時間は夕刻に至り、一面をガラスに覆われた部屋の窓は、空に鬼灯の残照と宵の紫紺が混ざり合う多層の色彩を映している。
林立する都市のビル群は背面からの光によって影を濃く伸ばし、この場所の中にさえも翳りをもたらしていた。
灯りをつけるには明るいようで、しかし消してしまうには暗い。そのちょうど真ん中の時間の中に、アクアたち三人は集まっている。
ここは、姫川大輝の自室マンションだ。いつかカミキヒカルのDNA鑑定結果を共有した日と同じように、リビングの中にてアクアたちは一つの紙を囲んで座っている。
いや、正確には紙の束――と言うより、雑誌だ。それの何たるかは、言うまでもない。
「それで」
件の週刊誌を机に広げたきり、会話の糸口を探すかのように押し黙ってしまった大輝に向けて、アクアは水を向けるかのように口を開いた。
「このスキャンダル記事の気になることって、何なんだ?」
雑誌の方に顔を向けながらも、視線のみで彼を見遣る。その目に気がついたということだろうか、大輝は組んでいた腕を解いた。
ため息が一つ漏れ出る。どこか心の準備のようなものさえ思わせるような一瞬の無言の時間のあとに、彼はようやく声を出す。アクアと、そして隣に腰掛けているあかねの姿を、一瞥した。
「俺にこの話が入ってきたのは、週刊誌の記事として出てくる三日ぐらい前だったんだけど」
何でもないことのように言うが、アクアは目を小さく見開いていた。
つまり姫川大輝という人間は、こういう芸能界に関する裏話の類をどこからか仕入れることができる情報源を持っている。
売れっ子役者ということで、相応の人脈を確保しているということだろうか。なるほど、「カミキヒカルのことで調べを進める」と豪語してみせた彼の自信の出どころに、説得力が生まれるというものだろう。
ただいずれにせよ、それは大輝にとっては何ということはない前提に過ぎない。彼はそのまま話を続けていく。
「その話を聞く限りだと、今回の記事のきっかけはシマカンの方じゃなくて、あの人が『関係』を持った女優の一人だったらしい」
そう言って、彼は机の上に置かれた週刊誌を拾い上げる。眼鏡の向こうで目を凝らすようにして、そこに書き連ねられた小さな文字をしばらく追う。えーと、とほんの小さな呟きを漏らしながらも指を紙面に滑らせ、その末に何かを見つけたか、彼は指をページの上に添えながらそれを再び天板の上に据え直した。
「これだ。この女優」
誘われるようにして、アクアとあかねはそれを覗きこむ。
彼が指でポイントした先に見えたのは、二十代前半の若手女優の名前だった。
アクアもその彼女のことは知っている。地上波のドラマで主演級の配役を貰ったことこそ今のところないが、特撮系のテレビ番組ではよく名前を聞く存在だ。東京ブレイドではないが、ほかの2.5次元舞台の出演経験もかなりあったはずで、つまり所謂「デビュー直後の若手女優」としては華々しいルートを辿っていると言えるだろう。
約めて言えば、まだ全国区の知名度を得ているとまでは言えないものの、確実に「これから来る」タイプの女優だった。それがこの記事の中に列挙された五人ほどの女性の中の一人に過ぎないということに、そしてその名前が全く伏せられていないということに、この記事の異質さがよく表れている。
一方、それがすぐさまにして大輝の今の態度、すなわち何かを警戒するかのような振る舞いに接続するとは言い難い。
であるのならば、寧ろ大輝の存念はその女優の存在そのものにあると考えるべきだろう。果たして彼は、指先でその女優の名が書かれている紙面の部分をとんとんと叩きながら、言葉を続けた。
「勿論、シマカンの方も前々からよくない噂はあって、記者連中は色々嗅ぎ回ってたんだとさ。けど、それとは全く別の流れで、この女優も熱愛報道の芽があったらしい。『ここのところ、男を一人連れて街を歩く姿がちらほら見られる』ってな」
大輝はゆっくりと顔を上げる。再びアクアを、そしてあかねを視界に収めた。
「『黒い帽子を被った、サングラスをかけた金髪の男』、なんだと」
呼吸すら、奪われた。彼の言うその風体が連想させる人物は、今の文脈において一人しかいない。
意図するところも、等しく明白であろう。提示された事実から、大輝がどのような連想をしたのかも、また然りだ。
「それで追っていた女優が、たまたまその日シマカンのマンションの中に入って、翌朝出てきた。『釣れた』ってわけだ。だからこういう記事が出た。いや、むしろ釣らせたのか」
その語り口に対して、敢えて訊き返すことはしない。しかし、アクアは大輝が現状にどのような推測を持っているか、ほぼ確実なところを洞察していた。
つまり彼は、こう考えているのだ。
カミキヒカルが敢えて今回のことの発端になった女優に近づき、週刊誌のカメラがあると分かっている状態でツーショットを撮らせた。
それによって週刊誌記者に自分たちのことをマークさせたところで、更に彼は偶然を装って、彼女を島監督のいる場に誘導した。おそらくは、飲み会の類だ。
記事を見る限り、その場をセッティングしたのはカミキではない。それでも彼は、結果がこういうことになるとある程度予期した上で、それを黙認したか、あるいは
首を振っていた。あまりに突飛に過ぎる連想だと、思わざるを得なかった。
「待ってくれ。だとしても、だからと言ってすぐに怪しむというのはおかしくないか? カミキヒカルは一応芸プロの社長なわけだし、交流の一つや二つあっても別に変じゃないだろ」
何が悲しくてあの男の弁護なぞやらなければならないのかと、思わなくもない。が、それほどに今の大輝の言の中に含まれるニュアンスは、かなり強いバイアス、というよりも偏見を、かの男に対して持っていると思わせるものであった。
理由もなしに決めつけられるようなものではない。それが思い込みの類であれば、寧ろ危険なのは大輝の方になりかねないのだ。その危機感が、アクアにこれを言わせていた。
「そうじゃねぇんだよ」
しかし一方の大輝もまた、アクアの反駁にきっぱりと首を振ってみせてきた。
そこには、絶対的と言えるほどの確信が宿っている。じっと焦点をアクアの上に定め、覗きこんできたレンズの向こうの紫紺の瞳が、それに宿る光が、自らの言葉が世迷言の類では断じてないのだと、強く主張していた。
突如、大輝が立ち上がる。リビングの椅子から離れ、アクアとあかねの座る椅子の背後にあるローボードへと、足早に歩み寄る。
そこの上面に置かれたラップトップPCを、彼は手に取った。
「これだ」
そのまま、抱え込むようにして持ったラップトップを開き、その上にていくつかの操作をする姿をアクアたちに見せたのちに、彼は元の位置に戻りながらも、手に持つPCの画面をアクアたちの方に向けてくる。
見えたのは、複数のタブが開かれたブラウザだった。大輝は順々に、表示されたニュースサイトの記事の中身について説明を加えていく。
「八年前。どこぞの局アナ、女子アナが、ロケ中の事故で半身不随を起こして、芸能活動が出来なくなった。エース級のアナウンサーで、将来有望だったらしい。見ての通り可愛い子だ。写真集を出す話もあったらしいな」
タブが切り替わる。
「五年前。これはミュージカル女優だけど、付き合っていた彼氏のDVに耐えかねて、ビルから飛び降りて自殺した。元アイドルだ。歌も上手かったらしい。声優の仕事もやってたらしいな。ついでに、そのDVの件が週刊誌にすっぱ抜かれて、彼氏、こいつも俳優なんだが、そいつの仕事もなくなった」
また一つ、タブが切り替わる。
「三年前。大手レーベル所属のガールズバンドのメンバーの一人だけど、コイツの家にファンの男が押し入った。『最悪の事態』にはならなかったらしいけど、暴力沙汰にはなった。で、このファンの男ってのがバンドの別のメンバーと『繋がってた』とか何とかで、結局そのいざこざが原因でこのガールズバンドは解散した」
そして四つ目のタブが、今回の週刊芸能実話のシマカンのスクープのオンライン記事である。
「で、今回のこれだ」
全てを見せ終わったということか、ラップトップを半閉じにして、大輝は今一度アクアの目をのぞき込む。
「これが、何かあるのか?」
問いを発したアクアに、彼は肩を竦めてみせてきた。
「分かってんだろ?」
放たれたそのたった一言に、アクアは押し黙らざるを得ない。
予測は、出来ていたのだ。この四つ、四人の女性が被害に遭い、一人の命が失われ、一人は生活にさえも困難を抱える障害を負い、残りの二人も、芸能人生という意味では致命的と言ってもよいダメージを受けた。
わざわざ、その一見して無関係にしか思えない、時期もバラバラの事件を、この形でアクアに見せてきた意味など、一つしかありえない。
「今見せた四人の女の子、
アクアの推論通りの言葉を述べて、大輝はぱたりとテーブルの上のラップトップを閉じた。どっかりと深く椅子に腰掛け、腕を組む。
刺すような険しさを持った眼差しが、アクアを、そしてあかねの方さえも、真っすぐに射貫いていた。
思わず、アクアは目を瞑る。大輝の言わんとすることは、分からないわけがなかった。
「偶然とは思えない、か?」
「当たり前だろ。これに、俺の母親の心中の話と、アクアんとこの事件がある。都合六件だ」
正確には、そこに雨宮吾郎の一件が加わって七件である。しかしここで言うことでは、おそらくはない。
ともあれ、大輝はアクアの問いかけに力強く答えて、ぐっと身を乗り出す。目を開いたアクアの視界の中、その彼の姿が飛び込んできた。
「偶然だと考える方がおかしい。違うか?」
念押しとばかりに放たれたそれを聞いて、アクアは否定の言葉を吐くことなどできなかった。
そんなアクアの様子を見てか、大輝は一度頷く。危機感は共有できたと、そんなことを考えているのだろうか。
「実際、カミキヒカルのヤツがどういうつもりでここ十年過ごしてきたかなんて分からないけどな。けど、もう少し本腰入れて調べないとマズそうだ」
確かにその通りである。本当に大輝の懸念が正しければ、カミキヒカルという人間はアクアが思っている以上に危険だ。
それだけではない。もし本当にそうであるのだとすれば、アクアはここからの自身の動き方を再考しなければならないだろう。映画のことも、その『先』のこともだ。
つまりこれは『優先順位』の問題であり、また同時に決着の付け方についての話でもある。
これまで一意には定まってこなかった終局の絵図面が、このある意味では凶報によって、良くも悪くも形を帯びつつあった。
ただ、そんなアクアの内心については、今この場の誰にも気取られるわけにはいかなかった。とりわけ、自らの横に座っている少女には。
故にアクアは心の奥底にそれを沈め、表情を作る。同時に、大輝がアクアの上から視線を逸らせた。向かう先は当然に、ここまで相槌以外の一切の声を上げていなかった、あかねである。
「黒川はどう思う」
真剣そのものと言った面持ちでアクアたちのやり取りを聞いていた彼女だったが、大輝に意見を乞われたことで、自らの頤に徐に指を当てた。静かに目を瞑って、思惟に耽っている。
待つこと数秒、彼女は変わらずの態度で自らの瞼を開いた。口が開き、いつもの涼やかな声がこぼれ出てくる。
「基本的には、姫川さんの意見に賛成です。ただそれ以上に、私たちは自分たちの周りを固めた方がよさそうですね」
自身の上に集まった注目を理解し、アクアと大輝の双方に目線を送りながら、あかねは続けざまに自説を開陳していく。
「お話を聞く限りにおいては、カミキヒカルはそれぞれ事件に巻き込まれた女性と最低一度は直接の接触をしています。つまりここまで一度も彼からの接触がないのなら、危険性という意味ではそこまで高くないと見るのが自然だと思います。あくまでも『まだ』という但し書きはつくでしょうけれど」
なるほど、もっともな意見だった。相も変わらず、情報の整理が巧みだ。アクアは内心で舌を巻く。
「なるほど? 確かにそうかもしれねぇな」
「ええ。つまり私たちがすべきなのは、現状においてカミキヒカルに注目されるような行動を避けることです。それと、もしこの先カミキヒカルと一度でも接触した場合は、出来る限り速やかな情報の共有が必要だと見るべきでしょうね」
同調するように声を上げた大輝に対して、被せるようにあかねはここからの展開に関する持論を述べていく。冷静で、理性的な振る舞いだった。
ただ、そこでアクアは気がついた。
「だとしたら、今この時点でリスクが高そうな人間がいるってことだよな」
口の中から漏れ出たそれに、大輝とあかねの目線が集中する。俯き加減だった顔が、上がった。
二人を睥睨して、アクアはそれを、すなわち今自らが抱えている懸念についてを、口に出した。
「『片寄ゆら』。あの人は、もう既にカミキヒカルに目をつけられてるはずだ。もし、姫川さんが言っていることが正しいなら。あかねの話も」
その言葉に反応するように、大輝が、あかねが、目を見合わせる。アクアも加わって、三人共に無言のままに、視線が結ばれていた。
そうだ。もしカミキヒカルと交友関係を結んだ女性の芸能人が、次から次に不測の事態に見舞われているというのであれば、そこにカミキヒカルがなにがしかの関与をしていると言うのであれば、今最も「次」に近い立場にいるのは、片寄ゆらという女優に他ならない。
ただ、それはあくまで今この場における大輝の、或いはあかねの推理が正しいならばの話だ。
そこに根拠はない。外形的にも、女性たちの身に降りかかった災難に関しては、カミキヒカルが直接の関与をしたとは到底思えないものばかりなのだから。
故に、今の話を直接にゆらに伝えることはできない。警戒を促すことも然りである。
ならば、どうすべきか。その答えは、姫川大輝が持っていた。
まさに今この瞬間、何かを思い出したかのように、彼は小さく目を見開く。「あ、そうだ」と、呟くように口にした。
「そういや、俺こないだあの人にメシ誘われたんだったわ」
「サシでか?」
「いや、そこまでは決まってなかった。けど、『
そこまで口にして、彼はニヤリと口の端を吊り上げる。
「ツイてるかもな、俺たち」
そう言うや、アクアの方にじっと目線を合わせた。そのまま、小さく顎をしゃくってくる。
「アクア、お前も来いよ」
意味するところは、この文脈においては非常にクリアだ。
「聞き出すってことか、それとなく。変なことがないか」
「ああ」
アクアの問いに、大輝は明快に頷く。意見の一致を見たということだ。
であるのならば、ここからアクアと大輝のすべきことは、およそ一つに定まるのだろう。
「わかった。なら、そのあたりの調整は頼む」
「りょーかい。任せろ」
故にアクアはそれを依頼し、大輝は請けた。単純ながらも確実な約束が、そこで結ばれた。
斯くしてその日、姫川大輝の自室におけるこの話し合いによって、当座におけるカミキヒカルへの対処の方針は、共有された危機意識を伴ってある程度固まった。
ただそれは同時に、アクアが脳裏に描く決着のイメージを、決定的に変質させるものでもあった。
胸の内で、『優先順位』が静かに書き換わろうとしていた。
宵闇の街の只中を、車が進む。
「アクアくん」
その後部座席にて、隣に座る少女が、あかねが、アクアに向かって言葉を発した。
「今日のこと、だけどさ」
今二人が乗っているのは、苺プロ保有の社用車である。そしてそのハンドルを握っているのは、ミヤコだった。
大輝の自宅における会合の帰り、アクアは『事前の取り決め』の通りにマンションの前にやってきたこの車の中に、あかねを連れ立って乗り込んでいた。
私用の帰りに、戸籍上の義母であるとはいえ所属しているプロダクションの社長夫人を駆り出して、社用車で送迎までさせる。傍目には随分な身分に見えていることだろう。
ただ、今このタイミングにおいて、その必要性は苺プロの内情を知るものならば誰もが認識していた。それは何もアクアだけではない。ルビーに対しても、そして当然に、アイに対してもである。
つまりあかねは、言い方はともかくとしても、そんなアクアの「ついで」の形で家まで送り届けられる立場にあった。
車内に誘われた当初こそミヤコに対して恐縮しきりの態度を取っていたあかねだったが、その辺りのやり取りが一段落ついた今、彼女は真剣そのものの表情でアクアと正対することを望んでいた。
「『あの人』の話じゃないよ? 島監督のこと」
「……ああ」
二人のほかには秘すべき「カミキヒカル」のことについてではない、それでも今日あの大輝の住む部屋の中でもう一つの主題となっていたことを、あかねは改めてここで口にする。
「あの人が何を考えてそういうことをしてたのかは分からない。だけど」
つまりそれは、「枕営業疑惑」のとっかかりとも言うべき、島政則という人間の醜聞についての話だ。そしてそこに連なる、彼と一夜を共にしたと噂される女性たちの話でもある。
「『ああ、まだあるんだ』って。そう思ったの。この業界が本当の意味で変われるのは、いつになるんだろうって」
それを言う彼女の声は、どこか乾燥しきったもののようにさえ聞こえた。またあるいは、諦観にも近しいのか。吐き捨てるようにして口にしたその言葉とともに、あかねはアクアから目を逸らす。
女性として、女優として、切なる当事者意識が、きっとあかねにそういう感慨を抱かせているのだろう。
「そうか」
しかしアクアは、今回の話について全く別の感情を抱えている。
特に今日、改めて黒川あかねという少女と、対外的な関係としては己の「恋人」となっている存在と顔を合わせたことで、その情動は強まったと言ってもよかった。
「俺は、『怖い』と思った」
あかねの視線が、またアクアへと向けられる。
「怖い?」
「ああ」
オウム返しに問いかけてきた彼女の表情は、少しばかりの意外さによって彩られている。
ただ、アクアにとってはそれは言葉では説明しきれないほどに切実さを帯びたものだった。
「この世界に夢を持って入ってくる人はたくさんいる。成功できる人はその中でも千人のうち何人かぐらいなのかもしれないけど、夢を持つことは、誰にも否定されるべきじゃないはずだ」
顔だけはあかねの方に向きながら、膝の上に置かれている手を、アクアは握りしめていた。
「だけどこれは、夢を呪いに変える。それも無差別に」
あかねから、まるで逃げるように視線を外していた。握った己の拳が、視界に映る。
「見果てぬ夢だったはずのそれが、自分の身体を差し出せば叶うかもしれないとなったら」
記憶の中に浮かんだのは、苺プロの事務所の中で聞いた、かなの言葉だった。
彼女の声は、はっきりと震えていた。あの週刊誌の紙面の上に踊っているスキャンダルが、自分のかつて立っていた場所とほど近い場所にあることを理解して、怯えていた。
「成功した他の誰かが身体を使って仕事を貰っているとなれば、自分も同じようにしなければならないと思い込む」
「自分にそのつもりは全くなくても、そういう『雰囲気』が作られてしまった時に、持っている『夢』の為に、抗えなくなるかもしれない」
「知ってか知らずか、その構造の上に乗っかる大人たちがいる。若い子たちが何を思ってそこにいるかなんて、気づかないふりをして」
次々に、言葉が溢れてくる。下を向いて、止まることもなかった。
芸能界は、かつて河原者たちの世界であった。日本だけではない、海外においてもそうだ。
それは、必ずしも彼らが被差別階級にあったことを意味はしない。ただ最低でも、彼らは一般の世間からかけ離れた場所に位置していたことは間違いない。
故に彼らの世界においては、しばしば世俗の倫理からかけ離れた行為が横行していた。戦国時代末期から江戸時代初頭にかけて興隆した女歌舞伎は売春とほぼ表裏一体であったし、それが排されて歌舞伎役者が男ばかりになった後でさえ、役者たちが男色の対象となっていたことは有名な話である。
海外においても同じだ。いや、寧ろ踊り子や女優という職業そのものが、よいパトロンを得て、その先に貴族の公妾になるためのルートの一つであったヨーロッパなどは、日本のそれよりも強固に「己の身体を商品にする文化」を保存していると言うべきだろう。
そしてその延長線上に今日の芸能の世界が存在していると言うのならば、それはきっと宿痾なのだ。業とすら言えるのかもしれない。
「誰もが見ないふりをしている間に、そのしわ寄せを受けるのはいつだって弱い立場の人間だ。子供だ。夢を弄んで、人生を踏み潰して、そうやってこの世界が回ってるって言うんだったら」
しかし、たとえそうなのだとしても、アクアにとっては到底受け入れられないことだった。
だって、そうではないか。
「いつかそれが、あかねに降りかからないとも限らない。怖いんだよ、ものすごく。俺には」
隣で、はっと息を詰めたような音が聞こえた。
アクアは、苺プロという組織のことを信頼している。正確には、壱護社長とミヤコのことを。
過去のB小町においても、そして今の新生B小町においても、彼らはそのメンバーに対して『そういうやり方』で仕事をとらせようとしたことなどただの一度もありはしなかった。二人の人間性という意味であっても、アイに、ルビーに、そしてかなやMEMちょに対しても、そういう裏切りを働く人物ではないと、心の底から信じられる。
故に今回のスキャンダルの話を聞いても、苺プロが苺プロである限りにおいて、ルビーたちの、そしてアイの尊厳が脅かされることはないだろうと、心のどこかで安心していた。
しかし、あかねは違う。
彼女は他の事務所にいる人間で、アクアは彼女の身の振り方に対して口を挟める立場にはない。あかねの芸能活動の内実は、アクアの与り知らぬところにあるのだ。
そこを気にするというのは、もしかしたら傲慢な振る舞いなのかもしれない。余計なお世話とさえ言えるのだろう。
でも、それでも、烏滸がましくもあの台風の夜に掬い上げた、黒川あかねという少女の無垢にして透き通った夢が、その輝きが、斯くも下らない欲望に曝されて、この世界の因習のせいで穢されてしまう可能性が少しでもあることが、アクアは到底受け入れられなかった。
何故だろうか。あかねの顔を見ることが、無性に恐ろしくなる。
彼女に降りかかるやもしれない現実の無慈悲さをずっと知らずに、今までずっとあかねの夢の「理解者」を気取っていた己は、なんと滑稽だったのか。
ルビーのことも、そうだ。かつてさりなに対して「アイドルになったらどうだ」などと無責任な夢を語るばかりだった雨宮吾郎は、ともすれば彼女のことを地獄に突き落としていたかもしれないのだ。あまりに今更に、それを思い知らされていた。
何も言えず、ただじっと、アクアは膝の上で握った自身の拳ばかりを見下ろしている。
しかしそこに、不意に温感が走った。何かが、アクアの身に添えられていた。
弾かれるように、顔が上がる。反射的に横を見てしまって、そこに見えた姿は、アクアの身体に向かって手を伸ばしていたのは、当然にというか、他でもないあかねだった。
いつの間にか屈んで、俯いていた背中に、彼女の掌が当たっていた。
「アクアくんは、優しいよね。本当に」
こちらに向かってそう言葉をかけてくる彼女の声は柔らかく、そして落ち着いている。覗きこむ彼女の表情も、緩やかな笑みを象っていた。
「やめてくれ。これはそういうのじゃ――」
「優しいよ、私にとっては」
反射的に首を振ろうとしたアクアのことを、あかねが遮る。
少しの真剣さを取り戻した顔で、彼女は尚も話を続けた。
「確かに、そういう可能性はゼロじゃないって思う。私にだって、これは他人事じゃない。気をつけないといけないよね」
ふっと、何かを思い出すように、僅かに目線が外れる。
「まだ私は高校生だけど、卒業したら成人として扱われる。そうしたら、偉い人に接待するためとか言って、夜にプロデューサーに呼び出されるかもしれない。お酒ぐらいは注がされるかもしれない」
「キャバクラごっこだよね」、と呟く。恐らくそれは、彼女が所属している事務所の先輩の話を思い出してのものだろう。またあるいは、事務所こそ違えども、ララライにいる先輩たちの実体験だったりするのだろうか。
「何をどれだけ受け入れて、何を『イヤだ』って言うべきなのか。どれぐらい強く言えるか。考えなきゃいけないことは、増えると思う」
「あかね、それは」
アクアからすれば、そんなものは何もかも忌避すべきものだと思った。危うさを内包するものだろうと。
しかしそれ以上を、強く言うことはできない。
何となれば、アクアもまたもしかすれば同じ穴の狢だったかもしれないからだ。「今ガチ」の最後、ああいう形であかねを隣に引きこんだ自身の選択が、果たしてどれほどあかねの自由意思を尊重できていたかなど、分かりはしない。「番組の流れ」、「彼女を助けたという恩」、そういったものによってあかねに選択を強いたのだとすれば、アクアがやったことは先達の醜い所業とどれほどの違いがあるのか。
それを思い出して、またアクアはあかねから顔を背けたくなった。内心が、ズキリと痛んだ。
ただ、その時にアクアが一瞬浮かべたであろう表情は、あかねからすればいっそ分かりやすいものでさえあったのだろう。
「大丈夫」
言葉と共に、背中に添えられていた手が、膝の方に伸びてきた。その上に置かれていたアクアの左手が、緩やかな手つきで掴まれる。
ゆっくりと、優しく引き寄せられて、彼女の両手がそこに重なった。どこか愛おしむように、握りこまれていた。
「どうしようもなくなったら、逃げちゃうから。あの事務所の中では居場所はなくなるかもしれないけど、そしたらすっぱり辞めて、アクアくんのところにお世話になればいいし」
どこか冗談めかして笑って、あかねは横を向く。運転席にいるミヤコの方に、声をかけた。
「そうしたら、私のことを拾っていただけますか?」
返事は、すぐにやってきた。
「ええ、勿論。黒川さんみたいな女優がウチにやってきてくれるなんて、願ったり叶ったりよ」
あかねが顔を向けている先に、アクアもまた目線を送る。その場所、バックミラーの中に、不敵とも言えるような笑みを湛えたミヤコの表情が見えていた。
答えた台詞もまた、あかねのそれに対応するようなどこか茶目っ気を含んだ響きだ。そのミヤコの返答を受けて、あかねは大きく頷く。改めてアクアに向き直って、そして笑った。
「ね? だから、心配しないでよ、アクアくん」
言いながら、片目を瞑ってくる。
何故だろうか、その仕草がどこかアイに重なって見えて、アクアの心臓が小さく跳ねた。
――本当に、最近のあかねには励まされてばかりだ。
アクアがそんなことを思うのと、ミヤコの運転するこの車があかねの自宅の前に辿り着くのは、ほぼ時を同じくしてのことだった。
「黒川」の表札が見える一軒家の前に車を寄せて、ミヤコは左側のスライドドアを運転席から開いた。
「じゃあアクアくん、またね。ミヤコさんも、お手間おかけしました。ありがとうございました」
そちらの方をちらりと一瞥してから、あかねはアクアたちの方に振り向いてペコリと頭を下げる。車から、一歩を踏み出した。
「ああ、またな。……おやすみ」
そして車の外に降り立って、改めてこちらに深くお辞儀をしてきた彼女に、アクアはミヤコと共に手を振って返した。
程なく、玄関を開けてあかねのことを迎えた彼女の母親の姿を見届けてから、ミヤコは再び車を発進させる。
動き出し、流れてゆく景色を見ながら、アクアは思う。
島監督の記事を発端にして改めて意識することになった
――カミキヒカル。彼が幼いころに受け、姫川大輝が生まれる遠因となった姫川愛梨からの
そうあらなければ、愛でられなければ、居場所がない。だから受け入れるしかない。そうすることを選んでいるようで、その実においては選ばされていた。
思春期にも達していない、自我の形成も終わっていない少年であったカミキヒカルにとって、それを『学習』してしまったことは、きっと最初の歪みだったのだろう。
大輝の予想する彼の『悪意』が、本当に存在すると言うのならば。あの日アイに対して、アクアに対して牙を剥いた殺意の出元が、彼であるのだと言うならば。
アクアはそれに、同情を向けるべきか。憐れむべきなのか。
違うのだろう。そう思ってしまう心理は否定できずとも、今のアクアはものの優先順位を決してはき違えてはならない。そのことを、アクアはよく理解していた。
彼の過去が如何なるものであったとしても、彼がアクアの周りにいる人々にとっての脅威となり得るのであれば、アクアはそれに対処しなければならない。方法こそ、なんであっても。
だからこそ今、アクアは根拠を欲していた。自身の中で形を帯びつつある計画の、その実行の是非を決めるに足る、理由付けが必要だった。
果たしてその『端緒』が、アクアの、そして大輝のもとへとやってくる。
それはこの日より数日後、大輝がアクアに対して明かした片寄ゆらとの食事会の中でのことだった。
彼女がその日アテンドしたのは個室制の小洒落た創作イタリアンだったが、正直なところその食事の内容は殊更重要ではない。
アクアたちにとって聞き捨てならなかったのは、その中でゆらの口にした「次のオフ」についてのことだった。
九月いっぱいまで続いたドラマ「薄明」の撮影のあとも、彼女はここ二か月ほどCMの撮影とバラエティの出演に駆り出される多忙な身分であった。
しかし十一月になってようやく仕事が一段落ついたということで、ここから十二月の初めごろまでのひと月ほど、自主的にオフを取ることにしたのだという。
そして彼女は、近頃そうしたオフのたびに必ずやることにしていることがあるらしい。
「ちょっと来週、山登りに行こうかなって」
――最近ハマっちゃってて。
そう言って、ゆらははにかんだような笑みを浮かべた。
図らずも、その場にともに居合わせていたアクアと大輝は、共に顔を見合わせていた。
何を考えたかなど、互いに確かめるまでもない。
「失礼ですけど、その話誰かにしました?」
もう少し穏当な訊き方はあったのだろうが、しかしそれを問うた時のアクアには、そういった部分に気を回しているだけの精神的余裕が、おそらくはなかった。
アクアの言葉にか、それとも態度にであろうか、面食らったように目を瞬かせた彼女だったが、数秒ほどの沈黙の時間の経て、こてんとその首を傾げた。
「んー……まあ、友達とかには結構話してるよ。私が最近山登りハマってる話は知ってるし。インスタとかにも上げてるしね」
「あとは」、と言葉を繋いで、そして彼女は気負いも何もなく、ついでとばかりに口にした。
「こないだCM撮影やった帰り、またミキさんと呑みに行ったんだけど。多分そこでもオフの話はちょろっとしたかも」
――まぁ、酒飲んだらぜーんぶ忘れちゃうんだけどさ!
そう言って今度こそ能天気に笑ってみせたゆらの姿を正面に捉えて、正対するアクアと大輝はもう一度、無言で目配せをする。
もはや、互いの認識を共有するまでもなかった。
その場で動いたのは、大輝だった。
年嵩ばかりの劇団ララライの中で鍛えたのであろう、所謂「後輩ムーブ」を存分に使って、彼はゆらがその日の次の週に予定している山登りに同行する約束を取りつけてみせた。
「最近俺もいろいろ体力づくりやろうと思ってまして。ここはひとつゆらさんに山登りの極意ってのをご指南いただけませんかね」と、そう言って上目遣いに笑ってみせた大輝の役者ぶりは大層なもので、ゆらもその若干のあざとさすら感じさせる大輝の振る舞いに微かな苦笑を浮かべつつも、結局は彼からのその申し出を快諾した。
無論、彼の思惑が言葉通りのものであるはずもない。
目的ははっきりしている。それは謂わば、「備え」だった。
大輝が、そしてアクアが疑っているその「可能性」が正しいのならば、「片寄ゆらの登山」というイベントは特大のリスクでさえある。
アクアたちにとって、片寄ゆらという女性は、出会って日が浅いとはいえ、顔を知らない相手ではない。その彼女に、下手をすると生き死ににさえ関わる危険が降りかかろうとしているのなら、それを放っておく選択肢など初めからない。何が起きてもいいように、当日彼女についていこうとするのは、当然とも言える選択だ。
しかしそれは、本当ならアクアの仕事であるべきだった。
彼女が危ういかもしれないと指摘したのは自分で、カミキヒカルに対する手掛かりを求めているのも自分だ。ならばその面倒を見るのも、自分でなければならないはずなのだから。
だからそうならなかったのは、大輝が自らゆらの山登りに同行を志願したのは、結局のところアクアの身体能力がこんな体たらくであるからでしかない。
後悔しているわけではない。するはずもない。
あのドーム公演の朝にアクアがああしていなければ、きっとアイはあそこで命を落としていた。それがどれほど取り返しのつかないことか、アクアは誰よりも理解している。
理解しているからこそ、あの時の自分の選択を、その結果の今を、アクアは納得しているし、受け入れてもいる。
それでもこの時ばかりは、自ら身を張って動くことのできない己の身体の貧弱さを、アクアは恨んでいた。自分の代わりに、この生の中で得た数少ない友人にして、異母兄でもある姫川大輝に、余計なリスクを背負わせてしまうことも。
誰に対してというわけでもない。強いて言えば、自分のことを刺してくれたあの菅野良介なるストーカーに対して、だろうか。
そして同時にアクアは、らしくもなく真剣に祈っていた。
どうか、何事もなく終わって欲しい。自分の居合わせることのできないその場所では、何も起こらないで欲しいと。
たとえ「カミキヒカル」のことで手がかりを得られなくとも、その方がきっと何倍もマシであるのだから。
しかし――アクアのそんな無責任な願いは、結局届くことはなかった。
次の週、アクアは当の姫川大輝から、一つの報告を聞くことになる。
――登山中、すぐそばに崖のある狭い山道の中で、片寄ゆらが、事故に遭いかけた、と。
時は十一月下旬、いよいよ映画「15年の嘘」のキャスティング作業が始まらんとする辺りの頃のことであった。
ようやく、本作におけるカミキヒカルの動向を明かせるタイミングになりました。
ただ、あくまで「動向」だけです。アクアたちが本当に必要としているものは、その先にこそあります。