電球色のシャンデリアが照らす密室に、重苦しい空気が横たわっている。
アクアとあかね、そして対面に腰掛ける姫川大輝の三人の誰もが、言葉を発しようとしていなかった。
理由など、言うまでもない。アクアがこの場において提示した一つの事実ともう一つの「推測」は、この場の全ての人間から声を奪い去っていた。
しかし、永遠にそうしているわけにもいかない。そろそろ何か大輝に向かって言わなければならないとアクアは考えて、しかしそんなアクアに先んじて、呆然と手元を見ていた彼が、大輝が、顔を上げた。
「斉藤……星野……いや、今更か。アクア、それじゃ、お前」
アクアがそうしているのと同じように、大輝もまた身を乗り出す。眼鏡のレンズの向こう、彼の目が細められた。
「俺とお前の父親って、誰なんだ。誰だと思ってる」
問われたそれは当然のもので、それでもアクアは、その「予期できていた」はずの問いに、顔を伏せずにはいられなかった。
分かっている。彼に対して自らの生まれの話を始めた以上、いや、そもそも彼に「DNA鑑定の試料提供」を依頼したその時点で、この展開は覚悟しておくべきだったし、また彼には「父親」に関する話をせねばならなかった。
理解していた。そのはずだった。それでも、アクアの足は竦んでしまう。
それがいくら己の中で合理的な推論であろうとも、彼に対してその「推測」を語ることの意味を、アクアはどうしても意識せざるを得なかった。
二度三度と呼吸を重ねて、しかしアクアは言葉を出すことができない。顔を上げることさえも。
「それ、は」
情けない話だった。この生における年齢は兎も角として、主観においてはこの場の誰よりも長い人生経験を持っているはずの、確かな大人であった記憶を裡に宿しているはずの自分なのに、これほどまでに怖気づいて、一歩目さえ踏み出せずにいる。
――ガキか、俺は。
そう自らのことを罵倒したくなって、しかし確かに己は今単なるガキであることを改めて自覚する。無様にもほどがあると、アクアは内心暗澹たる心持ちになりつつあった。
しかし、そこでアクアは己の右の腕に、確かな温もりを覚える。誰かが、そこに触れていた。
いや、誰何などするまでもない。
視線を隣に向ける。アクアの右に座るあかねの左手が、伸びていた。それが、アクアの右腕に添えられていた。
「アクアくん」
目が合って、そして呼びかけられた。
確信と共に、どこかこちらのことを励ますかのような、小さくも芯の通った声だった。
内包する意味を、アクアは理解する。彼女が何を言わんとして、今アクアの名を呼んだのかを。
それに支えられるように、押し出されるように、アクアは一つだけ頷いたあと、あかねを目だけで促す。彼女は自らの鞄を探って、そこから四つ折りにされた一枚のプリントを取り出した。
畳まれていたそれはあかねの手によって開かれて、そこに大写しになった一人の人物が、テーブルの上に現出する。大輝の目が、アクアの上を離れてそちらへと寄せられた。
改めて、アクアは姫川大輝に目を向けた。一つの覚悟と共に、己の口を開く。
「そこに映っている人の名前は、『カミキヒカル』と言います。劇団ララライのOBで、俺が今の時点で、自分の父親として一番可能性が高いと考えている人間です」
きっぱりと、そう断言した。
そこから、アクアはその「カミキヒカル」に関する推測の内容に加えて、アクア自身がどういう経緯で彼のことを自らの父親であると疑うに至ったかの経緯さえも、詳らかに説く。
そもそもの発端、アイのドーム公演当日朝の襲撃事件から始まって、そこで自らの血縁上の父親を追おうと考えたこと、そこから時が過ぎ、「東ブレ」の打ち上げのさなか、抜け出したあのバーの中で金田一に聞いた話から疑いを持ったこと、それらの結果としてこの「カミキヒカル」なる人物に辿り着いたことまでの、全てをである。
「……で、コイツを見つけたってわけだ」
「そういう、ことになります」
「なるほどなぁ……」
一切合切を耳に入れる形になった大輝が、その「彼」――カミキヒカルの稽古中の映像がプリントアウトされた紙をテーブルから拾い上げる。そしてしげしげとそれを眺めながら、時折アクアの方に向かって視線を向けてきた。
何往復かそれを繰り返した挙句に、大輝は自らの顎に手をやる。うーん、と小さな唸り声が聞こえた。
「確かに、似てるな……なんつか、俺なんかよりよっぽど兄弟だぞこれ」
果てに出てきたのは、何とも実感のこもった台詞だった。
「俺よりよっぽど」というのは、つまりアクアとそのプリントの上におけるカミキヒカルの姿形が、ということである。
確かに、それはそうであった。というより、アクアと大輝にはあまり似通ったところがないのだ。髪の色も顔立ちも、基本的にはまるで異なる。
恐らく大輝の容姿は基本的には母である姫川愛梨から受け継いだものなのだろう。例外は、その双眸の色ぐらいのものだ。
横を見れば、大輝の言葉に反応するかのようにあかねもまた首を縦に振っていた。彼女もまた、同じような見解であるらしい。まあ、アクアとその「カミキヒカル」の映像が容姿として類似しているという印象は、見れば誰もが抱くものではある。
それほどには似ているのだ。何せ、毎日飽きるほど自分の顔面と睨み合わざるを得ないアクア自身が、まずそう思っているのだから。
「ですけど、一応それは十八年ぐらい前の映像みたいなので……今はどうだか」
「まあ、それもそうだけど」
そんなやり取りでじゃれ合い、しかし大輝が不意に表情を真剣なものへと変える。もう一度、カミキヒカルのプリントへと視線を向けた。
「でも、とんでもねぇ話だな、アクアの言ってることがマジなら」
声もまた、深刻ささえ帯びている。何を言わんとしているかは、実に分かりやすい。
「お前が生まれたとき、こいつは十五。俺の生まれたときには十一だぜ? ……笑えねぇ話だ」
「笑えねぇ話」、というのが何にかかっているか、当然にアクアは認識している。
彼の声には、糾弾の響きこそない。それでも、アクアは今繰り広げられているやり取りの中で、やはり強く負い目を意識せざるを得なかった。
「その……すみません。俺が言っている話、姫川さんのお母さんのことで」
「え? あぁ、別にいいよ、そんなん」
だからこそそれは謝らねばならないことだと思って、しかし当の姫川大輝自身によって撥ねつけられた。
プリントから視線が離れ、そしてアクアのことを、彼はしっかりと見据えてきた。
「俺の母親のことをどうこうするつもりで探り入れてたわけじゃないんだろ。なのになんでお前が謝る」
「それは、そうですけど。でも」
大きなため息が聞こえた。大輝が、手に持っていたプリントをテーブルに置く。
空いた左手で頬杖をついて、もう一度アクアの方に視線を向けた。
レンズの向こうに覗く彼の目元はほんの少しだけ笑っていて、しかしそれ以上にどこか呆れの空気さえも漂っていた。
「気にするんだな、お前意外と。……いや、悪く言うつもりはねぇけど」
「意外とって……気にはするでしょう、こんなの」
「まあ、そうかもだけどさ。つったって、自分にめちゃくちゃ似てるコイツのことをお前が『父親だ』って思うのは、別に普通に当たり前のことだろ」
「つかこんなん見せられたら俺だって思うわ」、と大輝は続ける。
確かに、それに嘘はないのだろう。気づけばアクアは、いつの間にか目の前の青年に諭される格好になっていた。
「それで年齢的に闇しかねぇことになったって、そりゃお前の責任じゃねぇよ、流石に」
ただ、それでアクアの気が紛れるわけではない。如何せん、彼の母親を「性犯罪者呼ばわり」している現状というのは何も変わらないのだ。負い目など、消えてなくなるわけがない。
しかし、そんな全く煮え切らないアクアの態度に何を思ったか、大輝はそこで不意にアクアから視線を逸らした。向かう先は、あかねの方だ。
「なあ、黒川。コイツいつもこんなんなの?」
そして言うに事欠いて、彼はあかねにそう問いかけた。「しょうがねぇなコイツは」という内心が見え見えの態度だった。
当然にというか、それを受けてあかねは苦笑を浮かべる。
「まあ……アクアくん、結構責任感じるタイプですから。ただ」
そんな、どちらに肩入れしているのかわからない物言いで彼女は大輝に答える。
しかしすぐに、その表情は真剣なものに変わった。
「正直なところ、アクアくんからこの話を聞いたときは、私も信じられませんでした」
「……そんなもんか」
はっきりとそう口にしたあかねの言葉を受けて、大輝は手を頭にやる。
一つ二つと掻いて、目を閉じた。
「まあ、なんつーかだけど。結局俺は、あんまよく分かんねぇんだろうな、親のこと」
幾許かの沈黙を経て、大輝は零すようにそう声を上げる。
ある種の割り切りと、そして諦めのようなものさえも同居した声色だと、アクアには聞こえた。
「元々、親父のことは嫌いだった。まあ、お前の言う通り、本当のところは父親じゃねぇのかもしんないけど」
目を開けて、彼はアクアにちらりと目を向ける。
「上原清十郎ってのはあんま売れてない役者でな。そのコンプレックスか何だか知らねぇけど、才能あるタレントとか女優とか、片っ端から食い散らかすような奴だったらしい」
――まあ、ただの女好きだったのかもしれねぇけどな。そう吐き捨てて、暫し視線を中空に遊ばせる。
食卓の上、冷めきった中国茶の入ったカップを手に取って、それを大輝は傾けた。
唇を湿らせてから、言葉が継がれた。
「俺がそういう話を知ったのはあの二人が死んでからだいぶ経ってからだけど、まあそういう『性根』みたいなのがあって、俺はアイツのことを好きになれなかったと思ってたんだよな。……けど」
そしてもう一度、今度はアクアに顔ごと向き直る。
「納得しちまうんだよ、正直。『上原清十郎が俺の父親じゃない』って話。そう言われると、なんとなく『しっくりくる』っていうか」
「ですけど、姫川愛梨さんの方は……」
「ああ、まあな」
手をひらりとさせて、まるで「分かっている」とばかりに、大輝はアクアの言葉を遮った。
「まあ、芸名母親の名字から取ろうってぐらいの愛着はある。けど正直、そっちもそれだけっつぅか。……俺にとっちゃ、だから多分
自らを納得させるような、改めてそれを自覚しているかのような語り口だった。しかしそれは同時に、アクアの内心を、その記憶さえ刺激する。
父を知ることなく、母の顔は分からず、祖母に育てられるばかりだった
今の自分には、アクア自身には、家族がいる。母がいて、妹がいる。彼女たちに懐いている思いも、アクアにとっては譲れないものだ。
「愛であるか」と問われれば、「愛である」と答えよう。そこに嘘はない。
それでも今の自分にとって、果たして彼女たちが純然たる「家族」であると断言できるかと問われたとき、アクアにはその自信がなかった。
母は、己が「吾郎」であった時からファンであったアイドルだった。彼女のアイドルとしての輝きに、自分は確かに惹かれていた。
そしてそんな彼女を担当医として診て、彼女の「不完全な人間性」を識って、そんな彼女のことを
妹に関しては、もはや言葉によって何か表現することさえも、どこか陳腐に、あるいは野暮に思えてしまう。ただそれでも敢えて一言で表そうとするのならば、彼女は「雨宮吾郎であった自分に、人生の理由そのものをくれた存在」、であるのだろう。
二十年越しの再会を果たした今、アクアは彼女とどのような形で接してゆくべきなのか、揺れている内心を否定することは難しい。
二人とも、大事な存在だ。失いたくない、かけがえのない相手だ。しかしその心情は、彼女たちの息子として、あるいは兄としての意識とは別のところを源泉として湧き出ているもののように、思えてならない。
それは結局、「雨宮吾郎」というフィルターのなせる業なのだろう。その存在が、母と妹を、純然たる「母」と「妹」以外の何かに見せているのだから。
そのことを悔いているわけではない。残念だとも思わない。しかしそれでも、他の如何なる意味をも持たない「ただの家族」というものが何であるかを、故にアクアは知らないのだ。
それを知る機会を、アクアはついぞ持たずに今に至る。
「だからさ、アクア」
ふと、そこで声がかけられた。思惟の中に潜り、いつの間にか下を向いていた顔を上げる。
正面に見える大輝は、それまでのどこか退廃的で、過去の己と対話するかの如くの沈んだそれではない、どこか弛緩したとさえ評すべき声色で、アクアに向かって語り掛けていた。
「正直そんなことよりも、『自分に血のつながった人間がいた』って方が、よっぽど大事なんだよ、俺にとって」
その言葉に、はっとする。身を乗り出し、屈んでいた背が、自ずと伸びた。
「ホント、妙な気分だけどな。こんな近くで、それも俺と同じ役者。しかもそいつが『実はお前の親父は別の人間なんだ』って言ってきたんだぜ。そんなことが俺に起こるなんて、何のドラマだって感じだよな」
語り口は、どこか楽しげでさえある。
しかしその根底にあるものに、アクアはどこか指先で触れている気がしていた。
姫川大輝は、天涯孤独の人間だ。両親は心中で世を去って久しく、頼れる人は自らの所属する劇団の主宰だけだった。確かに彼は親代わりでも、しかし確実に「親」ではない。
そんな風に思っていたところに、突然現れた血縁のある相手が、今のアクアなのだ。
自分は、世界の中でただ独りではなかった。そうとすら、思っているのではないか。
それをアクア自らが考えることは、どこか思い上がりに近いものがあるのかもしれない。けれども、今の大輝の纏う空気に、アクアはそんな趣を感じ取らざるを得なかった。
「けど、そうか。『弟』、か……」
そしてある意味、これはその証左とも言うべきであるのだろうか。
ぼそりと、大輝がそんなことを呟く。その小さな声の中に宿っているものをアクアが推し量りかねている間に、彼はするりとアクアから視線を外した。
「なんか、今さら『兄貴面』みたいなことするってわけでもねぇんだけど」
その言葉の向く先は、あかねだ。
それまでと同じように真っすぐに背筋を伸ばしたまま、彼女はただ黙って大輝の言うことに耳を傾けている。
「黒川、何て言うか……コイツのこと、よろしくな」
そして結局というべきか、出てきたのはそんな台詞だった。
「いや、コイツも結構苦労してるんだなって、話聞いて思ってさ。俺にとっても、どうも他人事じゃねぇみたいだし」
言いながら、机の上に広げられた「カミキヒカル」の写真に、大輝はもう一度目を向ける。
「他人事ではない」という言に、彼はどういう意味を込めたのだろうか。そしてあかねはどういう意味として、それを受け取ったのか。
「分かってます。お二人からすれば私は部外者ですけど、それでもアクアくんは私にこれを話してくれたんですから。裏切るつもりなんてありません」
ただいずれにせよ、彼女はそうきっぱりと啖呵を切った。
己の決断に迷うところなどないと、断言するかのようだった。
それを聞いた大輝は、ほんの一瞬だけその目を閉じる。
ふっと、息が漏れる音をアクアは聞いた。
「そうか」
目が開かれる。アクアの方に、視線が流れた。
その唇に、僅かな笑みを湛えながら。
「アクア、お前いいカノジョ捕まえたな」
そして出てきた彼の言には、些かばかりのからかいの意図が含まれている。そういう響きをしていた。
あかねのどこまでも真面目な振舞いが、どこか気恥ずかしいものに映ったのか。それとも彼の性分が、この場を混ぜっ返すことを選ばせたのかもしれない。
「……全くです。俺には勿体ないぐらいですよ、本当に」
ただ、結局その彼の言葉はアクアにとって、真剣に首肯すべきものだし、また吟味すべきものでもあった。
黒川あかねという少女は、アクアにとって得難い人間だ。そこに嘘などない。あの日、あの高千穂の夜において、彼女から受けた恩は計り知れないものがあった。
あかねがどう言おうと、それには報いなければならない。何を以て報いとすべきかは未だアクアの中で結論など出てはいないが、その認識だけははっきりしていた。
ただその一方で、大輝の口にした「カノジョ」という語について、アクアの内心に持て余すものがあることもまた事実なのだ。
今のアクアにとって、あかねは果たして本当に「恋人」と言い表すべき存在なのかどうか、結局のところよく分かっていない。
高千穂の旅行を境にして、あかねとの間の関係というのがそれまでの「お試し交際」なる不安定なものから確実に変容したことは確かでも、それが所謂普通の「交際関係」へと発展したわけでは、きっとない。それはどこか確信にも近かった。
今、二人の間にある「何か」にこれと言った名前を付けることは難しい。ただ同時に、アクアはその必要を感じていなかった。
あるいはそれは、あかねにとっても同じなのだろう。だから互いにその位置づけを確かめることもなく、そしてここまで関係は続いている。
思考が行動にさえ結びついたか、アクアの視線は気づけばあかねに吸い寄せられていた。
つられるように、大輝もまたあかねの方を見る。いきなり結託するように野郎共の視線が集中したことに当惑したか、あかねが目を瞬かせながらもこてんと小首を傾げた。
その姿はどうにも可笑しく、しかし年相応の可愛らしさもまた垣間見える。つい今し方までの思惟を離れ、アクアは思わず口の端に笑みを浮かべでいた。
「まあ、あれだな」
そこに差し込まれた再びの大輝の言葉に、アクアは視線を戻す。対面に座る彼もまた、アクアの方に向き直っていた。
「さっきも言ったけど、お前の言うこと聞く限りじゃ、俺も他人事じゃなさそうだし。だからさ」
彼は身を乗り出す。じっとアクアの目の中さえ覗き込むようにして、口を開き、声を上げる。
「困ったことあったら、言えよ。俺も協力するから」
聞こえたのは、斯くも力強く、また頼もしい言葉だった。
言葉もなくそちらの方を見るばかりのアクア目掛けて、掌を上にするようにして、彼は人差し指を向けてくる。
「仮にも一応、お前の『兄貴』になるんだからな、俺は。……あ、けど」
一度、言葉が切れる。大輝がにやりと口の端を吊り上げた。
「間違っても『兄さん』とか呼んでくれるなよ。流石にそれはキショい」
「……呼ばねぇよ」
出てきた思いもよらぬ言葉に、図らずもアクアはそれまでの言葉遣いさえ忘れた文句で返してしまう。
それにとうとう堪えきれなくなったか、大輝は声さえ上げて笑った。
もしかしたらそれは、姫川大輝という人間にとって初めての、「肉親と意識した者に対する情」の発露……なのかもしれない。
そんなことを、アクアは思った。
その日、来る新生B小町ファーストワンマンライブのための練習に励むルビーは、ここ最近――いや、ここ一か月ほどの例に漏れず、かなりの上向きなテンションと共に分かりやすいほどの張り切りを見せていた。
「よーし! 『Say What?』も振りいい感じで入ってきたし、もう一回バミリ意識で通しでやってこー! この曲オープニングなんだからインパクト重視で攻めてかなきゃだよね!」
ここはすなわち、苺プロの事務所併設のレッスン室である。JIFの直前において、ほぼ缶詰めになって練習していたあの場所だ。
そこにB小町の三人は集まって、今回のライブのセットリストの振り入れと歌の練習を続けていた。
「はぁ? もう? いい加減一回ぐらい休ませなさいよ、アンタ体力どうなってんのよ」
今日は週末ということもあって、午後一からかれこれ四時間ほどぶっ続けでの特訓である。床にだらしなく身体を投げ出して、かながそうぼやくのも無理のない話ではあった。
冬の盛りであるというのに、この部屋に暖房はついていない。それでも肌寒さは感じず、寧ろ暑いくらいだ。
動きに動いた身体は、それほどに熱を帯びているということだろう。見れば三人共に、それぞれ着ているTシャツが汗で肌に張り付いていた。
「えー先輩もう? ちょっと舞台終わった後の正月モードで弛んでるんじゃない?」
「言ってくれるじゃないこんのジャリガキが……!」
物理的に光さえ放っているのではないかというほどに笑顔を弾けさせながらも自らのことをナチュラルに煽ってきたルビーに、かなが恨みがましい目線を向けて唸る。
その横では、同じように床にへたり込みながらも、MEMちょが「あはは」と困ったような笑い声を上げていた。
「まあまあ。でもルビーちゃんほんと最近ずっと張り切ってるねー。いいことあったの?」
そんな彼女の問いかけに、ルビーは燦然たる笑みをそのままに、大きく頷いた。
「そりゃもう! いいことしかないよ! 来月にはファンのみんなの前でライブできるんだし!」
影一つない響きでそれを言い切ってみせたルビーを、MEMちょはどこか眩しそうな表情で見上げていた。
事程左様に、高千穂より帰ってきてからというもの、星野ルビーはまさしく幸福の絶頂の中にあった。
理由など、問うまでもない。
一生かかってもよいから会いたいと思っていた待ち人は、しかし実はずっと一番近いところから自分のことを見守り続けてくれていた。
「この人がいさえすれば、世界が輝いて見える」。そう思う相手を「推し」と呼ぶルビーにとって、それは「
そうでなくても、新生B小町として久々にファンの前に姿を見せられる時は、即ちファーストワンマンの日は、一か月と少し後の三月下旬ごろともうかなり近くに迫っているのだから。
幸い、先週にアネモネから納品されてきた新曲の、「POP IN 2」のMVは、YouTubeにアップされるや早くも注目を集め、公開後二週間ですでに五百万回再生を超えているという。
正直、あのMV撮影の日の自分のことは、あまり思い出したいものではないとルビーは思っていた。だからMVの方も、そんなに熱心には見ていない。
けれども、どうやらアネモネというあのクリエイターにとっては、そんなルビーにこそ何か感じ取るものがあったらしい。あの日のアクアもまたそうであったように。
だからそれをMVという一つの作品に仕上げてくれたことは感謝すべきで、同時にそれに相応の視線を注いでくれているまだ見ぬ人々に対しても、ルビーは恥じることないパフォーマンスをしなければならない。いや、そういうパフォーマンスを見せたいと、考えていた。
であるからこそ、やることは多い。B小町としての最初のステージであったJIFの時に比べれば時間に余裕こそあるが、逆にあの時とは違ってルビーは今三学期の真っただ中である。つまり、学業があるということだ。
その辺りをトータルで見れば、物理的な残り時間には正直なところあまり差はない。モタモタしている暇はなかった。
ただ、あの時の自分と今の自分を比べたときに、ルビーは自らの中に確かな成長をも感じ取っていた。
元々得意であったダンスの精度も、そしてそれを下支えする体力も、共にJIFの時よりも確実に向上している。そういう自信がルビーにはある。
ただそれよりもなお自らの中で顕著なのは、歌唱力の伸びに他ならなかった。
アイの、そして「先輩」――有馬かなの見解によれば、ルビーは実は今の今まで声変わりが完全には終わっていなかった、らしい。声帯の構造が不安定で、それ故に音に高低をつけようとすると、意に反して音がぶれる。それこそがルビーの「音痴」の正体だと、彼女たちは看破していた。
ルビーは正直、女子に「声変わり」などというものが存在すること自体初耳だった。そういうものは男の子だけにしか起こらない現象だとばかり思っていたのだ。
前の人生において、第二次性徴が始まる前に自分の命が尽きてしまったという面はあるにせよ、それは全く新しい経験で、そして発見だった。だからルビーは、その可能性を否定することはできない。
ただ、実のところルビー個人としては、自分のどうしようもない音痴には寧ろ「天童寺さりなを引きずっている部分」が大きく作用していると考えていた。
そうだ。思えば、「天童寺さりな」としての自分も歌は滅法下手であった。「ゴローせんせ」と一緒に病室で歌ったB小町の曲も、正直全然うまくやれてなんていなくて、B小町のファンになって半年も経っていないような吾郎の方が、数段上手だったぐらいだ。
こればかりは生来のものでもあったし、病気のせいで色々と思う通りに動かない身体の機能の一つとして、声の高低を上手に制御できていない部分もあったのだろう。
その時の記憶が、きっとルビーとしての生における歌唱能力の足を引っ張っていた。かつて、「転ぶことへの意識」が先行しすぎて、うまくダンスが踊れなかった時のように。
しかし、今もはやその二つの障害は取り払われつつある。天童寺さりなとしての生より長い時間を星野ルビーとして過ごしたことで、「星野ルビーとして生きている自分」をようやく身体が受け入れたのか、それともやはり、あの「再会」こそが一つの転機となって、自分の気持ちに一つの区切りがついたということなのだろうか。
いずれにせよ高千穂から帰ってきてよりこの方、ボイストレーニングをすればするほどに、確実に、めきめきと向上していく歌唱力をルビーは実感していた。
そうなれば、天井知らずのモチベーションと共に、MEMちょやかなのことをトレーニングやリハーサルにと引っ張り回してしまうのも致し方のないことだろう。
それこそ、あのJIFの直前にやったような「苺プロ合宿」をもう一度やるのもいいかもしれないと、そんなことを本気で考えるほどには、ルビーは来たるファーストワンマンのことが楽しみで仕方がなかったし、また大事にしたいと考えていた。
しかし、である。
それと同時に、ルビーは一つの課題にも直面していた。
「星野ルビー」という今の生にとっての家族、アイとアクアの二人の間に存在する、そして自分も無関係ではいられない、「すれ違い」という大きな課題だった。
高千穂の地で直面することになった、「雨宮吾郎の死」という絶望的な真実は、「ごろーせんせ」として「帰って」きてくれた、それを明かしてくれたアクアの存在によって、なんとかルビーの中で上塗りされた。
しかしあの事実を発端に、アイが、そしてアクアがずっと水面下で続けてきた動きのことを、ルビーも知ることになった。
自分は、何も知らなかった。何も知らずに、自分の夢を追っていた。
アクアは、「それでいい」と言う。ルビーが関わるべきことではないのだと。
そう思う彼の気持ちは、痛いほどに理解できる。彼が「ごろーせんせ」であるのなら、あの真白く寒く、孤独な病室の中で、それでも彼の温かさをずっと受けていた「さりな」としての自分を顧みれば、そしてアクアの正体を知るに至ったあの時に、彼が吐露した秘めたる心情のことを思えば、ルビーを「そういうもの」から遠ざけたいアクアの心遣いは、寧ろ当たり前のものだとさえ言えるのかもしれない。
しかし、ルビーはそれを良しとはできなかった。
ルビーから見たアクアは、『ゴローせんせ』は、今でもアイに並ぶ最推しだ。しかしそれにもまして、今もなおルビーは彼に対する確かな慕情を抱えている。
胸がきゅっと、締め付けられる思いだった。でも、そんなバカみたいに優しい彼のことが、だからこそ大好きなのだ。かつてアクアのことをせんせだと分かっていなかったルビーが、それでも彼から受けていたたくさんの優しさのことを思って、『過去の自分にさえ嫉妬してしまう』ほどには。
そんな彼が、せんせが、アクアが、ずっとずっと頑張っていて、そしてずっとずっと苦しんでいた。
それに気づけなかったこと自体、ルビーとしては情けないというのに、それを知った今、そんなアクアのことをそのままに、自分だけ見て見ぬふりなどできるわけがない。
ただ同時に、そんなアクアに肩入れすることで、結果的にルビーもまたもう一人の最推しと、今の生において無限とも言える愛情を傾けてくれている母と、アイと「道を違えてしまう」という事実も、ルビーにとっては耐え難いものだった。
――母か、兄か。
どちらか一つを選べと言われても、選べるわけがない。そんな二択を迫られること自体、遠慮願いたかった。
それだけではない。そうやって、アクアとアイのことに思いを馳せるたびに、ルビーはどうしても考えてしまう。
母も兄も、自分にとっては確かに家族だ。星野ルビーという人間の核には、いつもいつも二人がいる。
しかし同時に、それは自分にとって、『天童寺さりな』という存在を内包している自分にとって、本当の意味で「家族」というべきものなのかが、今のルビーにはどうしても分からない。
自分の中で、家族というものの定義が揺らいでいるのだ。アクアの、兄のことを『せんせ』として、一人の男性として意識する思考がルビーの中に割り込んだことで、特にその思いは強くなっていた。
もしかしたら自分は、確かに母として自分の全てを委ねるように甘えているアイに対してさえも、『お母さん』の代償を求めてしまっているのではないかという、そんな恐怖さえ、今のルビーの心中には生まれていた。
だから、なのだろうか。夕方を越え陽が沈み切るまで続いた苺プロでのレッスンを終えて、ルビーたち三人の家であるマンションに帰ると、その靴箱の前にある姿見に映った自分から、笑顔が抜け落ちていることに気づく。
今の生活は、非の打ちどころもなく充実している。アイドルになったことで、学校の中でもあまり後ろめたさを感じることもなく、すっかり友達になれたみなみやフリルとつるんで話をするひとときは、とても満ち足りたものだった。
B小町のファーストワンマンに至っては、とてもとても、言葉では言い表せないほどに楽しみなことだ。母と兄の願う通りに、そしてルビー自身の夢見るように、いよいよ自分がアイドルとして大きくジャンプする時がすぐそばまでやってきている現状は、何より幸せなことなのだろうと、本心で思う。
しかしそれでも、日常に立ち返ったふとしたタイミングで、ルビーの胸中には影が差す。こうして自分一人、思考の海に沈む時間がやってくると、特にそうだった。
家族の未だ誰も帰ってきていない部屋の中、チェーンロックを閉め、部屋着に手早く着替えて、そして自室のベッドに身を投げる。空気の抜ける音と共に、羽毛布団に己の身体が沈んだ。
暫くうつ伏せのままに目を瞑っていたところから、くるりと仰向けになる。電気をつけていないこの部屋は、まだカーテンを閉めていない窓の外からやってくる東京の夜の人工光のみによって、薄暗く照らされている。
「せんせ……」
その中で、ルビーは気づけば呟いていた。
――こういう時、せんせならどう言うんだろう。
もはやルビーとして染み付いたいつもの癖でそう思って、しかしその当の「せんせ」は今自らの兄であったという事実に、苦笑を禁じ得ない。
その瞬間、ルビーの穿いているズボンのポケットで、スマホが震えた。
おそらくはチャットアプリからの通知だ。この時間なら、アクアかアイからの帰宅の連絡だろうか。そう思ってスマホを開き、ロックを外す。
そうすれば、確かに家族からのメッセージが入っていた。具体的には、アクアからだ。
しかしそれは、家族共用のグループチャットの上においてではない。彼は今、『ルビーに対して』ダイレクトメッセージを送っている。
通知のバナーをタップして、ルビーはその中身を見た。
そこには、一つの「誘い」のメッセージが書かれていた。
『なあ、お前来週の土曜って暇?』
『もしよかったらだけどさ、
それが目に入った瞬間、この仄暗い部屋の全てに、俄かに色がついた。
そんな、気がした。
次回、アクルビデート回。