三学期が終わり、春休みがやってくる。次の月になれば、ルビーたち全員の学年が、一つ上がることになる。
ルビーは、そしてアクアは、高校二年生へ。あかねとかなは高校三年に。MEMちょは……まあ、その辺りは野暮なことだろうか。
芸能クラスは陽東高校の中には一つしかない。だから顔ぶれが今年と来年度で変わることもない。そういう意味では、「環境の変化」というものを感じることはないのかもしれない。
だからルビーたちにとっては、そんな「新たな年」を迎えることよりもなお、今この瞬間の方がよほどに大きな画期に違いないだろう。
アイドルユニットとしての階梯を、また一つ登る日だ。
つまり今日、ルビーたちB小町はその記念すべきファーストワンマンライブの日を迎えていた。
東京はお台場、湾岸エリアにあるこのライブ会場は、かつてルビーたちがJIFに出場したとき、そのメインステージが置かれていた場所だ。
半年と少しの時を経て、B小町はこの場へとある意味において「凱旋」を果たしていた。今度は、自らがその主となる形でである。
「二千人クラスの箱」と言っていたが、しかし正確にはこのライブ会場のキャパシティは『三千人弱』である。それほどの客を呼べるポテンシャルが今のB小町にはあると、壱護社長は判断していた。
そしてそれは正しかった、のだろう。聞くところによれば、今回の「B小町」ファーストワンマンは発売開始から一日持たずに即完、急遽オンライン同時配信を検討することになったというのだから、凄まじい。
この俄かに降って湧いた狂騒には、あの「新生B小町」として初めて出したMVの効果が作用しているのはきっと確かなのだろう。あれが公開されてすでに一か月と少しが経ったが、もうその再生回数は一千万回を超え、一千五百万回に迫ろうとしている。
このままいけば、二か月程度で二千万回再生を突破してしまう計算だ。大手レーベルのアイドルのMVでさえ、そこまでになることはあまりないことを考えれば、これがどれほど常軌を逸したものかはわかるというものである。
ただきっと、それ以上に、いや、そのMVの再生回数のことも含めて、ルビーたちの背負う「B小町」というユニットの名前は、きっと重いのだ。それを、今のルビーには身に沁みて理解していた。
その直接のきっかけは、半年弱ほど前、かなが東ブレの稽古に入る前に三人でやった、大手のアイドルとの合同ライブのときのことにまで遡る。
これはそもそもの話だが、所謂「大手レーベルのアイドル」が合同ライブを組むことなど、ほとんどない。何故ならそういうアイドルは、基本的に自分たち単体で集客ができるからだ。動線の全てが自分たちだけで完結していて、採算を取るのに他のアイドルグループの力など借りる必要はない。メリットがないのである。
であるのだとすれば、なぜ彼女たちはルビーたちB小町に対して「合同ライブ」などというものを持ち掛けたのか。その答えは、合同ライブの前に向こうの人たちと顔を合わせた、事前の打ち合わせの中にこそあった。
彼女たちは、ルビーたちを前にして口々に言ったのだ。
――私、前からB小町のファンだったんです! アイさんみたいになりたくてアイドルになったんですよ!
――アイさんは私たちにとって、ずっとずっと憧れなんです!
――JIF見ましたよ! ルビーさん、
そのどれにも、世辞の響きなどなかった。彼女たちは、まるでルビーが、否、さりながアイのことを語っていた時と同じような声色で、そしてきっと目で、B小町のことを、そしてアイのことを語っていた。
アイドルを志す者にとって、「B小町」という存在はそれほどに重いのだ。きっと、ルビー自身が思っていたものよりも、なお。
ルビーが、ルビーたちが襲名したのは、つまりそういうグループの名前だ。
B小町の名を継ぐことそれ自体に、覚悟はしてきたつもりだった。アイの名前を背負うということはすなわち、自分たちを通してファンの人たちが「前」のB小町を、ひいては「アイ」を見るのを少なからず受け入れることを意味するのだと、それはわかっていたつもりだった。
しかし、そのときルビーが思っていた、考えていた「覚悟」は、本来持つべきものよりも、きっと軽いものだったのだろう。
何故ならば、もしかすれば今現役の真っただ中にいるアイドルたちは、その多くがルビーと同じように、「B小町」という存在に夢を見て、「B小町」と同じようなアイドルになりたいと思って、そうしてアイドルを志した人々なのかもしれないのだから。
そんな「夢の原点」を、ルビーは引き継ごうとしている。引き継ぐことを、求められている。それを、その合同ライブの日に、ルビーは初めて強く意識したのかもしれない。
ルビーがその後、歌にせよダンスにせよ、元々あったモチベーションをさらに高めてトレーニングに身を入れるようになった理由には、そういった部分もきっと大きかった。
そして生まれたある種の義務感のようなものにも背中を押されて、ルビーはここまで努力を積み上げてきた。それは今、確かに実を結ぼうとしている。
B小町の新曲としてヒムラが作曲した三曲は、正直なところかつてのB小町の楽曲よりも複雑で、高いパフォーマンスレベルを求められるものとして仕上がっていた。ダンスも、そして当然に歌もである。
かつての自分では、JIFに出ていたころの自分では、きっと身の丈に合わないこの歌を前に、醜態を晒していたばかりであっただろう。
歌のレベルなぞ、評価されるべき水準ですらない。如何にライブとはいえ、自分がつけているヘッドウォーンマイクの電源は切られていたに決まっている。
しかし、今は違う。ファーストワンマン直前のリハーサルを苺プロのレッスンスタジオで通しでやったとき、アイが見せた表情のことを、ルビーは憶えている。
JIFの時に見えた、どこか微笑ましさすらも滲ませたそれではない。確実に、そしてどこか冷徹に、「客観的にアイドルとしてのルビーたちのパフォーマンスを評価する」人間の目線で、彼女はルビーたちのことを見ていた。
そうした目を向けるべき相手だと、彼女に思われていたのだ。そう思ってもらえるところまで、ルビーの、そしてかなやMEMちょのアイドルとしての成長は、確かに至っていたということなのだろう。
そうだ。そうでなければ、ルビーは「その先の場所」に進めない。ファンの人たちに対して、最低限恥ずかしくないパフォーマンスを見せられるようにならなければ、ルビーはその向こうにある「表現」を、彼ら彼女らに見せることなどできはしないのだから。
JIFの時とは違う、ワンマンとして宛がわれた専用の楽屋の中で、ルビーはひとり目を瞑っていた。
ライブの開始まで残り三十五分ほど、そろそろこの場から舞台裏に向かって移動しなければならない頃合いだ。
これまでであれば、きっと自分は誰よりも緊張して、その緊張を分け合うようにMEMちょに、あるいはかなに絡んでいただろう。
そしてかな辺りから鬱陶しがられながらも、じゃれ合い交じりのどこか温かなアドバイスをもらって、結果として気合いを入れてこのライブハウスのステージの上に立っていたのだろう。
JIFの時も、この前の合同ライブの時だって、そうだったのだから。
しかし、今は違う。これから始まるライブに向かって気分は確かに高揚していても、それでも同時に心の中に冷静な部分を抱える自分がいた。
ルビーは、内心で過去を顧みる。それは一か月ほど前、アクアと向かった初めての渋谷の記憶だ。
「せんせ」としてアクアのことを意識してから、最初の二人きりのお出かけだ。
アクアがどう思っているかまでは分からないが、最低でもルビーからすれば、それは紛れもなくデートだった。だからこそ、その行き先に渋谷という街を選んでくれた彼の思いを、ルビーは未だに胸の中に確かな熱とともに憶えている。
しかし、それだけではない。あの日の楽しかった記憶は、それと同時に一つの意識の変化を、ルビーにもたらした。そのことを、自分は忘れてはいない。
アイドルになったことで、星野ルビーは一体どういう存在であろうとしているのか。
ルビーがアイドルになった理由の一つとして、確かに『ごろーせんせ』ともう一度巡り合うことは大きいものだった。しかし結果的に、ルビーはアイドルにならずとも、自らの最も近い場所に
しかしだからとて、ルビーの中でアイドルを続ける理由が、あるいはモチベーションがなくなったかといえば、そんなことはない。決してありえない。
――母のような、アイみたいな凄いアイドルになりたい。出来得るのならば、その先にも手を届かせたい。
ルビーがルビーとなってから、それは確かに自分の中での夢となった。『せんせ』との約束とは違うところで、ルビーがアイドルを目指した理由の一つだった。
もしそうであるというなら、己はなぜ、そんな未来を志そうとしているのか。その答えこそ、今の己が最も必要としているものだ。
であるからこそ、いま自分は原点へと立ち返ろうとしている。
「天童寺さりな」としての自分が、逃れられぬ死に向かうことを知っていながらも、その恐怖と無力感をより強い輝きで塗りつぶしてくれたあのテレビの画面の中のアイの存在が、ルビーにとってのアイドルの原風景だ。
そんな力をもらえた自分は、今度はそういう「光」を誰かにあげられる人間になりたいと思った。もし何かの間違いで、途轍もない奇跡が起きて、自分を蝕むこの病魔が消えてなくなってくれたその暁には。
それを儚い夢だと、見果てぬ夢だと分かっていて、しかしその夢もまた、あの時の天童寺さりなが明日を生きるための活力になっていた。
今の「星野ルビー」という生は、あの時のさりなが漠然と抱いていた夢よりもなお荒唐無稽で、そして同時に得難い奇跡だ。今の自分がどれほどまでに恵まれているか、ルビーはよく分かっている。
ならば、きっと答えは見えているのだろう。JIFの日、初めてアイドルとしてステージに立つ直前に胸の中でぼんやりと思い描いていたそれが今、目に見える何かとなって自分の前に現れているような、そんな気がした。
「時間ね。ルビー、そろそろ行くわよ」
瞑目し、静かな呼吸を繰り返していたルビーに、かなから声がかかる。その音を呼び水にするようにして、ルビーは静かに目を開けた。
鏡の中に見える自分は、いつもの星野ルビーだ。高千穂で初めて着た「POP IN 2」のための衣装を纏って、いつもと同じ目の色で、自分自身と目を合わせている。今から始まる久方ぶりのライブに、ファンの人たちの前に姿を見せる機会に、心の中には確かな高揚と隠し切れない緊張が波打っているのも分かる。
しかし、それでも今のルビーの胸中は、不思議なまでに凪いでいた。JIFの時のような、あるいは合同ライブの時のような、身を持て余して暴れ出しそうになるほどの緊張は、もうルビーの中にはない。
「ルビー? 何してんの、早くしなさいよ」
「あ、うん」
ルビーの真横、楽屋の出入り口にいつの間にか立っていたかなから、またも言葉がやってきた。訝るような、案じるような、あるいは呆れたような声色と共に。
それに、ルビーは横を向く。一つ頷いて、立ち上がった。
「あら? あなた……」
そんな自らの様子に何を思ったか、かなが小さく目を見開いた。
「なんか、雰囲気変わったわね」
「そうかな」
「ええ」
首を傾げたルビーに頷いて見せたかなの発するその声は、意外そうでありながらも、それ以上にどこか明るさのようなものを感じた。ルビーの今を、歓迎しているかのような。
「気合入ったってことかしら? いいことじゃない」
そう言って、同意を求めるようにかなは彼女の横に立つMEMちょを見る。ただ、MEMちょの反応は薄かった。
どうやら、彼女に関してはいつものように直前の緊張でナーバスになっているらしい。それを見たかなが、唐突に横から大きく手を振りかぶってMEMちょの背中を一発はたいた。
ぎゃっ、と女の子としてはどうなのかと言いたくなるような叫び声を一度上げて、MEMちょが飛び上がる。
「な、え、ちょ、どしたのかなちゃん!」
「いや、それはこっちの台詞よ。久しぶりのライブなのは分かるけど、アンタ固くなりすぎ。そろそろ慣れなさいよね」
そのまま困惑交じりにかなに向かって抗議の声を上げるも、それ以上にきっぱりとしたかなからの苦言に、うっ、とMEMちょはたじろぐ。
いつも通りの光景だ。一番キャリアの長く、場慣れしているかなが先輩風を吹かせながらも気丈に振る舞って、まだパフォーマーとしてはひよっこでしかない残りの二人を引っ張ってゆく。その「らしさ」に、ルビーは思わず笑みを零していた。
「先輩はいつも通りだねー」
「そりゃそうよ。だってこちとら哺乳瓶咥えてた頃からこの世界で生きてるんだから、こんなの日常みたいなものでしかないわ」
得意げに鼻を鳴らしながらもかなはルビーにそう返して、しかしそこでまた、唐突に声色を変えた。
「けど、アンタもなんか、そんな感じじゃない?」
「……まあ、ね。ちょっと、いろいろあったから」
曖昧に頷いて、そこでルビーは意を決して立ち上がった。軽く伸びをして、周りを見回す。
目に入った時計が指し示す時刻を、もう一度確認する。確かに今は公演開始の三十分前、本当に、そろそろ舞台裏に行かなければならない頃合いだ。
よし、と一つ気合いを入れる。軽く二、三度ジャンプして、肩の力を抜いた。
目を瞑り、深呼吸を二回して、顔を上げて瞼を開く。そこにあるのは当然に、ついさっきと全く同じ表情でルビーのことを見つめるかなの姿だった。
「お待たせ。じゃ、行こっか」
「ええ」
いつもの調子で声をかければ、まったく同じいつもの調子で、かなが首を縦に振ってきた。
歩を進め、彼女の横を通り過ぎて、楽屋の出入り口の敷居をまたぐ。
横を向いたルビーと、かなの視線がそこで絡まった。
その瞬間、ルビーの視界の中で、彼女が小さく笑顔を浮かべる。
「ルビー。いい顔してるわよ、あなた」
進もうとする足が、そこで止まった。彼女から聞こえた声を、意味を咀嚼して、無言で見つめ合ったところから、前を向いた。
誰の方をも向くことなく、しかしルビーはかなのそれに首肯を以て返す。
「そっか。……ありがと、先輩」
彼女が今の自分の表情の中に何を見たのかは、ルビーには分からない。しかしそんなルビーのことを「いい表情」と評してくれているのなら、きっとそれだけで十分だ。
確かな高揚を抱えつつ、しかし静謐な内心をずっとそのままにして、ルビーはもう一度足を大きく踏み出した。
後に続くかなを、そしてMEMちょを引き連れながら、その日ルビーは初めて、この三人の中で明確に先陣を切った。
――さあ、行こう。せんせの待ってる場所に。一つ目の夢を叶えに。もう一度、『私』を始めるために。
その夢の場所は、B小町ファーストワンマンの始まりは、すぐそこにある。
三月下旬の宵のうち、三寒四温とは雖も未だ外気は確かに肌寒い時節であるというのに、そのライブハウスは既に熱気の渦の只中にあった。
「十年の時を経て、あの伝説が、『B小町』が復活した」。そんな触れ込みで最初に
あの夏の夜、JIFの準メインステージに突如現れた彼女たちの姿は、その場に居合わせたアイドルファンたちの心を確実に掴んでいた。
どうやら、彼女たちは『本物』である、と。
それはこの日、あのJIFの中で『新星』の存在を探し求めていたとある男たちにとっても全く以て同じであった。
彼らは、秋葉原に店を構えるとあるアイドルショップの店長と、その店員だった。彼らにとってJIFという『アイドルの祭典』への参加というのは「青田買い」という視点において確実に仕事の一環であり、そしてまた同時にいちアイドルファンとしての義務であり、何よりも一人の人間としての楽しみであった。
だからこそ、その時彼らがあの「SEA STAGE」の上に見た彼女たちの、新生B小町というユニットに対する衝撃は、彼らをしてこうしてB小町のファーストワンマンに足を運ばせるほどの大きさと深さを秘めていた、とも言えるのだろう。
「いやぁ、三千人弱が即完とか、見てる人にはわかるんすねぇ~」
彼らの中の一人、糸目で出っ歯の男が、そんな声を上げながら残りの二人に賛意を求める。
「そりゃそうだろ。なんたってあの子たちは『B小町』なんだから」
それに対して、得意げな顔で答えるのは、頭に白いタオルを巻いた壮年の男――アイドルショップの店長である。
「『十年前の伝説を蘇らせる』なんつーデカい看板掲げて、しかもそういう大口叩くのに十分なメンバーを集めてきてるとなれば、寧ろファーストでもこのレベルの箱っていうのは慎重な方なんじゃないか?」
「なるほど。最初のワンマンでわざと動員可能なキャパよりも小さい箱にすることで、プレミア感を演出して人気を過熱させようという魂胆ですね」
更にその隣でしたり顔で口にするのは、インテリ風の眼鏡をかけた優男である。こちらもまた、アイドルショップの店員の一人だ。
つまりこの場所には三人揃って、B小町のファーストワンマンをこの目に直接収めにやってきたというわけである。
「三人で来られたの、ホント運がよかったっすよね。三人全員来られないなんて普通にありえましたし、じゃなくても一人ハブられてオンライン配信とかなったら泣いちゃってましたよ、悔しくて」
「大の男に泣かれてもな。キモいだけだろ」
「ひどっ! 流石にそれはひどくないっすか!?」
互いにそんな軽口を叩きながら、ライブの開演を待つ。
その中で出てきたのは、やはり『例のMV』のことについてだった。
「そう言えば店長、あのMV見ました? って、当然見てますよね」
「そりゃ見てるに決まってんだろ。そろそろ再生数二千万に届きそうな勢いだぞ」
今回新生B小町が打ち出した新曲三曲のうちの一つ、『POP IN 2』のMVのことである。
「
「そうだな。最近の大手アイドルのMVでもこの勢いで二千万の大台乗りそうなものはあんまりない」
瞑目して腕を組んで、店長は訳知り顔で口にする。
「『新生』と前置きはついてても、やっぱり流石は『B小町』だってことだな。そろそろ『世間に見つかった』ってところだろう」
「そうっすね。いやぁ、これから伸びますよ、『新生B小町』。なんたってやっぱあの『MEMちょ』がアイドルやってるワケっすもん」
そんな店長に同調するように、出っ歯の方の店員がしれっと自らの推しであるMEMちょのことを話題に載せれば、負けじと店長を挟んで反対側の眼鏡の男から反論が飛ぶ。
「いーや、やっぱあのかなちゃんの圧倒的歌唱力がこのユニットの核だね。あの子がいることで『B小町』の完成度は完全に大手レベルまで仕上がってるんだから」
当然そこには、この集まりの中の最後の一人である店長もまた、聞き捨てならないとばかりに参戦した。
「わかってないなお前ら。『B小町』の支柱はやっぱりセンター格のルビちゃんに決まってんだろ。あの子は本物だ、『先代』のアイに一番近いのはルビちゃんだぞ。この間のMVだって――」
そう、店長が「推し」のいいところ発表会の只中でヒートアップして、一際声を張り上げようとしたその時、このライブハウスの照明が一気に暗くなる。
理由は明白だ。故に彼らは三人共に固く口を噤んだ。
いよいよ、時間が近い。B小町のファーストワンマンは、今まさに始まろうとしている。
ライブハウスの中に流れていたBGMとしてのEDMの音響も切られ、観客の誰もが沈黙する中、完全なる無音がこの場を満たす。
光もなく音もない、しかし観衆の期待ばかりが高じてゆくライブハウスの中、その緊張が一つの頂点を迎えようとした瞬間に、ステージに設置されたフットライトが一斉に灯った。
放たれた青白い光がステージを染め上げるのと同時、床から一気に噴き出したスモークマシンからの煙が、観客の視界を遮ってゆく。
光の筋が克明に描かれた空間の向こうに、三つの黒い影が差す。その正体に気がついて、観客が大きな歓声を上げるのと同時に、会場全体に鳴り響く音楽が身体の芯をも揺らした。
――新生B小町が放つ新曲の一つ、最新のアイドルソングのトレンドをしっかり掴む、軽快なダンスナンバー。
『Say What?』と銘打たれたそれが醸成してゆくライブの空気と共に、彼女たち三人の姿と声が、ファンたちの前にいよいよ立ち現れた。
この場の誰もが待ち望んでいた時間が、ようやく始まった。
いきなりの新曲で、新鮮とも言えるパフォーマンスを披露する彼女たちにコールをかけながら、彼らは三者三様の思いを懐いていた。
当然に、それは彼らの推しに対してである。
糸目で小太りの、「MEMちょ推し」の店員は、JIFの時にはそれでも微かに残ってしまっていた「照れ」や「固さ」というものが、今のMEMちょからほぼ取り払われていることを感じ取る。
アイドルらしい可愛い仕草の一つ一つに、思い切りがあった。
それは説得力の源泉だ。無論、JIFのときの、振りの中に幾つかのアドリブを挟みつつも、「アイドルになれた」ことへの嬉しさの上に「アイドルになり切れていない」初々しさの同居していた彼女の振る舞いはそれはそれで可愛いもので、「推せる」理由の一つになってはいたものの、しかし今彼女の見せている確かな「成長」を、この半年MEMちょのアイドル活動を推してきたファンとしては嬉しく思うばかりだった。
眼鏡の中から知的な眼差しを見せる、「有馬かな推し」の方の店員は、今日のライブで彼女が見せているパフォーマンスの中に、確かな自信のようなものが生まれ始めていることを知る。
節々の配信やショート動画の中で、彼女の目指す先がアイドルとしての栄達ではなく「女優としての返り咲き」であることは何度も示されてきた。だからそれは、B小町としての有馬かなのファンたちの誰もが知る所だ。
彼女がアイドルとしてB小町に加わった経緯のいくつかも、当然に知っている。彼女がどういう誘い文句で、B小町のメンバーになったのかも。そのとき、このグループの実質的なリーダー役であるルビーが彼女に何を言ったのかも。
だからB小町の三人のファンたちの中で、最も早くに自分の推しとの別れの時が来ることを意識――というより『覚悟』しているのは、有馬かなのファンであることは間違いない。
しかしそうであっても、今日の彼女の態度からは、JIFの時とは比べ物にならないほどに、彼女の中から「B小町というユニットの一員であること」への誇りのようなものを感じる。団結感のようなものさえも。
「アイドルをやることへのプラスのモチベーション」が、見て取れる。「アイドルをやる楽しさ」というものが確かにそこにはあるのだ。事実、あの「POP IN 2」のMVの中でも、三人の中で最も多彩な表情を見せていたのが彼女だ。女優としての面目躍如だし、見せ場も多かった。特にドラマパートにおいて主人公と言えたのは、寧ろ彼女であったのではないかと思うほどには。
いよいよもって磨きのかかってきた歌唱力と合わせても、アイドルとして花開こうとしている有馬かなの姿を見れることは、アイドルオタクとしてはこの上なく幸運なことに違いないと、彼は固く信じていた。
しかし、そんな二人においても、やはりどうしても今日のステージの中にあっては、『最後の一人』にその視線を向けざるを得なかった。
言うまでもなく、ルビーのことだ。当然に、彼らのアイドルショップの店長はそもそもがルビー推しであるために、ずっとずっとルビーにその目が釘付けになってはいたのだが。
彼らの認識は、一致していた。
「ルビーという少女は、一気に大人になった」。まるで童女のような幼気さと無邪気さが全てであった、ある意味で「アイドルに憧れる女の子」の振る舞いの権化とも言える彼女は、しかし今このライブにおいて、寧ろ確固たる「美しさ」を纏っている。そう、思わざるを得なかった。
ビジュアルという意味では、もとから飛び抜けたものを持つのがルビーだ。残り二人にしても、他のアイドルグループなら余裕でセンターを張れるほどの顔面水準の高さを持っているのに、それでなおそう思わせるのだから、彼女の容姿がどれほどに恵まれたものかは窺えるというものだろう。
しかし今ここから見える彼女は、それ以上にどこか強烈な美しさと、それを下敷きとする説得性を持っている。彼ら三人の中で、店長はとりわけそう、率直に感じていた。
彼の脳裏で、記憶がフラッシュバックした。かつて一アイドルファンとして見ていた『あの子』もまた、そのキャリアの途中で一気に印象が変わるいくつかのターニングポイントを持っていた気がする、と。
それは他の誰でもない。
放っているオーラの方向こそ違うが、ルビーの中にはその面影をどうしても見つけてしまいそうになる。JIFの時も、そうであったように。
そんな彼女が、まるで過去のアイを彷彿とさせるかのように、脱皮を遂げた。最低でも、店長は今のルビーのパフォーマンスを見ながらそう感じた。
公称十六歳の彼女だ。普段の配信においても、有馬かなと共に高校の話がスラスラと出てくることを考えれば、それは正直な申告だろう。つまり彼女は高校一年生で、ある意味思春期の真っ只中だ。
そういう、つまり多感な時期の少女のことだから、精神における成長というのは時に唐突にやって来うる。そのことを、当然に理屈では理解している。
ステージの上で笑顔を絶やさずに歌い踊るルビーの姿に、店長は無意識のうちに、そして他の店員二人にしても、「POP IN 2」のMVのことを重ねていた。
あの動画の中で彼女が見せていた眼差しは、今までのルビーがファンの前で振舞っていた無邪気さを帯びたキャラクター付けとはまるで異なっていた。と言うより、正反対に近かったかもしれない。
ともすればネガティブささえも読み取ってしまいそうに深く、ダークで、それ故に心を惹きつけるような表情で、そして振る舞いだった。秘密が、ミステリアスさが女を着飾るというのであれば、かのMVの中のルビーが見せていた強烈な「引力」は、あるいはそういう類のものであるのかもしれない。
ただ、それは彼女の「今」を表しているわけではない。今このライブ会場で見るルビーの存在からは、あのミステリアスでシリアスな雰囲気とは全く別の何かが感じ取れた。並みいるファンたちに、そして当然に店長にもである。
「みんなー! 今日でライブ三回目だけど、やっと私たちだけのライブができたよー! みんなの応援のおかげ! すっごく嬉しー!」
オープニングの「Say What?」から立て続けに先代B小町のリアレンジナンバーを二曲ほど、ぶっ続けで三曲を歌い切ったルビーが、少し上がっている息遣いをそのままに呼びかけてくる。
雄叫びのようなレスポンスを受けて、彼女は弾けるように笑った。
「今日は、みんなに新曲を、三曲持ってきてまーす! 最初に歌った『Say What?』、どうだったー?」
問いかけられたそれに、全員がペンライトを全力で振りながら賞賛の言葉を口々に叫ぶ。それを受けて、ステージの上のルビーが方々に両手を大きく振った。
「ありがとー! じゃあ、ここからもアゲてくよー! みんな、ついてきてねー!」
無垢とも言えるほどの「好き」を前面に押し出しながら、そんなファンとの掛け合いを続けるルビーという少女は、ファンに向けている気持ちという意味では、きっとずっと変わっていない。
誰よりも直向で、誰よりも眩しい。誰に対しても、「喜び」と「楽しさ」を、振り撒こうとしている。
それでも、分かるのだ。
前にもまして強い、何か「意思」のようなものが、今のルビーからは見えている。「言いたいことが」、「伝えたいことがある」と、彼女の態度が告げている。
「じゃあ次の曲行きますっ! また前のB小町の曲です! あんまり有名じゃないけど、でも私の大好きな曲!」
腕を掲げ、指を立てて、天へと向ける。ルビーの声が、ライブハウスの全てに響き渡った。
「今日ここに集まってくれたみんなのこと、私は『推し』たい! 『私の推しはみんなだ』って、私も言いたい! 『私の推しは最高だから』って!」
ぱちりと、片目を瞑る。残った左目に宿る光が、一層の輝きを放つ。
「だから、聞いてください! 『推しに願いを』!」
そのコールと同時に流れ出したアップテンポな音楽に合わせるようにして、彼女たちの歌が、そしてパフォーマンスが、再び始まった。
場が、共鳴してゆく。揺さぶられていた。誰も彼もが。
歌それ自体は、多少のリアレンジこそかけられているものの、正直なところいかにも先代のB小町の初期特有の垢抜けなさがそのままになっているものだ。今改めて聞けば、どこか気恥ずかしささえも覚えてしまうような、未成熟で未完成の代物とも言えるのだろう。
しかし今彼女たちがその音に乗せて放つ歌声も、その姿にも、どうしても目を、心を奪われてしまう。
かつて十二歳という幼さであったアイは、この『推しに願いを』という歌に、それこそ一つの願いを込めていた。
ファンの中でも、どれほどの人がそれを憶えているかは分からない。なにせこれは、B小町初期の非常にマイナーな歌だ。まだ彼女たちが地下アイドルから一歩外に出たかどうかの頃の、知名度の低いころの歌だからだ。
未だインターネットによる配信もなかったころのことで、彼女たちが作り上げたMVが世に広く出回るなどということも、等しくありはしなかった。
でも、否、むしろ
――みんなに、「ありがとう」を。みんなに、「頑張れ」を。
――私の存在が、見知らぬ誰かを元気にさせることができたなら、それは私にとって何より幸福なことだから。
言葉にするのは、あまりに野暮だ。口にしないことで、伝わる何かだってある。
それ故に、この場の誰もが理解した。
かつてアイが抱いたであろう志を、その寸毫も欠けることなく彼女は引き継いでいるのだ、と。
だから今あのステージの上の少女たちは、そして中央に立つ、陽光を編み込んだような髪色の女の子は、その全てを歌にして、ダンスにして、この場の遍く人々に伝えようとしていた。
そしてそれは、確かにこの空間の全てを満たした。振られるペンライトとサイリウムの光、ファンから返される合いの手が競い合うように上げてゆくボルテージの中で、アイドルショップの店長の男は、いよいよ確信した。
「彼女たちは、新生B小町は、かつてのB小町と比べても引けを取らない、伝説に比肩する存在になる」、と。
いや、それだけではない。もしかすれば彼女たちは、そんなアイのB小町さえも超越する、『唯一無二』にさえもなり得るのかもしれない、と。
そんな強い予感と共に、新生B小町ファーストワンマンは、よりこのライブハウスを興奮の坩堝へと変えていった。
二時間半にわたって続いた
日の入り、宵の時から始まったそれの終わった今は既に夜も遅く、辺りはすっかりと暗くなって久しい。
この眠らない街において、文明の光の織りなす極彩色の世界を望みながら、ルビーは帰路の中にいた。
隣に座っているのは、アクアだ。壱護社長の運転するワンボックスカーの中で、ルビーとアクアは二人だけの空間を作っていた。
達成感に満足感、そして僅かばかりの倦怠感が身体を支配する。そんなルビーのことを見て、アクアが口を開いた。
「どうだった」
主語も目的語も抜けた、シンプルに過ぎる問いだ。しかし、ルビーにとってはそれで十分でもあった。
「うん。楽しかったよ、ホント」
まずは、そんな率直なところを言葉にする。
嘘偽りなく、そうだった。半年ぶりにファンのみんなと同じ場所で過ごした時間は、ルビーの心の中の「渇いていた部分」を確かに潤してくれた。
しかし、それだけではない。あの日、アクアと二人で抹茶フラペチーノを手に話した時のことを思い浮かべながら、ルビーは続きを口にした。
「……やっぱり、『いいな』って思った。やりたいことやれるのって」
この場所にはアイもいるし、MEMちょもかなもいる。言葉の裏に潜ませる真意を、表に直接口に出すことはできない。
それでも、アクアはきっと全部を読み取った。
「そうか。『答え』、見つかったんだな」
「どうだろ。でも、『やりたいこと』ははっきりした気がするよ」
分け合ったコンテキストの上を、それのみでは意味を持たない言葉が滑ってゆく。
ルビーは、目を瞑った。そして窓の外を見ていた顔をアクアの方へと向けて、覗き込むように目を開いた。
「お兄ちゃんは? ちゃんと、見てくれた?」
アクアが、苦笑交じりに口元を歪める。
「当然だろ。ってか、目だって合っただろ、俺と」
「そうだね。でも、そういうことじゃなくて」
しかし尚も続けたそれに、彼は徐に瞼を閉じた。つい先ほどのルビーと同じように、しかし左の手の指先を、軽く眉間に当てた。まるで、
小さな吐息の音をルビーの耳が拾って、アクアはまた小さく笑った。
「ああ。しっかり、見たよ。今日のこと
ぼそりと呟かれた声は、まるでルビーだけに聞かせるかの如く柔らかく小さく、しかしそれだけで、今のルビーにはあまりに十分だった。
口元にどうしても浮かんでしまう笑みを押し留めることもせずに、ルビーはまた自らの視線を窓の方へと遣った。今このままアクアの方を見続けていたら、自制すらも利かずに抱き着いてしまいそうだったから。
窓の外を流れる街の灯りを、そしてそこに透き通るように映る自らの顔を眺めて、ルビーは今ひとたび目を閉じる。
――今日、きっと私は世界で一番の幸せ者だ。
そう強く信じて、だからこそ考えた。
そんな幸せを、この先もずっと噛みしめていたい。手放したくない。この距離で、ルビーの隣に立って、ルビーと同じ速度でここまで歩いてきてくれた、
であるのならば、そんな自分が彼のためにできることは、彼の『本当の望み』を叶えるためにルビーのすべきことは、何か。その姿も、ルビーの視界の中にぼんやりと形になって現れてきたような、そんな気がした。
この日、その何かがまた一つ、ルビーの中に確かな決心となって刻まれた。