天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

61 / 84
5-8. 本物の貴方は

 「演技に、勝ち負けなんていうものはない」。それは兄の、アクアのずっと言ってきたことだった。

 

 役者の向き合うべきは、作品を措いて他にはない。

 出力となる作品が、それに携わる人々の思い描く理想にどれほど近づけるか。そこにどれほど寄与できるのか。己の向こうに対置されるは、だから常に自分だ。

 そういう意味では、敢えて勝ち負けを語るのならば、その相手はどこまで行っても己自身だ。それが、俳優としてのアクアの、謂わば主義主張だった。

 

 ――根っからの役者じゃないからかな、俺が。

 その話をするたびに、アクアはそう言って薄く笑う。

 アクアの語るその理屈は、まさに正論だ。つまるところその言葉は、あくまで理性から来るものである。

 しかし人は、元来そういった『正しさ』で動くものではない。もっと原始的な渇望や欲望、つまり感情に衝き動かされ、時には本能によって自ら進む道を選ぶものだ。

 

 「役者はどいつもこいつも、揃いも揃って負けず嫌いだ」。これもまた、アクアの持論だった。

 ルビーもまた、それには頷くところが多い。自身にとって役者として最も身近な存在たる有馬かなの振る舞いを見れば、自ずとそれを理解させられるからだ。

 彼女が持っている、演技に対する自負も、プライドの高さも。同時に、彼女がルビーの知るもう一人の女優に、黒川あかねに向ける視線のことも。

 

 彼女たちは、長く芸事の世界に身を置いてきたからこそ、その中で自分の演技の『柱』を作ってきたからこそ、自らの拠って立つ場所に、自らの演技に、おいそれと投げ棄てることのできない誇りを持っている。

 それは彼女たちが常に常に真摯に演技と向き合ってきたことの証でもある。それ故に、アクアの唱える謂わば綺麗事とは違う理屈のもとに、有馬かなは、また黒川あかねもきっと、自らの演技を戦わせるのだろう。

 

 

 

 そして今、ルビーはそんな役者たちの、矜持と矜持のぶつかり合いのステージに、いよいよ躍り出ようとしている。

 いかに「芝居は勝負ごとではない」と主張するアクアとて、これからルビーが臨まんとするものが、明確な勝者と敗者を生み出す無慈悲な場所であることは、理解していよう。

 なぜならこれはルビーにとって、自分と競合する役者を蹴落とすための儀式に他ならないのだから。

 そしてアクアにとっても、候補者の中から一人だけの勝者を定め、明白な優劣をつけるために行わなければならない、選別の過程であるのだから。

 

 つまり今日、まさに今この時、かねてより予定されていたオーディションが、始まろうとしている。

 映画「15年の嘘」の主演、アイ役を決めるための、非公開のオーディションが。

 

 候補者は、たったの二人だけ。

 

 片や、アイがかつて背負った看板、「B小町」の名を引き継ぎ、アイの辿った星の路を辿ろうと志したアイドルたる少女(自分)

 また片や、出世作の一つともなった恋愛リアリティーショーにて、その人となりを知るものならば誰しもが想起させられるほどに精緻な「アイドル・アイ」の姿を自身の上に再現してみせた、十代の女優としては最高の評価に至りつつある少女(相手)

 

 芸名、ルビー。職業、アイドル。

 芸名、黒川あかね。職業、女優。

 

 それこそが、この場における「選ばれる側」の全てだった。

 

 

 

 非公開のオーディションと言うからには、ここひと月ほどルビーがあかねと週に一度のレッスンに使っていたような小規模の貸会議室か、あるいは下手をすると五反田監督の持っているスタジオで済ませられることもあるかもしれないと思っていたルビーだったが、実際にオーディションの為に用意されたのは、都内の一等地にあるイベント会場のような会議室だった。

 

 その構えに、ルビーは理解した。肌身に沁みた。

 今回の映画は、確かに扱う題材こそ身近な人間(ルビーの母親)で、そして演じる役者もまた半分身内で固めているようなものではある。しかしそこには、もっと大きなお金の流れがあるし、ルビーにはきっと及びもつかないほどの、沢山の人が関わっているのだと。

 

 映画作りは、それも沢山の映画館でみんなに見てもらうような映画作りは、仲間内で閉じた状態では決して成り立たない。だから今、アクアはまさしくその渦中に立っている。制作側の、つまり責任者の一人として。

 そういう作品の中で、自分はアイの役を志そうとしている。それに対する自負が、自覚が、時を経るごとに次第に湧きあがってきていた。

 

 

 

 会議室脇に置かれた控室に、候補者の二人は今いる。片隅に長机が積まれ、パイプ椅子も畳まれた状態で数多く置かれている。その殺風景な空間の中に、ルビーは、そしてあかねも、腰掛けている。

 いや、そればかりではない。この空間には、もう一人だけ役者がいた。

 

「それで、どうなのよ、アンタ。調子は」

 

 その彼女が、腕を組みながらルビーのことを見据え、声をかけてくる。

 この場所にいるもう一人というのは、彼女だ。有馬かなだった。

 

「んー。まあ、やれることはやれたかなって」

 

 ルビーは、その理由を当然に知っている。

 

「先輩はどうなの? だって先輩、私とあかねちゃんに全くおんなじ演技しないといけないんでしょ?」

 

 問うた声に、それを受けたかなが笑い飛ばすかのように鼻を鳴らしてみせた。

 

「女優ナメんじゃないわよ、やれるに決まってんでしょうが。てか、それ出来なかったら他人の出したNGでリテイクかけられたとき詰むから」

 

 だから、そう――有馬かなは、今日のルビーたち二人の相手役なのだ。また同時に、審査員の一人でもある。

 ルビーたちの演じる「アイ」に対峙し、そのカットの中で暴言とも言うべき強い言葉を浴びせ、今回の課題の前提を作る『相手役』。その少女を、「ニノ(新野冬子)」を、彼女は演じる。

 

「ま、私は映画の撮影の先取りみたいなもんだし、気楽にやらせてもらうわ。当然、本気でやるけどね」

 

 いつもの通りの不敵な笑みで言ってのけて、かなはルビーから視線を外す。向いた先にいるのは、言わずもがなあかねだ。

 しかし、そのかなの振る舞いに先に反応したのは、むしろあかねの方だった。かなに先んじて、彼女が口を開く。

 

「かなちゃんとオーディションって言うと、なんか昔のこと思い出しちゃうなぁ」

 

 過去を思い起こす口ぶりだった。隣から見たあかねの横顔は、その声色と同じように、何かを想起せんとする趣を宿している。

 正面からそれを受けたかなが、一瞬首をこてんと横に倒す。

 

「昔? ……ああ」

 

 ただそれも、ほんの少しの間のことだった。何かに気がついたか、かなの表情が変わる。

 それは笑みだった。あかねと同じように、過ぎ去った時を懐かしむような。

 

「っつったって、五、六年前でしょ、あれ。昔って言うほどのことかしら」

「昔だよ。私たちまだ十八歳なんだから」

 

 混ぜっ返そうとしたかなに大上段で言葉を投げ返したあかねが、畳みかけるように言う。

 

「忘れてないよ、あの時のこと。忘れられない。まあ、かなちゃんとのことで忘れられるようなことなんて一個もないけどさ」

「それ、どういう意味かしら?」

「知ってるくせに」

 

 じゃれ合いのような、軽やかな応酬が重なる。ルビーにとっては蚊帳の外のことだが、しかし彼女たちの間で続けられる言葉のリレーは、そのリズムは、ルビーとしても嫌いではなかった。

 その最後、愉しげに上がっていた口角が、俄かに引き締まる。柔らかかった視線にも、傍目からわかるほどに力が入った。

 

「今日は、ルビーちゃんと勝負をする日。それは分かってる」

 

 途端に、それが横を向いた。ルビーの方に。

 

「この一か月で、ルビーちゃんはすごく演技がうまくなった。特に最後の二週間、はっきりルビーちゃんは変わった」

 

 ――お師匠のおかげかな?

 そう小さく付け加えつつ、ちらりとかなの方を見遣る。言葉もなく、またも鼻を鳴らしてみせたかなにくすりと笑みを返して、またあかねはルビーのことを視界の正面に据えた。

 

「だから、私も真剣だよ。今日の為に、ずっと準備してきた。そうしないと、ルビーちゃんには勝てないって思ったから」

 

 強い意思を感じる碧の双眸に、ルビー自身の像が小さく映る。

 己のしている表情は窺えない。今、自分はどんな顔で、目で、あかねのことを見返しているだろうか。分からず、しかし分かろうとも思わず、小さく会釈をするように、あかねに頭を下げた。

 

「だけどね」

 

 それを見届けるや、あかねは再びかなの方へと向き直る。

 

「今日のオーディション、私はリベンジだって思ってるから。あの時の」

 

 斯くして出てきた台詞は、紛れもなくルビーの知らない文脈の中に存在するものだ。

 けれども、まるで周囲の誰をも奮い立たせるかのような、強い決意を帯びた響きであることだけは、ルビーにも分かった。

 果たして、あかねの言葉を受けたかなが、まさにそれに反応するように、口の端を吊り上げる。

 

「そ」

 

 たった一音、同時に浮かんだのは、不敵な笑みだ。

 挑発に応えるかのように、柘榴の虹彩に剣呑な光が宿った。

 

「なら、楽しみにしてるわ。アンタのそれ」

 

 そして、かながそうあかねに言葉を返すのと同時、会場の方から設営の準備が整った旨のメッセージが届く。

 三人、無言で顔を見合わせる。誰とはなしに、頷き合った。

 

 

 

 席を立つ。場を引き払う。いよいよ、結実の時がやってくる。

 それでも、ルビーの心はどこまでも澄んで、そして凪いでいた。

 

 

 

 

 

 ルビーたち三人が呼び出され、そして立ち入ったオーディション会場は、数十人規模のキャパシティを持っていると思わせるカンファレンスルームだった。

 壁面は温かみのある木目調の壁材によって彩られていて、床には灰色と象牙色、二色からなるタイル状のカーペットが、市松模様を形成するように敷かれている。

 奥に待ち受けているのは、六人の人物だった。二つ並べた長机の上に等間隔に座って、こちらを見ている。

 

 男が四人、女が二人の人数構成だ。

 ご丁寧にコピー紙に大書した名札までが垂れ下がっていた。

 

 まず左端から、苺プロ社長夫妻、すなわち斉藤壱護に斉藤ミヤコ。

 その次、中央に居並ぶのが、制作陣の三人だ。監督の五反田泰志、助監督にして脚本のアクア、そしてプロデューサーの鏑木勝也。この並びの中央付近にアクアが陣取っているのに、なんだかおかしささえも感じてしまう。

 そして最後、六人の右端に、この場で催されるオーディションの役どころの原型、本人たる人物が、アイが、「星野アイ」が、座していた。

 

 目が合う。小さく笑って、手が振られた。

 本来ならば公私混同も甚だしいと言うべきなのかもしれないが、事程左様にこの場にいるのは身内の人間ばかりだ。それを分かっていて、アイもそういう振る舞いをしているのだろう。ルビーは小さく笑みを浮かべつつ、そんなアイに軽く会釈した。

 

 

 

 ルビーたち三人が所定の場所に立ち止まったところで、この場の主宰とも言える人物から、声が上げられる。

 

「では、これより映画『15年の嘘』、アイ役のキャストオーディションを始めます」

 

 壮年の男の声だ。いささか畏まったようにさえ聞こえるそれは、まさしく彼の、鏑木プロデューサーのものだった。

 そこから始まるのは、このオーディション全体の取り決め事や選考の方法、結果の通知にまで及ぶ、所謂レギュレーションの説明である。言い換えるならば、『お約束の言葉』となるだろう。

 ルビーは、否、この場にいる候補者の二人はともに、もうすでに今回のオーディションのレギュレーションについては熟知している。念のため聞き漏らさないように耳を傾けつつも、語られる言葉は既に知っているものばかりだ。

 

 当然、鏑木の方もそれについては分かっているのだろう。彼の説明は比較的あっさりと切り上げられ、そしてそこからすぐさまに、本題へと入った。

 

「早速ですが、これから審査に入ります。既にお配りしている番号札の順序でお呼びしますので、それぞれ決められた位置に立って、番号、所属、そしてお名前を名乗っていただいた上で、課題の演技に入ってください」

 

 何のボルテージも感じない、事務的な説明である。しかしその裏で、ルビーは確かにいよいよ始まる本番への気持ちの高まりを、確かに感じている。

 緊張、ではない。物怖じしてもいない。そこにあるのは、静かな興奮だった。

 

 どうしてだろうか。兄が、そして母が見てくれているこの場所で、自分の積んできた『成果』を披露することができるから、だろうか。

 それとも、星野ルビーという人間の心の奥底に形成された「内なる星野アイ」が、自らを解き放つべき時を、待ち遠しく思っているからなのだろうか。

 

 

 

 三人の並びの中、審査員側のスタッフでもある少女が、有馬かなが、その赤銅の髪をわずかに揺らしながら、この広い演技スペースの右側、所謂下手側につく。向かいあう審査員の側からすれば左側だ。

 彼女が所定の場所についたことで、準備が整う。「それでは、一番の方」と、そう番号で呼ばれ、奥に立っていた場所から、前へと進み出る。

 居並ぶ六人の目の前に立ち止まって、ルビーは声を張り上げた。

 

「一番、苺プロ所属、ルビーです! よろしくお願いします!」

 

 元気に、明るく、笑顔で。

 しかし、それはここまでのことだ。

 

 己の上に作り上げていた、「ルビー」のフィルターを外す。「わたし」は「わたし」として、深層に潜る。

 目を瞑って、『そこ』に触れた。それを、呼び起した。

 

 深呼吸を、二度。下手を向いて、瞼を開く。

 

 別の色彩を帯びた「私」の世界が、そこには広がっていた。

 ルビーの、「アイ」としての演技が、幕を開けた。

 

 

 

 

 

 舞台は楽屋。この場にいるのは、たった二人だけ。

 髪にはパンダの飾り、緑のアイドル衣装を纏った少女、「ニノ」と、そしてアイがここにはいる。

 ただ、今回はオーディションだ。劇中の衣装指定通りの格好をしているわけではない。互いに、ただの普段着でここには立っている。いや、座っている。

 

 楽屋の中、鏡に向かって座りながらもおやつを食べているアイに、背中から声がかかった。

 

『アイはさ、いいよね』

 

 まるで独り言のようなニノのそれに、どうしたのかと振り返る。本当に、単純な疑問だけが表情を作っている、きょとんとした顔つきだ。

 

『みんなに好きって言ってもらえて、可愛いって言ってもらえて』

 

 ニノの言葉は止まらない。恨み言のような、そのセリフが。

 

『私たち全員、束になっても敵わない』

 

 それとも、羨望の言葉だろうか。

 

『私も、アイみたいに生まれたかった』

 

 顔を上げる。涙をこらえるかのように、彼女の表情が歪んだ。

 

 

 

 このカットの設定は、アイがB小町に参加してから半年ほどが経った、とあるライブのあとということになっている。

 先代B小町は、その立ち上げにおいて、厳密に言えばアイは最初からいたメンバーではない。とある『事情』があって、彼女は初期メンバーでありつつも、グループへの参加が半年ほど遅れていた。

 そしてそれまでの間、実質的なセンター役を務めていたのが、ニノ――新野冬子である。

 

 アイが参加するまでの半年間と、アイが参加してからの半年間は、B小町と言うグループを劇的に変質させた。

 中学生モデル上がりを集めた凡百の地下アイドルが、ブレイクの予感を覚えさせる、所謂「次に来るオーラ」を持ったアイドルグループに変貌した。しかしその代償として、グループはもはや「グループ」ではなくなった。

 

 「アイとゆかいな仲間たち」。客観的に見て、B小町の実質的な構造はそれだ。アイが参加してから三か月も経たないうちに、そういう風に変わってしまった。

 誰が望んだからでもない。きっと、アイでさえも。しかし、アイという人間の持つ異様なまでの引力は、グループに不可逆な変化をもたらしていた。それは誰に止められるものでもなかった。

 

 

 

 この日のライブもそうだった。地下アイドルという、ファンとアイドルの距離の近いコミュニティにおいては、人気というのは残酷なほどに可視化される。

 うちわの数、上がる歓声の量、コールの量。チェキに並ぶファンの数。文字通り、B小町においてそれはアイ一人に対して()()()()の数字を足し合わせても、なお及ばない。既存のファンも雪崩を打って『推し変』していたし、新規のファン層は揃いも揃ってアイ目当てだからだ。

 それを肌で感じ、すぐそばで見ざるを得ない「先代のセンター(新野冬子)」の心情は、果たして如何ばかりか。

 

 

 

『そう? でも私はニノみたいに生まれたかったって思うよ』

 

 だから、そんなニノの恨み節に対してしらを切るかのように素気なくそう答えたアイの言葉に、激高してしまう。

 

『適当言わないでよ……そんなわけないじゃん』

 

 最初は静かな反駁だったものが、言葉を一つ重ねるごとに感情を帯びていく。

 

『じゃあさ。誰でもいいから、みんなに訊いてみよっか? 私たち二人並んでさ、「どっちの方が可愛いですか」って』

 

 塗り籠められた感情は、びりびりと空気を揺らして拡散していくほどだ。

 

『どっちと付き合いたい? どっちの方が魅力的? 訊くまでもないよね』

 

 自嘲、憤怒、憎悪、羨望。そして――ともすれば、信奉さえも。

 

『「アイ」、「アイ」、「アイ」「アイ」「アイ」「アイ」――「アイ」ッ! みんなアイッ! ファンだってそうッ!』

 

 しかしそれを聞いていてもなお、そんな強烈な感情を叩きつけられていてもなお、アイは一つとして表情を変えない。

 

『そう? 流石にそんなことはないと思うけど』

『そんなことあるから、今の私たちがあるんでしょうッ!?』

 

 だからこそ、ニノの心は更に荒ぶる。まるで、自身の抱えている苦悩をせせら笑っているかのように、思えてならなかったから。

 

『……アンタって、ホント私たちのことに興味ないよね』

『そんなこと、ないけど』

『嘘言わないでよッ!』

 

 足を踏み鳴らして、大股で、ニノがアイの傍まで歩み寄る。威嚇するかのように、座ったアイを見下ろした。

 指をつきつけ、叫ぶように、絞り出すように、声を荒らげる。

 

『どうでもいいんでしょう! 私たちがどれだけレッスン頑張ってても、ファンサ真面目にやってもッ! アンタからしたら『同僚のAさんBさんがなんか頑張ってるな』って、それだけなんでしょどうせッ!』

『そんなこと――』

『うるさいッ! 聞きたくないッ! アンタみたいな「ウソツキ」の言葉なんてッ!』

 

 とうとう、ニノの瞳からは涙が溢れ出す。

 反応するように、弾かれたようにアイが立ち上がった。ニノに向かって答えようと、声をかけようとする。

 しかしそれを、ニノは大きな身振りで拒絶した。全身をもって、振り払うように。

 

『嫌い! 大ッ嫌い! アンタなんて――』

 

 そして、言い放った。

 

『――死んじゃえばいいのにッ!!』

 

 致命的な、取り返しのつかない、その一言を。

 決裂の言葉を。

 

 

 

 動きが止まる。アイの身体が。

 伸ばそうとしていた彼女の手が、まるで糸が切れたかのように、だらりと落ちた。

 

 表情が変わる。気遣うかのような顔でニノに相対しようとしていたアイの顔が。

 まるで何も気にしていないかのような、感情の窺えない笑顔へと。

 

 それを真正面から見せつけられて、ニノはアイに背を向けた。まるで逃げるように、その場を立ち去っていく。

 斯くしてこの楽屋にはただ一人、アイだけが残った。

 

 

 

 

 

 その一部始終を演じながら、「アイ」より離れた冷静な部分が、ルビーの己を俯瞰する部分が、思う。

 ――先輩、やっぱりすごい。こんなに『ビリビリ』くるなんて。

 

 今まで、ルビーは有馬かなの演技というものを、ただ横から見ているだけだった。彼女の目の前で、当事者として、彼女が誰かを演じる姿を、その情動を受けることなどなかった。

 しかし今、目の前にいるかな(ニノ)ルビー(アイ)にぶちまけたものは、どこまでも「本物」だ。強烈に、それを思わされる。

 これ以上、彼女に対して「重曹を舐める天才子役」などとからかいの言葉をかけるのは、もはや不遜だとさえ思ってしまうぐらいに。

 

 ただ同時に、ルビーは考えていた。

 つまりここからが、本題だと。より一層、『深い場所』に潜らなければならないのだと。

 

 

 

 今回のオーディションの課題となっている台本は、実際の映画の中においても使われる実カットである。

 何回も公演されている舞台の公開オーディションならまだしも、未公開の映画の配役を決めるクローズドなオーディションとしては、異例も異例だ。

 ただ、理由はある。このオーディションに参加している二人の候補者――ルビーとあかねの双方が、アイ役に選ばれなかったとしてもこの映画の中自体には配役が存在するためだ。

 敢えて言葉を換えるならば、今回のオーディションのためだけにわざわざ特別な用意をせずとも、どの道ルビーとあかねはそれぞれ台本の初稿を手にしているわけで、そこを伏せておく特段の理由はない、ということである。

 

 それが意味することは、明快だ。このオーディションに使われている場面については、ルビーにせよあかねにせよ、この先の部分、つまり現状の制作陣が想定している『正解』を、知っているということだ。

 

 台本には、こうある。

 


 

 ニノ「嫌い! 大ッ嫌い! アンタなんて、死んじゃえばいいのに!」

 

 アイ、ニノに伸ばした手をだらりと垂れ下げる。ニノに笑顔を見せる。

 ニノ、涙を拭い、アイに背を向ける。そのまま楽屋から逃げるように立ち去る。

 アイ、脱力し、椅子に座りこむ。苦笑し、天井を見上げる。

 

 アイ「あーあ、嫌われちゃったなぁ」

 


 

 これだけだ。つまり現状の彼らの想定では、ルビーは今の表情のままに椅子に座りこんで、天を仰いで、その一言をただ発するだけでよい。無論、そこにどういう感情を込めるかは役者の裁量であるとはいえ、アクションとしては単純なものだと言えるだろう。

 

 ならば、今この場所において、ルビーはそれを単になぞればよいのか。――そんなわけがない。

 そうであるのならば、五反田監督にせよアクアにせよ、この場面をわざわざ課題になど選ばない。

 

 どういうことか。つまり彼らは、現状の台本におけるこの部分に、全く納得がいっていないのだ。

 

 今回の映画は事実を基にしたドキュメンタリーの側面を持つ。この場面にしても、それは同じだ。おそらくは実際にアイとニノとの間に起きたことが基となっている。

 だからその内容を書き上げるにあたって、アクアは、あるいは五反田監督は、当時を知る人間に聞き込みをしたのだろう。無論のこと、それは『本人』であるアイだ。

 そして彼女は、きっと言ったに違いない。「んー。まあ、『あーあ、嫌われちゃったなぁ』って感じだったかなー」、などと。

 その様子は、まさに目の前に浮かぶようだ。声さえも、脳裏に容易に再現できる。

 

 本人がそう言ったのだから、とりあえずそう書くしかない。「脚色のない、本物を映し出す」ことこそが、今回の映画の目的だと、そうアクアは宣言していたのだから。

 しかし同時に、それで納得したとは決して言っていない。彼女の口から語られた『事実』が、アイの、「星野アイ」の本当だと、きっと二人ともに思っていないのだ。

 

 だから今、彼らはそれを候補者に訊ねている。「貴方の思う、『本物の星野アイ』とは、何ですか」と。その答えを自らの頭で考えて演じて、結果としてより『本物』を描けていると思った人間の方を、アイ役として採用するつもりなのだ。

 

 

 

 つまり今問われているのは、必ずしも演技力ではないということである。無論、一定水準を超える演技力が必要なのは間違いないが、それ以上の超抜的技巧が必要とされているわけではない。だからこそ、ルビーにも勝ち目がある。

 

 ならば、今の自分はどうすべきか。残りのアクションにおいて、どういうアイの姿を、見せるべきか。

 

 問いかける。自身の中に眠るかつての、十二歳、あるいは十三歳の姿の、内なるアイに。

 それは昔日のさりなと同じだ。愛を欲し、しかしそれが与えられなかったことを理解して、なおも見ないふりをして、誰かに愛して欲しいと『理想の自分』の仮面をかぶり続け、『他者が期待する自分』を演じ続けた。

 

 あの時の天童寺さりなという人間の影法師が、ルビーの思惟の中で形を変える。

 艶やかな黒髪、頭にウサギの髪飾り、紫紺の双眸、光宿す瞳、誰にも羨望される美貌、桃色のアイドル衣装。

 組み上げられた像が、暗闇の中でルビーを見る。ついさっきまで、ルビーがアイ役として浮かべていたものと全く同じであろう笑顔を、彼女は浮かべている。

 しかし、分かった。理解できてしまった。その裏側にあるものを。抱えているものを。

 

 だって今の彼女の表情は、こんなにも雄弁だ。それを読み取るのは、これほどまでに簡単だ。

 

 だってそれは、かつて天童寺さりなが中で抱え続けてきた、押し殺し続けてきた思いと、同じなのだから。

 

 ルビーの伸ばした指先が、自らを見つめ返す母の、少女の、アイの頬に、触れる。

 その温度を感じた瞬間、裡にこみ上げた『堪えようのない激烈な情動』と共に、ルビーは現実へと立ち返った。

 

 そして、荒れ狂う衝動に、ただ身を委ねた。

 

 

 

 

 

 

 

 その場からニノ(有馬かな)が立ち去って暫く、ルビーはまるで静止画のように動かなかった。

 寸前まで確かに放っていた、まさにアイと見まがうほどの圧倒的な存在感が、全て消失したかのようだった。

 

 二秒、三秒、そして五秒。その場の悉くが死に絶えたとさえ錯覚するほどに停滞した空気が、しかしそこで、ふと揺らぐ。

 視線を、吸い寄せられる。まだ、目の前の少女は、「アイ(ルビー)」は、動いてさえいないというのに。

 

 生じた違和感を誰もが意識して、だからこそ些細な変化さえも見逃さぬように、無意識にルビーの一挙一動に着目させられて――故に直後、彼女か起こした行動を、その場にいる人々は全員が、真正面から目の当たりにすることになった。

 

 

 

 何かが空を切る音がした。下手側の壁にそれがぶつかって、軽い音を立てる。

 誘導された目線の先、床に転がっていたのはプラスチックの容器だ。小物として与えられていた、プリンの入っていた空の容器だった。

 ついさっきまで、『彼女』がずっと手に抱えていたものだった。

 

 視線を戻す。そこにいたのは、「アイ」だ。いや、ルビーだ。

 何かを投げつけたあとの、腕を振りかぶった姿勢で、言葉もなく、ただ顔を伏せていた。

 

『――』

 

 微かな声が聞こえる。言葉として判別できないほどの、小さな小さな呟きが。

 しかしすぐに、彼女はそれをもう一度、より大きな声で繰り返した。

 

『なに、それ』

 

 肩が震える。伏せられたままの顔が、小さく振られる。だらりと垂れ下がった黄金色(濡羽色)の長い髪が、その毛先が揺れる。

 呼吸の音が聞こえた。二度、そして三度。ゆっくり、顔が上がる。

 

『興味ないのは、君たちじゃん』

 

 そこに見えた表情に、あかねは息すらも忘れた。

 

 

 

『ふざけないでよ』

 

 ルビーは、涙を流していた。

 涙を流したまま、そうやって嗤っていた。

 

 

 

 あかねは理解した。ルビーがアイという人間の中核を、何であると判断したか。

 

 ルビーが、よろめくように後ずさる。一歩、二歩。元いた場所に、椅子の上に戻っていく。

 そして、バランスでも崩したかのように、すとんと腰を落とした。全身の力が抜けたかのように。

 

 その一挙一動からも、あかねはルビーの答えを感じ取る。

 「怒り」だ。身体の制御も利かないほどの、力さえ入らなくなるほどの内なる怒りが、静かな怒りが、彼女の演じる「アイ」からは漏れ出している。

 

 また、「アイ」が顔を伏せた。表情が窺えなくなる。

 ただその直前まで、確かに彼女は自らの顔に笑顔を張り付けていたのだ。

 唇は弧を描いていて、しかし同時に、目からは涙がずっと流れ続けていた。

 

 ルビーが今演じているアイは、その憤りを二つの方向へと向けている。

 『他者』と『自己』だ。そう、あかねは分析した。

 

 あかねの中でかつて整理された、「生身の人間」としてのアイの人物造型に、今回の映画の台本に描写される登場人物としての「アイ」のキャラクターを重ねる。

 浮かび上がるのは、『孤独』だった。社会から見える自分、社会に対してそう振舞わざるを得ない自分、誰からも疎外され続けている、自分。

 選んだのか、選ばされたのか。理解して欲しいのか、理解してほしくないのか。内心に渦巻くのはアンビバレントな感情で、故にきっとルビーは、そんなアイの本質を、『怒り』だと解釈した。自分のことを理解してくれない世間への怒りと、頑なに世界から目を背け続けている自分自身への怒りに。

 

 故に今、ルビーはこの一幕をこう結ぶ。

 伏せられていた顔が上がった時、その表情からは内心の激情の、葛藤の全てが抜け落ちていた。

 そして、ポツリと口にする。

 

『嫌われちゃったなぁ』

 

 それはいつもの、聞き慣れたアイの口調だった。

 発していた憤りの全てを飲み込み、「世間が期待するアイとしての仮面」を完璧にかぶり直した、アイの姿だった。

 

 

 

 

 

「――以上です。ありがとうございました」

 

 この場に強い余韻を、重い沈黙さえも残して、ルビーの演技が終わる。彼女の「答え」は、今ここに示された。

 

 

 

 その全てを見届けたあかねは、正直なところ衝撃さえも受けていた。

 

 今この時、眼前でルビーの披露した「アイ」の演技は、途轍もない説得力を持って、それを見る人の胸を貫いていた。あかね自身さえ、その例には漏れない。

 それを証拠に、一礼と共に元いた場所へと引き下がっていくルビーを他所に、誰も彼も、この場において口さえも開けなくなっていた。彼女が舞台の中央から立ち去ってなお、この空間はしわぶき一つない静寂によって満たされていた。

 

 彼女が何でもこなせる器用な少女であることは、あかねとて知っている。

 これまで五度ほどあった「演技のレッスン」の中で、あかねが見るルビーの演技力は回を重ねるたびに段違いの向上を見せていた。彼女がそういう、所謂「持てる者」だということを知っていたからこそ、あかねもこの場に生半可な覚悟では臨めないのだと、気合を入れてきたのだから。

 

 ただ、それでもそのレッスンの間に、彼女が見せる芝居がこれほどの『力』を宿していたことは、流石に一度もなかった。息が詰まるほどの密度の感情を、その演技から感じたことも。

 

 同じなのだろうか、彼女も。つまり、「彼」と。

 思えば彼女の兄、アクアという青年にも、あかねはそれを感じていた。稽古の時に見せる小器用な立ち回りとは裏腹に、彼は本番にあって、俄かに「他者を呑みこむ強烈な引力」を見せつける。東京ブレイドの時、それをあかねは間近にずっと感じ取っていた。あのドラマ、「薄明」において見せていた、画面の外にさえも漏れ出してくる狂気の演技からも。

 だから今、ルビーがこのオーディションの中で発露させた感情の塊は、それが生み出す普段の稽古との落差は、二人が双子の兄妹である、その血の強さというものさえ、あかねに意識させる。

 

 ――既に恐ろしいのに、末恐ろしい。

 本気で、あかねはそう思っていた。かつてあの高千穂の地で、軽い気持ちでルビーに対して提案した「演技への道」の誘いは、ともすれば若手女優の世界に凄まじい怪物を解き放ってしまったのではないかという空恐ろしい想像さえ、あかねの脳裏には走った。

 「だからこそ演りがいがあるというものだ」という、高揚感も。そして――

 

 「けれども、それでも今日のルビーちゃんのこれは、ただルビーちゃんが凄いばかりの話では、多分ないのだろう」、とも。

 

 

 

 あかねにとって、今のこのシチュエーション――「オーディション」と「有馬かな」、そして「ペア演技」の三つの組み合わせは、過去のとある出来事をどうしようもなく想起させる。

 それはあかねが十二歳頃のこと、児童劇団の「劇団あじさい」から、今の所属である「劇団ララライ」へと移籍をする前後の時期にあった、とある舞台のヒロインオーディションに参加したときの顛末だ。

 

 今もなお成人でない黒川あかねは客観的に見て子供であることに相違ないが、それでもその時のあかねは今よりもなお幼く、未熟で、そして短慮だった。

 演技もそうだ。正直なところ、劇団あじさいにいた頃のあかねは、自身の演技のやり方を確立できているわけでもない、いわば「どこにでもいるような子役」に過ぎなかった。最低でも、そう自分自身では認識している。

 確かに、あじさいの中でお芝居をしていたときにも、「あかねちゃんは目の付け所が他の子たちと違って面白いわね」、などと多少の誉め言葉をかけてもらったことこそありはした。あの劇団の中で、主催の女性――「岡村」という名字の、芸歴十五年を超える女優でもあった――が、ずっと自分のことを目にかけてくれていたのも、よく憶えている。

 しかしそれでも、その時の自分は、劇団あじさいという閉じた世界の中でさえ、抜きん出た実績も、他を圧するほどの演技の力も、決して持ってはいなかった。

 

 その全てが変わったのが、あの日だった。

 

 「虹野修吾」という演出家が企画した、「奇抜」を絵に描いたようなオーディション。

 そこで五、六年ぶりに相見えた「有馬かな」という子役。

 そして――そんな彼女と共に挑むことになった、ペア演技も。

 

 たった半日の出来事が、ともすればあかねの以降の人生さえも変えた。

 あの日のことがなければ、あかねは劇団ララライには入らなかったかもしれない。役者を続けることさえ、していなかったかもしれない。

 「恋愛リアリティーショー」などという、到底自分には向いていない無謀な挑戦をすることもなかっただろう。

 

 ならばその自分は、『彼』には決して出会わなかった。

 この場所にも、立つことはなかった。

 

 

 

 だからあの日のあの経験はあかねにとってかけがえのないほどに大切なことで、しかし同時に、『今までずっと返せずにいた借り』でもあった。

 

 ペア演技終盤の、あの出来事を思う。「慈愛の女神」の課題演技の終盤、有馬かなの扮する村娘が見せた、「屈服した少女」の芝居を。

 

 曰くそれは、「共演する相手を引き立たせ、飾り立てる、月のような『受け』の演技」だという。

 しかしあかねにとって、かながあの瞬間、土壇場で見せた『事前の合意による演技プランを反故にした振舞い』は、到底許せるものではなかった。だからこそ、あかねはそんなかなの演技が嫌いだった。ずっとずっと、大嫌いだった。

 

 ただ、それだけではない。あかねがかなの『月の演技』を嫌う理由は、もう一つあった。

 

 『恐ろしい』のだ。彼女がああいう演技を選んだときは。

 

 ――何が、月の演技だ。かなちゃんのあれは、自分の解釈で人の演技を塗りつぶして、自分の思い通りに操っているようなものではないか。

 そんな風にすら、あかねは思う。

 

 確かにそれは、有馬かなの受けの演技は、その相手となる役者の演技を引き立て、引き上げ、際立たせるのだろう。芝居全体のクオリティも、彼女の力によって間違いなく向上するのだろう。

 しかし、あれはその実、有馬かなが周りの人間をコントロールして、自分の世界に『引きずり込んだ』結果の産物だ。

 つまり彼女は、自分の芝居を、自分の解釈を、場の全員に無意識のうちに押し付けて、他人の芝居をそっくり乗っ取ってしまう。上書きしてしまう。

 

 彼女自身が前に出て、その輝きでありとあらゆる観衆の目を奪わんとする『太陽のような演技』と、それは同じコインの表裏だ。同時に、それよりもよほどにわがままで、陰湿で、利己的なものだ。

 だから、あかねは有馬かなのあの演技が嫌いだった。嫌いになった。その意識を植え付けられたのが、他でもないあの日の「慈愛の女神」のペア演技だった。

 あの日あかねは、かなによって無理矢理に自身の芝居のレベルを『引き上げ』られ、結果彼女の思うままの「醜悪な女神」を、利己心の怪物のような女神を、演じ『させられた』。

 あの瞬間、事前の取り決めをぶち壊しにしてスタンドプレイに走ったかなに対してあかねの懐いた煮えたぎるような怒りさえも、彼女は余すところなく使ってみせたのだ。どこまでも傲慢に、そして自分勝手に。

 それが意識的なものか、無意識の産物かは、今もなお分からないけれども。

 

 そして、それはきっと今日にしても同じだ。

 今目の前で見せられたルビーの演技の、その緻密とも言える感情のディテールは、ルビー自身がここひと月ほど培ってきたであろう演技力の限界を、もはや超越している。いくら彼女がアクアと同じ、本番に『降りてくる』タイプの役者だったとて、ここまでの跳躍を彼女一人の力だけで実現するのは、流石に非現実的だろう。

 ならば、その差を埋めたのは、まさしく彼女の相手役として「ニノ」を演じた有馬かなを措いて他にはいない。

 

 ルビーは、それに気がついただろうか。いや、きっと気がつかなかっただろう。

 なにせあの日、あの「慈愛の女神」のオーディションが終わっても、あかねは自らの上に起こった事態の真相に、つまりあの時有馬かながどういうやり方で自分のことを『照らして』みせたのか、そのカラクリにはまだ辿り着けなかったのだから。

 

 

 

 迷惑な人だ。そう思いもする。目の前の役者の実力を、実力以上のレベルまで引き上げてしまう有馬かなは、現時点で「審査対象」となる候補者の力を、額面通りに評価することを難しくさせる。審査員泣かせ、と言っていいかもしれない。

 

 けれども、もはや今のあかねは、それに臆することなどありはしない。

 だから、なんだというのだ。今のあかねは、今の黒川あかねは、そんな有馬かなの受けの演技()()()に塗りつぶされてしまうほどの薄っぺらい演技の基盤しか具備していないわけではない。あの時の自分とは、もう違うのだから。

 

 そうだ。「黒川あかね」は今ここで、「黒川あかね」のままに、「アイ」を貫徹してみせる。他の誰でもない、「黒川あかね」の「アイ」を、この場において主張してみせる。

 

 あかねは、誰にも負けるつもりはない。ルビーにも、かなにも。いや、今目の前でこちらのことをずっと見ている、「アイ(本人)」にさえも。

 

 そう、約束したからだ。他でもない、「君」に。

 黒川あかねという女優に、「アイ」を、自らの母を託すと決めてくれた、あなたに。

 

 

 

 故に今、あかねは進む。静寂に支配された、このカンファレンスルームの中を。

 しずしずと歩み、その場の中心に到り、立ち止まる。

 唇を、小さく開く。息を吸って、声を上げた。

 

「二番。ライトスタッフプロモーション所属、黒川あかねです。よろしくお願いします」

 

 一礼をし、その流れのままに目を閉じる。

 裡に昂っていた意気が、すっと色を失くす。どこまでも透明な世界が、あかねを迎える。

 

 思惟の畔、水面に立って、意識を無に、心象の中に描き出される姿を見る。

 呼吸を、更に一つ。心の奥底で、思い描いた『少女』の影が、水鏡に映る自身の姿に、瞬間、重なった。

 

 目を開ける。世界と再会する。正面に立つ、「ニノ」を見る。

 刹那、『心の中に突沸した心情』を、「アイ」は圧し潰す。努めて笑顔を浮かべて、『いつもの笑顔』を浮かべて、ニノを見据えた。

 

 僅かほどの停滞が二人の間に走り、果たして直後、ニノはまたゆっくりと歩みを始める。

 それを目の端に納めて、アイは彼女に背を向けた。パイプ椅子に座って、プリンの容器をおもむろに手に取った。

 

 

 

『アイはさ、いいよね』

 

 一度目のそれと寸分違わぬ響きの声が、背中から聞こえる。

 

 黒川あかねのオーディションが、アイにとっての決別の時間が、始まった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。