天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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4-12. 時は満ちた

 ドラマ「薄明」の撮影も、いよいよ終わりの時を迎えようとしている。

 最近のドラマには珍しく、九月下旬までの十二回放送で予定が組み立てられたこの番組だったが、最終回分の撮影はスケジュールの関係上クランクアップの日の一週間ほど前に設定されていた。

 香盤表を一々見るまでもなく、最終回分の撮影には主役級のキャストが勢揃いしている。アクアも、片寄ゆらも、そして当然に姫川大輝もである。

 

 大輝はこのクールにおいて、ドラマを二本掛け持っていた。半年前に東ブレの稽古と公演をしていたころの、映画の撮影と掛け持ちでの二カ月に比べれば随分と負荷は下がったが、それでも忙しいことには変わりない。そして、多忙さという意味においては片寄ゆらの方がより深刻であろうことは、論を俟たない。

 すなわち、勝負をかける日というのはこの日を措いて他にはないということだ。事前に、アクアと示し合わせていた通りに、である。

 

 ゆら自身は、今日この最終日の撮影がオールアップとなるようにスケジュールが組まれているらしい。ということで、彼女は今日の撮影が終わり次第、「自分へのご褒美」をあげにいくと従前より言っていた。つまり、酒のことだ。

 そしてそこに、ミキさん――すなわちカミキヒカルが来るということも。

 

 まさに千載一遇とも言うべき好機である。アクアも、そして彼の恋人であり、かつ「協力者」である黒川あかねもまた、それには賛同していた。

 いずれにせよ、今を逃す手はない。大輝はアクアと話し合った末に、いよいよ動くことにした。

 

 ――前回、アクアと三人で食事に行ったときに出てきた「ミキさん」の話が気になるんですよ。ゆらさんがオールアップの日にその人と会うんなら、ちょっと俺にも会わせてもらえませんかね。

 そんな風に、ダメ元で頼んでみる。「だって、アクアとめちゃくちゃ似てるって言われたら見たくなるでしょ、一目ぐらい」、などと更に茶化して絡んだりもした。少し馴れ馴れしく行くことで、大輝の言について「後輩の何でもないおねだり」ぐらいに心理的ハードルを下げることを意図していた。

 

 その効果があったということだろうか、結果ゆらは割合あっさりと大輝のその「お願い」に首を縦に振った。

 些か拍子抜けと思わなくもない。ただよくよく考えれば、彼女から見れば大輝の言ったことはそこまで不自然な話ではないのだということに気づく。

 何せ、「気心の知れたいつもの呑み友達に、現場で知り合った後輩を引き合わせる」という、それだけの話だと言えなくもないのだ。なら、別に大輝とてこれから先何度でもすることはあるだろうし、身構える方が寧ろ変なことなのかもしれなかった。

 

 知らず知らずのうちに、アクアやあかねのどこか真剣なというか、深刻な空気に影響されていたということなのかもしれない。当然、彼らからすれば当たり前の話ではあるが、しかしこれから「ミキさん」との接触に臨まんとする大輝にとっては、寧ろそれを気取らせることは避けなければならなかった。

 

 しかし、と大輝は思う。

 その「ミキさん」、つまりカミキヒカルという人物は、(アクア)の父であると同時に、大輝の父でもあるのだ。論理的には当たり前のことであろうそれが、不思議な感慨となって大輝の前に現れている。

 いや、「そうである確証を得に行く」のが今回の大輝のミッションではあるのだが、ただ大輝はもう「彼」のことはほぼ確実にアクアの、そして自らの父親であると見做していた。

 

 つまるところ、それほどまでに自分は、今まで親父と思っていた男――上原清十郎のことが嫌いなのだろう。「アイツを親父と呼ぶぐらいなら」という後ろ向きな考えが介在していないと言えば、嘘になる。

 ただ、この「カミキヒカル」なる人物については、それとはまた別の意味で厄介だ。最低でも、アクアの話を聞く限りにおいてはそうである。

 今回の作戦を決行する前日に、アクアからメッセージで言われたことを思い出す。

 

 ――片寄さんが一緒にいるだろうから、その場に関してはほぼ確実に危険はない。

 ――けど、顔は覚えられる。だから、これからはちょっと身辺に気を付けておいてほしい。

 

 普通、初対面とは言え他人と会うだけで、やれ「危険」だの「身辺に気をつけろ」だのという物騒な言葉が飛び出してくることはないはずだ。だというのに、アクアはそれを完全に真剣そのものの態度で大輝に進言していた。

 つまり「カミキヒカル」なる人物は、それほどまでの警戒を向けるべき相手だということである。実際、「アクアが経験したこと」と、「それについての推理」を聞けば、彼がそんな結論を出していても驚くことはないのは確かだろう。

 

 ――本当に、苦労してるんだな、アイツ。

 そんなことを、大輝はしみじみと思わされる。そして同時に、これからの大輝はともすれば『彼と同じ立場』に立つのだということも。

 

 アクアは言っていた。カミキヒカルが父親だと判定出来次第、「できれば一年以内、長くともアクアが高校を卒業するまでに決着はつけるつもりである」と。「だからそれまで、我慢してほしい」と。

 上等だ。そう大輝は思った。何故かは分からないが、不思議に気分が高揚していた。

 この世に生を享けてより、一度は天涯孤独になった自分が、初めて見つけることのできた「血の繋がり」が、そんな「弟」から力添えを求められていることが、どうにも嬉しい。そういうことなのかもしれなかった。

 

 だからこそ今、大輝は自分たちの父親をカミキヒカルであると暴くための「秘密のミッション」に、前向きなモチベーションで臨まんとしている。

 

 

 

 ゆらに連れられてそのバー、「まるちゃんバー」へと入った大輝は、まず真っ先に手洗いへと向かった。

 用を足したかったから、ではない。言うまでもなく、DNA情報を収集するための方策の目星をつけるためだ。

 

 アクアは、前回大輝と自分のDNA鑑定を業者に依頼するにあたって、色々と調べていたらしい。

 曰く、DNAを析出するのに適した身体組織というのは、実はそう簡単に回収できるものではないのだという。

 

 一般によくDNA鑑定で用いられるのは、「口腔上皮」と呼ばれる組織だ。収集する方法として最も確実なのは、綿棒で頬の内側を擦ることである。

 その他には、血液や精液、そして毛根付きの――正確には毛根鞘付きの――体毛、といったあたりのものが列挙される。そして正しいDNA情報が検出される確率は、この列挙した順で下がっていく。つまり、析出出来る可能性があまり多くない体毛の場合は、数を用意して確率を上げてやる必要があるということだ。以前大輝から試料を回収する際に、髭を五本も抜かれたのはつまりそういう事情であったらしい。

 

 どういうことかと言えば、とにかく「相手に気づかれることなくDNA鑑定に使えそうな試料を回収するのはかなり難しい」という話だ。ドラマでよく出てくるような、服についた体毛を数本回収して分析に掛ければすぐに遺伝子情報の照合が出来る、などという都合のよい展開はないのである。

 

 しかし、大輝は幸運だった。

 この手洗い場には、会員制のバーとしてのサービスの一環ということか、マウスウォッシュが置かれていた。

 正確には、ここにマウスウォッシュのための紙コップが存在していることが、大輝にとっては非常に都合がよかった。

 

 すなわち、ターゲットたるカミキヒカルのことをうまく誘導することさえできれば、大輝は唾液の付着した紙コップを入手できるかもしれないのだ。

 唾液それ自体に遺伝子情報は含まれていないとはいえ、口内で代謝の一環として常に剥離している口腔上皮は唾液に混入している。それを回収できれば、析出できる可能性の高い試料が確保できるという寸法である。

 

 無論のことだが、大輝やアクアはそんな「ぶっつけ」の勝負ばかりに頼るつもりであったわけではない。それ以外にも、服に付着したフケを気づかれないように集めることや、最悪の場合は薄い紙を渡してわざと手を切らせ、そこの血を拭き取ることで血液を試料として回収するといった博打の類までも考慮してはいた。あとは、うまい具合にカミキを離席させた隙に、彼がそのとき飲んでいるであろう酒のグラスを拭き取って唾液を採取するといった段取りもである。

 

 当然ながら、この辺りのことは完全にアクアのアイディアであり、そして知見だ。ただいずれにせよ、事前の彼との相談の中で浮上していた「いかにして試料を回収するか」という一大問題に対して、こうして成算のある一定の方針が決められたことについては、間違いなく大輝にとって、そして今日の結果を受け取るべきアクアたちにとっても、歓迎すべきことだった。

 

 ともあれ、いずれにせよ基本的にチャンスは今日の一度きりだ。失敗は許されない。一頻りそのあたりのことを確認して、大輝はいよいよ手洗い場から外に出た。

 

 

 

「大輝くん、こっちこっち」

 

 ホールに戻った大輝を、早速に呼び止める声がした。

 このバーは会員制ということもあって、人の出入りはそこまで多くない。特に今はまだハッピーアワーの夕方辺り、晩夏と言うにはまだ早いこの時期は外も明るく、酒を飲みにやってくる人間などあまりいない。

 だから大輝はその声の主をあっさりと見つけることができた。バーカウンターの奥の方で、こちらに顔を向けて手を挙げる一人の女性の姿が目に入る。言うまでもないが、片寄ゆらだ。

 そして同時にその隣にいる、黒いジャケットを纏って同じ黒の帽子を被った、金髪の男の姿も。

 

 誰何など、するまでもない。いや、黙っていても、正体は彼女が明かしてくれる。

 ゆらの手招くままにバーカウンターへと向かえば、彼女はすぐさまに、自らを挟んで大輝と反対側に陣取った男のほうへと、その掌を伸ばした。

 

「この人。大輝くんが気にしてた人。『ミキさん』ね」

 

 気負いなく、あっさりと彼女はそれを大輝に明かし、視線をその彼の方へと向ける。

 ゆらりと椅子が回り、その男は地面へと降り立った。帽子を取り、壁側のフックにかける。

 ゆっくりとした手つきだった。そして、彼は掛けていたサングラスをも外す。

 

 細められていた目が、少しずつ、ゆっくりと開けられる。向こうに見える双眸は、大輝のそれと同じ色をしていた。

 アクアから共有されていた、そしてその後あかねから動画の形でも見せられていた「少年」の姿が、眼前の男に重なる。まさしく、延長線上に座するものとして。

 髪型こそオールバックにまとめているが、顔つきも雰囲気も、全てが大輝に知らせていた。「彼こそが、あの少年である」と。

 

 大輝の中を、ざらついた何かが撫でていく。そういう錯覚に囚われた。

 何か、致命的な予感を内包しているような。

 

 彼が、口を開く。

 

「どうも。ゆらさんからちょくちょくお話、聞かせてもらってますよ」

「……そですか」

 

 柔和な声だった。しかし同時に大輝には、それは『何の情動も悟らせるつもりのない、平板な声』にも聞こえた。

 ならば、と大輝は背筋を伸ばした。そして、右手を差し出す。

 

「なら、長々した話はいらないでしょうね。……姫川大輝です。よろしくお願いします」

 

 どこか挑みかかるような内心で、大輝は彼を、カミキヒカルを見る。

 

「……ええ、こちらこそ。よろしくお願いします」

 

 一瞬、ほんの一瞬だけ、彼は動きを止めた。しかしそれも束の間のこと、向こうからも、大輝と同じように手が伸びてくる。

 互いの右手が、結ばれた。

 

 ほんの少しだけかさついた彼の掌の感触が、大輝の右手に走る。

 そのことが、やけに印象深く感じられた。

 

 今この場において、彼が自らの名前を名乗らなかったことも。

 

 

 

 

 

 大輝が、「彼」――カミキヒカルと邂逅を果たしてから、いくらかの時が経った。

 

「――それでさぁ、ホント今期のスケひどすぎでさぁ! 帯一個持ってるのにドラマ二個に映画一個はちょーっと詰めすぎなんじゃないの? って」

 

 バーカウンターに一列で腰掛ける大輝たちの中、バーテンダー兼マスターが作ったカクテルを呷りながら、ゆらがひたすらに言葉を捲し立てている。

 

「コスパって意味じゃCM沢山の方が全っ然いい! まあ別にお金稼ぎたくて芸能界(この世界)にいるわけじゃないけどさぁ、でもなんかいいように使われすぎっていうか! キャスティングもぶっちゃけ『顔と知名度』だけで決められてる感じがするって言うか!」

 

 出てくるのは、どこまでも愚痴だ。まさに「流れるように」と言ってもいい流暢さで、片寄ゆらは自らの現状に対する愚痴を吐きまくっている。

 なるほど、酒を飲むという行動自体が片寄ゆらという人間にとってはストレス発散の一環であるということらしい。自分もあまり、人のことは言えない気もするが。

 

「そう思わない? ミキさんさぁ」

 

 隣にいる大輝をよそに、ゆらはミキさん――カミキヒカルの方へとぐるりと顔を向けた。

 黙って彼女の不満にひたすらに耳を傾けていた彼が、柔和に細めた目のままに、「でも」、と答える。

 

「それはゆらさんがそれだけ認められているということでしょう? ゆらさんの最近の演技、僕は素晴らしいと思いますけどね」

「そう? いやぁ、そう言ってもらえるのは嬉しいけど」

 

 これまでの印象に違わない、柔らかく温和な声だ。なるほど、ゆらが彼のことを「人当たりがいい」と評価するのもなんとなくではあるが理解できた。

 対するゆらはどこか照れたように後頭部を一つ二つ掻いて、しかしすぐにカミキのほうから視線を外す。手元に視線を落としていた。

 

「けどまぁ、やっぱり知名度ありきって部分があるのは確かな気はするんだよね」

 

 言いながら、ゆらは皮肉げに口元を歪める。

 

「テレビの世界って、結局『いい演技』とか『いい作品』よりも『売れるキャスト』と『売れる作品』のほうが大事って言うか、数字主義なわけで。若いころから頑張ってきたことが評価されるのは嬉しいけど、でもそれは『今の自分』が評価されてるのか、『自分が持ってる数字』が評価されてるのか、そういうとこがもやもやしちゃうわけさ」

 

 その部分には、大輝も少しだけ共感するところはあった。

 「持てる者の贅沢に過ぎる悩み」であることは間違いない。しかしこの芸能界という世界で生きていると、こと演技に拘りの強い人間であれば人間であるほど、ここが純粋な芸術の世界とは程遠い世俗の現実を叩きつけてくる場所であることを思い知らされるものなのだ。

 大輝自身もそうだし、また大輝の思う限りにおいては、恐らく黒川あかねも近い未来にそういう悩みを持つことになるだろうと予想している。

 

 ただ、今の大輝はそれについて何か論評を加えようという気はあまりなかった。彼女から発される愚痴よりも、それを聞いているカミキヒカルが何を考え、何を口に出そうとするかを見極める方が、余程に大事なことであったからだ。

 斯くしてそれを受けて、彼が、カミキが口を開く。

 

「まあ、でも機会は多ければ多い方がいいというものでしょう? ゆらさん、あなたの『夢』のことを思えば」

 

 その「夢」という言葉に、ゆらは反応する。ちびちびと飲んでいたカクテルのグラスを、カウンターテーブルの上に置いた。

 

「素敵な夢だと思いますよ。『百年後も残る名作の主演を張りたい』、なんて」

 

 一瞬、場に静寂がやってくる。大輝が聞いたことのなかったそれは、きっとゆらが彼、カミキと交流を重ねる中で話していたものなのだろう。

 ふっと、息を吐く音が聞こえた。言うまでもなくそれは、ゆらからだった。

 

「それは、嬉しいなぁ。けど、そのためにはまだまだ頑張らなきゃ。超えなきゃいけない人もいるし、追いついてきそうな怖い子たちもたくさんいる」

 

 次いで出てきたのは、ぼそりとした言葉だ。何のことはない呟きだろう。

 しかしその瞬間、ゆらの向こう側において、空気が揺らいだ。そう、大輝は感じた。誰によるものであるかなど、この際言うまでもない。

 気のせいか。そう思おうとして、しかしどうしてもそうは思えなかった。

 

 ただ、そんな大輝の小さな違和感をよそに、ゆらは言葉を重ね続けている。カミキヒカルの方を、見ることもなく。

 

「上はまあ、アイさん一強だけど。それだけじゃなくて、下の子たちも最近本当に凄い子だらけでさ。不知火フリルなんてもうめちゃくちゃ売れてるでしょ、現役高校生だって言うのに。追いついてきそうっていうか、もう追い越されちゃってるかもしれないぐらい」

 

 他には、と彼女は指を折った。

 

「最近だと、前ミキさんが言ってた『黒川あかね』って子。あの子もこれから絶対伸びてくるよ。『お台場』んところの秋クールの月9でもう主演取ったって話が流れてるし、こないだ封切りの映画も評判いいみたいだし」

 

 ゆらからその名前が出たことは、今この瞬間においては正直に言ってあまり喜ぶべきではなかった。

 無論、あかねのことを「ミキさん(カミキヒカル)から聞いた」と彼女が言っている以上、そもそもあかねの名前自体は既にカミキには知られている。しかしそうであっても今この瞬間、あの揺らいだ空気にどうしようもなく不穏な予感を覚えてしまっている大輝からしてみれば、この場であかねの名前が出てくること自体、警戒に値する何かであると思えてならなかった。

 ただの勘、ではある。しかしこと「役者という人種」にとって、こういうタイプの勘は軽視するべきものでは断じてないのだ。

 

 そして今、彼女は更にもう一人の名前を挙げようとしている。

 

「それと、あともう一人私が気になってるのは。……アイドルの子なんだけどね」

 

 大輝は、身構えた。その前置きから出てきそうな名前に、心当たりがありすぎたからだ。

 果たして、予感は当たる。

 

「『ルビー』って子。『B小町』っていうグループの子なんだけど。ミキさん知ってる?」

 

 それが彼女の口から出てきた瞬間、空気が止まった。もう、気のせいだと棄て去ることなどできはしなかった。

 空気、どころではない。見ればゆらを挟んだ向こう側で、カミキヒカルが動きを止めていた。それまで口にしていたグラスを、右の手に握ったままに。

 

 数秒ほどそのまま、しかし思い出したかのように、彼はコップをテーブルの上に置く。フリーになった両の手を組み、顎をそこに載せて、ゆらの方を向いた。

 

「ええ、もちろん。僕も気にしていますよ、その子。『B小町』というと、アイの名前が出てきますよね」

「そうそう、だから気になったんだよね。あのアイさんがセンターやってたアイドルグループとおんなじ名前でアイドルやろうって、すごい自信だなって思って」

 

 するすると、ルビーについての話が進んでゆく。大輝を置き去りにするようにして。

 警鐘が、鳴っていた。言うまでもない、異母妹(ルビー)のことだ。

 

 ゆらが名前を出した彼女は、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。それを知れたこと自体、この場所に大輝が出向いた意味はあったのかもしれないとすら思わせた。

 同時に彼から、カミキヒカルという人間から滲み出てくる、無視することのできない「違和感」の存在を知れたことも、である。

 そして今、彼が口を開いた。ゆらに向かって、一つの問いを発していた。

 

「ゆらさんから見て、その子――『ルビー』という子は、伸びてくると思いますか?」

「え?」

 

 ぽかん、とやや抜けた表情で、ゆらがカミキの顔を見る。いきなり何を言うかと、そう思ったのかもしれない。

 しかしそれはほんの数秒のこと、彼女は、ゆらは、カミキのその問いに首を縦に振った。

 

「うん。役者やるかどうかは分からないけど、多分この世界じゃ無視できない存在になるって、私は思ってるよ」

 

 彼女の答えに、何を考えたのか。いずれにせよそこで、カミキはゆらから視線を逸らした。

 

「そうですか。ゆらさんから見ても、そうですか」

 

 ぽつりと言って、頷く。

 未だ穏やかな声色を一切崩さず、顔も優しげに目を細めたままで、しかしそれと彼に感じる空気との間に見える不気味な齟齬は、大輝に強烈なまでの警戒心を持たせるには、あまりに十分なものであった。

 

 

 

 話が落ち着き、一瞬の静寂が訪れる。店内にBGMとして流れているジャズのゆったりとしたグルーヴと、遠くに微かに聞こえる他の客の話し声だけが、この場の音の全てになった。

 

 ――さあ、次は何が出てくる。

 そう大輝が内心でひとりごちたところで、俄かに事態が動いた。

 くるり、と再びカミキヒカルの座る椅子が回る。ゆっくりと、通路の方に向かって振り向いた彼が、高く設えられた座面より降りる。

 

「すみません、ちょっとお手洗いに」

 

 よっと、と小さな掛け声をあげて地面に降り立たカミキは、ゆらに、そして大輝に向かってなんでもないようにそう言った。

 そのままさっと踵を返して、入り口近くのトイレの方へと歩を進めていく。

 

「そう? んじゃ私も行こうかな」

 

 そしてそこに、更にゆらも乗っかった。追いかけるように椅子から飛び降りて、同じように女子トイレの方へと歩き去っていった。

 

 

 

 一瞬のことに大輝は呆気に取られて、しかし同時に気がついた。

 

 今、ここには大輝しかしない。ゆらもカミキヒカルも、席を立ってこの場を離れた。

 すなわち、カミキヒカルのグラスが、誰からも注目されない状態で残置されている。

 それだけではない。彼は向かっていったのは、マウスウォッシュの置いてあるトイレだ。

 

 何を意味するか、分からない大輝ではない。これから何をすべきかについても、また然りである。

 考えれば、彼の為人に関する必要な情報はすでに一通り集めきっている。

 

 ならば、勝負の時は今だ。

 

 

 

 故に大輝もまた、自らの為すべきことを果たすために、椅子から立ち上がる。

 その後、大輝が今日この場における「ミッション」を完遂したのは、そこから十分と経たずのことであった。

 

 

 

 

 

 

 

 アクアたちがドラマ「薄明」の最終回を撮り終え、大輝が「潜入作戦」を成功させた日から、二週間が経った。

 ドラマのクランクアップも先週無事に終わり、いよいよ今週末の最終回の放送を待つばかりとなっている。

 

 仕事という意味では、アクアは一段落ついたとも言える。打ち上げこそドラマ最終回放映日の翌日に予定されているが、逆に言えばそれだけだ。概ね、初めての大役(ドラマ主演)を無事に果たした、と評価してもよいだろう。

 

 しかし今、そんなことよりもよほどに重要で、かつ深刻な問題に、アクアは直面している。

 それを話し合う場と言うのが、今あかねと、そして姫川大輝と同席しているここ――姫川大輝の自宅マンションだった。

 

 

 

 大輝が住んでいるのは、コンシェルジュ付きの高級マンションである。

 内廊下の構造に加えて、自室ですらキーレスエントリーが装備されている、セキュリティをかなり重視している物件でもあった。

 

 そんな彼の自室、ロフト構造になっている一階部分のリビングの中で、家主の大輝と客人のアクア、そしてあかねの三人はテーブルを囲っていた。

 全員で覗きこんでいるのは、当のテーブルの上に置かれた一つの書類だ。その何たるかは、言うまでもない。

 

 「私的DNA型親子鑑定書」。当然に、対象はアクアと、そしてカミキヒカルだ。

 

「まあ、そりゃそうだわな」

 

 最初に口火を切ったのは、大輝だった。書かれている内容から出てくる、当然とも言うべき反応でもあった。

 

 ――肯定確率九十九、九九八パーセント。カミキヒカルと星野アクアは父子関係にあると推定される。

 いつかアクアと大輝との間でDNA型の鑑定をしたときとほとんど同じ内容の文章が、そこにはあった。

 

 アクアとルビー、そして姫川大輝の三人が、カミキヒカルという男を父親に持っていることの客観的な証明である。

 つまるところ、これは最後の、そして最大のピースだった。アクアにとっては、スタートラインに立つための。

 

「これは、しっかり言わせてほしい。――ありがとうございます、姫川さん。本当に助かりました」

 

 アクアは居住まいを正して大輝の方に身体を向け、深々と頭を下げた。

 けじめだった。今目の前にある結実を得るために、彼にはある意味で虎穴に飛び込んでもらったのだ。

 無用なリスクを背負わせた、と言ってもよい。今だけではない、将来においてもだ。ならばそれに対する礼の言葉は、何にも優先して伝えねばならないことだろう。そう、アクアは考えていた。

 

「ん? ああ、まあな。それは別に、気にしないでいい」

 

 対する大輝の方は、いつもの様子でアクアのそれにひらひらと手を振る。「何でもない、大丈夫だ」と、身振りで伝えようとしていた。

 いや、そうではないのかもしれない。寧ろそこからの方が本題であるとばかりに、大輝は徐に身を乗り出してきた。

 

「けど、正直あんまり状況はよくねぇな」

 

 出てきた声は、相応の深刻さを帯びていた。

 

 

 

 「状況はよくない」。その言葉の意味するところは、すぐに大輝から明かされた。

 

「試料渡した時にもざっとは言ったけどな。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()、カミキヒカルには」

 

 「目をつけられている」と言うのはつまり、名前を覚えられているということだ。大輝が、そこから指を折り始める。

 

「出てきた名前だけで、『アイ』、『不知火フリル』、『黒川あかね』。当然、俺とお前も名前は知られてる。そして」

 

 名前を挙げながらあかねの方にも目配せしつつ、そこで一度言葉を切る。アクアの方に向けられた目が、力を帯びた。

 

「『ルビー』。お前の妹のことも、アイツは意識している」

 

 ガツンと、頭を殴られたような衝撃だった。血の気が引くような思い、と言ってもよいかもしれない。

 『カミキヒカルに、ルビーが存在を認識されている』。これから芸能界で名を上げていくであろう彼女のことだ、それは遅かれ早かれのことであると覚悟はしていたが、それでもなおその事実は、アクアの心胆を寒からしめるものだった。

 日常の中に、不躾な手が差し込まれたかのような。そういう錯覚を、アクアは懐かされていた。

 

「まあ、名前知ってる程度でだからなんだって話かもしれねぇけど。……ただ、どうにも妙な予感がするんだよな」

 

 そしてきっと、アクアと同じような懸念を大輝は持っている。いや、片寄ゆらという第三者が存在してはいても、曲がりなりにも直接カミキヒカルという男と相対することになった大輝の方が、ともすれば現実感というか、危機感は強いのかもしれない。そう、思わされた。

 

「お前からアイのこととか聞いたから、そういう偏見みたいなもんもあるのかもしれねぇ。けど」

 

 眼鏡の向こうの瞼が閉じられる。どこか決心のようなものさえ宿した息が、彼から一つ吐き出された。

 再び、唇が開かれる。

 

「やっぱりちょっと、本腰入れてアイツの周り、調べた方がいいかもな」

 

 開いた目の中には、声音と同じ色をした覚悟が、覗いていた。

 

 

 

 大輝は今、それほどの意志でもってアクアの隣に立とうとしてくれているのだ。

 ならば、自分もまた頼りきりではいられない。

 

「……それは、助かる。けど、それなら俺も――」

「やめとけ」

 

 しかし、そのつもりで発した言葉は、大輝によって遮られた。大きく、首が横に振られた。

 

「何でだ。流石にアンタに頼り切りってわけには」

「そういうことじゃねぇ。お前は、お前にしかできないことがあるだろ」

 

 身を乗り出し、肘をついて、組んだ手に顎を乗せる。紫紺の瞳が煌いた。

 その輝きの強さに、言葉を奪われた。

 

「アクア。今回の話、『高校卒業するまでにはどうにかする』って、前言ってたよな」

 

 呆気にとられ、呼吸を忘れたアクアのことを、しかし矢継ぎ早に放たれた彼からの言葉が引き戻す。

 我に返り、彼の言ったことを咀嚼して、アクアは頷いた。

 

「ああ。それ以上引き延ばすつもりはない。そこまでで決着はつける」

「そか。だったら」

 

 恐らくは意識して、大輝はそこで一呼吸を入れてみせた。

 そして、断固たる口調で言い切る。

 

「お前の妹を、守ってやれ。黒川も」

 

 彼のかけている眼鏡のレンズが、部屋の灯りに反射してきらりと輝いた。

 

 

 

「……分かってるさ」

 

 それは、アクアにとっては言われるまでもないことだった。

 

 というより、もうすでにアクアは動き始めている。

 ルビーに関しては、近々に開催される武道館ライブ以降、確実に知名度が向上するであろうことを見込んで、すでに壱護社長やミヤコ経由で「有名人としての立ち回り」を叩きこんでいる最中だ。

 そこには、街中で行動する時の身分の秘匿の方法や、住所や現在地を特定されないためのSNS投稿における戦略、そしてストーカーなどの現実世界における被害への対処法も含まれている。

 

 そればかりではない。ルビー自身にはそういう方向で自衛をさせつつ、更に壱護社長に「仕事中における護衛の徹底」をアクアは約束させていた。

 「アイの身に起きたようなことを、もう二度と起こしてはならないのだ」。アクアがそれを力説すれば、壱護社長はすんなりと提案を聞き入れた。

 仕事ばかりではない。その前後においても、ルビーが出来る限り単身でどこかに出掛けることのないように、アクアかB小町の誰かが、それが不可能な場合はミヤコが、送迎も兼ねて彼女の側にいることになっている。

 

「妹に関しては、もう動いてる」

 

 過保護かもしれない。しかし、どれだけ手を尽くしても、尽くし過ぎるということはない。いずれにせよルビーについては、その身の安全の確保に「人事を尽くした」自覚がアクアにはあった。

 しかしもう一人の方、あかねに関しては、それほどのことは出来ない。位置情報共有アプリこそつけているが、彼女自身の生活の全てを監視するわけにもいかなければ、その芸能活動を束縛することも出来はしないのだから。

 故にアクアはもう一つの頼みを、目の前の彼にする必要があった。

 

「だけど、あかねの方は」

 

 一度、息を吸った。あかねに目線を一度向けて、すぐに大輝の方に戻す。

 

「俺がずっとついてるわけにもいかない。だから、頼む」

 

 そして、アクアは深々と頭を下げた。

 

「姫川さんも気をつけておいてくれないか、あかねのことを。……『カミキ』のことを頼んでおいて、あかねのこともなんて、厚かましいにもほどがあるとは分かってるけど、それでも」

 

 隣で、あかねが息を呑んだ音が聞こえた。

 

 

 

 世間一般には、「恋人」と呼ばれるような関係の女性を、異母兄とはいえ他の男に半ば託すような真似は、正しくはないのだろう。

 それは分かっている。しかし、アクアにとってはそんなことは極めてどうでもよかった。

 

 惚れた腫れた、好いた好かれたの話ではない。

 命の話だ。「明日」の、「未来」の話なのだから。

 

 当然に、そのことは大輝も分かっているのだろう。だから一瞬だけ目を見開いてアクアのことを見返したあと、彼はどこか感じ入るように目を閉じた。

 腕を組み、しばらく黙り込む。その末に、彼は頷いた。

 

「わかった。ララライにいるときとか、お前が見れなくて、俺が黒川のことを見れるタイミングは、気をつけとく」

「……ありがとう」

 

 彼の返答にもう一度アクアは頭を垂れて、約束は交わされた。

 斯くして一先ず、アクアとあかね、そして大輝との間での共有会は、一度そこでお開きとなった。

 

 

 

 しかし、それですべてが終わったわけではない。アクアと、そしてあかねの間には、話さなければならないことがまだ残っている。

 

 その暗黙の了解のもとに、アクアとあかねはそこからさらに、「いつものカラオケボックス」へと向かった。

 つまりそれは、「この情報を基にどのようにアイに向き合うのか」という、そして「それ以降にどういう行動指針を取るのがよいか」というかねてよりの宿題が、いよいよ解決せねばならない課題となって目の前に立ち塞がっていることへの「作戦会議」のためだった。

 

 

 

 いつもの通りのカラオケブースの中、口を開いたのはアクアの方からだった。

 

「どうするのが、いいんだろう」

 

 まさに情報量ゼロの問いである。とはいえ、文脈を共有している互いの間においては、それ以上の言葉は不要だった。

 アクアが発したそれに、あかねは腕を組む。彼女の答えを待つことなく、アクアは続けた。

 

「とりあえず、母さんには今回の結果をそのままぶつけてしまうのがいいとは思ってる。根拠としてこれ以上のものはないから」

 

 まず、今のところ既にやることが決まっている部分については言葉にしておいた。

 あかねからも、特に反論はない。当たり前と言えば当たり前ではあるのだろうが。

 

「そっちはいいんだ。けど、問題はそこじゃない」

 

 そちらの方針は、固より初めから決まっていた。だからアクアが今悩んでいることは、その先にこそ存在していた。

 

「血縁関係の証明もできた。今何をしているのかも分かってる。接点も、まあなくはない。……だけど」

 

 あかねの顔を見据えたまま、一瞬だけ言葉を切る。

 続きとして言うべきは何か、アクアが今抱えている課題感の、その実情とはなんであるのかを、少しだけ探した。

 いくらかの逡巡の末に、答えを見つける。それを、言葉にした。

 

「やっぱり、まだ分からない。俺はカミキヒカルをどうしたいんだろうって。会って、話して、それで俺は何をしたいんだ。何をしないといけないんだ」

 

 あるいは、それは自問だった。あかねは言葉を返さない。ただ静かに、アクアの言うことを聞いている。

 

「『ドームの日の意図を問い詰める?』答えるはずない、正直になんて」

「『俺たちに手を出すなって釘を刺す?』取り合うわけがない。そもそも根拠もないのに」

「『ただの茶飲み話?』有り得ない。バカの極みだろ、いくらなんでも」

 

 次々と候補を出しては、自らダメ出しによって退けていく。

 そもそも、そんな一考の価値さえない案しか出てこない時点で、アクア自身のビジョンのなさを露呈しているようなものだ。

 

 理由など、一つしかない。

 

「足りなさすぎる。材料が」

 

 呟いていた。

 何のか。言うまでもない、「カミキヒカルという人間を理解するための材料」だ。

 

 実のところ、アクアは自らの中で、カミキヒカルという存在の「原点」についての洞察は十分にできていると感じていた。

 あのドラマにおいて彼の幼少期と似た境遇の男を演じ、それと星野アクアの「内側」を共鳴させたことで、カミキが十歳頃に体験した「地獄」と、その後アイと出会って、そしてアイに「縋って」いた頃の彼の心情のことは、ある程度の正確さを以て内面化できたと自負している。

 

 しかしその後、アイと別れてから先の、「姫川夫妻の心中事件が起き、劇団ララライを離れたあと」のカミキヒカルのことが、まるで分からない。

 足りないのは、その部分の材料だった。それが分からない限り、あの日アイの許にやってきた「死神」――あのストーカーとカミキヒカルの関係も、そして今彼が何を考えているのかも、推測することさえできないのだから。

 

「せめて、母さんがカミキヒカルとどういう付き合いしてたのかとか、その時どういうことを思ってたのかとか、『どうして別れたのか』とか、そういう『取っ掛かり』があればまあ、話も違ってくるんだろうけど」

 

 思わず、そうぼやいていた。この辺りの突破口さえあれば、「カミキヒカルという人間」へのアプローチが大きく進む。特に、かつてのアイとカミキヒカルの関係を、そしてそれが破局に至った理由を突き止めることができれば、それを梃子にして局面を打開できる可能性もまた、生まれるだろうというのに。

 彼と顔を突き合わせるに足る理由を見つけ、彼に対してアクアがなすべきことを明らかにすることだって、出来るかもしれないのに。

 

 しかし、そんな思いで何とはなしに口にしたアクアの台詞に、あかねは瞬間顕著に反応した。

 組んでいた手が離れる。悩ましげに寄っていた眉根も。そっか、なら、などと、口の中でつぶやく声のようなものを、アクアは聞いた。

 

「どうした?」

「いや、えと」

 

 必然的に、アクアは真意を問う。

 暫く逡巡の姿勢を見せていたあかねだが、結局アクアが真っすぐ向けている視線に押し負けたか、息を一つ吐いた。

 そして、答えてくる。

 

「その辺りのこと、もしかしたら知ってる人がいるかもしれない」

 

 今度は、アクアが反応する番だった。

 さもありなん、だろう。もしあかねの言うことが本当なのであれば、今アクアの頭を悩ませている現状に対する課題が一気に打破できる可能性があるのだから。

 

「……聞かせてくれないか」

 

 故にアクアはそれは訊き、対するあかねは答えを示した。

 

「前、『東ブレ』の舞台の時。アクアくんが倒れたあと、一緒に行ったでしょ、カントクさんのとこ」

「それは、そうだけど」

「それでね」

 

 どこか言いにくそうに手をもじもじとさせ、あかねは顔を伏せる。しかしそれも数秒のこと、意を決したように顔を上げて、続きを口にした。

 

「その時、アクアくんの昔の事情を監督さんに聞いたんだよ。『四歳の時、アクアくんが大怪我した』って話も」

 

 初めて明かされた事情だった。

 しかしそれには、アクアとしても納得する面があった。

 高千穂の夜、あかねがアクアの事情をあそこまで詳らかに知っていた理由だ。あかね自身の抜きんでた洞察と推察の能力はあっても、その「タネ」になるような事実は、無からは生えてこない。

 だから最低でも、アクアたちの事情に関して情報をあかねに教えた人間がどこかにいるはずである。それが、監督――五反田監督だったということなのだろう。

 

「なるほど」

「でも、それだけじゃない」

 

 そして、そこで彼女は終わらなかった。もう一つ、あかねは「推論」を言おうとしている。

 

「私にアクアくんのことを言うとき、監督さんは露骨にいろいろ言いづらそうにしてた。『言っていいこと』と『ダメなこと』を、選んでるみたいだった」

 

 だったら、とあかねは言葉を継ぐ。

 

「アクアくんについて、『言っちゃダメ』なことを、監督さんは知ってたんじゃないかなって。例えば『アクアくんのお母さんがアイさんだ』ってこととか。場合によっては、アイさんについても、もう少し詳しいことを知ってるかもしれない」

 

 仮定のような言葉遣いだが、しかし同時にあかねの声は、それ以上に『確信の色』を伴っていた。

 

「灯台下暗しって諺はあるけど。でも、『カミキヒカル』のことを知った今なら、もしかしたら答えてくれるかもしれない、このあたりのこと」

 

 どうかな、と、彼女は上目遣いにアクアを見た。「成算のある提案だ」と、その瞳が語っていた。

 

 

 

 アクアは、目を閉じる。

 五反田監督とアクアの縁は長い。かれこれ十年以上にわたっている。しかしその中で、アクアの事情に彼が干渉してくるようなことは基本的にはなかった。僅か齢四つほどで半ば「弟子入り」のように監督のところに入り浸るようになった理由も、その前後に起きたことについても。

 

 しかし同時に、確かに彼はアクアのことをずっと気遣っていた。そこには、遠慮のような色さえあった。まるで、アクアが他人に対して隠しているものを、どこかで察しているかのような。

 更に言えば、五反田監督は「あの事件」が起きる前から、それこそ映画「それが始まり」の撮影に前後するようにして、アイと断続的な交流を持っていた。それもまた、アクアは認識している。

 

 ――ならば、そうなのか。監督は、知っているのか。

 だとするならば、確かにそこに価値はある。改めて、彼に対して己の母のことを訊く意味は。

 

 

 

 目を見開き、正面に向けていた顔を、あかねへと合わせる。

 互いに真剣さを帯びた視線が、その中央で交わった。

 

「そうだな。やってみるしかないか」

 

 どちらともなく、頷く。

 互いの了解が、そこで結ばれた。

 

 

 

 斯くしてその次の日、早速にアクアは五反田監督のもとに足を運んだ。その場にあかねを伴うことなく、一人でだった。

 彼から本当のことを聞き出すには、その場には他の誰をも同席させてはならないと、直感していたからだ。

 

 果たしてアクアは、そこで『本当の最後の手がかり』を得ることになる。

 

 それは、『二枚に分けられたDVD』の姿をしていた。

 それは、『本来ならば棄て去られているはずのもの』だった。

 それは、『十六年越しの嘘と、約束の記録』だった。

 

 そのうちの片割れ、アクアの為に用意された「メッセージ」を見て、理解して、アクアの中で一つの決心が固まった。

 

 

 

 時は満ちる。

 自らの母、アイとの対話を、果たすべき時だった。




次回、第四章最終話。
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