自分は今、キャリアにおける二度目の頂点へと
自らが所属しているアイドルユニット「B小町」は、先代の「B小町」の後継ユニットとして恥じることのない名声を、着実に積み重ねている。特にネットタレントとしての、あるいはインフルエンサーとしての今のB小町は、もうすでに最上位層の仲間入りを果たしているといっても過言ではない。「アイドルの片手間としてのYouTube配信」ではない、「軸足の一つとしてインターネット空間を活用するハイブリッドアイドル」として、ともすればリアルにおける活躍に先行する形でこれほどの知名度を得ているのは、大いに歓迎すべきことであるとかなは考えていた。
リアルの方でも、今年の十月――大体二か月後に挙行されることが決まっているセカンドワンマン、すなわち武道館ライブについての準備が着々と進んでいる。広告代理店を巻き込んだ宣伝攻勢も含めてだ。地上波バラエティ番組への出演も合わせて、かなたちのB小町は大手レーベル所属のアイドルに追いつかんとするほどのメディア露出と、それに伴う大衆層への浸透が始まっていた。
「元天才子役・有馬かな」から、「新進気鋭のアイドルユニットの一員・有馬かな」へ、パブリックイメージの塗り替えが始まっている。
古く、ともすれば不名誉な看板を掛け替え、有馬かなは今「新たな自己実現の途上」にいる。間違いなく、歓迎すべきことではあった。
しかしそれよりも、かなにとって喜ばしく思えるニュースが、最近飛び込んできた。
それは、自身にとっての究極的な目標――「女優・有馬かなの再起」に関係する、大きなチャンスの到来であった。
かなたちが所属している芸能プロダクション、苺プロダクションの社長である斉藤壱護は、B小町三人の売り出し方についてかなり入念なプランを練っている。
出来る限り露出を平等にし、誰かの存在を突出させないこと。それでいて、各々の才能や能力を十全に生かすこと。
この二つの両立は、かなから見ても難しい。
というよりも、正直な話をすれば、あの高千穂でのMV撮影の一件からこちら、こと「アイドル活動」という意味ではその持てる才能を突然開花させた人間がいるのだ。言うまでもなくそれは、この新生B小町というユニットの発起人でもあるところのルビーである。
JIFの時から、その片鱗はあった。いや、それよりも前、あの放課後の公園で彼女直々にB小町――あの頃はまだ名前も決まっていなかったが――への勧誘を受けたその瞬間でさえも、そうだった。しかし今、あのファーストワンマンライブのステージの上で、極大なる輝きを放っている彼女の存在を隣に見れば、否が応でも理解してしまう。
彼女にとって、アイドルとは天職なのだ。本当に、「アイドルになるために産まれてきたのではないか」と、そう思ってしまうほどに。
だからかなは、理解した。最低でも、アイドルという土俵の上で戦う上においては、おそらくかなはルビーには勝てない。今のところはまだ表情管理や歌唱力において「過去の貯金」が使えている分ルビーよりも優れたパフォーマンスは出せているかもしれないが、それとていつまで続くか分からない。
結局、自分には「誰かより圧倒的に優れた才能」などというものはないのだ。演技にしても、アイドルとしても。
かつて「あの女」――黒川あかねに対して懐いていたものと類似する仄暗い劣等感を、ルビーに対して意識してしまう自分は確かにそこにいて、しかしそれでも今の自分は、それに対する恨み言も弱音も、口にするつもりは欠片もなかった。
努力するのだ。今までそうしてきたように。有馬かなには、努力しかない。努力と奮闘の積み重ねで出来る限り増やした引き出しの数で、その手数で勝負をするのが自分の戦い方だ。
誰でもできるかもしれないことを、しかし愚直に、誰もできないほどの密度で積み重ねていった先で、自らは頂点に立つ。誰にも真似できない場所に、辿り着いてみせる。その決意は、かなにとってはずっと昔から持ち合わせていたものであるのだから。
ともかく、そういうわけでかなは、B小町の活動においてルビーに並び立つべく、「アイドル以外の軸」を必要としていた。
それが、「演技派女優」としての印象付けである。
固よりそれはかなにとって、苺プロに所属した意味のひとつだ。言うまでもなく歓迎すべきことでもあった。
しかしそうなると、次に考えなければならないのは「どういう形でかなを女優として売り出すか」となる。
元子役としてのコネクションなどというものは、とっくに全部切れてしまっている。というより、かなが自ら破壊したに等しい、というべきだろうか。
過去のことを、少しだけ思い出す。「天才子役」と持て囃されて、それを「彼女」に――自らの母親に褒めてもらえて、そんな母親の言葉を真に受けるように、増上慢が極まっていたかつての自分のことを。
「私のせいじゃない」などとは、言いたくなかった。あれは全て自分の行いで、自分の過ちだ。それはきっと、有馬かなという人間のなけなしのプライドでもあるのだろう。
ともかく、かな自身の過去の行いは、かながこの世界で生きるために役に立ちそうなありとあらゆる伝手というものを消し去ってしまうには十分であったということだ。
故に今のかなが頼りに出来そうなものは、結局のところ苺プロそのものが持っている販路しかない。
ならば、どうするか。かなも、そして斉藤社長も、手探りで進まなければない現状に頭を悩ませていた。
しかしそこに、助け舟を出してくれる人間がいた。言うまでもなく、アクアであった。
あれは、アクアがドラマの撮影を始めてから暫く、六月ぐらいのことであっただろうか。
ここ最近、完全に「新生B小町のたまり場」となってしまっている苺プロの小ぢんまりとした事務所の中には、その日かなとルビーの二人のほかに、珍しく更に二人の人間の姿があった。
斉藤社長とアクアである。
「『有馬かなの売り込み方』、ですか」
その場で斉藤社長から話を受けたアクアは、腕を組みながらそう復唱した。
「まあ、こういうのは俺たち事務所側の人間が考えるべきものではあるんだけどな。専属マネジメントで金貰ってんだから、責任はあるっつぅのは分かってるんだが」
とんとん、と眉間を指で叩くようにしながら、相変わらずのサングラス姿で斉藤社長は言う。若干の困り声にも聞こえた。
「はーい!」
快活な声で、手が挙がる。全員の視線が向いた先には、当然のことながら声の持ち主たるルビーがいた。
いつも通りに応接間のソファにちょこんと腰かけて、あっけらかんとした口調で彼女は続きを口にした。
「女優としてもっと売れたいって話でしょ? だったら先輩もアイさんと一緒に仕事すればいいんじゃないの? 最近もドラマ引っ張りだこじゃん」
でしょ? と小首を傾げる。「何をそんなに難しく考えてるの」、とでも言いたげだった。
ルビーが言っているのは、つまり「アイのバーターでドラマ出演の機会を増やしてメディア露出を確保し、有馬かなの『女優』としてのパブリックイメージを復活させればよいのでは」、という提案だ。
失礼を承知で思うが、ルビーにあるまじき堅実さである。知名度に劣るタレントの売り出し戦術としては、王道と言ってもいい方法だ。アクア辺りから聞いたのだろうか。
ただ、しかしながら今回ばかりは、この戦術はうまく働かないのだ。残念なことに。
事実、ルビーの提案を受けた斉藤社長は、応接間のガラス張りのローテーブルを挟んで座るかなとルビーの目の前に立って、俄かに渋面を浮かべた。
「それは、だな……」
絞り出したような声で反応した彼に向けて、ルビーが訝しげに問う。
「壱護さん、出来ないの?」
が、それには社長ではない、もう一人が答えた。
応接間の向こう、事務スペースのオフィス椅子に腰かけていたアクアが、腕を組んだままの姿勢でルビーに言う。
「まあ、正直やりづらいとは思う」
「どういうこと? お兄ちゃん」
組んでいた腕を解き、アクアがすっくと立ちあがる。すたすたとルビーたちのそばまで近寄ってから、ちらりと社長の方を見た。
――俺の方から言っていいか。
そんな目配せだったのだろう。小さく頷いた社長を目で確認してから、アクアはもう一度、おもむろに口を開いた。
「格が違い過ぎるんだよ。この場合、かながというよりも、アイさんのほうの格が高すぎるんだ」
まさしく、かなが内心で考えていたことと同じであった。
つまり、もはや国民的タレントの一角――というより、日本の女性タレントとしてぶっちぎりの知名度を誇っているといってもよいアイは、バーターで起用される役者の方にも相応以上の「格」というものが求められるレベルにまで至ってしまっているのである。
最低でも、苺プロ所属になってからの女優としての出演経験が
流石にアクアはそこまで直接的には言わなかったが、しかしかなの考えていることとほぼ同等の説明を、ルビーに加えていた。
それを受けて、ルビーの方も腕を組む。むむむ、と可愛らしく唸る声が聞こえた。
「んー、でもうちの事務所って売れてそうな女優ってなるとアイさんしかいないでしょ? お兄ちゃんも、まあ今回のドラマがうまくいったら別だけど、それまでは別にバーターやれるほどの役者さんじゃないし……」
良くも悪くもそんな明け透けさで、悩ましげな声を出す。「本人前にして言うことじゃないでしょうが」とよっぽど言おうかと思ったが、全くアクアの方が意に介していない様子に、ツッコミを入れる気力も失せた。
――このシスコン野郎め。
そんな、自分でもわかるほどの恨みがましい目線をアクアに向けるかなを前にして、しかし彼はそこで、ポンと手を叩いた。
「いや、一個だけあるな。かなの売り方」
唐突な言葉だった。必然的に、この場の全員の視線が彼に集中する。
「そうだよ。なんで気がつかなかったんだ」
俯き加減に、口の中でそんな風に小さく言葉を転がすようにしてから、彼は顔を上げた。
「社長。あとかな、君も。有馬かなの今の武器って、なんだと思ってる」
「は、え? なによ、急にそんな」
本当に急にやってきた胡乱な問いに目をぱちくりとさせたかなに対して、アクアは畳みかける。
「俺は、今の君の武器は、三つあると思ってる」
勿体付けるように言って、アクアは人差し指を立てた。
「一つは演技力。言うまでもないな」
次いで、中指も伸ばす。
「二つ目はルックスだ。これに関しては俺もルビーも意見は同じだと思う。な、ルビー」
「え? あ、うん。先輩はカワイイよ。それはほんと」
いきなりの褒め殺しとも言える展開に目を白黒させているかなを尻目に、アクアは最後、薬指までの三本指を立ててみせた。
「そして最後が、歌唱力だ」
力強い断言だった。あまりに堂々とした賞賛の言葉に、かなの中で恥ずかしいと思う気持ちさえ吹っ飛んでしまっている。
「社長。この有馬かなの三つの長所を生かせる芝居の仕事、一個だけありますよね」
勿体付けるようにそう言って、三本指を立てたまま、アクアは意味ありげな目線を斉藤社長に向けて送った。
目を合わされた社長の方が、腕を組みながら顎に指を当てる。思案の表情だ。
しかしそれも数秒、彼ははたと何かに気がついたような表情をした。
「アクア、お前まさか――」
「ええ、そのまさかだと思いますよ」
言って、彼はぐるりと全員を見回す。
三本指を立てていた右手を降ろし、呆然と彼を見上げるかなの方に、手を差し伸べた。
そして、アクアは言った。
「かな。ミュージカル女優、やってみる気はないか?」
そんな、まったくの予想外の台詞を。
アクアの提案を受けて、事態は一気に動き始めた。
自らが持っている舞台関係のコネクションを使って、かなを売り込むことのできる大きめのミュージカル案件がないかを、斉藤社長は探してくれた。
当然ながら、そこには色々な苦労があったに違いない。
確かに最近、大手のアイドルグループを卒業した「歌ウマ」と呼ばれるような元アイドルのタレントがミュージカル女優に転身する例が決して珍しいものではなくなっているのは事実だが、それも基本的にはその「知名度」に、もっと言えば「集客力」に期待されてのものだ。
「B小町」には、そしてその一員である「有馬かな」には、現在において流石にそこまでのものはない……はずである。
これはもはや敢えての宣言だが、大手アイドルグループ出身とはいえその辺の凡百のアイドル共に、かなは演技で負けているとは欠片も思っていない。比べるまでもなく、自分の方が上だ。
ただ、
だったら、斉藤社長はどういう理屈を使ってかなのことを売り込んだのか。
それこそが、次のB小町のライブ、すなわち「武道館ライブ」の成功を見込みにしての、ある種「青田買い」というか、「先物取引」の提案であった。
そう、アクアが言っていた。
理屈はこうだ。
今の時点で、すでにB小町は武道館ライブを挙行できるだけの集客能力は持っている。
そこに、「武道館ライブを成功裏に終わらせた」ことによる宣伝効果とメディア露出が加われば、うまくやればファンの数を一挙に稼ぐことができるだろう。知名度も相応に向上する。
そんな「見込み」の集客力を使って、その上に舞台「東京ブレイド」でのかなの演技の評判を乗せる形で、斉藤社長は有馬かなの存在を売り込んだのである。
その結実こそが、『これ』だった。
かなは今、十二月から始まる一つのミュージカルに、ダブルキャストではあるものの主演での出演をオファーされていた。
しかも、『帝劇のミュージカル』にである。
本当に、とんでもない話だ。前例がないほどの大抜擢と言うよりない。
初めてその話を斉藤社長に聞かされたとき、失礼ながらも「本気で言ってますか? 私のこと担いでません?」などと放言をカマしてしまったほどには、それはあり得ないことだった。
――まさか自分が、今の自分が、帝劇のミュージカルの主演を張るなんて。そう思わずにはいられない。
そんな展開、あと十年は来ないと思っていた。オールキャストオーディションをする一部の演目ならいざ知らず、オファーの形で出演を打診されるなど、なおさらのことだ。
げに恐ろしきはB小町の金看板ということか、あるいはアイという絶対的存在を抱える苺プロの凄さなのか。
ただ何にせよ、これは有馬かなという役者にとっては人生の転機となり得るほどの好機だ。逃すわけにはいかない。
当然にそのオファーは受け、よってかなはB小町のセカンドワンマンが終わる十月のはじめ頃から、また舞台稽古に、そしてミュージカル用のボイストレーニングにも、邁進することになっていた。
今回の顛末を顧みれば、やはりその突破口となったのは他でもない『彼』だった。アクアだった。
彼は本当に、約束を守ってくれたのだ。「一緒に夢を見る」という、あの時の誘い文句を。
嬉しかった。あの日、受験で休校となっている陽東高校の校舎にたまたま用事があって出向いて、それでアクアに出会った、出会えたことの幸運は、有馬かなの人生にとってどれほど大きなものであったのかと、考えずにはいられない。
彼と出会って、彼がまた役者を始めようとしていることを知って、そして青年へと成長を遂げた彼ともう一度の共演をした。
再会を果たした彼は、昔と変わらずすごい役者だった。格好良くて素敵で、ずっと努力してきたことも分かって、だというのに、かつての栄光は見る影もない、落ちぶれてしまった有馬かなに対しても、変わることなく手を差し伸べてくれた。
そしてきっとあそこから、かなの人生は確実に好転し始めたのだ。
確かにあれは、「今日あま」のドラマそれ自体は、納得のいく作品ではなかったかもしれない。それでも、この芸能界の片隅でひたすらに地べたを這いずり回り、進む先は闇ばかりの、ただ藻掻くことしかできなかった自分が、「アイドル」という新たな翼を得てもう一度空へと飛び立って行けるようになったのは、あの日のことが、今日あまの最終回があったからなのだ。アクアがいたからなのだ。
自分を見てくれる人が、必要としてくれる誰かが、まだこの世界に存在するということをかなは知った。
自らの進む道を伴走してくれる、かけがえのない仲間を得ることもできた。時に気兼ねなく憎まれ口を叩き合い、またときにじゃれ合いながら、共に真っすぐに明日を見据えられるような、そんな仲間を。
全部、アクアが教えてくれたことだった。
――ほんと、アイツ私のこと好きすぎよね。
そんな照れ隠しの独り言が、心の中に湧き起こる。
彼に直接それを言ったら、どう返してくるだろうか。
からかうように口にすれば、「そんなんじゃねぇし」とか、「あくまで妹のためだ」とか、そんなシスコンムーブで誤魔化すだろうか。
しみじみと口にすれば、逆にこっちが赤面しそうなことを、恥ずかしげもなく言ってくるだろうか。
「何言ってるんだよ、当たり前だろ」、とか。「推してもいない相手のこと、こんなに気にするわけがないだろ」、なんて、そんなことを。
でも、そんな彼の本当のところは、どうなのだろう。じゃれ合いのようなやり取りから離れた、彼の本当の心情は。
そのことを気にするようになったのは、有馬かなという人間の心境に、大きな変化があったからだった。
このところ、自らを取り巻く境遇が大幅に好転したことで、かなの心には確かな余裕が生まれていた。
今までがむしゃらに駆け抜け続けて、芸能界にしがみつくことに一生懸命になるばかりであったかなだったが、それ故に最近、ふと「立ち止まる」ことが増えていた。あるいは、「顧みる」という方が正しいだろうか。
わざわざそんなことをする理由など、一つしかない。
かなは、これまでずっと走り続ける中で、自分が置き去りにしてきたものの存在を、きっとずっと自覚していた。自覚して、しかし見ないふりをしていた。
最終的に母親と決定的な決裂に至った中学三年生のあの日から。いや、きっとそれよりももっと前、「天才子役・有馬かな」の看板が斜陽のものとなった十年前から、ずっと。
だって、そうではないか。
今までの自分の行いを、顧みる。自分が何を考え、何を目指して生きてきたかを。
――私を見てほしい。
――私は必要だと言ってほしい。
――私のことを、認めてほしい。
――「私はこの場所にいていいんだ」と、誰かに言ってほしい。
ずっと、そうだった。
「私は、私は」と、世界の中に「有馬かな」の居場所を必死に求め続けて、それ以外の全てを、意識の外に追い出してしまっていた。
外の世界に「有馬かな」の存在をあれだけ認めてほしかったのに、「有馬かな」の世界の中には、「有馬かな」しかいなかった。
自分の身の回りの面倒を見ることで精一杯で、「外側」のことにまで気が回っていなかった。
そういう自分に気づいていながら、「仕方がないのだ」と、「余裕がないのだ」と、自分を誤魔化し続けてきた。今の今まで。
だから結果として、かなは自らの為に心を砕いてくれていたすべての人々に、まだ何もできていない。
そして何より、彼女たちとの確かな関係を作ってくれた、
いや、何かをしようとさえも、きっと思っていなかった。そうではないか?
かなはそれに気がついた瞬間、内心で愕然としていた。
ずっとずっと、自分は「過去の有馬かなの失態」を再び演じることのないように意識してきたつもりだった。
ある程度親しい相手に対して反射的に出てきてしまう口の悪さに関してはどうしても直せなかったけれども、しかしそれ以外の世間に対しての、物腰の柔らかさと誠意を持った対応は、常に心がけてきていた。
出演する作品の中においては、自分が作品全体の完成度に貢献できるように、独り善がりのわがままな芝居をしないことを、固く心に誓っていた。
そうだ。努力はしてきた。やれることはすべてやったと、自負している。それによってかなは確かに芸能界の中で、これまで何とか生き残ることができていた。
これに関しては、自分にポジティブな評価を与えてやってもよいと考えている。
でも、逆に言えばそれだけなのだ。
「仕事」に、「立場」に、そして「居場所」にばかり自分の視線は向いていて、そこに介在しているはずの「人間」には、決して焦点を当ててこなかった。
そうすることが、どうしてもできなかった。
まるで、正面から人間に、他者に対峙することそのものを、恐れているかのようだった。
もう少し、自分の気持ちに余裕があれば――などというのは、所詮は負け惜しみに過ぎないと、理解している。結局それは、甘えでしかないからだ。
だから過去は、取り戻せない。今まで自分がやってきてしまったことは、もうどうしようもない。
しかし、かなには未来がある。最低でも、こんな自分と仲良くしてくれている、関係を持ってくれている人たちに対しては、これからいくらでも挽回の余地があるということだ。
その中で、やはり今のかなが最も目を向けなければならない相手は、そして目を向けたいと考えている相手は、言うまでもなく彼――アクアだった。
かなが今、アクアに対して抱いている感情を、一言で言い表すことは難しい。
間違いなく、恩人ではある。今のかなの立場は、彼の存在なしには絶対に手に入れることはできなかっただろう。
あの日あの時、アクアに出会っていなければ、自分は今でも芸能界の片隅で燻って、いつ消えてもおかしくない取るに足らない存在のままでしかなかったはずだ。
でも、それだけなのか。ただ、恩を感じているだけなのか。
ない。そうは、流石に思えない。いくら何でも、その部分において自分のことを騙せはしない。
一緒にいると、楽しい。気負うことなく言葉を交わせて、心が軽くなる。
ずっとこのままの関係でいたいと思う。自分の近くの場所から、消えてほしくない。
向けてくれる視線が心地よい。彼が「認めてくれる」ことが、自分を認めてくれることが、嬉しくて仕方がない。そのためなら、いくらでも頑張ろうと思える。
だけど、そんな自分の気持ちにつけるべき名前のことを、まだかなは決め切れずにいる。
そこで反射的に、かなの脳裏にはまた一人の顔が思い浮かんだ。心の中に描くだけで、どうにも複雑に過ぎる感情が湧き上がってくる相手を。黒川あかねのことを、思い起こす。
もう一年も前のこと、何を血迷ったかアクアが出演した恋愛リアリティーショーで、あの因縁の相手がアクアとくっついたことを知った日は、かなの内心はそれはもう大荒れだった。というか、物理的にかなの部屋は荒れた。
「ずっと隣にいてくれると思ったのに、私の方が先にアンタと出会っていたのに、よりにもよってあの女にかっさらわれるなんて」。そんな苛立ちを、アクアにさえぶつけてしまいそうになった。事前に相談を受けて、「仕事なんだから付き合ってみるしかないんじゃないの」などと訳知り顔でアドバイスをしたのは、他でもないかな自身であるはずなのに。
「節操なし」と、「スケコマシ」と、そんな言葉をギリギリ彼に投げつけなかったのは、あの「今ガチ」における炎上事件の経緯を、そこで必死になって黒川あかねを救おうとしていたアクアの姿を見ていたからだった。
そんな彼に、優しすぎる彼に、心無い言葉を投げつけるほど落ちぶれたくはなかったからだった。
正直、今だって決していい気分はしていない。SNS上に時折上げられる――上げているのはもっぱらあかねだ――アクアとあかねの仲睦まじい写真を見て、もやついてしまう心があることも、否定はできない。
聞く人が聞けば、今のかなが抱えている感情のことは、まごうことなき「嫉妬」だと言うのだろう。
しかし、それでも、かなの胸中の冷静な部分は、それに反発している。「違う」と言っていた。言いたかった。
今年の初めのあの高千穂の夜、露天風呂の中で彼女から言われたことが、頭の中に蘇る。
――かなちゃんはさ、アクアくんのこと、どう思ってるの?
「……本当に、どう思ってるのかしらね」
気づけば、そうひとりごちていた。
あの時のあかねの意図は、単純だ。
「有馬かなは、アクアという男の子のことを、異性として好いているのか」。それが、彼女の問わんとすることだった。
ああいうことを聞いてくるということは、つまりあかねの方もまた、アクアへの感情の正体をはかりかねているということなのだろう。今はどうかは知らないが、最低でもあの時点ではそうだったに違いない。
――本当に、情緒がおこちゃまだこと。
まあ、それはいい。ただ何にせよ、彼らは今ガチという番組で『形式上』くっついてから半年もの――今の今の話をすれば、もう半年はおろか一年以上もの――時が経っているというのに、どうやら自分たちの関係についてを宙ぶらりんにさせたままであるらしい。
変な話ではある。
かなも
互いに、「彼氏彼女避け」ということだろうか。それもまた、考えづらい。彼は別にアイドルでもなんでもない以上、自由に恋愛をすることにとやかく言われる立場ではない。いや、流石に女をとっかえひっかえ ――思っているだけでものすごくムカつくが――し始めれば、話は別だが。
そうだ。思えばアクアは、特に一年半前に「再会」してからのアクアは、ずっと何かおかしいのだ。
それに、今更ながらにかなは気づいていた。
アクアという人間からは、「欲」を感じない。彼が主体的に「何かを求める」姿を、かなはついぞ見たことがない。
しかし同時に、彼はたまに「焦り」のようなものを覗かせる。どこか、少し前までのかな自身と類似した何かをだ。
彼との再会以降、かなが時たまアクアに対して懐いていた親近感は、もしかしたらその部分に対してであったのかもしれない。が、それは今考えても詮無いことだ。
問題は、ここ最近のアクアにその傾向が強くなってきていることにこそあった。
近頃のアクアは、明らかに、そして輪をかけて変だ。「近頃」というのは、具体的には大体ここ一か月ほどのことを指している。
彼の初主演となる連ドラの撮影はそろそろ山場を迎えつつあって、放送されているドラマの視聴率も人気も上々だ。アクアの演技は相変わらず素晴らしく、彼が演じている「主人公兼悪役」の男の狂気は、画面の向こうからにじみ出てくるかのように思わせるほどだ。
「俳優・アクア」は、新たな境地に辿り着きつつある。天性の美貌を、とどまることを知らない魔性と狂気で染め上げて、「人の理から外れている」とすら錯覚させる強烈なキャラクター性を完璧に演じ切っている。
もともと、「異質さの表現」という側面において、アクアの右に出る役者は恐らくいなかった。
あれはきっと、天性のものなのだろう。「それが始まり」の時にせよ、「今日あま」のストーカーにせよ、そんなアクアの凄みのことは、かなは身に沁みて理解している。
そして今、アクアがドラマで演じている役どころにおいては、更にそこに、自らの演じるキャラクターの個性たる「何重にも折りたたみ、押し込めた感情の演技」が載っている。
それはまるで、黒川あかねが「東ブレ」の舞台で見せていた鞘姫の演技法を、そっくり吸収しているかのようだった。そんな複雑な構造の演技を、アクアはまさにドラマの中で加速度的にものにしていっているように、かなには感じられた。
だからそんなアクアの隣で、彼の「脱皮」していく様を間近で見ることのできる片寄ゆらという「相手役」の女優のことが、正直言って羨ましくてたまらない。
――私も、アイツとあんな演技をしたい。一緒に演技をしたい。
――あんなすごい芝居をしているアクアの隣で、自分のやりたいような演技ができたのならば、それはどれほど気持ちがいいだろう。どれほど楽しいだろう。
そう、思わずにはいられなかった。女としての嫉妬ではない、役者としての嫉妬を、かなは片寄ゆらという女優に向けていた。
……いや、流石にそれは嘘だ。正直なところを言えば、ちょっぴり「女としての嫉妬」も、そこには含まれてはいる。しかし、今この場においてそれはそこまで重要ではない。
ともかく、現状の彼の周囲を取り巻く環境は、総じて悪くない。寧ろ順調といっていい。そのはずだ。
しかし、かなは知っている。
最近、アクアがふとした時に見せる表情が、暗いのだ。何か、思い詰めているような気さえする。それは、傍から見ても分かることだった。
確かに、かなの知るアクアという人間は、元々あまり活発なタイプではない。必要とあれば人と交流することを厭わないが、さりとて自分から積極性を発揮して他人と関係を構築する性格でないのは確かである。彼の妹であるルビーが、アクアに対して「どっちかと言うと闇属性」などという地味に失礼な評価を下しているほどには、そうだ。
しかしそれを抜きにしても、最近の彼の様子は些か異常だった。もっと端的なことを言えば、そもそも最近のアクアは顔色が悪いのだ。
それでいて、いざ誰かに話しかけるときには、全く何でもないように振舞っている。ルビーを相手取るときも、かなに対してもそうだった。
気掛かりでなかったわけではない。心配していなかったわけでもない。しかし、かなはその先にまでは進めていなかった。
いや、違う。寧ろこれはそれ以前なのだろう。
だって、かなはアクアのことを何も知らない。
ルビーのことが第一の、どうしようもない「シスコン野郎」であることは知っている。しかし、ならばどうしてそこまで彼にとって妹が大事なのか、その部分を知りたいと思ったことはなかった。
演技のこともそうだ。あれほどの能力を持った役者なのに、巡り合わせの妙はあれど、キャリアを再始動させてから僅か一年半で地上波プライム帯の連ドラの主演をもぎ取ってくるほどの実力があるのに、子役時代にほとんど名前を聞かなかったのはどうしてなのか。彼にとって、芝居とはなんなのだろうか。
そうだ。かなは、何も知らない。知ろうとしてこなかった。アクアという人間の、何もかもを。
再会してからこちら、彼の目に確かに宿り続けている「焦燥」の正体も、また当然に。
だから今、有馬かなは思った。
知りたい。彼の、アクアのことを。
いや、違う。知らなければならない。
彼は今、一体何に向き合おうとしているのかを。
そればかりではない。もっとずっと前から、彼が何と向き合って生きてきたのかを。
そうしなければ、かなは自分がアクアに向けている感情がなんであるかさえ、整理できない気がした。
これからの自分が、どうアクアに対して向き合うべきであるのかさえも。
だからかなは、動いた。
時は八月の中旬、世間は盆休みに入り、しかしB小町三人は二か月後に迫った武道館ライブに向けてのセトリ組みや、ファーストワンマン以降に新たに出来上がった新曲の振り入れ、そして当日に向けての特訓に勤しんでいる。
そんなある日の夕方のことだった。この日はレッスンのあとにB小町ちゃんねるの撮影もないということで、B小町メンバーは早めの解散と相成っていた。
MEMちょはこれから自分のYoutubeチャンネルのための動画撮影があるらしく、そそくさと苺プロの事務所を後にしていた。
斉藤社長はいつもの通り外回りの営業だし、ミヤコ夫人の方はと言えば、事務所の表の方で事務作業のさなかである。
つまり今、この場――苺プロ併設の練習スタジオには、かなとルビー以外は誰もいない。
だからそれは、紛れもなく好機だった。
「結構時間早いね今日。先輩どうする? 一緒に夕ご飯とか食べる?」
お兄ちゃん今日撮影の日だからどうせ一人だったんだよねー、などと、後片付けを進めながらも軽い調子でかなに訊ねてくるルビーをじっと見据えて、かなは口を開いた。
「ええ、いいわよ。だけど――その前に、ちょっと時間貰えないかしら」
ルビーが帰宅準備を進める手が、パタリと止まった。床の方に向けられていた顔が上がり、かなの方を向く。
スタジオの只中、鏡を背にしたルビー越しに覗くかなの表情は、自分でもわかるほどに固さを、そして真剣味を帯びている。
楽しげな笑みを湛えていたルビーの表情が、変わる。まるでそういったものの全てが抜け落ちたかのように。
彼女から向けられた眼光にも、真剣さが宿っていた。
「いいけど。どしたの先輩、そんな真面目腐った
言葉遣いこそ、まだ些かの遊び心が残ってはいる。
しかし彼女の声色が、目が、その問いが本気のものであることをかなに知らせた。
「真面目なことだからよ」
上等である。こちらも同じく、本気の本気であるのだから。
そこで一度言葉を切り、大きく深呼吸する。ルビーから向けられる眼光が、ルビー自身の考えているであろう今のかなに対する予測を、その真摯さ、かなに向かって知らせていた。
気息を整え、顎を引いて、とうとうかなは口を開く。
「訊きたいことがあるの、アクアのことで」
対面に見るルビーは、表情一つ変えない。肩が跳ねたり、身動ぎしたりする様子もない。
ただじっと、かなのことを見つめている。
しかし今彼女がどういう反応を示そうとも、かながやることに、そしてやらねばならないことに、変わりはない。
「アイツ、最近どうしちゃったの? 元気ないようにしか見えないけど。……いや、違うわね」
今更言葉を濁す意味もない。とうに覚悟は決まっているだろうに。
だからかなは、持って回った言い回しなどやめにした。
言いたいことを、真っすぐに叩きつける。特に、ルビーに対しては。今までの、有馬かなのやり方の通りに。
「宮崎のMV撮影終わってから、アイツなんかずっと雰囲気違うじゃない。ルビー、アンタもよ」
一息だけついて、ルビーの瞳をどこか睨みつけるように見据えながら、その「問い」を発した。
「ねえ。――何か、あったの? アンタも、アクアも」
宙に放り上げられた言葉が、二人の間に横たわる。互いの無意識からの動きでさえ、そこでぴったりと止まった。
故に、悟る。
その瞬間、何かが変わった。何かを、越えた。
「運命の壁」、のようなものを。
そう、有馬かなは思った。
本作のかなちゃんは、原作の同時期と違ってめちゃくちゃ充実しています。
アクアに関しても、あかねから釘を刺されたりしていないのに加えてアイが死んでいないためにトラウマがあまりなく、かなちゃんを原作のように避けまくる理由がないので、(画面外で)普通に接してます。
そう言うこともあって、原作に比べて湿度が低いです。カラッカラです。
また、ここでのかなちゃんのキャラクター解釈については、作者独自の見解も含まれています。
が、原作の描写を追っていく限りにおいては、かなちゃんはいっつも精神的に追い込まれ続けていたので「他人に気を回す余裕がなかった」んじゃないかなと。
「自分で自分の面倒をみる」と言えば聞こえはいいですが、「自分のことで手一杯」だったのがおそらく原作のかなちゃんだったんだろうと思っています。
本作ではかなちゃんの周りの環境が大幅に改善していることで、かなちゃんに外に目を向けるだけの精神的余裕が生まれました。
つまりやっと、本当に遅ればせながら、かなちゃんは動き始めました。