天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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ルーキー日間4位になっていました。
評価、お気に入りいただいた皆さんのおかげです。ありがとうございます。


1-6. 審判の日

 東京ドームライブの、当日。その日は諸々の準備を含めて午前中からの現地入りということもあって、アイを含めた星野一家は朝も早いうちから動き始めていた。

 朝八時には、壱護社長が車を回して迎えに来る。それまでには全員が出発の準備を整えていなければならず、アイはアクアたちの朝食を用意すべく六時には既にキッチンに立っていた。

 子供たちは、未だ夢の中だ。最低でも、アイはそう認識していた。

 

 ただ、実のところは違う。

 ルビーは、アイ(最推し)のドームライブが明日に控えていることから興奮であまり眠れていなかった。さながら遠足前日の小学生の心境である。純粋に今日というその日を楽しみにして、それが彼女の眠りを妨げていた。

 そして、一方のアクアは――心中に渦巻く胸騒ぎが、もはや押し留めることができぬほどに膨れ上がって、ほぼ一睡もできていなかった。

 

 ここまでの一週間、アイの周りは平穏を保ち続けていた。ライブ直前の事務的な調整は壱護社長を中心として行われていて、アイはいつも通りの多忙な、そして充実した日常を過ごしている。アクアもルビーも同じだ。いつものように幼稚園に通って、いつものように帰るだけの、何一つ変わることのない毎日だった。

 それでも今日は、当日だ。その現実が、どうしてもアクアの認識の中にあのアイの出産の日のことをオーバーラップさせる。

 

 これまでの間で、何度壱護社長にこの家に泊まり込んでもらうよう願い出たいと思ったか。その度に、彼のドームライブの事前準備を邪魔してはならないと自分に言い聞かせてきた。

 前日も、当日も、壱護社長にはそれこそ一分の時間すら惜しいのだ。そんな彼に無理を押してアクアたちのマンションに泊まり込みを求められるほどには、アクアは今己の抱える焦燥に対して確固たる根拠を持てていない。不確実極まりない「脅威」のためにそれを願うことの難しさを、アクアは自覚していた。

 

 ならば、逆にアクアたち全員で前入りするのはどうかとも考えた。

 東京ドームの近くのホテルに、皆して先に乗り込んでおく。ドームライブなのだ、むしろそちらの方が出演者としては自然かもしれない。

 ただホテルのセキュリティとこのマンションのそれを考えたとき、このマンションにいる方をアクアとしては選ばざるを得なかった。

 フロントがあるとはいえ、共用部分にロックがあるわけでもない大体のホテルに比べれば、共用部分でもオートロックが完備されているこのマンションの方が、安全性に関してはいくらかマシであろうから。

 だからアクアは、この方法も諦めた。

 

 他にも幾つもの案が頭の中に浮かんでは、消えてゆく。

 どこかに見落としがないか。ドームに着いてからだけではない、そこからの帰り道だって。何か取り返しのつかないことをしていないか。自分ができることは、何かないか。

 一睡もできず、眠気があって然るべきだった今のアクアに、しかしそんなものは全くやってくる気配すらもなかった。言ってしまえば今のアクアは、極度の緊張状態にあった。

 

 午前六時十五分、払暁が街を紫から山吹色に照らし始める頃合いで、とうとう堪えきれなくなったアクアはベッドから出た。リビングへと歩を進めていくその姿を見て、ルビーもまた起き上がり、目をこすりながらもそれに続く。

 

「おはよう、母さん」

「あれ、アクア? 早いね今日は、ルビーも」

「うん……ママ、おはよー」

 

 街のパノラマが一望できるリビングの中、アイはキッチンカウンターに立っている。朝食を作っているであろう炊事の音が、そこからは聞こえた。

 

「もうちょっとでご飯できるからね、座って待っててー」

 

 いつもの通りの明るい声で、彼女はアクアたちにそう告げる。B小町の歌を口ずさみながらもてきぱきと手を動かしていくその姿は、あるいは四年にわたる母親稼業が為せる、慣れによるものだろうか。

 はーい、と無邪気に声を返して、ルビーが食卓へと歩いていく。アクアもまた、アイのその後ろ姿にどことなく安心感を覚えつつ、ルビーと同じように食卓へと一歩踏み出そうとした。

 

 しかしその時、部屋の中に呼び出しチャイムの音が響き渡る。アイが手を止めた。

 

「ありゃ? 佐藤社長もう?」

 

 そんな呟きが聞こえた。

 正確には斉藤だが、まあ彼女が壱護社長の苗字を勘違いするのはいつものことだ。ともかく、どうやら本来の予定していたよりだいぶ早くに壱護社長はこの場所にやってきてしまったらしい。

 彼もまた心配症ということか、それとも単に、今日この日のことが待ち遠しくて仕方がなかったからなのか。

 ただなんにせよ、来てしまったものは仕方がない。無視するわけにもいかないだろう。

 

「アクアごめん、ちょっと火を見ててくれない?」

 

 そんなわけで、傍にいたアクアにそれだけ言い残しつつ、エプロンをつけたままの姿でアイは玄関に向けて歩いてゆく。リビングから廊下につながる扉を開けて、この場から彼女の姿は見えなくなった。

 果たしてアクアはそんな彼女の背中を見送りながらもキッチンに立ち入ろうとして――

 

 

 

 刹那、強烈な違和感が心中に去来した。

 

 

 

 まさしく、致命的な予感だった。アクアの脳が、急速に回転を始める。

 

 今鳴ったのは、部屋の呼び出しチャイムだ。だからアイは玄関へと向かった。しかし外からの来客の場合、このオートロック付きマンションの設備上、最初に鳴るのは()()()()()()()()()()()()()のはずだ。そして呼び出された部屋の住人は、そのタイミングで来客の姿を確認することができる。

 

 しかし今回は違った。いきなりこの部屋のチャイムが鳴ったのだ。

 だとすれば、考えられる可能性は二つしかありえない。

 一つは同じマンションの住人か、管理会社によるもの。

 そしてもう一つは――。

 

 

 

 それに気づいた瞬間、アクアは弾かれたように走り出す。

 既に閉じられたドアを乱暴に開け放ち、玄関に向かって一心不乱に駆けた。

 

 玄関扉は開かれている。アイの陰に隠れて、来客の姿は確認できない。

 しかしもはや猶予などない。躊躇したら手遅れになる。何か考える余裕もなく、周囲の音すら聞くこともなく、アクアは強引に、自らの母の前へと割り込んだ。

 

 その瞬間、()()()()()()()()()()()()()()の凶々しいまでの煌めきが、眼前に映る。

 アクアはほぼ本能的な動きのまま、引き絞られたその左腕が、手に握られた殺意(ナイフ)が突き出される直前に、その黒ずくめの影の鳩尾に向かって渾身の頭突きを見舞っていた。

 

 

 

 花束が落ちる。白い花弁が舞う。男の手から落ちたものか。その影がたたらを踏む。呻きが聞こえる。

 しかしもはや関係ない。この男は、今この場で、この瞬間に、母を害さんとした。殺めようとした。

 

「お前ぇっ……!」

 

 腹の底から、声が漏れていた。我を忘れたように、ナイフを持つ手に飛び掛かった。

 

「てめっ……っ放せ!」

 

 抵抗される。腕が振られる。体重も膂力も、四歳のそれでは勝てるわけもない。それでも引き下がれなかった。引きずられながら、振り回されながら、アクアは必死で食らいついた。

 

「なに、これ……え?」

「っアイ! 逃げろ! それと通報! 一一〇番! 早くッ!」

 

 呆然としたようなアイの声が聞こえた。しかし彼女の方に視線を向ける余裕はない。だから、ただ叫ぶ。

 しかしそれと同時、叫ばれた声で冷静さを取り戻したか、あるいは逆に焦りによるものか、男はしがみつくアクアのことを、自由に動かせる脚でもって蹴り飛ばした。

 

 抉られるような痛みとともに、アクアの身体が宙を舞う。そして床に強かに叩きつけられた。苦悶の声が漏れていた。

 

「アクアッ!?」

「っ、来る、な……!」

 

 普段なら、立つことすらままならない痛みだ。それでもアクアは諦められない。追い返せるわけがないと分かっていても、せめてあの凶器だけはどうにかしなければと、もう一度立ち上がって、ナイフを持つ腕を振り上げようとしていた男めがけて突っ込む。

 

「させる、もんか……っ!」

 

 抱え込むように腕を取る。今度は蹴られないように。腕を曲げられないように肘にめがけて身体を絡みつかせて、そこから男の手を狙おうとした。

 人間の手の構造上、小指に対してアプローチできれば、それを外に曲げるだけで握力が働かなくなる。そうすれば、ナイフを奪えるから。

 

「ルビー! 聞こえてるだろ、早く通報! 」

 

 叫びながら腕を伸ばすアクアが組みついているままの状態で、強引に男は暴れる。自由な右腕で身体のそこかしこを殴られる。その鈍い痛みはしかし、アクアの動きを止めるには至らない。

 見せられた執念に恐慌状態にでもなったか、男は左腕をも無理矢理に捻り、ナイフを『内側』へと握り直す。

 そして一気にアクアの身体を引き抜きにかかって――

 

「終わったら叫べ! アイも、早く逃げ――」

 

 果たしてその手に握られていたナイフが、()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 

 右脚から、灼けつく熱を感じる。そして強烈な違和感も。

 それを自覚した瞬間、今一度大きく振り払われた腕の力で、とうとうアクアの身体が吹き飛んだ。

 

「ぁっ」

 

 どさりと、落ちる。横倒しになった視界にも、現実感がない。違和感の元、右脚の付け根を見る。

 黒い何かが、そこから生えていた。それを視認して、アクアは初めて自分が刺されたことを理解した。

 

 燃える熱が、痛みに変わる。呻き声すら上げられず、全身から冷や汗が噴き出した。

 アクアの中、吾郎の部分が囁く。自律神経の異常だ。外傷性の迷走神経反射だろう。自分の周りに、流れ出た血が広がっていく。

 

「ぁ、あ……あくあ……?」

 

 震える声が降ってきた。アイの声だと理解すると同時、別の方からも声がする。

 

「はっ、ざまぁみろ!」

 

 男の声だ。アクアのことを刺した、男の。

 反射的に、刺さったままのナイフを握る。男の視界からそれを隠すように、身を傾け、屈めていた。

 意味のある行動ではなかっただろう。ただ、これを抜かれてはならないのだ。自分の命だけでなく、アイの命が危うくなる。

 血圧の降下による錐体細胞の機能低下で色を失ってゆく視界の中、しかしその男はアクアには目もくれない。向かう先は、倒れ伏すアクアの傍に呆然と立ったままの、アイだった。

 

「にげ、ろ、アイ……っ!」

「ガキなんかこさえて、俺たちのこと騙しやがって、嘲笑(わら)ってたんだろッ!」

 

 ――この嘘つきがッ!

 

 言いながら、アクアの横から一歩も動けぬままでいるアイめがけて、男は少しずつ近づいていく。危害を加えようとしていることは明白だった。しかしアクアはもはや、大声を出すこともままならない。

 ナイフを握る手に、力が籠った。最悪の場合を、考えた。

 

「こんな高ぇマンション住んで、俺らから毟り取った金で贅沢しやがって」

 

 高ぶる感情のままに言い募って、男は靴のまま上がりこんだマンションの廊下を見渡す。

 

「お前にゃ俺らなんて所詮金だけ出してくれる財布だったんだろ、なぁ!? こんな、こんな――」

 

 この部屋の内装の質の高さにか、ますます怒りを募らせながらも更に一歩踏み出そうとして――しかしその瞬間、とある一点を向いて、その動きが止まった。

 

 

 

 靴箱だった。上には、アイとアクアとルビーの写真が飾られている。そしてそれと一緒に、前の家ではリビングに飾られていた一つのオブジェが鎮座していた。

 薄紅色の星の砂の入った、ガラス瓶だ。結構昔にアイがファンからもらったプレゼントだったと、そう言っていたことをアクアはぼんやりと思い出す。

 

「なん、だよ……」

 

 掠れた声が、聞こえた。その右手が震えて、握りこまれる。

 

「なんだよ、それ……」

 

 視線の先にあるのは、件の星の砂だ。そこでアクアは思い至った。今アクアのことを刺した、そしてアイに襲い掛かろうとしている、この男の正体を。

 それは、アイにも同じであったらしい。

 

「リョースケ、くん……?」

 

 震える声が、零れ落ちる。男が、弾かれたようにアイを見た。

 

「どう、して」

 

 言ったのは、果たしてどちらだったのか。どちらともだったのか。

 

 次の瞬間、男が凄まじい叫び声を上げた。

 身体が強張る。握ったナイフを、抜こうとした。止血の為には刺さったままの方がよいことは理解していて、それでも目の前の男が勢いに任せて襲ってくることへの危惧が、アクアの直感にそうすることを訴えていた。

 けれども、違った。男は玄関ドアを乱暴に開けて――そしてそのまま、一目散に逃げ出した。

 

 斯くて狂騒は過ぎ去り、部屋の中には俄かに静寂がやってきた。

 

 

 

 

 

 空虚な時間が、一瞬だけ流れる。しかしアイは次の瞬間、弾かれたようにアクアの傍へと駆け寄った。

 

「アクアっ! アクアっ!? 大丈夫ッ!?」

 

 焦燥に焼かれた声だった。そして同時に、リビングの扉が開く。

 

「お兄ちゃん、そっちどうなって――」

 

 言いかけた声が、ルビーの声が途切れる。そこに広がった光景が、彼女から言葉を奪ったのだろう。

 

「何、これ……嘘、どうして、お兄ちゃん……っ」

 

 彼女の手に握られていたスマホが、滑り落ちる。それが床にぶつかり、硬い音をあたりに響かせた。

 ルビーから、耳を劈くほどの叫び声が上がった。

 

 

 

 

 

「アクアっ! アクアぁっ!」

「お兄ちゃんっ! お兄ちゃんッ!」

 

 恐慌状態で己のことを呼び続ける母と妹を前に、アクアは嫌に冷静さを取り戻していた。

 吾郎としての知見が、ほとんど無意識的に自分の受けた傷の診断を始める。

 

 自らの身体を見る。上半身は打撲、擦過傷。致命的な外傷などはなし。

 右大腿部、鼠径部近くからナイフ刺入。刃渡りから、刺創の深さはおよそ十五センチ。刺創の類に漏れず、周囲に小規模の挫滅あり。

 流れ出る血は黒い。脈打つような出血の傾向もない。静脈性出血だ。鼠径靭帯の下、大腿部のやや内側寄りの場所からの刺入であった故に、手前側を走る大腿動脈への損傷は避けられたということか。ナイフによる受傷が水平方向ではなく垂直方向に広がっていることが大きかったかもしれない。

 ただ受傷から少しばかり時間が経っている今も、血が止まる気配はまるでない。出血量は少なくなかった。深部静脈が離断している可能性を疑うべきか。

 息が上がって、心臓が早鐘を打っている。神経反射だけではなく、出血性ショックが進行していることは間違いない。

 

 そこまで考え、アクアは目線を上げてアイの方を見た。必死の形相でこちらの名前を呼びかけ続けて、取り乱し続けている彼女を、呼び止めた。

 

「かあ、さん」

「アクアっ!?」

 

 こちらに視線が固定される。瞳孔が開いている。冷静でないことは明らかだ。それでも、こちらに注意が向いているのならば。

 

「救急、車」

「呼んでるッ!」

 

 それにはルビーが答えた。まず、それが一番大事なことだった。アクアは頷く。

 

「そこまで、やばい感じじゃ、ない。だい、じょうぶ。なんとか、なる。けど」

 

 言葉を切って、風呂場の方を見た。

 

「バスタオル、とって。ありったけ。一個使って、右脚を、縛ってほしい。付け根、ぎゅっと。ナイフは、抜か、ないで。終わったら、残りのタオル、全部畳んで、脚の下、重ねて、敷いて。脚、載せて」

 

 ルビーが駆け出していく足音が聞こえる。できた妹だ。そう考えた。

 脚を、少しだけ動かしてみる。強い痛みに顔を顰めたが、何とか動いた。つまり刺創は神経には至っていない。ただ、骨盤にひびが入っている可能性は大きいだろう。

 頭の中に、ナイフによる刺創からの大出血に対する救急処置の症例が浮かんでは消えてゆく。医師国家試験の問題にもあったか。もう十年は前のことなのに、それでもそんなことばかり思い出される自分がおかしくなって、アクアは少しだけ笑っていた。

 

 すぐにやってきた妹が、アクアの血に汚れた右の脚にタオルを巻いていく。可能な限り力を込めて、それを縛っていく。やがて、右脚に不快な圧迫感と痺れを感じた。十分だ。大腿動脈に対する間接圧迫止血は一定程度機能している。

 そしてそのまま両足共に、重ねたバスタオルによって下肢挙上された。ならばこの場でできる応急処置は、やり尽くしたと言っていい。

 

「できたよッ、お兄ちゃん!」

「あり、がと、ルビー」

 

 覗き込んできたルビーに、アクアは微笑みかける。

 

「あとは、三十分に、一回、右脚の、緩めて。けど、多分、救急車、来るね」

「そうじゃないッ! アクアぁ……ッ!」

 

 その一方で、アイはひたすらにアクアの名前を呼び続けている。その場から立つこともできずへたり込んで、倒れ伏すアクアの前でどうすることもできないでいた。

 向き直る。そこにいるのは、誰にも無敵の笑顔を振りまく最高のアイドルの姿ではなかった。自信に満ちて、我が子を慈しむ母の姿でもなかった。

 ただ戸惑い、途方に暮れ、絶望の淵にいる、単なる二十歳の少女だった。

 

 そうだ。彼女はまだ二十歳なんだ。二十歳になったばかりなんだ。その事実に気がついて、アクアは胸が痛くなる。

 晴れの日だったのに、そのはずだったのに。希望溢れる日になるところであったのに。

 もっと自分がうまくやっていれば。考えていた対策を、打てていれば。そうすれば、今自分は母にこんな思いをさせずに済んだだろうに。

 

 もはや、それも詮ないことだ。しかし、いやだからこそ、アクアには伝えなければならないことがあった。

 

「かあさん」

 

 もう一度呼び止める。再び合った視線に、母の顔に向けて、努めてアクアは笑った。

 

「今日、の、ドーム。こんなことになって、ごめん。だけど、」

 

 せき込んだ。悲痛な声で名前を呼ばれて、それを左腕で遮る。

 

「だけど、かあさん。ドーム、ぜったい、せい、こう、させて」

「何言ってるの!? 今、そんな場合じゃ……っ」

「おね、がいだよ」

 

 母の腕に、縋りつく。ひっ、と息を呑む音が聞こえた。

 

「ゆめ、だったんだろ。かあさんの。いちご、社長の。ミヤコ、さんの」

 

 視界が霞む。止血処置自体はできていても、ショックの進行は完全には止まっていないか。

 おそらくは内出血だろう。深部静脈がやられているならば、有り得る話だ。そうアクアは判断する。

 これでは、いつ意識が混濁してもおかしくない。それまでに、伝えるべきことは伝えてしまわなければと、懸命に言葉を重ねた。

 

「あきらめ、ないで、おねがい。おれも、ドーム、がんばって、ほしくて、だから」

「何でっ、何でッ!? お兄ちゃんッ!!」

 

 叫び声がする。ルビーだ。身体に手が添えられるのが分かった。揺すられるのも。

 

「やめてよっ、そんなこと言わないでよッ! 死んじゃったら、死んじゃったらどうするのって、ねぇッ!!」

 

 地味に痛いから、やめてほしい。そんな茶化した言葉を出す余裕も、もはやない。顔を向ける力も出ない。

 

「かあさん。かあ、さん……」

「アクアッ!!」

 

 光すら失われ、嗅覚も鈍化する。血の匂いが遠ざかり、世界が冷たくなっていく。

 いよいよ、なのだろうか。でも、必要な処置は講じた。救急車ももう来るなら、きっと大丈夫。

 どんどんと取り留めのなくなっていく思考を必死に繋ぎ止めて、アクアは言葉をひねり出す。

 

「かあさん、おれは。ぼく、は……」

 

 最後に言わなければならないこと。憶えているうちに、言っておかなければならないこと。

 言えそうな言葉など、あと一言ぐらいしかなくて、その時にアクアの脳裏に浮かんだのは、結局一つだけだった。

 

 今こうして、自分が身を挺してアイのことを庇ったこと。うまくやり切ったとは到底言えなくとも、最低でも、諦めなかったこと。

 そしてなお、生きようと足掻いていること。その理由を、源泉を。

 

 ずっと自分は、分からなかった。この世に今一度「星野愛久愛海」として生まれ落ちたその理由を、今度こそこの星野アイという少女との約束を果たすことだと考えて、だから彼女のことをどうにかして守ることが、自分の意味だとだけ考えていたけれども。

 でも、そうではない。それだけではない。今自分が母に向けている気持ちが、闇に沈み、冷えて鎖される世界の中で、唯一胸に広がる暖かさは、その根源こそが、紛れもなくアクアを衝き動かしていたのならば。

 

 ならばこの気持ちに、嘘はない。これがその全てではなくとも、紛れもなく一つの、「結論」の形なのだ。

 だから、だから、だから――。

 

 失われていく感覚の中、もがくように手を伸ばして、アクアは渾身の力で口を開く。

 

 ――愛してる。

 

 その言葉を届けられたことに対する満足感が、墜ちてゆくアクアの意識の淵に、最後まで残った。

 

 

 

 

 

 ずるり、と腕が垂れ下がってゆく。瞳が混濁してゆく。

 アイの目の前に広がるその光景は、彼女にとって何の現実感すらも与えてくれなかった。

 

 夢だと思った。悪い夢だと。頬をつねろうとして、しかし自分の右手にべったりとついた血が、錆びた鉄の臭いが、今を紛れもない現実だと思い知らせてくる。

 

「お兄ちゃんッ!? お兄ちゃんッ!! やだ、やだよ、死んじゃやだッ!! お兄ちゃんッッ!!」

 

 隣にいたルビーが、横たわるアクアの服を掴む。そして揺さぶった。おきて、おきてよ、そう叫び続ける声が、アイの胸を容赦なく抉っていた。

 それと同時、鍵の開いたままだった玄関扉が乱雑に開けられる音とともに、中にどかどかと人が駆け込んでくる。

 

 警察だ。救急隊員もいる。そのことに気づいてようやく、アイは目の前の現実のすべてを理解した。

 

 

 

 彼女から、身を捩るが如くの悲痛な声が上がるまで、そう時間はかからなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 その後、事件発生の報を受けて三次救急の搬送先へと駆け込んできた壱護は、事情をすべて聞いたのち、アイに対してドーム公演のキャンセルを提案しようとした。

 今の彼女の精神状態では、公演など行えない。生死の淵を彷徨う我が子から引き離し、それでも己の夢を叶えさせたいと思うほど、壱護は人非人ではなかった。

 しかしそれに、待ったをかけた人がいた。予定通り、ドーム公演はやり切ると。

 

 ほかでもない、アイだった。

 

 「あの子が、言ったから」。そう言って顔を上げたアイの瞳に、壱護は強烈に惹きつけられた。

 それは覚悟を決めた女の眼だった。どこまでも強い、母の眼だった。

 悔悟も不安も恐怖も、その全てを飲み込んで、アイは先に進もうとしていた。我が子のために。

 

 故に壱護もまた、覚悟を決めた。今まで確立してきた数多のコネクションを使って、アイの、そしてアクアの身に起きた災難に関するニュースの配信を、彼はギリギリのところで延期させる。

 ドームライブの直前に、このニュースは流せない。アイのために、B小町のために、そしてミヤコを含めた苺プロのためにも。壱護は文字通り、ドームライブ開始の直前まで方々を駆けずり回ることになった。

 

 

 

 ――果たしてその中で、壱護は今回の事件を起こした男の身元の情報を知る。その素性を。

 そして壱護は悟った。理解させられた。その男の存在は、所業は、自らの見て見ぬふりをしてきた咎、そのものであるのだということを。

 今、その咎こそが牙を剥いて、他でもないアクアの身体に、悪意として突き立ったのだということを。

 

 その十字架を、己はこれから、一生に亘って背負っていかねばならないのだということを。

 

 

 

 

 

 

 

 アイには、未だ自らの心中に荒れ狂う感情の源泉が、完全には理解できていない。

 それでも、今まで考えもしなかった場所から自らを揺さぶるこの衝動に、その中心にアクアの存在が、そしてルビーの存在があることだけは、よくわかっていた。

 

 意識を手放す前のアクアが言った、あの言葉の切れ端を思い起こす。

 血に沈む悪夢の記憶の中、か細い声で、自らの腕を掴んで、それでも我が子が届けようとした、その台詞を。

 

 ――ぼく、は……あ、い、して……

 

 砕けそうなほどに、歯を食いしばる。止まらない震えを、無理矢理にでも押さえつけた。

 ならば、それに応える覚悟を決めたこの気持ちはきっと、一片の偽りもない「愛」だ。世界の誰がそれに疑いの目を向けようが、これは愛なのだ、アイにとって。今、彼女はそう決めた。

 だから、立ち上がる。惑う時間は、涙を流す時間は、もう終わりだ。

 

 心を強く定め、何もかもを飲み込んで、故にこそ今アイは、世界すらも愛する(欺く)覚悟を決める。

 而してそこにあるのはもはや、遍く見る者の目すら眩ませるほどに強く烈しい輝きを放つ、『最強で無敵のアイドル』の姿に他ならなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 ルビーは、壱護の妻であるミヤコに付き添われて、救急科の待合室に座っていた。

 アクアが運び込まれた直後の、宿直の医師の言葉を思い出す。

 

 ――傷が深い。緊急手術になります。まあ、最低限必要な処置はされていますので最悪の事態にはならないでしょう。が、予断は許しません。

 

 意識を手放す前、自分の状態に対して処置の指示を出していたアクアの姿が、脳裏に過ぎる。

 聡い兄だった。誇らしい兄だった。二度目の人生の中で、ママ――アイほどではなくても、尊敬できる兄だった。しかしここまで人間の身体のことで、てきぱきと指図ができる人が、そこまでいるだろうか?

 ――これではまるで、医者のようではないか。

 そう思ったときに、ルビーの頭の中には一人の男の姿が浮かんでいた。

 

 自分の前世で、あのどうしようもなく苦しく、なにもできなかった不自由な世界の中で、自分を支えてくれた人だった。光になってくれた人だった。

 雨宮吾郎。ごろーせんせ。何かの拍子に「結婚したい」と言ったときに、困ったように笑った彼の顔は、今でも思い出せる。

 優しい人で、賢い人で、穏やかな人で、リアリストで、モラリストで、ヒーローで、ルビーの――さりなの、最初で最後に恋をした人だった。

 

 そんな彼の姿が、今のアクアに重なって、消えない。そんなわけがないのに、そんなことはごろーせんせにも、アクアにとっても失礼なのに、駄目なことなのに。

 

 頭を振って、そのビジョンを追い出す。そして同時に、東京ドームへと向かった母のことへと、意識が向いた。

 

 正直なことを言えば、イヤだった。死んでしまうかもしれないアクアを置いて、アイがどこかに行ってしまうことが。ドームに行ってしまうことが。あの病室の中、誰も帰ってこなかった、誰も来てくれなかった自分のことを、思い出してしまうから。どうしようもなく「寒かった」、あの日々のことを。

 何度も、「イヤだ」と言おうかと思った。「ここにいて」と。そしてそう言えば、アイはすべてを投げ出してくれると、アクアに寄り添ってくれると、ルビーは根拠なく信じていた。ルビーのことを、アクアのことを、愛してくれているはずの彼女ならば、必ずここにいてくれるはずだと。

 

 でも、言えなかった。いや、だからこそ言えなかった。なぜならほかでもないアクアが、それを望んでいないから。本気でアイに、今日のドーム公演の成功を望んでいたからだ。

 もしこれでアイがドーム公演を諦めるようなことがあったら、次に目を覚ましたアクアにとって、それは一生モノの後悔になるだろう。心の傷になってしまうだろう。ルビーは尊敬する兄に、大好きな兄に、そんな思いはしてほしくなかった。だから、我慢した。

 

 そしてその代わりに、ルビーは自分だけでも兄の傍にいようと思った。ずっといようと思った。もし手術が終わって、すぐにアクアが目を覚まさなかったとしても、できる限りずっと隣にいよう。そう思った。

 アイだって、本当はそうしたいだろうから。絶対にそうしたいだろうから。だから自分はアイの代わりでもあるのだ。アイの代わりに祈るのだ。

 

 ――誰でもいい。私の願いを聞いてください。ママの願いを聞いてください。お兄ちゃんを、アクアを助けてください。

 

 今の自分にはそれしかできなくて、それがすごく悔しくて、情けなくて、そして怖い。

 だから、ルビーは誓った。もしアクアが助かったら、無事に目を覚ましたら、次は私がアクアのことを守ってみせる。それができるようになってみせると。

 

 だから、どうか。どうか死なないで。生きて帰ってきて。その願いだけを胸に、ルビーは兄の手術を待ち続けた。

 

 

 

 

 

 果たしてそこから三時間後、アクアの緊急手術が終わる。

 その結果はまず速やかに待合室のミヤコとルビーに伝えられ、そしてミヤコ経由で壱護に、アイに共有された。

 公演のリハーサルが一通り終わった直後、ライブ開始より前のタイミングで、アイはその報を聞く。果たしてそれを受けて始まったB小町の東京ドーム公演は、「B小町史上最高のライブ」「アイドル史にも残る伝説のライブ」であったと後世にも語り継がれることになる。

 舞い踊る七人の中心で輝きを放つセンターの、アイの恒星のごとき光と引力は、ドームの遍くまで届き、その全てを支配してみせた。鬼気迫るほどの、神懸かりと言ってもよいパフォーマンスであったと、その場に居合わせたファンは口々に語り合った。

 

 ――すなわち、アクアは助かった。一命をとりとめたのだ。

 

 

 

 絶対的な不運と、それに抗う出来得る限りの努力の果てに、唯一残った希望が、奇跡が今、彼らの、彼女らの新しい運命を形作った。

 しかしその行方は、未だ誰にもわからない。

 手術を終え、病床で深い眠りに就いている、蒼い瞳の少年にさえも。




このエピソードの投稿のタイミングで、以下のタグを追加します。

追加タグ: 「星野アイ生存」



原作より理性的な思考の本作アクアですが、だからと言って予知能力があるわけでもないので、そうコトはうまく運ばないということでした。

ただ、本作アクアが仕事をしている点は一つだけあります。
それが、「本来ならリビングにあるはずの星の砂がどうして靴箱にあるのか」という点です。
原作と違ってアクアが能動的に色々と働きかけていることで、アイの人気は原作よりも(ほんの少しだけですが)高まっています。これがバタフライエフェクトのように作用して、アイの家にはファンからのプレゼントが増え、結果星の砂の陳列の場所が変わりました。
これは本作アクアには知り得ない設定なので、欄外で開示します。



そしてこのタイミングで、解除不能な爆弾が全員の足元にセットされました。
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