天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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5-2. 鍍金加工の泥団子

「ルビー、最近えらい頑張っとるみたいやねぇ」

 

 十一月に入り、天を覆う外気もいよいよ衣替えで身に着けている冬服の制服にふさわしい肌寒さを帯びるようになった日のこと、この陽東高校の芸能クラスでは、普段の通りに三々五々の集まりにてそれぞれが昼休みを過ごしている。

 ルビーもその例に漏れることなく、友人たる寿みなみと、そして不知火フリルの三人で、いつものように机の上に弁当を広げていた。

 

「そうかな?」

「そうやって! だってルビー、もう武道館でライブまでしとるんやろ? テレビにもぎょうさん出るようになっとるし」

 

 ルビーに向かってそう言い募ってくるみなみの声は、相変わらずのふわふわとした柔らかい声色でありつつも、どこか興奮を内に含んでいる。

 彼女にしては強い語気だ。思わず目をぱちくりとさせてしまったルビーに、彼女はどこか慌てたような素振りで手をぱたぱたと振った。

 

「いや、別にそれがどう、って訳やないんよ? ただ、ほんますごいなぁ思って。アイドルやっとるんやなぁって」

 

 何か勘違いさせたとでも思ったのだろう。それは一転して、どこかこちらの顔色を窺うような、おずおずとした言葉遣いだった。

 

 先日のセカンドワンマン、B小町の武道館ライブを成功させてからのルビーは、このクラスにおいて明らかに扱いが変わったように感じる。

 無論、ある種の「運命共同体」として、互いを上にも下にも見ることのない陽東高校の芸能クラスの雰囲気自体は変わることもない。

 ただ、そこにあるはっきりとした差異の存在は、ルビーをしても流石に見落とすことなどない。

 

 つまるところ、ここのところのルビーは、はっきりと「見られる側の存在」になっていたのだ。不知火フリルの友人のアイドル()()ではない、ルビーという一人の確立した人物、「芸能人」として。

 みなみの「これ」は、つまりはそういうことの一つの表れだろう。故にルビーは、みなみの持っているであろう懸念を振り払うように、敢えて笑顔を作った。

 

「いや全然! でもありがとうね、みなみちゃん」

 

 そのまま、冗談めかした言葉で続ける。

 

「まーでも、これでもう流石にこのクラスでも浮かないでしょ! やっと『一人前のげーのーじん』! って感じだよ!」

 

 かつて、それこそ大体一年ほど前に同じようなシチュエーションで口にしたことを、意識してもう一度言う。

 その意味を汲んだのだろう、みなみもまたどこかあの時のやりとりを懐かしむように、曖昧に笑った。

 

「まだそんなこと……ルビーも気にしいやねぇ」

 

 返ってきたそれに呼吸を合わせるように、ルビーは自らの後頭部をおもむろに掻く。「えへへー」、とバツの悪げな苦笑いさえも、敢えてしてみせた。

 

 しかしその裏では、今のこの会話を冷静に俯瞰する自分がいることを、ルビーは自覚している。

 今ならば分かる。一年前のあの時に、みなみがルビーに対して言ったことについての話だ。

 

 ――さりげない仕事の愚痴が、同業から見たら自慢に聞こえる可能性を、考えなければならない。

 

 そればかりではない。こんな日常会話の中ですら、「相手とのバランスを取る」ことを意識しなければならなくなるのだ。厭味に聞こえないように。

 なるほど、これは確かに「同業以外と話をするときの方が何かと気を遣わずに済む」というのも、分かる気はする。

 勿論、だからと言ってルビーは今のみなみやフリルとの関係をご破算にするつもりなど欠片もありはしないけれども。

 

 

 

「頑張ってるって言ったら、みなみちゃんもそうでしょ? こないだファースト写真集出したんだって?」

 

 そういうわけで、お返しにみなみの最近の活動のことも会話の俎上に載せてみる。

 これでも彼女の友人を自負するルビーとしては、彼女の芸能活動の動向についてはチェックしているのだ。

 

「え、知っとるん?」

 

 それにやや意外そうな面持ちで反応してきたみなみに、ルビーはわざとらしくニタリと笑ってみせた。

 

「そりゃーもう、ねぇ。あ、ちなみにお兄ちゃんにも買えって言っておいたよ。『オトモダチの大きなお仕事なんだから、精々売り上げに貢献しときなよ』ってさ」

「アクア兄さんに?」

 

 言うが早いか、案の定彼女は恥ずかしげに肩を竦める。頬にも少しばかりの朱が差した。

 

「そらまた、有難い話やねんけど……なんや恥ずかしいわぁ」

 

 頬に両の手を当てて僅かに身を捩るみなみの振る舞いは、まさに純朴を絵に描いたようだ。

 やっぱりと言うべきか、男の子に好かれるタイプだな、とルビーは反射的に思った。もっとも、それは彼女がぶら下げている()()()()()()()()()のことも含めて、だろうけれども。

 彼女の身体の動きに合わせてふるふると揺れる『それ』にどうしても目線を吸い込まれていたルビーだったが、しかしそこに不意に、外側から声が聞こえた。

 

「アクアさんと言えば」

 

 微かな低音を帯びた、落ち着きを感じさせる声だ。ルビーたちの今いる机の周りでその声を発するのは一人しかいない。

 みなみとルビーの視線の向かった先では、いつもの通りコンビニおにぎりを一つだけ手に持ちながら、済ました顔でこちらのことを見ている黒髪の少女――不知火フリルが、思い出したかのような調子でルビーたち二人に向かって話しかけてきていた。

 

「ドラマ、あれすごくよかったよね」

 

 彼女の言葉を機に、話題が逸れる。互いのことではなく、この場にいない自らの兄に対して、ある意味で会話の「矛先」が向くことになった。

 

「あれなぁ、ウチも見とったわ」

 

 これ幸いといった様子で、みなみもそれに追随する。

 ルビーの兄であるとはいえ、ここにいない人間の話ゆえに気が楽だということなのだろう。

 

「二人とも見てたの? あのドラマ」

 

 同じく乗っかりつつも二人に向かって訊ねたルビーの問いに、みなみもフリルも共にこくりと首を縦に振った。

 

「このクラスでも結構な人が見てたと思う。夏ドラマの一番手だったし」

「せやね。キャストも豪華やったしなぁ。『片寄ゆら』に『姫川大輝』、脇も一流どころ揃えてて、こら気合入っとるなぁ思っとったわ」

 

 自分の兄で、そして『せんせ』でもあるアクアが出演するドラマのことを、友人である二人が盛んに論じている。

 何となく、不思議な感覚だった。そういうこともあると理屈では分かっていても、中学時代にクラスメイトと話していたような「今週のドラマやアニメの話」の類の中心に、まさかアクアが据えられる日が来ることになるとはと、どうにも生々しい感慨をルビーは胸に抱えていた。

 

 しかし、そんな自分の感情の動きなど関係なく、二人の間の話は進んでいく。

 

「お話もほんまおもろかったけど、ウチとしてはアクア兄さんの演技がえらいよくて、見入ってもうてたわ」

「本当、そうだった。ゾっとしたよね」

 

 いつも、落ち着きのあまりともすれば無感動にすら見える調子で話すフリルの語り口に、僅かばかりに色がついている。過去のことを思い出すように、中空に視線が投げられた。

 

「あの完全に狂ってるヤバい人の演技もそうだけど。それだけじゃないって言うのかな」

 

 いつも割とすっぱりとものを言うフリルにしては珍しく、口にすべきことを選んでいるかのような態度だった。

 数秒、何かを吟味するように小首を傾げて、小さく頷く。また、唇が開かれた。

 

「『伝えたいことがある』、みたいなお芝居だった。すごく『刺さって』くる感じ」

 

 言葉を重ねるフリルの横では、みなみが頻りに首を縦に振って同調している。

 本当に、手放しの称賛だった。ルビーとしても、自分の家族がこの「芸能界の頂点」に近い場所に座っている不知火フリルという少女から、これほどまでに明け透けな賛辞を向けられることには悪い気はしない。

 

 ただ、同時にあの時のアクアが、その裏側でどういう状態であったかについても、ルビーは知っている。あかねから聞かされた分も含めてだ。

 だからどこか、ルビーは神妙な表情でフリルの言葉を聞いていた。三人の只中を、俄かに真面目な、同時に静かな緊張感を含んだ沈黙が満たす。

 

 

 

 パリ、と、小さな音がした。目を向ければ、フリルが一口、コンビニおにぎりを齧っている。

 少しばかり張り詰めていた空気感の真ん中で、我関せずとばかりにペットボトルのお茶で唇を湿らせてから、彼女は徐に口をいた。

 

「けど、やっぱり一番は」

「一番は?」

 

 ゆっくりとした言葉が、そこで一度切られる。

 あまりに持って回った言い方に、みなみが釣られて問い返した。重々しく頷いて、フリルがルビーとみなみ、二人に一度ずつ目配せする。

 そしてまた一呼吸入れて、どこまでも勿体付けて出してきた言葉が――。

 

「主演の三人、みんな顔がよかった。最高だった」

 

 これだった。

 

 

 

 演技の話をしみじみと語っていたのと、それは寸分たりとも変わらない声の調子だった。

 

「やっぱり見るなら美男美女だよね。目にいいからいくらでも見られる。録画五回は見直した」

 

 思わず二度見するようにフリルのことを凝視したルビーやみなみの目線にも全くブレることも怯むこともなく、しかしとにかく話す内容だけが明後日の方向にすっ飛んでいく。

 

「……また視力の話なん?」

 

 どこか呆れたような様子で訊ねたみなみにさえ、フリルは大まじめに、またも大きく、ゆっくり頷いた。

 

「このまま一年ぐらいあのドラマ続いてたら、そのうちマサイの戦士ぐらいの視力を手に入れられるかも」

「いやそんな簡単にマサイの戦士にはならへんやろ」

「むしろそのうちガンにも効くようになりそう」

「効かへんわ。というかそれもう別の話やない?」

 

 エセで関西弁を喋っているだけのはずのみなみが、堪えきれないとばかりにそこそこキレのあるツッコミを入れ続けている。かたやフリルはそんな彼女のことをいつもように感情の読めない澄ました顔で一瞥するばかりで、ピクリとも表情筋を動かしていない。

 

 相変わらず、真面目に言っているのか笑わせようとしているのか絶妙な塩梅で言葉を投げてくる子だ。そんなことを外野から思っていたルビーだったが、しかしそこでフリルが突然、まさしくするりと自分の方に目線を向けてきたことに、一瞬ばかり面食らう。ほんのわずかの意識の空白が、そこに生まれた。

 

「ルビー。アクアさん、これから伸びるよ」

 

 丁度そのど真ん中に差し込まれた彼女の言葉はまたも唐突で、しかし直前までの素っ頓狂な台詞は何だったのかと言いたくなるほどに、はっきり真剣味を帯びたものだった。

 虚を突かれた形になって、ルビーは思わず目を小さく見開いていた。

 

 

 

 こうやって脈絡もなく会話の流れを振り回していくのは、紛れもなく不知火フリルの得意技であり、キャラクターとしての面白さであり、同時に少し困った面でもある。

 とはいえ、事実として彼女の言うことはもっともだった。実際、この芸能科の教室の中で、二学期に入ってから顕著に向けられる目線が変わったのは、ルビーというよりはむしろアクアの方であるのだから。

 

 地上波プライム帯の連ドラで、そのクール中一番の視聴率を稼ぎ出した直接の立役者だ。無論他のキャスト――すなわち片寄ゆらや姫川大輝の力は当然に大きいとはいえ、あのドラマがアクアという俳優のキャリアイメージに与えたプラスのインパクトは大きい。知名度についてもまた然りである。

 芸能科の外の世界においてさえもそうなのだから、芸能関係のニュースに敏感なこのクラスの中においては推して知るべしとしたものであろう。つまりアクアは今や、不知火フリルほどではないものの、教室の中において確たる注目を集める存在へと俄かに変貌を遂げていた。

 

「そうだね、確かに」

 

 その辺りのことを思い起こしながら、ルビーはフリルに賛意を示す。

 

「実際、ウチの事務所の中でもあれは大きかったみたいだよ。最近お兄ちゃん目当てで色んなところから出演依頼の電話とかかかるようになってるっぽいし」

「そうなんや。やるなぁアクア兄さん」

 

 みなみがくるりと後ろを振り向く。視線の向かう先は、教室の中ほど、アクアの席だ。

 しかし、当の彼はここにはいない。と言うより、アクアはあまり教室の中で昼休みの時間を過ごすことはない。大抵中庭のベンチのあたりで一人飯をしているか、それとも本を読んでいるかだ。

 傍で見ている限りにおいて、アクアは話し相手こそいるものの、ルビーにとってのフリルやみなみのような、ある程度親しい付き合いをする友人というのは最低でもこの校舎の中にはいないらしい。

 

 こればかりはいくらアクア(せんせ)贔屓のルビーとて取り繕いようもない。つまりこの高校の中において、平たく言えばアクアは「ぼっち」である。

 

 ――まあ、しょうがないよね。

 ルビーは彼の現状に、そんな思いを持っていた。

 今やアクアの「中身」の何たるかを承知しているルビーとしては、そんな彼が何となく周りの高校生たちの中で浮いてしまうというか、居心地の悪さを感じているであろう理由を、理解できてしまっていたからだ。

 

 そう考えれば、彼の付き合いがどちらかと言うと年嵩――彼曰くの「カントク」、つまり五反田監督だったり、仕事先として随分と長く付き合いを持っているらしい鏑木プロデューサー辺りになるというのもなんとなく納得できる話である。五反田監督は幼いころに一度会ったばかりで、鏑木に至ってはルビーは顔しか知らないほどの他人ゆえ、どういうつもりで彼がその二人と交流を持っているかの本当のところは、いまいちよく分からないところではあるのだが。

 

 

 

 と、そこまで考えたところで、ルビーはアクアとその二人との間で交わされていた「とある案件」のことを思い出した。

 つまり、一か月ほど前のあのドラマの最終回が放映された日に、アクアがアイとルビーの前で明かした、「例の話」のことである。

 

 それを念頭に置きながら、ルビーは自分から口を開いた。

 

「でも、ここからちょっとお兄ちゃん仕事を選ぶみたい」

「え? なんでなん? 今が売り時なんやないの?」

 

 みなみの疑問は当然のものだ。一つ頷いて、訳を話していく。

 

「まあそうなんだけどね。だから厳選するっぽいよ? 安売りはしないんだって、社長が言ってた。お兄ちゃん、他に『やること』があるんだよね、これから」

「やること?」

「うん」

 

 こてん、とみなみが可愛らしく首を傾げてみせる。

 一方のルビーは、その傍らで今更ながらに悩んでいた。この先のことについて、一体どれほど言っていいものかどうかと、そういう話である。

 

 今回の件、つまり「アイのB小町を描いたドキュメンタリー映画」の制作と公開は、極秘を徹底されているというほどのデリケートな話題ではない。

 企画が動き始めてからというもの、どうやらすでに彼らは水面下でいくつかの会社と接触を試みているらしい。つまりしばらくすれば、アクアたちの動きは界隈の中で自然と噂話として広まってゆくことになるのは自明の理だ。

 ただそれはそれとして、未だ企画段階で表に出ていない話をアクアの断りもなく言いふらすというのも違うだろう。ルビーとてその程度の分別は弁えている。

 

「まあ、でもまだちょっと私の口からは詳しくは。ごめんねみなみちゃん」

「え? ううん、全然ええよ。せやろなぁ思うし」

 

 そんなわけでルビーはみなみに向かって手を合わせつつも片目を瞑ってみせたし、一方のみなみもまた阿吽の呼吸で手をぱたぱたと振って返してきた。「これ以上は詮索なし」の合図のようなものである。

 それと同時、いつの間にか食べ終わっていた空の弁当箱を閉じ、話題もまた一段落する。

 

 

 

「あ。でもその話、私もしかしたら聞いたかも」

 

 ――と思いきや、そこで突如放たれたフリルからの割り込みによって、またも話の向きが変わった。というより、引き戻された。

 

 

 

「え? フリルちゃんが? どういうこと?」

 

 思わず、ルビーはそう訊き返してしまっていた。みなみもルビーの隣で、もの問いたげな視線をフリルに向けている。

 

「うん。つまりね」

 

 二対の瞳に見据えられて、再び手に持つ緑茶のペットボトルで徐に喉を潤した彼女は、スカートのポケットの中から自らのスマホを取り出した。

 画面の中身までは見せることなく、しかし手元のそれを手早くいじりながら、フリルは言う。

 

「この業界、他所の内部事情を知ってるのが自慢みたいな人たちがいてさ」

 

 画面を切ったスマホを、ひらひらと掲げる。ちらりとそちらに目を走らせて、またルビーたちの方に顔を向け直した。

 

「自慢じゃないけど、私はこういう立場だからさ。『ご注進』してくるんだよね、けっこう、そういう人たちが。そうやってタレントと繋がりを持とうとするギョーカイ人、そこそこいるんだよ」

 

 いつものような声色で、いつものような表情で、彼女はルビーたちに話し続ける。

 そこから感情を汲み取ることは難しい。ただ同時に、ルビーは直感していた。

 彼女は、不知火フリルという少女は、そんな現状に、そんな大人に、そしてそんな自分の立ち位置にさえも、必ずしも肯定的な感情を懐いているわけではなさそうである、と。

 

「まあでも、そこそこ便利な場合もあるけどね。今回の場合は……」

 

 一瞬、彼女は言い淀む。しかしどこか意を決したような表情で、ルビーに正対した。

 

「私もちょっと興味あるから、一緒にやれたら面白そうだなって。けど、話聞く限りだと私にはあんまり縁がないかもしれないけど」

 

 彼女の台詞に、ルビーはフリルが確かにアクアのやろうとしていることについてある程度詳しいことを知っているのだと悟る。

 

「まあ、アクアさんと仕事してみたいなって思ってたのはホントだし。なんなら、『友情出演でもいいよ』って言っといてよ」

 

 そう言って、珍しくも僅かに不敵な笑みさえ浮かべたフリルを目の当たりにして、ルビーは思わされた。

 ――やっぱり、フリルちゃんは次元が違うなぁ、と。

 自分から仕事を選べるその余裕も、持っている人脈や情報網も、何もかもである。

 

「えー、なんやめっちゃ気になるやん! アクア兄さんとお仕事? どういうことなん?」

「んー、ごめんみなみ。思わせぶりだけど、私からはちょっとね。まあ、多分二か月もしたら情報出回ると思うから」

 

 フリルとみなみがそんな姦しいやり取りとじゃれ合いを繰り広げる傍らで、ルビーは少しばかり考えに沈んでいた。

 この世界(芸能界)の中で、不知火フリルと同じ、いやそれよりも上に、絶対的なタレントとして君臨する自らの母、アイの存在としての大きさも、そしてそれを最終的には超えていかんと望んでいる自分の立ち位置についても。

 またあるいは、アイの存在を中心にした「星野家」という家族の中で、アクアがずっとこの世界の中で奮闘を続けていた理由も、そしてきっと、その「集大成」とも言うべき、彼のこれからやろうとしていることも。

 それは発散か、それとも収束か。一つの「終着点」のようなものさえやってこようとしている自分たちのそう遠くない未来のことが、何故かルビーは少しだけ恐ろしくなった。

 

 

 

 しかしそんなルビーの思惟は、机の上に置かれたスマホのバイブレーションの音によって強引に中断される。

 

「ん」

 

 短い声が聞こえた。フリルの声だ。

 今鳴動したスマホは、当然にフリルのものである。だからだろう。手早く机の上からそれを回収して、画面のロックを解除しているであろう指の動きをルビーはスマホ越しに見る。

 そこからほんの数秒、突如フリルが、小さくその目を見開いた。息を呑む静かな音さえも、聞こえた気がした。

 

「どしたん? フリルちゃん」

 

 思わずと言った様子で訊ねたみなみに、フリルは目線を合わせる。

 分かりやすい、真剣な表情だった。

 

 わずかな吸気の音のあと、声が響く。

 

「さっき言ったギョーカイ人経由の話。たまにね、来るんだよ。『週刊誌記者からの裏話』みたいのも」

 

 思わず、ルビーはみなみと目を見合わせていた。今この場で、わざわざフリルがそういうものの言い方をする理由など、一つしかないからだ。

 

「今来たのは、その話だね。来週の『週刊芸能実話』に載りそうなヤツのこと」

 

 ルビーたちから視線を逸らし、フリルは教室の窓から外を見る。

 

「スキャンダル、だってさ。それも結構大きな」

 

 ――ちょっと、荒れるかもね、界隈。これから。

 

 いつもと同じ調子でありながら、しかしどこか思わせぶりな響きさえも感じさせるフリルのその語り口は、ルビーの胸中をどうしようもなくざわめかせた。

 何故か、アクアの顔が無意識のうちに頭の中に浮かんでいた。

 

 

 

 

 

 

 

 その日、苺プロの事務所の中にはプロダクション所属の若手タレントが一斉に集められていた。言うまでもないが、それは新生B小町の三人にアクアを加えた四人のことを指している。

 呼び寄せたのは、ミヤコだった。その彼女の用事というのは、応接ブースのテーブルの上に広げられている一冊の雑誌の中にこそ書かれている。

 

「『新進気鋭の映画監督・島政則、隠れ家マンション"愛の巣"の実態』、ねぇ……」

 

 そこにかかれた煽情的とも言える文句を読み上げるのは、かなだ。脚を組み、腕も組む。何とも表現の難しい複雑な表情で、彼女は広げられた雑誌を見下ろしていた。

 

「『スキャンダル』って、これかぁ……」

 

 そんなかなの横に座るルビーが、些か気になることを言う。かなと同じように腕を組んで、思わせぶりとも言えるような顔を見せていた。

 

「知ってたの? この話」

 

 食いついたのは、MEMちょだ。アクアの隣、ソファではない椅子の方に腰掛けて、ルビーの方を見る。

 

「え? ああ、うん。クラスメイトのフリルちゃん……『不知火フリル』がね。先週この話聞いてたみたいでさ」

「『不知火フリル』ぅ!? って……ああ」

 

 何気なく放たれたルビーの言葉に、かながぎょっとした反応を見せる。突然出てきた同年代の大物タレントの名前に面食らったということだろうか。

 ただ、ルビーから彼女の名前が出ることの理由それ自体は、かなの「立場」からすれば数秒も考えれば理解できるはずではある。彼女にしても、陽東高校の生徒ではあるのだから。

 実際、そんな素っ頓狂な反応を見せたのはほんの一瞬のことで、かなはそこからすぐに得心の行った様子で視線を元に戻した。

 

「確かにそうだったわね。あの子アンタたちの学年なんだから当然か」

 

 けど、と言葉を繋ぐ。

 

「それにしても『シマカン』がねぇ……まあ、こういう噂はチラホラ出てる人ではあったけど」

 

 そしてまた、元の難しい表情に戻ってしまった。

 

 

 

 今机の上に広げられている週刊誌、「週刊芸能実話」に取り上げられているのは、文字通り「新進気鋭の映画監督」、最近国内の映画賞を獲得したことでも知られる立志伝中の人物、島政則にまつわるスクープ――と言うよりも、スキャンダル記事だ。

 今最も勢いに乗っているといってもよい映画監督である「シマカン」の、その勢いに飽かせたような奔放とも言える性事情が、いくつかの写真と共に語られている。

 何人かの「関係者の証言」なる真偽の定かならぬ情報と共に、彼と「関係」を持っているであろう女優、あるいはテレビ局の女子アナの名前さえも、大っぴらに書かれていた。

 

 まさに大盤振る舞いである。その姿勢に、アクアは正直なところ些か以上の違和感を覚えていた。

 普通、こういう週刊誌はこの勢いで大量のネタは吐き出さない。「スクープ」と称して撒き餌のような速報記事を出した後、記事を出された相手が否定なりなんなりのプレスリリースを出した直後に、まさに追い打ちをかけるかのような周到さで「二の矢」、「三の矢」を放つ。そうすることで売り上げを確保し、また世論を盛り上げようとする。

 このやり方に()()()()()()ような形で築き上げてきた名声をボロボロにされた人物は枚挙に暇がない。芸能人も然り、政治家も然りである。

 

「記事の中身が嫌に充実してるな……『飛ばし』じゃないんだったらこの後にまだ『次弾』が控えてるんだぞ」

 

 故にアクアは思わずそう口にしていて、そこにはかなが、そしてミヤコもまた同調した。

 

「そうねぇ……ということは、この問題はぶっちゃけもっと大きいってことかしら」

「でしょうね。下手をすると、問題は島監督には収まらないのかもしれないわ。例えば、今ここに書かれてる子たちを島監督に『宛がった』誰かがいる、とか」

 

 ミヤコの言ったその台詞に、場が完全に静まり返る。

 理由など、言うまでもなかった。

 

 彼女の意図するところをもっと直接的な表現に変えるならば、島監督は妻帯者でありながらも恋多き、性に奔放でだらしのない人物、という醜聞には到底とどまらない。

 ある程度システム化された「接待」の実状――枕営業の構造が、そこには浮かび上がってくる。

 それを島監督自身が認識しているか、していないかなど、もはや関係がない。

 

 今この場において、直接的な、決定的な言葉は、誰もが口にはしない。したがらなかった。

 しかし同時に、きっとこの場の誰もがその可能性を予感していた。あまりにも恐ろしく、悍ましささえ覚える、可能性を。

 

 この場の全員によって形作られていた重苦しい空気の中で、ぽんと声が飛び出してくる。

 

「『この子達も、大概脇が甘いわねぇ』」

 

 主は、言うまでもない。かなだ。

 

「『世の中そんなにうまい話なんて転がってるわけないじゃない。冷静に考えてみなさいよ』……なんて」

 

 途中まで、いつものように勝気で、ともすれば攻撃的ともとれるような調子で言葉を重ねていた彼女が、最後にぽつりと付け加える。

 作っていたであろう表情も、抜け落ちた。そして目を伏せる。

 

「言えるわけがないわよね、私が」

 

 皮肉げに、口元が歪んだ。

 

「今私がこうやってそこそこ楽しい芸能人生活やれてるのは、アンタたちのおかげだものね」

 

 先輩、と思わず声をかけたルビーの方を、かなはちらりと見る。そこにあったのは、皮肉げとも言えるような、乾いた笑顔だった。

 

「アンタたちがいなかったら、私はずっとあのままだった。二年前、フリーで安く買い叩かれて、まともな仕事なんて一個も来なくて」

 

 彼女が思い出しているであろう過去のことは、アクアは断片的にしか知らない。

 しかしあの時、「今日あま」の現場の中で有馬かなという女優に鏑木が下していた冷徹な評価が、きっとあの時の彼女の取り繕いようのない現在地だったのだろう。

 

「人にも、場所にも恵まれた。アンタたちと仕事ができて、本当によかったと思うもの。ま、アイドルやっててしんどいなって思うことがないわけじゃないけど。アンタたちドルオタ二人のテンションについてかなきゃいけない時とかね」

 

 混ぜっ返し、くすりと笑う。しかしそれも、長くは続かない。膝の上に肘を据えて、両の掌でかなは自らの顔を覆った。うずくまるかのような姿勢だった。

 

「けど。もし私が今も、あの時の私のままだったら。いや、こうやってアンタたちと一緒に仕事をするようになっても、アンタたちに置いてかれて、思うように仕事とれなかったりしてたら」

 

 そこで、言葉が途切れる。

 皆までは、かなは言わなかった。しかし、続くであろう台詞はきっと誰もが推し量れよう。

 

 ――私がそうなっていなかった保証なんて、どこにもない。

 アクアがかつて覗いた「深淵」と、そこは遠いようで近い。

 

 新生B小町を構成する三人の中で、最も「芸能界」という立ち位置、そして「芸能人」という立場に執着が強いのが有馬かなという少女だ。

 そうでなければ、小学校高学年のうちに事務所を放り出され、そこから七、八年もの間をフリーで仕事してでも、まだこの世界にしがみつこうなどとは考えまい。

 紛れもなく、それは熱意によるものであろう。アクアとしては尊敬できる部分でもある。最低でも、吾郎の時代からでさえ、アクアはそこまで透徹した一本気の意思を貫き通せたことなどありはしなかった。

 

 けれども同時に、それは必死さの表れでもある。余裕のなさ、とも言い換えられるかもしれない。

 そしてそんな余裕のなさは、それ故に時に特大の陥穽を生み出す。一寸先は闇、そこかしこに生まれた底の深い穴の中に、いとも簡単に足を滑らせる。そうなり得るのだ。

 

 この世界は、芸能界という世界は、見目麗しい人々が織りなす煌びやかで羽振りのよい理想と幻想に飾り立てられ、覆われていながらも、その薄皮一枚を隔てた下には、いっそ腥いほどの利害と情念、人の直接の欲望が渦巻いている。

 いや、そんな見目麗しさが、華やかさが前面にあるからこそ、だろうか。鍍金の如くに豪奢に彩られた表層が、内に押し込められた人間の浅ましさを、泥のような本能を糊塗する。その不安定性の上に立脚し、以て夢を語り、また憧れを抱いた少年少女を絶えず誘う。あるいはもっと幼い、年端のいかない子供でさえも。

 

 斯くの如き業を、まさにその只中に泳ぐアクアたち「当事者」は、ならばどう評価すべきなのか。如何に向かい合うべきなのか。

 アクアが今追うべき人物も、「カミキヒカル」に関しても、問題の根はともすれば同一の場所に座しているかもしれないというのに。

 

 

 

「まあ、安心してちょうだい」

 

 そんな、どうしようもなく重苦しい空気に沈むこの事務所の中を、しかし一つの声が唐突に駆け抜けた。

 全員が顔を上げる。それを発した大元に向けて、揃って目を遣った。

 

「私の目の黒いうちは、うちの所属のタレントにはこういうことはさせないし、こういう記事も出させないわ。壱護もそう思ってるはずよ」

 

 言うまでもなく、そこにいるのはアクアたちが事務所の副社長にしてB小町全体のマネージャー、ミヤコである。

 

「今回あなたたちを集めたのはね。まあ、こういう週刊誌記事が出て頃合いだと思ったから、心構えを話そうと思ったのよ」

「心構え、ですか?」

「そう」

 

 ここまで一貫して口数の少なかったMEMちょが発した問いに、ミヤコは徐に首肯して返す。

 そしてそこから始まったのは、彼女による「対週刊誌記者、スキャンダル防止のための自己防衛講座」だった。

 

 

 

 そのかなりの部分は、以前よりルビーに対して苺プロ内部でも、そして星野家の中においても、意識して植え付けようとしている心構えと重なっている。

 SNSとの向き合い方、外で食事をするときは一対一は避けること、不用意に他人の家に立ち入らないこと。

 どれもこれも、意図しているところは一つに収束する。つまり、「李下に冠を正さず」を徹底しなければならないという、その一言に尽きる。

 

 一挙一動、気を抜くことは許されない。最低でも、人の目がある可能性が少しでもあるような場所においては。

 それに対して、不満がないとは言わない。ルビーもかつて、アクアやアイ、あるいはミヤコに対して、そういう不満を口にしなかったわけではない。

 しかし、これはある意味において「代償」なのだ。

 

「あなたたちは、生きているだけで『見られる』側になった。なろうとしてる。あなたたちを見ている誰かの価値観を、あなたたちの振る舞いが変えるかもしれない」

 

 何に対してのかといえば、それは今ミヤコがこの場で言わんとしていることに尽きる。

 

「価値観を、変える……」

 

 ルビーが、呟いた。どこか、それは己の中に問いかけ、言い聞かせ、ともすれば咀嚼しようとしているかのような声色だった。

 

「そうよ。『見られる立場』になったあなたたちは、そういう影響力を持つの。良くも悪くもね。あなたたちのパフォーマンスでも、あなたたちが出演する作品でも」

 

 そうだ。その言葉は、決してアクアにとっても他人事ではない。

 

 いや、寧ろアクアはこれから、己自身に、あるいは己の作り上げる作品に宿るであろう影響力を使って、勝負を仕掛けようとしている。ならばともすれば、その当事者として最も自覚を持たなければならないのは、他でもないアクアでさえあるのかもしれない。

 

 

 

 ミヤコが続けている講釈を聞きながら、故にアクアは内心で思惟を深くする。

 

 ここからのアクアたちは、これまで以上に自らの身の振り方を考えなければならない。

 

 アイだけではないのだ。アクアもルビーも、その知名度はいよいよ全国区に到達しようとしている。

 それを望んだのはルビーで、あるいはアイだ。ならばアクアもまた、こうして望みを、夢を叶えようとしている彼女たちの今を、悪いことだと思うはずもない。

 

 けれども、それは確かに奈落と表裏一体だ。

 アクアたちが、星野家の三人が立っているこの場所は、薄氷と言ってもよい危ういバランスの上に成り立っている。どこかからアクアたち双子とアイとの間の関係が露見するだけで容易に瓦解するほどには、それは脆い。

 

 今までも、自覚は持っていた。細心の注意を払って行動しているつもりでもあった。

 しかし、もうそれだけでは足りないのだろう。あの映画(15年の嘘)を作ることを決めた段階で、いや、決着をつけること自体を決めた段階から、アイのことにも、ルビーのことにも、一切の妥協はきっと許されない。

 

 アクアから「本丸」の姿がすぐ近くに見えているのならば、相手もまた同じように、こちらのことを射程に捉えている。それはきっと、間違いのないことなのだから。

 

 

 

 ――不意に、思考に何かが割り込んだ。

 

 内側に向かって沈みこんでいたアクアの意識が、突如引き上げられる。

 それと同時、自身を現実に引き戻したものの正体がスマホのバイブレーションだということを、アクアは認識した。

 

 ズボンのポケットに無造作に手を突っ込んで、中からそれを取り出す。画面を検めれば、そこに映っていたのはチャットアプリからの一件の通知だった。

 

 送信元は、姫川大輝だ。そしてそれは個人宛ではない、あかねとのグループチャットの中において送信されている。

 それが何を意味するか、アクアは瞬時のうちに察した。ロックを解除し、中を見る。

 

 書かれていたのは、三行にわたるメッセージだった。

 

『今日の週刊誌の件、気になることがある』

『三人で集まりたい』

『できれば早いうちに』

 

 そのタイミングのよさと、同時に彼がその文面をこのチャットの上に載せた意味を考える。

 程なくして導き出された答えに、アクアの背筋に氷を差し込まれたかのような悪寒が走った。

 

 

 

 「今回の件に、カミキヒカルが関係している可能性がある。最低でも、無関係とは言い難い」。そう、大輝は見ている。

 

 そこで俄かに脳裏に浮かび上がった、不穏さを帯びた予想は、その日それからのアクアの胸中から、決して消え去ってくれることはなかった。




図らずも時事ネタになってしまいました。
誓って言いますが、この話の構想は最近の某テレビ局の話が燃え盛る前に考えていたものです。
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