天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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5-10. 4・55・1・0

『ちょっと、たかみーの話聞いてる!?』

 

 楽屋を模した撮影セットの中に、少女の声が響き渡る。右側に犬の髪飾りをつけ、水色のアイドル衣装を纏った勝気な表情の彼女は、自らのことを「たかみー」と称して、視線の先に指を突きつける。

 

『ニノ! そこのペットボトル! 蓋開けっぱでほったらかしてるでしょ!』

 

 言葉をぶつけられた先、ライブ直前ということで着替えを始めんとしていたもう一人の少女、「ニノ」と呼ばれたその彼女が、びくりと肩を震わせて振り返った。

 向けられた双眸の中に宿した感情は、必ずしもポジティブなものではない。しかしそれをすべて黙殺して、「たかみー」、すなわち「高峯」という名の少女はさらに言い募る。

 

『そういうのホントだらしない! これから着替えようとしてるのに衣装の裾引っ掛けちゃったらどうするつもり?』

『あ、ごめんね。水だからいいかなって思って』

『いいわけなくない? 水でも床に撒かれちゃったら掃除誰がするの? ニノがやるの? ほんっと想像力ないよね』

 

 肩を竦めて、誤魔化すように笑ったニノをばっさりと斬り捨ててみせた高峯は、そのまますたすたと早足でニノの方へ歩み寄る。

 反射的に縮こまり、そして本能によるものであるのか、一瞬逃げようとする素振りさえ見せたニノに全く構うことなく、高峯はニノの両の肩にがしりと手を添えた。

 

『あーもう、急いで服着たから皺ばっかじゃん! 髪の毛もピンピンしちゃってさー……ほんっとにニノは鈍臭いなぁ。ほら、櫛貸して』

 

 どこまでも強引に、ニノの手の中にあった櫛をぶんどるようにして手に掴んだ高峯が、ニノの纏ったばかりの、その若草色のアイドル衣装をところどころはたいて皺を伸ばしつつ、手に持った櫛でニノの髪を撫でつけていく。

 

 

 

 劇中における「高峯役」の役者は、演技にて語る。

 この高峯という少女は、言葉遣いもきつく独善的な向きさえあるが、それでも行動原理の基本は他者への善意であり、余計とも言えるお節介を焼きたがる人物であるということを。

 少女ゆえの未熟さはあれ、リーダー気質と言えはするだろうか。

 

『あー、また高峯ちゃんニノに絡んでる』

 

 事実、その直後にこの楽屋の扉を開いて新たに入ってきた、猫の髪飾りを左の方につけた栗色の髪をしたもう一人の少女の声にも、まるで心外だと言いたげに彼女は反応してみせた。

 

『またって何さめいめい』

『えー? いや、あんましニノのこといじめちゃだめだよって』

『ひっど! いじめてなんてないよ! こっちは善意百パーセントだもん。ね? ニノ』

 

 一頻り身だしなみを整えたところで、そう言いながら高峯はニノの肩を抱き、顔を寄せる。

 彼女自身には、そういうつもりなど全くないのだろう。けれどもその、どこか念押しにも似た圧力を伴って放たれた台詞は、客観的には確かにどこか、いじめっ子が得てしていじめの相手に対して言うような、「これは愛のある『イジり』だよな」などという恐喝にさえも聞こえるものがあった。

 

『……うん、そう、だね』

 

 それを受けるニノの、内気で引っ込み思案な反応もまた、その印象を後押ししていた。

 

 これが、すなわち結成初期の「先代」B小町の実像だ。弱小事務所(苺プロ)擁する、十把一絡げとも言うべき中学生モデルの寄せ集めであり、思春期に入ったかどうかというほどの年頃の少女たちは、如何に女性の精神的発達が男性のそれより早いとはいえ、他者と自己との適切な距離を測るには、未だ不足しているものがあまりにも多い。

 

 

 

 そしてその中でも、こと「他者との関わり」というものに対して最も困難を抱えているであろう少女が、今この場所にやってくる。

 

 ノック一つなく、唐突にドアが開く。勢いよく開け放たれたそれの奥から、長い黒髪が躍り、そして覗く。

 軽やかな足音を伴って、その彼女はやってきた。場違いに能天気な、空気の読めていない声色で、およそ目に見えるすべてをまともに捉えていないのではないかとさえ感じさせられるような、白々しい振る舞いで。

 

『おはよー、皆』

 

 何物にも左右されない、まるでこの世の全てから距離を取っているような浮世離れした在り方で、その少女が、アイが、楽屋へと足を踏み入れた。

 

 

 

「カット! OKだ、お疲れさん」

 

 かけられた五反田監督からのカットの声と同時に、世界は反転した。

 虚構から、現実へ。劇作として隔離されていた空間が、「ここにある今」に融合する。作られていた空気もまた、すっかりと霧散していた。

 己の中、役という名の水の底に潜り込んでいた役者たちが、そこから脱するかのように、思い思いに息を吐き出す音が、現場に小さく響く。

 

 裏方のスタッフたちが次のカットの撮影に向かって忙しなく場を動き回るなか、演者である一人の少女が、くるりとその場で振り向いた。

 

 視線が、一人の上に固定される。そして、小さくも不敵な笑みを浮かべた。

 

「流石。あの監督のよく分からないディレクションを一発OKなんて、やるものね」

 

 聞こえたのは、ややハスキーがかった、それでも澄んだ声だ。

 

「劇団ララライのエース様は伊達ではない、ってことかしら」

 

 言葉の、目線の指す先は、つまりはあかねだった。あかねの演じる、「アイ」だった。

 手放しとも言ってよいその少女からの賞賛を正面に受けて、あかねもまた同じように、笑みをもって返す。

 

「ありがと。でもそっちも、いいカンジにかなちゃんのことをイジメてたよ、()()()()()

 

 その名を呼びつつも、あかねは彼女――この場において「高峯」役を演じた女優、「高藤エミリ」に向かって、そう答えてみせた。

 

 

 

 

 

 彼女と初めての――否、久方ぶりの邂逅を果たしたのは、この日から遡ること一週間ほど、二月下旬にあったこの映画の本読みの場のことだった。

 

 今回の映画の配給会社から提供された、五十人ほどが集まることのできる会議室の中で、裏方以外の関係者、つまり監督(五反田)脚本(アクア)、苺プロの社長夫妻にアイ、そしてキャスト陣全員を加えた二十人弱の人間が、四角く組まれた長机の前に、思い思いに陣取っている。

 

 その有様をみるにつけ、あかねは今回の映画の『身内人事』ぶりに、少しばかりの苦笑を禁じ得なかった。

 なにせ、役者のうち八割は見知った顔なのだ。主要な役どころに限定すれば、九割方である。

 

 無論、主要なキャストの中にもあかねからすれば直接の面識のない人物もいるにはいる。例えばそれは不知火フリルであり、またあるいは片寄ゆらだ。

 

 しかし彼女たちは、あかねではなくアクアとの交友関係を持った人間である。

 

 例えば片寄ゆらに関しては、本読みが始まる前のこと、この現場にやってくるなりすぐさまに、部屋の中にいるアクアと姫川大輝の姿を目敏く見つけていた。

 ぱっと表情を明るくさせ、相好を崩して近寄って、親密そうに彼らと言葉を交わし始める。その一部始終を、あかねはやや遠くの場所より見ていた。

 

 三人は、一度ではあるがドラマでの共演経験がある。そしてそのあとも、継続的な交流を続けているらしい。

 それには理由があることも、あかねは知っている。二、三か月ほど前、彼女の身に何が起こったか――否、起こりかけたかも。

 特に姫川大輝の方には、あの時直接的に片寄ゆらを助けたこともあって、ゆらの側から積極的にコンタクトを取るようになっているのだという。そう、あかねはアクアから聞いていた。

 それがどういう方向に作用するのかはあかねとしても分からないが、いずれにせよゆら自身の置かれている状況のことを考えれば、そんな彼女と持続的な関係を結べていることは、最低でもアクアの目的には適うのだろう。彼自身が内心で何を思っているのかは、別としても。

 

 一方、もう一人の不知火フリルの方はと言えば、彼女のクラスメイトであるはずのルビーやアクアを差し置いて、何故か明後日の方向――というよりもMEMちょの方へと、一直線に向かっていった。そしてそのまま、どういうわけか目をキラキラと輝かせて、盛んに彼女に対して話しかけ始める。

 がやがやとした雑音の混じる空間の中耳を凝らせば、なんと不知火フリルはMEMちょのファンなのだという。YouTuberとしてのというより、あかねがMEMちょと共演したあの「今ガチ」で彼女のことを知って、それからずっと「一度会いたい」と思っていた、と。

 そしてそんな、自分を遥かに凌ぐ超ビッグネームからの熱烈な「ファン宣言」にたじたじになっていたMEMちょの方も、最終的には随分と乗り気な態度で不知火フリルと握手を交わしていた。

 涼やかな目元と感情の見えづらい表情から受けるミステリアスさの勝った第一印象に反して、どうやら不知火フリルという人間は随分と社交的な性格をしているらしい。そうであるのならば、ともすればここから共演の機会の多くなるであろうあかねもまた、彼女と友誼を結ぶ機会があるのだろうか。そんなことを、少しだけ考えた。

 

 ともあれ、事程左様に彼女たちは、制作側――というよりもアクアにとって、身内側の人間だ。

 仲間内で固めるだけでこれほどの人材を揃えてみせたアクアの人脈の広さには感嘆するよりほかにはないが、ただあかねが今気にしているのは、実のところそこではない。

 

 「主要キャストの九割が身内」ということは、同時に残りの一割は「外の人間」ということだ。そして主要キャストの中の主要キャスト、アイ(あかね)率いる「旧B小町」の面々の中に、一人だけその「外の人間」が存在していた。

 

 その人物を、その「彼女」を、あかねは見る。

 

 あかねが目を向けたかの女優は、鳶色の髪を長く真っすぐに伸ばした出で立ちだった。その下に覗く肌は、抜けるように白い。アーモンド形の眼に抜けた目鼻立ちも、人形のように非の打ち所がない。

 記憶が、俄かに蘇る。その追憶の中では、未だ幼い少女だった彼女は、確か今とは違って髪にパーマを当てていたはずだ。ゆるめのソバージュによって広がった毛先が、ふわふわとして可憐であったことを、あかねは思い出す。

 そしてそんな姿形とはまるで裏腹に、その女の子からかけられた苛烈な言葉も。

 

 忘れもしない、虹野修吾主催のヒロインオーディションの場で初めて出会った、当時第一線で活躍していた子役だ。

 そのときの彼女の名乗りもまた、あかねは憶えている。

 

 主要キャストの中では面識のある相手がほとんどいないということか、やや所在なげに座っていた彼女に向かって、あかねは歩み寄る。

 ほど近くまで近づけば、揺れる空気か存在感か、或いは足音を聞きつけたか、正面を向いていた彼女の顔が、ぐるりと向けられた。

 

「お久しぶり、エミリさん」

 

 かけた言葉と共に、視線が合う。

 目の前に見える彼女の(まなこ)が、小さく見開かれた。

 

 

 

 あかねの記憶が正しければ、五年前の時点において「月の夢」という児童劇団で活躍をしていた彼女とは、結局その虹野氏のオーディションで出会ったきり、今の今まで顔を合わせることさえもなかった。

 あのあと早々に劇団ララライに籍を移すことになったあかねは、良くも悪くもその中で閉じた世界を作ってしまっていたのだ。どういう巡り合わせであるか、その時からこちら、まるで腐れ縁のように共演し、あるいは立場を競い合う間柄になってしまった有馬かなの存在を除けば、ではあるが。

 

 ただそうは言っても、風の噂ぐらいには、あかねにも彼女――高藤エミリの最近の活躍は聞こえてきていた。五年前、虹野氏のオーディションのタイミングでは、CMタレントにモデルにとあれほどの広範な活躍を見せていた彼女だったが、相変わらずマルチタレントとしては一線級の活躍を続けている、らしい。

 特にファッションモデルの世界においては、世代随一と言ってもよいかもしれない。「今ガチ」におけるブレイクを経てその知名度を一気に向上させた、あかねの友人たる鷲見ゆきにも決して劣らぬ、否、それをも凌ぐかもしれないほどの存在感を、彼女は未だに持っていた。

 もっとも、流石にあかねたちの世代においてマルチタレントとしてずば抜けた知名度を誇っている不知火フリルに比べれば、流石に一歩も二歩も劣る立場ではあるけれども。

 

 

 

 確かに見知った顔ではあるものの、事程左様にあかねとエミリの二人は初対面に近い。

 故に双方ともにどこか間合いを測るようにして、そのあたりの、つまり互いの近況についての報告紛いのやりとりをいくらか交わしたところで、しかし不意にエミリが居住まいを正して、あかねに言葉をかけてくる。

 

「あの時は、悪かったわ」

 

 いきなりのことに小首を傾げながらもその顔を見れば、彼女は少しばかりバツが悪そうに、小さく肩を竦めていた。

 口ぶりの中にさえも、それと同じ色の響きが見え隠れしていた。

 

 彼女の言う「あの時」とは、何を意味しているのか。唐突な展開に些か面食らったところがあったのは事実だったが、あかねとしてもその真意の示すものが何かは、実のところ言われずとも分かる。

 エミリに向かって、あかねは小さく、それでも見えるように首を振った。

 

「別に。気にしてないよ。エミリさんの言うこと、まあ事実だったし。それに」

 

 言葉を切って、視線を外す。向けた先は、この場におけるエミリの関係者とも言える、もう一人の方だった。

 

「かなちゃんも、だけど。『売れなくちゃいけない子役』のプレッシャー、今の私ならわかるから」

 

 それは、何一つ嘘ではない。もう五年も前のことを一々気にするほどに狭量な性格はしていない自負も、そこにはあったけれども。

 隣で、小さく息を吐く音が聞こえた。そう、という呟きも。

 

「それは、ありがたいわね。……まあ、それじゃ」

 

 もう一度、あかねはエミリへと向き直る。彼女の双眸に宿る勝気な光が、あかねに向かって真っすぐに差し込んだ。

 同時に、彼女は手を伸ばす。右手を、あかねの前に差し伸べてきた。

 

「今回は、共演者としてよろしくお願いするわ。いい現場に、していきましょう」

 

 それは、矜持だった。役者なら誰でも、否、『演技に真摯に向き合う役者であるのなら』誰でも持ち合わせている、崇高で透明な誇りある姿だった。

 だからこそ、あかねは頷いた。笑顔を浮かべて、そして差し出された右手を、自身の手で取った。

 

「うん。よろしく、エミリさん」

 

 

 

 それはすなわちあかねにとっての、高藤エミリという女優との「再会」の一幕だった。

 

 

 

 

 

 「アイ」という役に潜っていた意識の残像は、未だ思惟の水底から手を伸ばし、己の認識の裾を引いている。深淵は程近くにあって、現実は未だ薄紙を隔てた向こうに座していた。

 故にあかねの意識の重心は、エミリにまつわる過去の記憶の方へと吸い寄せられ続けている。目の前に、その高藤エミリ本人がいるというのにも拘わらず。

 

「次のカットのセットまで、キャストに休憩入れまーす!」

 

 だからと言うべきだろうか、そこで不意に割り込んだ撮影スタッフの声と、途端にがやつきはじめた周囲の状況は、あかねにとってはさながら不意打ちのようでさえあった。まるでつられるようにして、あかねは自身の周りを見渡す。

 

 

 

 いや、あかねにとっての本当の不意打ちとは、寧ろそれとほとんど時を同じくしてやってきた、『彼』のことであっただろうか。

 つい先ほどあかねが入ってきた扉が、今一度開く。その向こうから人影が一つ、この場に舞い込んだ。

 

 反射的に、扉の向こうに目を向けた。

 見えたのは、陽光を熔かしたような、柔らかく輝く金紗。それが視界の中に躍って、その下に覗く藍玉の光は涼やかに透き通り、妙なる輝きを見せている。

 

 あかねにとってその彼は、どこまでも見知った顔をしていた。

 心の奥底が、ざわめく。未だ現実と接続しきっていない認識が、無意識のうちに引っ張られていた。

 

「お疲れ様です、みなさん」

 

 知人関係にない人物がいるからか、少しばかり畏まった口調で頭を下げてみせたその人に向かって、あかねはどこかふらりふらりと、二歩三歩ほど自らの足を踏み出す。

 止まらなかった。止まろうとも思わなかった。混淆した知覚のまま開いた口は、半ば夢遊病患者のようなそれで――

 

「アクアくんっ」

 

 ――しかし彼に声をかけたその瞬間、あかねはようやく、そしていきなりに、我に返った。

 知覚を遮っていた靄が、俄かに晴れた。

 

 

 

 あまりのことに、目を見開く。自分の口を手で押さえかけていた。

 無意識のうちに発してしまったその声は、まるでずっと焦がれていた思い人がやっと会いに来てくれたかのような、そんな響きさえも、宿していたから。

 

 

 

 そんなつもりは、全くなかったのだ。だからこれは、謂わば完全なる『反射』だった。我ながら「はしたない」とさえ、思ってしまうほどの。

 潜っていた「アイ」の深層から脱しきれず、アイと重なる心情を心のどこかに残していたからこそ、彼女に影響されてしまったのか。「アイ()」としてアクア(息子)に向ける気持ちが、残像のようにあかねの心を支配していたのだろうか。

 

 いや、それは誤魔化しだろうか。あかねの中の本音から、目を逸らすための方便だろうか。

 そのあたりに思いが至ったあたりで、あかねはどうにも恥ずかしくなって、思わず目を少しだけ逸らしていた。彼の、アクアの姿を、直視できなくなった。

 

「ああ。あかねもお疲れ」

 

 演じてしまった醜態に赤面しかけているあかねを他所に、一方の彼はまるでいつも通りの声色で呼びかけに答える。目の前に見えているはずのあかねの姿など気にさえもしていないような、そんな態度だった。

 

 いや、実際彼にしてみれば特段身構えなければならないようなことはないのだろう。あかねに対しても、そしてこのセットの中においてもだ。

 何せ、年頃の女の子だらけの空間に黒一点取り残されてしまおうが、何一つ気後れしないのがこの星野アクアという男の、謂わば「太々しさ」なのだから。

 

 その彼の澄ましたいつも通りの表情が、何故か急にほんの少しだけ憎たらしくなって――正面にいるアクアから外した視線の更に端に、「高峯」の衣装を纏ったままのエミリの姿が割り込む。

 意識しなくても、知覚させられる。彼女は今、どんな表情をしているのか。

 意味ありげな、と言うよりニヤついた表情だ。腹の内で何を考えているかなど、言うまでもない。

 

 言葉を一切発することもなくこちらのことをジロジロと見ている彼女のからかいの表情に思わず抱いてしまったイラつきをぶつけるかの如く、自分自身でもわかる紅潮した頬のままに、あかねはアクアに視線を合わせ、声をかけ直した。

 

「……それで? アクアくん何の用?」

 

 「アイ」からの離脱症状だ。感情の制御が、全くついていなかった。

 故に出てきた些かキツい言葉遣いをあかねは少しだけ後悔するが、しかしアクアはそれに特段の反応を示すこともない。正確に言えば、それどころではない様子に、あかねには見えた。

 ああ、と軽く首肯したあと、彼は自らの立つ『楽屋』の入り口の場所からぐるりと周囲を、いや、『B小町』の面々を見回す。

 

「休憩に入る所悪いんだけど、今丁度『ゲスト』が来てるんだ。入れちゃっても問題なさそうか?」

 

 そして単刀直入に、あかねに自らの用件を伝えてきた。

 

 

 

 撮影現場にゲストとは、一聞して耳慣れない言葉ではあるだろう。

 しかしこの場にいる全員ともに、その事情の何たるかは知っている。クランクインとなったこの日の朝一、まさしく目の前にいる彼から、今日の予定については既に共有されていたためだ。

 

「ええ、大丈夫ですよ、助監さん。昼はもう全員済ませてますから」

 

 故にと言うべきか、あかねに先んじるように、隣にいたエミリがさらりと返した。

 アクアの視線がそちらに流れ、しばしの後に頷く。

 

「ありがとう、高藤さん。それじゃあ」

 

 言うなり、彼は部屋の外に向かって顔だけで振り返った。扉を手で押さえたまま、彼の身体の向こう側にいるであろう「誰か」といくらかの言葉を交わす。

 十秒ほど続いたその会話の最後、彼は一度の会釈と共に、この部屋の扉を一気に開け放った。

 

 開いた扉を押さえ、まるでその誘導するかのように、反対側の手でこの楽屋の中を示す。

 それとほぼ同時、どこか忙しなさを感じさせる複数の足音が廊下に反響して、そしてそこから程なく、この楽屋のセットの中の空気が大きく『撓んだ』。

 

「あ、ホントだー! あの時の私たちの格好してるじゃない!?」

 

 三人ほどの人影が、雪崩込んでくると錯覚するほどの景気の良さで、この場に割り込んできた。

 

 誰何など、するまでもない。先頭に立つ女性、はきはきと圧の強ささえ感じさせる言葉遣いと快活な笑顔が特徴の、三十代後半と思しき彼女が発した言葉が、その正体の何もかもを物語っていた。

 

「ほら二人とも! 私詰めるから中入っちゃって入っちゃって!」

 

 まさに仕切り屋らしさを全開にして、引き連れた二人の女性を先導しようとする、その彼女も。

 

「あー待って待って『高峯ちゃん』! ご挨拶しっかりしなきゃ!」

「あぁ、そうだったそうだった! じゃあ『めいめい』、この辺りで一回並んどきましょ!」

 

 その後ろからどこかあわあわと動きつつも、相も変わらず猪突猛進を続ける先頭の女性を窘めようとする、未だ確かな可愛らしさを備えた顔立ちの、また一人の女性も。

 

「ほら、そっちも! 早く入って! 私の隣空いてるから!」

 

 そして最後、どこか遠慮がちな様子で周囲を見回し、肩を縮こまらせるようにしてこの場に現れた、三人の中では一番背の低い、大人しそうな女性も。

 

「ほら『ニノ』! 早く早く!」

「あ、あっ……うん、わかった」

 

 互いに呼び合う名前が、その正体を決定づける。

 

 この場に現れた三人は、すなわちアイを除いた、先代B小町の結成初期メンバーだった。

 まさに今、このカットの中で演じられていた、楽屋の中での一幕における登場人物の、その本人たちに他ならなかった。

 

 

 

 冷静な思考が、戻ってきていた。彼女たち三人を視界に納め、恐らく無意識の中で、あかねは少しだけ目を細める。

 

 「先代B小町の、初期組の三人」。その中の一人は、あかねにとって、そしてアクアにとっても、到底捨て置ける相手ではない。

 「その女性」を目の前にして、アクアが胸に懐いているであろう心情を、あかねは慮る。そうでありながら、今この時をまるで日常の延長線であるかのように、何でもないように振舞っている、そうせざるを得ない、彼の境遇を。

 

「いやぁ、みんなすっごい可愛い! あの時の私たちよりよっぽどアイドルじゃないかなぁー! いやぁ、こんな美人さんたちに演じてもらっちゃうとなんだか悪いような気がしちゃう! ねーニノ!」

 

 「ニノ」。「新野冬子」。

 アクアが、言っていた。彼女は、東京ドームライブ直前に起きたアイの襲撃事件の実行犯であった男、「菅野良介」と、交友関係を持っていた女性であると。

 いや、それは正確ではない。正しくは、()()()()()()()()()()()()()()()()、と。

 

 故に彼女は事件発生直後から、苺プロの社長、斉藤壱護の監視下にいる。ここ十五年ほどの間、ずっとだ。

 その歪みを、その闇を、アクアは当の本人から、つまり壱護社長から、最近聞かされた。そう、言っていた。

 

 それは今から遡ること三か月と少し前、あかねが女優としてではなく、『共犯者』として彼に協力する過程で訪れた、五反田監督のスタジオの中での出来事だった。

 

 

 

 

 

 今回の映画は、「ドキュメンタリードラマ」という建て付けになっている。作品の構造としてはエンターテインメント、つまりドラマの部分に主軸としていることは間違いないが、それでも事実を基にしたエピソードを語るという目的がある以上、とある『映像素材』の存在を、無視することはできない。

 

「合計七十時間……丸三日分近いデータか」

「んだ。けどこれで、ドームライブ直前までの二年分だからな。まあ随分と撮ったもんだとは思うが、全体の尺という意味じゃ使えるのはこの中から三十分が精々だ」

 

 五反田監督のスタジオ、と言うより実家の書斎の中、やや後ろに控える形になっているあかねの前で、監督とアクアが議論を戦わせている。

 彼らが目を通しているデータとは、この映画の『前身』――すなわち五反田監督が構想し、しかし実現することのなかった、「先代B小町のドキュメンタリー映画」の元データだ。大量のオフショットを含んだ、アイたちのB小町への「密着取材映像」とも言うべき代物が、彼らの見るディスプレイ、五反田監督の作業PCの上には展開されていた。

 

 

 

 寄ったカメラの中、ファインダーを覗きこむようにして、いつもの憂い一つない笑顔を浮かべてこちらをのぞき込んでいるアイがいた。その後ろにいるB小町の他のメンバーと一緒にピースサインまでして、その仲は悪くないようにも見える。

 練習スタジオの中であろうか、パイプ椅子に腰掛けながら自由に歌うアイの姿があった。しばらくすると、そこに別のメンバーが割り込んでくる。ちょっかいを掛けるようにしながら、それでも一緒に歌い始める。目を瞑って、本当に楽しそうに。

 ライブシーンの映像も、存在していた。どこかのライブハウス、スモークの焚かれた熱気漂う空間にて、B小町の全員が歌って、そして踊っている。

 その中心にいるのは、言うまでもなく、いつもいつもアイだった。何せ彼女はB小町の絶対的なセンターで、B小町の結成にほんの少しだけ遅れる形で彼女が合流してからというもの、一度も自分の定位置を、つまり舞台の中央を、譲ったことなどありはしないのだから。

 

 ところどころシークバーを動かして場面場面を飛ばしつつも、順を追って流れていく映像を見て、あかねには思うところが出来ていた。

 

「アクアくん、ちょっといいかな。カントクさんも」

 

 声に出して語り掛けたそれに、アクアと五反田監督、双方が振り返った。

 

「別に、全然。というか、もう少しこっちに来たら?」

「そう? じゃあ、お言葉に甘えて」

 

 アクアに促されて、椅子をも少しばかり画面の方に近づけつつ、あかねは自らの考えを口にした。

 

「ストーリーの構成の問題かもしれないけど、アイさんと直接的に絡んでる人、あんまり多くないように思うんだ」

 

 どこかその言葉が作用したかのように、アクアが視線を画面の上へと戻す。

 

「二人か、三人? この時期のB小町は確か七人グループのはずだけど、あとの三人が全然見えなくて。空気みたいだなって」

 

 感じたのは、つまり異物感だった。このドキュメンタリー映像は、B小町と言うグループ全体にスポットライトを当てるために構成されているはずなのに、その主役であるアイとの関わりがほとんど描かれていない人物が、三人ほど存在している。

 アイとよく会話をしているのは、鳶色の髪をショートツインテールにまとめた子と、光の加減で深緑の色を映す黒髪を時に背中ほどにまで伸ばし、また時にはシニヨンにまとめている、少し大人びた印象を与えてくる子の、大体二人だ。それに、栗色の髪をボブに切り揃えた丸顔の愛嬌のあるもう一人の女の子が、たまに絡む。アイとは共にダンスが得意という共通点があるらしく、時々同じ画角の中でダンスバトルのようなじゃれ合いをしているのが特徴的だった。

 

「前期組と後期組、みたいなことがあるのかな。アイと積極的に話してるのは、結成当時からアイと関わりがあった子たちとか」

 

 ポツリと、独り言のようにそう小さく口にしたあかねの声を、アクアが拾った。

 

()()()()()

 

 断言するような響きだった。いつの間にか画面からも外れ、下を向いていた顔をはたと上げ、あかねはアクアの方を見る。

 彼は、真っすぐにあかねの方を見ていた。

 

「この子達の名前だけど。ツインテの子が『きゅんぱん』、ボブの子が『めいめい』、黒い髪の子が『ありぴゃん』。きゅんぱんとありぴゃんは、B小町の中では追加メンバーになる」

 

 横で、五反田監督が小さく頷いている。初耳なのか、聞き知っていることなのか。

 

「アイと仲が良かったのは、基本的には後期メンバーなんだ。めいめいは結成メンバーの一人だけど、彼女は『例外側』の人間だ」

 

 もう一度、アクアの視線がディスプレイを向く。煌々としたバックライトによって彩られる液晶画面の中、五反田監督が静止させた映像は、アイの周りを取り囲む少女三人と、そこから少し離れた場所で固まって何か話し込んでいるもう三人の図を、明確に浮き彫りにしていた。

 

「台本は、初稿がもう少ししたら出来るから、カントクとあかねには出来次第渡す。詳しくはそこに書いてあるけど」

 

 あかねに背を向けるようにして、アクアは一つだけ息を吐く。響きの中に忍ばせていたのは、その感情の色は、果たしてなんであっただろうか。

 ゆっくりと振り向き、彼の視線があかねを捉える。瞳に宿る光が、刺すような鋭さであかねの視界に飛び込んだ。

 

「アイと初期組の仲は、一度完全に破綻してる。そうなった原因は、まあ色々あるわけだけども」

 

 彼は語る。

 そもそもアイが、どういう経緯で壱護社長に見出されたか。苺プロに入所したか。

 その『事情』によって生じた、アイのB小町加入に際して起こった約一か月のずれが、結成当初のB小町というグループ――小規模とは言えどもコミュニティとして確立しつつあった人間関係に、どのような影響をもたらしたのか。

 

 アイという「異物」が、「才能の塊」が、初めからそこにあったのではなく、既に出来つつあった秩序の中に「来訪者(エイリアン)」として割り込んだことが、どんなハレーションを生み出してしまったのか。

 誰もが悪くなく、しかし誰もが少しずつ悪い。それは、アイだけでも他のB小町のメンバーだけでもない。彼らを監督するべき立場であった人間たる壱護社長でさえも、その責からは逃れ得ないものだったのだろう、と。

 

 

 

「結局、壱護社長が母さんをああいう形でスカウトした段階で、破綻自体はどうやったって回避できなかったんだろう。必然のレールに乗っていた、と言ってしまってもいいのかもしれない」

 

 彼の語った一部始終に、あかねは言葉もない。アクアの語った、アイ――「星野アイ」の身の上に関する話もまた、あかねから言葉を奪い去るには十分に過ぎた。

 

「あかね」

 

 呼びかけられ、目が合う。小さく目を開いたあかねを、彼は覗きこむようにじっと見てきた。

 

「来週か再来週か、あかねのスケジュールの合うタイミングで、ちょっと付き合ってほしい。この辺りの話は社長に聞いただけなんだけど、裏取りが必要だから」

「え? あ、うん。全然いいよ、喜んで。あとでスケジュール確認しとくね」

「ありがとう。頼んだ」

 

 小さく口の端に笑みを浮かべ、微かな会釈を向けてきたアクアが、しかしそこでまた表情を引き締める。

 あかねからも、五反田監督からも、そしてディスプレイからすら目を逸らし、中空を眺めるようにして、アクアは口を開いた。

 

「それと、なんだけどな。結局このアイと初期組の仲の破綻は、B小町というグループの中にモラルの低下を招いてしまった、らしい」

 

 彼がそこで、腕を組む。目を瞑った。横顔に見える表情には、微かな迷いが窺える。まるでそれを、そこから先のことを、今ここにおいて話してしまってもよいのかという、そういう悩みだ。

 

 あかねは、ただ待った。五反田監督も、また。

 十秒が、二十秒が経ち、三十秒に達しようとした沈黙の末に、アクアが一度項垂れて、息を吐き出す。

 気を取り直すように顔を上げ、何か覚悟さえ決めるような表情と共に、再び彼が口を開く。

 

「その中の一つが、『あの事件』に繋がった。ドームライブ直前の、あの襲撃事件だ」

 

 出てきたそれに、息を呑む。あかねも、そして五反田監督さえも。

 そんな二人を前にして、彼は淡々と口にした。壱護社長からの、伝聞情報であるとして。

 

 つまりそれが、B小町メンバーとファンの間に存在していた『繋がり』という悪習であり、その中の一つであった、ニノ――新野冬子と菅野良介の関係であったのだ、と。

 

 

 

 

 

 根っからのB小町、先代B小町のファンであったMEMちょが、どこか振り切れたテンションで、高峯と、そして渡辺(めいめい)と言葉を交わしている。とりわけ彼女にとっては、今自身が扮している格好の「ご本人」であるところのめいめいと顔を合わせることのできた今の時間は、おそらく望外の喜びであることだろう。

 

 しかしそんな彼女たちの並びとは少し離れて、あかねはアクアの傍に立っていた。

 

「ルビーちゃんは? 『先代』の人たちと、お話したいんじゃないかな。確かここには来てるよね?」

 

 問われたアクアが、小さく頷いて、しかしすぐに横にも振った。

 

「挨拶済ませてる。母さんもな。けど、この人たちとはルビーは、まあ、あんまり」

「どうして? って……そっか」

 

 更に問いを発そうとして、その必要などなかったことにあかねは気づく。

 

「この人たちにせよアイにせよ、『割り切って』はいたらしいけどな。さっき母さんが顔合わせたときも、まあ無難に仲良さげに話してたよ。だけど」

 

 続く言葉は、あかねにもわかる。しかしそれをわざわざ口に出そうとするほど、野暮ではなかった。

 

 それは他人としての、『角の立たない関係』だ。互いの立場が遠く離れている今だからこそ、かつて共有した時間を、「B小町」という名前が持つ輝きによってセピア色に美化できる今だからこそ、成り立っている。

 アイと、初期メン組。その間を繋いでいるのは、『傷』と『断絶』だ。おそらくは、今もなお。

 

 ならばそれは、アイにとっては積み残したものでもある。

 きっとすべてが終わった時、アイはきっともう一度、彼女たちと向き合うことになるだろう。向き合おうとするだろう。

 あかねの中の「アイ」が、確かにそう言っていた。

 

 けれども、それでもいいのではないか。最低でも、アクアが気に病まなければならないことではない。

 そういう関係を続けることを、そういう割り切り方をすることを選んだのは、他でもない彼女たちなのだから。

 

「まあ、それでもさ。それが大人になるってことなのかもしれないよ、アクアくん」

 

 ほど近くにあるアクアの顔を見上げるようにして笑みかけてみせれば、アクアは小さく目を見開く。そこから暫し待っていれば、緩めた彼の口元から、静かに息が漏れた。

 

「……そう、なのかもな」

 

 口の端に浮かんだ笑みと共に、穏やかな声で彼は言う。

 

 ただ、それだけではこの場は終わらなかった。

 ふと、アクアが再び表情を引き締めた。

 

「だけど」

 

 視線がすっと、あかねから離れる。正面を向き、一人の女性にその焦点が結ばれた。

 倣うようにして、あかねもまた彼の見ている方角へと目線を合わせる。

 

 そこにいた彼女は、話し込む高峯とめいめい、そしてMEMちょの三人から少し離れた場所で、どこかぼんやりと立ち尽くしていた。

 

「そうも言っていられないよな、あの人に関しては」

 

 呟くように吐き捨てて、そして歩き始めたアクアを、あかねもまた追った。

 彼の真っすぐ目指す先にいるのはすなわち、『新野冬子』その人だった。

 

 

 

 

 

 

 

 楽屋のセットを離れた撮影スタジオの廊下の上、節電のためか間引きされているLED灯が作るやや薄暗い空間の中で、ベンチに腰掛けているニノ――新野冬子のことを、若者が取り囲んでいる。

 威圧感を与えないように、正面やや斜向かいの場所に、アクアが立つ。冬子の右隣にはあかねが陣取って、そして彼女の左隣には、更にもう一人の女優が座っていた。

 

「すみません、こんな風に三人で囲むような真似して」

 

 その彼女が、すなわち有馬かなが、先陣を切るように冬子に向かって話しかけた。

 

 何故、この場に彼女がいるのか。

 無論、かなが映画においてニノ――冬子の役を演じるからという面も、当然にありはする。

 しかしアクアにとって、これは後戻りのできない決断に他ならなかった。そしてそれをアクアに対して提言してきたのは、今アクアの前に座っているあかねであり、そしてルビーだった。

 

「ですけど、今じゃないと聞けないこともあると思ったので。演技の参考に、させてほしいんです。不躾なことを言っているとは、分かってますけど」

 

 訥々と、それでいて真剣に、かなは言葉を続ける。それは本当の意味で、芝居というものに真摯に向き合っている、「女優」としての在り方だった。

 

「どうして、私に?」

 

 ぽつりと、ぼんやりと、そんな曖昧さで吐き出された問いに、間髪入れずにかなが答える。

 

「理解したいと思ったからです。新野さんのことを」

 

 冬子の方を向いていたかなの顔が、正面を向いた。

 

「私の周りには、才能のある人間がたくさんいるんです。そういう人たちと戦っていくためには、私には努力しかない。……負けたくないんですよ、それこそ今私の反対にいるその子にも」

 

 目を向けることもなく、かなは「その子」、あかねのことをそう評する。負けたくない相手だと。

 らしくない。そう思った。しかし同時に、「それほどまでなのか」とさえ、思った。

 

 

 

「そっか」

 

 まるで触発されたかのように、冬子がまた言葉をこぼした。

 

「羨ましいなぁ」

 

 いや、実際触発されていたのだろう。出てきたそれは、今まで彼女が発してきたどの言葉よりも強烈な情念が、確かに籠っていたのだから。

 

 

 

「貴方たちも知ってるでしょ? 『B小町』、私たちの『B小町』には、そんなこと許されなかった」

 

 微かに、頬が持ち上がる。しかし彼女の浮かべているその表情の意味が、ポジティブなものでなどあろうはずもない。

 

「『負けたくない』? 誰も勝てないのに。並ぶことだってできなかった。あの子が持ってきた仕事で、ずっと私たちは食べてたんだから、当然だよね」

 

 視線を戻し、じっと冬子の方を見るかなの瞳が、その言葉にかすかに揺れる。

 

「どうしようもないんだから。私たちが頑張ったって、あの子がもともと持ってるものにはかすりもしない。それがあの子も頑張っちゃうんだから」

 

 ずっと彼女が「あの子」と呼び続けている存在は、新野冬子という人間の中でどういう位置づけであるのだろう。あの時も、そして今でさえ。

 決まっている。乾いてくれるはずもない。彼女にとって、未だ「あの子」――アイの存在は、生々しい現実であり続けているのだから。

 

「苦しかったよ、ずっと。もう何をやっても意味がないって諦めたくなって、でも無気力でいることはイヤで、あの子に負けたくないって気持ちがあることは打ち消せなくて、でもあの子はすごかったんだから。ずっとずっと、ずっとずっとずっと、ずっと……!」

 

 押し殺すように、絞り出すように、しかし湧きあがっているのであろう情動は、彼女の中から抑えられずに湧き出し続けている。

 胸を衝かれるようだった。引きずられそうになった。それほどの密度を、重力を、冬子の言葉の端に感じさせられた。

 しかし、それではいけない。断ち切るように、アクアは目を瞑った。

 

「……どう思ってたんですか、アイさんのこと」

 

 声が割りこむ。柔らかく透き通って、しかし同時に玲瓏なる涼やかさを帯びた声だった。

 あかねだ。あかねが、冬子に向かってそれを問いかけていた。

 

 目を再び開いたアクアの視界の中で、冬子が顔を俯ける。膝の上に置かれていた手が、握られた。

 

「わかんない」

 

 その声は、震えていた。

 

「ぐちゃぐちゃなんだ、まだ」

 

 続く言葉と共に上げられた顔の中、その目は大きく見開かれていた。瞳が、収縮していた。

 ただならぬ形相に、思わずぞわりと背筋が凍る。しかしそんなアクアのことを気にすらも留めずに、彼女は滔々と言葉を垂れ流し始めた。

 

「だけど、嫌いだった。憎たらしかった。私にないものを全部あの子は持ってて、私の持ってたものも全部あの子が奪っていって、なのにそんなもの全部どうでもいいみたいな態度で、私のことだって全然どうでもいいんだろうなって思って」

 

 少しずつ、少しずつ、言葉が早くなっていく。

 

「どうして大事でもないものを持ってくの。要らないなら返してよ。だから嫌い、大嫌いだった。そうだよ、大っ嫌いだった。いなくなってくれればいいのにって思った。居なくなってって言った。『死んじゃえばいいのに』って言ったんだ、私は。なのに」

 

 冬子の顔が、笑みを象る。その目の中から、一筋涙がこぼれて、そして落ちていった。

 

「なのに、あの子は笑うの。笑って、何でもないって顔して、じっと私の言葉を聞いてるの。どんだけ酷いこと言っても。聞き流してるんじゃない、聞いてるんだよ。聞いてるのに、笑って……!」

 

 

 

 もう、無理だった。これ以上、アクアは言葉を堪えていることができなかった。

 だから、明かすことにした。アクアの用件を、そして秘しておくべきであった事実を。

 

「だから、あなたは母さんのことを、殺そうとでも思ったんですか」

 

 冬子に対して。そして――彼女の隣でアクアの方に顔を向けた、有馬かなに対しても。

 

 

 

 彼女の吐き出す言葉が、ふつりと途切れた。身体の震えすらも止んで、その顔が上げられる。

 ようやくにして、アクアという人間の存在を意識の中に認めたのか、冬子は曖昧な笑みを浮かべた。

 

「そう、か。アクアさん……確かに、カミキさんにそっくり」

 

 過去を思い出すかのように、目を閉じる。その真横で、突然現れた現実を前に思考を止めてしまったかのような、呆然とした表情のかなの姿が、アクアの目に留まった。

 

「は、え……なに、どういうこと」

 

 聞こえた小さな呟きを、アクアは敢えて黙殺する。冬子もまた、自らの隣にいる存在のことなど認識すらしていないかのように、ゆっくりと瞼を開きつつ、首を二度三度、横に振った。

 

「違うよ。私はあの時のことは全然関係ないの」

「そうですか。だったら、あのストーカー――菅野良介が自殺したのにも、あなたは何も関わってないと」

 

 詰問するかのように追撃をかけたアクアに向かって、冬子はまた一つ、毛色の違う笑みを浮かべた。どこか、鼻白むような。

 

「社長みたいなことを訊くんですね、アクアさん」

 

 意味しているのは、たった一つだ。

 「そんな話なら、壱護社長にでも訊いておけ」。そう言って、冬子はそれ以上この話題にアクアが立ち入ろうとするのを、拒絶している。

 

 であるのならば、それでよかった。もともとアクアは、今この場で新野冬子という個人からカミキヒカルに関連する情報を手に入れようなどとは、露ほども考えていなかったからだ。

 寧ろ、逆だ。アクアがわざわざこの場所にやってきたのは、アクアの方から彼女に、新野冬子に向かって伝えなければならないことを抱えていたからだった。

 

 故に今、アクアは彼女にそれをぶつけようとしていた。

 

「別に。ですけど、それでも僕はあなたに言わなければいけないことがあるんです」

 

 肚にぐっと力を籠めて、鋭く、真っすぐに、冬子のことを見据える。

 

「知ってますか、新野さん。あなたがアイに『死んでくれ』って言ったミニライブの日から、丁度一年後の話です」

 

 視線を受けた冬子が、僅かにアクアの方から顔を背けた。まるで逃げるように。

 しかし、当然に逃がす気などない。あるはずがない。

 

「『B小町』、新野さんたちの『B小町』ですけど。結成の直後に、ブログを立ち上げていたそうですね」

 

 言った瞬間、彼女の両肩が大きく震えた。それでも、冬子はアクアと目を合わそうとさえしない。

 

「中学生の女の子たちのすることですし、こつこつ真面目に更新なんてするわけがない。そもそも苺プロに許可を取らずに作っていた個人ブログだったから、早々に放棄された」

 

 だから敢えて、アクアはそこで冬子の正面に立った。見下ろすようにして、言葉を続けた。

 

「けどその日、ブログページの非公開リストに、記事が一つ作られた。メンバーにだけ見えていればいいからです。誰がその記事を作ったのか、お分かりですよね」

 

 冬子が、俯く。その反応に、アクアは半ば確信した。

 彼女はきっと、知っていると。ブログの存在も、そこに投稿された非公開記事も、そしてその中に書かれた内容も。

 

 そうであるならば。

 あの時のアイが、孤独だったアイが、それでも発した渾身のSOSの存在を、彼女はきっと認識している。憶えている。

 そして――他でもない彼女自身が、それを削除したことも。

 

 

 

「見ていなかったのは、どっちなんでしょうね。向き合っていなかったのは」

 

 発した言葉の端が、震えていた。誰からも、それは聞こえていただろう。

 あかねにも、そしてかなにも。

 

 止められるはずもなかった。胸の中から湧き出でて止まらない情動の指し示す言葉が、自然とアクアの口からは漏れていた。

 

「最低でも、母さんはあなたたちともう一度やり直したいと思っていたんですよ」

 

 顔が上げられ、視線が合う。微かに充血したその瞳を、冬子の双眸をまるで睨みつけるようにして、アクアは最後の一言を投げつけた。

 

「あなたは、どうなんですか?」

 

 その問いをアクアが発するのと、キャストたちの休憩時間の終了を告げるアナウンスがこの場に流れるのとは、ほぼ時を同じくしてのことだった。

 

 

 

 どこか逃げるようにこの場を去ってゆく冬子を目で追って、同時にもの問いたげな視線をこちらにずっと向けながら、現場に戻ってゆくかなの姿も、視界の隅に認める。

 その両者の間に立って、アクアは一人天を仰いだ。

 

 廊下の只中、LED灯の青白い光が、ただずっとアクアのことを照らし続けていた。




本話の登場人物である「高藤エミリ」は、オリキャラではありません。小説第二弾に出てきたあかかなのライバル(というかかませ)ポジの女の子です。子役としてはかなりの活躍を見せていて、CMやモデル、舞台に引っ張りだこの女優、という設定の人物ですね。

ただ、この子、下の名前が全く同じ「エミリ」の子が本誌に出てくるんですよね。「丸山エミリ」と言う名前で、本誌111話に一瞬だけ出てきた「アイ役候補」の中の一人です。
所謂「名前だけ出演」ですね。とはいえ、あの商業主義の権化の鏑木Pがアイ役の候補に入れるぐらいなので、こちらも芸能界において相応の活躍はしているのでしょう。

この二人、実は同一人物だったりしないかな、と思ったりもしたのですが、流石に同一人物化しちゃうのはオリ設定が過ぎるので、本作においては「高藤エミリ」の方に登場してもらうことになりました。
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