椅子に座り、手の中に持ったプリンのカップに目を注いでいた少女が、後ろから掛けられた言葉に小さく肩を震わせ、振り返る。
たったそれだけの動きで、あの少女は、「
自身の妹が、ルビーがつい先刻このオーディションの場で見せた演技は、間違いなくこの場にいた並みいる人々の度肝を抜くものだった。
「本物のアイを描く」。「15年の嘘」という映画の方針をそこに置いている以上、「アイを演じる」ということに妥協など許されない。このオーディションは、アイ役を志望する候補者たちにとっての「本物のアイ」の定義を披露する場でもあると言えた。
だからこそ彼女が、「ニノとの決別」の最後に爆発させた感情に、アクアは確かな説得力の存在を認めた。そうせざるを得なかった。
彼女の答えは、つまり『怒り』だった。ルビーはあの演技を通して、「アイの内面の根源には常に『怒り』が存在していた」と、そう主張していた。
「本当の自分を、誰も分かってはくれない」。「理解しようともしない」。そんな他者に対する憤りと、「そういう風にしか振舞うことのできない」自分への怒り。その両面を抱え、同時に押し殺しているのが、アイの在り方だったのだと。
何故ルビーが、今日この場所でそういう答えに行き着いたのか、アクアはほんの少しだけその事情を察するところがあった。
いや、寧ろ気づかなければおかしいだろう。遡ること二週間と少し前、ルビーが――否、天童寺さりなが直面することになった『現実』のことは、それを間近で見ていたアクアにとっても、まるで昨日のことのように思い出せるのだから。
いずれにしても、確かにそれは一面におけるアイという少女の本質、答えなのかもしれない。アクアは、図らずもルビーの見せた演技に、説得させられる部分があった。
同時に、その説得力とは、彼女の見せる感情の大きさに、その迫真さによるものだけではない。演技そのものの質も、大いに寄与していた。
表情の作り方一つからして、確かにあの瞬間、あの場所にいたのはルビーではなく「アイ」だった。それほどに、彼女は「アイ」を作りこんできていた。特に、その喋り方と、そして浮かべる笑顔だ。
なるほど、普段からよく自らの母親を観察しているということなのだろう。そしてそれを確かに自分の身体の上に再現させることのできるだけの身体感覚を、今のルビーは持っていた。
オーディションが決まってから、一か月と少しの間しかなかった演技の練習の期間で、これほどに自らの実力を磨き上げてきた彼女は、我が妹という身贔屓を抜きにしても、尋常ならざる能力の片鱗を、確かに見せている。
「本物のアイ」を撮りたいという要求を前にして、「絶対的な演技力の問題」は常にリスクたりうる。
しかしルビーは自らの演技によって、そしてその成長性の高さを示すことによって、自身の能力が必要な水準を満たしていることを、並みいる審査員に対して証明した。
だから総じて、今のルビーの演技は、絶対的評価という意味においては「アイ役」を務めるに十分な素養というものを、確かにアクアたちに提示していた。もし候補者が彼女一人だけであるというのであれば、そして映画の背後に横たわる「事情」のことさえ考えなければ、無条件にルビーに対してアイの役をオファーしてもよいぐらいには。
しかし、違う。そんな予断を、「彼女」が許すはずもない。
今この瞬間、それまでルビーに対して確かに吹いていた「追い風」のような空気が、強引に覆された。吹き飛ばされていた。
それをやって見せたのは、言うまでもなく彼女だ。黒川あかねだった。
あかねは、かなの扮するニノから声をかけられた直後の、一秒にも満たない身振りだけで、この場の全てを一気に『持って行った』。
呼吸、手足の使い方、間合いの取り方に、無意識の反射から出てくる微細な指の先の震え方に至るまで。
その何もかもが、アイだった。理屈ではなく、それを理解させられた。
分かっているはずだった。初めてアクアが彼女の演技における異常性を理解したあの日、今ガチの撮影の中で見せつけられた変貌を、「アイ」を宿した彼女の異質さを、誰よりも近い場所で目の当たりにすることになったのは、他でもないアクア自身であるのだから。
それでも、アクアが今この場で見せられているあかねの「アイ」は、あの時アクアが見ていたそれに比べても、まるで比較にならないほどの凄まじい解像度を持っていた。
これが、本当の意味での「女優・黒川あかねの本気」であるということなのだろうか。
目の前で、ルビーのあの情動に強く訴えかけてくる、並々ならぬ気迫を帯びた演技を見たからこそ、触発された部分があったのだと、そういうことであろうか。
最初の一秒で衆目を一身に集めきったあかねは、そこからいよいよ課題となる演技を進めていく。先ほどルビーが「ニノ」――つまりかなと交わしていた「アイ」としての会話と、寸分違わず同じものだ。当たり前ではある。同じ台本を使っているのだから。
『私も、アイみたいに生まれたかった』
『そう? でも私はニノみたいに生まれたかったって思うよ』
『適当言わないでよ……そんなわけないじゃん』
それでも、その言葉の中に宿る響きは、確かに二人ともに違うものだと理解する。
演技の方針は、その大枠は、ルビーと変わらない。どこか空っぽな、薄っぺらとさえ言える笑みと、本気とも嘘ともつかない、周囲から浮いて聞こえるような言葉遣いは、対面で身を切るほどの感情を込めながらアイに対する恨み節を吐き続ける
しかし、やはり両者の演技の間には、決定的な相違というものが存在していた。
演技の全てを見終えたことで、アクアは理解する。ルビーが演じていた「アイ」は、その語り口一つ一つにさえ、憤りを内包させていたと。その情動を織り込んで、ルビーは演技をしていた。意識していたのか、そうではないのかは、分からないけれども。
ルビーにとって、アイの能面のような、人間らしさを感じさせない笑みは、外へと向ける怒りの感情を塗りつぶすための仮面のようなものだった。そう、彼女は見做したのだろう。
だからこそ、あとからもう一度「
ルビーの演じた「アイ」は、情念の深い少女だった。
振る舞いに反し、世界に対して上げる声なき声の大きさを、強烈に意識させる。そういう二面性を、ルビーは自らの演技の上に構築していた。
一方のあかねは、まるで違う。
今のあかねの演じている「アイ」からは、本当に何の感情さえも見つけることができない。
白々しく、わざとらしく、理想のアイドルをただ『演じ』て、その内側にある思いの一つも読み取れはしない。いや、本当にそこに何か隠されたものがあるのかさえも、分からない。
希薄で、同時に酷薄でさえある振る舞いだった。ヒートアップし続けるニノの、その苛烈とも言える情動を隣に置いているからこそ、如実なまでの対比構造が、「アイという少女の根本的な異常性」を、強烈に浮き彫りにする。
まさしくそれは、「客観的に見ることのできるアイそのもの」だった。同時に、台本におけるアイが孤立していく過程を、その原因を、これ以上ない形で証明するものであった。
本当に、見事と言うよりない。「本物」という意味では、これより真実に迫ったアイの姿もないだろう。本人はアクアの左二つ隣に座っているというのに、なお正面に見えるあかねのほうが、より「アイらしいアイ」であると錯覚してしまうほどに。
ただ、同時にそれが必ずしも、今回のオーディションにおける正解ではないことも事実だ。
この映画において必要なのは、「本物のアイ」だ。それは世間一般が想像するアイをトレースすることではない。彼女が世間に対して一度も見せることのなかった、否、アクアやルビーにさえも見せてはこなかったであろう「人間・アイ」の奥底を、その本当を、描き出すことに他ならない。
本心の全てを伏せ、黙したまま何も語らず、外形だけを完璧になぞり切っても、それはアクアたちが望む「本物のアイ」ではない。アイ本人が自らを粉飾した、「鎧を着こんだアイ」の模倣に過ぎない。
だからこその、今回の課題だった。
現実の世界においては決して見ることの叶わなかった、アイのほかに誰もいない空間の中にカメラを差し込んだ時、そこにどういう『本質』を見るのか。
あかねとて、それは理解しているはずだ。アクアたちが今回の課題に込めた作意を読み取れないほど、黒川あかねという女優は鈍感な人物ではない。
それでも進んでいく会話のなかで、未だあの「アイ」はあまりに分厚すぎる仮面を被り続けている。
『……アンタって、ホント私たちのことに興味ないよね』
『そんなことないけど』
どうするつもりなのか。そう、些か心配さえもし始めたアクアの心情を他所に、いよいよ場面はその時を迎えようとしている。
「
『アンタなんて――死んじゃえばいいのにッ!!』
立ち上がり、手を伸ばし、歩み寄ろうとしていた「アイ」の動きが、ぴたりと止まった。
一瞬だ。刹那、
いや、それだけではない。
ぞっとしていた。僅かばかり手元に視線を落とせば、空調の強く効いている暖かなこの部屋の中で、自分の腕には鳥肌さえも立っていた。
誰によるものかなど、言う必要さえない。しかしそれは本当に一瞬、一秒どころか半秒にすら満たない短い時間の出来事で、目の前にいる「アイ」は今、だらりと垂れ下がった腕と共に、確かに笑顔を浮かべていた。
審査員に分かりやすいようにバミリを切ってあるその場所からは、彼女の浮かべた笑顔の「色のなさ」が、とてもよく理解できる。
あれほどの暴言をぶつけたのに、「聞いてさえいなかったのではないか」と錯覚するほどに、その攻撃性を意識さえしていないようにすら見える、いつもと何一つ変わらない笑顔だ。それを真正面から目の当たりにしたニノの心情にさえ、共感してしまうほどの。
それでも今、アクアはその「
であるのならば、この先に座しているであろう答えとは、黒川あかねの出した答えとは、一体何なのか。
向けられた笑顔に耐え切れなくなったかのように、ニノが踵を返してこの場を去ってゆく。下手側からその姿が消え、「場」の中央には、ただ立ち尽くしたままに笑顔を張り付けているアイが、残された。
そして五秒が経ち、十秒が経つ。しわぶき一つない、無音で、張り詰めた空気の中、アイは動かない。
しかし、そこでアクアは、いや、アクア以外の誰もが、「
貼り付けた笑顔のまま、立ち尽くした姿のまま、「アイ」の目から今、一筋の涙が零れていた。
顎の先まで伝ったそれが、一滴地面に向かって落ちる。その瞬間、「アイ」が何かに気がついたかのように、頬に手を当てる。流れてゆく涙の筋を、指で一度だけなぞった。ゆっくりと、呆然と。
小さく、本当に小さく、唇が開かれる。
『そっか』
出てきたのは、たったそれだけの言葉だった。
『そうなるんだ』
濡れていた頬を撫で、水分を宿した己の指の先に目を向けて、もう一言、ぽつりと「アイ」は呟く。
まるでそれは、「今、自分が涙を流していること」を改めて認知したかのような態度だった。
同時にそれは、「今、自分が涙を
一歩、二歩と後ずさって、膝の裏にパイプ椅子の座面が当たると同時、脱力するかのように、崩れ落ちるかのように椅子に腰掛ける。
目を瞑って、天を仰いで、再びその瞼が開かれたとき、彼女の浮かべていた笑みが、その色を僅かに変えた。
『
それは、諦観の笑みだった。
『こうなっちゃうんだよねー、結局』
呆れさえも、漂っているような。
それでも、その中に覗く目の中には、やるかたのない「後悔」が、確かに浮かんでいる。同時に、「孤独感」も。
ただそれもほんの短い間のこと、また一度、「アイ」が天を仰いだ姿勢のまま、目を閉じる。
息を大きく吸い、肩を怒らせてから、吐き出す息と共にその力を抜く。だらりと垂れ下がった腕と共に、一瞬だけ顔を俯けた。
そこから再び瞼を開き、顔を上げたときには、これまでと同じ「アイドル・アイ」の笑顔が、すっかり相貌の上に蘇っていた。
『あーあ。嫌われちゃったなぁ』
軽く放り上げるが如きに発された彼女の声もまた、底なしの明るさと乾いた響きを取り戻す。
それでも、今までの一部始終を全て目の当たりにした人々は、今の「アイ」が見せている笑顔も声色も、それまでとはまるで違う意味を宿していたことを、否応なしに意識させられた。
故に今、時計の針が俄かに逆巻く。この瞬間まで、「世間の思う『アイ』像」を緻密なまでの解像度で演じているとばかり思われた黒川あかねの演技への評価が、反転する。
込められていた真意が、帰納的に、まるで必然の糸を辿るように、解き明かされていく。
あかねが示した答えは、ルビーの見せた「アイ像」に対するカウンターでもあった。
ルビーが演じたアイは、裡には雄弁とすらも言える感情を滲ませる、「普通の少女としての感性」を持った人間だ。
つまりルビーは、「本物のアイ」の人物像を、こう定義した。
「偶像としての役割を期待され、その役割を演じながらも、本当はそうではない等身大の自分を誰かに受け入れてほしいと願う、強さと弱さを併せ持った一人の人間である」と。
「誰かに愛されたことなどない」。「愛したこともない」。そう嘯くアイの自己認識は、しかし彼女自身が自分を守るために作り上げた欺瞞であると喝破して、それでもなお彼女は普通の少女であるのだと、ルビーは証明しようとしてさえいた。
だからこそ、そんな自分に偶像としての在り様を押し付ける他者への「怒り」を、ルビーはこの演技において表現した。ともすればそれは、「アイ」本人のものであるというより、彼女の境遇に己を重ね合わせたルビー自身の心情なのかもしれないとさえ、アクアは思う。
しかし、あかねの答えは違った。
彼女が示すアイの人物像は、たった一つの出発点に立脚している。
「アイという少女は、『普通の人間』というものがなんであるのか、理解できない」。アイは自分自身のことを、「普通から外れた人間である」と自覚している。それがおそらく、今回の課題演技におけるあかねのプリミティブな認知だった。
ニノからの決別の言葉を、「死んでしまえばいい」などという暴言を受けて、アイは呆然と立ち尽くしたままに、涙を流した。その涙を流した自分自身に対して、それを確かめたのちに浮かべた安堵のような表情は、アイがかねてより自らに対してどのような評価を下していたのかを端的に物語っている。
――ああ、泣けるんだ、私は。こんな時。
それほどまでに、アイは自分自身の感性の正常性を信じることができていない。
つまりアイが内心に抱え続けている感情は、大きく分けて三つだ。
自己に対する「猜疑心」、普通ではない自分の、世界に対する「孤独感」、そしてそんな自分を世間は決して受け入れることなどないという、経験に裏打ちされた「諦観」である。
それが、あかねの出した結論だった。
初めから諦めているから、彼女はどこまでも完璧なアイドルを演じる。それだけが、アイが世界に対して自らの存在意義を主張できる唯一の方法だから。
その一方で、それでも彼女は他者との関わりを諦めることが、どうしてもできない。「普通ではない」自分が、しかしそれでも他人に歩み寄れるのだと、他人に受け入れてもらえるのだと、心のどこかで信じている。何度撥ねつけられようとも、追いやられようとも。それが、「アイという『人間』の善性」だからだ。
しかし、結局いつも、彼女の願いは届かない。確かにアイは「普通」とは違う天賦の才を持っていて、その異質とも言える存在感は、均質性を求める社会的動物たる人間のコミュニティの中においてはどうしようもないほどに異物なのだから。
だから、期待をかけるたびに裏切られ、差し伸ばそうとした手は振り払われる。そんなことに、彼女はもう慣れてしまっていた。
その、謂わば学習性無力感が、アイの仮面を益々強固なものへと育ててゆく。アイというアイドルの輝きもまた、積み重なる諦念によって尚のこと磨かれ、強さを増してゆくのだ、と。
何故ならば、それは「少女・アイ」を構成する自己肯定感の源泉でもあるからだ。
普通ではない自分の、普通ではない故の長所を、彼女は正確に認知している。自分が天より与えられた、恵まれた容貌のことも。それが、普通ではない自分が世界の中で生き抜くための、唯一に近い武器であるのだ、とも。
斯くの如くの認知のもとで、黒川あかねという女優は、ニノとの決別の一幕があったこの時期のアイの本質を、彼女が考えたそれに対する回答を、この僅か十五秒のアドリブ演技の中に余すところなく織り込んだ。
最後の瞬間、ほんの一瞬見せる心情の吐露だけで、それまで積み上げてきた「アイ」の「アイらしい」演技の理屈の種明かしをしてみせた。
そういう構造を、自らの演技に仕込んでいたのだ。
それこそが、女優・黒川あかねの、いわばきっと、本気の演技だった。
「以上となります。ありがとうございました」
言葉と共に頭を下げ、また後ろへと下がってゆくあかねの姿を見送ってなお、この場に強く残る余韻を、審査に当たる誰もがきっと感じていた。
オーディション形式の審査では異例とも言える当日での審査に向けて、審査員の立場である六人を会場の中に残し、控室の中に戻る。
その途上において、ルビーは痛感させられていた。
――ああ、やっぱり力が違いすぎたな、と。
努力はしてきたし、出せる限りの力は出した。勝てない勝負に挑んだつもりもなかった。当然、自分の分の演技が終わった直後は、確実に手ごたえを感じていた。
それでも、あの時「アイ」があそこにいたのだ。ルビーに替わってあの場の中央に躍り出たあかねが、所属を名乗り、目を閉じて、そして開いた次の瞬間には。
今ガチの動画でも、ルビーは確かにそれを見ていた。けれども、生身で、そして近くでそれを見るのとは、天と地ほどに差がある。
いや、そればかりではないのだろうか。あの時と今とで、あかねの演技にもまた、成長の余地があったということなのだろうか。
控室に戻るなり、ルビーはあかねに声をかける。
「負けちゃったかなぁ、これは」
この場を発った時と寸分たりとも違うことのない雑然とした空間に、煌々としたLED灯が遍く光を届けている。カンファレンスルームの間接照明とは違う寒々しい光は、ルビーの心中に虚脱さえも誘った。
やるべきことをやったことへの、達成感であろうか。それともあるいは、内心で結果を悟ってしまったが故の、諦め交じりの情感なのだろうか。
パイプ椅子に腰掛け、机の上に肘を載せ、両の手で頬杖をついて、ポツリと言葉にする。
それはもはや、どうしようもない実感だった。悔しいとか、悲しいとかではない。そんなものの全てが吹き飛んでしまうほどに、ルビーはあかねの見せた演技に、納得させられていた。
頬に掌を添えたまま、あかねの方に視線を向ける。ルビーの隣で同じようにパイプ椅子に腰掛けていたあかねは、しかしルビーとは違って姿勢を崩すこともなく、ルビーのかけた声に返答するように小さくその首を振った。
「分からないよ、それは。ルビーちゃんの演技も、私はすごくいいと思った」
「そうね。正直、あそこまでやるとは思わなかったわ」
直後、ルビーたちの背後にいたもう一人の少女が、有馬かなが反応する。ともに椅子に腰掛けたままの姿勢で自らに背を向けているルビーとあかねを睥睨して、彼女は腕を組んで壁際に立っていた。
僅かに揺れる赤銅の髪の下に、柘榴の瞳が勝気な光を宿している。その唇は、確かに弧を描いていた。
「黒川あかね、アンタ下手したら負けるかもしれないわよ、ルビーに」
「そうだね。可能性は全然あると思う」
煽るような口ぶりで揺さぶってみせたかなの言葉に、しかしあかねは大真面目に頷いていた。
「私とルビーちゃんの出した答えは、正直なところかなり違った。アイさんをどういう風に捉えているか、それが多分この審査の中で一番大事なところだから」
「あとはそれを、どれぐらい分かりやすく伝えられていたかもね」
あかねの言葉を引き継いだかなが、ルビーに向かって顎をしゃくる。
「ルビー。アンタの演技、気持ちがとってもよく伝わってきた。役者としては大事な素養の一つよ」
「私も、そう思ったな。本当にね」
「それは……ありがと」
彼女が発する言葉に、世辞やおべっかの響きはない。あかねもまた、そうだった。
「だから、あとはカントクさんとアクアくんたち……審査する人たちが、どっちの『アイ』で映画を作りたいと思うかが、最終的には決め手だと思う。こればかりは、私にも分からない」
自分に対して言い聞かせるように口にして、あかねは今一度ルビーのことを真っすぐ見据えてくる。
「だけど、私は今日のルビーちゃんの演技、好きだな」
ふわりとした微笑みが、向けられていた。もとから開くには些か億劫だったルビーの口が、完全に縫い付けられた。
「ルビーちゃんが勝っても私が勝っても、『
最後に付け加えられた一言に、しかしルビーはどうしても、今あかねが演じてはいないはずの少女の面影を感じ取ってしまう。
だからこそ、やはり思った。
「……私も。私も一緒に映画撮るの、楽しみにしてる。ホントだよ?」
やはり今回のオーディションの勝者は、間違いなく目の前の少女であろうと。黒川あかねであろう、と。
ルビーたちが結果の発表の為に今一度カンファレンスルームの中に呼ばれたのは、そこから更に一時間ほどの時間が経過したあとのことだった。
再び今日の関係者が一堂に会した部屋の中、六人の審査員が座る長机に対面するように、二脚のパイプ椅子が置かれている。
その上に、二人の少女が腰掛けていた。ルビーとあかねだ。
独特の緊張感が、場を満たす。
つまりこれから始まるのは、言うまでもなく審査結果の発表に他ならない。
「まずはお二人とも、お疲れ様でした。どちらともに、非常に質の高い演技だったと思います」
沈黙を破り、声を上げたのは、この場の責任者でもある鏑木プロデューサーだった。
手元に持つコピー紙に、一瞬だけ目を落とす。書かれているのは、審査の結果だろうか。
またしてもやってきたわずかばかりの静寂を挟んで、鏑木は言葉を続ける。
「ですので、まずは発表の前に、お二人それぞれに対してフィードバックをさせてください。まずはルビーさん」
いつものような、「くん付け」の呼び方ではない余所行きの言葉遣いを伴って、彼はルビーに目線を合わせる。
「ルビーさんの『アイ』は、内面の感情を非常によく表現できていると、審査員一同評価しました。観客に対して強い訴求力を持っていますし、説得性も高い。身体表現についても、『アイ』らしさがとてもよく出ていると思います。総合的に見て、非常に高い水準の演技でした。素晴らしかったです」
出てきたのは、手放しとも言える賞賛の言葉だ。面食らいでもしたか、目をぱちぱちと数度瞬かせてから、数秒ほど遅れてルビーがやや慌てて頭を下げる。
その様子をどこか見定めるようにして何度か頷いた鏑木が、視線をその隣に移す。そこに座るもう一人の少女――あかねに対しても、同じように口を開いた。
「次は黒川あかねさんですが――まず何よりも、『アイ』のディテールの表現が素晴らしい。度肝を抜かれました。まるで本当にそこに『アイ』が立って、喋っているようでした。これは審査員全員の共通した意見です」
そこで一度言葉を切ってから、「ですが」と鏑木は台詞を繋ぐ。
「正直、我々が評価したのは、あかねさんの演技の構造でした。まず前半部分、世間から見える、つまり視聴者の想像する『アイ』の像を完全に再現していましたが、それは客観的な『アイ』の表現であるのと同時に、最後の最後で見せた感情の発露の演技の伏線にもなっている。最後に人物評を一気にひっくり返すことで、演技全体でアイの内面を表現しきっている。直接的な表現を一切せずにこれを実現したのは、非凡な構想力であると素直に感嘆しました。お見事です」
それもまた、一つの文句もないと言いたげな褒め言葉の連続だ。神妙な面持ちで、こちらも一礼をもって返したあかねに、鏑木は会釈で応えた。
斯くして今一度、鏑木は二人を共に見る。
「とにかく、お二人ともに素晴らしいパフォーマンスを見せてくれたと考えています。ですので、正直なところどちらか一人を選ぶのは我々としても断腸の思いでした」
いつも何かと胡散臭さが前面に出てくる鏑木の口調だが、今この場においてはその言葉に嘘は感じられない。いっそ実直さすら覚える真摯な態度で、彼は手に持ったままのコピー紙を、一度だけ掲げた。
「とはいえ『アイ』役は一人ですので、お二方のうちどちらか一方を決めなければなりません。随分とお時間をいただいてしまいましたが、我々としてもどうにかこうにか、結論を出すに至りました。そういうわけで早速ではありますが、ここで審査の結果を発表させていただきます」
空気が静かに、それでも俄かにざわめく。それは何かの審査、試験の結果発表の場には常に漂っている、不可逆なる決定に対する緊張の表れだ。
それでも、時は一方向にしか進まない。立ち止まることはない。鏑木が、その粘つく空気を切り払うように、今一度声を上げた。
「映画『15年の嘘』、『アイ』役のキャスティングは、厳正な審査を重ねました結果――」
ずっと手に持っていた紙を、長机の上に置く。静かに、目を閉じた。
数秒の後、彼は開いた瞼の中、双眸を一人の少女の上に固定する。彼の声が、その名を呼んだ。
「――
斯くして指名を受けた、「この場の勝者」となった彼女は、しかし静けさを湛えた水面のような眼差しで、ただじっと鏑木のことを見返していた。
彼女も、そしてその隣に座るもう一人の少女も、ルビーも、身動ぎ一つすることはなかった。
実際の話、ルビーとあかねの二人の演技が終わったあと、審査の場は紛糾した。
ルビーとあかねの出した正反対とも言える演技は、どちらが優れているかと言うよりも、もはやどちらが好みであるかの問題に帰着さえするほどに、互いに十分な完成度を持っていた。
驚くべきことではあった。特にルビーに関しては。
確かに基礎的な演技指導こそ事務所の活動の一環として受けさせられていたものの、一か月前の時点では基本的には素人同然であった彼女が、今回の課題演技に的を絞っていたのは確かであるとはいえ、ここまでの完成度の演技を見せた。
才能、ではあるのだろう。しかし、アクアは知っている。彼女がそれを身に着けるために、この演技をするために、何を直視することを決めたのか。朱色の残照の中で彼女の身体を抱きしめた、その時に腕の中に確かに感じた震えを、アクアは克明に記憶している。
いずれにせよ、議論は中々まとまらなかった。
視聴者に分かりやすく主張を見せ、感情が迸る演技を完遂したルビーを推す声があった。
アイという人間のディテールをこれ以上ないほどに見事に表現しながらも、彼女の胸中にある屈折した感情を仄めかすことで、キャラクターとしての奥行きを与えてみせたあかねを推す声もあった。
ルビーに軍配を上げたのは苺プロの二人、壱護社長とミヤコで、一方のあかねの演技を支持したのは、五反田監督と鏑木Pだった。
残るは二人だ。すなわちアクアと、そしてアイである。
態度を決めた四人を前にしても、アクアは全く答えを出せずにいた。
優柔不断と笑われても仕方のないことだと理解してはいる。しかし今、あの現場に立つためにルビーの直面した苦難を間近で見届けた自分は、同時にあかねのことを信じ、彼女を選んで「アイ役」という大役を託そうとしていた自分は、どちらかの思いを切り捨ててしまうには、あまりに双方に肩入れをし過ぎていた。
容易に決められるものでは、到底なかった。
答えに窮するアクアを他所に、他の審査員の視線は、自然とアイの方へと向く。
アイに関しては、この場にいる誰もが内心「ルビーを自身の役に選ぶだろう」と予想していた。
当然である。ルビーを自身の役に推挙したのがアイであるのだから。そういう意味では、あかねをアイ役に推挙したアクアとは、丁度対極の立場にいると言えよう。
しかし、そんなこの場の大方の予想に反して、彼女は早々に答えを出さなかった。アクアと同じく、他の四人が結論を出してなお、口を開かずにいる。
「アイくん。どう思った?」
その中、鏑木が彼女にそう水を向けたところで、ようやくにしてアイは物思いに耽っていた顔を上げる。視線が、自身のほかの五人のいる右側へと流れた。
目が閉じられる。数秒の停滞を経て、彼女の唇が、動いた。
「んー……ホントは『ルビーちゃんがいい』って、言いたいとこなんだけど」
言葉を切って、瞼が開く。真剣な面持ちで、真摯な声で、答えが続いた。
「あかねちゃんかな、私としては」
空気が、変わった。
当然だ。この場における大方の予想を、その回答は覆したのだから。
誰もが唖然と視線を向ける中、彼女が、アイが、ふとその相好を崩す。
柔らかい笑みだった。そして、彼女は言う。
「ルビーちゃんの演技は、すごく私の心には刺さったよ? 気持ちもビンビンに伝わってきた。すっごくいい演技だったと思う。あの時の私が抱えてたモヤモヤ、みたいなものも、しっかり分かってくれてるんだなって、嬉しかった」
けどね。そう言って、アイは首を振った。
「あの時の私は、あんなに強くなかったから。あかねちゃんの演技した私の方が、あの時の私のダメなところを表現できてた、と思う」
五反田監督に向けて、視線が寄せられる。その瞳の中に覗く光は、きっと過去を映していた。
「『本物の私を撮って』って、前に言ったよね、カントク。だったら、多分あかねちゃんのほうが、あの時の本物の私に近づけるって、思うかな」
口の端に薄く笑みを浮かべて、アイは正面を向く。横顔に滲む感情は、今この場にいない彼女の娘に、ルビーに、きっと向けられていた。
「それにさ」
慈しむように、言葉が重ねられていく。
「ルビーちゃんは、あのままのほうがいいんだよ。私とは、違っていいんだ」
――私のB小町と、あの子のB小町は、違うから。
今、この場にいる全員が目にした課題演技の末に出てきたアイの台詞は、それ故にこのオーディションの結果の方向性を決定づけるものであった。
アクアもまた、事ここに至っては己の初志を貫徹することをよしとする。
斯くして、一度は完全な拮抗状態にあったあかねとルビーとの間の「候補者選び」は、最終的にはほとんど異存のない形で、あかねをアイ役とする方針で固まった。
今この場で二人に向かって告知された「選考結果」は、そうした経緯と、そして葛藤の末に、導き出されたものだった。
「本物のアイ」の実像を、スクリーンの上に映し出すため。
そして同時に、だからこそアイが選んだ、「ルビーの未来」を考えた上での、結論でもあった。
日没の早い冬の盛りの空は、傾いた陽射しの作り出す深い茜の色に染まりつつある。
宵の走りに影の長く伸びる道の上を、ルビーはあかねと並ぶようにして歩いていた。
オーディションの終了後、ルビーはアクアに対して一つ頼みごとをした。
「お兄ちゃん。ちょっと、あかねちゃんと話がしたいから、先に帰ってて」、と。
アクアは、それに少しだけ難色を示した。
曰く、「この時期にお前を一人で帰らせるのは避けたい」、ということらしい。
しかし結局、ルビーの強い意向の前に折れる形となったアクアは、「話が終わったあたりに迎えに行く」という約束付きで、ルビーのその「お願い」を認めるに至った。
最近、アクアがルビーに対してこういう態度を示すようになったことも、今日ルビーがあかねに対して話をしなければならない理由の一つである。
特に「15年の嘘」の計画が立ち上がったあたりから、彼はルビーを、そしてアイについても、いっそ過保護とさえ言ってよいほどの対応をするようになっていた。
アクアが
そうかもしれない。しかし、それだけだとは思わなかった。
けれども、その事情をルビーはまるで知らない。アクアは、それをルビーに対して明かしていなかった。
「あかねちゃん」
帰路につくなか、立ち寄ったコーヒーショップのテーブルの上で、注文したホットカフェモカを啜りながら、ルビーはあかねにそう語り掛けた。
「まずは、おめでとう、なのかな」
まあ、私は負けちゃったわけだけど。
そう小さく続けたルビーに向かって、正面に座って同じように温かいコーヒーの紙コップ――彼女はカプチーノを頼んでいた――を両手で包みこんでいたあかねが、どこか困ったような笑みを浮かべた。
「まあ、うん。ありがとう、ルビーちゃん」
「それで、訊きたいんだけど」
彼女から返事がくるや、半ば被せるようにしてルビーは次の言葉を、すなわち「本題」についてを口にする。
「あかねちゃんは、お兄ちゃんのやってることをどれぐらい知ってるの?」
それはかつて、同じように二人で落ち合ったカフェの席の上で彼女に問うたものと、すなわちルビーとあかねが「今の関係」に至る直接のきっかけとなった日のことと、非常によく似ていた。
あかねが、一瞬だけ目を閉じる。何か、思いを定めるような態度に見えた。
掌に抱えたカプチーノのコップをちびりと啜って、息を吐く。その静かな声を挟んで、彼女はルビーに視線を合わせた。
「正直なところを言うと、私は今回の映画、かなりアクアくんには協力してるんだ」
「協力? って、どういうこと?」
「
自分でもわかるほど、ルビーは目を見開いていた。
「『本物のアイさんを撮る』っていう目標は、多分アクアくんの中では嘘じゃない。と言うより、『本物のアイさんを撮ることに意味がある』、のかな。とにかく、アクアくんは今回の脚本を上げるにあたって、かなり色んな人のところに聞き込みをしてた。だからそれについて行ったりとか、要点をまとめたりとか、取材する相手の交友関係を探ったりとか、まあそういうことをね」
長台詞を一息で言い切って、あかねはそこではたと辺りを見渡した。まるで無意識のうちに、誰かの視線がこちらに向けられるのを恐れているかのようだ。そんなことを、ルビーは思う。
ただ、店内に流れるBGMと客の話す声が作り上げる雑音のヴェールは、今のルビーたちの話す言葉の一切を覆い隠すのに足るものでもある。微かに声を潜めるようにしながら、あかねはルビーに向かって身を乗り出した。
「だけど、多分それだけじゃない。アクアくんは何か、まだ狙いを隠してる、と思う」
「それは……ママと『あの人』を引き合わせて話をさせる、ってやつじゃなくてってこと?」
思わず、ルビーもまた同じように声を潜めていた。ただならぬ空気を、あかねの言葉に感じたからだった。
対する彼女が、無言で肯く。
「それが何なのかは、分からなくて。でも、気づかないふりはできなかったから」
彼女の視線に内包される意思は、鋭さすら持った強さを帯びている。それを、ただ真っすぐにルビーに対して向けていた。
「だからどうしても、今日のオーディションは負けられなかったんだ。ルビーちゃんの方のお手伝いをしてた私が言うのもどうなんだって話だけど、でも私はあの映画の中で、アクアくんの意思を一番確認しやすい役を貰わなくちゃいけなかった」
表情の、声色の真剣さに、ルビーは朧気ながらも感じ取る。
つまりあかねは、今のアクアの計画を、そしてともすれば彼自身のことさえも、危ぶんでいるのだと。
「『私』に向かっては言ってくれない事情でも、『アイ』としてならば見えてくるものもあるかもしれない。どういう『アイ』を演じるようにアクアくんが求めてくるかは、多分私が必要としている答えに一番近いだろうから」
「……あかねちゃん」
思わず、ルビーは彼女の言葉に割り込んでいた。動きを止め、澄んだ瞳で、無言の問いかけを向けてくるあかねを、迎え撃つように見据えた。
「あかねちゃんがお兄ちゃんと協力を始めたのって、あの高千穂の旅行の後からだった、って、前あかねちゃん言ってたよね」
あかねが、小さく目を開く。突拍子もない問いに聞こえただろうか。
まあ、そうかもしれない。しかし、それはルビーにとってどうしても気になったことで、問わなければならないことだった。
「えっ? ああ、まあ、うん。そうだね」
「そっか」
もし、あかねの言うアクアの「隠された狙い」が、本当にあるのだとしたら。それが、あかねにとって危ぶむに足る何かであるのだとしたら。
それをアクアがあかねに対して、そしてルビーに対しても隠している理由の源泉は、おそらく今からルビーが訊ねようとしている問いの中に、あるような気がした。
「ねえ、あかねちゃん。その時だけど、あかねちゃんはせんせの死体を見つけたあと、お兄ちゃんを追いかけて、せんせの家に行ったよね?」
ルビーはあかねに対して、「自身が雨宮吾郎と面識がある」ということを、また彼のことを「せんせ」と呼んでいることを、既に明かしている。高千穂の旅行からは幾分か経って、彼女と「協定」を結んだ後のこと、互いに持っている情報を融通する中で、ルビーは雨宮吾郎のことをあかねに話していた。
雨宮吾郎の死亡した正確な時期を、あかねは知らない。あの白骨死体を詳細に調べれば、彼が実際にはルビーたちと面識を持てないタイミングで死んでいるという事実には容易にたどり着くのだろうが、いずれにせよそれはあかねにとって知る由もないことだ。
そして、あかねはルビーが発した問いに、すぐには答えない。是とも非とも言わずに、こちらのことを静かに見ている。
「どうして、お兄ちゃんがせんせの家にいるって分かったの? というか、なんであかねちゃんはあの時、せんせの家がどこにあるか知ってたの?」
畳みかけるように発する二の矢は、すなわちルビーがそれへの答えに半ば確信を持っていることの表れだ。
あかねが、目を瞑った。そのまま、一つ頷く。
「多分、ルビーちゃんが思ってる通りだと思う」
「お兄ちゃんが、あかねちゃんにせんせの家のこと教えたってこと?」
「正確には、『アクアくんに付き合った』、だけど」
「アクアくんに付き合った」。つまりあかねは、あの高千穂の旅行の中、ルビーたちがMVを撮っている間の「デート」の中で、アクアに連れられて雨宮吾郎の実家に一度足を運んだということだ。
そうすることを、選んだということだ。アクアが、そしてあかねも。
「……何か、言ってなかった? お兄ちゃん」
自然と、声が漏れていた。
予感がしていた。それこそが、きっと大事なことだと。核心であると。
問われたあかねが、口に手を当てる。思慮に沈むように、迷うように、視線を天に彷徨わせた。
思い出そうとしているのか、それとも言うべきことかどうか、迷っているのか。
「教えて、あかねちゃん」
ならばと、ルビーは自らの声に、視線に、敢えて力を込めた。あらん限りの意思を主張するように、あかねをじっと見据える。
一秒、二秒。停滞した時間の末に、あかねはふっと息を吐く。口元に添えていた掌を外し、今ひとたび手元の紙コップに口をつけた。唇を湿らせるように、喉を潤すように。
じっとルビーの見据える先、彼女はゆったりとした動作でそのコップをテーブルの上に置く。
「分かった。じゃあ、言うね」
そして居住まいを正し、ルビーに向かって告げた。
「アクアくんはあの時、話してくれたんだよ、私に」
――雨宮吾郎さんの、生い立ちについて。
その語り出しから始まったあかねの話の一部始終を聞いて、ルビーはやっと、自らが理解しなければならなかったことを、理解できた気がした。
アクアと、
そして、ルビーが「お墓参り」に行きたいと持ち掛けたときに、彼がそれに同道しようとした理由も。
心に懐いた思いは、たった一つだった。
――そっか。同じだったんだね、せんせは私と。
ルビーはやっと、朧気ながらにアクアの心情を理解した。出来た気がした。彼がこれからやろうとしていることが、彼の一体何に根差しているのかも。どうしてそれを、抱え込んでしまったのかも。
それはきっと、止められるものではないのだろう。ルビーが、アイが、いくら言葉を尽くしたとしても。
もしかしたら、あかねの力を借りても、なお。
だと、言うのなら。
「――ねえ、あかねちゃん」
あかねに向かって、静かに言葉を発する。裡に懐く、一つの決意とともに。
故にその日、また一つの約定が、ルビーとあかねとの間で交わされた。
斯くして今、全ての準備は整った。
キャスティング、脚本、撮影スタッフ。配給と宣伝、出資者の体制も。その中に名を連ねている、『標的となる人物』の存在も。
全ての決着をつけるための、最後の舞台の幕が上がる。
そしてそれを、余人はこう呼んだ。
すなわち――映画「15年の嘘」、
星野アイが、「普通の女の子」だったのか、そうではなかったのか。
原作においても、二つの答えがあります。
ルビーはアイを「普通の弱い女の子だった」と解釈しました(134話)。
あかねはアイを「普通の女の子になれなかった子だ」と解釈しました(131話)。
本作においても基本的にはそれぞれ同じ解釈をさせていますが、本作ではあかねの解釈を正しいものとして、あかねをオーディションに勝たせました。
ただ、ルビーの解釈も、必ずしも間違ってはいないのだと作者は思います。そのあたりの事実を踏まえて、本作は展開していきます。
そしてここまでが、本章の前半です。ここからはいよいよ映画の撮影に入っていくことになります。