天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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5-11. 遠き星の王子様

 それは、事実と認めるにはあまりに荒唐無稽な物語に思えた。

 

 映画「15年の嘘」のクランクインのまさに初日、この場にやってきたかつてのB小町の結成当時のメンバーは、皆それぞれに、平等にやってくる歳月を重ねた姿で、目の前に現れた。

 彼女たちは、現実の存在だ。どこにでもいる、普通の人間に思えた。まるであの伝説的なアイドルグループの構成メンバーの一人であった過去のことなど、遠い春の夜の夢のことであったかのように、彼女たちは実存を持っていた。ある意味では、生々しく。

 

 それでも、あの時――その中の一人、鳶色の髪をボブに切り揃えた大人しい様子の女性、新野冬子に正面から向き合ったベンチの上で、その事実はあまりに唐突に開示された。

 

 ――だからあなたは、母さんのことを殺そうとでも思ったんですか。

 

 それを言ったのは、彼女の前に立つ金糸の髪の男の子だった。言うまでもなく、アクアだった。

 

 

 

 何を言っているのか、分からなかった。聞こえた音の連なりを、理解することさえ拒みかけていた。

 そのまま二人の間に、加えて自分の反対側に腰掛けていた少女、黒川あかねを交えて流れていく話に、言葉に、ただ押し流されていく。

 何もかもが置いてけぼりのままに話が進んで、だから有馬かながその事情を、自分がその時に聞いた事情の本当のことを知ることになったのは、何とか疑問を胸の中に押し込めてその日のカットの全てを撮り終えた後の、宵も深くになってからだった。

 

 

 

 思い出す。その日の撮影終わりに、かなとアクア、あかねにルビーまで連れた四人の大所帯で入ったカラオケボックスの一室で、聞いたことを。

 

「……は? なに、それ」

「だから、お兄ちゃんと私は、ママの子供なの。アイの」

 

 訊き返したのは二度目か、あるいは三度目か。それほどまでに物分かりの悪すぎるかなに業を煮やすように、ルビーがテーブルの向こう側から身を乗り出して、そしてそこに肘をついた。

 

 逃げるように彷徨った視線が、安住の地を求めて彼に辿り着く。その、つまりアクアの双眸は微かに伏せられていて、しかしかなの目が自身へと向けられていることを察したか、ちらりとかなを見た。

 そして、こくりと黙したままに頷く。

 

「気づかれて、なかったか」

「え? いやだって、アンタたち、髪……アクアなんて」

 

 言葉に迷うあまり意味をなさない単語の断片を吐き出すばかりになったかなの方に、小さくアクアは笑みを浮かべる。垂れた前髪を指で摘むようにして、掲げてみせた。

 

「まあな。『コレ』は父親側の血だ。俺の見てくれも」

「けど、ルビーちゃんはよく見たらわかるよ」

 

 かなの左隣から、声が湧いた。その主たる、この場におけるもう一人の少女が、ルビーに対して目線を送る。

 

「髪色と表情で結構誤魔化せてるけど、真顔にして黒いウイッグでも被ったら、多分若い頃のアイさんとは見分けがつかない。アクアくんと『あの人』が、よく似てるのと同じ」

 

 断言した彼女――黒川あかねの言葉に、かなは自らの脳裏でルビーの顔を、アイのそれへとオーバーラップさせていた。

 

 確かに、瓜二つ――かもしれない。しかし、それでも、かなの中では今までの現実の全てを否定されるかのようなその言葉の何もかもが、未だに信じられずにいた。

 

 だって、もしそうなのだとすれば――。

 

「じゃあ、アイさんはアンタたちを、十六歳で産んだ?」

「ああ」

「それで、アイさんは二十歳の誕生日、東京ドームライブの直前に襲われて」

 

 小さく息を吸う。声が、どうしようもなく震えた。その先を言葉にするのが、恐ろしかった。

 けれども、言うしかない。問うしかなかった。

 

「で、アンタはその時、そのストーカーに刺されて、死にかけた……って、そういうことなの?」

 

 ――それを私は、ずっと知らなかったの? 知らされて、来なかったの?

 無言で訊ねた続きの問いさえも、きっとアクアは分かっていた。

 

「……ごめん、ずっと隠してて」

 

 だから彼はそう言って、頭を下げた。

 謝る必要など、かなに謝る必要など、何一つとして彼にはないはずだというのに。

 

 

 

 その事実は、今回の映画を彼が作ると決めた理由ばかりに留まるものではない。

 それは、全ての前提だった。彼の生涯に課せられた意味であり、義務だった。彼がこうして芸能界という世界の門を叩いた、理由でさえあった。

 

 アクアは、かなの目の前で告解した。

 十余年の月日を超え、かなと再会を果たした陽東高校の受験の日のこと、あの「今日あま」のドラマに出演を決めた理由さえも、それに、その目的に根差していたと。

 そのあと、恋愛リアリティーショー()()()に、わざわざ出演を決めた理由も。その中で、黒川あかねに目をつけた理由も。

 

「俺がやらないといけないことだった。俺じゃないとできないことだと思った。あの時確かに俺は母さんの代わりに刺されて、母さんの命は救えたかもしれない。でも俺は、まだ何もできてない。終わってなんてないんだよ」

 

 苦しかった。胸がずっと。彼の言葉を聞くだけで。その顔を見るだけで。

 

「けど、俺はそのために」

 

 言葉を切って、彼は目を逸らす。かなではなく、あかねの方に。

 それが、どうしようもなく胸をざわつかせた。

 

 だって彼は、アクアは、今初めて自分が知った、聞いた彼自身の秘密を、もうずっと前に彼女に対して明かしていたのだから。

 

「あかねには、許してもらった。許してもらった上で、協力してもらってる。けど俺は今まで、言えなかった。言うべきじゃないと思ってたんだよ」

 

 胸がどうしようもなく痛かった。

 羨ましかった。あかねが。

 憎らしかった。アクアが。

 

「君に」

 

 蚊帳の外にずっと自分を置き続けた三人のことが、ムカついて仕方がなかった。

 

「話すのが、怖かった。こんなことに巻き込むのが、嫌だったんだ」

 

 それでも、そんなことよりも何よりも、ずっとずっと嫌いだった。

 

「だけどもう、あの映画を撮る以上、無関係でなんていられないだろうから。……ごめん」

 

 何でもない顔を装って、神妙に頭を下げて、それでも確かに傷ついているはずの彼を前にして、アクアを前にして、そんな後ろ向きなことばかりを頭の中に思い浮かべてしまう自分のことが、かなは誰より嫌いだった。

 

 

 

 

 

 カーテンの閉め切られた自室の中、ベッドの上に座って、かなはぼんやりと天井を見上げている。

 あの時のやり取りの一部始終を、そこにおいて自覚させられた己の醜さを理解して、ふっと口の端に笑みが浮かんだ。

 

 固よりかなは、自分自身に根拠のない自信を持てる性格なんてしてはいなかった。

 自分を大きく見せるような威勢のいい言葉は、全部が全部虚勢だ。そのことを、かなは何よりよく分かっている。

 だから出てくる言葉に棘が出るのだ。これは所詮、裏に存在する自分自身へのどうしようもないコンプレックスをどうにか打ち消そうとするあまりの、ただの防御反応なのだから。

 

 自分自身の才能のなさは、とてもよく知っている。

 いつの間にか得意になった「泣きの演技」は、あの家の中で、かつて「パパ」と「ママ」のいた家の中で、本当の自分が流せない涙を代償行為のように垂れ流していただけだった。

 子役時代に持て囃されたのは、ひたすらに場数を踏んだことで手に入れた経験のアドバンテージを、身の程も知らずに振りかざしていただけの話だった。そしてそれが、たまたま偉い人の目に留まっただけだった。

 

 全ては、運がよかっただけなのだ。だからその運が尽きたら、かなは一瞬のうちに落ち目になった。そしてずっと、地べたばかりを這いずり回ることになった。

 それがきっと自分には、お似合いの境遇だったのだろう。最低でも、あの時の有馬かなには。

 

 

 

 かなは、理解している。自分より才能のある人間など、星の数ほど存在していることを。

 

 演技の才能において、有馬かなは絶対に黒川あかねには勝てない。

 彼女の武器は、まさに天与のものだ。並みいる役者たちが血の滲む思いをして努力して、それでも掴むことのできないキャラクターの内面に、彼女はいとも容易く潜ることができる。それを、自分のものにすることができる。

 

 「所詮は『真似っこ』だ」と、あかねはかつて言っていた。いや、いつかどこかの彼女との言い合いの中で、「アンタには自分ってものがないのよ」などと暴言を吐いたかなに呼応してのものであっただろうか。

 

 首を振った。いずれにせよ、それは黒川あかねという女優の特異とも言える才能だった。

 自分が想像できる、自分の経験によって近づくことのできる相手ではない、自分とまるで真反対に位置しているような人間さえ、彼女は「真似っこ」してみせることができるのだから。振る舞いだけではない、思考様式でさえも。

 

 だから、かなは才能という意味において、あかねを上回る何かなど持ち合わせていない。

 

 

 

 アイドルとしての資質において、有馬かなは到底ルビーに、星野ルビーに及びはしない。

 彼女の発する輝きは、余人に真似の出来るものではない。ただそこに「いる」だけで、どうしようもなく目を惹く。彼女の生まれ持った、極めて優れた容姿ばかりが理由ではない。

 いや、もはや理屈ですらないのかもしれない。そうとさえ、思う。

 

 全てを知った今、それは「血だ」と、たった一言によって彼女の資質を評価してしまいたくもなる。

 しかし、違うのだ。ずっと隣にいたからこそ、かなは理解している。

 

 星野ルビーが、アイ――星野アイの娘であることを最後まで納得できずにいたのは、なにも理由のないことではなかった。

 だって、あの二人は違うのだ。直感的に、そう思ってしまう。親と子の間にはどうしようもなく存在しているはずの、「同じ因果」のようなものが、かなにはまるで見えなかった。

 

 かな自身だって、その因果からは逃れられていない。すでに縁を切った状態になって久しい、自分の「ママ」に対してさえ、かなはたしかにそれの存在を、未だに感じてしまうのだから。

 自分の中にどこかあの母親と通ずる部分があることを、かなは理解しているのだから。

 

 だというのに、彼女にはそれがない。まるで見えなかった。

 星野ルビーという人間の根源は、なにかアイ――「星野アイ」とは別のところに存在している。そう、役者としての有馬かなの直感が囁いていた。星野ルビーと星野アイとの間の血縁関係を知った今であっても、その感覚は決して気のせいなどではないと、考えている。

 

 つまりあの子の、星野ルビーの『輝き』は、決して血によるものではない。

 言うなれば、彼女は「産まれながらのアイドル」なのだ。世界の視線の全てを、自分の上に集めてしまえるほどの。アイとは違う論理で、それを成している。

 

 だから、かなは資質という意味において、ルビーを凌ぐ何かなど備えてはいない。

 

 

 

 右を見ても左を見ても、かなには決して手に入れることの叶わない綺羅星の如くの才が、犇めき合っている。その輝きに比べれば、自分の何とちっぽけなことか。凡人であることか。

 

 だからかなは、あの日あの場所においてニノ――新野冬子が吐露した醜さすら帯びた本音に、納得する部分は確かにあった。

 彼女の焦りも、羨望も、諦念も、理解できる気はした。

 

 でも、共感はできなかった。したいとも、思わなかった。

 

 諦めたくなかったからだ。諦められないからだ。どれほどの量の泥水を啜ろうとも、どれほどの長きにわたって埃に塗れようとも、かなは「自分が役者である」という自負を、絶対に棄て去ることができなかった。

 

 「いつか、もう一度褒めてほしいから」。

 「誰かに必要だと言ってほしかったから」。

 そういう気持ちがあることは、否定しない。いや、それもまたかなにとっては、立派なモチベーションの一つだ。悪しきことだとも、醜いものだとも思わない。

 けれども、役者の道以外に進むことを露ほども考えなかったのは、結局自分が生きていける場所など芝居の世界の中にしか存在しないと、強く信じていたからだった。

 そしてそれは、今もなお何一つとして変わっていない。

 

 

 

 だから。

 だからあの時、そんな自分の前に差し込んだ光に、かなはどうしようもなく引き寄せられてしまったのだろう。

 

 何度も、何度でも、思う。あの日の出会いは、偶然と呼ぶにはあまりにも鮮烈に、その後のかなの人生を、根本的なまでに変えてしまったと。

 しかしそれを、かなは「運命」などという陳腐な言葉で表現したくはなかった。そんなつまらない言葉では、言い表せるわけもないと、信じていた。

 

 

 

 救いだと、思った。いや、事実として救われたのだ。かなは、彼に。星野アクアという少年に。

 

 かなにとって彼は、さながら「星の王子様」だった。サハラ砂漠の只中で、孤独と不安の夜を過ごした操縦士(ぼく)の前に現れた、あの少年と同じだった。

 まるで本物の王子様のような容貌で、それでいて魔法使いのような奇跡でこちらのことを飾り立ててきて、彼はかなの中で見果てぬ夢だったはずの世界を、確かにここにある現実へと塗り替えてみせた。

 

 例えば、去年の暮れにかなが主演を張った、帝劇のミュージカルも。

 歌モノと言えば「ピーマン体操」の一発屋で、そのあとは歌なんて出せば出すほど赤字を垂れ流すだけだった過去の自分が、あんな場所に、それも板の中心に立つことになるなどと。

 そんな自分の未来の姿をあの時のかなに語れば、きっとどこまでもつまらなさそうに、それを鼻で笑っただろう。「夢を見るのも大概にしておきなさい」と、そうにべもなく吐き捨てただろう。

 

 でも、違う。全ては今、現実になった。

 言うまでもなく、アクアのおかげだった。彼に誘われて、ルビーたちと新生B小町というユニットを組んだから、アイドルになったからこそ、自分はその場所に立てたのだから。

 いや、それだけではない。高千穂の一件のあと、俄かに躍進を始めたルビーに焦りを覚えていたかなを見かねたのであろう彼が、あの日苺プロの事務所(あのばしょ)であの提案をしなければ、壱護社長とてかなのことをミュージカルに出そうなどと考えることもなかっただろうから。

 

 アイドル活動の方にしても、かなたちは今、押しも押されもせぬトップアイドルとしての道を着実に進みつつある。

 来月から始まる全国ツアーは、すなわち自分たちが全国ツアーを打てるほどの数多のファンに支持されていることの表れだ。

 そしてその先には、『東京ドームライブ』さえも見えている。苺プロという芸能事務所にとっては因縁とすら呼べるその場所に、もうここから一年もしないうちに、かなたちはきっと立つことになる。

 

 二年前、放課後に彼とルビーに誘われて赴いた公園の、山吹色の残照の中で二人にアイドルの道へと誘われたその時に、今のような未来が来ることなど想像できただろうか。

 

 でもその全ては、アクアがかなに約束してくれたことだった。

 

 「一緒に夢を見よう」、と。

 彼はあの時、確かにかなに言った。そしてそれを、彼は決して嘘にはしなかった。

 

 

 

 いつも照れ隠しのように内心で繰り返す独り言を、改めて思い浮かべる。

 

 ――アイツ、ホントに私のこと好きすぎじゃない?

 そう思ってしまうほどに、ずっとアクアはかなのことを気にしてくれていた。

 

 困ったときは、助けてくれた。先に迷ってしまった時には、道を指し示してくれた。

 彼に受けた恩はきっと数えきれないほどで、それでいてずっと気安いやり取りの出来るあの少年との時間は、いつもいつも楽しかった。

 

 自らの横に無造作に置かれていたスマホを、手に取る。ロックを開いて、中を見た。

 その中に納められた写真の数々は、かなにとってのこの二年の、輝かしき二年間の、思い出の写像だ。

 

 切り取られた風景の中で、笑顔を浮かべる己の顔を見る。その横にいつもいる、B小町としての仲間の、ルビーやMEMちょの姿も。そしてそんな自分たちを時折後ろの場所から、また時には隣に立って見ている少年の、どこか呆れたような、しかし楽しげにも見える、微かに緩んだ表情を。

 

 ディスプレイの中の彼の顔を指でなぞって、かなは目を閉じた。

 「推す心もなしに、君をアイドルに誘ってなんていない」と、そう断言してくれたアクアの言葉は、かなにとってどれほどに心強いものであったか。「俺は君のことを、確かに推しているのだ」と、「君のことを、俺は確かに見ている」と、影に日向に伝え続けてくれたその存在が、どれほどにかなにとって救いであり続けていたのか、彼は理解しているのだろうか、と。

 

 そう思うにつけ、かなは自覚する。自分の心の裡に抱えるものを、あの少年に対して向ける己の心情を否定することは、もうできなかった。

 

 

 

 だから、つまり。

 

 好きなのだ。好きなのだろう。有馬かなは、アクア――星野アクアのことが。

 人としても、そして、()()()()()()()()()()

 

 

 

 それでも、かなは知っている。

 確かにアクアは、かなのことをずっと「推して」くれた。その心強さを、温かさを、かなは心の底から理解している。

 しかし、同時に悟ってもいた。

 

 恋をさせるということが、彼の視線を独り占めするということならば。

 彼の中の一番に、彼の中の唯一になるということを意味するのならば。

 「自分だけを見てほしい」という願いを彼に向けることが、かなにとっての「恋」の定義であるのなら。

 

 それは、きっと叶わない。

 彼の中の「優先順位」が一体誰の上にあるのか、かなは知っているのだから。

 

 だって、そうではないか。

 そもそも、「女優・有馬かなの再起」の起点になった新生B小町の結成にしたところで、その中でアクアがかなのことを誘うことを決めた理由にしたところで、全ては「彼女」のためだった。

 放課後の公園に自分のことを呼び寄せたのはアクアでも、最後にかなのことを自らの言葉で誘ったのは、その彼女だった。

 

 彼の妹だった。

 

 ルビーだった。

 

 

 

 思えば、ずっとそうだ。

 ルビーがアイドルをそろそろ始めたいと願ったから、彼は自ら骨を折ってでもメンバーを集めた。

 ルビーのアイドルとしての初舞台を成功に導くために、JIFに臨まんとするかなのことを鼓舞した。そのために、黒川あかねまでわざわざ駆り出してきた。

 ルビーのB小町が、アイの時のB小町のように空中分解を起こしてしまわないように、かなをアイドルとして、タレントとしてステップアップさせようとした。だから、かなのことをミュージカル女優としても売り出すようにと、壱護社長に売り込んだ。

 

 

 

 分からない、訳がない。

 

 彼の行動の、否、『世界の中心』には、いつもいつも妹の姿がある。「シスコン」などという罵倒で、そんな陳腐な言葉で表現すべきとは到底思えない何かを、彼はルビーに対して向けている。

 

 恨み節の一つぐらいは吐き出したくなるのが、人情かもしれない。アクアにか、ルビーにかは、分からないが。

 しかし、かなは到底そんな気にはなれなかった。

 

 だって、そうだろう。

 彼の出生の秘密を、アイのことを、そしてあのドームライブの日に、彼女とアクア、そしてルビーの身に起きたことを知ったかなに、彼らの今の在り方を否定することなど、出来ようはずもないのだから。

 

 

 

 だからこそ、かなは思った。

 ならば、あの子はどうなのか。彼の『恋人』という立場でアクアに寄り添い続けながら、あの子は、黒川あかねは、一体どんな気持ちを、彼に向けているというのだろう。

 あれほどまでに彼のことを理解しているであろう彼女は、その実像をどう捉えているのだろう。

 今の彼女は、何を思っているのだろう。

 

 その疑問が行動につながるのは、すぐのことだった。手に持っていたスマホでチャットアプリを立ち上げて、かなはあかねにメッセージを送る。

 

 

 

 返事は、すぐにやってきた。

 

 

 

 

 

 

 

 その場所は、どこか隠れ家のような雰囲気を帯びたカフェだった。アンティーク調の調度品とニスの塗られたオーク地の内装、天井から吊るされたシャンデリアから降り注ぐ山吹色の灯りまでもが、その場に流れる時間を外界から隔離させて、静かに、そして緩やかなものにしている。

 

 高校三年生であるかなたちは、もはやひと月後に卒業を控える身だ。三学期に入って久しい学校は自由登校で、故に仕事のない日において、午前中という時間帯はかなにとって自由に使える余暇のようなものでさえあった。

 

 それは、学校こそ違えども、学年は同じであるところのあかねにしても、そうだろう。

 いや、寧ろ進学校に通っている彼女の方が、大学受験シーズンの終わった今この時においては、学校に足を運ぶ理由はないのだろうけれども。

 

 いずれにせよ、奇跡的に双方ともに午前中の仕事がなかった――言うまでもなく、午後からは「15年の嘘」の撮影が控えている――この日、かなはあかねとたった二人でこのカフェにやってきていた。

 一対一で、面と向かって、大事な話をするためだった。

 

 

 

「こんな感じでアンタと二人っきりで話するのって、いつぶりだったかしら」

 

 注文したコーヒー――カプチーノの入ったマグカップを両手で包み、その泡に覆われた表面へと視線を落としながら、かなは正面のあかねに問いをぶつけた。

 視界の外で、空気が揺れ動く。どこかわたわたとした素振りで、きっと彼女は思案を始めていた。

 

「え? ああ、えっと……確かに、かなちゃんと二人きりなんて、言われてみればあんまりなかったかも」

 

 あ、と、そこで何かに気づいたかのようにあかねが音もなく手を叩く。

 視界の隅にそれを見つけて、かなは顔を上げた。

 

「あれかな。露天風呂」

「露天風呂……ああ、あの時の」

「うん。かなちゃんたちのMVの撮影についていった時のやつだよ」

 

 あかねの言葉に、かなも思い出した。遡ること一年前、新生B小町のMV撮影の為に訪れた宮崎の、高千穂の夜のことだった。全室離れのあの温泉宿の、貸し切り状態だった露天風呂の中で、確かにあの時かなは、あかねと二人正面切って話をしていた。

 

 内容もまた、あまりに克明に思い出せる。

 そうなのだとすれば、それは何たる因果なのだろうか。

 これから話をしようとしている、その中身のことを思えば。

 

「あの時」

 

 かなの方から、それを切り出していた。

 

「言ったわよね、アンタ。『アクアくんのこと、どう思ってるの』って」

 

 じっと、あかねの顔を見据える。

 彼女もまた無言で、かなのことを見返していた。その手に持っていたコーヒーカップが、静かにテーブルの上に置かれた。

 

「あの時は、『何でアンタからそんなこと訊かれなきゃいけないんだ』って思ったけど」

 

 あかねが、目を伏せる。

 かなには、その内心の全てを察することなどできはしない。けれども、その輪郭線の部分だけならば、朧気ながらも理解できる気がした。

 

「今ならわかる。アンタがどういう気持ちで、私にあんなこと訊いたのかも。アンタが何を思ってたのかも」

 

 そうだ。今ならば分かる。なぜあの時あかねは、かなの真意を確かめようと思ったのか。

 何故あの時、「アクアくんの未来の為には必要なことだと思う」と、あかねが言ったのか。

 

 目を、顔を上げたあかねが、何か言葉を発しようとする。空気が揺れ、唇が動いた。

 

「好きよ、私は。アイツのこと」

 

 しかしそれに先んじて、かなは声を発した。まるで、あかねの言葉を封ずるように。

 彼女の動きが、そこで止まった。

 

 

 

 言った瞬間、かなは自らの発した言葉の中に、改めて実感を覚えた。ストンと、腑に落ちている自分がいた。

 

「だって、そうじゃない。今の私がこうやってられるのは、アイツのおかげなのよ」

 

 訥々と、かなは言葉を続ける。

 

「夢をくれた。叶えてくれた。ずっとアイツは、私が初めて会った時から天使みたいで。今でもずっとカッコよくて」

 

 心の中にバラバラに留め置かれている、星野アクアという人物に対する印象を、ただひたすらに並べていた。

 

「同じもの見てくれてるみたいで、私を推してくれてて」

 

 しかし、そこで全てが途切れる。正面を向いてはいられなくなって、かなは目を伏せた。

 

「……けど、それだけじゃなかったのよね、アイツは。私は、何も知らなかった」

 

 言うまでもない。彼の過去のことをだ。

 母親の、アイのことを。その彼女を庇ってその身に凶刃を受けて、生死の境を彷徨って、それでもなお彼は、未だ母の、妹の為に生きている。彼の人生は、彼の時間は、まるでそのためだけに存在しているかのように。

 

 だからこそ、かなは訊きたかった。そのために、あかねと二人で、この場にいる。

 

「ねえ」

 

 呼びかけると同時、胸の中から情動が俄かに湧き出した。その赴くままに顔を上げて、目の前の少女に、黒髪の少女に向かって、まるで縋るように言葉をぶつけていた。

 

「知ってたんでしょ、アンタは。ずっと前から。それこそ、あの時から。高千穂行った時の」

 

 あかねは答えない。黙ったまま、テーブルの上のコーヒーに口さえもつけることなく、かなのことを真っすぐに見ていた。

 だからこそ、それは何よりも雄弁な答えだった。最低でも、かなにとっては。

 

「だったら、アンタはどうなのよ。アンタにとって、アイツってなんなの」

 

 そんな彼女に向かって、かなはどこか掠れた声で問いかけた。

 

「何を思って、アイツの『カノジョ』してるのよ、今のアンタは」

 

 どうしても、かなはそれを知らなければならないと、思っていた。

 そうすることこそが、きっとかなにとっても、星野アクアという少年のことを知る手がかりの一つになるのだと、そう考えた。

 

 

 

 数秒の沈黙が、この場に流れる。店内のBGMとしてかかっているボサノヴァ調のジャズナンバーが、耳に微かに聞こえた。

 そこでふと、あかねが息を吐く。テーブルに置かれたコーヒーカップを手に取って、一口だけ啜った。

 目を閉じて、もう一度だけ呼吸する。そして次に彼女が目を開き、かなへと視線を向けたとき――その中に浮かび上がっていた光に、かなは言葉を奪われていた。

 

 

 

「かなちゃんも、分かってるとは思うけど」

 

 静かに、穏やかに、しかし確固たる芯が入った声色で、あかねは語り始めた。

 

「アクアくんはさ、優しいんだよ。優しすぎるくらい」

 

 あまりにも濃い実感の籠った声だった。過去を思い出すように、彼女は小さな笑みを浮かべている。

 

「誰かが助けを求めてたら、動かずにはいられないんだ。アクアくんは人の痛みにはものすごく敏感だから。その人の痛みに共感できる人だから」

 

 そうでしょ、と、きっとあかねは無言のうちに問いかけていた。「かなちゃんも、憶えがあるはずだよ」と。

 

 その通りだ。彼は、ずっとそうだった。

 かなもあかねも、ルビーも。またあるいは、あの「どうしようもない大根役者」だった鳴嶋メルトにしても。

 困難を抱えて、それに向かって戦おうとしている誰かを見つけたら、手を差し伸べずにはいられない。

 何かと理由をつけて、自分の中でそれを合理化して、必要なことだからと嘯いて。でもその本質が、彼の中にある確かな善性であることは、かなとて理解している。どこまでも、身に沁みている。

 

 

 

 しかし今、目の前の少女は、そこでふと顔を伏せた。憂いさえ滲ませるようにして、小さく首を振った。

 

「でも、違う。それだけじゃない」

 

 呟くように、己に言い聞かせるようにも聞こえたその声の端が、震えている。

 

「それ以上に、多分アクアくんは、自分自身のことが、どうでもいいんだと思う」

 

 目を、見開いていた。

 上げられたあかねの顔の、その表情の中には、きっと痛みさえも内包していた。

 

「アイさんを庇って、刺されて。四歳の時のことなんだよ? どれぐらい怖かったか、痛かったか。トラウマになっててもおかしくない。それなのに、アクアくんは」

 

 テーブルに置かれていたあかねのコーヒーカップのその液面が、僅かに揺れる。見れば、側に置かれたあかね自身の手が、拳が、きつく握られていた。

 

「分からないんだよ。アクアくんは、自分の痛みが。……いや、違うのかな。分かっていても、無視できちゃうんだ」

 

 そう、なのかもしれない。

 撮影終わりのカラオケボックスの中でアクアがそのことをかなに対して打ち明けたあの日あの時、彼が浮かべていたのは、懺悔の表情だった。確かに、そうだった。

 誰に対してかなど、言うまでもない。彼は今彼自身の置かれているであろう困難などまるで意識すらしていないかのごとくに振舞って、詫びてみせたのだ。ずっと、何も言わずにいたことを。事情の悉くを、かなに隠してきたことを。

 

 誰よりも苦しんでいたのは、誰よりも痛い思いをしてきたのは、他でもない彼であるはずだというのに。

 

 

 

「そうやって、全部全部背負って、アクアくんはずっと走り続けてる。アイさんとか、ルビーちゃんとか。その中には、多分私たちのことだって入ってて」

 

 小さな呟きが漣のように広がって、宿ったあかねの悲痛なまでの訴えが、かなの胸に突き刺さる。

 

「でも、()()()()()()()()()()()()()()。……いないんだよ、かなちゃん」

 

 泣き出してしまいそうな震え切った声で、掠れ切った声で、まるで絞り出すように、彼女は口にした。

 

「なんで、なんだろう。どうして、アクアくんは」

 

 誰にも向けられていない、独り言のようなそれは、きっとかなが初めて耳にしたかもしれない、あかねのアクアに対する本音だった。

 

 

 

 かなは何も言えず、あかねもまた何も言わない。重い沈黙が場を包んで、動くことさえ億劫に感じられるほどだった。

 何とか持ち上げた手に、テーブルの上にあったカプチーノのカップを掴んで、それを一口啜る。既に温くなり始めているその中の液体が、流れた時間の長さをかなに教えていた。

 

 あかねは、動かない。僅かに目を伏せて、その手を膝に乗せていた。

 しかし、それでも彼女はそこで、自らの作り出した静寂を、他でもない己の声によって破ってみせた。

 

「だからね」

 

 そう言って、彼女はもう一度、真っすぐにかなへとその目を合わせた。

 

「だから私は、傍にいたいって思った。アクアくんの隣に、いようって決めた」

 

 視界ごと灼かれるような、強い光だった。それが、彼女の瞳の中には確かに宿っていた。

 

「背負ってる荷物を、少しでも分けてほしくて。それで、アクアくんに協力することにしたんだ。今回の映画のことだって。『あの人』――アクアくんの父親のことだって。せめて、それぐらいはって」

 

 ――だって、そうでしょ?

 そう言って、彼女は一瞬、瞼を閉じる。

 

「『今ガチ』の時の話。私は、ホントはあそこで終わってたかもしれないんだよ」

 

 小首を傾げて、そうだろうと、まるで念を押すように口にした。

 

「あの時、もし本当に歩道橋から飛び降りてたら。そうじゃなくても、女優としてはもう、ダメになってただろうなって、思う」

「それは、でもアクアは」

「そうだね。アクアくんはあれも、『俺のせいだ』って言うんだよ。『俺があの番組に出ようって思わなければ、あかねもあんな目に遭わなかったかもしれないのに』って。多分、アクアくんは本心からそう思ってる」

 

 困った人だと笑って、しかし彼女はすぐに表情を引き締めた。

 

「でも、それでもアクアくんは、私を助けてくれた。命も、未来だって」

 

 かなは、口を閉ざす。あかねの言葉に宿っている力は、思いも、己が口を挟んでよいものではないのだと、理解させられた。

 

「それだけじゃないよ」

 

 そんなかなを他所に、彼女はなおも続ける。

 

「ううん、もしかしたらこっちの方が、私にとっては大事なのかもしれない」

 

 微かに身を乗り出して、あかねはかなの目の中を覗きこんできた。

 それを通して、心の中さえも見通さんとするかのように。

 

「わかるでしょ、かなちゃんなら。あの時の、JIFの話」

 

 顎を引くことも、首を振ることも、しなかった。

 しかしきっと、あかねはその空気だけで、かなの中にある無言の肯定を、正しく読み取っていた。

 

「かなちゃんのためだったかもしれないし、ルビーちゃんのためだったのかもしれない。でも、私にとってもあれは、本当に大事なことだった」

 

 あかねが、ふとかなから視線を外す。向いた先は、この席に面した窓ガラスだった。

 冬の寒さを感じる、どこか彩度に欠けた街の情景に、彼女はぼんやりと目を遣っている。

 それでも、あかねが自らの心の中に思い描いている情景は、今この場にある現実ではないのだろう。彼女はその向こう側にある、この時分とは正反対の、あの夏の盛りの夜のことを、「JIFの夜」のことを、きっと想起しているのだろう。

 

「アクアくんがいなかったら、私たちはこうやって話をすることだって、もうなかったかもしれない」

 

 その目元が、少しだけ笑う。穏やかな表情で、また一つ息を吐いた。

 

「だからそういう、アクアくんが繋げてくれた『縁』、みたいなものは、今の私にとってものすごく大事なことなんだって、本当に思う。私の人生にとって、アクアくんは必要なんだって」

 

 そして、彼女は再び正面を向く。視線をかなの上に定めて、目には再びの光が戻っていた。

 心の中が、ざわついた。きっと彼女は、何か大事なことを、後戻りのできないことを、かなに向かって伝えようとしている。そう、直感した。

 

 呼吸を一つ挟んでから、あかねの唇が、動く。

 

「前、高千穂の話だけど。かなちゃんに訊かれたよね。『そういうアンタはどうなの』って」

 

 言葉は要らない。無言で頷いた。

 こくりと小さく頷き返して、あかねは一瞬、視線を上に、天井に向ける。あの時の気持ちを、互いに懐いたであろう気持ちを、思い起こすかのように。

 

「あの時はそれどころじゃなくて、まだよく分かってなくて。だから、答えられなかったけど」

 

 その目が、顔が、前を向いた。居住まいを正し、背を伸ばすようにして、彼女はかなに正対した。

 

「でも、今なら言えるよ。やっと、自分の中にあるものを言語化できる」

 

 穏やかな表情で、柔らかな声で、しかし発される言葉の中に宿る意思は、どこまでも強い。

 かなが今、あかねに告げた自らの思いに、呼応するかのように。

 

「隣にいたいんだ。同じ時間を過ごしていきたい。アクアくんと一緒に、笑える未来が欲しい」

 

 ――だから。

 

「だから、アクアくんの隣は、譲れない。譲りたくない。かなちゃんにも、()()()()()()()()

 

 その宣言と共にあかねの見せた表情は、双眸に宿った輝きは、今日この場所で見た彼女のそれの中でも一等強く、また鮮やかなものだった。

 

 

 

 その覚悟を、決意を、自分はどう受け止めるべきなのだろう。

 どう、受け止めたのだろう。

 

「そ」

 

 頭の中に過ぎった幾重にも折り重なった情動は、しかし結局そんなたった一つの音となって、ぽっかりと生まれた二人の間の沈黙を破った。

 

「まあ、アンタらしいんじゃないかしら、黒川あかね」

 

 気づけば、かなはそう言って笑っていた。口の端だけを吊り上げるような、笑顔だった。

 

 その理由は、自分でもよく分からない。

 最低でも、彼女に対して抱えている心情がポジティブなものばかりでないことだけは確かだ。

 

 ――なによ。私だって、アイツのこと。

 そう思う心があるのは、きっと致し方のないことだろう。先にアクアと知り合ったのは自分で、あかねにそれを「かっさらわれてしまった」と、どこか僻みや恨みのようなものをぶつけたくなる心理を、否定することは難しい。それが筋違いのものであると分かっていても。今まで自分が彼に対して何もできてこなかったことは、自覚していても。

 

 しかしそれ以上に、きっとかなはあかねに対して確かな親近感を覚えていた。

 「アクアくんのことは渡さない」と、そう宣戦布告をされたにも等しいというのに、そんな彼女のことが、無性に頼もしくさえ見えていた。

 

「あ、うん」

 

 当然にと言うべきか、どこか呆気にとられたかのような趣で、思わずと言った口調で、あかねが反応する。

 しかし同時に、そこで彼女は目を伏せた。

 

「でも、ごめんね。それなのに今更、アクアくんのことを」

 

 それはどこかバツの悪そうな表情で、そして声だった。

 曰く、「今更」。彼女の発したその言葉の意味を、かなは理解している。

 

 ――「今更」、かなちゃんの気持ちを確認するようなことをして、と。

 ――「今更」、アクアくんの事情を話すようなことをして、と。

 

 しかしそれはかなにとって、全くもって正しくない。見当違いの台詞ですらあった。

 

「今更? バカ言ってんじゃないわよ」

 

 はっと、あかねが顔を上げる。小さく目を瞠って、息さえも呑んでいた。

 そんな彼女の姿を見て、かなは自らに言い聞かせる。

 

 そうだ。「今更」だなどと、そんなことあるものか。

 

 あの少年の、アクアのことを知るのに、遅すぎるなどということはない。

 今まで知ろうとしてこなかったのは、かなの方だ。動こうともしなかったのだって。

 それを勝手に、あかねに「自分のせい」にされては、たまったものではない。

 

「私は、まだ諦めてなんてないから。アンタがボケボケしてたら、ホントに持って行かせてもらうわよ」

 

 ――だってほら、アイツ私のことアイドルにしちゃうぐらい好きみたいだし?

 だから、かなは敢えてそんな言葉を吐いてみせた。どこか、あかねのことを挑発するように。

 

 かなちゃん、と声が聞こえた。小さく、どこか噛みしめるかのような響きで。

 彼女は聡い。敢えて嗾けた、その挑発の裏にあるかなの意図を、きっと彼女は読み取っている。

 だから、だろうか。彼女の発した呟きには、どこか安堵にも似た響きさえも、混じって聞こえた。

 

 そのあかねの姿を視界に捉えて、かなはもう一度口を開く。

 

「ドーム公演」

 

 短く切ったフレーズに、あかねの焦点が再びかなの上に固定された。

 

「え?」

「今年の、クリスマスの。それが終わったら、言うわ、私も。その頃には、映画の撮影も終わってるでしょうし。私も、まあアイドルとしての活動に、一区切りつくタイミングだから」

 

 戸惑うような声を上げた彼女に、畳みかけた。

 その言葉が何を意味しているか、分からない彼女ではない。今、どういう覚悟を、どういう決定を、かながあかねに伝えようとしているのかだって。

 

「……そっか」

 

 だから、あかねの口にしたその小さな吐息の如くの言葉には、確かな納得の色があった。

 かなは、黙したまま頷く。そして徐に、彼女に向かって身を乗り出した。

 

「だから、アンタもそろそろ、考えなさい。アクアとのこと。アイツに何を言うか」

「アクアくんに……」

 

 どこか呆然と、あかねはかなの言葉を繰り返す。思案に沈むかのように、また僅かに顔を俯けた。

 しかしそれも、ほんの数秒のことでしかなかった。かなが見据えるテーブルの向こうで、彼女の纏う空気が、そこでふと和らいだ。

 

「そう、だね。そう、だよね」

 

 自らに言い聞かせるような小さな言葉と共に、ゆるりと顔が上げられる。

 その声に、表情に、もう迷いはなく――そして彼女は、微笑んだ。

 

「――ありがとう、かなちゃん」

 

 そこに籠った感情に、恥ずかしいほどに真っすぐな言葉に、かなはただ、鼻を鳴らすことだけで応えた。

 

 

 

 テーブルの上のカプチーノのカップを手に取って、それを飲み干す。

 中身はもう、すっかりと冷めきっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 それから一週間ほどののち、あかねとかなとの間で再び演じられることになった「アイ」と「ニノ」の決別のカットは、かなをして、そしてあかねをしても会心とも言える出来栄えを見せることになる。

 あかねへの対抗心、それに同居する親近感、仲間意識と、かなの中から掘り出した、あかねという、あるいはルビーという絶対的な才能に対する、憧憬と諦念。

 新野冬子という女性との邂逅に端を発した全ては、かなの芝居を確実に一段上のものへと押し上げるに足る力を、きっと持っていた。

 

 

 

 上げるべきものを舞台へと上げ、最終幕は進んでゆく。

 その向かうべき先にいる者の影を、僅かに滲ませながら。

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