――自分にとって、星野アイとは一体なんなのか。
きっとずっと、それは答えの出ない問いだった。
天童寺さりなが推していたアイドルが、その願いを引き継ぐように自らもまた推すことを決めたアイドルが、数年の後に自分の担当する妊婦となり、そして如何なる運命のいたずらか、母親になった。
だとしたら、アクアにとってアイとは、つまり「推しのアイドル」なのか。それとも、「自分を生み育ててくれた母親」なのか。
「どちらでもある」。そう言えたのならば、どれだけよかっただろう。なんの疑いもなく、アイのことを母親だと思えたのならば。
しかし、そうでないことなどアクア自身が一番よく分かっている。当然だ、自分のことなのだから。誤魔化すことなどできはしない。
肉親だとは思っている。かけがえのない、大事な存在だとも。それこそ
それでも、今の自分がアイへと向けているその情動が「母親への愛情」だとは、とても表現できなかった。
全くもって、笑えない話だ。いや、寧ろ笑うしかないのかもしれないが。
そうだ。一端に「母さん」などと呼んでいるが、そもそもアクアはアイのことを、本当に母親だと思ったことなどあったのか。
問うまでもない。それ以前だ。
第一、母親というものの存在を想像と類推によってしか補えない今のアクアに、アイのことを真に母親だと認識できるはずがあろうか。
そんなものを一度も持ったことのない、今のアクアに。
いや、そもそもそんな資格などあるのだろうか。
その存在を踏み潰すことでしかこの世に生を享けることができなかった、かつての吾郎と地続きの、今の自分に。
たまに、夢を見る。
小学校の入学式に、授業参観に、あるいは卒業式に、お忍びで何とか潜り込もうとしてはミヤコに制止される、年甲斐もなく我が儘な、ともすればあどけなささえ帯びた振る舞いを見せる無邪気な母を、アクアとルビーで笑って見ている。
そんな、叶うことのなかった夢を。
そんな、どうしようもなく未練がましい夢を。
もしあの日、あのドームライブの朝にあんなことが起こらなくて、アイとアクアとルビーの日常が壊れることもなくて、その延長線上の未来に生きることができたのならば、もしかすればアクアは「アイの子供」としてアイとの関係を育んで、そんな他愛もない日々を彼女と過ごして、その末に「母としてのアイ」を受け入れることができたのかもしれない。母親というものを、理解するに至っていたのかもしれない。
しかし、そうはならなかった。あの日、あの玄関で起きた惨事は、アクアの中でアイのことを再認識するために必要だった時間の歩みを、完全に止めてしまった。
そしてアクアは、きっと未だにあの場所から動くことができずにいる。あの日の、マンションの玄関の上から。
でも、だからこそ決着をつけなければならない。
必要なのだ。アクアが前に進むために。
かなが叶えようとしている夢を、真に祝福できるようになるために。
あかねから受けた計り知れない恩を返すために。
ルビーに誇れる兄として、あの日天童寺さりなに何もできなかった自分から脱却して、今度こそ彼女の生きる未来を見届けるために。
そして――アイを、本当の意味で母と呼ぶために。
その材料は今、手元に全て揃っている。
その日、星野家の三人はリビングの中で、テレビの前に揃って陣取っていた。
画面に映し出されているのは、ドラマ番組である。今は週末の夜十時、すなわちそれは、アクアが出演するドラマ「薄明」の、最終回だった。
普段、アクアは自らの出演しているこのドラマを家族と共に一つ所で見ることなどない。言うまでもなく、「自分がまじめに俳優をしている姿を家族の前で直視するのは気恥ずかしい」という気持ちは大きいからだ。
ただ、それだけではない。とりわけこのドラマに関しては、「自分自身が今回の役を演じるに当たって考えていることを、家族に悟られてはいけない」という防衛本能も働いていた。アクアが今回のドラマを介して一体何を目論んでいるのかについて、アイに知られるわけにはいかなかったのだ。
しかし、その時間はもう終わりである。寧ろ今、アクアはその全てを明らかにする形で、他でもないアイと対峙しなければならない。
材料は、全て揃った。アクア自身の覚悟も、また然りである。故に今、アクアは自らの出演するドラマの最終回を、敢えてアイと共に見ていた。
これからアクアがしようとする話の謂わば『枕』に、このドラマの存在はまさしくうってつけであるからに他ならなかった。
高校を卒業した「杉原司」は、そこから大学進学と同時に一つのスタートアップ企業を立ち上げた。
ITのベンチャーである。特に昨今の流行り、人工知能・機械学習に関する研究や社会実装を主軸とする、いかにも先進的と言ってもよい企業だ。
しかしその実は、「産業スパイを使って窃取した大手IT企業の水面下の研究内容」によって成り立っていた。司自体も頭脳の出来は悪くはなかったが、しかし「手っ取り早く金稼ぎをする」ためには、一からの研究や論文執筆、そしてそれの実装を進めていくことはあまりに非効率であったためだ。
すべては、「二人のため」である。自分たちがこの世界で、誰の支配も受けることなく生きてゆくために、もう二度と誰かに虐げられることのないようにするために、司には雪のことを支えるだけの財力こそが必要だった。当然に、司自身にとってもである。
だから、司はありとあらゆる人間を騙し、利用した。自らが入った大学の研究室の伝手さえも、使い潰した。そして雪が所属するサークルの先輩に対して、雪自身が「色」を使って人脈を作り、情報を抜き取ることも、躊躇しなかった。
そういう意味では、やはり結局、司と雪の二人は一蓮托生ではあったのだろう。
情報漏洩の罪は、「トカゲの尻尾」に押し付ける。自分たちの情報を嗅ぎ付けようとする者は容赦なく『消す』。
全ては、雪のためだ。彼女の未来のためだ。誰にも抑圧されず、自由な世界で、彼女が生きてゆくための手段に過ぎなかった。そのはずだった。
しかし司は、その手段を常用するようになるうちに、もはや自分の行いが雪のためなのか、それとも「これほどまでに人を操ることができる自分自身の才能を全能感に任せて振るうこと」に酔っているのか、その境界さえも分からなくなっていった。
故に、破綻の時がやってくる。「第三の男」の手によって。
初めは「司の人生を狂わせた女」として雪を疑い、彼女の正体を暴こうと、刑事になってまで雪のことを執拗に追いかけていた「第三の主人公」――稲垣淳は、最終的に司が繰り返してきた凶行のことごとくを知ったことで、「司もまた、救うことのできない怪物に成り果ててしまったのだ」と見切りをつける。
司の周りで直近で起きた二件の不審死事件から、その犯行に使われたであろう劇物の出所が、彼と交友関係のある女が勤める薬学系の大学の研究室であることを突き止めた淳は、そこから司がこれまで繰り返してきた犯罪――「連続教唆犯」としての司の悪事を突き止めた。そしてその根源となった、一つの事件も。
即ち、「西沢雪」の義父である「松尾勇介」による性的虐待の発覚と、それを受けて司が起こした、司の義母たる「杉原洋子」と「松尾勇介」の間の「刺し違えによる死亡事件」――にかこつけた、「松尾勇介を唆しての杉原洋子の殺害と、その直後の司自身による勇介の殺害事件」という、一連の流れを、淳は知ることになった。
更に、その根源に存在していた、「杉原洋子による杉原司への継続的な性的虐待の存在」も。
それは、あまりにおぞましい憎悪と悪意の連鎖であった。司と雪の二人の運命は、きっとその初めから破滅を運命づけられていたのだ。
そう「成って」しまうまで手を差し伸べられなかったことを、否、「あの十歳の冬の日」に、ともすればそれよりも前から、救いを求めていたはずの司に気づけなかった自分を呪い、しかしだからこそ、その幕引きは自らがなさねばならないことであると、覚悟を決めた。
司は、自らの起こした全ての事件が、警察に、ひいては淳に露見したことを悟る。
彼は悟った。もう、きっと自分は逃げられないであろうと。それほどに、杉原司という人間は罪を重ね過ぎていた。
そうだ、自分はもう、きっと助からない。
それはまだいい。どうせいつか、破滅の時はやってくると思っていた。
しかし、もしかしたらそれだけでは済まないかもしれない。今はまだ、捜査の手が伸びているのは司だけでも、もしかしたらその先で、雪にもそれが及ばないとは限らない。
いや、違う。このまま手を拱いているばかりでは、確実に彼らの矛先は、司だけではなく雪にも向く。
どれほど二人の間の接触を隠蔽していても、無関係を徹底していたとしても、それほどに、彼と彼女は運命共同体であるのだから。
破局の時は、いよいよ訪れた。
夢の終わりか、あるいは悪夢の終わりか。
しかしそれ故に、司はとうとう『最後の切り札』を切った。
雪は大学の卒業後、養子となった酉井家からの融資を受ける形で、一つの会社を立ち上げた。
自らの美しい容姿を十全に生かしてミスキャンパスの座を射止めていた彼女は、ミスキャンパスとして作り上げた人脈によって芸能界とのつなぎを作り、主にイベント運営に強みを持った広告代理店を営むことにしたのである。
都内の有名大学を卒業した良家の美人が社長となった広告代理店、などというメディア受けの良い存在を、マスコミが放っておくはずもない。
彼女は一躍、時の人にさえになろうとしていた。
そんな彼女は、ある日からストーカー被害を訴えることになる。曰く、「最近、不審な男から付け狙われているのだ」と。
相談を受けた警察は、雪が著名人に近い存在になりつつあることも考慮して、暫くの間護衛をつけることにした。それが何かの抑止になることはあまり期待できないのがストーカー被害の常ではあるものの、世間体のためにも「ポーズ」は必要であると考えたからであった。
同時に、それを知った淳もまた動き出す。その蠢動に、ほぼ直感的に司の暗躍の臭いを感じたからであった。
そして、その一連の出来事から数日後のことだった。
六本木にて、自らの広告代理店の社長としての営業を終えた雪の前に、突如黒いフード付きパーカーで身を包んだ怪しげな男が立ち塞がる。
男は雪に対して、手に持っているナイフを突きつけてみせた。
あまりに突然のことに立ち竦んだ雪に対して、男は静かに言葉を投げつけた。
『お前のせいだ。お前のせいで、俺は』
フードの向こう、瞳がぎらりと怪しげに煌く。
人相は窺い知ることも出来ず、しかし男の立っているその場だけが暗闇の中に沈んでいる。そんな歪みを錯覚させる空気を発しながら、男はじりっと雪に近づいた。
『返してくれよ、人生』
はじめ、静かに呟かれるだけだったそれが、次第に熱を帯びてゆく。
「あの時、お前と会わなければ、俺にだって、光はあったのに。お前さえいなければ。お前さえ、いなければ……!」
突き付けるナイフの刃先が震える。それを握り込むギリッとしたノイズと共に、唐突に男は笑い始めた。
狂気を宿した哄笑と共に、男が放つ声は、とうとう叫び声にさえも変わっていた。
『そうだ! お前に狂わされたんだ! お前に奪われたんだッ! お前さえいなければ! お前とさえ出会わなければッ!』
少しずつにじり寄りながら、『全く身に覚えのない言葉』を吐く男を前にして、雪は恐怖のあまり後退り、しかしバランスを崩して転んだ。
尻もちをついて、彼女は理不尽に震える瞳で男を見上げた。
その哀れな姿に、男が口角を上げる。
恨みと嘲り、そして強烈な害意を滲ませて、吼えた。
『俺が地獄に落ちるなら、お前も道連れだ!』
そしてとうとう、男はナイフをむき出しにしたままに雪に対して襲い掛かった。言うまでもなく、彼女を殺めるためであった。
しかしそれは、雪の周りについていた護衛の警察官が飛び出してきたことでギリギリのところで阻止される。そのまま、彼ら警官と男とはもみ合いになった。
取り押さえようとする警官と、必死に抵抗する怪しげなその男。
しかしその格闘の末、運悪く、そう、
言うまでもない。それは雪を襲った、その男自身の身体であった。彼の身体の中心、胸の真ん中に、彼の手から離れたナイフが深々と突き立っていた。
――信じられない。どうして。
そんな表情と共に、目を見開いたまま、男は崩れ落ちる。地面に大の字に倒れ、胸からは鮮血がとめどなく流れていた。
刺さった場所は、心臓だ。助かろうはずもない。他の警察が、そして救急車がその場に辿り着くよりも前に、男は事切れていた。
警察は、現場にて死亡が確認されたその「ストーカー殺人未遂犯」の男の名前が、杉原司であることを程なく突き止めた。
当然、雪も被害者と言う立場で取り調べを受けることになる。
取調室の中、杉原司の名前と、その写真を見せられた彼女は、「この男の顔と名前に憶えがあるか」という担当官の問いに、恐怖に引きつった顔のままに首を振った。
『名前は。小学生の頃に、同級生だった男の子です。でも、それは一年と少しの間ぐらいで……』
『それ以降、面識はないと言うことですか』
問われたそれに、恐る恐ると言った様子で頷く。そして、断言した。
『はい。それ以降は、何も』
当然に、取調官はその雪の言い分に疑念を持つ。どう考えても、あの時の男――「司」の語っていたことは、「西沢雪」への妄執というものを色濃く示していたからだ。
『本当ですか? では、あのときのあの男が言っていたことは』
『分かりません。本当に、分からないんです。……ごめんなさい』
しかし、結局その場において雪はストーカーの男との面識について、否認し続けた。
故に取調官はそれ以上の追及を諦め、現場検証や人物関係の洗い出しを中心とした、証言によらない捜査へと移行する。
そこから半年ほど継続した捜査の結果は、雪の証言を裏付けるものであった。「西沢雪」と「杉原司」の間には、如何なる人間関係や利害関係も見つけることはできなかった。どれほどに手を尽くしてもである。
物理的な接触の記録も、通信記録も、電子記録にさえ、痕跡は見つからなかった。雪のスマートフォンを押収しても、なお。
結果、警察は今回の事件に対する捜査結果を「杉原司の一方的な思い込みによる、西沢雪への付き纏いと殺人未遂」として、「ストーカー規制法違反及び殺人未遂罪」の被疑者死亡での送検を行うことで幕引きとすることを決定した。
言うまでもない。それは司の、そして雪の勝利であった。
「こうなる日」の可能性を考慮し、十歳のあの夜から、ずっと互いにしか理解できない符牒と、速やかに破棄される物理的記録媒体、そしてどうしても必要な場合に限っての暗号化通信アプリのみのやり取りを徹底することで、司と雪は世間の、そして警察の目を欺ききったのである。
雪のことをずっと追っていた淳でさえ、心証以外での司と雪の間のつながりの決定的な証拠を挙げることはできなかった。
同時に彼は、今回の「ストーカー殺人未遂」の顛末に、その核心に存在した司の意図を察した。
故に淳はそれ以上の追及をやめた。心に深く残り続ける、悔悟の念と共に。
そして、時は流れる。
全てが終わった二十六歳のとある冬の日、雪はかつての街に、十歳の頃に司と雪が住んでいたあの街に、単身足を運ぶ。
もはや遠い日の残照、記憶に残るあの場所に、彼女は向かった。
そこは、旧家だった。言うまでもなく、杉原司の。
かつて一軒家が建っていたその場所は、既に更地に、駐車場に変わってしまって、昔日の面影など見る影もない。
アップになった口元が、引き結ばれる。雪は、徐に自分の鞄から一つの荷物を取り出した。
それを、その『花束』を、彼女は静かに地面に置く。近くの電柱に、立てかけるようにして。
屈んだ姿勢から、静かに立ち上がる。そのまま雪は、踵を返して歩き始めた。もう二度と、振り返ることはなかった。
彼女が去って行った電柱のふもとの場所、一陣の風が、飾られた花束を静かに揺らした。
ラストシーンが流れた後、音のない真っ黒な画面に、スタッフクレジットだけが次々に映し出される。最後のカットの余韻を、強烈に視聴者に残すように。
その全てが終わって、右下に記された「この物語はフィクションです」の文字が、ドラマ「薄明」の、物語としての終わりを、指し示していた。
それを最後まで見届けて、アクアはリモコンを手に取る。静かに掲げて、画面を切った。
三人の座るリビングに、静寂がやってきた。
誰も、何も喋らないのは、ドラマの伝える重苦しい余韻に、全員が支配されているからなのか。
――違う。そんなわけはない。静まり返ったこの場所で、横たわる空気を破るが如くに、まず声をあげたのはアイだった。
「……いやー、すごかったね! なんかもう、めちゃくちゃズンってきたよ!」
リビングの中を支配する、物理的な重量さえ錯覚する閉塞感に敢えて逆らうような、いつもの彼女の明るい声だ。
「『東ブレ』の時もそうだったけど、もうなんかそれ以上だった! ほんとすごいよアクア!」
これ以上、そんな言葉を聞いていたくはないと、思ってしまうほどの。
「でもこれで、いよいよアクアも売れっ子の役者さんの仲間入りだね! 私も負けてられな――」
「母さん」
故にアクアは、アクアのことをきっと本心から称賛してくれているのであろうアイの言葉を、途中で強引に遮った。
真っ直ぐに、目を向ける。ここ暫くの間、己の内心に渦巻いていた恐怖心によって、ずっと覗くことのできずにいたアイの、自らの母の、一際鮮烈な輝きを放つその瞳を、正面から見据えた。
アイが、口を噤む。アクアの言葉を待っているかのようだった。斯くてアクアは、その促すままに続きを声にした。
「分かってるんだろ? 俺が今日、ここで一緒にドラマを見ようって言った理由」
問いを発したアクアを、暫し黙したままにアイは見据える。
五秒か、十秒か。そうしている間に、アクアの中から何かを読み取ったと言うことだろうか。
いつもの「能天気」とも言える笑みを浮かべていた彼女の口角が、ふと引き締められた。
それでもまだ、彼女は何も言わない。ソファの上、アイを挟んでアクアと反対側に座っている、ルビーの方も。
故に、アクアは続きを言葉にした。
「今なら、話ができると思った。準備ができた。だから――」
言いながら、自らのズボンの尻ポケットの中にしまっていた『一つの書類』を取り出す。
八ツ折に小さく畳みこまれていたそれを開き、大きく広げて、ソファーの前のガラス張りのローテーブルの上に据えた。
深呼吸をする。瞑目し、然る後に開いた。
静かな決意と共に、アクアは口を開く。
「話をしないか、母さん」
「そっか」
再び訪れた沈黙を破って発されたアイの声は、どこかに納得を、そして同時に諦めのようなものを、内包していた。
「止めなかったんだね、あかねちゃんは」
口にしたそれは、アクアたちのここまでの八か月ほどの動きがどういうものであったのかを、ある程度見抜いていることを意味している。
自分の隣に座るルビーが、アクアのこの行いに何の動揺も示していないことの意味をも。
「ルビーも?」
短い問いに含まれた意図を紐解いて、アクアは小さく首を振った。
「知ってはいる。けど、巻き込んではいない」
「そっか。いい子だね、アクアは」
ママ、と小さな声が聞こえた。言うまでもなく、ルビーからだった。そんな彼女の頭を、アイは自らの手で撫でる。慈しむように、愛おしむように。
短い静寂がまたやってきて、彼女の視線がテーブルの方に向けられる。正確には、その上に載っている鑑定書の紙を、きっと彼女は見ていた。
小さなため息の音が、聞こえる。
「けど、さ」
アクアの方に目を向けることもせず、鑑定書をじっと見つめたまま、アイは言う。
「言ったよね、アクア。『これは私の仕事だ』って」
きっと彼女は今、アクアからの返事など期待していない。しかし、それでも、アイの放つ言葉から漏れ出てくる疑問と少しの憤りは、紛れもなくアクアに対してのみ向けられていた。
故に、アクアは返す。
「逆に訊くけど。母さんは俺たちの父親の、『カミキヒカル』のことで、動けそうな証拠でも持ってるのか?」
それを聞いて、アイはアクアの方に向き直ることもなく、無言で首を横に振った。嘘を吐いているとは、思わなかった。
さもありなん、だと思う。何せあの日のことで、カミキヒカルから直接にアイたちの新居の住所を聞き出したのは、あの時のストーカー――菅野良介ただ一人だ。
そして彼が、電子にせよ物理にせよいかなる情報も残すことなく自殺してしまったことで、その「先」へ到達するための唯一に近い手がかりは、永久に失われてしまった。
意図の解明はおろか、事実の証明さえも難しい。だからこそ、アイは、あるいは壱護社長は、あの日の高千穂に乗り込んだのだろう。
「雨宮吾郎殺し」の下手人が菅野良介であることが証明でき、そんな彼に高千穂の病院のことを教えたのがカミキヒカルであることが確認できれば、「一度殺人に手を染めた危険人物に再び他者の個人情報を横流しした」ことについて、カミキヒカルに対して疑念をかける合理的な根拠となる。
ただ、これも結局は間接証拠だ。それのみをもって勝負をかけるのはリスクがある。アイがアクアの問いに首を振って返した理由は、きっとここにあった。
「俺は」
改めて、口を開く。アイは未だ、アクアの方に視線を合わせない。鑑定書の紙をじっと見ているままだ。構うことなく、続けた。
「母さんには、まだ夢を捨ててほしくない。
確信犯的でさえあるその言葉に、ぴくりとアイの肩が動いた。ふるふると、小さくその頭が振られるのを、アクアは見る。
「それは、違うよ。『こんなこと』なんて、私には――」
「分かってる。……でも、それでも俺は、まだ母さんに何もできてないんだ」
それでも尚強引に自らの言葉を遮ったアクアの方に、アイは振り向く。振り向いて、そちらを見て、彼女は俄かに言葉を失った。
ただ真っ直ぐに伸ばされた視線に、他でもない我が子の目に、アイは一体何を感じたのか。たとえそれが分からずとも、アクアが言いたいことは変わらない。言うべきことも、また。
「だって、そうだろ。そろそろ十四年か五年になろうってのに、俺たちの中で、あの時のことはまだ何も終わってない」
アイの隣で、ルビーが身動ぎをした。何かを口にしようとして、しかしアクアが向けた視線にギリギリでそれを踏みとどまったかのようだった。
ルビーだって、分かっている。アイもそうだ。
あのドームの日の朝の事件は、未だに「星野家」という家族全体に、未解決の課題を突き付けている。アクアたちの時間の少なくない部分は、まだあの日の玄関の中に取り残されたままだ。
アイの手が泳ぐ。アクアの方に伸ばされた。脚に、腕に、そして肩へと伝って、握られた。
その手は、腕は、微かに震えていた。その震えが、掴まれた肩を使ってアクアの身体さえ揺らしている。そんな気がした。
「ずっと、どうすればいいのかが分からなかった。俺たちの父親のことが怪しいと思って、だから突き止めないといけないと思って、でもそこからなにをすればいいのか、何も決まってなかった」
アクアは、ただ言葉を続ける。目線を向け合うアイの瞳が、揺れていた。
肩を握る腕の力が強まる。目の前から、言葉が返ってきた。
「違うよ、でも。それは、アクアがやらなくちゃいけないことなんかじゃないでしょ」
反対側の手も、同じようにアクアの方へと伸ばされる。それまでルビーの頭に、あるいは背中に伸びていたものが。もう一方の肩に、それは添えられた。
「私とアクアの夢なら、アクアの方が大事に決まってる。だってアクアは、私の子供なんだよ?」
どこか、微かに睨むような趣を感じた。そういう力の籠った双眸で、そして声だった。
彼女の言うことは、確かに正論なのだろう。子を持つ親として、「母親」として、アイの論理はどこまでも正しい。
アクアが、真っ当な子供であるというのならば。
「ありがとう。……本当に、母さんの子供でよかった」
だから、アクアはそう言葉を返す。そんな、『正しい』答えを。『期待される』答えを。
滑稽な話ではあるのだろう。アクアにせよ、そして吾郎にせよ、母親の何たるかなど何も知らないというのに。
吐き気がした。昔と何も変わらない自分に。『正しい嘘』を吐くばかりの自分に。
だから、アクアは首を振った。
「けど、それじゃダメなんだ」
そうだ。それではダメなのだ。
「それじゃ、母さんが救われない。俺も、先に進めないんだ」
強く、断言した。ありったけの力を、目に込めた。
輝きを内包する互いの視線が、中空に激突した。
どうして、自分は二度目の生を享けたのか。「使命」などと言う仰々しい言葉を抜きにしても、為さねばならない義務は一つだ。
人間、誰しも思うものだ。「もう一度やり直せるなら、次はもっとうまくやってみせる」と。ならばアクアも、そうあらなくてはならない。
何もできなかった後悔を、救えなかった失意を抱えて生きてゆくなら、それは『前』と何も変わらない。生きている意味がない。
アクアがアクアでいる理由を証明するためにも、この先を生きてゆく意味を得るためにも、こればかりは譲れない。
「これ以上の後悔なんていらない。母さんも、俺も、ルビーも。だから」
そう言って、息を吸って、アイの顔を真っすぐに見て、アクアはそれを明かした。
「母さんの願っていたことを、果たしたい。十六年前の母さんが、俺たちに残そうとしたメッセージの中にあった、あの話を」
アイが、大きくその目を見開いた。
アイだけではない。ルビーにしても、まるで聞き覚えのなかったそれに、視界の端で怪訝そうな表情を浮かべているのをアクアは見る。
しかし、そちらの方にはちらりとも目線をくれることなく、アイは見開いた目のままに、驚愕に彩られた表情のままに、言った。
「なんで? どういうこと?
まるで独り言のような、掠れた声だった。アクアの肩を掴んでいたアイの手が、ずるりと垂れ下がる。
有り得ない。信じられない。そんな表情でアクアのことを見るアイに、アクアはその日あったことを話した。
二日ほど前のこと、アクアは最近あまり出向くことの出来ていない五反田監督のスタジオに足を運んだ。
「おう、早熟。ご無沙汰だな。ドラマ、評判いいらしいじゃねぇか」
「まあ、そこそこな。けど、ご無沙汰っつっても二か月ぐらいだろ」
そんな砕けたやり取りを交わしながら、アクアは彼の書斎に上がる。
相も変わらず生活能力に欠けた、ろくに整理のされていない雑然とした書斎だ。しかしそれが、アクアにはどうにも居心地がよかった。
「で? 別に俺はお前に頼みたい仕事とかがあるわけじゃねぇから、用事だけ聞かせてくれりゃいいんだが」
PCデスクの前の椅子に腰掛け、いつもの通りのやや投げやりな口調で、五反田監督はアクアに問う。
単刀直入に問われたのならば、単刀直入に答えるだけである。アクアはすぐさまに、己の用件を口にした。
「訊きたいことがあるんだよ、カントクに。アイのことで」
言った瞬間、彼の動きが止まった。揺らしていたオフィスチェアの回転も。
「知ってるんだろ? 俺とアイの間のこと」
そう、九割の確信と共に問いかけてやれば、十秒ほどの沈黙ののちに、彼はふっと息を吐いた。
「
返してきたそれが、もはや答えである。
アクアが黙って頷けば、五反田監督は困ったような表情を浮かべながらも後頭部をガシガシと掻いた。
「なんで俺が知ってると思ったんだ? バレてねぇと思ってたんだが」
問い返されてきた言葉は、どこかバツが悪そうな口ぶりだった。
「まあ、見抜いたのは俺じゃないんだよ。あかねがな」
「あかね……お前のカノジョだっつぅ嬢ちゃんか」
今一度、首を縦に振る。「まじかぁ」、と彼は声を上げた。
組んだ手を頭の後ろに回し、オフィスチェアにだらしなく体を預けて、顔が天を仰ぐ。
「言ったつもりはなかったんだがな。あれだろ? 舞台のときの話だろ? お前が担ぎ込まれてきた」
「ああ。あの時は世話になったけど、それで俺がぶっ倒れてる間に、カントクと話をしてて分かったんだと。反応の仕方とか、言葉の選び方とか、その辺りから導き出したらしい」
はー、とどこか感心したようなため息が、五反田監督から漏れた。
「やべぇなあの嬢ちゃん。早熟、お前浮気とかゼッテーすんなよ。秒でバレるぞ」
「するかよ、んなこと。それよりカントクこそ、そろそろ真面目に婚活やったらどうなんだ」
「あ、お前それは禁句だぞ禁句!」
そんなバカなじゃれあいをいくらか交わしてから、アクアはいよいよ本題に入った。
「――とにかく。カントクがアイと俺のことを知ってるってなら、一個訊きたいことがあるんだ」
「……言ってみろ」
ふざけたやり取りが作り出した弛緩した空気が、そこで一気に引き締まった。監督が、背もたれから身を起こす。
膝の上に肘を置き、身を乗り出すようにして、アクアの方に顔を向けた。
その始終を見届けてから、アクアは改めて口を開く。
「あの事件が起きるまで、アイとは結構やり取りしてただろ、カントク。俺とは関係なく。多分、『それが始まり』の後からだろうけど」
「そうだな。それが?」
「だから……つまり、カントクはあの頃の――というより、『アイが俺たちを産む前の事情』とか、何か知ってるんじゃないかって思って」
そして、とうとう辿り着いた本題とも言える問いを聞いて、五反田監督は自らの顎に手をやった。アクアから視線が逸れる。何かを、思案している顔だった。
故に、アクアはただ待つ。一分ほど、そうしていただろうか。どこか決心を固めたような表情で、彼はアクアに視線を合わせた。
「いや、特には聞いてない。アイと俺は、基本的には仕事の上だけの関係だったからな」
「……そうか」
「けど」
どこか落胆含みだったアクアの声に力強くそれを被せて、彼は椅子から立ち上がった。
そして、横に聳え立つ本棚の中、アクアの真横あたりの場所を、徐に探り始めた。
時間にして、五分ほどが経っただろうか。その末に「何か」を見つけたらしい彼が、アクアへと振り返った。
彼の手元を見る。そこにあったのは、折り畳み式の紙包装だった。何かディスクを入れておくような、正方形をした包みであった。
五反田監督も、アクアと同じように『それ』に視線を向ける。
「預かってたものは、ある」
そして、その「何か」にまつわる過去のことを、アクアに説き始めた。
映画「それが始まり」を撮った後、その作品によってある種のブレイクを果たしたアイより、正確にはその背後の、当時のB小町の運営をしていた斉藤壱護より、一つの依頼が入った。
「B小町のリアルを追ったドキュメンタリーを作ること」。それを、彼はキリのいいタイミングで世に公開することを目論んでいた。即ち、「B小町の東京ドーム公演直後」である。
苺プロからその話が舞い込んできてよりのち、五反田監督とアイの間には一定の交流が生まれることになった。
何せ、ドキュメンタリーを撮る方と、それを撮られる方である。多少の関係はない方がおかしい。
そんなさなか、五反田監督がアイという個人に対して興味を持つ出来事があったのだという。
きっかけは、彼がアイに対して注文を付けたことだった。ドキュメンタリーの撮影に際して、「取り繕った姿を見せるな」と求めた。「そんなしょうもない画を見せたなら、俺は撮影を止める」と。
彼女はそれに、『いつも張り付けている商業的な笑みを全て削ぎ落として』、答えた。
――嘘吐きじゃない私を撮っても、きっと使えないし、カットになっちゃうよ?
――それでもいいなら、私も嘘を吐かない。
――本物の私を、撮ってください。
その時アイが浮かべていた表情に、魔性とも言うべき引力に、五反田監督は強烈に惹きつけられた、と語った。「これは確かに、撮りがいのある対象である」と。
そしてそれと前後するように、アイは五反田監督に対して一つの頼みごとをしていた。正確には、アイたちのB小町が東京ドームライブを挙行する、その直前のタイミングで。
言うまでもなく、それこそが今、彼がその手に持っているものの正体だった。
「十五歳になったアクアとルビーに宛てた、アクアたちが一歳の誕生日の日に撮った、ビデオメッセージ」。それが収められた、DVDだった。
「けど、結局アイがドーム公演やった時の『アレ』のあと、『それどころじゃない』ってんでドキュメンタリーの企画は倒れちまった。色々走ってたらしくて違約金とかでも揉めたらしいけど、俺はそのあたりのことは知らねぇ。ただ」
そこで言葉を切り、五反田監督が手に持っているDVDを掲げた。
「コイツについても、処分してくれってアイは言ってきた。『もうそれは見せちゃダメなものだ』ってな」
だけど、と彼は言葉を継ぐ。
「その話を聞いて、何となくだけど、『残しておいた方がいいんじゃねぇか』って思った。だから捨てなかった。そんだけだ」
そして、五反田監督はアクアに向かってそのDVDをそっくりそのまま差し出してきた。
アクアの方もおずおずと手を伸ばし、そして差し伸ばされたディスクの包装を自らの手に握る。
「一応だが」
同時に、五反田監督が再び声を上げた。
「俺はその中身を見てねぇ。だから何が映ってるかとかは全く分からねぇ」
伏し目がちにそこまで言って、しかしそこで彼は顔を上げる。アクアに、視線を合わせた。
「けど、それは一応、アイが捨てるように俺に頼んだものだ。あのドームの日の事件の後にな」
――それがどういう意味かは、考えて扱えよ。
言い切ると同時に、五反田監督の手がディスクから離れる。
斯くして、その二枚のDVDはアクアの知る所に、そして所持するところになった。
「見たよ、中身。母さんが俺に宛てていた部分は、全部」
そう言ったアクアのことを見るアイの視線に載っているものは、一体何であるのだろう。
苛立ちか、憤りか。申し訳なさか、後ろめたさか。それでも、そこにほんのわずかに覗くのは、『喜び』であろうか。
それほどに複雑な心情で、きっとアイはあのDVDのことを、そしてそれを見たアクアのことを考えている。
「あの時の母さんが思っていたことを、全部叶えるのは難しい。こうなったからには」
未だ何も知らないルビーがいるこの場所で、何を言い、何を言わざるべきかを選ぶ。
あのディスクに記録されているアイの言葉は、現状に鑑みれば「劇薬」に等しい。最低でも、今のルビーに何の準備もなく聞かせてよいものかは難しいところがあるだろう。
当時のアイが考えていた、その「前提条件」は、もしかしたら崩れてしまっているのかもしれない。
そうでなくても、「あのこと」が起きてしまった今、アイの当時の願いをルビーが聞いて、それを受け入れられるとはあまり思えない。
そして何より、ルビーがアイへと向ける思いは、たとえそれが一種の幻想であったとしても、外側から叩き壊してよいものではない。
あのDVDの中には、アイが「彼」――すなわちカミキヒカルと出会って、そして子を
「カミキヒカル」という名前を一切出すことなく、しかしアイはその時の自らの心境と、同時に「彼」の身に起こっていたことや彼自身が抱える困難について、詳らかに述べていた。
だとするのならば、それは見方を変えれば彼女の「罪」でさえあるのだろう。アイとカミキヒカルの別れが、その顛末が、あのドーム公演の当日の朝に結実してしまったというのであれば。
しかし、それでも、アクアはかつてのアイが、「不完全な少女」としてのアイが切に希求した願いを、幼さゆえの過ちへと帰着させてしまいたくはなかった。
――彼が今も迷ってるなら、彼を救ってあげてほしい。私と一緒に。
そんな、彼女の願いを。
十六年前の「あなた」のことを。
「あの時から、もう十年以上が経ってる。手遅れかもしれないと、思わなくもない」
アクアの言葉に、アイが僅かに顔を伏せる。
きっと、彼女も同じ意見なのだろう。だからこそ、アイは動いていたのだから。カミキヒカルとの全てに、幕を引くために。
「でも」
しかし、アクアはそれでいいとは思えなかった。
いや、違う。それで本当に幕が引けるとは、思わなかった。決着がつくことなど、期待できなかった。
もしあの日、カミキヒカルが故意によって菅野良介をアクアたちのところへと差し向けたのにも関わらず、未だにそんなことなどなかったように生きているのならば。それができてしまうような人間に、成り果てているのならば。
「もしかしたら、逆かもしれない。あのとき届かなかった言葉でも、今なら届くかもしれない。今の母さんが、今の『星野アイ』が、届けたいと思った言葉なら」
ならば、そう「成って」しまったカミキヒカルを変えられる可能性があるとすれば、それは他でもないアイの言葉以外にはあり得ない。
十年の時を超え、かつての感情を理解して、そして整理をつけたであろう今のアイの姿ならば、言葉ならば、何かが変わるかもしれないのだ。
成算も期待できない「最後の手段」に訴えるより前に、たとえそれが一縷でしかないとしても、望みをかけたいとアクアは考える。よりよき未来を成就するために。
だから今、アイにそれを提案しようとしていた。
「だったら、話すべきだ。会って、話し合うべきだ。もう一度、母さんとカミキヒカルは。俺たちには、それができる。だって、そうだろ」
顔を上げて、もう一度真っすぐにアクアのことを見つめてきた自らの母に向かって、アクアはどこまでも力強い瞳と声で、それを断言した。
「あの時、ドームの日に、俺たちは誰も死ななかったんだから。生きてるんだから」
光を、輝きを湛えるアイの瞳の向こうで、同じ強さの煌めきを宿した虹彩を、アクアはアイに向けていた。そんな自分の姿を、アクアはアイの双眸の中に見た。
その強さをそのままに、アクアはこれからの「計画」について、アイに明かそうとする。
カミキヒカルを、あの男を、アイとの対話のテーブルに据えるための計画を。
「だから、その場所は俺が用意する。俺たちが用意する。母さんが、カミキヒカルと『本当の意味で』話し合える場所は」
その案を、アクアは最近ようやく手に入れた。他でもない、五反田監督のスタジオの中でのことだった。
故に、端的に口にする。
「昔ポシャったっていう企画。『B小町のドキュメンタリー』。あれを、復活させる」
目を瞬かさせてこちらを見るアイ目掛けて、アクアはその心を説いた。
「もともと商業映画として企画してたっていう話らしいし、その計画は流用できる。ぶつける先は、今のB小町の東京ドームライブだ」
無論、現状のB小町に具体的な東京ドームライブの計画があるわけではない。
しかし、セカンドワンマンの武道館ライブに成功した暁には、そう時を置かずにドームライブの話が上がってくることは間違いない。ドームにおけるイベント開催の交渉は、基本的に一年ほど前から始めなければならないとされているからだ。
武道館ライブを成功させ、その次に半ば内定している全国ツアーで更に知名度を向上させたB小町は、その次にドームでのライブを決行したとしても、もはや箱の格には負けないだけのアイドルに、すなわち「トップアイドル」に、成長を遂げているであろうから。
「新生B小町のドームライブに合わせて、昔のB小町のドキュメンタリーを映画として公開することで、双方の集客の向上を狙う。商業的にも矛盾はない。それに」
ならば、それは「前提条件」となり得る。
「あの時」から、アイのドームライブの日から、十五年前もの時を超えて、状況が再演される。アクアの狙う本命を実現するための、それは下地だ。
どこか呆然とした表情で自らのことを見ているアイの目を、アクアは意識して覗き込む。
「今のカミキヒカルは二つの会社を経営している資産家だ。それに俺が調べた限りでは、まだアイツは母さんに執着してる。なら、アイが題材となった商業映画の計画をこれ見よがしにちらつかせれば、きっとアイツは乗っかってくる。出資者として」
そこまで言えば、もう十分だった。
アイは、アクアの謂わんとすることを、きっと理解した。
アクアが見据える正面で、ぽつりとアイが言葉をこぼした。
「そっか。考えてくれてるんだね、アクアは」
口元に、薄い笑みを湛えながら。
「ずっと、前からそうだったよね。アクアは本当に、色々考えてくれてた。ルビーの為にも、多分、私のためにも」
ずっと、目元に宿っていた力が、和らいだ。
浮かんでいたのは、穏やかな笑みだ。思わず、アクアは掛ける言葉を失った。
「アクアは、本当に凄いよ。いつも、いつだって」
目を瞑って、ともすれば自分自身に言い聞かせるようにそう言って、彼女はゆるりと腕を掲げた。それを広げた。
ゆっくりとした動きなのに、何も反応できなかった。そして気づけば、アクアの身体はアイの腕の中にあった。
「――ありがとう、アクア」
抱きしめられた。そのことを理解したのは、ほど近くに聞こえた彼女の囁きと、それよりもなおずっと慣れ親しんできた、陽だまりのような母の匂いを知覚するのと、時を同じくしてのことだった。
「……母さん」
思わず、目を閉じる。腕が震え、しかしその震えを押さえつけるように、アクアはそれを持ち上げる。
「母さん」
掠れる声で繰り返して、そしてアクアは自らの腕を、ゆっくりと彼女の背中に回した。
「うん、聞こえてるよ」
慈しむかのように降ってきたその声に、なぜか裡から激情が駆け上がる。涙さえ、零れそうになった。
しかしそれを、アクアは押し込める。押し殺す。
それは、まだ早い。自分はまだ、何も成し遂げてはいないのだから。
代わりに、アクアはアイの背中に回した腕の力を、少しだけ強めた。
――この温もりを、絶対に消させはしない。
そう、強く誓った。
道筋は整った。
役者も揃った。
宿命は、収束しつつある。
決着の日は、そう遠くない。
結構難産だった第四章も、何とか終わりました。
本章は探求編ということで、アクアとルビー、それぞれの「自分自身の根源の探求」と「父親としてのカミキヒカルの特定」の二本柱を軸にストーリーを展開しました。
やや理屈っぽくて華々しくない話ばかりになってしまいましたが、お楽しみいただけたのならば幸いです。
そして、次章は「映画編」――ではなく、「ドキュメンタリー映画編」です。ある意味で原作の流れに回帰したと言えなくもないですが、当然映画の内容から始まってその狙いも含めて何もかも違います。原作においては告発と復讐のトリガーに使おうとしていた映画を、本作においては対話のために使おうとしています。
ということで、原作の「映画編」のエッセンスをいくらか含みつつ、そのあたりにもオリジナル性を主張していきたいと思います。
そして、そのあとにやってくる「最終章」と合わせて、本作は全六章構成で構想がまとまりました。ボリューム的には残り1/4ほどの想定になりますが、ぜひとも最後までお付き合いいただければと思います。
次章の投稿開始につきましては、第四四半期ということで仕事がやや忙しくなることもあって、3/1からの連載開始を予定しています。なにとぞお待ちくださいますようよろしくお願いいたします。