目下、苺プロダクション所属タレントは文字通りの快進撃を続けている。
ネットタレント部門に関しては、稼ぎ頭であるぴえヨンが安定した収益を叩き出す裏で、新生B小町の「B小町ちゃんねる」がとうとうユーザー登録者数百万人の大台に乗った。結果、彼女たちはYouTuberとしての広告収入だけで、月に三百万円ほどの収益を達成している。
『年収』ではない、『月収』でである。専属マネジメント契約を結んでいるルビーとかなに関しては、収益を事務所と折半している関係で手元に残る金額は月五十万円ほどだが、それでも高校生の身分で得ている収入としては破格もいいところだ。同年代であったころの、「二児の母」としてのアイが得ていた月収が二十一万円弱であったことを考えれば、社保の分を差し引いたとしても懐事情という意味では恵まれているだろう。
B小町に関しては、そればかりではない。というより、寧ろ彼女たちは本来的にはアイドル部門に所属しているタレントだ。
その、つまりアイドルとしての新生B小町にも、いよいよメジャー化の波がやってこようとしている。
ファーストワンマンを成功裏に終わらせた彼女たちの功績を受けて、壱護社長はB小町の大宣伝攻勢を始めた。十月に予定されている武道館でのセカンドワンマンを見据えて、広告代理店と契約しての壁広告やCMの打ち出しを絡めた広報戦略に余念がない。
未だテレビ露出という面ではバラエティー番組の単発ゲストが精々と、そこまで存在感を示せているわけではないが、セカンドワンマン成功の暁には、「朝の帯番組の曜日レギュラー」に彼女たちをねじ込むことを社長は真剣に考えている。
その他の役者・タレント部門においては、アイが依然として絶対的な存在感を見せつけている。
これは未だ打診の段階ではあるが、今年の公共放送の年末の「歌合戦番組」の司会のオファーを、アイは受けていた。
きっかけは、遡ること一年弱ほど前、丁度アクアが東京ブレイドの稽古期間に入ったぐらいの頃に、来年から始まる大河ドラマの主演格としてアイが抜擢されたことだ。
それは「アイドル・アイ」ではない、「女優・アイ」としての一つの到達点でさえあるのかもしれない。彼女にとってはこれまで今一つ縁遠い存在だったであろう公共放送からの仕事が、そこから俄かにアイには舞い込み始めた。
年末の歌番組の司会もまた、その一環だ。
昨今、少しずつではあるものの視聴率が振るわなくなってきているとはいえ、それでもかの番組は未だに「年末の顔」と評されるべきブランドを保持している。
なれば彼らは、その司会を張るだけの、すなわち番組の看板に見合うほどの格というものを、きっとアイの中に見たのだろう。
彼女がそのオファーを受けたとき、壱護社長が、そしてミヤコが浮かべた表現の難しい表情のことを、アクアは確かに覚えている。
そして――役者としての躍進という意味においては、アクア自身のこともまた、避けて語ることはできないだろう。
暦が七月に入り、放映されたドラマ「薄明」の第一話は、端的に言えば非常に高い評価を獲得した。
世帯視聴率が十パーセントを超えれば上出来と言われる昨今の連ドラ事情の中、初回平均視聴率は驚異とも言える十パーセント台後半を記録した。流石に二十パーセントまではギリギリ届かなかったが、それでも驚くべき数字だ。
キャストの知名度による押し上げは、確かに存在する。二十代の女優の中では頭一つ抜けた知名度を誇る片寄ゆらがメインキャストを張っているのは、当然にそういう効果を期待してのものだろう。姫川大輝に関してもだ。「このキャスト陣では負けられない」というある種不退転の覚悟のようなものが、ドラマの制作陣にあったことは言うまでもない。
ただそれでも、「平均」視聴率でこの数字が取れたというのは、それだけ他のキャストが魅せる演技をできていたからこその面があるのもまた事実である。その中には、アクア自身もまた入っていた。
内面描写を極力削り、台詞も削って、立ち居振る舞いと「間」、あるいは息遣い、そして目線や表情、そういうものでキャラクターの心情を表現する。
もって、原作の小説において通底している「厭世的で乾燥しきった、仄暗さを帯びた、しかし同時にどこか緊迫した空気」を、映像の世界に等しく顕現させる。
挑戦的な構造の作品だったが、アクアも含めた各キャストの努力の結実として、初回においてその目論見は見事にハマっていた。
目の覚めるような美しい容姿を持った一人の男とまた一人の女が、その過去の陰惨さゆえにこの世の全てを敵だと断じながら、誰一人他人を信じることもできず、唯一互いの利のためだけに、手を汚しながらもこの世を生き抜かんとする。
彼と彼女に、取り巻くあらゆる人々が振り回され、翻弄され、時に破滅してゆく。
そしてそんな二人のことを、「第三の主人公」が唯一外側から追いかけ、謎を解き明かし、立ち止まらせようとする。
小説「薄明」の基本骨子を第一話の短時間で完璧に説明しきったこのドラマは、初回のヒキを「司と雪がビジネスホテルで顔を合わせた瞬間」に設定して締めくくられる。
そういった構成の妙もまた、視聴者の心をがっちりと掴んだらしい。以降の回からも視聴率は衰えることなく、寧ろ少しずつ伸ばしてゆくほどの勢いで、ドラマは確たる人気を得ようとしていた。
「俳優・アクア」にとって、それは喜ばしいことに相違ない。あくまで三人いる主演級の一人であるとはいえ、その中の序列としては最も劣位であるとはいえ、初主演を飾ったドラマがこれだけの好評を博したことは、俳優としてのキャリアには確実にプラスだ。
事実、SNS上ではアクアという俳優に対するポジティブな評判が増えているという。アクア自身はエゴサをするような性質の人間ではないが、それでも方々から話は漏れ聞こえてくるし、エゴサをする気がなくとも放送回の直後はドラマについての話題がSNS上のトレンドに上がってくることもあって、否が応にも目には入るものだ。
恋愛リアリティーショーで花火を打ち上げ、2.5次元舞台で「演技派」としての評価の基礎を固め、そしてドラマでいよいよ飛躍の時を迎えた。そう、世間はアクアのことを評価している。
いや、実際にこの芸能界という「市場」におけるアクアの価値は、まさしく世評の通りの曲線を辿っている。それは事実だ。苺プロ内部においてさえ、その評に変わりはないであろう。
ただ、今のアクアにとってそういったものの何もかもは、結局のところ外野の騒音に過ぎなかった。
俳優としての評価も、芸能界における市場価値も、そんなことに一体何の意味があるのか。
すべては所詮、「副次的作用」だった。今の「星野アクア」という人間にとって、個人の栄達というのはその程度のものでしかない。
しかし同時に、このドラマに「のめり込んでいく」だけの理由が、アクアにはあった。
まるで、誘われているようだった。「
だから、なのだろうか。ドラマの撮影が進み、回を重ねれば重ねるほど、カメラが回れば回るほど、アクアは自らの意識が「役の色に染められていく」のを、感じずにはいられなかった。
アクアの中のアクアでない部分が、しかし「吾郎」の中には確実にあったのだろう残滓が、思考に呼応していた。
脳裏に、声を聞く。
世の中の視線が鬱陶しい。
望まれる自分でいなければいけない。
全てを壊してしまいたい。世界も、命も。人間としての己も。
誰も信じられない。自分でさえも。
嘘を吐く。嘘を吐く。嘘を吐き続ける。他人にも、世界にも、自分にも、現実にも。
全てを使ってやる。使い捨ててやる。あの日自分を救ってくれなかった全てに、もはや期待など一つとして抱きはしないのだから。
自然と潜ってゆく「司」の内面と対話すれば、それを役に出力するのは何一つ難しくなかった。
あかねのように、またあるいはアクアにとっての「刀鬼」の時のように、役への没入を、憑依することを意識する必要などなかった。
現場に入り、カチンコが鳴れば、それだけでスイッチが切り替わる。アクアは「杉原司」の人格に、そういう意味では半ば支配されていたのかもしれない。
――いや、そうではなかった。それだけではなかった。アクアの中に棲むものは。
「司」のディテールを極めようとするたびに、アクアの思考が俄かに混線する。自分のものではないはずの「誰か」の思惟が、混淆する。
――愛が欲しい。誰か僕を愛してください。
――迎合していた。望まれる自分を演じて、嘘を吐いていれば、誰もに愛される「僕」でいられる気がした。
――僕のことを蹂躙した、「あの人」でさえも。
違う。これは杉原司のキャラクター造型ではない。最低でも、アクアが作った「骨格」からは逸脱していた。
メソッドによって、すなわち己との「対話」によって呼び起こしたはずのそれが、しかしアクアの意図しない何かへと歪められ、変質していく。
制止しなければならないはずだった。だと言うのに、アクアの中に産まれたその心の声は、もはや止まることなどない。
あの瞳の中に宿る、光を見るたびに。
――それでも、僕のことを分かってくれるのは、君だけだった。
――だから僕は、君のためならば何だってできた。何だってしようと思った。
――同じ痛みを抱えている、同じ「愛」を求めている君とならば、二人で、二人だけで支え合って生きてゆくことが、出来ると思ったんだ。
それを言っているのは、それを思うのは、ならば誰だと言うのか。
アクアでも、「杉原司」でもなく、されど身体の中から強く主張し続ける、声の主は。
分からない。しかし、予感はあった。
「役作り」という理性と計算による行いでも、「
生じた綻びをそのままに、ドラマの展開は進んでゆく。アクアの内面における歪みを、加速度的に破綻してゆく「杉原司」の命運と重ねるようにしながら。
初めて人の心を操ったその日、「
結果的にそれは、「
利益のために、他者を陥れた。破滅してゆく彼ら彼女らを見て、昏い愉悦を覚えた。
「
血が流れる。屍が積み上がる。作られた丘の頂に、ただ「君」を据えるために。
そうやって少しずつ、醜悪な怪物へと変貌してゆく「彼」を、しかし「彼ではない『誰か』」に侵食されながら演じるアクアは、外からは常軌を逸した「怪演」を見せていると絶賛されている。
ただ一方で、アクアの自己認識はもうすでに完全に混乱を来し始めていた。「深淵」に、魅入られ始めていた。
朝起きたときに、自分が誰かわからなくなる。そんな日が、一週間のうち半分を超えるようになった。
アイと、目を合わせられなくなった。彼女の瞳の光を見た瞬間、アクアの中で突沸した何かに、自我すら奪われそうな恐怖を懐いていたからだ。
ともすればそれは、あの男のことを、「カミキヒカル」のことを理解しようとした無謀への報いなのかもしれない。
無意識のうちの思考さえ、時に乗っ取られそうになっていた。
鏡の前に立って、一人自分の名前を復唱して、自我を「星野アクア」の上に縛りつけなければ、自分の基底さえも塗りつぶされてしまいそうだった。
眠って、次の日に起きたとき、アクアがアクアでなくなってしまいそうで、もうここ一か月ほど、アクアはまともに眠れていなかった。
だからきっと、「アクア」は「ソレ」に共鳴していたのだ。共振していたのだ。
だとするのならば、それは己の身体に流れている血に、遺伝子の必然によるものか。
それとも、
いつも誰かの顔色を窺い、誰かにとって望ましい自分でいるために、正しい自分でいるために、「まともな人間のフリ」をすることしかできなかった、かつての自分は。
――いや、あるいはそうですらないのか。
そもそもこれを「カミキヒカルの精神性」であると看做しているアクアの思考は、結局は単なる独り善がりな思い込みでしかないのだろうか。
己の中で押し込めていた「雨宮吾郎」の醜悪さが、白日の下に引きずり出された。ただ、それだけのことなのだろうか。
出るはずのない答えを探して、アクアは魅入られるままに、深淵の只中に溺れてゆく。
黒川あかねからデートの誘いがあったのは、そんなさなかのことだった。
一学期が終わり夏休みに入った、八月の最初の週末のことだった。
時は夏に至り、コンクリートジャングルの東京という街は、外を少し歩くだけで汗が噴き出るほどの殺人的な暑さの季節を迎えている。
そんな今時分、外に出掛けようとなれば、行き先が屋内の施設になるのは自然の摂理にも思われる。
しかしこの日、アクアとあかねの二人がいるのは、それとはまるで趣を異とした場所だった。
アクアたちの見渡す先に広がっているのは、一面の緑だ。
木陰から見る青い芝生は、上天から真っすぐに降り注ぐ陽光の強さで白く輝いているようにさえも思われる。
疲れ知らずの子供たちが遊びまわり駆けまわって、それをアクアたちと同じように、木陰から見守る両親やお年寄りたちの姿も、辺りには見えた。
「一回はさ、行きたいって思ってたんだよね。アクアくんにも言ったけど」
日に照らされてか、それとも過去のことを思い起こしているのか、どこかはにかむような笑顔さえ浮かべて、あかねがアクアを見る。
アクアもまた、そのことは覚えていた。今年の初め、高千穂峡の遊歩道の、橋の上で聞いた彼女の言葉が、頭の中に過ぎった。
「……そうだな」
覗く碧玉の光目掛けて小さく首を縦に振り、もう一度眼前の輝く緑に視線を向けた。
ここは東京は新宿区、新宿御苑だ。
今日この日、アクアはあかねに誘われるようにして、ある種何の変哲もない「公園デート」に赴いていた。
「やっぱり、夏だよねぇ。結構薄着してきたけど、芝生の上はちょっと無理そう」
弾む声で、あかねが言う。木陰の作る僅かな涼を分け合うように、アクアに寄り添って座っていた。
二人の下には、彼女が持ってきたキャンピングシートが敷かれている。あかねらしいシックさを帯びた、菫色を基調にしたデザインだった。
「あ、お弁当も持ってきてるからね。せっかくこういう感じなんだから、一緒に食べようって思ってさ」
どこか華やいだ空気を纏い、穏やかに笑んでいる彼女の隣で、しかしアクアの方は視線をぼんやりと中空に向けていた。
あかねが持ち込んだ鞄を探るガサガサとした音も、遠くに聞こえる子供たちの燥いだ声も、頭上に広がる葉桜の葉擦れの音さえ、どこかぼんやりと、薄いフィルターの向こうに響いているかのように感じる。
聞こえた彼女の言葉に曖昧に頷きはしても、アクアの身体はあまり積極的には動いてくれなかった。
外界からやってくる刺激に反応しようとするよりも、裡に向かってなお強く働く重力が、アクアの意識を思慮の海の中へと引きずり込んでいる。
理由など、今更考えるまでもない。必要もない。それでもあかねとのこの「デート」を断らなかったのは、だから半ば意地だった。
あかねに、今のアクアの状況を気取られないようにしたかったのだ。知られたくはなかったのだ、こんな体たらくを。
ただ結局、こうやって顔を突き合わせれば、アクアの状態に誤魔化しなど利くわけがない。アクアの隣で、継続的に聞こえていたノイズが、パタリと止んだ。
手が止まった、ということだろう。
「……アクアくん」
隣から、声がした。それまでのものよりも近い場所から、潜められた音が聞こえた。
顔をそちらに向けることが、アクアにはできずにいる。気力が湧かないのか、あるいはそれとも、恐怖しているとでもいうのだろうか。
だったら、その恐怖している自分というのは、一体「誰」だというのか。脳裏にちらついた問いに、反射的にアクアは目を閉じていた。俯いて、息を吸った。
そして、隣を見る。言うまでもなくそこにいるのはあかねで、そして彼女が見ているのは、まごうことなき「星野アクア」だった。
一連のアクアの動きを見て、彼女は何を思っただろうか。
じっと、瞳が向けられた。見透かされそうになるような、透き通った翠の光が宿っていた。
しかし、そこであかねはふと相好を崩す。纏う空気が、和らいだ。
「とりあえず、ご飯にしよっか。さっき言ったけど、お弁当あるからね」
言いながら、彼女は自らの隣に置かれている風呂敷包みを手に取って、アクアに向かって掲げてみせた。
広げられた弁当箱の中に入っていたのは、すべてあかねが手ずから作り上げたおかずだった。
チキン南蛮に大学芋、ミニトマトと枝豆、そしてサンドイッチとおにぎり。目にも楽しませる色彩が、アクアの目に飛び込んでくる。
全て、彼女が一から作ったものだ。冷食を選んでもバチなど当たらないだろうに、それでも彼女は「自分の手でそれを作る」ことに、きっと意味を見出したのだろう。
「おにぎり握るときってね、ちょっと油を混ぜるといいんだよ? 冷めてもデンプンが老化しないんだよね」
どこか得意げに雑学を披露しつつ、あかねが手に持ったおにぎりを一つアクアに渡してきた。
「はいこれ。焼海苔は別に持ってきたから、ここで巻いてから食べてね」
声は穏やかで、同時にどこか楽しげだ。促されるがままに受け取って、別で渡された海苔を巻きながら、一口齧る。
優しい塩気が、口の中に広がった。微かなごま油の香りも。そしてどこか、冷えているはずの掌の中のそれには、温もりのようなものさえも、残っている気がした。
「……美味しい」
ぼそりと呟いたアクアの言葉に、あかねが相好を崩す。
「よかった。じゃ、おかずもあるからどんどん食べてね」
「私はサンドイッチからにしよっかなー」などと、そんな浮ついた調子で独り言をこぼしながら、あかねもまた弁当に手を付けていく。
遊び回る子供たちの無邪気な声は、芝生の只中より未だ途絶えることなく響いている。最近、猛暑のあまりに昼間には耳にすることのなくなった蝉の声が、この木陰の涼しさの中にあっては微かに響いているようにも聞こえた。
あかねが持ち込んできてくれた弁当の中身に対する感想をぽつりぽつりと交わしながらも、この昼のひとときは静かに過ぎてゆく。二人の間に流れる空気は穏やかで、いつまでも浸りたくなるような、そんな安らぎをも感じた。
アクアの隣で足を崩して座っているあかねは、その手に取った食べ物をちびちびと頬張り、小さく頷きつつも、また時に辺りを見回し、アクアの方にも目を向けている。彼女の表情の中、憂いの色はない。アクアが直面し、あかねを巻き込んでいる「懸案」のことなど、まるで消え去っているかのようにも見えるほどだった。
眩しささえ、覚えていた。今のあかねが。彼女の佇まいが。しかし同時に、彼女はそうあるべきなのだと思った。――自分とは、違って。
最近、頓にそうだった。己の内面と向き合い、対話をする日々の中で、改めて「吾郎」としての自分を見つめ直すたびに、アクアは自覚させられる。
ドラマの配役としての「杉原司」という怪物にも、その延長線上に見ている、想像の上の「カミキヒカルという男」にも、過去の自分と同じ色をした何かが、紛れ込んでいることに。
カミキヒカルの生い立ちを、その中に見えるアイとの交わりを意識するたびに、そこに描く彼の人物像の裏側に、「雨宮吾郎」の根源が透けて見えて仕方がないのだ。
他者に迎合することでしか生きられなかった、救い難い惰弱さが。
それに対してずっと懐いていた、鬱屈も閉塞感も諦念も。
そして、嫌悪感さえも。
だから、ようやく理解できた。腑に落ちた気がした。
かつて自分があかねに対して抱いていた罪悪感も、同時にそこにあった自己嫌悪も、結局その出発点はどこまでも単純なものだったということが。
つまり――結局アクアは自分自身のことを、多分ずっと認められなかった。受け入れることができなかったのだろう、と。
そしてそれは、今もなお続いている。
昼飯を食べ終えて、二人でぼんやりと時を過ごす。
本当はきっと、御苑の中を散歩するであるとか、温室の中を見るであるとか、そういう「有意義な時間」を過ごすべきなのだと、分かってはいる。
しかし今、アクアは動けなかった。動く気になれなかった、という方が正しいのかもしれない。
かつて割り切ったはずの思考が、また頭をもたげていた。いや、結局自分は、それを何一つ割り切れてなどいないのだろう。
もはやカミキヒカルの存在は、今の己のすぐそばに、手の届くところに座している。ならばこれ以上、あかねを巻き込みたくはない。巻き込むべきではないのだと。
「頼ってほしい」と思う彼女の気持ちは、理解している。彼女から、アクアはそれをずっと聞いている。
それでもなお、彼女の居場所は、その明日の在り処は、
高千穂から戻ってより先、あかねはその輝きを増したようにアクアには感じられていた。
振る舞いも、笑顔も、雰囲気も、纏う空気も。理由の全てを察することはできないが、あの旅行そのものが一つの契機であったということだけは、アクアにだって分かる。
そこに自分の存在が、多少なりとも含まれていることだって。
理解はしているのだ。それでも、どうしても考えてしまう。
何度も、何度でも、思うのだ。未だにアクアの中で、「その声」が消えたことなどないのだから。
陽の当たる場所で生きてきたあかねは、故にこれからもまたずっと陽の当たる場所に生きてゆくべき人間なのだ。穢してしまってはならない。歪めてしまっては。
それは、ルビーとて同じだ。当然に、かなとも。本当のところは、もう手遅れではあるのかもしれないけれども。
過去の己の醜悪さを「再発見」するたびに、突きつけられるごとに、そんな自分が今彼女たちの横に立っている不釣り合いを、その罪深さを思い知らされる。
かつてあかねに対して持っていた罪悪感とは、また別の場所から湧き出る感情だった。
思考が影響されている。侵食されている。「役」にも、「彼」にも。そして弱気になっている。
そういう面があることも、自覚はしている。完全に、メソッドの悪い面が出てきていることも。
今の自分が、どこまでも情けない思考をしているということだって。
それでも結局、『こんな形』で自らの生をやり直している、ズルをしている
その感情の名前を、「後ろめたさ」と言った。アクアの心の奥底に、それはずっと居場所を主張し続けている。
押し殺すことのできない感傷が、アクアの身体を縛りつけていた。
「アクアくん」
そこに、不意に声が響く。
潜っていた心の底から浮上した意識のままに、視線を横へと向けた。
あかねが、じっとアクアの方を見ていた。
すっとその腕が、手が伸びてくる。
ほっそりとした指の先、ターコイズブルーに塗られたネイルが天頂の光を受けて煌めく。それが、アクアのシャツの袖口をきゅっと掴んだ。
少しだけ、顔が伏せられる。息を吸う音がした。
「
そしてもう一度、彼女の声を、言葉を、アクアは聞いた。
とくんと一つ、鼓動が跳ねた。そんな気がした。
「それは、多分私には背負えないんだよね」
顔が伏せられたまま、あかねは口を開き続ける。
答えを期待している声ではなかった。ともすれば、自分の中で折り合いをつけているような声色にも思えた。
「話してほしいなんて、言わないよ。だけど」
袖を握るあかねの手の力が、強さを増す。
「私は、アクアくんといれて嬉しいよ」
袖から、腕へ。がっしりと握りこまれた腕を、あかねがゆるりと引っ張った。
勢いは強くなく、それでも急なことで対応できなかったアクアの身体が泳ぐ。俄かにバランスを崩し、あかねに向かって倒れかかった。
声を出す暇もなく、視界がぐるりと回る。背中を支えた手の温もりが、アクアを優しく引き倒す。
横転した視界と共に、後頭部に柔らかさを覚えた。
慌てて、見上げる。その先で、横から突き出すように見えた彼女の逆光越しの顔に、ようやくアクアは今の自分の体勢を理解した。
アクアは、あかねに膝枕をされていた。
あかねの手が、アクアの頭に触れる。髪を梳くように、ゆるりと動いていた。
反射的に身を起そうとして、しかし身体が動かなかった。彼女に押さえつけられているわけでもないというのに。
「
そんなアクアのことを見下ろしながら、あかねが口を開く。さっきまでと同じ、柔らかくて、しかし同時に少しの湿り気を感じるような声色だった。
「宮崎の時に話してたのを思い出したからってのもあったけど、でも、それだけじゃなくて」
言葉を切る。手が止まった。顔が少し俯いて、アクアを覗きこんでいた碧玉の瞳が閉じられた。
やおら、もう片方の手も伸ばされてくる。彼女の右手だ。だらりと垂れ下がっていたアクアの左手を取って、そしてゆるりと握りこんできた。
じっとりとした暑さのなかでも、どこか心を落ち着かせるが如くの温もりが、胸中にまで届いた。
「最近、ずっとそんな顔してるから、アクアくんが」
声の端が、少しだけ震える。彼女の右手もまた、同じように。まるで、何かを堪えるようだった。
しかし、それ以上のものはない。ゆるゆると、あかねは首を振った。
「だから、今日ぐらいはって。ゆっくりしたかったんだよ、一緒に」
少しだけ、握る右手の力が強くなった。
瞼が開かれる。覗いた双眸の中に、アクアはなぜか、「光」を幻視していた。
アイのそれと似ていて、しかし確実に違う。その違いこそが、今のアクアにとってはともすれば救いだったのかもしれない。
誘われるように、両腕が動いていた。身体が横に向けられて、腕があかねの背中に回る。
顔が、あかねの身体に押し付けられる。いつものあかねの薫りが、果実を思わせる涼やかな匂いがした。
まるでしがみつくかのように、アクアは膝枕の姿勢のままに、あかねに向かって抱き着いていた。
傍目から見れば、今の自分の姿はあまりに情けないものなのだろう。
いや、「傍目から」も何もない。あかねの身体に顔を寄せているのは、今アクアが浮かべているであろう表情を、彼女に見られたくないからなのだから。
しかしあかねは、そんなアクアに何も言わなかった。手が伸びて、背中に添えられる。ゆっくりとさするように、そして時折ぽんぽんと叩かれる。まるで母親が、我が子をあやすような手つきだった。
二律背反だった。
あかねに「もたれかかる」ようなことはあってはならないと、そう理性が言っているのに、目の前にある温もりに手を伸ばしてしまう。
受け入れてくれる彼女に甘えながら、そんな自分のことが醜い存在に思えてならない。
「大丈夫だよ」
声が聞こえた。潜められて、それ故に円みを帯びた響きを宿しながら、アクアの耳朶を撫でてゆく。
「アクアくんが何を考えてるか、ちょっとだけわかる気がする。だけど」
あかねが自らの推論を言葉にしない理由は、きっと配慮なのだろう。今のアクアが抱えている情感の全てを言い当てられては、きっと正気ではいられないだろうから。
「でも、君がどう思っても、私は君を一人にはしない。私が、したくないって思ってる。前からずっと言ってるけどね」
背中を擦る手が、そこでふいに止まった。
自ら遮った視界によって、アクアには今のあかねの表情を窺い知ることはできない。それでも彼女が真っすぐに自分のことを見下ろしているのであろうことだけは、何となく察することができていた。
そしてその姿勢のまま、一呼吸入れる音が微かに聞こえて――次の瞬間、アクアは背中からも彼女の熱を感じた。
見えずとも、理解させられた。今あかねは、まるで覆いかぶさるようにアクアのことを身体ごと包み込んでいる。自らの上体を折るようにして。
一瞬、息が止まった。意識に出来た空白を縫うように、あかねの囁きが聞こえた。
「私は今、幸せだよ。君がいるから」
身体が震えるのが分かった。
否応なしに、理解したからだ。アクアの心情を、あかねが見透かしていることを。
でも、その上で敢えて彼女は言っている。
「アクアくんにだって、『違う』とは言ってほしくない。これは、私の気持ちなんだから」
それはどこか、宣言のようにさえも聞こえた。同時にきっと、何重にも意味を込めた言葉だった。
織り込まれた含意が広がって、心を埋めてゆく。生み出された温かさが、アクアの中を支配していたあまりにも分厚い靄を、少しずつ薄れさせてゆくようにも感じられた。
彼女の存在が、今の自分を「星野アクア」に繋ぎ止めている。
であるのならば、ここで立ち止まっているわけには、いかないのだろう。
裡から俄かに湧き上がった活力が促すままに、身動ぎする。彼女の身体から腕を離し、身を少し捩った。
上体を離した彼女の方に、仰向けになって向き直る。
身を起こすことまではしなかった。きっとあかねは暫くアクアにそれを望まないのだろうと、そのままの姿勢で口を開いた。
「ありがとう。あと、ごめんな」
あかねに呼応するように、束ねた意味を感謝の言葉に乗せる。たった一言発したそれに、彼女が目を一度瞬かせる。小さく、首が横に振られたのを見た。
「心配、させてたよな。ちょっと色々、余裕がなかったかもしれない」
言いながら、手を伸ばす。あかねのさらりとした艶めいた黒髪を指に遊ばせて、やがてその手は、アクアの右手は、彼女の頬にまで届いた。
「だけど、整理がついた」
掌に走った滑らかな感触と、皮膚の下にある確かな熱を意識する。ぴくりと肩を震わせた彼女目掛けて、アクアは一つの決心と共に口を開いた。
「そろそろ、頃合いだと思う。動き始めないといけない。
そうだ。ドラマの撮影が進み、もう撮影スケジュール自体は終盤に差し掛かっている。
主演格であるアクアと大輝、そしてゆらの間には、一定の交友関係が生まれている。そして同時に、彼女が定期的にとあるバーに酒を飲みに行っていることも知った。
「まるちゃんバー」などという、なかなかに可愛らしい名前をしている店だ。会員制のバーであるという。
そしてそこに、「ミキさん」がやってくるのだとも。
初めて明白な形でやってきた、「カミキヒカルという人間との物理的な接点」である。
虎穴であることは承知している。しかし同時に、「飛び込まねば事態は動かない」ということもまた、アクアは理解していた。
片寄ゆらと接点を持てる大義名分が活きているのは、あと一か月と少しほどの短さでしかない。
以降も彼女と連絡がつくような交友関係を継続することはできようが、しかし片寄ゆらは多忙を極める人気タレントだ。時間は、アクアたちの味方ではない。
だから、今は「割り切る」ことが必要だった。連ドラの役作りの中、アクアの中に産まれた感傷も課題も、今この瞬間においては、後回しにすべきことだった。
確かに、アクアはいずれもう一度、それに直面することになるのだろう。「星野アクア」という存在そのものが持っている、業とも呼ぶべきものに。
しかしそれは、今ではない。アクアの「使命」は、まだ終わっていない。
「来週あたり、姫川さんと相談しようと思う。カミキヒカルのDNAサンプルをどうやって確保するか」
一瞬、あかねが固まった。アクアの視界の隅、呼吸で上下する彼女の胸も、その動きを止める。
しかしそれは、ほんのわずかの間のことだった。ふっと、軽い吐息の音をアクアは聞く。
「前聞いてた話だよね? 片寄さんの」
「ああ」
「そっか。じゃあ、姫川さんに?」
「そうなる。……片寄さんが一緒だから、危ないこともないと思うし」
互いに理解している部分は、飛ばした会話だ。アクアとあかねの間には、そして大輝との間にも、事前にある程度のコンセンサスは存在していた。
カミキヒカルのDNA情報を回収するために、大輝にはどうにかしてゆらと付き添うような形で、「まるちゃんバー」なる件の店に乗り込んでもらうことになる。その大筋は、すでに三人の中で共有されている。
そういう意味では、いつアクアが大輝にそれを頼むのかという時間の問題の話でもあった。「アクアの覚悟の話」、とさえも言い換えることができただろう。
だからアクアがそれに逡巡していた理由は、結局一つだった。
「けど。姫川さんにとっても、父親かもしれない人間なんだ。カミキヒカルも、本当にそうだっていうなら……」
改めて言おうとして、しかし全てを言い切ることができない。
カミキヒカルにとって、姫川大輝とはどのような存在となるのか。本当に彼が、アクアの、そして大輝の父であるというのであれば。
目的のためとはいえ、大輝も賛意を示しているとはいえ、そんな二人のことを引き合わせようとしている今のアクアは、世間に胸を張れるような行いを、していると言えるのか。
あるいは、アイに。そしてルビーに。
それがどうしても、アクアの心のどこかに引っかかり続けていたのだ。今の今まで。
「でも、進むしかないんだよな。もう、止まれない」
しかし、もうこれは決めたことだ。
積み上がり続けている恩は、いつか何としてもまとめて返そう。大輝にも、そしてあかねにも。それしかない。進むことを決めた以上は。
止まれないというのも、そうだ。片寄ゆらに認知されたその時から、カミキヒカルという存在にさえも「星野アクア」のことが知られたであろうあの日から、カウントダウンは始まっているのだから。
瞬間、アクアの右手にあかねの掌が重ねられた。彼女の頬に触れているアクアのその手を、包み込むように。
「大丈夫だよ。アクアくんは正しいことをしてる。正しくあろうとしてる」
彼女は言った。目を閉じて、歌うように。
「アクアくんは、怪物になんてならない」
思わず目を見開いていた。心の中を見透かされたような気がした。
いや、直感力にも洞察力にも優れているあかねのことだ。これはきっと、当てずっぽうなどではない。
あかねの瞼が、静かに開かれる。唇が笑みの形を象った。
「ルビーちゃんのためにも、アイさんのためにも。でしょ?」
つられて、アクアも笑っていた。
笑ってしまうほどに、それはアクアの心の真ん中を綺麗に射貫いていたから。
「完敗だよ、君には」
互いに向け合った目線が結ばれる。あかねから向けられたそれの正体に、どこかアイに通ずるものを感じて、アクアは逃げるように視線を逸らした。
天頂を見る。頭上を覆い隠すような桜の木の先、茂る葉の風に揺れるさまが、そこから時折漏れてくる陽光の眩さが、アクアの目に焼き付いた。
目を瞑る。そうすれば、あかねの頬に添えていたアクアの右手が優しく取り払われて、彼女の掌であろう柔らかな感触が、アクアの額に添えられたのを知覚した。
「……もうちょっとだけ、ゆっくりしてこ」
どこまでも柔らかいあかねの声が、閉じた瞼の外側から降ってくる。
それと同時、その音に誘われるようにやってきた睡魔に、アクアは静かに己の身を委ねた。
微睡みに沈んでゆく中、添えられたあかねの手の温もりが、認識の最後に残った。
斯くしてその次の週、アクアとあかね、そして大輝は顔を合わせ、一つの決断に至った。
そこから更に一週先にある、アクアと大輝、そしてゆらの主演三人が一堂に会する共演シーンがある最終回の撮影のあと、ゆらが立ち寄るであろう件のバーに、大輝も同伴してもらえるように頼み込むことを。
その場所で、いよいよ「彼」と、カミキヒカルと接触することを。
クライマックスへとひた走るドラマの撮影と平仄を合わせるように、事態は大詰めの時を迎えんとしていた。