは、と言葉を継ぐ。
もっともその半分ぐらいは、あのときあかねに気づかされたことではあるのだが。
「母さんは、俺たちの父親のことでバッシングされるのが自分だけになるようにしてから、警察に話を持ってくつもりだ。……そう考えると、多分壱護社長もグルなんだな」
ルビーは、滔々と続けられるアクアの話に目を瞬かせている。果たして彼女の頭の中、理解は追いついているのか、いないのか。
ただ、最低でも今の対立関係を、つまり「アクアとアイが互いの利害の不一致で対立している」という事実だけは、おそらく読み取った。
「ねえ」
だからだろうか、現状を説くアクアの言葉の中に、そこでルビーの声が割り込んだ。
「せんせとママが協力することって、できないの?」
無垢と言ってもよい問いだった。同時に、そうあれれば確かにそれが理想なのだろうという問いでもあった。
しかし、アクアは首を振る。
「……難しい、だろうな。『優先順位』が違うから」
「どういうこと?」
首を傾げたルビーを前に、アクアは天を仰ぐ。そしてすぐさま項垂れて、そのまま口を開いた。
「母さんは、俺たちを守ることが最優先だ。今まで動かなかったのも、今このタイミングで動こうとしてるのも、全部俺たちのこの先に禍根を残さないためだ。だけど俺は違う」
もう一度、ルビーに視線を合わせる。充血が引いて、いつもの紅玉の輝きを取り戻した彼女の瞳が、かすかに揺れている。
「俺は、そんなことのためにあの人に犠牲になって欲しくはない。母さんに、まだ夢を追っていてほしいんだ。それと……」
一度、息を継ぐ。そこで自分が言葉を切った理由を、アクアは自覚していた。
「そもそも、俺たちの父親のことをどうすべきなのか、正直まだ決め切れてないんだよ。だってそいつのことを、俺はまだ何も知らないんだ。母さんが、自分のキャリアを引き換えにしても告発しなきゃいけない相手なのかも」
果たして、そんな「迷い」すら含んだアクアの告白を聞くや、彼女は言葉もなく俯いた。
どちらも言葉が出ない。何度目かの沈黙の時が、この場に降りてくる。
酷な状況ではあると思った。ルビーにとって、アイとアクアの間に今生まれてしまっている溝というのは、きっと耐え難いものだろう。
なんで家族同士なのに、争わなければならないのか。それも、お互いがお互いのために動いていることなんて、分かり切っているのに。
アクア自身でさえもそういう思いはあるのだ。横から見るばかりの彼女の心情は、いかばかりか。
果たして、俯いたままのルビーから、言葉が零れる。
「分かんないよ、私。ママとせんせ、多分どっちも間違ってないよね? なのに、なんで」
「そうだな。ごめんな」
「違う、違うよせんせ。せんせは悪くない」
ふるふると、首が振られる。顔が上げられた。
「ねえ。私は、どうすればいいの?」
そして、一つの問いかけがやってきた。
「何もしなくていい」。よっぽど、そう言いたかった。ルビーには、「君」には、そういう暗闘のようなものを何も考えずに夢へとひた走っていて欲しかったから。
ただ、そういうわけにはいかない。この話をしてしまった以上、それを知ってしまった以上、もう彼女は無関係ではいられない。
ならば、結局アクアはこう返すしかなかった。
「
目を見開いたルビーに向かって、その目を覗き込んで、アクアは続ける。
「酷いことを頼んでるのは分かってる。だけど、俺はお前に『俺の味方をしろ』とも『母さんの味方をしろ』とも言えないから」
「けど……」
「頼む」
頭を下げた。ルビーが息を呑んだのが聞こえた。
「ルビーが、自分で決めて欲しい。どういう答えを出しても、俺は尊重する。まあ、出来れば関わらないでいてくれた方が嬉しいのは確かだけどな」
顔を上げながら、苦笑交じりに付け加えたそれに、しかしルビーは腕を組んで、しばし思慮に沈む。アクアはそれに、何も言わずにただ待った。
暫しの時が経つ。ルビーが、ゆるりと身動ぎする。組まれていた手が下ろされて、そしてアクアの両膝に乗った。
顔は、俯いたままだ。小さな呼吸の音を、アクアは聞いた。
「お兄ちゃん」
そして、声が発される。
「――もう、どこかに行っちゃったり、しないよね?」
言いながら、顔が上がる。目線がこちらを向く。その表情に、アクアは言葉を失った。
ルビーは、どこか祈るような目で、そして顔で、アクアを見ていた。
彼女の謂わんとすることは、嫌でもわかった。その心情も。昨日、あの場所で
「ママも、そんなことないよね?」
同時に、アイのことも。であるのなら、そういう不安に駆られる彼女の今の気持ちは、止められるものではない。
アイがアクアたちを、アクアが母と妹を案ずるように、ルビーとて自らの家族のことを、何より大事に思っている。そんなこと、今更言うまでもないのだろう。
アイにつくとか、アクアにつくとか、そんなことよりも何よりも、ルビーにとっては二人が生きていることの方が、よほどに重要なのだ。
それを分かって、意識して、だからアクアは努めて少しの笑みを浮かべながら、ルビーに答えた。
「俺は、これでも元医者だったわけでさ。だから、この世に『絶対』なんてないことは、よく分かってる。『百パーセント』なんて言葉は、使えない」
口にしたそれに、ルビーは少し表情を曇らせ、俯く。
「でも」
それは分かり切っていて、故にアクアはすぐに続きを言葉にした。また目を合わせてきた彼女目掛けて、言い聞かせるように。
「俺にとっては、君と一緒に、母さんと一緒に生きることが、一番大事だよ。それはずっと変わってない。それだけは、信じてくれ。さりなちゃん」
アクアの方から、もう一度ルビーに手を伸ばす。彼女の身体を掴んで、穏やかに引き寄せ、そして抱き寄せた。
抵抗もなく、ルビーはアクアの腕の中にその身を寄せる。胸に頬を擦り付けるようにして、彼女は頷いた。
「……信じてるからね」
「ああ。信じてくれ」
「ん。じゃあ」
ルビーが、アクアの腕の中で顔を上げる。至近距離で互いに顔を見合わせる中で、ルビーはそれを宣言した。
「わかったよ、お兄ちゃん。私のことは、私が決める」
決意を内包した、真剣な表情で、それを断言した。
そんなルビーにアクアはしかと頷いて、もう一度強く彼女のことを抱擁する。
ともに背中に手を回して、互いの体温を、そして鼓動を感じ合うそのひと時は、外へと出かけていたあかねが帰ってきて、この離れの玄関扉を開くその瞬間まで続いた。
それは、確かに想いを通わせる、兄妹としての、そして『もう一つの絆』を紡いだ二人としての、時間であった。
今回、B小町はじめとする苺プロの面々が泊まっている宿には、温泉がある。かなが今日の撮影の終わり際、酷使したであろう身体をほぐす素振りを見せながら「温泉にでも入ってゆっくりしたい」などと言っていたが、それに関してはあかねも全く同じであった。
一日の終わり、夜の帳がすっかり降りた高千穂滞在二日目の今、あかねは宿に併設された露天風呂に一人浸かっている。
部屋の数がそこまで多くない宿であるからか、辺りには誰もいない。貸し切り状態と表現しても全く誇張ではないだろう。
一月の寒風が顔と頭を撫で、またその冷気によって適度に冷まされた温泉の熱が、身体に心地よい。そんなただ広い空間の中にポツンとひとり佇んで、あかねは思慮を巡らせていた。
本当に、休む暇のない二日だったと思う。身体もそうかもしれないが、どちらかと言えば頭の方がそうであった。
アクアにこの宮崎旅行に誘われたタイミングでは、同世代の子たちと楽しい時間を過ごしながらもアクアとまた一つ仲を深めるよい機会になると、ある種能天気な未来への期待ばかりを考えていたものだった。それを思い出して、少し苦笑いをする。
しかし、ならばこの旅行はあかねにとって期待に沿うものではなかったかと問われれば、それは断じて否と答えるべきだろう。
いや、あかねにとって今回の旅行は、そんなひと時の安寧を得ることよりも、きっとずっと、余程に必要なものであったのだと思う。
昨日の夜、アクアとの間にあった出来事のことを想起する。彼が抱えている「歪み」の根源に、恐らくは触れることができたあの瞬間のことを。
彼にとって、それが幸福なことであったのかはわからない。いや、間違いなく災いだったのだろう。あの廃屋の中、アクアがあかねに対して見せた眼差しを、光を何も映さなくなった瞳のことを思うと、あかねの胸には今もなお痛みが走る。心がざわつく。
しかし、一方であのことがあったからこそ、あかねは気づけたのだ。そして彼に手を伸ばすことができた。
互いに独善や思い込みによるものでなく、心が通った。ずっと苦しんで、その重さに喘いでいたであろう、彼の背にかかっていた「荷物」を、少しだけでも肩代わりできるようになった。
そのことが、何物にも代えがたいほどに、あかねには嬉しく感じられる。
そう思うこの気持ちは、アクアという一個人に対する、アクアと言う『男性』に対する、異性としての好意に拠るものであるのだろうか? それについては、未だあかねの中で明確な答えは出ていない。
いや、多分違うのだろう。確かに今のあかね自身の気持ちは、「アクアくんに向けている自分のこの感情をそんな『簡単なもの』で言い表されたくない」という、まるで稚気のような反発心は、思春期らしい「特別な何か」への漠然とした憧れに根差したものではあるのかもしれない。それでもなお、あかねは自らとアクアとの間を結ぶ『それ』について、余人からのそんな単純な言葉によって評されるべきとは断じて思わなかった。
しかし、この先はどうなのだろうか。あかね自身は、アクアという青年と、どのような関係でいたいと思っているのだろう。
アクアから、あかねは果たしてどう思われたいのだろう。
その問いに対する答えは未だ出ることなく、しかし昨日の「デート」の中、彼に握られた手の、その指先の温もりを思って、そして彼の腕に包まれたあの星空の下のことを思って、確かに広がる幸福感と共に、上気していく頬を自覚せざるを得なかった。
その瞬間、屋内の浴場とこの場所を繋ぐ扉の開かれる音がした。
引き戸のレールが小気味よい音を立て、濡れた石を足裏が叩くペタペタとした音が、次いで響き渡る。
思慮に沈んでいたあかねが、顔を上げる。
「お邪魔するわよ」
そこには、小柄な身体の全てを露わにしながら、堂々とした立ち姿であかねのことを見下ろす、赤銅色の髪の少女がいた。
すなわち、有馬かなであった。
「ううん、全然。どうぞ」
それまで貸し切りに等しかったこの浴槽には、人の入る余地など売るほどある。あかねの声に軽く会釈して、かなは結局あかねの対面の場所に陣取った。
畳んだタオルを頭に載せて、ふう、と息を吐く音が聞こえた。
「あー……つっかれた。MV二本撮りで二泊三日はスケジュールキッツいわね、分かってたけど。おかげで土産物屋回るぐらいしかできなかったわ」
早速愚痴をかましてみせるかなに「あはは」と乾いた苦笑いで応じると、それに反応するように、かながあかねに目を合わせた。
「アンタはいいわよね、物見遊山で来られて。愛しの彼氏としっぽり温泉旅行って感じかしら?」
そう、またぞろ毒を吐く。もっとも、このぐらいの軽口はもはやかなにとっては挨拶のようなものだ。そしてあかねにとってもである。故に特に反駁してやろうという気持ちも起らなかった。
実際、かなにせよ他のB小町の面々にせよ、二日にわたってほとんど働き詰めで大変だったのは事実なのだ。それを労おうという気持ちは、あかねにも当然あった。
「まあ、かなちゃんと比べればゆっくりできたかな。ただ昨日は……」
「ああ……」
そう言葉の切れ端で主張すると、かなもあかねの言わんとすることを理解する。
「確かに、あれは災難だったわね。私はもうここに帰っちゃってたからよく知らないけど。ルビーもなんというか、今日ずっとおかしかったし。お土産買いにも来なかったし。ちょっと心配よね」
「ああ、それはね」
流石に、と言うのは些か失礼かもしれないが、かなもまた今日のルビーの様子には思うところが多かったらしい。気掛かりな様子でそう口にして、故にあかねは彼女に対して、今日の経緯を掻い摘んで話すことにした。
「ルビーちゃん、昨日からもうあんな感じだったから、外に連れ回すのもどうかなって思ってお部屋で休んでもらってたんだよ。あとアクアくんがフォローしてくれるって言ってて」
「……そういうこと。だから、アイツ来なかったのね」
どこか納得したような口調で、かなが天を仰ぐ。アイツ、とは言うまでもない。アクアのことだろう。
そしてふと、あかねは思った。
――かなちゃんは、アクアくんのこと、どう思ってるんだろう、と。
しかしその疑問をどうやってかなという少女にぶつけるかを考えようとした矢先に、当の彼女がポツリと言葉をこぼした。
「ったく、あのシスコンブラコンどもめ。……でも、きっとあれが理想なのよね」
それは憎まれ口ではありつつも、確実に「羨望」を内包した響きだった。
誰に対してなのだろう。ルビーにか。そう、一瞬「男女」のそれに引きずられた推測を持って、ただすぐにあかねは理解した。
つまりそれはきっと、あのJIFの場においてさえも感じた、「有馬かなという少女の孤独」の裏返しであるのだろうと。
本当に、
そういう存在が、そういう存在であるからこそ、自らの才を輝かせるのだろうか。しかしそれは、あかねにとってやるせなさを感じさせるものでもあった。きっと、どこまでも傲慢な考えではあるのだろうけれども。
「話変わるけど」
そんな思惟が、再びのかなの声によって遮られる。いつの間にか俯いていた顔を上げ、湯煙の向こうのかなの姿を見れば、彼女はすっと真っすぐに、その目をあかねに向けていた。
「あかね、あなた映画の主演やるらしいじゃない。アクアから聞いたわよ」
いつものようなフルネーム呼びでない、彼女からの声だった。無意識のうちに、肩が跳ねていた。
「アクアくん、から?」
「ええ。アイツ、なんか嬉しそうだったわよ、その話するとき」
ちょっとムカついたわ、と本気とも冗談ともつかない口調で続けたかなの言葉に、なぜか胸が温かくなる。
ただそれは、つまり今回の映画の主演という仕事は、あかねにとって手放しに浮かれていられるようなものとは言い難い。
「そっか。でも、アクアくんにも言ったけど、あんまり上映館数多くない映画だし。それ言うならアクアくんの方がずっとすごいよ。だって夏クールのプライム帯のドラマ、アクアくん一個主演級でオファー来てるんだよ?」
「らしいわね。うちの社長が言ってたわ、『アクアのやつがでかしたぞ』、とか」
少しだけあかねから顔を逸らし、そしてかなは頭の上に置いていたタオルで顔を覆う。表情が隠れ、口だけが見える今の彼女の態度には、確かにどこか嫉妬のようなものさえも見え隠れしていた。
「本当に、羨ましい限り。ま、私はもう少し
ただそれも、そこまで言ったところで終わる。気を取り直すように今一度タオルを頭の上へと戻した頃には、かなの表情はすっかりいつもの勝気なものに戻っていた。
どこか挑みかかるような声で、彼女はあかねに「忠言」してくる。
「何にせよ、アンタもアクアもここからが勝負よ。ここで波に乗れるかどうかは、アンタたちの今後の十年を左右するわ。浮くか沈むか、二つに一つ。中途半端なんてない」
まあ、事務所は考えてるでしょうけど。そう、どこか皮肉気な笑みを伴いつつも文句を継いで、しかしかなはそこで真顔に戻った。
「だから、『恋リア』気分はこの旅行で終わりにすることね。付き合うにしろ別れるにしろ、いつまでも前の仕事のことを引きずってたらいい仕事なんてできないわよ」
あかねは、それに目を見開いていた。そんな直接的なアドバイスを、まさかかながするなどとは思っていなかった。
同じようなことを言うにせよ、普段の彼女であれば、もう少し嫌味が籠った言葉遣いになっていておかしくない。それこそ、さっきかながこの露天風呂の湯船に入った直後の時のように。
だとするならばそれは、彼女自身の精神的余裕からくるものであろうか。「新生B小町」として活動することで、そこで彼女の存在が認められ始めたことで、かな自身の心の中に何かゆとりのようなものが生まれ始めているのだろうか。
だったら、それはきっと喜ばしいことだ。彼女をB小町に誘ったアクアの面目も立つというものだろう。
「わかってる。ありがと、かなちゃん」
短く礼を述べたあかねに対し、かなは鼻を鳴らすだけで答える。
しかし今、彼女があかねに向けて発した忠告は、同時にあかねの胸中で、一つの問いの形を作った。
大事な問いだ。必要な問いでもあった。あかねの、かなのこれからと、そして他でもない、アクアの未来のために。
「ねえ、かなちゃん」
故にあかねは、どこまでも本気の、ともすれば深刻な声色で、かなに問うた。
「なに」
「かなちゃんはさ、アクアくんのこと、どう思ってるの」
発されたそれに、かなの動きが止まる。瞬きすら忘れているのかと疑いたくなるほどに、彼女は固まった。
「……はぁ?」
そして、その末にそんな絞り出したような疑問の声が出てきた。
「なにそれ。そういうこと訊くってことは、あなたアクアと別れるつもり?」
「違うよ! そうじゃない。私は全然、アクアくんと別れるつもりなんてないよ」
「ならなんで訊くのよ。私がここで『アクアが好き』って言ったら、どうするつもりなのよ、黒川あかね」
当たり前の指摘だ。思わずあかねは俯いた。
もし仮に、彼女が「アクアのことが好きだ」と主張してきたとき、あかねはどうすべきなのか。どうしたいのか。
決まっている。別れたくなんかない。彼と、アクアと、今の距離で触れ合えなくなるのは、嫌だ。高千穂の星空の下で感じた彼の熱は、あかねの心の中で決して失いたくないものとなって残っている。
しかし同時に、あかねには分かっているのだ。あかねがアクアと知り合うよりも前から、彼はかなのことを気にしていたのだということを。
かつての栄光を失って、女優として燻っていた彼女に、自らの所属する事務所に誘うことで新たな夢の形を示した。彼女がもう一度羽ばたいて行けるようにと、彼は力を尽くしてきたのだ。JIFのあの時だって。
いくら彼が誰に対しても優しくて、ちょっと困ってしまうほどのお人よしであったとしても、そんなことを何とも思っていない女の子相手にするだろうか。そこまでのお節介を焼くだろうか。
そう考えるに、やはりあかねは思ってしまう。もしかながアクアのことを異性として好んでいて、アクアの方もそれを満更でもなく思うのだとすれば、自分は身を引くのが正しいのではないかと。それが、アクアのためにはなるのではないかと。
どれほどの感情を向けていようが、未だ彼に対するそれの正体さえ解き明かせず、キスなど番組でやった一回しかなくて、『その先』の触れ合いなど考えたことすらもない、そんな自分がアクアの隣にいるよりも。
胸を押さえていた。瞼さえ閉じていた。きっと、いや、確実にそれは、無意識の中の行動だった。
首を振る。そして、答えた。
「分からないけど。でも、これは絶対、アクアくんの未来のために必要なことだって思うから」
言いながら、あかねは自らの言葉が腑に落ちていた。
今のアクアは、決して等身大の彼としては生きられていない。
「彼の母であるアイが自爆覚悟の告発をする前に、先んじて彼の血縁上の父親のことを突き止めて、その実情を明らかにする」。彼のそんな目的を、その遠大とも言うべき目標のことを考えれば、アクアが自身の幸福追求を後回しにしていることなど明白だ。
そういう意味では、あかねもまた彼の「土俵」の上に上がれているかと言えば、そうではない。人間として信頼してくれるようになったという安心感こそありはしても、それを異性としての慕情だと見做せるほど、あかねはおめでたい頭をしていない。
ならば彼が今の本懐を遂げて、ようやく自分の人生を生きれるようになった暁には、彼はまさしく彼の選択によってその生き方を決めるべきなのだ。「誰を恋人にするか」だって、立派にその一つであるに決まっている。
だから、あかねは訊こうとした。訊く必要があると思ったのだ。そうしなければ、それはアクアにもかなにも、公平ではないと考えていた。
そんなあかねの心情をどれほど見通したか、しばしその視線を天へと向けていたかなが、あかねへと向き直る。
「あっそ」
口元には、小さな笑みが浮かんでいた。そして、彼女は言う。
「なら、言わせてもらうけど。『余計なお世話』よ。私にも、アクアにもね」
それは、強い言葉だった。攻撃性が、ということではない。強い意思の載った言葉だった。
放たれたそれに、あかねは答えられない。
「アンタにお膳立てしてもらわなきゃ何も決められないほど、私はおこちゃまじゃない。私がアイツに何を言うかは、私が決めるわ」
目線も、顔つきも、真剣そのものだ。湯煙の厚い露天風呂の真向かいと言ってもよい場所に彼女はいて、しかしその深紅の眼光は、減衰することなくあかねに差し込んでいる。
そしてそれが、ふと和らいだ。
「だからアンタも、自分のやりたいようになさいな」
そう言って、かなが笑った。
いつもの彼女からは、どちらかと言えば性格は悪い方であるはずの彼女からは考えもつかないほどの、それは穏やかで涼やかな笑みだった。
かなに発破をかけるつもりが、気づけば逆にあかねの方が励まされている。
どこか負けたような気がして、しかし同時に心の中で、確実に安堵している自分もいた。
「そっか」
心情が、そのたった三文字の言葉に載る。
「ま、精々頑張んなさい。あ、当たり前だけど、破局したら指さして笑ってやるから」
故にそんな、明らかに冗談めかしてあかねのことを煽ってみせたかなの言葉にも、あかねは笑みをもって返すことが出来ていた。
その後、一足先に風呂から上がったあかねの心中は、それまでほんの少しだけ残っていた曇りすらもない、どこまでも澄み渡る青で満たされていた。
斯くして、高千穂滞在の最終日がやってくる。
今日の帰りの飛行機の便は、時刻としては午後一時ごろの出発だ。諸々逆算すると、十時半には全員で車に乗り込んで高千穂を発つ必要がある。
故に一行は朝早く、八時ごろにはすでに朝食を済ませ、九時になるかならないかのうちに宿を出た。
今回の撮影旅行の最終日に全員で参拝することを決めていた、アメノウズメを祀る神社たる「荒立神社」に向かうためである。
アクアたちの宿から荒立神社までの距離は、そう離れていない。直線距離では大体一キロぐらいである。そういうわけで、八人という大所帯でありながらも、アクアたちは車を使わずに徒歩でその場に乗り込んだ。
辿り着いたその場所は、宮崎総合病院のすぐそばだった。この神社の後ろに広がる鎮守の森を形成している丘の上に、あの病院は位置している。
かつて吾郎として働いていたその時には、一度も参拝に来たことはない。この神社がここにあることそれ自体は知っていたが、自分には縁のないものだとアクアは、いや、吾郎は思っていたのだ。
本当に、何の因果だろうか。そう思う。
この場所に再びやってきたことさえも運命だったというのなら、今の自分はきっと、それを導いた誰かに対して感謝するべきであるのかもしれない、とも。
だからこそ、この境内においてアクアはどこまでも神妙であった。
「初めて来るけど、雰囲気ある場所ね」
「だよねぇ。なんか『有難そう』って感じ」
かなとMEMちょが、物珍しさにであろうか辺りを見回しながらそんなことを口にしている。
奉納されている絵馬に芸能関係の願い事が多く書かれていることに感慨深げな声を上げて、あるいは「七つ叩けば七つの願いが叶う」と云われる板木、「七福徳寿板木」を興味津々な様子で叩いてみたりと、ようやくやってきた最初で最後の「観光」の時間を楽しんでいる。
その姿を横目に、アクアは本殿を見た。
他の神社では夏越の祓の時にしか見られない大きな茅の輪が、そこには設置されている。配置の関係でくぐることはできないが、しかしそこに置かれた茅の輪の存在そのものが、ある種の神秘性を持った結界のようなものをこの場に於いて感じさせていた。
境内の周りを取り囲むような鎮守の森の緑が、その葉擦れの音のほかに何も聞こえない静けさが、まるでこの場所を外界と隔絶された異界のようにさえ思わせる。「神域」という言葉の意味さえ、意識させるようであった。
「せっかくだし、お願い事していこうよ」
アクアの感慨に、声が割り込む。MEMちょの声だった。それに、アクアは頷く。
そうでなくとも、神社の境内に入っておいてその祭神になんの挨拶をすることもなくこの場を去るのは、この上なく失礼なのだ。むしろ本来ならば、真っ先に拝むのが作法とさえ言える。
故にこの場所から立ち去る前、アクアたちは全員で本殿に手を合わせることになった。
八人所帯を一括にというわけにはいかなかった故に、二グループに分かれての参拝である。
すなわち、アイと斉藤夫妻の大人組と、それ以外の子供組だ。まあ、MEMちょが子供組扱いなのは如何なるものかという話は無きにしも非ずだが、この際そう言う細かいことには目を瞑るべきだろう。
先に拝み終えた大人組から場を譲られて、アクアたちは本殿の前に立つ。
賽銭箱に百円玉を投じて、二礼、二拍のあと、両の手を合わせて目を閉じた。
他の面々は、果たしてこの場所に、ここに祀られている神に、如何なる願いを掛けているのだろうか。
――芝居がうまくなりたい。
――もっと売れたい。
――もっとアイドルとして輝きたい。
そういう素朴な思いを、心の中で願って、或いは祈っているのだろうか。
それは、決して悪いことではない。無垢なる祈りを神に捧げる営みを、アクアは決して否定するつもりはない。
しかし今、アクア自身はこの場で神に相対して、改めて一つのことを心に定めていた。
――神とは、縋るべき対象ではない。無責任な願いを、代償もなく叶えてほしいと祈る相手ではない。
吾郎として生きた自分が、アクアとしてここにいて、如何なる因果の
それが運命によるものであっても、何かに導かれた結果のことであろうとも、アクアが胸に抱える決意は、自らの選択は、誰かに強いられたものではない。作為によるものでもない。
であるのならば、自分はそんな彼ら超常の者に対して、それがいるとして、如何なる態度で以て当たるべきか。
それへの答えは、アクアの心の中で簡単に見つかった。
誓うのだ。この世界に神がいるというのなら。今自分が祈りを捧げている相手が、本当にそういう存在であるというのであれば。
――俺は俺の意思で、俺の選択で、この生における父のもとにたどり着く。そしてそこで、然るべき答えを見つけてみせる。
――だからどうか、見守っていてほしい。願いや祈りではない、この決意を、どうか心に留めておいてほしい。
それを心に描いた瞬間、この場を一陣の風が駆け抜けた。そんな気がした。
そうして全員の参拝が済めば、いよいよこの高千穂の地をあとにする時がやってくる。
最後まで境内に残っていたアクアに先立って、皆は既に石段の下、この神社の出入り口たる三の鳥居の外にいる。それを追うようにアクアもまた石段を降り、そのすぐ前にある三の鳥居を、くぐり抜けようとした。
鳥居を、その境界を、跨ぐ。
しかしその刹那、アクアの認識の中に、何かの呼びかけるような声が、俄かに聞こえた。
振り返る。それはまさしく、この境内の中の方角から発されたものであった。そう、アクアは認識した。
そこには、如何なる者の姿も見られない。しかし未だに、そして強烈に、『それ』はアクアのことをこの場所に留まらせようと手招きしている。
幻聴、だろうか。いや、理性と常識から考えれば、それはまさしく幻聴に他ならないと片づけるべきものなのだろう。
それでも今、アクアは確かに誘われていた。行かなければならない気がしていた。
いつかどこか、天童寺さりなが死んで暫く経った頃の『ある出来事』と、重なるようにも思えた。
「お兄ちゃん?」
背後から、その場に留まって動こうとしないアクアのことを訝るような、ルビーの声が聞こえる。
ふと我に返る。顔を、そちらに向けて振り返った。
「ごめん、ちょっとだけ中に用事があって……十分ぐらいしたらそっち行くから、待っててって言っておいて」
「え? ちょっと」
そして、未だ状況の掴めていなさそうなルビーにそれだけを言い残して、アクアは境内に逆戻りした。
再び立ち入ったその場所は、先ほどと変わらぬ静けさを湛えていた。
しかしそれ以上にどういうわけか、アクアは今のこの境内に、どこか『ズレ』のようなものを感じざるを得ない。ざわめく木々も、流れてゆく風も、その認識に一枚のフィルターがかかっているかのように、知覚が遠い。
この場所そのものが、現世のものではないような。致命的な境界線を、越えてしまったかのような。
そんな、宙に放り出されてしまった認識の中心で、不意に声が響いた。
「待ってたよ」
舌足らずな、幼い女の子の声だった。それまでの幻のような呼び声ではない。確かな実存を持った、鼓膜を揺らす声だった。
顔を上げる。その音の源泉に向かって。さすればその先、境内に立つ御神木の一つの、その枝に腰掛けるようにして、確かに一人の女の子が、アクアのことを見下ろしていた。
腰にまで届くような、白にも近い銀糸の髪が見えた。光を吸い込むようで、同時に光を放っているようで、その決定的なちぐはぐさと不自然さが、アクアの五感に強烈な違和感を残す。
しかし、それでも、その女の子はあまりに美しかった。歳のほどは十を数えない、いや、七つか八つほどに見えるのに、アクアの背筋に寒気さえ覚えさせるほどに、その少女は確かな美を体現していた。
漆黒のドレスに身を包み、長い前髪から覗く蘇芳の瞳も、まるでこちらの全てを見透かすようだった。
その眼差しに射竦められて、アクアはそこで立ち尽くすことしかできなかった。
「君もさ。この場所に来た甲斐は、あったんじゃない?」
そこからしばらく、茫然とその場に立つアクアにしびれを切らしたかのように、そこに座る少女が、声を降らせる。
それによって、ようやくアクアは己の身体の動きを取り戻した。
「君、は」
声を、絞り出す。しかしそれに、少女は答えない。
「君のお母さんが、君を差し置いて何をしようとしてるか、分かった。ギリギリだったんじゃないかな。手遅れになる前でよかったね」
「君のカノジョに、本当のことを話せた。君は理解者を得た。君も道を踏み外すところだったからね、ちょっとヒヤッとしたよ」
「君の妹に宿っていた魂のことを、知れた。無事再会を果たしたわけだ。感動の再会だったんじゃないかな?」
そして、まるで歌い上げるかのように、彼女は次々と言葉の矢を放つ。
未だ茫洋と佇むアクアを高みから望んで、くすりと笑う。蠱惑的で、ぞっとするほどに可憐な笑みだった。
そんな、どこか人の世の理から外れたような少女の振る舞いに、アクアはふと理解する。
「俺の妹に、色々吹き込んだのは、君か」
言った瞬間、その少女は自らが座っていた枝から身を投げるように飛んだ。
危ない、そう口にしようとして、しかし絶句する。
重力に反する緩やかな速度で、まるで舞い降りるように、彼女はゆっくりと地面に足をつけた。カーテシーの如くに、自らのドレスの裾を手で摘まみながら。
伏せられた顔からわずかに覗く唇は、絶えず笑みを湛えている。
その姿に、また一つ現実感が失われてゆく。その只中に立つ少女は、この世ならざる者の超然たる雰囲気を、ずっと放ち続けていた。
ゆるりとした優雅な挙措で、少女はその顔を、目線を、アクアへと向ける。唇が、小さく開かれた。
「『吹き込んだ』、とは失礼なことを言うね。『導いた』、と言ってほしいかな」
アクアに比べて遥かに小さな身の丈で、故に視線はこちらを見上げるようで、それでもその視線の圧力が、アクアの足を地面に縫い付ける。
尊大な物言いだった。しかしそれに値する強烈な存在感を、眼前の少女に意識せざるを得ない。
「でも。導いたのは、君も同じだよ?」
動けずにいるアクアの許に、少女は近づく。
さながら、舞うような足取りだった。
靄の漂うような白んだ視界に、その少女の姿だけが映っていた。
「何をしに来たんだ、俺に」
「ん? ああ」
喉を震わせるように、それでも問うたアクアに向かって、歩む足を止めることなく、彼女は可愛らしく首を傾げてみせる。
幼気で無邪気な、彼女自身の存在感とあまりにちぐはぐな振る舞いだった。アクアの心中に、警鐘すらも響かせるほどの。
そのままたっぷり十秒ほどの時間をかけて、少女はアクアのほど近くにまで迫る。下から掬い上げるような目つきでこちらのことを覗きこんで、少女は笑みを崩すことなく口を開いた。
「顔見せと、激励と、あと、忠告、かな?」
そしてそう、一言だけ答えた。
「激励? と、忠告?」
「そうだよ」
鷹揚に頷く少女が、アクアのすぐそばに立って、しかしくるりと背を向ける。
「君は、しっかり『役目』を果たそうとしている。正直な話だけど、こんなにうまくやるとは思ってなかったよ、本当にね」
言いながらも顔だけ見返すようにして、そしてその頬に人差し指を添えてみせた。
茶目っ気を含んだ態度だった。今までの彼女と同じように。
「『役、目』……」
彼女の放ったそれを、アクアは反芻する。過去の、「吾郎」の記憶を、その単語は刺激した。
いつかこの地で、高千穂で、それを吾郎は耳にしていたのだ。
――君には果たすべき役目がある。
――それを遂げるまで、君は終わってはいけないよ。
眼前の少女とは似ても似つかぬ誰かから、しかし今の少女に類する空気を纏う誰かから、吾郎は言われたのだ。もはや、何故か顔も思い出せなくなっている、誰かから。
追憶から、現実へと立ち戻る。黒いドレスの少女は、いつの間にか再びアクアと正対していた。
「だからこそ、私は君を手助けしてあげたんだよ?」
そう宣う少女の態度は、まるで「上位者」のそれであった。誰にも縛られることのない、自由で気まぐれな、「神」であるかのような。
「そうかよ」
故に、アクアは言う。
「なら、俺の思っていることは、分かってるはずだ」
「勿論、分かっているよ」
答えながら、頷きながら、鷹揚に少女は笑む。
「君はそれでいい。私が勝手にお節介をするだけ。でも、そんなに警戒しないでいいんじゃないかな。私は、君の味方だよ?」
「……神なんて、移り気なものだろう。恵みも災いも、表裏一体だ」
「まあ、そうだね。君にはいらない苦労をかけてしまったと、反省はしているよ」
本気ともつかぬ答えを、その目を瞑りながら彼女は返す。唇に、未だ笑みを浮かべながら。
しかし、そこで少女は俄かに表情を引き締めた。
「けど。『星野アクア』、君には一つだけ忠告がある」
声すらも、今までのものをはかけ離れた怜悧さを帯びて、アクアの耳朶を打つ。
瞬間、渦巻く風がアクアと少女の間を駆け抜けた。風になびく銀糸の髪をそのままに、真剣な表情のまま、彼女は言葉を放つ。
「いつまでも、『雨宮吾郎』を続けるのはやめた方がいい」
――それは、みんなを不幸にするよ、と。
指を真っすぐ伸ばして、アクアに向かって突きつけた。
「何を言って……俺は」
「別に言わなくていいよ。君は『雨宮吾郎』を過去の人間だと整理している。今ここに生きているのはあくまでも『星野アクア』だと思っている。確かにそうだね」
アクアの反駁を封じるように、少女が言葉を被せてくる。
「けど、だから何だと言うんだい? 今の君は、自分が『星野アクア』であることを受け入れていないじゃないか。そういうのを、『自己欺瞞』と言うんだよ」
その彼女の言葉に、アクアは何も反論できない。アクアの内心を、確かに眼前の少女はそのたった一言で穿ち抜いた。そういう自分がいることを、アクアは全く否定できなかった。
「それは……仕方がないだろう。君が言うところの『役目』は、『吾郎』のものだ。終わるまで、俺は『吾郎』から降りるわけにはいかない」
「『そう思っていた方が楽』、の間違いでしょ? でも君は、あくまで君だよ。君の認識で言うところの『吾郎』も『アクア』も、ただの思い込みでしかない」
気づいたときには、少女はアクアの目と鼻の先にやってきていた。時間が、空間が、アクアの認識と齟齬を起こしているようにさえ、思える。
抱き着かんとするほどの距離で、まるで口づけるほどに近い場所で、彼女はアクアに言ってみせた。
「君の『役目』は、君が思っているものだけじゃないよ。君がずっとそのままだと、君の周りの人間はいつかきっと悲しむことになる。覚えておいてほしいな」
そしてまた、彼女はアクアのもとから離れてゆく。背を向けて五歩ほど歩いて、そして再びくるりと身体を翻し、アクアに正対した。
目線を逸らし、天を見る。何かを確かめるように一つ、少女は頷いた。
「まあ、今日のところはこれぐらいかな。そろそろ、君も帰る時間でしょ?」
そう言われるなり、ずっとどこか靄の中にあったようなアクアの身体感覚が、急激に現実に還ってゆく。
他方で、まるでそれへの代償であるかのように、目の前の少女に対する認識が次第に薄れ始めた。
少女の周りに、黒い羽根が舞う。鴉の啼き声がした。
「まあ、また会うこともあるだろうし、その時を楽しみにしているよ」
いつの間にか少女の足元に集まっていた鴉が、一斉に飛び立つ。その羽ばたきに、次第に彼女の声が、そして姿さえも、掻き消されてゆく。
しかしその最後、アクアは彼女の声を聞いた気がした。
――でもね。私は本当に、「君」には期待しているんだよ。……本当に。
そんな、どこか懇願するような、
そして――次の瞬間、アクアの認識は完全に現実のもとへと立ち返っていた。
アクアの胸中に一つの「課題」を残し、白き靄に沈んだ夢現の時は終わる。
鎮守の森の緑はアクアの視界に滲むように鮮やかに映って、そしてどこを探しても、今しがたアクアの正面に立っていた黒のドレスの少女の姿を、見つけることはできなかった。
辺りを見回す。ポケットの中を探って、スマホを見た。
時計は、アクアがこの境内に戻ってから五分と進んでいなかった。
外の方へと目を向ければ、遠くの方からルビーが気遣わしげにこちらのことを覗きこんでいる姿が目に入る。
目が合って、すぐさまに彼女は腕を大きく振っていた。
「お兄ちゃーん! はやくー!」
声を張り上げ、彼女はアクアのことを呼んでいた。
アクアもまた、それに手を振り返す。
もう、ここには用事はない。アクアのことを呼び寄せた「何か」の気配も、もはや感じない。
故に、アクアはルビーに急かされるように、今度こそ境内をあとにした。
三の鳥居をくぐり、最後に礼をする。
その去り際のこと、アクアの耳の中に、ほんの小さな鴉の声が、また聞こえた気がした。
斯くして、アクアにとって、そしてこの場に居合わせた面々にとっても大きな「岐路」となった宮崎の撮影旅行は、幕を閉じる。
その一つの結実である、新生B小町の新曲とそのMVは、B小町のもともとの知名度に加えて、あの一日の中でルビーの見せた常軌を逸したパフォーマンスが大きく作用したのか、膨大な再生数と共にB小町の活動を更なるステージへと誘う嚆矢となった。
新生B小町は、まるでかつてのB小町の辿った道を追走するかのように、そこからまた一段と急速な躍進を見せていくことになる。
そんな彼女たちに引きずられるように、それを取り巻く人々の運命も、また等しく加速を余儀なくされてゆく。
アクアも、あかねも、またアイでさえも。
激流は、もはやすぐそこにまで迫っていた。
アクアが吾郎の時に聞いた「役目」の話ですが、これも小説「一番星のスピカ」からの設定流用です。ただ本作の吾郎が原作程は女遊びをしていなかった影響で、「役目」のことについて言われた場所も、「何か」がその口を借りた相手も変わっています。
兎も角、これにて第三章は完結となり、一度毎日投稿を終えます。
本章に関しては「やっと書きたかったこと書けたな」という感じでした。ここまで長かった……
本章は、アクアの内包する問題点にスポットライトを当てて、それをどう救済していくかというのを焦点に置いていました。
作者としては原作のアクアは結局この問題点をいつまでも解消できなかったためにああいう末路をたどってしまったと考えているため、本作では必ず救済させようと思っていました。そうしなければハッピーエンドは目指せないためです。
話は変わりますが、現在第四章についてはプロットの作成は完了して、ぼちぼち執筆の方にも手を付け始めているところです。
当然ですが、第四章からは完全オリジナル展開です。ところどころ原作のエッセンスは入ってきますが、ストーリーに関してはもはや完全に別物になります。中堅編もスキャンダル編も映画編も起きません。起きるフラグ折ってますし。
そして同時に、ここからはルビーの視点が増えていくようになります。B小町パートも増える予定です。
というわけで、今後の連載方針に関してアンケートを実施します。具体的には、
1. これまでのようにその章の終わりまで書き溜めてから毎日投稿(その代わりこれまでのように章ごとにかなりのインターバルがある)
2. 毎日投稿はやめて、週刊連載(投稿間隔は落ちるが、章の間のインターバルは2週間程度に短縮される)
の二択で悩んでいます。是非ご意見いただければと思います。
因みに週刊連載に切り替える場合、第四章の投稿開始は12/1、連日投稿を維持する場合はおそらく年末辺りから第四章の連載開始となりそうです。
それでは、引き続きお付き合いいただけますと幸いです。
(11/18追記)アンケートの方は今週末で締め切ります。その結果で判断します。
(11/23追記)アンケート締め切りました。たくさんのご回答いただきありがとうございました。大体2:1ぐらいの比率で「今までの方針を続行」という回答となっていましたので、次章も「書き溜めからの連日投稿」のスタイルで行こうと思います。よろしくお願いいたします。
今後の連載方針について、皆さんはどちらがよいと思いますか?
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従来通り書き溜めて毎日投稿
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週刊連載