天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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5-7. 「バイバイ、お母さん」

「あんまりいい場所に案内できなくて、ごめんなさいね?」

 

 テーブルを囲み、アクアとルビーの対面に腰を落ち着けた、中年の女性――天童寺まりなが、小さく首を傾げ、手を合わせながら片目を瞑った。

 

「ここのホテル、お寿司屋さんが結構おいしいんだけど、流石に一週間前だと予約取れなくて」

「ああいえ、お気になさらずに。と言うか、本当は僕の方からお願いしているので、こちらの方で場のセッティングをすべきだったのですが」

「いやいや、いいのよそんなこと。流石にそこは、年長の私に譲って頂戴な」

 

 この日、天童寺まりながアクアたちを招いたのは、飯田橋にあるとあるシティホテルの中のカフェダイニングだった。

 見渡せば、客の入りは半々といったところだろうか。天井も高く、壁や間仕切りもなく、採光の為に一面に張られたガラスから差し込む陽光は、照明すら不要のものとしている。

 これまでアクアが度々の会合で使ってきたような、個室に区切られた客席の在り様とはまるで異なる趣の場所だった。寧ろその対極に座した、開放感のある広々とした空間だと言えるだろう。

 

 この場で供されるのはランチビュッフェということで、既にアクアたち三人の前にある皿の上には、思い思いに取ってきた料理が三者三様に盛り付けられている。

 それに手を付けるより前、天童寺まりなの言葉を受けて恐縮しきりの様子を装いながら頭を下げたアクアに、先日見せたのとまるで変わることのない快活な笑みを浮かべて、彼女はパタパタと手を振った。

 ただそれもほんの束の間のこと、天童寺まりなの視線が、すっと平行にズレる。向いた先は、アクアの隣に腰掛ける、アクアと同じ金糸の髪を伸ばした少女だ。

 

 そこから天童寺まりなが言葉を発するのに先んじるように、アクアは彼女の、ルビーの方へと手を向けた。

 

「ああ、すみません、紹介が遅れました。こちら、妹のルビーです」

 

 名を呼ばれたルビーが、天童寺まりなに、かつて自分の母であった女性に、一つ無言で頭を下げる。

 

「ルビーです。先日は兄がお世話になったみたいで、ありがとうございました」

 

 顔を上げ、しっかりとまりなの方に視線を向けて、ルビーが発したその声は、まるで自然体のように思えた。

 自身の中に確実に渦巻いているであろう心情の全てを、彼女はおくびにも出すことなく、目の前の女性に接していた。

 

「これはご丁寧に。天童寺まりなです」

 

 いつものルビーとはまるで違う、完全なる余所行きの態度に、それを受けた天童寺まりなも同じように会釈を交えて答える。

 

「お兄さん、アクアくんから聞いたけれど、私のやってるお仕事に興味があるんですって?」

「はい、そうなんです!」

 

 まりなが問いかけ、対するルビーが努めて快活に、大きく頷いてみせたそれは、この場に先んじてアクアがルビーとの間で立てた『作戦』、つまり今日この場を迎えるための方便だった。

 

 「あの接待の日、まりなさんという『広告代理店の偉い人』と会話をさせてもらったことを家に帰って妹に語って聞かせたところ、彼女がその話の内容に殊の外興味を示した。ついては、お時間があればお話をしていただけないだろうか」。そういう誘い文句で、アクアは天童寺まりなをこの場に呼び込んだ。大義名分を得るためという意味もあるが、同時にその理由付けは、ルビーがこれから天童寺まりなに問う話の内容に、説得力をつけるという狙いも内包していた。

 

「兄から、天童寺さんが今までいろんなこの業界の方々とお会いになったって話を聞いて。昔の色んな話とかもされていたって。なので、『今までどういう風なお仕事されてたのかな』とか、昔の業界の人たちとのお話とか、私すごく興味があって」

 

 ルビーの熱弁は、三割ほどが本当のところだろうが、あとは芝居だ。

 この間から演技の勉強を始めているとはいえ、なかなかの役者ぶりと言うべきだろう。

 ただ、逆に言えば三割は本当だ。つまり彼女は、そういう天童寺まりなの過去を聞き出すことで、まりな自身の過去――即ち、「天童寺さりなが生きていたころの彼女」を、そして「天童寺さりなが亡くなってからの彼女」を、知ろうとしていた。

 

 そうすることで、ルビーはルビー自身の、いや、「天童寺さりな」の中にいる「お母さん」の存在と、もう一度向き合おうとしている。天童寺さりなとしての自分を、もう一度理解し直すために。

 

「なるほどなるほど……でもルビーちゃんのそれ、なんかちょっと分かる気がするわね」

 

 果たしてその表層の部分を聞いて、得心の行ったような表情で天童寺まりなが頷く。

 

「ウチの面倒見てる若いコも、けっこうそういう噂話とか、昔のギョーカイの話とか好きなの。今テレビ局の上の方でPとかDとか呼ばれてふんぞり返ってる人たちの若いころの話とかも、ね」

 

 悪戯っぽく笑った彼女に向けて、ルビーが「あはは」と声を上げながら、苦笑交じりに小さく首を振った。

 

「まあ、そういうのも気にはなりますけど。でもどっちかと言えば、天童寺さんがどういう感じでお仕事をされてたのかの方が知りたいかなって」

「私が?」

「はい! 広告代理店の方って、業界のいろんな人と会ったりして、『営業』していかなくちゃいけないじゃないですか。だからどういう風に偉い人たちの中に入っていったのかな、とか、どうやって企画とか作って、それを売り込んでいってたのかなって」

 

 アクアには分かる。ルビーのその言葉は、決して嘘で塗り固められてばかりのものではない。

 

「天童寺さん、ご存じか分からないですけど、私もアイドルやってるんですよ。『B小町』、アイさんのやってたグループの名前を借りて、後継みたいな感じで」

「ええ、それは知ってるわ。というか、もう結構有名じゃない、ルビーちゃんたち」

「ありがとうございます! でも、私たちもまだまだって言うか、これから自分たちのことをもっと売り込んでかなきゃいけないわけで、そのためにどうしたらいいんだろうって悩んでるところもあって」

 

 ならばこれもまた、ルビーの本心だ。B小町としてのルビーの、或いはかなやMEMちょの未来のことも、ルビーはずっと考えている。その思考の中に、天童寺まりなの、彼女の仕事の内容と重なるであろう部分があることを、今のルビーは「利用」している。自分の言葉を嘘にしないように。嘘に聞こえないように。

 

「社長さんにばっかり任せるんじゃなくて、自分たちでも何かできないかなって。それで、同じような経験をされてるかもしれない天童寺さんのことを聞いて、お話させていただけたらって思ったんですよ」

 

 そしてともすれば、ルビー自身意識していない深層心理の中で、「天童寺さりな」としての彼女が、考えていたのかも知れない。

 「私のお母さんが、どういうお仕事をしていたのか、お母さんの口から聞きたい」と。そんなどこかいじらしい願いさえ、彼女は胸のうちにきっと抱えている。

 

 ともかく、そんなルビーの長口上を全て聞いて、天童寺まりなはどこか感慨深げに頷いた。

 

「真面目さんなのね、ルビーちゃん」

 

 そうして眼前に座する少女を見つめる彼女の瞳の中に宿ったのは、どういう種類の光であろうか。

 かけた言葉の穏やかさに、それを聞いたルビーはいったい何を感じ取っただろう。

 

「そういうことなら、全然色々聞いてもらって構わないわよ。この場所二時間半ぐらいとってあるし、お食事しながらお話しましょ」

 

 いずれにせよ、ルビーのこの場における狙いは、目論みの通りに果たされた。

 カトラリーを手に持ちつつ、朗らかな声色でルビーに対してそう答えた天童寺まりなにむけて、ルビーはいつものような人好きのする笑顔を、ぱっと自らの顔の上に咲かせた。

 

 

 

 そこから、ルビーと天童寺まりなとの間で、話は弾んだ。

 主題となったのは、主に天童寺まりなの過去の営業における苦労の数々だ。イベントプランニングについての社内調整の苦労、売り込みをかけるときに顔繫ぎをするための苦労、自分の名前を覚えてもらうために、とにかく自分を売り、コミュニケーションを続けていった苦労。

 

 対するルビーは、そんな天童寺まりなの話に相槌を打ち、時に問いを発しながら、彼女の過去のことを一つ一つ詳らかにしようと試みている。

 浮かべているのは、あくまでもルビーとしての表情だ。B小町のアイドルとしての、星野アイの娘としての笑顔だ。「天童寺まりなの娘であった自分」のことを、彼女は徹底して表に出すことはない。

 

 それでも今のルビーからは、僅かながらではあるものの、「楽しさ」とも云うべき感情が覗いて見えていた。態度に、口調に、浮かべている笑みにも、纏う空気にさえも。

 アクアには、察するところがあった。だからこそ、そこにはほんの少しの痛ましささえ、覚えてしまう。

 

 かつての彼女は、天童寺さりなは、病室の中において自らの母がお見舞いに訪れるのをただ待つばかりの存在だった。

 まりなと一度に言葉を交わすことができたのは、彼女がさりなの病室にやってきてより三十分ほどが精々であったろう。どれほどの長さで、どれほどの詳しさで、自らの母の話を聞くことができただろうか。

 

 そういう意味では、ルビーにとって今天童寺まりなとしているやり取りは、かつての彼女が決して満足に得ることのなかった、「お母さん」との対話だとさえ言えるのかもしれなかった。

 かつての自分が詳しく知ることのできなかった母のことを、今更ながらにでも知ることができた。そうだというのならば、今のルビー(さりな)にとってこのひとときは、どれほどにささやかなものであろうとも、失くしてしまった「何か」を埋めていく作業でさえある、のだろうか。

 

 身につまされるものがあった。

 もし今の時間が、どれほどルビーにとって意味の、価値のあるものであったのだとしても、それほどまでに望んだであろう「かつての母親」との対話において、彼女は決して自らの秘密を、その正体を、明かすことなどできないのだということに。

 

 天童寺さりなは、死者なのだ。死したものは、決して蘇らない。それが世の絶対の条理である以上、ルビーと天童寺まりなは、母と子ではない、単なる他人の関係でしかない。

 そういう立場で会話することしか、彼女には許されない。今も、そして将来にわたっても。

 

 何と、残酷な話だろうか。

 

 いや、そればかりではない。アクアは、気づいていた。おそらくは、ルビーも。

 つまり――この場において天童寺まりなの語る苦労話は、どこまでも「務め人としての天童寺まりな」のそれに終始している。

 彼女の語り口には、出てこないものがあった。つまり、家族のことだ。

 

 アクアが初めて天童寺まりなと邂逅したあのインドカレーの店の中での彼女の振る舞いと、それは何も変わらない。

 確かに、ルビーがあくまで「仕事の話」として水を向けているから、それ以外の部分が話の俎上に載りづらいという面は、あるかもしれない。それでもやはり、彼女の語る苦労話の中、彼女の生活に、プライベートに関わる部分が影すらも見せないというのは、捨て置けないところだった。

 特に二十年以上前、天童寺さりなが未だ生きている頃の話をルビーが促しても、彼女からは寸毫ほどの動揺さえも見つけることができないのだから。

 そんな彼女の姿は、きっとアクア以上に、ルビーの心に違和感を残しているはずだった。

 

 

 

「あ、そう言えばなんですけど」

 

 事実、ルビーはそこで唐突に話題を変えた。内心で抱えているものを、一切気取らせることにないようにして。

 

「天童寺さんって、兄が撮ろうとしている『映画』の話、知ってるんでしたっけ?」

 

 その些か強引さを伴った問いに、しかし天童寺まりなは疑いの目を向けることもなく、あっさりと頷く。

 

「勿論。この間アクアくんと、五反田さん、アクアくんの『お師匠さん』とお食事したのは、それ関係だもの」

 

 「それが何か」とばかりに小首を傾げた天童寺まりなに焦点を合わせて、ルビーは言葉を重ねる。

 

「あのお話、私たちの先輩の、()()()()()()なんですけど」

 

 そんな前置きから、いよいよ彼女は本題へと切りこんだ。

 

「映画でもやる話ですけど、アイさん、家族がいなかったらしいんです。子供の頃」

 

 それまで、どこかにこやかにルビーの話を聞き、時折相槌を打っていた天童寺まりなの動きが、俄かに止まる。

 

「これどこまで言っていいか分からないですけど。でもとにかく、あの映画の中で取り上げるテーマの一つに、『家族』の話があるのは、事実で」

 

 彼女は、じっとルビーの方を見ていた。ただ同時に、その視線の先に見えているであろうものは、必ずしも視界に映っているものばかりではないようにも、アクアには思えた。

 

「芸能界って、そういう人多いんですよね。やっぱり『普通じゃない業界』だからなのか、そういう人たちが集まっているからなのか。だから、私もよく分からなくなっちゃうときがあって」

 

 皿の上の料理がほぼ片けられたテーブルの下、彼女の手が、アクアの膝の上に静かに伸ばされていた。どこか、助けを求めるように。

 アクアはゆっくりと、そこに自らの掌を重ねる。同時、伏し目がちに訥々と言葉を発し続けていたルビーが、もう一度敢えて意識するかのように、顔を上げた。

 

「天童寺さんにも、ご家族はおられると思うんですけど。天童寺さんにとって、『家族』ってどういうものなんでしょう」

 

 そしていよいよ、ルビーはそんな「後戻りのできない問い」を、天童寺まりなに向かって発した。

 

 

 

 彼女の目が、ふとルビーから逸れる。アクアからも。

 誰もいない中空に投げられた視線を遊ばせて、天童寺まりなが少しの思慮に沈んだ。

 そこから、十秒ほどが経っただろうか。彼女が見上げていた顔をもとの高さへと戻す。ルビーを、そしてアクアを見た。

 

「そうね」

 

 発された短い一言に、アクアは今までの彼女のそれとは違う響きを感じ取る。

 

「私はこんな感じで、仕事一筋でやってきた人だし、どう言えばいいか分からないけど」

 

 言いながら、隣の席に置いてあるハンドバッグの中を探る。暫くして出てきたのは、彼女のスマホだった。

 手の中に納まったそれの、画面のロックを解除する指の動きを見ていれば、まりなはすぐにアクアたちの方に視線を戻した。

 

「けど、私は一応既婚者でね。だから、一応家族もいるわけで」

 

 するすると指が動いて、暫くののちに何かを見つけたであろうまりなが、くるりとスマホの向きを変える。画面が、こちらに向いた。

 

「この写真、この間私の誕生日でね」

 

 目の前に広がった情景に、ルビーは果たして何を思ったのか。目を見開きつつ、アクアはそれでも隣を見ることができない。

 

 

 

 映っていたのは、四人の男女だった。

 ソファーの真ん中に、中年の女性が一人、座っている。言うまでもない、天童寺まりなだ。

 そしてその後ろには同じぐらいの年頃の男性が立ち、両隣にはアクアたちと似た年頃の少年と少女が座って、彼女のことを取り囲んでいた。

 

 色とりどりの紙で作った輪飾り、壁面に貼られたメッセージ、その中央で笑っている天童寺まりなの姿。

 

 ――『ママ 54才 たんじょう日 おめでとう』

 ――『のみすぎちゃダメだよ』

 

 彼女の五十四歳の誕生日を祝う、ホームパーティーの風景を切り取ったその一枚の写真は、すなわち天童寺まりなにとって、家族とはそこに映った()()であるということを、端的に指し示している。

 

 写真の中の天童寺まりなは、いくつかの誕生日プレゼントを膝の上で抱えながら、はにかむような笑顔を浮かべている。

 かつて、雨宮吾郎であった自分が、決して見ることのなかった笑顔を。

 

 そしてそんな写真の中からは、もう一人いたはずの彼女の娘の、「天童寺さりな」の存在など、その痕跡さえも見つけることはできなかった。

 まるで、「天童寺」という家の中に、そんな人間など初めからいなかったかのように。

 

 

 

 斯くして天童寺まりなは、自らの家族のことを語り始める。別の写真もいくつか見せつつ、自らの夫のこと、そして二人の子どもたちのことを、どこか照れ臭そうにしながらも、アクアとルビーに話してみせた。

 三十代で授かった彼と彼女が、どんな赤ちゃんだったか。どう育っていったか。仕事に打ち込み続けていた自分の代わりに、夫がどれほど彼らのことを見てくれていたか。母親として、彼らにどのように接してきたか。

 

 思った通りにはいかなかったあれこれも、子育てのさなかに無限に湧き出てくるような愚痴の類さえ、しかし天童寺まりなが口にするその全てに、隠し切れない情が載っている。聞くものが聞けば、誰もがそう思うだろう。

 

 だからこそ、今彼女から聞こえる言葉を耳にすればするほどに、話の中に一切出てくることのない「もう一人」の存在を、アクアは思わずにはいられない。

 ずっと重ねていた右の掌の下、隣にいる少女の手が、妹の、ルビーの腕が、僅かに震えている。どうしようもなく、それを感じ取っていた。

 

 彼女にかけるべき言葉を、アクアは持たない。たとえ今この場から天童寺まりなが忽然と姿を消したとしても、それでもなおアクアにとって、今のルビーに何かを言うことは、あまりに難しく、また憚られることのように思えてならなかった。

 

 

 

「ごめんなさいね、私ったらホント、なんか半分愚痴みたいなことばっかり言っちゃって。年取るってイヤね」

「……いえ、それは大丈夫ですけど」

 

 水を向けたのはルビーだったが、結果として随分と長話になってしまったことを気にしたか、まりなはアクアたちに向けてバツの悪そうな笑みでもって小さく頭を下げてきた。

 

「そう? まあ、だからね」

 

 首を振って答えたアクアを見て、彼女は話をまとめにかかる。

 

「こうやって二十年ぐらい、この子達の母親やってきて思うのは」

 

 笑って、どこか遠くを見るように、アクアでもなくルビーでもない先の場所に、視線が向いた。

 

「健康でさえいてくれれば、いいのよ。何もないことが、一番。それ以上に、望むことなんて一個もないわ」

 

 斯くして出てきた言葉には、どこか自分自身にさえ言い聞かせるような、押し込めた過去を拾い上げているような響きが、込められている。

 内包する意味を察して、アクアはほとんど反射的に、自らの隣に目を向ける。

 

 アクアの膝の上に置かれていた手は、もう震えてなどいなかった。

 視線の先に覗いた横顔に、アクアは悟る。

 

 そこにいるルビーは、まるでアイが人前で見せているような、透明で感情の色の一切が窺えない笑顔を浮かべて、天童寺まりなのことを見据えていた。

 

 

 

 

 

「今日は、どうもありがとうございました。お食事もご馳走になってしまって」

「いや、そんな全然! というか、大丈夫? こんなタクシーなんて使わせてもらっちゃって、これじゃアクアくんたちの方が持ち出し多いんじゃないかしら」

 

 ランチの時間を終え、ホテルより出たアクアたち三人は、そのままフロントで手配したタクシーに乗った。

 向かう先は、言わずもがな天童寺まりなの家である。「貴重な時間をもらった礼である」として、アクアは彼女のことを送り届けることにした。無論、その費用は全てアクアの財布から出ていくものだ。ルビーには一銭も使わせるつもりはなかった。

 

「いえ、大丈夫です。これでも自分、仕事が仕事ですので」

「ああ……まあ、そうね」

 

 部外者であるドライバーがいる今、言えることと言えないことを選びながら話すアクアに、その辺りの事情を当然に察している天童寺まりなが、曖昧に頷く。

 

「この辺りでしたよね、確か」

「ええ。ここの道入って、すぐ行ったところの左側」

 

 そして今は、まさにこのタクシーによる天童寺まりなの送迎が終わらんとしているところだった。片側二車線の通りの中、赤信号で暫し止まっていた車が動き出し、左折して路地に入る。そこから少しばかり進んだ先、並んだ戸建てのうちの一軒に、車が停まった。

 事前にドライバーに伝えていた場所だ。つまりここが、天童寺まりなの自宅だった。

 

 そしてそれは同時に、天童寺さりなが退形成性星細胞腫を発症する四歳までの間、住処としていたところでもあった。

 

 通りから一本入った、閑静な高級住宅街である。並び居る家々に違わぬように、その建物は玄関の前に門扉の備わった、立派な造りをしていた。

 

「それじゃ、今日はありがとう」

「いえ、こちらこそ。貴重なお話をお聞きできて、いい経験をさせていただきました」

「私も! 今日、すっごく楽しかったです! ありがとうございました!」

 

 開いた自動扉から出て、タクシーを降りようとする天童寺まりなへと、アクアが、そしてルビーが、頭を下げて見送りの言葉をかける。

 

 隣から聞こえるルビーの声は、今日の初めの時と寸分たりとも変わらない。そうあれかしと望まれている、「アイドル・ルビー」としての溌溂さに満ちているようにも聞こえた。

 まるで本当に、一つの憂いもなく、今日一日の時間を楽しく過ごしていたのではないかと錯覚してしまうほどに、それは「完璧」に装った声色だった。

 

 しかし、アクアは知っている。憶えている。あのホテルのダイニングカフェの席の上で、アクアの膝の上に添えられていたルビーの手から感じた、隠し切れない震えを。

 彼女の中で押し殺しきれなかった感情の波が、滲み出ていた。テーブルの下で、天童寺まりなから決して見えない場所で、ルビーはそれをアクアにだけ吐露していた。

 その傍らで、彼女は自らの表情だけは決して崩さなかった。あの時、あの場所で。今に至るまで。

 

 

 

 覚悟だったのだろう。今日この場で、天童寺まりなと相対することを決めた時から、きっとそうだったのだろう。

 自分自身を律して、最後の最後まで、ルビーはルビーであり続けていた。他人としての線引きを、守り続けていた。

 それでも――もう、彼女はきっと、限界だった。

 

 アクアたちの視線の先、玄関扉の中から顔を覗かせている三人ほどの人影が見える。

 車から降りた天童寺まりなは、そんな彼らの姿を視界に納めるや、大きな身振りで手を振った。

 二言三言ほど言葉を交わして、そして彼女は未だタクシーの中から自身のことを覗いているアクアたちの方へと、振り返った。

 

 最後に、別れの挨拶をするためだろう。しかしそこに浮かんでいた表情の残り香に、アクアが、そしてルビーも、言葉を失くす。

 

 何でもない日常の、どこにでもある笑顔だった。

 穏やかな、安らかな笑顔だった。

 我が子を慈しむ、母の笑顔だった。

 

 

 

 そこにルビー(さりな)は、一体何を感じただろうか。

 閉じられた自動扉が隔てた彼我の間に、音は聞こえない。手を振りながら、変わらぬ笑顔を湛えて一つ頭を下げる天童寺まりなに、アクアが、そしてルビーも、黙礼をもって返す。

 ゆっくりと動き出した車の窓の中、彼女の姿が左側へと流れ、見えなくなってゆく。

 

 そしてその末、いよいよ天童寺まりなの姿形がこの車の中からは完全に窺えなくなる最後の瞬間、アクアの隣で、ルビーがポツリと口にした。

 

「……バイバイ、『お母さん』」

 

 その呟きはアクアのほかには誰にも聞こえることもなく、しかしアクア自身の耳の、そして頭の中に、消えることのない響きとして長く残った。

 

 

 

 

 

 家に、帰った。アクアの、そしてルビーの住む家に。

 アイは、今日はまだしばらく帰らない。帰宅は夕方ごろになると、二人ともに聞いている。

 

 だから今、ここにいるのはたった二人だ。アクアと、そしてルビーだけだった。

 共に言葉もなく、廊下を歩く。そして共に、示し合わせたように、一つの部屋に入った。

 

 「るびーのおへや」。アイのB小町時代のウサギの髪飾りがあしらわれた、いつも見慣れているそのファンシーなドアプレートさえ、今のアクアには直視に堪えないもののように思えてならない。

 

 その中に、ルビーの自室の中に立ち入って、ルビーとアクアは二人、黙したままに向かい合う。

 天童寺まりなの家の前で、彼女と別れてからずっと、互いに一言も発することなく続いていた時間が、そこでやっと途切れる。

 口を開いたのは、ルビーだった。

 

「初めて、だった」

 

 震えている。言葉も、腕さえも。ずっとずっと、天童寺まりなに対して見せていた「ルビー」の姿は、そこにはない。

 

「初めて、見たんだ。お母さんが、あんな風に笑ってるとこ」

 

 口の端が上がる。ルビーは笑っていた。

 しかしその笑みの意味を、アクアは嫌でも理解させられた。

 

「お母さん、あんな顔で笑うんだなって。あんな楽しそうに、嬉しそうにして」

 

 それは、自嘲の笑みだった。微かな震えを残したまま、ルビーの右手が上がる。ゆっくりと、それがルビー自身の頬に添えられた。顔の半分を、覆うように。

 

「見たこと、なかったんだよ。あんなお母さん。憶えてなかっただけかもしれないけど、でも、知らないんだ、私は。……私は」

 

 声が掠れる。それはもはや、アクアに向けられたものでさえない。

 視線すら外れ、一瞬、肩が震えた。

 

 もう、堪えきれなかった。一歩踏み出し、二歩を歩く。ルビーの傍に立って、アクアは彼女の反応すら待つことなく、自らの腕の中にルビーのことを抱き寄せていた。

 

「ごめん。ごめんな、さりなちゃん。やっぱり、君を連れて行くべきじゃなかった」

 

 腕の中で、首が振られる。「ううん」、とくぐもった声がした。

 

「そんなことない。頼んだのは私だもん。せんせは悪くない。悪くないよ、絶対」

 

 抱きこんでいた腕が外れて、背中に回る。

 掌の温度を、身体に感じた。アクアよりもほんの少しだけ高い、彼女の体温を。

 アクアはほとんど反射的に、ルビーを抱きしめる腕の力を強くしていた。

 

「分かってたんだよ、私は。気づいてた。ただ、認められなかっただけ」

 

 ぽつりぽつりと、声が漏れる。

 

「お母さんが私のお見舞いに来てくれた時だって、『私のこと愛してるか』なんて、そんなもの、訊いてる時点で分かってたはずなのに」

「止めろ、ルビー。言わなくていい、それ以上は」

 

 制止するように、腕の力をなお強くした。

 言ったら、彼女の中で、それが本当になってしまうから。それを断じてしまってよいと、アクアは思わなかったからだ。

 

 天童寺まりなが、天童寺さりなに対して本当は何を思っていたのか、アクアには、吾郎には、判ずることなどできはしない。愛していたのか、いなかったのかも。

 それでも、分かることはある。

 つまり天童寺まりなは、天童寺さりなの運命を直視することができるほど、強い人間ではなかったということだ。

 

 彼女の医療費を出し、設備のしっかりした病院に預けて、その身を医師に委ねることで、親としての義理を果たしたと自らを納得させて、そして彼女は天童寺さりなという人間から、自ら産んだ娘から、逃げた。

 彼女の命の潰える、その日さえ。いや、その日だからこそ。

 

 天童寺さりなの目からは、そんな己の母親の姿は、どう映ったか。どう、自らの境遇を整理するだろうか。

 それを思えば、アクアがいくらルビーにそれを説いたところで、彼女の認識を覆すことは叶わないのだろう。

 

 ルビーが、ゆるゆると首を振る。胸に押し付けられた髪が、服に擦れる音が聞こえた。

 

「いいの、別に。大丈夫、それはそんなに辛くない。恨んでもない。ちょっとだけ寂しいけど、でも嘘をついたままじゃお母さんに会いに行った意味がないから」

 

 吐き出される言葉はアクアに向けられてたものであっても、まるで自分に言い聞かせているかのようだ。

 いや、違う。まさしく言い聞かせているのだ。だってこれは、過去の自分との対話なのだから。

 

 

 

「だけどね」

 

 顔が上がる。腕の中に閉じ込めていたはずの瞳の光がそこに覗いて、アクアの胸さえ抉るようだった。

 

「弱かったのは、私なんだ。分かっちゃったんだ、それが」

 

 痛かった。ルビーの声が。震えを宿して、紡がれる音が。

 

「お母さんだけじゃない。ママにだって。それが分かってたから、私は甘えてたんだ。『今度こそ』愛してもらえるようにって。そういう自分を、私は演技してた。ずっと」

 

 彼女のそれは、告解だ。聞くたびに、内からこみ上げるものを堪えようと、奥歯を噛みしめる。

 ルビーの身体をどれほど強く掻き抱いても、その中にある空虚には、きっと手は届かない。

 

 何故なら、分かってしまったからだ。

 「自分自身を掘り下げる」のだと、その意志を持って天童寺まりなとの場に臨んだルビーは、初めからこの帰結を、覚悟していたのだということを。

 

「母さんは、それでも君のことを愛してると、俺は思ってる」

 

 だからせめて、そう口にする。しかしその滑稽さを、アクアは同時に自覚していた。

 よくもまあ、こんな自分がそれを言えたものだと。

 

「分かってる。でもそれは、『ルビー』だから。『わたし』じゃなくて」

 

 「愛」などと、そんなものの存在さえ分からない自分が。

 アイのことを、母親であると思えてすらいない自分が。

 母親なるものの実存など、一つとして、実感を持って理解できていない自分が。

 

「結局『わたし』は、あの部屋の中からずーっとお外のことを恨めしく思ってた。この世界が丸ごと嫌で、正直憎んでて、そんななんにもない、つまんない人間だったんだって」

 

 それだけではない。

 もし今、ルビー(さりな)がアクアに明かし続けている彼女自身の心の奥底のことが本当であるのなら、それはまるで、かつての自分に、他者に迎合することでしか世界に居場所を作れなかったアクア(雨宮吾郎)に、そっくり鏡映しではないか。

 

「せんせにだって、そうだった。B小町のことが好きで、アイのことが好きで、元気になったらアイドルになりたくて、そんな明るい未来のことしか考えてない女の子でいたのは、そうやってればせんせに私のこと好きでいてもらえるんだって、思ってたからなんだよ」

 

 ならば、そんな自分自身のことを何一つ割り切れてなどいないアクアが、ルビーに何かを言えたものか。

 

「私は、嘘つきだったんだよ、せんせ」

 

 夢を仮託して、憧れさえ抱いて、結局吾郎は最後まで、彼女のことを、天童寺さりなのことを、理解してあげることさえできなかったというのに。

 

 

 

「……そうか」

 

 だからアクアは、ルビーが明かした彼女の「本当」に、その一言を返すことしかできない。

 去年の夏のことを、アクアは思い出す。図らずも「俳優・アクア」の出世作となったドラマの、そこで自らに課された役を掘り下げる中で、直視せざるを得なかった己の実像を。

 

 同じだ。今のルビーと、あの時の自分は。そう、アクアは断じた。

 自分自身の目的の為に、役者として立つために、「自らを掘り下げる」ことを選んだルビーが出した答えだというのなら、それは余人に否定できるものではない。無論、アクアにも。

 

「でも。それでも、俺には」

 

 けれども、その理屈を理解していてなお、それでもアクアは、ルビーに伝えたかった。伝えなければならなかった。どれほどに烏滸がましいことであろうとも。

 

「俺にとって君は、ずっとずっと『最推し』なんだ。君がなんて言おうと。今の話を聞いても」

 

 抱きしめた腕の中で、ルビーが息を、そして動きさえも止めた。全身で、アクアはそれを感じ取る。

 

「だって君は、ずっと輝いてた。君が俺に言ってくれた夢も、アイのことを話す時の目も、俺にとっては嘘じゃない。君が何と思っていても」

 

 同情心ではない。彼女自身の出した結論を否定したいわけでもない。

 

「嫌なことを一瞬も考えない人間なんて、いないだろ。ましてあの時の君が、みんなが持ってる『当たり前』が何もなかった君が、自分の境遇を全く恨まないなんて、その方がよっぽど嘘だ」

 

 言いたかっただけだ。ルビーがどう自身のことを評していようが、吾郎(アクア)の中に煌めいて残るあの記憶は、決して色褪せることはない。

 そう、主張したかっただけだった。

 

 抱きしめていた身体を離す。肩を掴んで、視線を真っすぐにルビーに向けた。

 

「だから、それでいいんだ。汚くなんてない。つまらなくなんてない。そんな君でいい」

 

 覗きこんだ彼女の瞳が、震えている。しかし、構いはしない。

 言うべきことも、伝えたいことも、心の中では固く定まっている。

 

「そういう君のことを、俺は応援したかった。俺にとっての『推し』なんだ。一番最初で、一番の」

 

 だからアクアは、躊躇うことなく言い切ってみせる。

 

「だって、そうだろ? 俺がアイのファンになったのは、さりなちゃん、君がアイのファンだったからだ。君がアイのことを推してなければ、俺がアイを推すこともなかった」

 

 目を見開いて、息がかかるほどの距離で見上げてくるルビーに、アクアは思いの丈を全て乗せるようにして、結ぶ言葉を口にした。

 

「それが君だ。俺にとっての君だ。『お前』になった今だって、変わってなんてない」

 

 そう断言する自分のことだけは、アクアは欠片も疑う気になれなかった。

 

 

 

 数秒の沈黙が互いの間を横切って、ルビーがふと俯く。

 小さく、息の漏れる音がした。吐息か、それとも声なき笑い声であったか。

 

 吐き出しきった空気と共に再び顔を上げた彼女の表情は、うっすらと、それでも確かな笑みの形を作っていた。

 微かな吸気の音と共に、唇が開く。

 

「……ありがと、お兄ちゃん」

 

 それは今この瞬間まで、ルビーの見せていた迷子のような当て所のない面持ちとは、無縁のものだった。

 声も、またそうだ。彼女の口から出てくる声は今、確かな芯というべきものを宿している。

 「星野ルビー」としての底抜けに明るいいつもの声色とも違う、しかし確かに好ましいと、頼もしいとさえ思えるような、自信を感じさせる響きだった。

 

「私も、そうだよ。『せんせ』が『お兄ちゃん』になった今も、ずっとずっと変わってない。せんせは今も昔も、私にとっては『最推し』だから」

 

 柔らかな表情と共に発された言葉に、アクアの胸がほんの数瞬、僅かに跳ねる。

 しかしそんな目の前の存在のことを知ってか知らずか、彼女は小さく首を振った。

 

「けど。それでも私は、もう今までの自分とはお別れしたい。嘘を吐く理由なんて、ないんだ」

 

 瞼が閉じられる。何かを想起しているかのように、諳んずるかのように、声が聞こえ続ける。

 

「『お母さん』のことも、もうお別れできたんだから。だから私は、いつまでも『天童寺さりな』のままではいられない」

 

 閉ざされていた双眸がそこで開かれ、再びアクアの目に入る。燦然と輝く、瞳の中の光も。

 

「だからさ、お兄ちゃん。私、一個だけ行きたいところが出来たんだよ」

「行きたいところ?」

「うん。宮崎」

 

 また、彼女は柔らかく笑んだ。両肩を掴んだままのアクアの腕に手が伸びて、優しい手つきで外そうとする。力の籠っていないそれは、あっさりとルビーの肩口から下りた。

 そのまま、アクアの腕をそれぞれの手で取ったままの姿勢で、ルビーは上目遣いにアクアの方を覗きこんでみせる。

 

「というか、高千穂。春に私たちのツアーあるでしょ? 確かあっちが公演先にあったはずだから、そのついでに寄りたくて」

 

 どうして。そう問いをかけようとして、その前にルビーの方から、答えが示された。

 

 

 

()()()()、行きたいんだ。私のお墓、高千穂にあるって、前お兄ちゃん言ってたでしょ」

 

 瞬間、アクアは理解する。理解させられた。

 

 

 

 きっと、象徴だった。

 かつて天童寺さりなであった自分を受け入れ、理解し、肯定し、そして割り切って、その上で「星野ルビー」として本当の意味で明日を生きていくための一歩を、彼女は踏み出そうとしている。

 

 あるいは、答えでもあるのかもしれない。

 かつて「お母さん」であった天童寺まりなと再会して、そして別れを告げた今、彼女の中の「天童寺さりな」と「星野ルビー」の二つの間にあったであろう揺らぎに、彼女は今確かな回答を与えることができたのかもしれない。

 

 だとしたら、それは強さだった。

 自身にとっては傷でしかないであろうそれと、彼女は正面から向き合った。その果てに得た、答えなのだから。

 同時に、「だからこそだ」とも、アクアは思った。そういう直向きさを、強さを持つ少女だからこそ、アクアはそんな彼女に対して、眩しささえも感じているのだと。

 

 ずっと、『推して』いるのだと。

 

 

 

「……いいんじゃないか」

 

 アクアは、ただ頷いた。

 

「けど、だったらそれ、俺も一緒に行かせてくれないか」

「お兄ちゃんも?」

「ああ」

 

 こてんと首を傾げたルビーを、ほんのわずかに見下ろす。

 

「俺ももう一度、ちゃんと君のお墓にお参りしたいと思ってる。君はもう、そこに眠ってはいないけど。それに」

 

 一瞬だけ、視線をルビーから外した。部屋の窓から、外を見る。

 気づけば日が傾き、夕景へと移り変わりつつある眺望の中に、沈みゆく太陽の紅が差し込んで、目に焼き付く。

 同時に、アクアの脳裏に一つの景色が蘇った。今この場所から見える光と同じ色の、鬼灯の色彩に映し出された、一軒の廃屋の姿が。

 

「多分その頃には、そろそろ俺も、もう一度向き合わないといけないって思うから。君と同じで」

 

 直接言葉にすることのなかったその風景を、意味するところを、しかし視界の隅にいるルビーは、きっと読み取ってくれたのだろう。

 視線を戻し、正面に相対した彼女が、静かに頷く。ずっと掴まれていた両の腕が、そこで放された。

 

 ふわり、と。そんな小さな笑顔が、見えた。

 

「そっか。じゃあ、約束だね」

 

 ルビーが、これ見よがしに小指を立てて掲げてみせる。胸の前に、どこか突きつけるように。

 思わず、小さな苦笑いを返していた。けれども、アクアもまた彼女と同じように、自らの右手を差し出す。

 小指を立てて、待ち構える彼女の同じ右の手に、そっと寄せた。

 

「――ああ。約束だ」

 

 互いを結ぶその場所で小指を絡ませ、小さく二度三度、縦に振る。

 それが、約束の合図だった。

 

 

 

 オーディションの実施まで、二週間と少し。

 舞台は少しずつ、しかし確かに、整わんとしている。

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