天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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5-4. 紡ぐは必然の糸

 十月の中頃、アクアが映画「15年の嘘」の企画を持ち込んでから、年末に至るまでの二か月と少しの期間は、アクアが協力を仰いだ「大人組」――すなわち鏑木と五反田監督にとって、「基礎固め」の時間だった。

 基礎固めとはすなわち、制作体制の確立のことだ。配給元の決定、出資者集め、制作会社に加えて音響や美術、撮影スタッフの選定まで、その工程は多岐にわたる。

 

 まず配給に関しては、五反田監督には明確な勝算があった。つまりそれは、かつて撮影していたドキュメンタリー映画のことだ。

 その映画の配給を予定していた会社に対して、「十五年越しのリベンジである」として企画を説明すれば、今回の映画の配給元としても難色を示すことはないだろうという皮算用であった。

 

 結論としては、その五反田監督の読みは当たった。彼らは今回の映画、「15年の嘘」の配給元となることについては、割とすんなり承諾したという。

 ただ、そこには但し書きもついていた。原因は、それこそ前回のドキュメンタリー映画が直前で取りやめになってしまったことにある。

 

 ドームの直前に起こった「あの事件」は、結果としてドーム興業それ自体を中止に追い込むことこそなかったが、当然に「ドーム公演」を一つのクライマックスとして設定していた件の映画の公開には大いに差し障った。公開中止も已む無しという判断は、常識的でさえあるだろう。

 当然、責任は制作側にもなければ、発起人である苺プロにもない。故に直前での公開中止であるとはいっても、配給会社に対して許されざる不義理を働いたというわけではない。

 しかし、それはそれとして、公開前提で動いて、決して少なくはない資金が動いていた映画の公開中止の判断は、金銭的ダメージとしては到底無視できないものだ。その時の苦い経験は、彼らをして五反田たちに一つの要求を突きつけるには十分なものだった。

 つまり、「ある程度の資金は自分たちで調達して来い」という要請である。その額は、一億円規模にも上る。

 

 ともあれ、そんな交換条件を前提に配給会社との契約を取り付けたことを受けて、五反田監督と鏑木の二人は次なる動きを始めた。資金調達、つまり出資元の募集だ。

 

 彼らからすれば、配給元の確保に際してその程度の交換条件で済んだのは儲けものと言うべきものではあったらしい。

 特に今回の映画は、旧B小町、そして新生B小町のファン層を中心にある程度固定での集客が見込める構成になっているおかげで、「大外しはしない投資商品」として出資者へのプレゼンはしやすい構造の作品となっている。

 ただでさえ本来的には投機色が強く、あるいは文化振興の美名のもとに恥を忍んで赤字での出資を願い出なければならないことも少なくはない映画制作の世界において、これは非常に大きなメリットである。そう、鏑木は五反田監督に、また時折進捗に関する報告を聞いているアクアに対して盛んに説いていた。

 

 そんなわけで、出資者もまたある程度順調に集まっていく。その中には、当然のことながらアクアたちの所属する苺プロも含まれていた。

 ただそれ以上に、その出資者集めの段において、アクアは鏑木に一つ強い頼みごとをしていた。

 

 ――もし出資者リストの中に、「株式会社メディアEYES」という会社があったなら、そこからの出資は必ず受けてください。

 

 理由は、今更言うまでもない。そしてアクアがその話を鏑木にしたとき、彼は一瞬ばかり怪訝そうな表情を浮かべたものの、しかしその数瞬後に何かを納得したかのような表情で、アクアに対して頷いてみせた。

 その時彼の見せた態度は、アクアに一つの事実を悟らせた。

 

 鏑木は、おそらく何らかの事情でカミキヒカルという人間と面識を持っている可能性が高い。

 ただ同時に、鏑木は今の今までカミキヒカルがアクアの父親であることを、おそらくは知らなかったのだろう。アイと一時期交際関係にあったことも。

 

 そういう意味では、鏑木はアクアがこの申し出をしたタイミングで、ともすればカミキとアイの、あるいはアクアとのつながりを察知した可能性もあった。

 が、結局彼はその場では何も言わなかった。鏑木という人間の、業界人としての危険を察知する嗅覚の鋭さによるものか、それとも「取るに足らない可能性」だと切って捨てたのかまでは、アクアの方からは判別はつかなかったが。

 

 

 

 兎も角も、出資者集めや裏方のスタッフの選定の部分については、特に大過なく話が進んでいく。

 一方で、この事前準備におけるある種の花形でありながら、色々な意味で最も頭を悩ませる部分というのが、つまるところキャスティングであった。

 

 

 

 映画というコンテンツの本分とは何か。

 

 世間に対して強いメッセージを伝えること。それもあるだろう。

 純粋に、作品を見に来てくれた人を楽しませること。娯楽なのだから、当然の話だ。

 社会的なムーブメントを引き起こすこと。それが出来るのならば、一種の理想かもしれない。

 

 ただそれよりも何よりも、前提となるものがどうしてもある。

 つまりそれは、「採算をとること」だ。

 

 映画、とりわけ商業映画が映画『市場』の中に存在するものである以上、商業的思惑を完全に無視したものづくりはできない。

 自主制作映画と違って、商業映画は趣味の産物ではないのだ。そして、結局芸能界において、収入――すなわち動員の是非を決める最大のファクターというのは、言うまでもなく演者である。

 

 今回の映画、「15年の嘘」においても、それは全くと言っていいほど例外ではなかった。

 

 

 

 この日、アクアたちが集まっていたのは、五反田監督のスタジオではない、都内にあるとある貸会議室だった。

 セッティングをしたのは、鏑木だ。キャストの調整がいよいよ佳境に入るということで、外に会話が漏れることのない防音性が確保されている場所を、わざわざ選んでいる。

 

「とりあえず、今のところツモれそうな人たちの話をしようか」

 

 この場にいる関係者、つまりアクアと五反田監督を前にして、鏑木はいつもの飄々とした調子で話を始めた。

 

「元々の想定キャストの中で、絶対に引っ張れるのは今のB小町の子たちだったね」

 

 つまりはルビー、有馬かな、そしてMEMちょの三人のことだ。アクアは頷く。

 

「彼女たちは、苺プロ側もオファーを受ける方向で進んでると壱護社長が言っていたよ。今のところ役柄はアイくん以外の旧B小町役……でよかったかな?」

「はい、その通りです。現状の想定キャストとしては、ルビーがB小町追加組の『きゅんぱん』役、有馬かなが前期、というか初期メンバーの『ニノ』役、MEMちょも同じ初期メンバーの『渡辺(めいめい)』役でアサインかけてます」

「オーケー。認識は合っているね」

 

 ここまでは既定路線である。ただ、それ以外にいるかつてのB小町のメンバーに関しては、まだ配役が決まってはいなかった。

 

「脚本側で想定している残りのB小町メンバーは、初期メンバーの『高峯(たかみー)』、追加メンバーから『ありぴゃん』ぐらいです。流石にB小町の歴代メンバー全員を取り扱うことは考えていません」

 

 なるほど、と口の中で転がしながら、鏑木が腕を組む。

 

「僕が持っている弾という意味だと、一応ですが、『不知火フリル』がいます。友情出演でクレジット入れてくれるなら出てもいいと」

 

 しかしアクアがそう言った瞬間、彼は劇的な反応を見せた。

 配役のメモを書いていたのだろう、手元の紙に走らせていたペンの動きが止まる。弾かれるように顔を上げて、声のトーンもまた高くなった。

 

「本当かい? 不知火フリルが?」

「ええ。扱いが友情出演なので、脇になりますが。なので、どちらか片方をアサインするのがいいかと。個人的には、ありぴゃん役がいいと思いますね。彼女歌が歌えるので」

 

 アクアはフリルにオファーする役のことについて、その理由の一端を鏑木に説く。

 ただ、彼女のことをありぴゃん役に推した理由にはもう一つ、脚本の中身の問題というものも存在していた。

 

 B小町にとって追加メンバーにあたるありぴゃんは、アイと比較的仲が良かったらしい。きゅんぱんにしても同じである。これは彼女たちが、「既にアイがセンターとなった後のB小町」に参加したメンバーであることが関係している。

 逆に初期メンバーである高峯は、不知火フリルほどの格を持つ女優にはあまり演じさせたくはない役だった。理由は一つ、『初期メンバーである彼女は、加入当初のアイとぎくしゃくしていた時期が存在するから』だ。これについては、まさしく映画の中で重く取り扱わなければならないテーマの一つであった。

 

 が、その部分は取り立ててここで話題にすべきものではない。鏑木のほうも、アクアのここまでの説明にすんなりと頷いた。

 というより、随分と乗り気であった。

 

「いいじゃない。友情出演でも不知火フリルがツモれるなら、これは一気に勝算が出てきたかな?」

 

 途端にどこか胡散臭い笑みを浮かべ始めた彼のことを、アクアの(はす)向かいに座る五反田監督が、どこかうんざりしたような渋面で見ていた。

 この拝金主義者め、とでも思っているのだろう。まあ、その辺りは何でもよい。

 

「そうなると、高峯役はペンディングね。これはこっちで見繕っておくよ」

「ありがとうございます」

「うん。で」

 

 その辺りの、表面的な確認のやり取りを済ませれば、とうとう話題は中核に近づく。

 鏑木が、いよいよ満を持してといった様子でその身を乗り出す。

 

「問題のアイくんだけど」

 

 彼の目もまた、そこですっと細まった。

 

「確認するけど、想定キャストは『黒川あかね』。あかねくんということでいいよね」

 

 それまでの軽い調子の言葉遣いとは打って変わった、真剣な声色だ。

 アクアもまた、神妙に頷いた。

 

「現状ではそうです。こういうのはどうかという話ですけど、黒川あかね本人にも裏でスケ押さえてもらってます」

「へえ? やるねえ、アクアくんも」

 

 片眉を上げて、鏑木が意味ありげに笑う。

 

「そういうの、いい心がけだよ。コネは使ってこその芸能界だからね」

 

 出てきたのは、何とも露悪的な台詞だった。鏑木らしい、と言うべきだろうか。

 いい加減、アクアもこういった鏑木の胡散臭げな言い回しについては、正直に受け取るものではないことを理解していた。

 

「恐縮です」

 

 よって、アクアは敢えて彼に対して真正面から、大仰に畏まってみせる。

 そうすれば、また鏑木はどこかおかしそうな含み笑いを漏らしていた。

 

「僕も賛成だな。『今ガチ』、あの時のあかねくんの『演技』はよかった。あれ、アイくんだよね?」

「……気づきますか、流石に」

「そりゃ気づくとも。僕も若いころにアイくんのお世話を色々してきたからね。見る人が見ればわかるものだよ、あれは」

 

 ともかく、と鏑木は話の流れを元に戻す。

 

「とりあえず、B小町の中のキャスト陣はおおむねフィックスかな」

 

 しかしそのあとに続いた彼の言葉が、最近起こった一つの「重大事」を、はっきりとアクアに思い起こさせた。

 

「あとは、メイン級だと『苺プロ』の二人、壱護社長とミヤコ夫人だけれども」

 

 手元の紙に視線を落として、鏑木は問うてくる。

 

「壱護社長、『斉藤壱護』役が、姫川大輝。で、夫人、『斉藤ミヤコ』役が、()()()()。これでオファーかけちゃっていいんだよね?」

 

 そしてその中に含まれていた二人の人物の名前が、アクアの脳裏につい先日にあったことの記憶を否応なしに蘇らせた。

 

 

 

 

 

 二週間ほど前のこと、「チャットで出来るほど簡単な話ではない」と言われ、その日もアクアは姫川大輝の自室に呼ばれていた。

 ただ前回までとは違って、隣にあかねはいない。純粋な一対一だった。

 時間も昼間、メゾネットの二階部分まで一面に張られたガラスから、冬の澄んだ、そして少しだけ低い場所から差し込んでくる陽射しが部屋の中を照らす。そのどこか鈍色を帯びた、寒々しい景色の中で、大輝はアクアにそこから更に数日前の、彼が片寄ゆらと共に山登りに出掛けたときの一部始終を語って聞かせた。

 

 

 

 彼女が大輝を伴って向かった山は、流石に「山登りが最近の趣味」と言うだけあって、簡単なハイキングコースと言えるような易しいものではなかった。

 東京からは地理的にも些かほど離れていて、ゆらや大輝のほかに登山客の姿もそこまで多くない。つまりそれは、もし仮に「何か」が起こったとしても、すぐに見つけてくれるような第三者の存在はあまり期待できないということでもある。

 

 実のところ、大輝はすでにこの時点で先行きに不穏なものを感じてはいたらしい。ただ、それはあくまでも大輝自身が現状を悲観的に捉えすぎている面もあると、そのタイミングではゆらに対して何も言わなかった。それでも、明らかに一段上の警戒心を持って、大輝はゆらの背後についていくことにした。言うまでもなく、「いざという時」に彼女のリカバリーをするためである。

 

 そして結局、喜ばしいことでは全くないだろうが、その大輝の打ち手は功を奏することになる。

 

 

 

 それは登山を始めてから二時間ほどが経った、昼前頃のことだった。

 山頂へ向かうための山の尾根伝いの只中、昼食をとるための休憩スペースが少しばかり先にあるその道は、それまでの登山道から打って変わって、非常に狭い道幅の場所だった。

 左側は急峻な斜面に木々が林立し、右側に至っては岩肌が露出した崖である。横並びに通れるとしても三人ほど、マージンを考えれば二人が限度である一帯を、しかし大輝の先を行くゆらは、慣れによるものか、それともすぐ先にあるランチタイムの楽しみに気でも取られていたのか、かなり軽い足取りで進んでいた。

 

 そんなさなかのこと、大輝たちのすぐ前方、あと三百メートルほど先にある休憩エリアに向かって大きく左側にカーブしている道は、なおも都合の悪いことに左側に生い茂る木立のせいで先の見通しが極めて悪くなっていた。

 

「大輝くん、大丈夫? ついてこれてる? あとちょっとで昼休憩の場所につくからね」

 

 顔を大輝の方に向けながら、ゆらは励ますかのように笑顔で話しかけてきている。

 

「全然大丈夫ですよ。これでもまあ、役者なんで」

「それもそっか。若いしね大輝くん。私の五つ下だもんなぁ」

「そろそろ二十一ですけどね俺も」

 

 つまりこの会話の間、ゆらは前方に対する注意が明らかに足りていなかった。

 

「そだ、大輝くん一人暮らしだって言ってたよね。普段料理とかしてる? というか、今日のお弁当とかどうしたの?」

「いやまあ、外食と取り寄せが多いっすね。自炊する時間はあんまないっつうか。だから弁当も――」

 

 いや、ゆらだけではない。大輝の方も、今目の前に見えるカーブを曲がりきれば開けた場所に出るからと、その一瞬だけ完全に気を抜いてしまっていた。ゆらに対して前方に注意を促すように忠言をしなければならないのに、それを怠ってしまった。

 

 

 

 斯くしてその間隙に、意識のエアポケットに、突如「それ」はやってきた。

 

 

 

「――ゆらさん!」

 

 大輝が動けたのは、役者として培ってきた注意力の為せる業だったのか。それともただ単に、運がよかっただけなのか。

 視界の端、左の方に瞬間映った『黒い影』を認識した瞬間、大輝は前を歩くゆらの手を強引に引いていた。

 

 後ろに向かってバランスを崩し、たたらを踏みつつも倒れ込むゆらを背後から抱きかかえるようにして、しかし大輝自身も完全にその勢いを止めることはできず、二人尻餅をつく。

 そんな二人の前を現れたのは、「黒いスポーツウエアを纏い、山道をイヤホンをつけながら駆け下りてくる登山客の男の姿」だった。

 

 

 

 時間にして、僅か三秒ほどの出来事だ。しかしその三秒が、誇張でもなんでもなく、片寄ゆらの生死を分けた。

 典型的な「出会い頭の事故」の構図だった。左側からかなりの速度で突っ込んできていたあの男が、その瞬間前方のことを全く意識していなかったゆらに対して真横からぶつかっていたら、どうなっていたか。

 「すみません、ちょっと急いでて」、などと白々しい謝罪の言葉をかけながら、尻餅をついた姿勢のままのゆらと大輝に会釈だけ残して山道を更に下へと走り去っていった男の背中を忌々しくも一瞥してから、大輝は改めて自らの右側を見る。

 ゆらが、そして大輝が歩いていたのは、尾根伝いの道の右側半分だった。そして今大輝達が座り込んでいる場所は、右側に見える崖から、ほんの五十センチほど手前の場所に過ぎない。

 一応、滑落防止のためのロープこそ張られているが、しかしそんなものは気休め未満だ。

 

 言うまでもない。今この瞬間、ゆらは崖から突き落とされかけていたのだ。たとえそれが事故の類であるとしても。

 そしてもしそうなっていたのなら、下手をしなくとも彼女の命はなかっただろう。滑落したであろう先は切り立った崖の遥か下、ごつごつとした岩肌の露出した空間で、そこに落下の衝撃で頭をぶつけて、生きていられるような人間はいないであろうから。

 

 その全てに気づいた瞬間、大輝の全身から今更ながらに冷や汗が噴き出していた。晩秋から初冬に至りつつある山の寒風に吹き付けられて、凍えるほどの寒さが、俄かに大輝の全身を支配した。

 

 

 

「……大丈夫ですか、ゆらさん」

 

 がっしりと後ろからゆらの身体を抱きかかえたままの姿勢で、大輝はゆらにそう問う。

 数秒の沈黙を経て、彼女はぽつりと大輝に返す。

 

「あ、うん。全然大丈夫。ありがとね、大輝くん」

 

 しかし、その言葉の、声の端は、聞けば一瞬で理解させられるほどに、震えていた。

 当然に、彼女自身の身体も。

 

 山道の上を吹き抜けてゆく風が、それが木立の間を通り抜けてゆく寒々しささえ覚える音が、その時の大輝とゆらの胸中をこの上なく表していた。

 

 

 

 

 

「とりあえず、そこから先は特にヤバい感じのことはなかった。飯食ってから山頂行って、帰りはほとんど話さないでマジになって気を付けて山を下りた。ゆらさんも当然、全然元気だ」

 

 息のつまる臨場感を伴って始終をアクアに聞かせた大輝が、眼鏡の向こうから剣呑さすら帯びた目つきでアクアの顔をのぞき込む。

 きっとアクアも、大輝に対して似たような表情を向けているのだろう。それほどまでに、確かに彼の話した内容は冗談ではすまされないものだった。

 

「まあ、どっからどう考えてもあれは事故だ。いや、事故になりかけたっつー方が正しいか」

 

 彼の言う通り、経緯だけを訊けば彼ら二人が遭遇した山道の上での出来事は、偶発的な事故と言うよりないのだろう。山道を急いで駆け下りていく登山客というのは少ないがいないわけでもないし、出会い頭に衝突しかけたというシチュエーションは、相手側にしても狙って作れるようなものではない。

 

「けどな」

 

 しかし、だからと言って「事故りかけて危なかったね」という一言でゆらの身に起こった一件を片付けてしまえるほど、アクアも大輝も能天気ではない。

 

「起こっちまったんだよ、『そういうこと』が」

 

 左手を、頭に添える。髪の毛をくしゃりと握りこんで、大輝が出したその声はどこか絞り出したような響きにも聞こえた。

 

「七度目だぞ、これで。『偶然も三度起これば必然』っつーなら、七回も起こったらなんて言やいいんだろうな」

 

 皮肉げに続けられた台詞も、アクアにとってはどこまでも真に迫ったもののように聞こえる。

 そうだ。つまりこれで、「カミキヒカルと接触したことのある女性に『偶然』不幸が降りかかった回数」は、都合七回目になるのだ。姫川愛梨とアイのことを抜きにしても、五回である。

 もはや、大輝にせよアクアにせよ、自らの懐く疑念については、その可能性を濃厚なものであると考えるようになっていた。

 

 すなわち、「今まで起こった事案や事故、そして事件の裏側には、濃淡は分からないものの、カミキヒカルの意図が存在している」と。

 

 

 

 正直なところ、証明は難しい。と言うより、まず不可能であると表現するのが正しいだろう。

 

 外形的に見て、カミキヒカルと被害者たちの遭遇した『アクシデント』との間を結ぶ要素はあまりに希薄だ。

 今回のゆらの件なぞ、顕著だろう。あれを狙って起こすなど、どう考えても至難の業である。

 つまるところ、被害者の女性全員に関して、カミキヒカルとの間に何らかの関係が存在していたのは事実でも、それだけを理由にカミキヒカルに対してその関与を疑うのは合理的ではない。司直に訴えようとするのであれば、猶更だ。

 

 しかしアクアからしてみれば、その実在性の証明についてはもはやどうでもよかった。

 今のアクアにとって、カミキヒカルの過去のことで、カミキヒカル自身に法的な責任を取らせようなどというのは狙いの外のことである。それを実現させる必要を、アクアは感じていなかった。アイに、そしてアクア自身に降りかかった、ドームライブ当日のあの日のことでさえも。

 

 つまり――アクアが必要としていたのは、理由付けだけだった。

 カミキヒカルという人間に対する、リスクの認識だけだったのだ。

 

 それこそが、アクアがこれから進むべき道の、その指針を定めるための、根拠となるが故に。

 

 

 

 だからこそ今、アクアの中で一つの計画が、明白に形を帯びつつある。

 これからのこと。カミキヒカルに対して、どういう決着をつけるべきか。

 

 目指す先は、たった一つだ。ずっとそれは、ブレてなどいない。

 ――未来を望む権利を、夢を追う資格を、自身の周りの誰しもに保証する。

 アイも、ルビーも。それだけではない。かなもMEMちょも、そして当然に、あかねについても。

 

 そのために自分がなすべきことを、アクアは組み立て始めていた。組み立てられるようになったのだ。

 今回の映画の、『15年の嘘』という作品の使い道にしても、また然りである。

 

 

 

 

 

 僅かの時間、深い思考の海に潜っていたアクアは、現実に立ち返ると同時に、鏑木に向かって頷く。

 

「はい、大丈夫です。お二人へのオファー、よろしくお願いします」

 

 あの日の後、経緯はどうあれ無事に山から帰ってきた姫川大輝と片寄ゆらの二人に対して、アクアは内々に今回の映画のことについては共有していた。打診しようとしている役柄のことについてもである。

 大輝はともかくとして、ゆらに関してはやや頭越しとも言える話の持って行き方だ。だからアクアが話した分というのはあくまでも事前の根回しの類に過ぎず、実際のオファーは鏑木から事務所経由で、ゆらのマネージャーの方から回ってくることになるだろう。

 ただそれでも、二人はアクアが水面下で持ってきたその話について、既に好意的な反応を示していた。大輝の方は言わずもがな、ゆらに関しても、「今回のことで二人にはお世話になったから」と、多分に私情の入った理由ではあったが、オファーが正式に打診されれば受けることは全くやぶさかではないという姿勢を、アクアに対して見せていた。

 

 これもまた、ある種の『貸し借り』ということなのか。経緯が経緯である故に些か以上に気後れを覚えることは確かではあったが、しかし逆に()()()()があったからこそ片寄ゆらほどのネームバリューを持った女優を今回の映画に引きこめたというのならば、ともすればアクアが今回の映画を作ることも、その先に見えている『着地点』でさえも、必然という一本の道でつながっているのかもしれない。

 運命論者を自称しない、というよりも、そんなものの存在は基本的に認めたくなどないアクアでさえも、現状に至る偶然と必然の積み重ねに、どこかそういう『流れ』のようなものを、強烈に意識させられていた。

 

 

 

 であるのならば、その日からしばらく経った日のこと、アクアに迫られることになる一つの選択さえも、そんな縷々に連なる必然によって導かれたものであったというのだろうか。

 それは、この日の会合で一通り決まった映画『15年の嘘』の想定キャストに関して、出資元兼キャスト陣の所属プロダクションとしての承認を得るために、苺プロ内部で実施したレビューのさなかのことであった。

 

 

 

 

 

 アクアたちにとっては第二の実家とも言える苺プロの事務所の中には、その日これもまたいつものことと言うべきか、新生B小町の面々が勢ぞろいしていた。ルビーとMEMちょは純粋にオフであり、そしてかなに関しては、出演中のミュージカルの丁度休演日に当たる日となっていた。

 無論、それは偶然ではない。意図があってのものだ。

 その場には、当然に所謂『大人組』もまた勢揃いしていた。壱護社長にミヤコ、そしてアイのことである。

 ネット配信側でない、タレント部門の関係者の全員が一堂に会している。理由は、壱護社長の次の台詞がこの上なく示していた。

 

「っつーわけで、でけぇ仕事だ。ウチの事務所の総力を挙げたプロジェクトになる」

 

 事務所備え付けのホワイトボードに大書された『15年の嘘』の文字をバンと手で叩いて、彼はこの場の遍くを睥睨した。

 

「企画書は全員の手に渡ってるだろう。詳しい話はそこ読みゃ書いてある。つまりは、ウチの『B小町』っつぅブランドを使って、でっかい花火を打ち上げようってわけだ」

 

 壱護社長のその威勢のいい言い回しには、まずかなが反応した。手元に持つ当の企画書をぺらぺらとめくりつつ、興味深げな声を上げる。

 

「面白いですね、これ。アイさんのB小町のことをドキュメンタリードラマ映画にして、それを私たちのB小町にリンクさせるわけですか」

「そうだ。だからキャストも、お前たちB小町のメンバーが入ってる」

 

 彼はそこで、テーブルの上に積まれていた数枚の紙を手に取った。

 B小町三人の宣材写真だ。それをマグネットを使ってホワイトボードにそれぞれ貼り付けて、壱護社長は今一度応接の椅子の上に腰掛けている面々に視線を戻した。

 

「今回の映画のプロデューサーは、みんな知ってると思うが、鏑木さんだ。あと、制作サイドにはそこのアクアも入ってる。五反田監督の手伝いやりながら脚本も書くそうだ」

 

 かなが、MEMちょが、弾かれるようにアクアの方を見る。一応、企画書の方にもそのあたりの話は書かれているものの、いざ実際に耳にすると、意外さが勝つということだろう。

 ただ、そこは今回の話の中では枝葉の部分に過ぎない。さらりと流して、壱護社長は本題に入った。

 

「でだ。その鏑木Pの方から、ウチのプロダクションに向けての配役のオファーが正式に入った。一人ずつ言ってくぞ」

 

 そこからは、アクアにとっては事前に決めたことの再放送である。つまり、彼は一人一人の名前を挙げながら、対応する宣材写真の下にオファーされた役名を書き加えた。

 ルビーにきゅんぱん、かなにニノ、そしてMEMちょにめいめい、と。

 

「当然だが、全員アイのB小町のメンバーだ。ここまでで質問はあるか?」

 

 全てを書き終え、また読み上げ切った壱護社長が、全員に向けてそう水を向ける。

 基本的には、それは役にアサインされた面々、つまり新生B小町の三人に向けてのものであっただろう。しかし彼の声に合わせて手を挙げたのは、彼女たちとは全く違う人物であった。

 

「はい、社長」

 

 よく通る、華やかさを帯びた声が、部屋の空気を真っすぐに貫く。

 全員の視線が集中したその場所で、ぴんと手を天に向かって伸ばしていたのは、つまりアイだった。

 

 呆気に取られたのか、それとも単に呆れの情が含まれていたか、とにかく一瞬だけ動きを止めた壱護社長が、呼吸一つを挟んで、アイに向かって問う。

 

「なんだ、アイ」

「いやまー、この子たちの役については特に言うことはないんだけどさ」

 

 対する彼女は、挙げていた方と反対側の手に持っている紙束、すなわち「15年の嘘」の企画書資料を、ひらひらと振ってみせた。

 

「けど、一応さ。このお話の主人公っていうか、そういうのって、私なわけでしょ?」

 

 「だからさ」と一歩踏み出して、アイは真っすぐに壱護社長を見据えた。

 そして、問いかけ返す。

 

「私の役って、誰がやるの?」

 

 同時に彼女は壱護社長から視線を外して、身体を反転させる。

 双眸の向く先は、アクアだった。アクアのことを、アイは己の視界の中央におさめてみせた。

 

 まるで自らの問うたことの本質は、社長ではなくアクアにこそぶつけるべきであるのだと、理解しているかのようだった。

 いや、事実としてきっと彼女はそのことを認識しているのだろう。それが理屈によるものか、直感によるものか、それとも本能的嗅覚によるものかは、分からないが。

 

 いずれにせよ、問われたのはアクアだ。頭越しの答えになることは理解しつつも、壱護社長に代わって口を開く。

 

「一応、候補という意味では決まってます。完全にフィックスではないですが」

 

 言ってから、壱護社長に視線を送る。こちらから言ってよいかの、念のための確認だ。

 その無言の問いを視線に乗せて、見据えた先の彼が、こちらもまた言葉を発することなく頷く。

 それをしっかり見届けて、アクアはアイの方にもう一度目を向けた。

 

「現状では、『黒川あかね』にオファーをかけるつもりです」

 

 そして、答える。

 敢えてフルネームを述べたのは、キャスティングの決定が中立的判断によるものだと強調する意味を含んでいた。

 

「黒川あかね、ね。まあ、そうでしょうね」

 

 視界の外から、茶々のような台詞がねじ込まれる。アイが、そしてアクアも横を向いた。

 当然ながら、そこにいるのはかなだ。目を瞑り、腕を組んで、浮かべている表情は、一言では言い表すことのできない多層の色を宿している。さながらそれは、かながあかねに向けて懐いている感情や評価を鏡に映したものであるかのように、アクアには思えた。

 

「あかねちゃん……」

 

 そこに合わせるように、ルビーが呟く。俯き加減で転がり出た声は、どこか茫洋としてつかみどころがない。まるで溶けて消えるかのように、彼女の言葉は事務所の空間の中に発散する。

 

 数秒、空白の時が過ぎる。

 さすれば、その静寂を切り裂いたのも、またアイだった。

 

「そっか、なるほどね。あかねちゃんか」

 

 変わらない声色だった。能天気さすら思わせるような。否応なしに、この場の注目が彼女の上に集まる。

 しかし、当のアイはそのことをまるで意に介さない。集中した視線のことを無視するかのように、するっと目線を身体ごと反転させた。

 向かう先は、壱護社長である。

 

「役柄完全に決まってないっていうなら、ちょっと意見いいかな」

 

 思わず、身構えていた。アクアも、社長もである。

 確かに、今回の映画のある種「ネタ元」であるアイは、今回のキャスティングに関して例外的に意見を差し挟む資格を有している。とりわけ「アイ」役、つまり自分自身を演じる人間を誰にするかについては、まさしく本人であるアイの意見を完全に無視することは難しい。

 

 だからこそ、ここで、つまり「黒川あかね」の名前を聞いたところで敢えてこの言い方をしたアイの意図は、アクアにとっても壱護社長にとっても、重い意味を持っている。

 

「……なんだ」

「いやね、考えたんだけど」

 

 警戒心すら宿したような声音で短く訊き返し、顎をしゃくってみせた社長に向かって、裏腹に全く色も重さも変わることのない軽い調子で、アイは答える。

 しかしそこに続けられた彼女の台詞が、アクアの思考を完全に硬直させた。

 

「私の役さ。あかねちゃんにやってもらうのも全然いいと思うんだけど、でも私は別にやってもらいたい人がいるんだよね」

 

 言って、振り向く。目線の向いた先、そこに座する少女をじっと見据えて、アイはさっぱりと、何でもないことのように、それを口にした。

 

「ルビーちゃんにね、やってもらったらいいんじゃないかなって」

 

 まるで、世界が静止したかのような。

 そんな錯覚さえ、アクアは懐いた。

 

 

 

 今回の映画において、アイ役とは主役も主役、唯一無二の主人公である。

 それを、ルビーに任せる。そう、アイは提案している。

 

 実のところ、アクアとしてもそれを一瞬も考えなかったというわけではなかった。

 いや、アクアだけではない。アイ役のキャスト候補を考えたときに、ルビーの存在を提示してきたのは、五反田監督もまた同じだった。

 

 当たり前と言えば、当たり前だろう。何せ、対外的に明かしていないとはいえ、ルビーはアイの娘だ。

 そして彼女は、恐ろしいほどにアイの容姿を受け継いでいる。髪の色、あるいは表情の作り方が違う故に誤魔化されてしまう人も多いが、冷静に顔のパーツを比較すれば、二人のそれは言い繕いようもないほどに似通っているのだ。まさに、「生き写し」とさえ表現すべきほどに。

 

 だからこそ、五反田監督はアクアに対してそれを提案した。「妥協したくない」、「本物を撮りたい」という強いこだわりを映像に対して持つ職人気質の彼が、ビジュアルという意味でこれほどのアドバンテージを持った人間のことを放っておくはずがない。それは自然な帰結とさえ言うべきものである。

 

 しかしアクアもまた当然に、それを断固として拒否した。ルビーにアイ役を演じさせることを、アクアは受け入れることができなかった。

 

 理由は一つである。

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 まさに五反田監督がルビーのことを推そうとしたのとまったく同じ理由によって、アクアはルビーにアイを演じさせることに強い拒否感を覚えていた。

 

 だって、そうだろう。

 ウイッグを使って髪色をアイに合わせ、そして演技指導によって表情の作り方をアイに重ねる。

 そうしたら、どうなるか。ルビーの容姿であれば、そこに浮かび上がるのはほとんどかつてのアイだ。そうなったルビーを見たとき、人々はどう思うか。

 

 『血縁の存在』を疑う。火を見るよりも明らかな展開だ。まさしくそれは、アクアが頑として避けたいと思い続けていた展開だった。

 すぐさまにアイとルビーとの親子関係を決めつける人間が出るとは考え難い。しかしその「疑い」を生み出すのは、特大のリスクに他ならないのだから。

 

 

 

 だというのに、そんなことは分かっているだろうに、アイはそれでもルビーのことを自分役に推すという。

 どうして。一瞬だけ浮かんだ疑問は、しかしすぐにアクアの中で氷解する。

 

 そうだ。アイは、自分とアクアたちの血縁関係について、積極的に隠す理由がない。最低でも、この映画が発表された後には。

 何故なら、この映画の「本当の狙い」は、アイとて理解しているからだ。

 

 この作品にあの男を、カミキヒカルを引きこんで、アイと彼は最終的に対峙することになる。

 しかしそこで彼女は、彼女自身のやり方で決着をつけようとしている。

 アクアとアイは、そういう意味では現状、呉越同舟に近い。アイの思い描いている決着の絵図面は、必ずしもアクアのそれとは一致していない。

 

 そしてアイの望む形でことが終われば、おそらく彼女の中でアイとルビーとの血縁関係は、世間に対して強く伏せておかなければならないものではもはやなくなる。

 ならば、ルビーがアイの役として映画に出演することは、アイにとっては何のリスクでもないのだ。

 

 

 

 改めて表面化したその齟齬を前にして、アクアはアイに向けてどうそれを思い留まらせるべきなのか。

 アクアの脳が俄かに回転を始めようとして、しかしそこに続いて発されたアイからの言葉が、完全にアクアの思考を停止させた。

 

 壱護社長と、そしてアクアに一瞥をくれたあと、もう一度彼女は視線を送る。

 

「私だけの意見じゃないよ?」

 

 誰にか。

 

「今回の話、企画書貰ったとき話したんだけどさ」

 

 ルビーにだ。

 

「ルビーちゃんが、私の役やってみたいんだって」

 

 ――ね? ルビーちゃん?

 こてんと小首を傾げ、声をかけてきたアイに、自らの母親に応えるが如くに、ルビーは静かに顔を上げる。

 

 そして、こくりと無言で頷いた。

 

 

 

 呆然と立ち竦むアクアへと、ルビーの視線の向かう先が、静かに定められる。

 かち合った虹彩の中に確かに宿っている輝きは、彼女の中に存在するどこまでも強固な意志というものを、アクアに知らしめていた。




先代B小町のメンバーについては、活動に出入りがありすぎて人物の照合が取りづらい問題があります。
特に初期メンバーのうちの「渡辺」と、さりなが第一話で言及している「めいめい」には別人説と同一人物説があり、確定していません。
本作においては、原作の「15年の嘘」の描写に従って、「めいめいは初期メンバーとして先代B小町の中にいる(129話参照)」として、「渡辺=めいめい=芽衣(小説『視点B』登場)」と解釈します。
これはこれで初期メン組に忌避感を示していたルビーの描写(132話参照)とやや矛盾する点はあるのですが、いずれにせよ完全な整合性をとるのは難しい以上、本作はこの設定で行きます。ご了承ください。
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