天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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5-6. 弱きもの、汝の名は

 映画「15年の嘘」の撮影を一つのプロジェクトとして見たときに、星野アクアは今回、完全なる制作サイドの人間だった。

 苺プロダクション所属の俳優としての「アクア」は、今回の映画において演者として出る幕など一切ない。キャストとしてクレジットされていないのだから、当然のことだ。

 つまりこの作品におけるアクアの立ち位置は、「メガホンを執る五反田監督の愛弟子にして、絶賛売り出し中のアイドルユニット『新生B小町』の中核的存在たるルビーの双子の兄、更に若手演技派俳優でもある、助監督兼脚本家」というものになる。

 最近プライム帯の連ドラで主演を張った作品を超抜的な大ヒットに導いた立役者として急激に知名度が上がり、ゴールデン帯のバラエティにもそこそこの頻度で呼ばれるようになった、所謂「話題沸騰中」の高校生俳優が、なんと映画まで手がけてみせる。その意外性と、しかし子役を休止していた七、八年もの期間を五反田監督の下で裏方の修行に費やしていたという堅実さの両面をセールスポイントに、別の側面から今回の映画を売り込みつつ、「俳優・アクア」そのものの付加価値をも高める。そういう強かで複雑、多層に及ぶ営業戦略が、アクアの周囲には存在していた。

 

 苺プロという芸能プロダクションに所属しているアクアには、良くも悪くもその触れ込みを嘘にしないための動きを、言い換えれば『制作側としての相応の働き』をすることをも求められている。

 その一つが、渉外だ。今回の映画の制作にあたり、資金を提供してくれる制作委員会、すなわちステークホルダーたちとの会合や、その中における彼らからのヒアリング、進捗の共有まで、参加しなければならないものは多かった。無論、学生の本分たる勉学を、そして本業たる俳優、タレントとしての活動を妨げることのない範囲で、ではあるけれども。

 

 つまりこの日、アクアは五反田監督と、そして鏑木と共に、とある「会合」に参加していた。

 

 今回の映画において、キャスティングはそのかなりの部分を「身内人事」で固めてしまっている。つまりルビーを中心とした苺プロ、あかねや姫川大輝の劇団ララライ組、そして大輝とアクアの共通の知り合いである片寄ゆらに、ルビーの友人である不知火フリル辺りのことだ。

 正直なところ、アクアとルビーの存在を一つのハブとして人材集めをするだけで、これほどの、まさに綺羅星の如くの面々が集まることになったのは出来過ぎもいいところだと言えた。何か運命じみたものさえも、感じざるを得ないほどに。

 しかしそれはそれとして、確かに主要な登場人物はそのあたりでほぼ押さえられてしまっているとはいえ、この映画に登場する役どころはまだ未確定の部分も残っている。例えば以前鏑木と合わせた中で出てきた旧B小町のメンバー、高峯の役などは未だ宙に浮いている状態だ。

 

 つまり鏑木にせよ五反田にせよ、映画「15年の嘘」の製作における立派なタスクの一つとして、未だキャスト選びを続けねばならない立場にいることに変わりはない。

 必然的に今回の会合も、まさにその性質を強く帯びたものであった。

 

 年が明け暫くが経ち、成人の日周りの連休から明けたこの日、アクアたちはある意味で、『営業』をかけられていた。相手は、広告代理店だ。

 広告代理店という業種は、何もCMやポスター制作、イベントの運営ばかりをするものではない。無論そのあたりの仕事が主たる業務であることは確かだが、彼らは時に別の仕事をすることもある。

 その中の一つに、「人と会社とのマッチング」というものが存在する。世に「キャスティング業務」と呼ばれるものだ。

 

 例えば、CMを打ちたい会社から依頼を受け、そのCMにアサインできそうなタレントを、芸能プロダクションをいくつか巡って探す。これは彼らの本業の隣接領域故に、そこまで特筆すべきことでもないだろう。

 しかし、逆もある。CMやイベントを企画しようとしている会社に向かって、芸能プロダクションから依頼を受けた広告代理店が、そのプロダクション所属のタレントを売り込みに行くという構造だ。

 

 大手の広告代理店であれば、そういうキャスティング業務を専門で行う会社、すなわち「キャスティング会社」にそのあたりの仕事はアウトソースするのが基本だが、中小規模の広告代理店は、小回りを利かせるという意味でキャスティングの機能を自前で抱えているところも多い。特にプロダクション側から依頼されての売り込みとなれば、大手ではなくそういった小さめの代理店の出番となる。

 

 そして彼らがモーションをかける相手は、何も企業だけではない。

 つまりアクアたちが持ちかけられていたのは、今回の映画の中における残りの役柄のキャスティングに関する営業であった。

 

 

 

 タレントとしての仕事がなかったことで、放課後まで学校にいたアクアが直行したのは、学校の辺りからは少しだけ離れた場所にある、一軒のインドカレー店だった。

 先刻鏑木から受けた連絡によれば、彼らは十分ほど前に現地にて落ち合い、既に店の中に入っているらしい。その場にいるのは、代理店の担当者、おそらくは代表の立場にいるであろう一人の女性に、彼女が連れてきた若いタレントの女の子が四人ほどであるという。

 

 アクアには、少しだけ身構える部分があった。言うまでもなく、昨日の今日であるからだ。島政則監督にまつわる、例の事件の話である。

 結局あの後、週刊誌の続報において島監督に対する『接待』の実状を詳報したことで、界隈は大いに荒れた。「性加害」というワードが社会における一大トピックとして取り上げられるようになった昨今、映画監督という謂わば権力者に対して、多数の女性が自らの性を差し出すように見える構図は、大衆の心理をこの上なく刺激した。

 

 実状がどうであるのかは、分からない。事実として島監督側は、彼女たちと自分との間に『利害関係』はないこと、自分の作品への出演などの見返りを盾に望まない関係を強いたことはないと主張して、今回の問題を報じた週刊誌相手に弁護士まで立てて名誉棄損での訴訟を起こす構えを見せている。

 おそらく、島監督と週刊芸能実話との間には、最低でも一年を超えるドロドロの法廷闘争が繰り広げられることになるのだろう。ただ、それ以上のことはアクアとしても知ろうとも思わない。

 

 兎も角、この芸能界という世界の中には、営業と称して若い女の子を営業先の男の横に座らせてコンパニオンの如く振舞わせ、以て案件を取ろうとする風習というものが、未だ根強く存在している。この間あかねの言っていた「キャバクラごっご」という台詞を、否が応にも思い出す。

 五反田監督も、鏑木も、そんな論理の世界の中に長く身を浸してきた人間だ。ともすれば、それを至極自然なことと思っているのかもしれない。

 

 けれどもそれは、危ういものだ。この世界に実質的に関わるようになってからは三年も経っていない、ある種新参者のアクアだからこそ思うことなのかもしれない。それでも、この狭い世界の中における常識は、日本という国の中における常識とははっきりと異なっている。

 その代理店の人が連れてきているという女の子たちにしても、本当はどういう気持ちでその場所にいるのかなど、土台分かりはしないのだ。等閑視も当然視も出来るものではない。気をつけるに越したことはないというのが、アクアの率直な感慨だった。

 

 故にその場所、今回の会合の現場となっているインドカレー店に辿り着いたアクアは、相応の気負いと共にドアを開け、店内に入る。

 

 しかしそこで、アクアはそれまでの警戒心など完全に吹き飛んでしまうほどの、強烈な出会いを果たすことになった。

 

 

 

 扉に括りつけられていたベルによってアクアの入店がこの空間の中に知らされ、店の奥の方からその音を聞きつけたであろう何人かの人影が立ち上がり、入り口近くまで歩いてくる。

 

 それは、二人の男と一人の女だった。

 男二人に関しては、言うまでもなく見知った顔である。しかし残った女性の顔には、憶えがなかった。初対面ということになる。

 

 年恰好は、中年あたりだ。四十代後半から五十代前半頃だろうか。顔つきには年齢を感じさせる部分があれど、身なりは整っている。つまり彼女こそが、今回営業をかけてきた「広告代理店」の人間、ということなのであろう。

 

 その女性の方に暫し目を向けていれば、彼女もまたアクアの方を見た。視線が、ぶつかる。

 瞬間、アクアの脳裏に、何故か言い表しようのない既視感が去来した。

 

 間違いなく、見覚えのない顔だというのに。完全に初対面であるはずなのに。

 それでも、心のどこかがざわついた。アクアではない、吾郎の部分が。

 

「アクアくん」

 

 声がかかる。彼女の横に立つ鏑木からだ。

 

「この方が、今回この場を用意してくださった広告代理店の人だよ」

 

 促されて、アクアはその女性に向けて一つ頭を下げる。

 

「お初にお目にかかります。苺プロダクション所属の『アクア』と申します。今回は五反田監督の付き添いということで、若輩者ですが、お世話になります」

 

 礼を失さぬように挨拶の口上を述べれば、相手の方からも声が返された。

 

「ああ、いえそんな、どうもご丁寧に。今日は貴重なお時間を頂くことになりまして、恐縮です」

 

 この年頃の女性らしい、少し掠れて低く、しかし朗らかさをも感じさせる声だ。

 頭を上げ、視線を戻せば、今度は対面のその女性の方が、アクアに向かって頭を下げてくる。

 

「それで、こちらもご挨拶をさせていただきたいのですが」

 

 そして、彼女は名乗った。

 

「お初にお目にかかります、『()()()()()()()()

 

 思考が、完全に止まっていた。

 言葉と共に差し出された名刺に、呆然と視線を落とす。

 

 瞬間、アクアは自らの脳裏に走った既視感の正体を理解した。

 

 そこに記されていた彼女の名前は、『天童寺まりな』。アクアはそれを、見たことがあった。

 あの高千穂の丘の上に立つ病院にて目にした、とある少女の入院同意書の、保護者の欄に。

 

 すなわち――その少女の名は、天童寺さりな。かつてアクア(吾郎)は一度だけ、さりなの横に立っていた、彼女の血縁者と思しき一人の女性と顔を合わせたことがあった。それを、ようやく思い出した。

 過去の記憶が、この瞬間視界に映っている実像に、俄かに重なる。もう、それは単なる既視感などではなくなっていた。

 

 つまり彼女は、今アクアの目の前にいる女性は、ルビー(さりな)がその一度目の生を終えたあの日、病院についぞ顔を見せることのなかった、彼女の母親に相違なかった。

 

 

 

 

 

 そこから始まった会合の場とは、アクアの予想を全く違えることなく、完全に「接待」の様相を呈していた。アクアたち三人に、天童寺女史サイドの五人を合わせた八人が囲むテーブルの中で、彼女の連れてきた若い女の子たち――役者の卵か、あるいはモデルか、そんなところだ――が、それぞれに五反田監督と鏑木に二人ずつ侍っている。纏っている服の華美さも合わさって、本当に「夜の店」の中にでもいるような気分にさせられた。未だ時は夕方にすら至っていないというのに。

 

 アクアが座った場所より向かって左側にいる五反田監督は、もうすでに隣にいる女の子の接待攻勢にやられて、酒をしこたま飲まされている。顔も完全に朱くなっていて、早晩正体を失くすことになるだろうと容易に想像がついた。

 

 その点、その対面の位置にいる鏑木は強かだ。女の子から勧められる酒をスマートに躱しつつ、自分の知る業界の色々な話で女の子の歓心を得て、うまく転がしている。女の子の側から時折持ち掛けられる「営業」の文句も、口約束であってもはぐらかすことを忘れていない。所属フリーとはいえ流石のプロデューサーということか、明らかに接待慣れしている様子が見て取れた。

 

 そんな彼らの振る舞いを目にしながら、アクアは一人目当ての場所に陣取っていた。

 

「ごめんなさいね、アクアくん。若いコ連れてきてるのに、あなただけこんな五十過ぎたオバさんが隣で」

「いえ、大丈夫ですよ。お構いなく」

 

 つまり、それは、天童寺女史――天童寺まりなの隣の場所だ。

 

 敢えて言うまでもないことだが、今のアクアには若い女の子を隣に侍らせて酒を飲む趣味はない。そもそも二十歳にもなっていない身の上では法律上無理だということもあるが、今の己がそんな脇の甘さが許される身分ではないことなど、十分に過ぎるほど理解している。

 だからこの場において、ともすれば自分が「酒を注ぐ側」に回れる天童寺まりなの隣のポジションというのは、固よりアクアにとっては非常に都合のよい居場所でもあった。

 

 そして言うまでもなく、アクアはそれ以外のことも期待して、天童寺まりなの横に腰を据えている。

 

「あ、でもあれか! アクアくん今カノジョいるんだったっけ? 黒川あかねちゃんだよね」

 

 そんなこちら側の内心についてはきっと知ることもなく、当の彼女はまさに立て板に水の如くに隣に腰掛けるアクアに向かって言葉を浴びせかけてきていた。

 

「じゃあ隣に若いコつけちゃうとあんまよくなかったか! ヤキモチ焼かれちゃうものね!」

 

 いやぁ気づかなかった、などと、溌溂に彼女は笑う。

 

「いえ、そんなことは。でもお気遣いありがとうございます」

「もー。そんな堅くならないでいいのよ今日の場所は! 真面目ねぇアクアくんってば」

 

 思ったより、随分と気さくで押しの強い女性だ。そう、率直に思わされた。

 

 ただ、この場においてそんな陽気な素振りを見せているのは、無論のこと天童寺まりなだけではない。

 

「天童寺さん、その辺でヤメときなー? アクアさんたじたじになっちゃってるでしょ」

「そうですよぉ、ホントに天童寺さんってば、そうやってすぐ若い子に絡もうとするんだから~」

 

 テーブルの左右からからかいの言葉を投げてくる女の子たちに向かって「あらやだ私ったら」などとおどけてみせて、まりなは今度はそちらに向かって積極的に話題を作りに行く。

 丁度テーブルに運ばれてきたカレーの、その上に載せられていたマトンの骨と思しきものを手に取って、蘊蓄を打ち始めた。

 

「ここのカレー、絶品なんですよ。ほら見てこれ、ここの骨、中が空っぽでしょう? ここに詰まっていた髄液が全部中に溶けだしてるんです!」

 

 そう言って周りにそのカレーの中身を勧めてみせれば、彼女の連れてきた女の子たちがそれを思い思いに口に運んで、「おいしー!」などと黄色い声を上げた。

 五反田監督や鏑木もまたその流れに巻き込まれるようにして、この席における会話はまた弾んでいく。

 

 そのやり取りの一切を、アクアは外から眺めていた。

 もしアクアが「雨宮吾郎」なる医師の記憶を持つ存在などではなく、単なる十七歳の役者の少年でしかなかったのだとすれば、今目の前で繰り広げられている喧騒の中に、自然に入ることができたのかもしれない。

 しかしそうでないアクアにとって、今自らの隣にいる天童寺まりなという女性が、「年甲斐もなく」という表現さえ与えてもよいぐらいに座の中心でこの場を盛り上げんとしている姿を意識すればするほど、脳裏には彼女にまつわる過去の情景が次々と浮かび上がってしまう。

 

 アクア(吾郎)には、天童寺さりなをあの病院に入院させた、さりなが四歳時点での彼女と天童寺まりなの関係性を知ることはできない。それ以前、さりなが親元で暮らしていた時にどのような関係を築いていたのかもだ。

 吾郎の知っている天童寺まりなとは、あの病院で一度だけ見た、表情の抜け落ち、疲れさえ帯びた女性の姿でしかない。彼女が自らの娘に向けていた視線は、外野から見ていても分かるほどに痛々しい、諦念の色を強く映し出していた。

 

 その後もまた、吾郎の知る通りだ。以降、最低でも吾郎の認識している限りにおいて、彼女はさりなの前に二度と姿を現さなかった。

 抗がん剤の副作用で髪がすべて抜け落ち、満足に歩くことさえできないほどに衰弱していた娘の姿が、直視に堪えなかったのだろうか。さりなとそれ以上向き合うことを、あるいは恐れていたのだろうか。

 いずれにせよ、彼女はさりなの今わの際のときさえも、姿を見せることはなかった。

 

 ――さりなちゃんが死ぬかもしれないって時に、なんでアイツの母親は顔さえ出さないんだ!

 

 今となっては恥ずかしい限りの、己の発した若気の至りの憤りの声を、思い出す。

 無意識に彼女のことを自分自身と重ねてしまったが故に、雨宮吾郎という人間の境遇からくる見当違いの怒りさえも、そこにはきっと含まれていた。

 

 しかしそれほどに、アクア(吾郎)にとってあの日のことは、今も鮮明に残る強い記憶となって心の中に巣食っている。

 その後天童寺まりなが、東京の自宅にて、さりなの主治医からの病没の報告を電話越しに聞いたという、小さな追記事項と共に。

 

 アクアが「天童寺まりな」という名前から想起するのは、そんな鉛色に彩られた薄暗い記憶ばかりだ。

 だからこそ今、それと正反対の温度を持った外界との落差に、表情を取り繕うことができない。アクアの横で闊達に振る舞い、「圧の強いちょっと厄介なおばさん」の如き振る舞いを続けている天童寺まりなと、記憶の中の彼女に対する印象が、何一つ照合しなかった。

 

 

 

 ともすれば決壊してしまいそうなほどの不安定な心情を胸に、アクアは自分の前にサーブされたそのマトンのカレーを、ナンと共に黙々と口に運ぶことでこの場を誤魔化さざるを得なくなっている。

 とはいえ、自分ばかりがそんな「白けた態度」でいるのも、場を乱すものであるとはアクアとて理解していた。同時に、わざわざ今アクアが天童寺まりなの隣に座っている目的だって、このままでは果たすことなどできないということも。

 

 故に、アクアは一念発起した。天童寺まりなの手元のコップが空いたところに合わせて、テーブルの中央に置かれていたビール瓶を手に取る。

 

「お注ぎしましょうか」

 

 それを掲げて、まりなに向かって声をかけた。

 向けられた言葉に耳聡く反応した彼女が、相好を崩しながらもアクアに向かってグラスを差し出す。

 

「ああ、ありがとー! ごめんなさいねぇアクアくん、お酌みたいなことさせちゃって」

「いえ、構いませんよ」

 

 言葉を交わしながら、彼女の手元のそれにビールを注いでいく。

 そしてそれは、アクアにとって言うまでもなく「次なる会話の糸口」だった。

 

「それぐらいで大丈夫! いやぁ、アクアくんビール注ぐの上手いね! どこかで練習したりとかしたの?」

「いえ、そういうことは。たまたまですよ、たまたま。それより」

 

 まりなからの世辞交じりの称賛を適当に躱しながら、アクアはいよいよ自らの訊ねるべきことについて口を開く。

 

「天童寺さんも、やっぱりお仕事柄お酒飲む機会とか多いんですか? こういう場、慣れていらっしゃるなと、思ってしまって」

「ん? ああ、まあね」

 

 いつもの通り、遠巻きに話題を振りにいったアクアに対して、天童寺まりなは朗らかに返す。

 

「私たちの業界なんて、人と話してナンボ、お酒飲んでナンボみたいなところあるからねー。ずーっとこういう場所で仕事してきたら、イヤでもみんなこんな感じになるわよ」

 

 「ま、それはそれとして私はお酒大好きなんだけどね!」、などと快活に笑って、彼女はまた手の中にあるグラスを豪快に傾けていく。

 その彼女の台詞の中に、アクアは気になる部分を見つけていた。

 

「このお仕事、長いんですか?」

「ええ、そうよ。何年やったかなんていちいち憶えてないけど、そうね」

 

 アクアからの問いを受けて、彼女は暫し頬に指を当て、視線が宙を泳ぐ。

 数秒ほどそのままの姿勢でいた天童寺まりなだったが、やがて彼女は思い出したかのように手を叩いた。

 視線をアクアへと戻し、口が開かれる。

 

「あれね。多分、三十年にはギリいかないぐらいにはなるかしら。二十七、八とか、それぐらい?」

 

 出てきた数字を聞いた刹那、アクアは思わず呼吸を忘れていた。

 

 その言葉は、きっと本当なのだろう。二十八年前と言うと、アクアがアクアとして産まれるより更に遡ること十一年、アイと同い年である天童寺さりなが五歳ぐらいのことになる。すなわち――さりなが入院してより、一年後だ。

 

 もし、彼女がそこから今のようなのめり込み方で仕事をしていたとするのならば。アクアの脳裏に、一つの想像が生じる。

 天童寺まりながこの業界に入ったそもそものきっかけは、不治の病を患った自らの娘のことを、一秒でもよいから記憶の外に追い出していたかったからではないのか、と。

 

 それだけではない。もし彼女が今本当に二十八年も前のことを思い出していたとするのならば、そこには必ず存在していたはずの自らの娘の、天童寺さりなのことも、合わせて想起しているはずなのだ。そうでなければおかしい。

 だというのに、今の天童寺まりなからは、そんな空気を一切感じることができなかった。

 

 まるで、痕跡さえも漂白されたかのように。

 

 

 

 そうであるのなら、果たして天童寺さりなという少女がこの世に生きていた意味は、どこにあったのだろう。あの最後の日まで、ずっと母親のことを思って、その愛を無垢なまでに信じていた彼女が、その命の炎を最後まで燃やした理由は。

 その存在は、天童寺まりなにとって、一体何であったというのだろうか。

 

 生まれたその問いが、アクアの頭の中をひたすらに循環する。

 故にその日、それからこの「接待」の場の最後に至るまで、アクアの胸中が穏やかになってくれることなど、もうありはしなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 映画「15年の嘘」の配役、つまりアイ役をめぐって、ルビーがあかねと勝負の約束をしてから、三週間ほどが経った。オーディションの実施までも丁度折り返し地点、だいたい三週間ほどと言ったところである。

 

 近頃のルビーは、多忙を極める――とは言わないまでも、確実に以前より忙しい日々を過ごしているのは間違いなかった。

 武道館ライブの成功によって増えたファンと上がった知名度を固めるために、従前より壱護社長が画策していた朝の帯番組の曜日レギュラーとして、B小町の三人合わせて駆り出されているのも、その一環だ。おかげでルビーは二学期の途中より、週に一度公欠として学校の授業を午前中いっぱい休むようになっている。

 その他にも、細々としたバラエティ番組への出演やCM撮影、雑誌の撮影が不定期に舞い込むし、放課後には週に二度ほど、YouTuberとしての活動、つまりB小町ちゃんねるの動画撮影をこなしている。

 

 アイドル活動を始動させようとした一年の春ごろのことを思えば、随分と遠くに来たものだとルビーはしみじみ思う。ただ同時に今のルビーは、そんなある意味充実した芸能人人生の合間を縫うようにして、演技の練習に勤しまなければならない身であった。

 

 実のところ、ルビーはアイドル稼業が軌道に乗り始めたファーストワンマンライブ以降のここ半年ほど、本当に基礎の基礎の部分に限ってはいたが、演技のレッスンは受けていた。

 ただしそれは、本当の意味での「基礎」だ。発声練習、身体感覚の醸成に、「レペティション」と呼ばれる会話訓練による感情表出の方法論の体得など、個々の演技論には立ち入ることのない必要最低限の「素地作り」に終始していた。アクアに言わせれば、ルビーが受けたレッスンというのはレペティションを取り入れている以上演技論の流派としてはマイズナーテクニックに属するものではあるらしいのだが、ただそれもルビー自身からしてみれば全くもってちんぷんかんぷん、さながら異国の言語の様相である。

 

 兎も角も、現状において重要なのは、ルビーが立っているのがあくまで必要最低限度のラインの上であるという現状認識だ。

 あかねと最初にオーディションの約束を交わした日のこと、あかねから与えられたエチュードを一頻りこなしたルビーは、それを見ていたあかねにこう評価された。

 

 ――まあ、色々言いだしたら当然キリはないけど、思ったよりちゃんとしてた。これなら、まあ後四回も見れば、何とか形にはなると思うかな。

 ――当然、当日までちゃんとお稽古してくれてたらの話だけどね。

 

 演技に真摯で、かつ厳しい黒川あかねという女優から向けられたものとしては、出来過ぎと言ってよいほどの評価だと、ルビーは思った。

 ただ同時に、どこかで納得している部分があるのも事実だった。

 それは、ミヤコから促されるようにして受けていた演技レッスンにおいて、レペティションのエクササイズをするに当たって講師に言われたことにもどこか通ずる。

 

 ――ルビーさんは、最初から心をオープンに出来ているように思いますね。

 

 その時のこと、参加者同士でペアを作り、何セッションかかレペティションを繰り返したのちに、講師の女性はそう言ってルビーのことを賞賛した。

 同じレッスン場にいた他の参加者の手本として、その講師とも一セッション実演させられたほどには、彼女は本気でルビーのことを評価していた。「あなたにはセンスがある」と。

 

 しかし、違うのだ。何せ、ルビーにとってそれは寧ろ、日常でやっていることの焼き直しに過ぎないのだから。正確に言えば、天童寺さりなの頃からの。

 

 いつの頃からか、ルビー(さりな)は自分の心情を外に出そうとするときに、必ずその間に一枚のフィルターを通すようになっていた。

 胸の中に浮かぶ情動と裏腹の振る舞いをしようというつもりはなかった。しかし同時に、そういったものを外に出すにあっては、ルビーは常に「どういう自分であるべきか」を心のどこかでいつも考えている。

 

 天童寺さりなとして、難病を患った孤独な少女として、仕事に忙殺されている母親をそれでも遠くの地から待ち望み、しかしそんな彼女の在り方に理解を示す、健気で幼気な存在を。

 星野ルビーとして、若くして子を産んだアイドルの母に目いっぱいの慈愛を傾けられ、それに無条件に甘えながら、どこまでも無邪気に振る舞い続ける、明るく爛漫な女の子を。

 

 誰かに愛してもらえるような、あるべき自分の姿を。

 

 「演じている」とまで烏滸がましいことは言えないかもしれない。しかし、常にルビーの内面には、そういう「フォーマット」のようなものが確かに存在している。

 いつもそういう生き方をしているのだから、いざ「演技」と言われれば、その出力の仕方をほんの少し変えてやるだけでよい。自分の色を少しだけ塗り替えてやれば、求められているであろうものを提示することなど、そう難しいものでもなかった。

 

 しかし、同時にルビーは理解している。来たるオーディションにおいて、自らの母を、「アイ」を演じることは、そしてそれをあかねと競うということは、そんなに単純なものでは決して済まされないのだと。

 

 

 

 肝心の課題については、もうすでに企画側、すなわちアクアと五反田監督の方から、候補者の二人には知らされている。同時に、そこで使う台本もだ。

 

 時代設定は、B小町結成初期。小規模ライブハウスでのライブを終えた直後、その場に集ったファンの実に九割五分がアイのためのサイリウムやうちわを振っている現実を目の当たりにしたニノが、メンバーのハケた楽屋で、アイとたった二人きりの場所で、目の前の少女(アイ)のことを、詰り始める。

 

 内心に燻る嫉妬と憎悪を、散々にぶつける。しかしアイはそれにまともに取り合わない。いつもの通り、何を考えているのか分からない笑顔を浮かべるばかりだ。

 まるで触発されるかのように、挑発されたかのように、ニノは更に声を募らせ、言葉も荒くなる。果てに、ニノはアイに決定的な言葉をぶつける。

 

 ――アンタなんて、大嫌い! 死んじゃえばいいのに!

 

 感情の迸るままにそんな取り返しのつかない暴言を言い放ったニノが、楽屋から走り去ってゆく。

 

 ここまでが、台本に書かれた内容だった。

 そしてその後、「この状況においてアイがすると思われる振る舞いを、二分間を上限としてエチュードとして演じよ」と言うのが、今回ルビーとあかねのそれぞれに課せられることになるお題である。

 

 

 

 ルビーとして、否、さりなとして、B小町の初期におけるアイとそれ以外のメンバーの不仲という実状について、何となく察せられる部分があったことは事実だ。実際、ルビーがB小町の中でアイ以外に好きだったメンバーといえばきゅんぱんやありぴゃん、初期メンの中ではめいめいが精々で、それ以外のメンバーにはあまり興味を惹かれてはこなかったのだから。

 だとしても、実態がこれほどのものだとは考えていなかったことも、また真である。まさか同じグループのメンバーに向かって、おふざけでもなんでもない本気のトーンで「死んじゃえ」などと暴言を吐いてしまうほどに、しまえるほどに、アイとそれ以外のメンバーの関係性が破綻していたとは、正直信じたくなかったというのが本当のところだった。

 

 それだけではない。そんな言葉をぶつけられているのにも拘らず、そのときアイはニノに対して()()()()()のだという。いつもと全く変わらない笑顔を、彼女に向けていた。そう、台本にはある。そしてこの物語が事実をベースにしている以上、記述については本当のことなのだろう。

 

 ルビーには、分からない。どうしてその時アイが笑っていたのか、笑えていたのか。その後、ニノが楽屋から飛び出していったところで、どのような即興劇を演じればいいのかも、まるで見当もつかなかった。

 

 結果、当然にと言うべきか、ルビーはここ一週間ほど完全に行き詰っていた。

 

 

 

 とはいえ、いつまでもそこで立ち止まっているわけにもいかない。そうなれば、ルビーのすべきことは自ずと見える。

 相談だ。そしてルビーの身近において、演技の相談相手として最もふさわしい相手と言えば、もはや論ずるまでもない。

 

 

 

「で、ものの見事に『役作り』のところで詰まってる、と」

 

 柘榴の瞳が細められ、赤銅の髪が顔の動きに合わせて遊ぶ。

 ルビーの目の前に座しているその少女、有馬かなが、話の全てを聞いたのちに、そう吐息交じりに言い切った。

 

 苺プロのレッスン室の中、春から予定されている全国ツアーに向けたフォーメーションの練習に、新曲の振り入れと「B小町」としての活動に勤しんだ直後のこと、MEMちょと共にこのスタジオから去っていこうとするかなのことを呼び止めて、ルビーは相談を持ち掛けていた。

 

「まあ、演技という意味では多少はサマになってきたものね、アンタ。そろそろその辺りのことが気になる所だろうとは思ってたわ」

 

 かなの口振りの通り、ルビーはこれまでの演技の鍛錬において、あかねからのアドバイスを愚直と言ってもよいほどに忠実に守っている。

 毎日最低二時間は、自身の演技力を向上させるための自主練に充てていたし、その際にどのような方針で練習を進めればよいのか、現状の課題の指摘や方向感の指導を、ほぼ二日に一度のペースでかなに対して頼んでいた。

 つまりかなは、ルビーのこれまでの芝居の稽古の中身について、かなり立ち入ったところまで知っている。同時に、なぜルビーが今演技力の向上に勤しんでいるのかも。

 

 ――あかねちゃんに勝ちたい。今度のオーディションで。

 そう言ったルビーの意気を、かなは買った。

 いや、後から考えれば、あれは多分に私情が入っていたようにも思う。「私が手解きしたルビーがオーディションで黒川あかねに勝ったら、それはもう私が黒川あかねに勝ったようなものよね」などと怪しげな笑みを浮かべて言ってみせた彼女の姿は、正直ルビーよりもあかねへの対抗心をむき出しにしているようにも思えたほどだ。

 まあ、彼女とあかねとの間のああいう関係については今に始まったことではない。大事なのは、それである種「火のついた」形になったかなが、随分と親身になってルビーに対する指導をしてくれていたところにあった。

 

 そして今もまた、かなはルビーの抱えている現状の悩みについて、真摯に答えようとしている。

 

「これは私の持論かもしれないけれど」

 

 軽く目を瞑って、かなは指を一つ立てた。

 

「いい? 役作りというものにはね、唯一絶対の正解と言うものはないの」

「正解は、ない……」

「そう。当然、監督とか演出家の中には、個人的に考えている『正解』のようなものはあるわ。でも、それをドンピシャで当てに行くことが、演技における正解とは限らない」

 

 目を開けたかなが、徐に椅子から立ち上がる。静かな足音と共にこのスタジオの一面に張られた鏡の前に立って、くるりと振り返る。どこか芝居がかった様子で、両手を広げた。

 

「正解という話なら、客観的な部分にもあるわね。身振り(ジェスチャー)立ち姿(ポスチャー)喋り方(トーン)。この辺りはそのキャラクターの取り決め事(プロトコール)のようなものだから、これを守るのは絶対」

 

 「ここまでは、分かるわよね」と、念を押すようにかながルビーの目をのぞき込む。無言で頷いたルビーを見て、話が続いた。ここからが、本題であると。

 声のトーンが、一つ下がる。視線が鋭さを増した。そして、彼女は言い切る。

 

「でも、そのキャラクターの内面に、絶対の正解というものはないのよ。というより、『それを追い求めるのは無駄』、と言った方が正しいかしら」

 

 はっとする。言葉を失った。自分の今抱えている悩みの中央を、かなの言葉が真っすぐ貫いているように、ルビーには感じられた。

 

「当然、だからと言って好き勝手に演じればいいというものではないわよ。だから、私たち役者は、『線』を引くの」

 

 意味深な言葉と共に、かなはルビーへと歩み寄る。未だ椅子に座ったままのルビーのほど近くに立って、彼女は見下ろしてきた。

 

「『線』っていうのは、自分自身のこと。キャラクターの過去、現在、未来。台本に書かれている情報から、必要に応じてその辺りのことも想像して、それを自分の過去に当てはめる」

 

 組んだ腕の片方を立てるようにして、掌が天を向く。交えた身振りと共に、かなの言葉は尚も続いた。

 

「そのキャラクターが体験して、懐いたであろう感情を、自分の今までの経験の近い部分から引っ張り出すの。所謂『メソッド演技』と言われる手法ね。得意なのは黒川あかねだけど、私だって一切やらないわけじゃない。比重は低いけど」

 

 メソッド演技という単語自体は、ルビーも聞いたことがある。アクアが役者としての仕事の中で、何度かその言葉を使っていたことを思い出していた。

 ぼんやりとそんな過去の記憶を思い起こしていたところで、かなが不意に身を乗り出してくる。

 指を立て、ルビーを見る。ここからが大事であると、態度が言っていた。

 

「でも、そのためにはやらなきゃいけないことがある。アンタにはね」

 

 無言で首を傾げたルビーに、かなは強く断言する。

 

「自分自身を知ることよ」

 

 短い言葉と共に、深紅の瞳から発された光は、ルビーの身体さえ射竦めていた。

 

 

 

「自分自身を、知る」

 

 復唱するようにひとりごちたルビーの声に無言で頷いて、かなはその心を説く。

 

「アンタという人間が、今まで何に喜んで、何に悲しんできたか。プラスでもマイナスでも、心が強く動いた経験はなんで、その時なにを考えたか。それを本当の意味で理解しないと、役の感情にアンタの感情は寄り添えない。『本物』にならない」

 

 真に迫った彼女の言葉に、ルビーは圧倒される。まるで今ここで、かながそういう演技をしているかのような。

 同時に、そこでふとその表情が和らいだ。

 

「逆に言えば、それがうまくいったとき、アンタが『理解』したキャラクターの感情は、監督や脚本の中にだってない『本物』になるの。役作りに絶対の正解はないって言ったのは、そういう理由よ」

 

 「だからね」と、かなはそこでまとめに入る。ルビーの傍から離れ、背を向けて、二歩三歩歩いてから、もう一度振り返った。

 

「今ここからアンタがやるべきなのは、アンタという人間を理解すること。一週間ぐらいかかってもいいから、しっかり自分の内面を掘り下げてきなさい」

 

 そのアドバイスを最後に、別れの挨拶を一つ投げつけてかなはこの場から去っていく。

 しかしルビーは、暫くこのレッスン場から動くことができなかった。腰掛けている椅子から、立ち上がることさえも。

 

 

 

 ルビーとは、星野ルビーとは、どういう人間か。

 その問いには、必然的にもう一つの、決して避け得ない付随した疑問がついて回る。

 

 ――天童寺さりなって、なんだったの?

 今まで、深くは考えてこなかったことだった。必要性すらも、感じてはこなかった。

 「私」は「私」だ。そうでしかない。星野ルビーという今を生きることを、ルビーは自分に対して肯定した。その根幹に天童寺さりなの夢が、雨宮吾郎(せんせ)から与えてもらった希望があったことで、自分の中の天童寺さりなは昇華したと、昇華できたと思っていた。

 

 しかし、かなに「自分自身を掘り下げろ」と指摘を受けた今、ルビーは否応なく気づかされる。

 自分が整理したつもりになっていた、納得したと考えていた天童寺さりなのことは、所詮そう思いたかっただけのものでしかなかったのかもしれない、と。

 

 当然だ。自分の中、ずっとそのままに眠らせて、決して解決できていない宿題が残っていることを、ルビーは知っている。

 

 星野ルビーとして生を享けて、今までのうち何度かその場所の前を訪れて、しかしインターホンを押すこともできなかった、あの家の事が。

 天童寺という家のことが。「お母さん」のことが。

 

 

 

 だからその日の夜のこと、ルビーは一人アクアの部屋を訪れた。少しばかり目を瞠って、しかし快くルビーのことを部屋に上げてくれた自らの兄に向かって、ルビーはその日あったことを話した。

 

 オーディションのための演技の練習を進める中、役の理解、役作りで躓いていること。

 それをかな(先輩)に相談したところ、「役作りのためには自分自身を掘り下げる必要がある」と言われたこと。

 そのたびに、自分の中に解決できていない部分が残っているのを思い知ること。

 それはつまり、天童寺さりなとしての母親の、かつて「お母さん」と呼んでいた女性の存在である、ということ。

 

「どうしたらいいのかな、私」

 

 ぽつり、問う。

 

「東京にある実家の場所は、知ってる。まだあそこにおうちが建ってることも分かってる。だけど今の私は星野ルビーで、あの人とは何の面識もない」

 

 俯き気味であった顔を上げ、目の前で黙って自分の話を聞いてくれているアクアの方へと、向けた。

 

「会いに行った方がいいのかな。会いに行ったとして、何を話せばいいんだろう。……お兄ちゃんは、どう思う?」

 

 問いかけたルビーを見て、アクアが浮かべていた表情をどう表現すべきか、すぐには分からない。

 驚きか、苦悩か、哀しみか、共感か。どれでもあって、どれでもないような。

 しかしそれが、ルビーに気づかせた。

 理由は分からない。経緯も知らない。しかし、「アクアは何か、自分のお母さんのことで知っている事情がある」と。

 

「……何か、知ってるの?」

 

 故にルビーは全ての前提を排して、ただその問いだけを発した。

 視線を向けた先、アクアが小さく目を瞠る。そして、今度はそれを瞑った。

 

 沈黙がやってくる。アクアの答えを、ルビーはただ待ち続ける。

 十秒が経ち、二十秒が経ち、三十秒を超えようかと言うあたりで、アクアの瞳が開かれる。

 

 僅かに震えているそれに、光が見えた。迷いと、しかし決意も。

 

「ルビー。……いや、さりなちゃん」

 

 敢えて呼び方を、口調を変えて、アクア(せんせ)は話し始める。

 

「今の君には、本当は知る必要のないことだと思う。あの時の君は、昔の君だ。今を生きてるなら、もう整理をつけてもいい話だって、俺は思ってる。今でも」

 

 そんな、持って回った言い回しが、さりなとして最初に出会った頃のごろーせんせのようで、懐かしくなる。

 こちらのことを傷つけないように、慎重に言葉を選んでいる。態度も、また等しく。

 

「だけど、本当に君がそれを正面から受け止めたいって言うのなら、それが必要なんだって言うのなら、俺には止められない。その資格はないと思う」

 

 だから、そう繋いで、アクアは語り口に力を籠めた。

 

「君のお母さん、『天童寺まりな』さん。俺は今、あの人と会うことのできるパイプを持ってる。本当に偶然だけど」

 

 出てきた言葉に、今度はルビーが目を瞠る番だった。

 

 

 

 以後のことは、語るまでもない。「会ってみるか」、そう訊ねてきたアクアに、ルビーはただ無言で、しかし強く頷いた。

 そんなルビーの反応を受けて、再びアクアの浮かべた表情は、一体何と表現するのが相応しいのか。

 

 ルビーには、どうしても分からなかった。

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