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「なるほどな。それで俺に話を持ってきたってわけか」
アクアとあかねの二人の対面に座る一人の男――姫川大輝は、アクアの語る経緯の全てを耳にしてから、いつものような気怠い調子でそう口にした。
またしても多忙な大輝のことを呼び立てするということで、今アクアたちがいるのは料理屋だ。
ただ前回と違って、ここは神楽坂にある個室制の焼肉店である。そしてそのアテンドをしたのは、アクアではなくあかねであった。
「舞台人は焼肉好きだから、任せて」などとよく分からない理屈でアクアの代わりに店の手配をした彼女は、そのあと更にしれっとこの店の費用負担についてさえも折半にしていた。
曰く、「前の中華料理、アクアくんに全部奢ってもらったの、正直ちょっと居心地が悪くて」、ということらしい。アクアからすれば、自分の用事に付き合わせているのはあかねも同じである以上、彼女がゲストの立場でいることを気にする理由は一つもないとしか思えなかったが、ただそういうところを気にしてしまうのもまた、黒川あかねらしさと言えはするのだろう。
だからという話でもないのだろうが、あかねが選んだ店の趣向は、前回に比べていくらかラフなものだった。装いについても然りだ。あかねもアクアも、そして当然に姫川大輝もである。
斯くして今、前回と同じように一通りの料理を平らげきった――そしてこれも当然にというべきか、その最中においてはもはや依怙地とも言える焼肉奉行ぶりをあかねは発揮していた――あとのこのタイミングで、アクアたちは今日の本題について彼に持ち掛けていた。
「確かに、言われてみればそうだな。結局、俺とお前の血のつながりだって
そう語る眼鏡の奥の双眸は、思慮の光を宿している。
「まあ、でもアクアの言うことも分かるわ。なんつったって手がかりがねぇからな、『カミキヒカル』。黒川、そいつがララライ辞めたあと、ララライの方に伝手が残ってるってわけじゃねぇんだよな?」
椅子に深く腰掛けて、大輝は腕を組みつつあかねに問う。対するあかねの方も、それにはすぐに答えた。
「ですね。ただ一応、ララライの方で何かあるたびに『カミキヒカル』はウチに贈り物をしてはくるみたいなんですよ、『神木プロダクション』名義で。白いバラのフラワースタンドが多いみたいですけど」
「『白い、バラ』……。なるほど、な」
組んでいた腕の片方を上げ、その指先でコツコツと額を叩く。思考にテンポをつけようとするかのような仕草だった。
続くこと数十秒ほど、大輝は腕を解く。「話が話だから」と言うことでソフトドリンクばかり頼んでいた彼が、テーブルの上に残っていた烏龍茶のジョッキをそこで一度呷った。
テーブルにそれの置かれるゴトリとした音がこの個室の中に大きく響いて、一つの吐息の後に、大輝は再び口を開いた。
「まあ、そういうことなら俺に任せろ。これでもララライの看板役者やらせてもらってるわけだし、お前らよりは色々顔も利く」
それはあまりにもあっけらかんとした返答だった。
いや、返答でさえない。確かに必要な仔細は説明していても、まだアクアは大輝に何も頼んだりなどしていないのだから。
「は? いやちょっ……ちょっと待ってくれ姫川さん」
故にアクアは半ば面食らいながらも大輝を制止しようとして、しかし彼はそれにどこまでも意外そうに返してきた。
「あ? なんだ、そういう話じゃないのか」
「いや、いやまあ……それは」
「んだよ、はっきりしねぇな」
アクアの煮え切らなさにか半ば呆れたように鼻を鳴らして、彼はあかねの方を見る。
「黒川、違うのか?」
「いえ、違いません。『カミキヒカル』の今と、これまで何をしてきたかに関して、情報を集めるのに協力してほしいと考えています」
「いや、あかね、あのな……」
勝手に話を進めようとするあかねに、アクアはたまらず抗議の声を上げる。それに反応したか、彼女がアクアの方を見た。
覗きこむ瞳が語っている。「こうでもしなくちゃ、アクアくんはいつまでも踏ん切りがつかないでしょ?」、と。
閉口した。無論、あかねの意図は分かる。そういう部分があることは否定できない。図星だと言われれば、そうではあるのだろう。
しかし、いずれにせよアクアはまだ大輝に対して全く言葉を尽くしていないのだ。
今のところ済んだのは、あくまで状況説明でしかない。アクアが考えているリスクも危機感も、大輝には何も共有できていない。
ふう、と息を吐く。大輝の方に目線を向け直した。
またぞろ烏龍茶を飲みながらアクアとあかねの無言のやり取りを眺めていた彼に、改めてアクアは口を開いた。
「……とにかく。姫川さん、言っておくけど、これはかなり危ない頼み事だと思ってる。正直なところ、俺はまだ姫川さんにこれを頼むべきなのか、迷ってるんだ」
それは、アクアにとっての正直なところだった。半ばあかねに押し出されてしまった形ではあるものの、いずれにせよ大輝がこれを「安請け合い」するのは如何にも危険なことだと、アクアは考えている。
最低でも、何の躊躇いもなくカミキヒカルへの探りを入れることを引き受けようとする彼の態度には、アクアはどうしても危ういものを覚えていた。
一方、当の大輝はといえば、アクアの忠言ともいえるその言葉にさえも、どうやらあまり態度を変えるつもりはないらしい。烏龍茶のジョッキを握る手をそのままに、ひらりと手を振るばかりだった。
「ん? ああ、まあな。分かってる分かってる」
「いや、そんな軽い話じゃ……俺が死にかかった事件にソイツが絡んでる可能性があるんだぞ」
アクアがさらに言い募るも、彼はそれにどこかおかしそうな表情さえ浮かべてみせる。アクアの方に向き直って、身を乗り出してきた。
眼鏡の中に見える彼の目には、こちらのことをからかうような色さえ見えた。
「なんだ。心配してんのか? 俺のこと」
「当たり前だろ。俺のことで他人を危険な目に遭わせるかもしれないのに」
アクアからすれば、それは全く笑い話ではない。自身の抱えている危機感がどうにも伝わっていないように感じられて、はっきり言えばアクアはもどかしささえ覚えていた。
距離の一つ詰まったその場所にいる彼へと、だからアクアは強く主張する。
それでも、大輝は首を振った。アクアがそれに口を差し挟むより前に、彼から言葉が発せられた。
「
俄かに、そして確かに、真剣味を帯びた声だった。
彼の表情が、引き締められていた。
「そりゃまあ、『カミキヒカル』が俺の本当の父親かどうかは確かにわかんねぇけど、でも血はつながってんだぞ、俺とお前は」
続くその言に宿る意味は、あまりにはっきりしている。
「弟だろ、お前は。……違うか?」
そしてその、情感さえも。
故に、彼から向けられた目線に射竦められて、アクアは動けなくなった。
「……『兄さんなんて呼ぶな』って言ったのは、姫川さんじゃないのか」
辛うじてそんな混ぜっ返しをするのが精一杯で、果たして大輝は途端に、それに笑った。声さえも上げて。
「確かに! 一本取られたな」
それでも、笑い交じりにそこまで口にするなり、また彼の佇まいは真剣さを取り戻す。
「けど、そう言うことじゃねぇぞ。俺にとって、お前は『他人』じゃねぇし、お前のソレは『他人事』じゃねぇ。分かってんだろ? 俺が何を言いたいかも」
大輝はアクアを見て、そしてあかねを見た。
敢えて両者を睥睨した彼の心中は、その狙いはなんであろうか。ただなんであれ、アクアは彼のその言葉に素知らぬふりはできない。肯くよりなかった。
アクアのそれを見て、大輝が表情を和らげる。どこか皮肉げな笑みを、口元に浮かべた。
「当然、俺だって別に死にたくもなきゃ痛い思いだってごめんだ。無理するつもりはねぇよ」
第一な、と指を立てる。
「まずお前は『カミキヒカル』に似すぎてるし、黒川は女だ。それに比べりゃ俺は男で、別にアイツに似てるわけでもねぇ。危険度に関しちゃダンチだぞ」
「それは……」
大輝の言ったことは、一理ある。間違ってもアクアから言えることではないが、大輝自身が言うならば、それに異を唱えるのは難しい。
「まあ、確かに」
「だろ? それに……」
そこに更にダメ押しを重ねるかの如くに、大輝は自らの胸を親指でもって指してみせる。
どこか得意げに、彼はニヤリと笑った。
「ヤバそうだと思えば変装すりゃいい。なんてったって俺は『ララライの看板役者』だからな」
言い切ってみせた大輝の振る舞いは、あまりに自信に満ち溢れていた。「そういうことじゃないだろう」と、「板の上の話と現実は別だろう」と言おうとして、しかしそれがあまりに野暮に感じられてしまうほどに、彼の態度は確かな説得力さえも帯びていた。
ともすれば、矜持でさえもあるのだろう。自然と、そう思わされていた。
――せっかくの『弟』の頼みだ、ならばここはひとつ腕の見せ所だろう。何せ自分は劇団ララライの看板を背負う役者で、若手ながらも演技派を極めた存在として芸能界の中に名乗りを上げているのだから。
そんな強い自負のようなものが、今の彼には見えていた。
「……そうかよ」
そうなると、もはやアクアには何も言えない。考えなしの反発は、大輝のプライドすらも傷つけそうだったからだ。
そこにアクアの諦めの意思を感じ取ったか、また彼は笑う。
「じゃ、決まりだな」
「まあ、そう……だな」
机に片肘を載せて、身を乗り出して念押しをしてきた大輝に、アクアはとうとう折れた。
「無理を承知で頼み込む」つもりでいたはずのアクアの方が、気づけばこのやり取りで「折れる」方の立場にいるというのも、随分とおかしな話ではあったけれども。
「けど」
ただ、いずれにせよアクアには言わねばならないことがあった。
姫川大輝に、伝えておきたいことがあった。
「本当に無茶はしないでくれ。あんたが『俺の兄』だって言うなら、これは『弟』としての頼みだ」
アクアから出てきた「弟」という言葉に何を思ったか、可笑しそうに細められていた大輝の目が、見開かれる。前のめりに乗り出していた背も、少しだけのけ反るように伸びた。
そんな彼のことを、アクアはじっと見据える。一つの茶化しも入れることなく、真正面に彼のことを視界に入れたまま、もう一言付け加えた。
「家族とは、また違うかもしれないけど。でも俺も、あんたのことは『他人じゃない』とは思ってるんだ。姫川さん」
言い切って、数秒の沈黙が場を支配する。大輝も、当然にあかねも、何も言うことはない。アクアもだ。
だからそれを打破したのは、結局は大輝だった。どこか呆気にとられたように、目を丸くしながらアクアの言を聞いていた彼が、俄かにその雰囲気を和らげる。肩の力が抜け、息を一つ吐いたのをアクアは見た。
「そうか」
結果として出てきたそのたった三文字には如何なる情感が込められているのか、アクアはその全てを推し量ることはできない。
少しだけ顔を俯けた大輝が、小さく首を振る。一瞬だけ目を瞑って、しかしすぐに上げられた頭と共に、瞳は真っすぐにアクアを向いた。
光を湛え、煌めいて、強い意思の力が宿った視線と共に、彼は無言で、アクアに一つ頷いた。
そしてそれが、この日の約束の全てとなった。
斯くして大輝とアクア、そしてあかねの間に『協定』は結ばれ、アクア経由で共有されたカミキヒカルの情報を基に、大輝はララライの伝手と『若手演技派俳優』としてのコネクションを生かしながら、カミキの今の動静についての情報を得ようと動き始める。
ただ当然に、その調査は簡単なものではなかった。あかねの尋常でないほどの調査力をもってしても、芸能界における十六歳以降の、すなわち劇団ララライを脱退してからのカミキヒカルの消息は掴めなかったのだから、仕方のないことではある。
ただ一応、あかねは情報収集の段階においてカミキヒカルの以降の足取りについて、手がかりを二つほど得ていた。
一つは、彼が在学していた大学において理工学部に所属していたということ。そしてもう一つは、彼が自らの会社――『神木プロダクション』を立ち上げる際に、おそらく芸能関係者の力をかなり手広く借りている、ということだ。
カミキヒカルが力を借りることのできる芸能関係者として、挙げられる候補はそこまで多くない。何せ、彼が芸能活動をしていたのは十歳から十六歳の僅か足掛け七年で、その時のカミキの年頃のことを考えれば、そんな彼が得られたであろう人脈というのはほぼ彼の所属していた劇団ララライ内部に終始すると考えるのが自然であるからだ。
もっとも、劇団ララライは芸能プロダクションとしての機能を持っているわけではない以上、彼がララライの劇団員であった時代に所属していた可能性のある芸能プロダクションのことも洗う必要はあるだろう。
ただこれについては、アクアはあまり可能性として重視していなかった。
理由は明快だ。「カミキが立ち上げたのは、芸能プロダクションの会社だ」という、その一点に尽きる。いくら元所属タレントが立ち上げようとしているものとはいえ、わざわざ競合となり得る相手のために手を貸す人間がいるとは想定しづらい。シンプルではあるが、ほぼ確実視できる理由付けであろうと、アクアは見ていた。
そう考えれば、ララライOBを含めた芸能界内部の人脈に対してアプローチのできる姫川大輝は、確かにカミキの足跡を追うには適役も適役だ。あかねがアクアに対してあれほどまでに彼のことを推してきたのも、頷けはする。
アクアと違ってカミキのことに、ひいてはアイのことに余計なバイアスがない分、物事を公平に評価できるということだろうか。あかねにしては随分と遠慮のない判断だとは思うものの、いずれにせよ事態は確かな進展を見せようとしていた。
しかし、それよりも僅かに先んじて、カミキヒカルのことについて途轍もなく大きな転機が、アクアには訪れることになる。
それは年度が替わった四月の半ば頃、高校二年生としての生活にまだギリギリ慣れていない時分のこと、とうとうやってきた『夏クールからの連ドラ』の仕事の中のことであった。
四月中旬、アクアの姿はとあるテレビ局の中にあった。キャスティングの調整が終わり、いよいよ主たる出演者が揃って準備の整った番組の――つまりアクアが出演するドラマの現場に出向くためである。
無論、クランクインそれ自体はまだ先だ。今回の現場は多少余裕を持った撮影スケジュールを組んでいるようで、撮影を始めるのは初回放送日から二カ月ほど遡った、五月の連休明け頃を見込んでいるらしい。つまり今回の集まりは、それに先行するメインキャスト陣の顔見せに加えて、本読みによる脚本の確認と、必要に応じた修正点の洗い出しのための場というべき代物であった。
今回のドラマは、およそ二十五年前に刊行されたとあるミステリ小説を原作としたものである。大衆ミステリ作家の大家であるその彼の作品はいくつかが既にドラマ化、あるいは映画化されていて、そしてそのほとんど全てが成功を収めている。売れっ子作家であり、そしてテレビ局にとっても有難い存在である、と言えるだろう。
当然に、アクアたちが出演することになるこのドラマも、実は二十年ほど前に一度ドラマ化がなされている。つまり今回のドラマは、そのリメイク版とも言えるものだ。
二十年前というと、アニメにせよドラマにせよ、原作側より圧倒的にテレビ局側の制作陣の発言力が強かった時代だ。『大人の都合』、つまりキャスティングする俳優のイメージを壊さないために原作からキャラクター性やストーリーを捻じ曲げたり、原作には影も形もないオリジナルキャラを差し挟んだり、果ては「F1層にはこれがウケるから」というお題目で脈絡もないラブシーンを差し挟まれたりといった慣行が横行していて、実際にそれで数字が取れていた。所謂「事務所行政」と呼ばれる、プロダクション側の力関係ありきのキャスティングは、その最たるものだろう。
しかし今は違う。コンテンツの多様化の流れ故か、それとも所謂『本物志向』の目の肥えた視聴者が増えたということなのか、昨今の実写化やドラマ化の文脈においては、ストーリーの質の向上に寄与しないような脚色というのは忌避される傾向が強い。「出来る限り原作に忠実に、しかしメディアの性質を踏まえたり、あるいはより原作の伝えたかったメッセージ性を強調するために、原作者の監修のもとに必要な改変を加える」というのが、今日における原作つきテレビコンテンツの常である。
その風潮については、このリメイクドラマの企画においても全く例外ではない。
今回のドラマの原作となるミステリ小説は、押しも押されもせぬベストセラーではあるものの、描写としてかなりアクが強い。
主要登場人物のバックボーンは凄惨で、最後の展開も、正直「救われない」と言ってもよいものだ。
読後感は、はっきり言ってあまりよくない。ただ同時に、その読後感の悪さこそが一種の余韻となり、読者の心に確実に何かを残していくタイプの作品でもあった。
その余韻の存在こそが、原作である小説が一大ベストセラーになった要因であるとさえ言えた。
だというのに、かつてのドラマ版は主に視聴率重視のためにメインキャストに売れっ子俳優やアイドル上がりのキャストを採用していた関係で、この辺りの「アクの強さ」はかなり削られてしまっていた。
更にそこにある種陳腐な恋愛描写まで足し込んだ結果、視聴率自体は十分なものがあったものの、前のドラマはこの作家のベストセラーとも言える作品のドラマ化としては正直あまり評判はよくないものに仕上がってしまった、らしい。
アクアは『吾郎』であった頃、この作家の書いた元々の小説は一応読んだことがある。
これでも吾郎は読書家であったのだ。もっとも、高千穂という辺鄙な、娯楽の少ない田舎の中にあっては、それぐらいしかまともな娯楽がなかったとも言えようが。
とにかく、それを踏まえて映像資料としてリメイク前のドラマに目を通した限りにおいては、確かに世評の言うことは間違いではないとすぐに分かった。
無論、アクアがかつて出演した「今日あま」の惨状に比べれば何百倍もマシ、というより比べること自体がもはや失礼な水準ではあるが、ただ方向性はあれと同じである。ストーリーよりも優先される商業主義の匂いが、確実にドラマの中から立ち上っているタイプの作品だった。
それに、どこか誰かが忸怩たる思いを抱えていたということなのだろうか。今回のリメイクドラマは、いっそ清々しいほどに「原作に忠実であること」が強く求められている。
ストーリーも、そして当然に登場人物に関してもだ。故に今回の制作陣は、キャスト選びに一切の余念がなかった。売れっ子かそうでないかは何一つ関係なく、原作のイメージを忠実に再現できる俳優を、あるいは単純に並外れた演技力で求められるキャラクター性を演じることができる役者を、全く妥協することなく選んだらしい。
自分で言うのも気恥ずかしさ極まりない話だが、アクアにしても例外ではない。どうやら今回の制作陣のうち、キャスト権を握っている人間が鏑木と雷田の知り合いであるようで、その伝手で観た『東ブレ』の舞台に、特にその中におけるアクアの刀鬼の演技に、「これだ」と感じるところがあったのだという。
そんな彼の意図を汲むに、今回のアクアに期待されている演技というのは、あの終盤の刀鬼のような『狂気』と『没入』、そして強烈な感情を内包したものであることは論を俟たない。
このドラマにおいてアクアが配されている役は、原作小説においては「第二の主人公」とも言うべきポジションの人物だ。
つまり、ほぼ主演である。役者としての芸歴のほとんど存在しないアクアからすれば、大抜擢と言ってもよい。
が、そういう『うまい話』には、得てして裏――というより、
どういうことか。
つまり、本作における彼は、第二の主人公であると同時に「十数年にわたって数々の犯罪行為に手を染め続ける極悪人」という役回りでもある、ということだった。
『薄明』と題されたこのドラマ、というより原作小説において、アクアが今回オファーされた登場人物である『杉原
彼は子供ながらに、中性的ながらも非常に美しい容姿を持っていた。齢八にして、彼の父親の再婚相手である女が、思わず情欲を抱いてしまう程に。
結果、彼は自らにとって義母となる女、『杉原洋子』から、日常的に虐待―― もっと直截な言い方をするならば、性的虐待を受けるようになった。
原作小説においては、この辺りの所謂『虐待』の描写が、いっそ生理的嫌悪感さえ催すほどの筆致で描かれている。さながらそれは、「意図して官能を一切刺激しないように作られた官能小説」のように。それによって、読者を『杉原司』という幼い少年に感情移入させようという狙いなのだろう。実際、描写の精緻さはこの小説に対して賛否両論を引き起こすほどで、そのあまりにグロテスクさにこの本を有害図書指定させようと動いた活動家がいたほどなのだから、作家の文才というものの凄まじさを感じずにはいられない。
兎も角、そんな司にとって地獄以外の何物でもない日々は二年ほどの長きにわたって続き、いつしか彼は恐怖と嘔吐感、あるいはは拒絶感と怒りのようなネガティブな感情と、しかしそれ以上の無気力感を一心に抱えるようになっていた。
表情の抜け落ち、昏い目をした、しかしそれ故にぞっとするほどに美しい少年。それが、十歳の杉原司だった。
しかし、そんな自分のことを気に掛けてくれる一人の女の子が、彼にはいた。
『西沢雪』という名のその女の子は、いや、その女の子
しかし司とは違って、雪はよく笑う少女でもあった。表情も感情も豊かな、愛くるしさすら感じさせられるような、誰にも好かれるであろう、そんな女の子だった。
彼女との出会いの発端は、小学校四年生に進級したときのクラス替えにあった。
新たなクラスの中で最初に隣同士の席になったという、そんな何でもないことだった。
偶然か必然か、ただそれをきっかけにして知り合った雪という女の子に、司は自分にないものを、いや、自分から失われてしまった『何か』を感じていたのかもしれない。
だから互いにどこかおずおずとした交流を重ねて、司は雪との仲を次第に深めていった。
色んなことを、色んな彼女のことを、司は少しずつ知ってゆく。
雪は、同じ校区ということで司から見ても割合近くに住んでいた。その気になれば、週末に約束もなしに遊びに行くことが出来るような、そのぐらいの近所だ。
何が趣味で、休日に何をしていて、どんな食べ物が好きか、あるいは嫌いか。
他愛もない、それでも大事なことだと思えるそれを、一つ一つ司は自らの記憶の中に留めていく。
帰る家の中がどれほどまでに苦しくても、地獄であっても、司にとってはその時間だけが救いだった。それだけで、明日を生きてゆけるような気がした。
しかしそんな中、彼は雪のことについて、看過できない事実を耳にすることになる。
西沢雪という少女もまた、何不自由のない満ち足りた家庭の下に生まれた人間ではなかった。母子家庭の環境で育てられている子供だったのだ。
そしてそんな彼女の母親に、俄かに再婚話が舞い込んできているということを、司は聞くことになった。
他でもない、雪本人の口からであった。
まだ見ぬ「新しいお父さん」のことに思いを馳せるかの少女を見て、司の心はどうしようもないほどにざわつく。
彼の中に募ってゆく漠然とした不安は拭われることなく、そしてその懸念は、司が十歳になったとある冬の日に、『悪夢』となって現実になる。
その時、司が咄嗟に起こした、起こしてしまった行動が、彼の、そして雪の運命を、あるいは末路さえも、きっと決定づけるものとなった。
――とまあ、アクアの今回の配役というのは、事程左様な陰惨さが漂う人物像である。
初めから「演技派の俳優」として善玉も悪玉もこなしてきたような役者ならいざ知らず、ポジティブなイメージ売りをしているような、謂わば「イケメン」が冠につくタイプの演技派若手俳優は、正確にはそういう俳優を抱えている事務所は、必ずしもいい顔をするとは限らない、そういう複雑な役どころだとも言えよう。
それなのに、小説の設定上それを演じる俳優は、相応以上にイケメンでなければならない。同時に若さも必要だ。
キャスティングをする側からしてみれば、どうにも割に合わなさのある役どころでさえあるだろう。
無論のことだが、条件の合う人間はいないわけではない。ある意味、やりがいのある役でもあるのだから、当然ではある。
そのもっとも安牌たる人間は、言うまでもなく姫川大輝だろう。普段はずぼらで整えていないが、母親の姫川愛梨譲りの端正な容貌を持ち、演技力は若手の中においては他の追随を許さぬナンバーワンとも言われていて、そして今まで幅広い役柄をこなしたことのある役者だ。それ故のギャラの高ささえ何とかすれば、これほど適任もいないというべき存在ではあった。
が、実のところ姫川大輝は既にこのドラマにキャスティングされているのだ。その役どころは、この作品における「第三の主人公」である。
『杉原司』にとっては三歳ほど年上の幼馴染にして、十歳の時に身内に不幸があったこともあって引っ越していってしまった彼のことをずっと案じつつ、同時に彼の、そして彼が出会った『友人』であるらしい『西沢雪』の周りで起こり続けている不可解な事件の真相を追う刑事となった男、『稲垣淳』を、今回姫川大輝は演じる。
プライム帯の連ドラの主演として、確かな格を持った人間だろう。兎も角そういうわけで、すでに「このドラマの主役」としてキャスティングされている彼は、当然杉原司役を演じることはできない。
そこで、アクアに白羽の矢が立った、のだという。
理由はいくつかある。まずは役の『格』についての話だが、そもそもアクアは子役時代を除けば、その最初のドラマ出演が「少女漫画原作のヒロインをつけ狙う不気味なストーカー」という、ある意味どん底の配役である。基本的には、あれを下回るドラマの役などそうそうあるものではない。
加えて東ブレの舞台においても主人公陣営ではないライバル側のメインキャラクターを演じたことで、すでにアクアには『そちら側』の役を演じる役者というイメージがつきつつある。
一方で、俳優・アクアとしての出世作にもなった『今ガチ』の中では、アクアはあくまでもベビーフェイスを貫いていた。そういうこともあって、敵役に偏重しつつある配役の傾向が必ずしもタレントとしてのアクアのパブリックイメージに影響するわけではないという一種の強みさえ、今のアクアは持っている。つまり役者としてのアクアは、今回のドラマにおいて杉原司という役を引き受けるには最適とも言える立場にいた。
今回のドラマにおけるアクアの抜擢は、斯くも複雑な背景事情や事務所間の調整の産物でもあった。
しかし一方のアクア自身にとって重視すべきものは、何一つそこには存在していない。
アクアは初めてこの台本を渡され、そして読んだ時、一つの強烈な感慨を懐いていた。
いや、正確には、アクアが『薄明』というこのドラマにおいてオファーされた配役が杉原司であることを知った、その日からだったかもしれない。
あまりに、それは符合していた。アクアが、そしてあかねが調べた、カミキヒカルの幼少期における来歴に、である。
美しい少年が、自らの年上である女性に性的虐待を受け、しかしその最中に運命とも言える女性に出会う。
それと時期を前後して、自分を虐待してきた女は、唐突に彼の前から、そしてこの世からも退場する。
その後、ぱったりと行方を晦ましたその彼は、しかし裏で何か確実に、暗躍を続けていくことになる。
どれもこれもが、アクアには重なって見えて仕方がなかった。
無論、細部は違う。創作上のキャラクターと実際の人間のことを重ねて見ること自体、愚かな行いという論難もありはするだろう。
そもそもアイとカミキヒカルは、最低でもアクアとルビーが生を享けたその時には、既に離別していた。
別れたのがどちらからなのかは、分からない。あの宮崎の、吾郎のことも、そしてドーム当日の朝のことも、彼が何を考えていたのかを知ることもできはしない。
しかし、それでも今アクアの眼前に提示されたその相似性は、一つのことを強く訴えかけていた。
未だ見ることのないカミキヒカルという人間の精神性を理解するために、今回の役どころは掘り下げるべき価値があると。
いつか来る彼との対面の前に、その深淵を覗かんとしているのならば。
故にアクアは極めて高いモチベーションで今回の現場に、ひいてはこの日の本読みの場に参加していた。
そして同時に、アクアもまたこの場において、あまりに運命的とも言える出会いを果たすことになる。
それは、本読みに先立っての顔合わせの為に、主演級キャスト全員が控室に集まろうとしていたタイミングのことだった。
アクアにとっては、ほとんど初めてと言える連ドラの舞台への参戦である。バラエティ番組出演の為にテレビ局に足を運んだことは幾度もあれど、今回は周りによく知る相手がいるわけでもない。そういうこともあって、この場において確実に知り合いと言えそうな相手――すなわち姫川大輝のことを、アクアは探していた。
ただ、正直なところ彼は基本的にものぐさでずぼらだ。定刻に余裕を持って現場に現れるタイプではない。アクアは控室の外側、廊下の隅の方に立ちながら、集合時間の三分ほど前になるまでそんな大輝のことを待つことにした。
アクアの目の前で、沢山の関係者が、そしてキャスト陣もまた、次々に控室へと入ってゆく。
流石はプライム帯の連ドラというべきか、この場に現れた人々の中には、所謂「大物」と言うべき著名な俳優も何人かいた。そんな彼らに礼儀として会釈をし、そしてたまに話しかけられながら、その合間合間に未だこの場に現れない姫川大輝の姿を探す。
それを続けること暫く、大輝は未だその姿を見せていないながらも、そろそろ自分も控室の中に入らなければならない頃合いになろうとしていた時のこと、控室の手前で共演者の一人に話しかけられていたアクアのことを呼ぼうとする声が、アクアの視界の外から聞こえた。
しかしそれは、俳優たる『アクア』のことも、そして個人としての『星野アクア』のことも示していない、全くの別人の呼び名でもってアクアの耳朶を打つ。
「えっ、
はじめ、当然に自分のことを呼んでいるとは到底思わなかったアクアが聞き逃していたところを、しかしもう一度、はっきりとアクアの真後ろから聞こえた呼び声に、流石に反応せざるを得なかった。
「ミキさーん!」
それは女の、若い女の声だった。
反射的に、振り向く。そこにいたのは、紛れもなく自らを呼んだであろう女性の姿だった。
彼女のかけている、丸縁の大きめのレンズの眼鏡が、まずアクアの目に入る。僅かな青みを感じさせる、輝きを内包する銀の髪をボブの長さにまとめ、頭にはかなが身に着けているのとよく似たツバなしの帽子を被っていた。
その彼女は、振り向いたアクアの姿を見るなり、こちらに伸ばそうとしていた手を引っ込めた。
「あっ……」
何かに気がついたかのような声と共に、「しまった」と言う表情をする。
綺麗な女性だ、と思った。女優だろうか。見るに、歳のほどはアクアよりはいくらか上だ。成人はしているだろう。MEMちょと同じか、それよりは若いぐらいであろうか。
「あ、す、すみません! ごめんなさい、人違いでした! あの、私の知り合いの人にあまりに似ていて……」
その言葉に、その最後の言葉に思わず目を見開いたアクアの目の前で、ペコリと頭を下げながらもその女性はやや焦り気味に言葉を重ねる。
「あの、共演者の方ですよね? 私、SA芸能所属の『
次いで発されたその彼女の名前に、そしてカムフラージュ用であるということなのか、かけていた大きな丸縁眼鏡を外して現れたその顔立ちに、アクアの心中には更に静かな驚きが広がる。
『片寄ゆら』。最近この業界でブレイクを果たした、売れっ子の女優である。もともとはモデル畑の出身であっただろうか。CMやポスター広告などで、彼女の顔はよく見る機会があった。
そして同時にアクアは、彼女の名前自体もキャスティングの情報の中に見つけていた。
「あ、はい。俳優をやらせてもらっています、苺プロダクション所属の『アクア』と申します。お初にお目にかかりますが、どうぞよろしくお願いいたします」
目の前に見える女性の所作に合わせるように下げた頭の先で、息を呑んだ音が聞こえた。
彼女も、片寄ゆらも気がついた、ということだ。
「え? えと、じゃああなたが『杉原司』役の?」
「ええ。ですので、『お相手役』になりますかね。『西沢雪』役でしたよね」
アクアの問い返しに、ゆらはぱっとその表情を輝かせた。
「そうそう! そうなんだ!」
そして、どこか人懐っこささえも感じさせる明るい笑顔を、その顔の上に浮かべた。
アクアのことを、「ミキさん」と呼ぶ『誰か』と間違えた、これからアクアが相手役として共演する女優。それこそが、片寄ゆらである。
意味するところは、どこまでも明白だ。
ならばこれは果たして運命か、それとも必然なのか。あるいは、「導き」だとでも言うのだろうか。
アクアの脳裏、心象風景の中で、遠く微かな鴉の啼き声を、聞いた気がした。
(父親捜し的意味での)アクアパーティーに姫川さんが追加されました。原作においても結構立ち位置的に美味しいキャラクターのはずなんですが、あまり表に出てこなかったので、本作においては関わってもらうことになります。
そして、ついに出してしまいました。禁断の「オリジナル劇中劇」です。
ただ、何の意味もなく出しているわけではありません。一応、本章のギミックの一つとなっています。
因みにこの劇中劇のあらすじは実際のとあるミステリー作家のベストセラーにヒントを得たものです。分かる人には分かるかも。