天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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4-5. あなたを死地には行かせない

 年度が変わる。アクアは無事高校二年生に進級を果たし、新たな環境で次なる一年を過ごすことになる。

 しかし、今のアクアにとってその実感はあまり強くない。そんなものよりもなお大きな状況の変化に、アクアは直面しているからだった。

 

 三月に入ってから少しずつ忙しくなり始めたアクアは、それでも仕事の合間を縫うようにして、定期的にあかねと会う機会を設けていた。

 無論、全くもって色気のある話ではない。いよいよ本格的に本丸に近づきつつある『アクアの父親』のことで、これから何をすべきかの戦略を練ることが、その主たる目的だった。

 

 この「定期的な相談の場」は、基本的にはあかねの方から持ち掛けられているものだ。アクアの方からではない。

 主客の逆転が起こっている理由は、アクア自身の心境の変化にあった。

 

 最近、実のところアクアは、自らの父親捜しのことについて一つの考えを持つようになってきていた。すなわち、「これ以上あかねを関わらせてもよいことはないのではないか」という、確信にも近い疑念だ。

 自らの父親であることがほぼ確実な人物――「カミキヒカル」なる男のことを見つけ出した今、彼女の力がなければ進められないことは、もうすでになくなりつつある。もっと正確を期すならば、そんな彼に対して「どうアプローチをすべきか」を考え出すことなど、かの男に対して直接の因縁があるアクア自身がやって然るべきであるし、また実行に移すのもそうでなければならないのだ。

 「これ以上あかねの手を煩わせるわけにもいかない」、「これ以上のことはアクアが一人で進めるべきだ」と思うのは、当然のことだとさえ言えるだろう。

 

 しかし、あかねは違うと云う。曰く、「君をそのままにしておくと何をやり始めるかわからないから、手綱を握っておかないと」、ということらしい。

 言えるはずもないが、前世でアラサーやっていた人間を捕まえて酷い言いようである。ただ確かに、アクアは正直なところこればかりは彼女にそう思われても文句を言えない立場にいた。

 高千穂で彼女に見せたあの醜態のこともそうだし、そもそもアクア自身、アイと、そしてルビーの未来のことを考えたときに、あまり手段を選り好みしている余裕はないという意識は、はっきり言って今も強く持っている。そういう部分があかねに見透かされている、危ういものに映っているのだとすれば、彼女の諫言の類は甘んじて受けねばならないものなのだろう。

 

 故に、アクアは「義理を通す」ことにしていた。最終的に直接動くのが自分自身であるとしても、アクアが何をしようとしているのか、あるいは何をすべきかについては、前もって共有することを決めた。アクアがあかねからのその提案を受け入れているのは、そういう意識からくるものであった。

 斯くしてその日、新年度の始業式の日も、半ドンで上がることになったアクアと、そして学校こそ違えど同じように午前で放課となっているあかねは、また例によって二人で落ち合っていた。

 

 

 

 アクアとあかねとの間で、このカラオケボックスのブースの中での「密会」はここ最近ほとんど習慣と化している。ただこの日に限っては、二人はすぐに「本題」には入らなかった。

 それとは別件の話題があったからだ。アクアというより、あかねにである。

 

 ブースについてワンドリンクを頼むなり、最近すっかり外出の時の馴染みの装備になっている大きめのレンズの眼鏡を外しながら、あかねが笑顔を見せた。

 

「よかったよね、B小町のライブ」

 

 開口一番の台詞がこれだ。言うまでもなく、それは先週あったルビーたち新生B小町のファーストワンマンのことだった。

 

「ほんと、アイドルの話とか私全然知らなくてさ。JIFが初めてだったから何て言っていいのか分からないけど、でもこないだのライブがすごいってことは分かったよ」

 

 胸の前に手を合わせて、あかねはアクアを見る。

 

「かなちゃんがすごく可愛くなってたし、ルビーちゃんもメムちゃんもいつもの二人とは全然違ってて。なんていうか、圧倒された」

 

 そしてそんな、どこか原始的とさえ思わせるような感想を、あかねは敢えて口にしていた。

 

 これは先週の時点ですでに聞いていたことだが、あかねはあのB小町のファーストワンマンライブにどうやら一般枠でチケット応募していたらしい。そして結構な豪運を発揮して無事にそのチケットを射止めた彼女は、当日何食わぬ顔で一般の立見ブースにいて、ライブを見ていたのだという。

 自らと同じく、最近頓に忙しくなりつつあるあかねのことを思ってライブには敢えて誘いをかけなかったアクアだが、しかしもしそうだというのであれば関係者枠を用意することは全くやぶさかではなかった。

 だからその話が出たときに、当然にアクアは「言ってくれれば関係者枠のチケットを用意できたのに」と彼女に伝えはしたのだが、対してあかねから返ってきたメッセージに、何とも可笑しさを感じずにはいられなかった。

 

 ――アクアくんの近くからライブ見たら、かなちゃんにバレちゃうでしょ。

 

 その意味するところを何となく察したアクアは、それ以上の追及をやめた。

 あかねとかなの二人の関係は、斯くも複雑だ。いつかそういう(しがらみ)のない関係に昇華することはあるのやもしれないが、いずれにせよ先は長そうである。

 

 ただ、何にせよそういう形でB小町のファーストワンマンライブをしっかりと現地でその目に収めたあかねから見ても、あのライブは随分素晴らしいものに映っていたらしい。

 当日のライブ後、いくらか経った真夜中に送られてきたチャットの中でも、あかねはあの日のB小町のパフォーマンスのことを手放しに誉めていた。「凄かった」、「前見たときより、もっとずっとキラキラしてたし、洗練されてた」、と。

 

 そのあたりのことを思い出して、アクアの口はひとりでに開いていた。

 

「そうだな。けど、その話チャットの方でも散々やらなかったか?」

「そうだけど! でも、文字だけで言うのと直接会って言うのは全然違うじゃん」

 

 口を尖らせながら指を立てて、あかねは反駁してくる。

 思わず、小さく笑っていた。これではどっちがドルオタか分かったものではない。いや、彼女にそれを直接言えば「私はかなちゃんのことが気になっただけ」だの、「ルビーちゃんとかメムちゃんとか、友達の応援をしてるだけだよ」などと、それこそ以前のアクアの、というよりも吾郎のような言い訳を重ねて言い立ててくるに違いない。

 そう考えると、かつての自分も客観的に見れば単なる「B小町の厄介オタ」に過ぎなかったのだろうと、人の振りを見て気づかされるものがあった。

 

「もー。アクアくんちょっと意地悪じゃない?」

 

 そんなアクアの態度にか、あかねが分かりやすく頬を膨らませて抗議の意思を示してくる。

 可愛らしいは可愛らしいが、歳に不相応な幼さすら感じさせる振る舞いだ。まあ、彼女がこういう子どもっぽさの残る感情表現をするのは今に始まったことではないのだが。

 どこか微笑ましくもそれを眺めながら、アクアは首を縦に振った。

 

「ごめんごめん。いやまあ、確かにそうだ。けど、だったらアイツらの方に直接言いたいんじゃないのか?」

「それは、まあそうだけど。でも、事務所違うからみんなに会う機会なんて全然ないし……」

 

 しかしそんなアクアの問いを受けて、あかねは途端に萎んた声で顔を伏せる。

 らしくもない態度だ、と一瞬思って、しかしすぐに「そうではなかったな」とアクアは思い直した。

 

 今ガチの時のことを思えば、彼女の生来の性質というのはどちらかと言えば引っ込み思案で遠慮がちなのだ。

 であるのならば、押しの強さと意思の強さ、そして怜悧ささえも時に感じるような、最近のアクアに対する彼女の振舞いの方がよほどあかねらしくないと言うべきなのだろう。

 

 そうさせてしまったのは、紛れもなくアクア自身ではある。こうして彼女を付き合わせていることにしてもだ。

 あかねはそれを悔いないとは言うが、それでもアクアの存在が彼女に対して不可逆な影響を与えてしまったことには、変わりはない。

 

 そのことを思ってだろうか、アクアの口はまた自然に動いていた。

 

「だったら、今日これ終わったらあかね、苺プロの事務所来るか? 多分アイツら今日は事務所いるはずだぞ、俺と同じで始業式で半ドンだし」

 

 伏せられていたあかねの顔が、はたと上げられる。目を瞬かせながら、アクアを見た。

 

「いいの? 私部外者だよ?」

「まあそうだけどさ、つったってあかねは半分身内みたいなもんだろ。そりゃ社外秘扱ってるエリアには入れられないけど、でもどうせアイツら応接んとこで自分たちのファーストワンマン振り返ってるぐらいだろうから、そこなら別に」

 

 「半分身内のようなもの」。そう言ったあたりで、あかねの肩が分かりやすく跳ねる。

 その意味するところが何であるかは、アクアは多少なりとも察することができた。

 しかし、それを口にするのも態度に出すのも、きっと野暮というものだろう。アクアはそこに何も反応することなく、何でもないようにそう言い切ってみせた。

 

「そっか。……じゃあ、そうさせてもらおうかな」

 

 故にそう、アクアの提案に対して一つ頷いてあかねが答えたことで、この話題についてはひとまずの決着を見ることになった。

 

 

 

 その辺りで、頼んでいたワンドリンクが運ばれてくる。つまりそこからは、店員のような「部外者」による邪魔が入らないということだ。

 ある意味、「頃合い」である。故にアクアとあかねは互いに居住まいを正しながらその空気を真剣なものへと変え、そしてこちらもいつも通り、あかねは持ち込んだ自身のラップトップをテーブルの上で開いた。

 

「じゃあ、そろそろ『こっち』の話をしよっか」

 

 とんとん、とディスプレイを指で叩きつつもそんな風に前置いて、あかねはいよいよアクアに話を持ち掛けた。

 

 

 

「アクアくんは、この『カミキヒカル』と君自身の血縁関係をどうやって証明しようとしてるの?」

 

 問いかけに促されるように、アクアはあかねの前で煌々とした光を放つディスプレイへと目を向ける。

 彼女がラップトップの上で開いているファイルには、動画から切り出した「カミキヒカル」の幾つかのカットに加えて、劇団ララライの内部から聞き出した彼の情報がまとめ上げられている。

 その文書は、アクアもまたあかねから受け取っていた。そこに書かれている「カミキヒカル」の来歴に関しては、そのうちのいくつかが現在における彼の社会的立ち位置に繋がっている情報だった。

 

「まあ、正攻法しかない、んだろうな」

 

 彼女と肩を並べるようにしてラップトップのディスプレイを覗きこみつつ、アクアは端的に答える。

 そこに書かれている内容に曰く、彼は今どうやら幾つかの会社を立ち上げて、その取締役という立場になっているらしい。

 

 書かれている名前は、二つだ。

 一つは「株式会社神木プロダクション」。そしてもう一つが「株式会社メディアEYES」である。

 インターネット上の情報を見る限りにおいては、その両者の間に事業承継の関係があるわけではない。資本関係も両方の代表取締役にカミキヒカルがいるという以外に、特段のものはない。

 IR情報に曰く、一つは名前の通りの芸能プロダクション、そしてもう一つは小規模な広告代理店業だという。芸能関係という共通点こそあるが、その二つの業務内容に関連性がまるで見られない。

 初めから色眼鏡で見ているという自覚こそあったが、その分を差し引いてもなお、そこにある種の怪体さを覚える自分を、アクアは止められなかった。

 

「姫川さんにやったみたいなこと?」

「まあ、そうだな。ただ」

 

 あかねにそれを問われて、アクアは一瞬目を瞑ってから顔を横に向ける。

 その先で真剣なまなざしを伴ってアクアのことを見ている彼女に、アクアは些か以上の言いづらさを抱えるそれを、伝えなければならなかった。

 

「正面切って試料をもらえるわけがない。貰おうとも思わない。だから秘密裏に接触して、『掠めとってくる』ことになる、と思う」

 

 端的に言って、これは九割犯罪だ。人間の遺伝子情報はこの国において個人情報保護法における保護対象となっている。

 故にそれを勝手に窃取してDNA鑑定にかける行いは、正面から法令に反しているのだ。

 相手が、すなわちこの場合カミキヒカルがその気になれば、損害賠償請求の対象となることは避け得ない。いや、たとえそれを脇においたとしても、道義的に許される行いでないのは明白だ。

 

「……やめた方がいいとは、思ってるんだけどな。ただこれ以上に、まともに俺と『カミキヒカル』の血縁関係を客観的に証明してくれるものが、見つからない」

 

 またも瞑目しながら、吐息交じりにそう口にしたアクアを見てか、どこかおずおずとした様子の声が、あかねから掛かった。

 

「アクアくん。その『証拠』、結局『アイさんと話をするために必要』って、言ってたよね」

 

 目を開ける。少し伏せ気味にしていた頭を上げて、正面を見た。その先にいるあかねは、どこかこちらを案じるような表情でアクアに正対していた。

 カラオケの薄暗い照明と、そして脇から照らしてくるラップトップの煌々とした灯りが作り出す陰影が、あかねの表情をより険しいものに見せていた。

 

「アイさんと話をするのに、そんなガチガチの証拠が必要? 姫川さんとアクアくんの話とかすれば、アイさんも納得してくれるんじゃないかなって、思うけど」

 

 なるほど、一理はあるのかもしれない。しかしアクアはそれに首を横に振った。

 

「無理、だと思う」

「どうして?」

 

 一度息を入れて、ディスプレイ上のカミキヒカルの画像へと視線を向ける。画質の粗い、しかしそれでもよくわかる、自分とよく似た姿をした男の姿を見た。

 

「だって、そうだろ。母さんはそもそも、俺がこういうことをするのを止めようとしたんだ」

 

 つまりそれは、アクアが父親のことについて何かを知ろうとすることそれ自体を良しとしていないことの証でもある。

 

「状況証拠程度で『カミキヒカル』の話をしたところで、白を切られるに決まってる」

 

 「違うか」、と、そんな意味を込めてもう一度あかねの方に目を向ける。

 彼女の方も彼女の方で、アクアと同じように、ラップトップの画面を見ていた。だからアクアからは目線が切られていて、しかし自らの方を向いたアクアの気配を察したか、身体ごと向き直るように、隣を見た。また、視線が合った。

 

「アイさんは認めないって、アクアくんは思ってるんだ」

「そうだな。決定的な何かを掴まない限り、母さんは俺の言うことに耳を貸す気はないだろうって思ってる」

「そっか」

 

 小さく目を伏せて、息を吐く音が聞こえた。正面のあかねからだ。

 

「確かに、そうかもしれないね。……私がアイさんの立場でも、そうするかもって思うから」

「それは……何より強力な傍証だな」

 

 苦笑交じりにそう言えば、あかねの方からも類似した、クスリとした音が漏れる。

 あの時何の気なしに提案した「役作り」がこんな因果に巡ってくるとは皮肉なものと言うよりなく、これもまた必然のなせる業なのかもしれないとさえ、思わされていた。

 

 しかし、それは束の間のことだった。

 あかねの顔の上に微かに浮かんでいた笑みが、ふと消える。伏せていた顔は起こされ、もう一度その焦点がアクアの上に結ばれた。

 

「アクアくんはさ」

 

 そして、あかねが声を上げた。

 見えた表情は、真剣そのものだった。声色も、また等しかった。

 

「じゃあ、アイさんとお話をして、それで何をするつもりなの?」

 

 真っすぐに問いかけられたそれは、今日のどの問いかけよりも真剣そのものだった。

 「言い逃れは許さない」と、「嘘は絶対に許さない」と、態度が言っていた。

 

 

 

 「何をするつもりか」とは、つまりカミキヒカルという存在をどうしたいのか、という問いと等しい。

 無論、アクアのこれまでの推論が正しくなく、アクアとカミキヒカルの間に血縁関係がなかったと示される可能性もありはするが、そこについては考えないようにしての話だ。

 そしてそれに対する答えは、アクアの中に既に存在していた。

 

「母さんが何を言うかによるけど。……でも俺は、一度は会わなきゃいけないんだろうなって、思ってる」

 

 息を呑む音が聞こえた。同時に、正面のあかねの視線が険しさを増した。

 

「それがどういうことか、分かって言ってるよね」

「……ああ」

 

 目を逸らさずに、アクアは答えた。今更嘘を吐く必要もないし、ここで誤魔化しても仕方がない。

 眼前で、あかねが目を閉じた。そのまま、唇がもう一度開かれる。

 

「アイさんが、許すと思う?」

「そのままじゃ当然許さないだろうな。最低でも、何の工夫も用意もしないで思いつきだけで単身で突撃するようなことは、絶対に認めないだろう、母さんも」

「当たり前でしょ」

 

 苛立ちすら滲んだ声が、アクアの言葉に被せられた。彼女は決して直接そうは言わないだろうが、「何バカなこと言ってるの」という含みがありありと見て取れた。

 

「でも、それだったらどうするつもり?」

 

 そんな趣をそのまま、どこか圧力すら感じるような態度で、あかねは問い詰めてくる。

 

 随分と烏滸がましい話ではあるが、アクアは今のあかねのある種の強引さの裏にどういう意図があるのかを、察してはいる。

 きっと言うのも野暮なことだ。それでも、彼女のそれがアクアのことを考えての発言であり、そして態度であることだけは意識していた。自分は恵まれていると、感謝すべきだと、そう思ってもいた。

 

 しかしアクアは、今問われたあかねのそれにただ首を振らざるを得ない。

 

「……ごめん。そこはまだ決めてない」

「『決めてない』って……」

 

 今度は、「呆れた話だ」とでも思っているのだろうか。あるいは、「正気かこの男」であろうか。

 茫然とアクアの言葉を反芻した後、途端にジト目でこちらのことを睨んでくるあかねに向けて、アクアは弁明せざるを得なかった。

 

「仕方がないだろ。だってまだこいつが本当に父親だって決まったわけでもない。どういう人間かも分からなければどういう活動をしてるのかもよく知らない。考えなしに突撃するんじゃなければ、その辺りを調べなきゃ何も決めらんないだろ」

 

 些か言い訳がましくなってしまったきらいはあるが、ただそういうアクアの理屈にあかねは一定の理解を示したらしい。目線からは険が取れ、そして同時に彼女はいつぞやのようにアクアの前で腕を組んだ。

 アクアの方から少し視線を逸らし、しかしだからとてディスプレイの方に目を向けるというわけでもなく、やや伏し目がちに何もない場所へと視線を彷徨わせながら、あかねはどうやら思考を巡らせているらしい。

 時折こちらに聞こえないほどの速度と音量で、呟きを漏らしている音を拾う。小さな唇の動きもだ。

 それを前にして、アクアは暫く黙っていることにした。こうしているとき、あかねは頭の中で急速に物事を考慮している。事実を整理して、現状を把握して、今後の可能性を推量して、戦略を立てようとしている。

 全て、アクアのためにしてくれていることだ。そこには口など差し挟むべきではない。故に、アクアはただ待った。

 

 数十秒、あるいは一分と少しほどの間続いたその思惟の最後に、あかねは小さく目を瞑る。二度三度と頷いて、漸く彼女の視線がアクアの上へと戻ってきた。

 もう一度、小さく首を縦に振って、組んでいた腕を解く。そして開いた唇と共に、小さな息を吸う音をアクアは聞いた。

 

「確かに、そうだね。そうしたら、順番はどうする? 先に血縁関係をはっきりさせるか、『カミキヒカル』の現状把握と人物像の洗い出しを優先するか」

「難しいところだな。先に血縁関係をはっきりさせられるなら、調査が無駄骨になる可能性を消せる。けど、彼の動向がわからないことには、そもそも接触のしようもないわけで」

「私もそう思う。だから、先にもうちょっと『カミキヒカル』のことを調べた方がいいかなって」

 

 アクアとあかねは、共に現状の課題について同じ認識を持っている。

 『カミキヒカル』について一定程度の情報を手に入れた今であっても、実際にこれより先に動くとなるともう少し詳細な調査が前提となるであろうということだ。

 

「そう、なんだろうな」

 

 ただ、そこには大きな問題が横たわっている。調査自体にも、そしてその先にある、『DNA試料を回収するためのカミキヒカルへの接触』に関してもだ。

 そのことを、アクアは提起せざるを得なかった。

 

「――でも、どうやって?」

 

 それは果たして、自分自身への問いかけか、それともあかねに言おうとしたのか。

 いずれにせよ、アクアは訊かねばならなかった。どうやってこれ以上踏み込んだ調査をするのか。そしてカミキヒカルに接触するのか。

 ラップトップの方へと逸らされていたあかねの顔が、それを聞いてもう一度アクアへと向けられた。

 

「あかね。前も言ったけど、君に『それ』はさせられない。これは絶対だ」

 

 アクアから発される声には、必要以上とさえ言えるほどに力が籠っている。そう、自覚していた。

 

「ララライの中だけで仕入れられる情報以上のものを、君に調べてもらうわけにはいかない。カミキヒカルにダイレクトに接触しに行くなんて論外だ」

 

 アクアが言ったのは、当然の配慮だ。以前、高千穂の夜の中で彼女に言った通りのことだった。

 信じるにせよ頼るにせよ、それだからとてあかねに不要なリスクを背負わせるわけにはいかないのだ。

 何となればこれはどこまで行っても星野アクア個人の、あるいは星野家の中の問題だし、故にこそ他人を自分の事情のために危険に晒すなど許されるわけがないのだから。

 

「そう、だね。それは、前にも聞いた」

 

 あかねは、静かに目を瞑る。以前同じことをアクアが言ったあの日のことを、思い出しているのだろうか。

 小さく、首が横に振られる。唇が開いた。

 

「けど、もうそういうことを言ってられる場合でもないんじゃないのかな。アクアくんの目的のためには」

「ダメだ」

 

 出てきた言葉を、アクアは断ち切るが如くに遮っていた。固い、冷たい声だった。

 

「なんで?」

 

 目が開く。顔が上がる。碧玉の双眸が、覗いた。

 冷厳とも言うべき眼差しだった。情感が、湧き上がっていた。

 

 その衝動の赴くままに、アクアは答えた。

 

「『明日』を生きるべき人間だからだ、君は。未来が、あるじゃないか」

 

 そうだとも。たとえ目を瞑らなくとも、アクアは全てを克明に思い出せる。

 

 高千穂の旅の中、アクアの隣を歩いていたあかねが浮かべていた穏やかな笑顔を。ルビーと、MEMちょと、あるいはかなと交わしていた無邪気な表情を。

 何回か積み重ねた「デート」の中で、彼女がその無垢な語り口で聞かせてきた将来のことを。家族との温かな思い出話を。

 「東ブレ」の舞台に真剣に打ち込む横顔を、立ち姿を。夢を目指し、努力して、歩みを止めない、透き通った生き様を。

 

「『諦めたくない』って言ったのは、君じゃないか。憶えてるんだぞ、俺は。全部」

 

 その全ては、決して喪われてはならぬものだ。毀してしまってはいけないものだ。

 黒川あかねは、黒川あかねの生を、悔いることなく生きるべきなのだ。その邪魔を、してはならない。

 

 人生をやり直し、許されるはずのない『二度目』を過ごしているアクアに、そんなことをしていい理由は一つもないのだから。

 

「そっか」

 

 言葉を切ったアクアを前にして、あかねが暫し俯く。はらりと垂れ下がった艶めく黒髪に表情は遮られ、見ることは叶わなくなった。

 その向こう側で、そんな小さな声がした。そして、顔が上がる。

 

「けど、それはアクアくんだって同じでしょ。君は、私の一個下なんだよ」

 

 わずかに、あかねが身を寄せる。彼女の手が、アクアの脚に触れそうになっていた。

 静かで平らかで、しかし裏に芯の入った声だった。それでも、アクアは首を振る。

 

「いいんだよ、俺は」

「『いいんだよ』って……」

 

 ほとんど反射的になのだろう、反論の声を上げようとしたあかねと、目を合わせる。

 目に、声に、力を入れた。あかねが、小さく息を呑んだ。

 

「だって、これは俺がやらなくちゃいけないことなんだ。最後に決着をつけるのは、俺じゃなくちゃいけないから」

 

 アクアが胸中に抱えている本当のことを、あかねに話すわけにはいかない。黒川あかねという少女と、星野アクアという人間の間に横たわる交わることのない『差異』は、内に眠る雨宮吾郎という名の亡霊の存在は、断じて知られてはならないからだ。

 だから、それを「義務感」という名の理屈で糊塗する。それもまた、決して内心において嘘ではない故に。

 

「助けてくれるのは、本当にありがたいことだけど。でも、それだけは俺がやるべきことだ。他の誰にも、任せちゃいけないものだから」

 

 納得に値する理屈だと、思っていた。

 結局どこまで行っても、誰の手を借りようと、どれほどまでに手段を尽くそうと、最終的にアクアは己の決断のもと、自らの父親と直接対峙せねばならない。

 その時は、いつか必ずやってくる。逃れることはできない。そう、ずっと考えていた。

 

 

 

 しかし――それを言った途端、あかねの纏う空気が変わった。

 ぞわり、と鳥肌さえ立った気がした。彼女の目つきも、俄かに険しくなった。

 

「で? だからアクアくんが自分で調べに行くつもり? 今までまとめた資料があるからってさ」

 

 声までもが、一段と低くなっていた。

 

 

 

「ダメだよそんなの。アクアくん、今さっき自分で言ったよね? 『準備なしに単身で突撃するなんてありえない』って」

 

 威圧するような台詞だった。近くの距離から見上げるようなジロリとした眼差しが、アクアに叩きつけられていた。

 

「同じことでしょ、これ。どうせアクアくんのことだから、『変装するから』とか何とか言うつもりだろうけど、でも君が危ないことには変わりないよ。()()()()()()()()()()()()()()

 

 頑なな態度で、言葉だ。しかし確かに、彼女の言葉には一理も二理もあった。

 アクアとて、そのことは理解している。カミキヒカルと接触することが、到底無視できないリスクであるということも。当然だ。だからあかねには任せられないと考えているのだから。

 ただいずれにせよ、これはアクアにとって決して逃れられぬ「責務」なのだ。乗り越えなければ、決して先には進めない。ずっと内心で考えている通りに。

 

 だからアクアは反論する。あかねの鋭い目線を受け止めて、打ち返そうとした。

 

「けど、仕方ないだろ。君に任せるわけにはいかないんだって」

「でも、それはダメ。それだけはダメだよ。もし君がそういう無謀なことしようとするなら、私アイさんに言いつけるからね」

 

 しかしそこにあかねが投げ返してきたのは、そんな紛れもない『脅迫の台詞』だった。

 

 

 

 ぐ、と喉の奥から響くような音がした。言うまでもなく、アクア自身によるものだった。

 「裏切るのか」。そう言おうとした自分は、何とか強引に押さえつけた。

 

 それは、そればかりは絶対に言ってはならない。そういうことではない。流石にそれは、分かっている。

 しかし一瞬だけ頭をもたげた憤りは、どうやら表情に出てしまっていたらしい。形相も声色も全く変えることなく、あかねは更に言葉を重ねた。

 

「怒るのも分かるよ。でもダメなものはダメ。これに関しては私とアイさんは同じ」

 

 そう言うが早いか、あかねは更に身を乗り出して、そして意を決したかのような表情で、アクアの膝に手を置いてきた。

 冬場故の厚手の布のズボン越しに、それでも伝うあかねの掌の熱を感じて、一瞬だけ肩が震える。

 

「自分のことを粗末にして、それで喜ぶ人が君の周りにいると思う? ルビーちゃんもアイさんも。メムちゃんもかなちゃんもそうだよ?」

 

 じっと、瞳の中さえも覗きこまれている。程近くに寄ってきたあかねの端正な相貌は、それ故に不思議なほどの圧をアクアに覚えさせた。

 

「それは……分かってる」

「『頭では』、でしょ」

 

 その力に半ば負けるように、少しだけ視線を逸らしたアクアに、しかしあかねは全く容赦をする気はないらしい。自分でもわかる力のない反論を間髪入れずに斬り捨てて、膝の上にあった手の温もりが消える。

 音もなく、ゆるりと動く。視界の外、アクアの肩に、消えたはずの圧力を覚えた。

 

 ――あかねの手が、肩に添えられている。

 気づいたそれに、弾かれるようにアクアはあかねに視線を戻そうとして、しかし一歩早く、彼女の腕がアクアの背中に回った。

 

 

 

 果実の香りが、鼻腔を満たす。意識が空白を生んだ。

 アクアは、あかねに抱き寄せられていた。

 

 

 

「あかね――」

「アクアくん」

 

 呼びかけようとした声すらも押しのけるように、言葉が重ねられる。

 

「君が私のことを大事にしてくれるのは、すごく嬉しい。危ないことはさせられないって思ってるのも、だからとってもよく分かってる。だけど」

 

 ぎゅっと、腕の力が強まった。

 

「私だってそうだよ。君を危ない目に遭わせるために、私は君に協力してるわけじゃない」

 

 じんわりと伝わる熱を、どうしても認識させられる。そして、その柔らかささえ。

 耳元で、声が続く。囁くような、どこか湿って、それでも明白な意思を思わせる声が。

 

「言ったでしょ、『一人にさせない』って。だから、私は君を『そんな場所』には行かせない。最後の手段でも何でも、絶対」

 

 情動の昂りだろうか、言葉と共に、アクアを抱きしめる力が更に強められた。わずかな息苦しささえ感じるほどに、アクアの身体はあかねの腕に締めつけられている。

 その物理的な圧力が、そして彼女の発した台詞が、アクアの胸中に深く深く突き刺さっていた。

 

 

 

 耐えきれなくなって、アクアは目を瞑る。あかねの背に腕を回すことすらできず、手は固く握られていた。

 分かってはいるのだ。自分の身に望まれていることが何であるかなど。それについては、改めてあかねに言われるまでもない。

 しかし、そうであっても、アクアには優先しなければならないことがある。何を措いても、成し遂げなければならないことが。

 

 ――使命を果たすこと。「母と妹を守る」こと。

 あの日出会った「黒いドレスの少女」の言う通りに、それこそが今の星野アクアが果たすべき役割であるのだとすれば、その全部を終わらせない限り、アクアには他のことなど考えている余裕も、そして資格も存在しない。

 たとえあの日の夜、高千穂の夜に、あかねに救ってもらった今の自分であっても、それはきっと変わりない。

 星野アクアとしての自らの生が、「二度目の人生」などと言う決定的なズルが、こんな自分に許されている理由など、他にありはしないのだ。

 

 いや、違う。それだけではない。

 思い返すまでもなく、アクアは今あかねに対して途方もない恩を抱えている。そしてきっと、それはアクアが全てにケリをつけるまで続くだろう。

 恩も借りも増える一方で、ならばアクアはいつの日か、その全てをあかねに返さなければならない。それもまた、今の自分の果たすべき「役割」であると、アクアは自覚している。

 

 ならば、それほどに確固たる「役目」を負って、「使命」の只中にいるアクアに、それを放り出して己のことばかりを先んじて考えるなど、許されるはずがあろうか。

 愚問だ。考えるまでもない。優先順位を履き違える愚を犯すつもりなど、アクアにはない。

 

 

 

 そうだ。そのはずなのだ。そうでなければならない。

 だと言うのに、どうしてもこうもあかねの言葉は、今のアクアの心を揺さぶるのだろう。そんなこと、烏滸がましいにもほどがあるだろうに。

 

「けど、君を代わりに行かせる選択なんてありえない。だったら、俺と君の二人しかいないってなら、俺がどうにかするのが筋だろ」

 

 アクアは、裡から湧き出す情動にどこか抵抗するように、あかねの腕の中から反発するしかなかった。

 ただ、そこには理屈の裏付けだってある。

 この「共犯関係」とさえ言える協力関係を結んでいるのは、アクアとあかねの二人の間だけだ。であるのならば、ここから「先」のことに誰がより深く関わるかにしても、固より二者択一だ。アクアか、あかねか。それ以外にはない。

 そんな理を基にすれば、結局あかねは折れざるを得ないはずなのだ。いくらかの条件を付けられるやもしれないが、最終的に出張ることになるのはアクアを措いて他にはないだろう。それは必然の帰結だ。

 

 しかしそこで、アクアの肩越しにあかねが首を振った。彼女の艶やかな黒髪が、その顔の動きに沿ってアクアの頬の上を滑っていった。

 「なんでだよ」。そう反射的に言おうとしたアクアより一歩先に、あかねから声が届いた。

 

「そんなことないよ。もう一人だけいるでしょ、アクアくんには」

 

 ゆっくりと、アクアから身体を離す。しかし肩を掴む手だけはそのままにして、もう一度あかねはアクアのことを正面からじっと見てきた。

 彼女が口にしたことを、その意味を、アクアは脳裏に反芻する。

 

 

 

 「もう一人」。アクアの事情をあかねと同じほどには知っていて、アクアの事情と無関係ではいられなくて、アクアに助力してくれそうな、人。

 そこまで考えて、気づいた。あかねが謂わんとしていることは、一体なんであるか。誰のことに、彼女は言及したのか。

 

 アクアはその「誰か」のことを、震える声で口にした。

 

「巻き込んでいいのか、あの人を。こんなことに」

 

 自分から直接に名前を言う気にはなれなかった。そんな勇気は、アクアにはなかった。

 

 だって、そうではないか。

 アクアの思う「彼」は、確かに今のアクアの事情のことを知っている。あの日、彼に自身との血縁関係を明かした時に、そのほとんど全てを包み隠さず話したからだ。

 しかし、「彼」はアクアの『それ』には無関係と言うほどではなくとも、直接的な関わりはない人間だ。いくらアクアにとって()()()()()()()()()であっても、アクアの今やろうとしていることに付き合う義理などないはずだ。

 まして「カミキヒカル」の、完全に未知なる人物のことで、アクアにもあかねにもできない何かを任せようとするなど、もっての外なのではないか。

 

 最低でも、アクアは「彼」にそんなことを頼むなど、考えようとも思わなかった。今の今まで。

 だからアクアの口にした言葉は多分に懐疑を含んでいて、それでもあかねはその問いに、真剣な表情を浮かべながら頷く。

 

「あの時言ってた話、嘘じゃないと思うよ。『困ったことがあったら言え』って。なら今の話、言わない方が寧ろ不誠実じゃないんじゃないかな」

 

 返ってきたそれに、アクアは自分とあかねの認識が合っていることを確信した。

 

 

 

「だからさ、話だけはしてみようよ、()()()()に。それで結局ダメだったら、その時もう一回しっかり考えればいいんだから、ね?」

 

 そんな決定的な「答え」とともに、あかねはアクア目掛けてふわりと微笑んだ。

 

 

 

 それが、きっとアクアにとっての、そしてあかねにとっての、ターニングポイントだった。

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