天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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4-3. 私の肖像

 自室に設えてある大きな姿見を目の前にして、ルビーは大いに悩んでいた。

 

 今日は土曜日、先週自らの兄であるアクアから「来週の土曜に渋谷に遊びに行かないか」と誘いの文句を受けた、まさしくその日だ。

 アイも交え、この日少しだけ早起きして朝食を摂ったルビーたちは、と言うよりもルビーは、そこから二時間後に設定されている出発の時間に向けて、準備に没頭していた。

 

 クローゼットやタンスの中を漁ってはベッドの上にぶちまけて、服を身につけてはああでもないこうでもないと試行錯誤を続ける。

 約めて言えば、「今日の『せんせとのデート』に何を着て行けばいいのか」がどうにも悩ましいという、単純にして深刻な話であった。

 

 「食事を終えてから二時間後の出発」というのは、アクアの決めたスケジュールだった。つまるところ、彼はルビーが食事を終えてから諸々の準備を整えるのにそれだけの時間を要するであろうと考えているということだ。

 何か、見透かされているようで腹が立つ。しかしその小憎たらしい「配慮」も、「せんせー」のものだと思うとなんだか許せてしまう。我ながら現金なものだと思わざるを得なかったが、自分の気持ちには嘘をつけなかった。

 

 しかしなんであれ、本当に「今日のお出かけに何を着て行けばいいのか」というのは今のルビーにとって冗談ではなく難問なのだ。

 文脈こそ違えども、いつか「顔の良さに胡坐かいて人生ナメ腐っているのではないか」などと腹立つことを言ってくれた人物がいたことを思い出す。いや、一々ぼかす必要もなくそれは先輩――有馬かなであるのだが、その言葉がどうしようもなく今の自分には突き刺さる。

 つまり、正直な話をすれば星野ルビーのファッションセンスはあまりよろしくないということだ。正確に言えば、それを磨くようなタイミングがなかったと言う話である。

 

 今の自分は、すなわちルビーとしての自分は、永遠の最推しにして地球上で最高の美少女だと今でも信じて疑っていない我が母の、つまりアイの容姿を受け継いでいる。つまり、その顔面という意味では絶対的な自信があった。

 そしてそういう容姿をしている自分は、余程にどうしようもない服でない限り何を着てもある程度似合ってしまう。部屋着として使っている「ダサT」の類のプリントTシャツであってもだ。

 しかも今までの自分には「自らを着飾ってその自分を見せたい」と思うような意中の相手などいなかったわけで、ルビーには如何なる意味においても「服飾」というものに拘りを持つ理由がなかった。

 

 それが、いきなりの「これ」である。こんなことになるのなら、恥を忍んでB小町最強のファッション通たるかなにファッションのイロハぐらいは聞いておくべきだったかもしれないとルビーは今更ながら後悔していた。

 しかし、そういうものは得てして先には立たない。ルビーは今、良くも悪くも配られた手札の中から勝負をするよりほかにはなかった。

 

 

 

 結局、メイクの時間まで含めてたっぷり二時間かけた吟味の結果は、高千穂の撮影の時に穿いていたベッチン生地でミディ丈のワインレッドのフレアスカートに、一応今シーズン初卸になるシャドーストライプの入ったオフホワイトのブラウスを合わせた、どこまでも無難なものに落ち着いた。せめてもの拘りとして、いつもハーフアップサイドテールにまとめている左側の髪に、スカートと同じワインレッドのリボンをワンポイントに結ってはみたが、逆に言えばそれだけとも言える。

 これ以上悩んでいてもドツボにハマるだけだ。そういうある程度の諦めも含めて、ルビーは自分の部屋から外に出る。

 

 そうすれば、アクアはすでに玄関口に立ってルビーのことを待ち構えていた。

 その彼の出で立ちを、ルビーは見回す。

 

 アイボリーのスラックスにネイビーブルーのデザインシャツを合わせ、その上にはやや浅めの色味のチャコールのジャケットを羽織っている。照明が映し出す陰影のつき方からして、フランネル地だろうか。

 そして更にそこに、踵にかかるほどに長丈の、アッシュグレーのチェスターコートを纏っていた。靴は当然に黒々とした革靴でビシッと決めている。

 

 悔しいが、恐ろしいほどに似合っていた。思わず数秒、見とれてしまったほどにである。

 彼もまたアイの血を引く者であるということなのか、圧倒的な顔面の良さと華奢な身体つきが、彼のある意味シンプルなその出で立ちをまるでファッション雑誌からそのまま抜き出したような雰囲気にまで昇華させていた。

 

 どこか呆然とアクアのことを見据えるルビーの先で、当の彼が小さく片手を挙げた。

 

「出来たか、準備」

 

 掛けられた声に、我に返る。こくこくと頷いて、ルビーもまた玄関口へと歩を進めた。

 

「母さん、そろそろ行ってくるよ」

「あ、はいはーい! 今送りに行くね」

 

 同時に、アクアはリビングにいる母の、アイのことを呼ぶ。

 

 その声には構えたところはない。高千穂の一件のあと、自宅に戻ってからのアクアは、そしてアイは、とりあえず互いにその日常においてあの日のことは『なかったこと』にしているらしい。

 ある意味、「割り切っている」ということなのか。いずれにせよこの家の中において、二人の間に不穏な何かが流れていないのは、ルビーにとっては確実に安堵すべき事実だった。

 

 リビングに繋がる扉を開け、アイが姿を見せる。

 いつものように部屋着のワンピースにエプロンをつけた格好だ。十年以上前からずっと変わらない、ルビーにとって安寧の象徴たる、慣れ親しんだ出で立ちだった。

 そんな彼女が、二人を見てどこか嬉しそうに、或いは誇らしそうに笑む。胸の前に、手を合わせた。

 

「お、二人とも気合入ってるねー! カッコいいし可愛いよ!」

 

 さっすが私の子供! と心なしか胸を張るアイを目前に、アクアとルビーは互いに見合って薄っすらと苦笑を浮かべた。

 

「今日は夕ごはんいらないんだっけ?」

「ああ、ルビーと食べてくるよ。母さんも、ミヤコさんのところとかに行ってきたら? 貴重なオフだろ? 確か」

「そうだねー。考えとくよ」

 

 やり取りの果てに、アクアは今一度片手を挙げながらも玄関のドアを押す。

 

「じゃ、行ってくる」

「はーい、行ってらっしゃい。楽しんできてね!」

 

 アイのその見送りの言葉を背に受けながら、アクアは、そしてルビーは、外へと一歩を踏み出した。

 ルビーとアクアの――否、さりなと吾郎の初めてのデートは、そんな風に始まった。

 

 

 

 

 

 実のところ、今のルビーたちのマンションから渋谷というのは非常に近い。

 芸能界の人間が多数集まるこの「中目黒」という土地は、そもそもが方々にあるテレビ局への交通の便が良いからこそ「芸能人の街」として発展した歴史を持つのだと、以前ルビーはかなから聞いていた。

 であるのならば、ある意味テレビ文化の、否、それ以前の「ラジオ文化」の黎明期から存在している「公共放送」の本拠地がある渋谷が近いのは必然と言うか、まあ当然と言えば当然なのかもしれない。

 

 何が言いたいかといえば、つまりアクアとルビーは実に家を出てから十五分と経たないうちに、渋谷駅までやってきてしまったということある。

 

「思うんだよね、お兄ちゃん」

 

 駅のホームに降り立って、ルビーは隣に立つアクアへと声をかける。

 

「病院にいた頃はさ、東京とか渋谷とか原宿とか、ものすごい遠くのキラキラした場所で、ずっと手なんか届かないんだろうなとか思ってたんだけど」

 

 言葉を切って、辺りを見回す。

 週末ということもあってか、昼間においても人と言う人でごった返している東急東横線のホームを目の当たりにして、ルビーとしてはどうしても言いたくなってしまった。

 

「……なんか、来ちゃったね、渋谷」

 

 きっと、自分は何とも微妙な表情をしているに違いない。それを見た兄――アクアが、はっきりと苦笑いを浮かべたのが見えた。

 

「そうだな。まあ、急行で一駅だもんな、中目黒(ナカメ)から」

 

 頷いて、彼はどこか過去を思い起こすように視線を中空に投げる。

 

「近くの大きい駅なんだから行こうと思えばいつでも来れたんだけど、なんかあんま機会がなかったんだよな。……なんて言うか、六本木とかの方に行く機会の方がずっと多かったわけだし」

 

 だろう? と同意を求めるように、もう一度アクアはルビーに視線を合わせてきた。

 ルビーもまた、それには頷かざるを得ない。確かに、来ようと思えばいつでも来れた場所なのに、意識してこの場所に来たことは一度もなかったと、思い返す。

 乗り換えのためにホームにだけは降り立った経験こそ、あったような気もするのだが。

 

「確かにー! ママも民放のお仕事ばっか受けてるし、どうしても六本木とか赤坂とかお台場とか、そっちに近くなっちゃってたよね!」

「だな」

 

 短く賛意を示して、アクアもまた周りを見回す。

 

「けど、変わったんだよここ(渋谷)は。いや本当に」

 

 そう続ける彼の表情は、郷愁の念さえも宿っているように見えた。言うまでもなく、きっと「吾郎」の頃のことを思い出しているに違いない。

 

「だって俺が学生の頃とか、まずこの東横線のホームは二階にあったからな」

「え? ほんと? 今すごい地下じゃんここ!」

「だよな。まあ、副都心線と連絡するためにこんな深いところまで潜ってるんだろうけど。……ホント、まずこの渋谷駅からやたらと縦に広がりやがって。おかげで昔の記憶なんて一個も役に立ちそうにない」

 

 そうぼやいてみせるアクア(せんせ)がどうにもおかしくて、ルビーは思わず笑顔を浮かべていた。そして小さな笑い声さえも上げていた。

 

「……なんだよ」

「んーん? でもま、とにかくさ、ここから外には出ようよ」

 

 少しばかりじとりとした目線でルビーのことを見てきたアクアに笑みを崩さずそう持ち掛ければ、どこか諦めたような表情で彼もまた頷いた。

 

「……まあ、そうだな。行くか」

 

 それと同時、アクアはコートのポケットを探る。そうすればそこからは、青と赤の二つの細長い箱のようなものが出てきた。

 そのうちの一つ、赤の方を、アクアはルビーに差し出してくる。

 

「そしたら、これ掛けとけ。眼鏡、度は入ってないから」

 

 つまりそれは、「眼鏡ケース」だった。

 言わんとすることは分かる。アクアにせよルビーにせよ、そろそろ何も手を加えることなく顔を晒して町中を歩ける立場からは逸脱しようとしているということだ。

 

 いよいよ自分も、「有名人」と呼ばれるような日が近くなっている。アクアもそうだ。彼のこの何気ない動作の中にさえ、そのことを意識してしまう。

 しかしそんなことよりもなお、そうやってルビーに眼鏡ケースを渡した後、アクア自身が手に持つ青いケースから取り出したアンダーリムの細身の眼鏡をその耳に掛けた瞬間に、ルビーの胸は大きく高鳴った。

 

「どうした? 行くんじゃないのか? それ掛けて」

 

 度の入っていない、眼鏡越しの視線がルビーを射貫く。

 その姿が、ルビーにどうしようもなく過去のことを思い起こさせた。「せんせ」の、雨宮吾郎のことを。

 

 あの時と姿形はまるっきり変わってしまっても、それでも彼のルビーを見る目元は、ずっと変わっていないのだ。

 唐突に、今一度、そのことを理解した。それがどうしようもなく嬉しくて、心の芯から温かくなるようだった。

 

「……うん、そうだね」

 

 湧き出でた心情を深くにしまい込んで、ルビーは頷く。

 手の中の赤いケースから、ルビーのためにアクアが選んだのであろう伊達眼鏡を取り出し、静かに掛けた。

 

 「どうかな」、と顔を上げて訊ねてみれば、「似合ってるよ」とアクアは穏やかに笑う。その表情にさえもルビーはかつての(せんせ)との日々を思い出して、また一つ胸が跳ねた。

 

 

 

 逃げるように、前を向く。そのまま二人、まずは駅から外に出んと、上りエスカレーターを探すべく歩き始めた。

 

 

 

 

 

 「電車で一駅の街」だった渋谷に、どうしてもありがたみのようなものを失いかけていたルビーであったが、しかしひとたび地上に出れば、その印象はがらりと変わった。

 ひたすらに地下を進み、ハチ公口から外に出る。そうすればそこに広がっていたのは、まさしくルビーが、いや、さりなが何度もディスプレイの向こう側に見てきた、あの「渋谷の街」だった。

 

 五叉路を取り囲む横断歩道と、その真ん中を走るスクランブル交叉を、人という人が埋め尽くしている。

 そこに面した大型ビジョンには盛んに広告が流れていて、その大音声が街の喧騒に花を添えている。

 正面を見上げれば、この町のランドマーク、ティーンのガールズ文化の発信地の一つである円筒型のファッションビルが聳え立っていた。

 

 周りを見渡して、息を呑んで、ただ歓声を上げてしまいそうになるのはなんとか堪えた。

 しかしそれも、どうやらアクアからすればすっかりお見通しであったらしい。苦笑交じりの吐息の音と一緒に、肩をぽんぽんと叩かれる。

 

「気持ちは分かるけど、お上りさんじゃないんだから」

 

 なるほど、言われてみれば確かに今の自分は「お上りさん」だ。そのことに気づかされて、途端に恥ずかしくなった。

 少しばかりの恨みを込めた目線をアクアに向けてみせれば、しかし彼はそんなものなど柳に風と、涼しい顔でルビーに向かって手を差し出してくる。

 

「ほら、掴まれ。人出多いからな」

 

 その余裕と、そして少し悪戯な口ぶりが、ルビーの中にまたしても過去を思い起こさせた。

 こっちの気持ちなんて全てお見通しで、その癖にちょっぴり意地悪で、でもずっとルビー(さりな)のことを考えてくれていた。昔の「せんせ」と、何もかもが同じだった。

 すごく嬉しくて、でも振り回されてしまいそうな自分が悔しくて、だからルビーは敢えてアクアの差し出した手を無視するように、その腕目掛けて飛びついた。

 

「っとと……おい、ルビー?」

「えへへー」

 

 たたらを踏んで、アクアが驚いたようにルビーに声をかけてくる。

 意趣返しの意味こそ多分に含んではいたものの、それよりもなお、彼の存在をほど近くに感じることができる喜びに、頬が緩む。甘えるように頬を寄せれば、仕方がないなとばかりに反対側の手が伸びてきて、そしてルビーの頭をぽんぽんと叩いてきた。

 

「全く……ほら、そろそろ行くぞ」

「うん」

 

 そしてそのままの姿勢で、アクアとルビーは再び歩き始める。

 無論、その向かう先は二人の正面に見える、件のファッションビルだ。

 

 それが、今日の「デート」の中の最初の目的地だった。

 

 

 

 

 

「いやぁ、買った買った!」

 

 そこから大体三時間ほどが経った昼過ぎのこと、ビルを後にしながらルビーはアクアにそう声をかけた。

 自分でも分かるほどに、その声は上擦っている。それもそのはず、ルビーはこの三時間ほどひたすらにビルの中でアクアを引きずり回し、ありとあらゆる店に首を突っ込んでは気に入ったものを試着して、あるいは店員に相談しておすすめのものを試着して、をひたすらに繰り返していた。

 

 今まで着たこともなかったような服を着て、それをアクアに見せて、褒めてもらう。

 「たったそれだけのこと」と言われるかもしれなくても、そんなことでも、いや、そんなことだからこそ楽しかった。

 

 今までのルビーは、どちらかと言えばスポーティーでアクティブなものを着ることが多くて、ガーリーなものには手を出してこなかった。趣味の方向性がそうだからと言うこともあるし、単純に今の自分のスタイルに合っていそうなのはそういう路線だからという身も蓋もない事情もある。

 だから今日、色々な店を回る中で試着室で袖を通した服装は、ルビーにとっては新鮮なものだった。

 そこにはまるでかなが着ているような「甘め」の服もあったし、また逆にあかねが志向しているような「大人の女性」らしさ溢れたフェミニンな格好もあった。

 

 「新しい自分」、などと言うとどうにも大上段な響きだが、それでもルビーにとって、自分の色々な格好をアクアに見てもらうことそのものが、ある意味では「叶えたかったこと」の一つなのかもしれなかった。

 「さりな」だった自分には、望もうとも決して手の届かないことだったからだ。なればこそ今の自分を、自由に動いてどこにでも行けて、思うがままに好きな服を着られる「星野ルビー」という自分を、「せんせ」に見てほしかった。喜びを、共有したかった。そういうことなのだろう。

 

 

 

 兎も角、斯くしてルビーの「ファッションショー」は十軒ほどのブティックを巡りながら続けられ、結果としてルビーは来シーズン――つまり春物の服をかれこれ上下合わせて四十着ほど買ってしまっていた。

 言い換えれば、ワンシーズンで使う服のうちの大体半分ぐらいを今日この場所で揃えてしまったことになる。当然、大量の荷物になる故に、アクアは苺プロの事務所宛に宅配を頼んでいた。

 

「でも。ありがとね、 お兄ちゃん」

「ん? 何が」

「いや、今日の服、あんなに買ったのに、全部お兄ちゃんが」

 

 いや、それだけではない。その分の会計は、全部アクアが持っていた。

 言うまでもないが、女物のファッションというのは高い。ティーン向けということで多少は抑えられているにしろ、流石に四十着も買ってしまえばかなりの値段だ。

 最低でも、今ルビーが自分で稼いでいるお金からすれば一か月分では賄いきれない程の額だった。そろそろ稼ぎとしても一人前のそれにはなろうとしているが、そうであってもである。

 

 それを、アクアはあっさりと払っていた。恩着せがましくもなく、まるで当たり前であるかのように。

 

「ああ、いや別に。今んとこお前より稼ぎはあるしな」

 

 事実、アクアは本当に何でもないように、ルビーが遠慮がちに発した声に答える。

 ルビーの方に目すらも合わせず淡々とそう口にして、しかしそこで彼はルビーの方を見た。

 

「それに、そもそも今日は『そういう日』だろ?」

 

 そう言って、薄く笑顔を浮かべる。

 なんというか、「手慣れた人間」のやり口な気がした。「女の子の扱い方を熟知している」かのような。

 

 そう言えば、と思い返す。アクアではなく「ごろーせんせ」の話だが、あの病院の中の噂話として、看護師たちが彼のことを「女慣れしてる」だの「けっこうやり手そう」だのと割と好き勝手言っていた。

 そもそも彼女たちに言わせれば、「東京の医大生なんて十割が遊び人」らしい。そして正直、「ごろーせんせ」は結構イケメンな方だった。今のアクアとは方向性こそ違うが、惚れていた分の美化を差し引いてなお、確かに彼の容貌は整っていたのだ。実際、あの病院の看護師たちのなかでも吾郎のことを「ちょっといいかも」なんて言っている人は何人かいて、さりなの心中が穏やかでなかったことは一度や二度ではなかった。

 

 彼女たちの話がどれほど真に迫っているかはさておいても、今のアクアの振る舞いを見るに多少は真実の部分もあったのかもしれない、とルビーは思う。

 なんだか、またちょっとだけムカついた。しかし同時に、「それでもいい」と思った。

 

 今この瞬間ばかりは、その目も気遣いも、ルビーに注がれている。

 あの時(さりなのとき)とは違って、それを自分は元気な身体で受け取ることができるのだから。

 

「そっか。……ありがとね、お兄ちゃん」

 

 ならば、それで十分だろう。そう思って頷いて、ルビーはもう一度アクアの手を取った。しっかりと握って、歩き出す。

 

「じゃ、次の場所いこっか。前から言ってた場所」

 

 そう口にすれば、『その場所』のことを当然に知るアクアも、頷きながら足を踏み出す。

 

「そうだな。そうするか」

 

 互いの間に結ばれた手は、変わることなく温かかった。

 

 

 

 

 

 前から、「渋谷に行くようなことがあれば絶対に行きたい場所」というのを、ルビーは考えていた。

 有名なランドマークではないし、映えスポットでもない。美味しい料理を出すレストランでも、勿論ない。他の誰かからすれば、きっと「どうしてこんな場所を」と思うようなところだろう。

 だってそこは、この東京と言う街ならどこにでもあるような、「ただのチェーン店のカフェ」なのだから。

 

 その場所に入るなり、ルビーは一つのメニューを注文した。

 何と言うことはない、何の変哲もない、抹茶フラペチーノだ。そしてそのオーダーだけで、きっとアクアは全てを察した。

 まるで過去の出来事をなぞるように、アクアはそのフラペチーノの代金を払う。自分も同じ抹茶フラペチーノを注文して、そしてともに窓際のテーブル席に陣取った。

 

「……こういうことだろ?」

 

 席に着くなり、そうアクアは訊ねてくる。

 ルビーもまた、無言でそれに頷いた。

 

 互いの了解が、そこにはあった。

 

 

 

 ここは、ルビーたちの母親が、『星野アイ』がB小町に誘われた時の場所だ。

 そしてその時、彼女が壱護社長に奢ってもらったのが、つまるところこの抹茶フラペチーノだった。そのことをルビーは、そしてきっとアクアも、アイ本人から聞いていた。

 

 

 

「『渋谷に行ったら、スカウトとか来ちゃうかも』って、言ってたよね」

「だな。言ったのは俺の方だった気もするけど」

「そうだったっけ? そうだったかも」

 

 在りし日の記憶を思い起こしながら、訥々と二人言葉を重ねる。

 病室でした約束だ。互いにきっと、叶うことなどないことはわかっていた約束の話だった。

 

「スカウトどころか、アイドルになったよ、私」

「……そうだな」

 

 頷くアクアの顔を見ながら、手の中のフラペチーノに刺さっている太いストローから、その中身を啜る。

 強烈な甘さが、そして冷たさが、口の中を満たした。

 

 それと同時、同じようにフラペチーノに口をつけていたアクアが、伏せていた目を上げながら、ルビーに向けて口を開く。

 

「まあ。まだライブ二回しかやれてないし、こういうこと言うのもなんだとは思うけど」

 

 そこで、言葉が切れる。逡巡するように一瞬だけ目を逸らして、しかし最終的には肚を決めたのか、もう一度視線が合った。

 

「楽しめてるか?」

 

 出てきた言葉は、そんなシンプルなものだった。

 何を考えているのかも、分かりやすかった。

 

 同時に、ルビーは察してしまうところがあった。

 どうして今日、アクアがルビーをこんな風に誘ったのかということも含めてである。

 

「うん。とっても楽しいよ」

 

 だからルビーは、そうやって笑顔で答えた。

 決して嘘ではない。ルビーは間違いなく、今の毎日を確かに謳歌しているのだから。

 

「そうか。……それは、よかった」

 

 しかしきっと、アクアには分かっているのだろう。その裏で今ルビーが抱えているものを。

 ルビーの曇りない、最低でもそのつもりだった笑顔と言葉を受けてなお、彼の口ぶりにも、声色にも、どこか影のようなものが宿っている。

 

「なあ」

「あのさ」

 

 それを思って出した言葉が、アクアのものとぶつかった。

 互いに見合って、一瞬だけ出来た譲り合いの間合いが奇妙な沈黙を生む。兄妹の間だというのに、流れる空気がどうにもぎこちない。

 はっきり言って、性に合わなかった。そういうのはキャラじゃないのだ。

 

 意を決した。ルビーの方から、もう一度声を上げた。

 

「まあ、お兄ちゃんの思ってる通りだと思う。正直ね、今私はすごーく悩んでる」

 

 そんなルビーの声を聞くアクアの方からは、感情の動きは見られない。ただずっと静かに、傾聴の姿勢でルビーの方に目を向けている。その手の中にあったフラペチーノのカップが、テーブルに置かれた。

 

「前の旅行でせんせのこと分かって、せんせと話ができて、本当に、すっごく嬉しかった。……いや違うかな、今でも嬉しいし、とっても幸せ。けど、一緒に悩みも出来ちゃった」

 

 手元のカップに視線を落とす。かつてのアイもきっとこの場所で眺めていたのであろう、緑と白のコントラストが目に入った。

 そんな、アイの過去のことに意識を向けることで、今のルビー自身の抱えている「宿題」はなおその形を克明にしてゆく。

 

「私にとって、『家族ってなんなんだろう』って。ママはママで、お兄ちゃんはお兄ちゃんだけど、でもママはアイで、お兄ちゃんはせんせなんだ」

 

 全くもって、うまく言語化できている気がしない。(はた)から聞いている分には、きっと意味の分からない言葉の羅列なのだろう。しかしこれ以上に今の自分の心情を言い表すことのできる表現を、ルビーには見つけることができない。

 

「自分のことが、分からなくなっちゃってるのかな。『ママみたいになりたい』って思って、そこからいつか『ママも超えたい』なんて、ずっとそんなおっきなことを思ってたのにさ。でも次のワンマン、どういうつもりでやればいいんだろうって、それもちょっと」

 

 アクアは未だ何も言葉を返さない。きっとルビーが、まだ心の中にあるものを吐き出しきれていないと分かっているのだろう。

 人が何を考えて、どういう気持ちでいるのかを、よく理解している。彼は、「せんせ」はずっとそうだった。ルビーが「さりな」だった時から、ずっと。

 

「お兄ちゃんとママのことで、私はどうするのがいいのかも全然決まってなくて。ずっと自分だけ楽しいばっかりでいいのかなって。B小町の中で、先輩とかMEMちょとかと一緒にいるときは全然忘れられるんだけど、でも」

 

 それに甘えるように、ルビーは心の内を吐き出し続けていた。そうすることで、自分自身の思考に整理がついていくようにも思う。

 

 つまり今、ルビーは、「自分が何をしたいのか」がぼやけてしまっているのだ。

 

 アイドルとしてどうありたいのか。どういう自分を、ファンのみんなに見てもらいたいのか。

 あのMVがいくらすごいヒットを飛ばしたとしても、今のルビーはあの時の「周り全部に怒りをぶちまけて、何も見えなくなっていた」ルビーではない。あんなパフォーマンスはできないし、したいとも思わない。

 なら、それまでと同じ自分でよいのか。まだ二回しかライブをしていない、ひよっこアイドルたるルビーとして、それで本当によいのだろうか。

 

 アイの娘として、アクアの妹として、どうありたいのか。

 あるべき「家族」の姿なんて何もわからなくて、「さりな」として失くしてしまった「お母さん」の姿をアイに見てしまっているかもしれない自分は、果たして本当に正しいのか。

 かつて「せんせ」の「ガチ恋ファン」だった自分が、そして今もまだ確かな思いを懐いている自分は、今もまた確かにルビーのために、そしてアイのために奮闘を続けている「あなた」にとって、どういう存在でありたいのか。

 

 その全てが、宙に浮いてしまっているようだった。

 だからルビーは、どこか不安さえも抱えるような顔で、縋るような表情で、アクアのことを見てしまう。その目線と一緒に、言葉を吐き出していた。

 

 対するアクアはそこまで聞いて、腕を組む。しかしあまり黙り込むということもなく、彼は軽く頷いてから顔を上げた。

 

「同じだな、俺と」

 

 突拍子もない台詞だった。思わず首を傾げていたルビーを後目に、アクアは言葉を重ねる。

 

「俺もなんだよ。結局、今の俺って『雨宮吾郎』なのか、それとも『星野アクア』なのか、そもそもそんな区別をつけること自体が正しいことなのか、正直曖昧なんだ」

「そうなの? でもお兄ちゃんはお兄ちゃんだよ。それで、お兄ちゃんはせんせだよ」

「まあ、お前からしたらそうだろうな」

 

 ルビーの言に、我が意を得たりとアクアは頷く。

 そしてこちらの言葉をそっくりそのまま返すように、彼は言ってみせた。

 

「けど、それに関しては俺も同じだ。お前はルビーで、君はさりなちゃんなんだ。外から見たら、まあそうなんだとは思う」

 

 ルビーは、それに何も言えない。故にアクアはそのまま続けた。

 

「だから、結局は自分で自分をどう納得させるか、なんだろうな、こんなのは。……俺も分かってはいるんだけど、どうにも」

 

 首を振りつつ、そんな風にぼやく。

 しかしそれも束の間のこと、アクアはすっと顔を上げて、そしてルビーを見据えた。

 力の籠った瞳だった。思わず、背筋が伸びていた。

 

「でも、お前がどうしたいかっていう話なら、結局『自分の心に正直になる』しか、ないんじゃないのか」

「心に、正直に……」

 

 ぼそりと、自らの言葉を反復したルビーを見たまま、アクアは頷く。少し溶けかかりのフラペチーノをずずず、と音を立てつつ啜って、仕切り直すように口を開いた。

 

「特に、『アイドルとしてどう振舞うべきか』なんて、そうだろう。……けど」

 

 そこで、彼もまた居住まいを正す。背筋を伸ばし、身を乗り出した。大事なことだと、態度が語っていた。

 じっとルビーの目を覗きこんで、真剣な表情で、アクアは口を開く。

 

「最低でも、君はアイとは違う」

 

 出てきたのは、きっぱりとした断言だった。思わず目を見開いている自分がいた。

 

「だってまず最初から、ここでアイドルの勧誘を受けたとき、そもそもアイはアイドルに乗り気なんかじゃなかったんだから。だろ?」

 

 言いながら、彼は再び手に持ったフラペチーノを掲げてみせる。

 確かに、アイは前に言っていた。そもそも壱護社長とのファーストコンタクトにおいて、アイはこのコーヒーショップに「抹茶フラペチーノを餌に釣られた」のだと。

 そしてそのまま、半ば丸め込まれるようにアイドルとして苺プロに招かれたのだと。

 

 ルビーも当然、それについては知っている。だから黙って頷いた。

 そうだろうとばかりに頷き返して、アクアは一瞬だけ、窓の外に目を向けた。

 

「『アイみたいにすごいアイドルになりたい』っていう話は、立派な夢だとは思う」

 

 外に見える冬の街並みを、ぼんやりと彼は見る。

 そこを行き交う人々の姿に何を思ったか、小さく息を吐いて目を瞑った。そして、もう一度ルビーと視線を合わせる。

 

「だけど、結局ルビーはルビーだろ。母さんとは違う。だったらさ」

 

 ――お前にとって、アイドルって何なんだ?

 

「それが一番大事で、結局全部なんじゃないか?」

 

 彼の目の奥に、ルビーは確かな光を見た。彼の瞳が、強く煌めいて見えた。

 

 

 

「私にとって……」

 

 半ば呆然とアクアの言葉を繰り返すルビーに、アクアは続けて語り掛ける。

 

「でもそれって、つまりお前が今までやってきたことなんじゃないかって、俺は思う。アイドルになった後の努力もそうだけど、でもそれよりも、『自分の言葉で仲間を作ったこと』がさ」

 

 彼の瞳の鮮烈な輝きに反するかのように、重ねられる言葉には、柔らかささえも宿っていた。

 それが、どうしようもなくルビーの胸をざわつかせた。

 

「お前は自分の言葉で、かなとMEMに自分の気持ちを届けただろ。それができる力を、『星野ルビー』は持ってる」

 

 だってそれは、あまりに昔を思い出させたからだ。

 今日、もはや何度目かも定かではない、記憶の中の残像が、アクアの上に重なってゆく。

 

「同じだよ。君が俺にB小町のことを『布教』してきた時とさ。俺にアイのことを推させて、『元気になったらアイドルになりたい』って言ってた時の君と、同じだ」

 

 そして今、アクア(せんせ)がふと微笑んだ。

 冬の寒さの只中で、陽だまりのように彼は笑った。

 

「俺がずっと推してた、『最推し』だった君から、何も変わってないよ、さりなちゃんは」

 

 真っすぐにルビーのことを見つめて、かつてと同じ声色で、そんな言葉がやってきた。

 

 

 

 自分はそれに、どう反応すればよいのだろう。しかしなんであれ、ルビーは自身の口角が上がってゆくのを止められなかった。

 嬉しくて、「好き」が溢れ出しそうで、あの時の「せんせ」が今目の前にいるのがよく分かって、居ても立ってもいられなくなりそうだった。

 もしここが家の中なら、きっとルビーはアクアに向かって飛びついていただろう。いや、二人の間を隔てるこのテーブルさえなければ、今でもそうしていたかもしれない。

 

 そうだ。ずっと彼は、せんせは、アクアは、自分にとって一番欲しい言葉をくれた。

 苦しくても寂しくても、痛くても寒くても、彼がいるだけで、隣にいるだけで、心はいつも春だった。あの冬のさなか、次の春をついぞ迎えることのできなかった天童寺さりなの、最期の瞬間でさえも。

 

 そんな彼が、言ってくれたのだ。「君は、ずっと変わらない」と。「そのままの在り方で、夢を追っていいのだ」と。

 だとするならば、自分はそうありたい。そうあるべきだ。

 

 気持ちの整理をしきれたわけでもなくて、自分自身に対して持った疑問に答えを見つけられたわけでもなくて、ママもアクアも、「アイ」も「せんせ」も、何一つ諦めたくはないけれども、そのために何をすればいいのかも、まだわからない。

 でも、そんな自分でも、せめてずっと追っている夢の形だけは、見失わないでいたかった。それに気がつかせてくれた、「あなた」のためにも。

 

「そっか」

 

 だから、ルビーは決めた。

 

「ありがと、お兄ちゃん。これからどうすればいいか、何となく分かったような気がする」

 

 最低でも、次のファーストワンマンに臨む自分がどうあるべきかについては、答えを見つけられたような気がした。

 一瞬、手元に落としていた目線を、正面に向ける。そこにいるアクアと、自然と目が合った。

 

「だからさ。次のファーストワンマン、お仕事でどうしても行けないってなったらしょうがないけど」

 

 一つだけ、呼吸を入れる。そして、あとは一息に言い切った。

 

「でもそうじゃないなら、絶対来て。一番前で、私たちのこと、私のこと、見ててね。だって、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 かつて交わした約束だった。同時に、叶うはずのない夢だと、思っていた。

 でも今、それは確かな現実になろうとしている。本当はJIFの時に叶っていたのかもしれないけれども、それでも「今のアクア」に今の自分を、アイドルをしている今の自分を見せることを意識したのは、間違いなくこれが初めてなのだから。

 

 そしてそのことは、きっと彼も分かっている。

 黙って、それでも確かに首を縦に振ったアクアを見て、ルビーは自分でも分かるくらいに、綻ぶように破顔した。

 

 

 

 その後、ルビーはすっかりと晴れ上がった心を胸に、ディナータイムまで続いた「デート」の時間をアクアと過ごした。

 

 かつて夢みたひと時は、もう夢なんかではない。アクア(せんせ)はずっと自分の隣にいてくれて、どこかに行ってしまうこともない。

 それがただ、ルビーにとっては無性に嬉しかった。泣き出しそうなほどに、嬉しかった。

 

 だから、同時にルビーは心に描く。

 そんな時間を、そんな日々を、もう二度と失くしてしまわぬように、自分ができることを見つけたい、と。

 それを探すこともまた、きっと自分が「星野ルビー」である理由の一つであるのだろうから。

 

 そうすることで初めて、きっと自分は「天童寺さりな」と「星野ルビー」の間に生まれてしまった隙間を埋めることができるのだろうと、信じた。

 

 

 

 星野ルビーの胸中に、明確な目的意識が芽生えた瞬間だった。

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