天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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5-12. 空のない夜

 時は夜、一面の窓ガラスの向こうには、広がる闇に抗うかの如くに瞬く街の灯りが、光の筋を形作っている。眠らない街である東京の、人の営為を証明するかのように。

 一方のこのリビングには最低限の照明ばかりが灯されていて、それが淡く照らし出す人と物の影が、床に薄く伸びていた。

 

 この場所に、つまり姫川大輝のマンションに足を運ぶのは、もう何度目のことだろうか。アクアはそんなことを考える。

 

 テーブルを囲む顔ぶれも、また同じだ。

 星野アクア、黒川あかね、そして姫川大輝。この三人である。

 

 ガラス張りのテーブルの上、置かれた水の入ったグラスに視線を落としながら、アクアはやや身を乗り出すようにしてソファに腰掛けている。

 あかねは例日の如くに持参したメモを開いて左手に持ち、反対側の右の手にはペンが握られていた。何か気になることがあればすぐさまに書き留める、そういう心構えの表れだろう。

 そんなアクアたちのことを眺めつつも、この部屋の主――大輝は背凭れに寄りかかり、少しだけしゃくるように顎を上げた。

 

「……片寄ゆらに関してだけどさ」

 

 唐突に、先陣を切るかのように、大輝がその口を開く。

 

「結論から言うとだけど。あの登山の時からこっち、カミキヒカルは一度もあの人に接触してないっぽいな、どうにも」

 

 発された言葉に反応するように、アクアはゆっくりと顔を上げる。あかねが僅かに視線を動かし、大輝に続きを促した。

 

「俺も何度か様子を聞いたけど、『最近ミキさんと会えてないんだよねー』ってな感じで。まあ、本人はちょっと寂しそうにしてたけどな」

「……寂しそう、ね」

 

 アクアの吐き出した呟きは、己が思っているよりも随分と低い声だった。

 

「つまり、カミキヒカルが手を引いた可能性が高いと」

「ま、そういうことだ」

 

 大輝は頷く。腕を組んで、どこか挑みかかるような視線で、彼はアクアのことを見据えてきた。

 

「『答え合わせ』、ってとこだろうな、ある意味」

 

 どこかつまらなさそうに、鼻を鳴らす音がする。

 その彼の言葉に、そして仕草に宿る含意は、明白だ。

 

「あの山の時の、やっぱりカミキヒカルは狙っていたってことか、ゆらさんを」

「そりゃそうだ。けど、それだけじゃなくてだな」

 

 身を乗り出し、ガラス張りのローテーブルの上に片手をついた。

 

「今までの話もだ。アクア、やっぱりアイツは『クロ』だぞ」

 

 彼の掛けている眼鏡のレンズが、照明に反射して白く輝いている。「もう認めるしかないぞ」と、その奥の彼の視線が語っていた。

 

 無論、アクアとてそのことは認識している。大輝がこの場で一番主張したかった部分こそがそれであるということも、理解はしていた。

 大輝がわざわざそういう言い方をしたことも、その理由も。

 

 アクアにとっては、敢えて触れないようにしていた仮説だった。

 ほとんど確信していながら、しかし同時に「そうでない可能性」を、きっと心のどこかで探していたのだ。

 多分それは、アイのためだったのだろう。彼女があのDVDに託した願いに、アクアはきっとまだ縋りたかったのだ。ある意味では。

 しかし今、大輝が自身に向けている眼差しの真剣さは、アクアが敢えて触れないようにしていたその部分を、もはや直視せざるを得ないことを、雄弁に語っていた。

 

「まあ、な。ある意味、俺たちの『これ』は、骨折り損にはならないわけだ」

 

 ――残念なことに。

 続くその言葉を、アクアは飲み込む。それほどに茶化した物言いをしなければ、やっていられなかった。

 

「けどまあ、一個分かったことはあるんじゃねぇか?」

 

 そんなアクアの向こう岸で、大輝は小さく肩を竦める。

 無言で続きを促したアクアに、彼はただあっけらかんと続けた。

 

「『しくじったら、手を引く』ってことだ。最低でも、しばらくの間はな」

 

 違うか? と。

 そう念を押すように小首を傾げてみせた彼を前にして、アクアは腕を組んでいた。

 

 そう、なのだろうか。

 疑問を懐いてしまうのは、アクアの中に「反例」が一つあるからだ。

 言うまでもない。アイのことである。

 

 アクアが――否、雨宮吾郎が死ぬ原因となった、あのアイの出産の日の出来事。

 そして、ドーム公演当日の、あの忌まわしき朝の出来事。

 

 最低でもアイは二度命を狙われた。そのはずだ。

 ただ同時に、確かにドーム公演のあとのここ十数年の間は、カミキヒカル側に目立った動きが見られなかったのも、また確かだった。相応の警戒をしているという部分はあるにせよ、ではあるが。

 

 ならば、大輝の主張は正しいのかもしれない。

 あのドームの朝の一件以降、カミキヒカルにとって何か行動規範の変容をもたらすに足る出来事があったということだ。あるいはそれこそ、「二度共にアイを死なせることに失敗した」という、その事実自体がそれに値しているとも考えられようか。

 

 いや、それともアクアが『一度目』だと考えているあの高千穂の出来事は、本当は一度目ではなかったのだろうか。

 つまりカミキヒカルの中で、あれは()()()()()()()()()()()()()()()のだろうか。

 

 

 

「まあ、それはそれとしてだ」

 

 思惟に沈むアクアの耳朶を、しかし不意に大輝のその声が打つ。

 顔を上げれば、大輝は今一度、少しだけアクアの方に向けてその身を傾けていた。

 

「アクア、お前の方の話も聞かせてくれよ。あるんだろ?」

 

 発されたそれは、行き詰った今の議論に転換をもたらす、促しの台詞だった。

 沈黙に焦れたか、あるいはこれ以上この話題を続ける意味はないと断じたか。いずれにせよ、アクアとしても否やはない。

 

「ああ」

 

 一つ頷き、腕を解く。居住まいを正して、大輝のことを見据えた。

 そして、口を開く。

 

「映画の話だけど」

 

 前置いてから、アクアはすぐに本題へと移った。

 

「カミキヒカルは、予定通り『株式会社メディアEYES』名義で製作委員会の中に入ってる。鏑木さんも接触したって報告があったけど、今のところ怪しい動きはない」

「鏑木Pが? ……なるほどな」

 

 どこか興味深げな調子で、大輝はアクアの言に反応した。

 

「お前の言ってた通り、しばらくは大人しくしてるってわけか」

「多分な。でも、油断はできない」

「そりゃそうだ」

 

 言うと同時、大輝はちらりとアクアの隣、あかねの方に視線を遣る。

 今まで一度もこちらの話に口を挟んでいない彼女は、しかしどこか真剣な表情で手に持つメモにペンを走らせていた。

 材料を揃えて、考えをまとめてから、意見を述べるつもりなのだろう。アクアもまたその姿を視界に納めてから、続きを口にした。

 

「あとは、まあ知ってるだろうけど、B小町の方にも動きがある。あと半月で、全国ツアーだ」

「B小町? ……ああ、お前の妹んところのか。確かにそうだったな」

 

 切り替わった話題に一瞬首を傾げてから、納得したかのように大輝は首を縦に振る。

 しかしそこで、何かに気がついたかのように顔を上げた。

 

「ん? 待てよ。じゃあ、映画はどうなるんだ?」

 

 つまりは、そういうことである。

 言うまでもないことだが、今回の映画の中には、『先代B小町メンバー役』として新生B小町の三人は共にクレジットされている。

 そのあたりの兼ね合いを、どうするつもりなのか。大輝が疑問に思うのは、当然だろう。

 

「並行作業だよ、勿論」

 

 唇の端を上げて答えたアクアの台詞に、大輝は小さく仰け反った。

 

「マジかお前。なんつースケジュール組んだんだよ」

「まあ、な。けど、まあ『丁度いい』部分もあってさ」

 

 テーブルの上に置かれているグラスの水を、いくらか呷る。

 口を拭って、言葉を継いだ。

 

「今回のライブは五か所でやるんだけど。東京、仙台、名古屋、大阪。あと、『宮崎』」

 

 最後に言った地名に、一瞬大輝が眉をひそめる。

 どうして、その並びで。そう思ったのだろう。しかしすぐに彼は、どこか納得したかのように声を上げた。

 

「……なるほどな、ついでに撮影までやろうって肚か」

「そういう話だ」

 

 まさしく、彼の言う通りの話である。とは言え、全国ツアーの開催地の決定と映画のロケーションの決定は特に相互に関係しているわけでもなかった故に、あくまで偶然の産物ではあるのだが。

 

 いや、そればかりではない。

 映画の撮影にせよ、全国ツアーの巡業先という意味にせよ、アクアとして、ルビーとして、再びあの地に足を踏み入れることの重要性を、そして同時に危険性さえも、アクアは認識していた。

 

「だけど」

 

 その存念が、言葉になる。潜めた声に首を傾げてみせた大輝に向けて、アクアは同じ調子のままに続きを口にした。

 

「あっちにいる間は、色々気をつけといたほうがいいかもしれない」

「そりゃまた、どうして」

()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 大輝が息を呑む音が、ここからも聞こえた。

 

 隣を見れば、あかねもまたその表情を引き締めている。

 しかし、彼女が今この場でそういう様相を見せている理由は、今アクアが表向きにおいて話した理由によるものでは、きっとない。

 

 彼女は知っているのだ。まさにあの地において、星野アイの担当医だった一人の産医が、雨宮吾郎が、おそらくカミキヒカルの手によって命を落としていることを。

 尤も、その時系列に関しては未だ彼女は誤解していることだろう。何せアクアは彼女に対して、「星野アクアは雨宮吾郎と面識がある」という体で、かつて雨宮吾郎の生涯のことを語ってみせたのだから。

 

 まあ、それはこの場においては詮無い話だ。なんであれ、アクアたちがやらなければならないことに変わりはない。

 

「ないとは思うけど、カミキ側からの接触がないように警戒しとくべきだろうな。まあ、そもそもウチの社長、ツアーの間は全員にガッチガチに警護つけるらしいけどさ」

 

 その話をルビーにしたときに、彼女が零したボヤキのことは、アクアも覚えている。「お土産も満足に買えないじゃん!?」などと、まあ大層にご立腹であったことは、記憶に新しい。

 とはいえ、こればかりは我慢してもらうしかない。アクアたちの目下最大の脅威については、未だ解決の手がかりにすら至っていないのだから。

 それは、ルビーも当然に分かっているはずのことだった。

 

 

 

 アクアがそこで口を閉じたことで、一瞬ばかりこの場に沈黙が生まれる。

 故にアクアはそこに続くべき話題を探そうとして、しかしそこに不意に「第三の声」が割り込んだ。

 

「カミキさんと言えば、だけど。金田一さんから、気になる話を聞いて」

 

 言うまでもなく、あかねだ。隣を見れば、彼女もまたアクアの方へと視線を向けていた。

 

「金田一さんが?」

「うん」

 

 頷いて、そして彼女は大輝の方にも目を向ける。

 

「あの人、毎年お彼岸には姫川愛梨さんの墓参りに行ってるらしいんですけど。それで」

 

 そこで一度だけ呼吸を入れて、彼女は口にした。

 

「去年の秋のお彼岸。カミキヒカルが来てたみたいなんです。姫川愛梨さんのお墓」

 

 一瞬で、場が凍りついた。

 

 

 

「……カミキが?」

 

 掠れたような、小さな声だった。半信半疑とも言うべきその響きは、姫川大輝から発されていた。

 当然と言えば当然だろうか。姫川愛梨は、彼の、姫川大輝の母親でもあるのだから。

 

「はい。何年ぶりかの再会だったらしくて、驚いたって言ってて」

 

 あっさりと言ってのけるあかねの言葉は、しかしそれとはまったく裏腹な、深刻とも言える声の響きを伴っている。

 

「お墓の前で少しお話しただけらしいですけど……『前とあんまり変わってなかった』と。こちらからはそれとなく聞いた感じですけど、特に何か変な感じはしていなかったみたいです」

 

 思わず、アクアは腕を組んでいた。

 思惟を巡らせる前に、確認がてら大輝に声をかける。

 

「姫川さん」

「ん?」

「前、カミキヒカルと直接会ったよな、ゆらさんと一緒に」

 

 片眉を上げてアクアの声に反応した彼が、しかし続いた確認には、あっさりと頷く。

 それを受けて、アクアは自らの確かめるべき部分を、大輝に問うた。

 

「つまり、あれだ。その時の印象、聞いてなかった気がしてな」

「……ああ、そういう話か」

 

 返答は、あっさりとしたものだった。

 

「まあ、おっさんと印象としてはそんなに変わらなかったな。人当たりは悪くない。ゆらさんが違和感なく付き合ってたんだから、そりゃそうだろって話だけど」

「……確かに、そうだったな」

 

 あまりにも道理だ。大輝の言葉に、アクアは苦笑を禁じ得なかった。

 

 あの時、大輝は片寄ゆらの同席の上で、カミキヒカルと顔を合わせた。大義名分をそこに求めたのだから、「片寄ゆらとカミキヒカルの席に大輝がお邪魔した」という表現の方が寧ろ正しいかもしれない。

 いずれにせよ、「ミキさん」として良好な関係を築いているであろう彼女の前でカミキヒカルがおかしな振る舞いなどするわけもないのは、言うまでもないことであったろう。

 

 彼に向かってそれを訊くのは、愚問と言うよりほかになかったか。そう内心で自嘲してみせたアクアの前で、しかし瞬間、大輝はすっと背筋を伸ばした。顎を引いて、真っすぐにアクアのことを見てきた。

 

「けど」

 

 視線を合わせたアクアに向けて、彼は言う。

 

「カミキヒカルはそれが出来る人間だってのは、確かなわけだ。だから奴はそうやって、『標的』の女の子に近づいてきた。他人の人生を無茶苦茶にしてきたってことだ。何人も」

 

 先に反応したのは、あかねの方だった。ゆっくりと、深く頷く。

 「深刻」とすら評価できるような、強い真剣さを帯びた表情が、その顔の上に見えていた。

 

「そうやって、世間を騙して、カミキヒカルは今も普通に生きてる。当たり前の顔をして、普通の人のふりをしてる」

 

 大輝の言葉を、あかねが継ぐ。視線をすっと、アクアの方に走らせた。

 

「アクアくんも、それが分かってるからああいうことをしたんでしょ。出資者の中にカミキヒカルを巻き込もうって」

 

 静かな声だった。問いではなく、確認にさえ等しいような。

 思わず、まるで逃げるように、彼女から目を逸らしていた。

 

 

 

 初めてその疑いを彼に対して持ったのは、丁度この場所で大輝から『あの話』を聞いた時だっただろうか。それとも、その脅威がアクアもその顔を知っている女性に、片寄ゆらに対しても牙を剥いたと、大輝もその巻き添えになりかけたと、知った時だったか。

 

 カミキヒカルと知人関係にあった複数の女性が、散発的に、およそ十年にわたって次々と不測の事態に見舞われた。

 命さえ落とす結果になった者もいれば、この芸能界における「芸能人としての生」を失うに留まったものもいる。そして、それを阻止できた者も。

 

 しかし、そのどれにも、カミキヒカルの関与があったという証拠はない。一つもない。

 複数の事件、あるいは事故の共通項、全ての重なる場所に、彼の存在が浮かび上がるだけだ。

 

 

 

 その構図に、そしてあかねから、大輝から聞いたカミキヒカルの振る舞いに、アクアの中で一つの仮説が固まりつつあった。

 目の前にあるグラスを手に取って、口を湿らせる。逸らしていた目を、意を決してあかねに、そして大輝に合わせた。

 

「カミキヒカルには」

 

 集まった注目を意識して、言葉を切る。正しい表現を探りつつ、続く中身を再び口にした。

 

「多分、罪悪感みたいなものがない。感じていない」

 

 それはカミキヒカルが、『怪物』に成り果てているからか。

 無論、その向きはあるかもしれない。けれども、そういう単純な悪魔化によってあの男のことを卑小化させるのは、きっと正しくない。

 

 彼の在り方は、心情は、行状は、もっとずっと複雑なものだ。

 言いながら、アクアは自身の思考そのものを整理していく。

 

「そもそも、薄すぎるんだ。カミキヒカルと『事件』とか『事故』の間に、ほとんど線がない。見えない」

「……そうだな」

 

 大輝もまた、それには頷いた。

 事実だからだ。大輝が、アクアが、そしてあのあかねにしても、過去にあったカミキヒカルの周りの女性たちの『惨事』の中に、あの男の存在は影すらも見つけられなかった。

 

 けれども、アクアが言及したい部分は、寧ろその先にこそあった。

 

「それだけじゃない。というより、こっちの方が本題か」

 

 伏し目がちになっていた顔を上げる。目を向けたのは大輝ではない。あかねだった。

 アクアの切り出し方に、メモを取るために走らせていたであろうペンを止め、少しだけ訝しむような目線を向けてきた彼女に向けて、それを説く。

 

「不確実性が強すぎるんだ」

 

 あかねが、僅かに眉を顰めた。

 

「不確実性?」

 

 口の中で転がすように問い返してきた台詞に、アクアは頷く。

 

「だって、そうだろ。ゆらさんのことにしても、その前の、シマカンの週刊誌の件にしてもそうだ」

 

 アクアの指摘に何を思ったか、あかねが自らの頤に手をやる。少しだけ、その目線が下を向いた。

 

「本当にカミキが一枚噛んでいたとして、あれは確実に仕向けられるものじゃない。シマカンの話は、カミキが目をつけたあの女優が絶対にシマカンに引っ掛けられる保証なんてなかったし、それを週刊誌に撮られるかどうかだって、カミキには制御できない。いや、リークをすれば別だけど、アイツがそれをした形跡はないんだろ」

 

 ちらりと向けた視線に応えて、大輝が無言で首を縦に振った。

 

「ゆらさんの話なんて、もっと露骨だ。姫川さんたちがぶつかりかけたっていうその登山客の男だけど、耳にヘッドホンしてたんだったよな」

「そうだ。よく憶えてるな」

「大事なことだからな」

 

 大輝に答えて、あかねに視線を戻す。

 

「手口はいくらでも思いつく。例えばゆらさんのSNS投稿とか、それよりも前に直接聞いてた予定みたいなところからスケジュールを逆算して、姫川さんたちにかち当たりそうなタイミングでその男を電話で呼び出すようにした、とか。至急の用事とかで。直接電話をかけたのがアイツだとは思わないけど、そうなるように仕向けるぐらいのことはしたかもしれない」

 

 だけど、と言葉を繋ぐ。

 

「それだって確実じゃない。というか、博打に近い。実際、ゆらさんは生きてる。姫川さんが傍にいてくれたからな」

「言い出したのはアクアだけどな。お前があそこで『ゆらさんが危ない』って言ってなかったら、どうなってたかなんて分かんねぇぞ」

「そう、かもしれない。けど、それでもだ」

 

 急速に、アクアの中で考えがまとまっていく。指し示すのは、一つの可能性だった。

 

「だから、つまりアイツは、カミキヒカルは――」

 

 明確な形を帯び始めたそれを、アクアはこの場に提示する。

 

「何かを『試してる』みたいに、見えるんだよ」

 

 それを聞いた大輝も、あかねも、暫く何も言わなかった。

 

 

 

 『プロバビリティーの犯罪』という言葉が、世には存在する。言い出したのは、確か高名なミステリ作家だ。

 彼は自らの執筆した小説に、偶然性に頼った殺人トリックを繰り返すことで目的を、つまり殺人の完全犯罪を遂げようとする犯人を登場させた。

 その手口を、すなわち「確実性を期すことなく、偶然の作用によって偶発的に自らの狙いを達成することを目論む」というそのやり方を、かの小説家は斯くの如き造語によって形容した。

 

 カミキヒカルの行動原理に対して、アクアは今それに近いものを感じている。

 ただそれよりも、おそらくあの男の目標達成への意思は、きっと希薄だ。

 

「『どっちでもいい』んだ、アイツには。自分の『狙い』以上に大事なものが、多分カミキにはある」

 

 零れ出たアクアの言葉に、先に反応したのはあかねだった。

 

「それを、『試す』……」

「ああ」

 

 反芻するかの如くの彼女の言葉に、頷いて答える。

 そしてその文脈において、カミキヒカルという人間が何を試そうとしているのか、アクアには概ね見当がついていた。ついてしまっていた。

 

 思い出すのは、あのドラマだった。その中でアクアが演じた、カミキの来歴を彷彿とさせる、あの『彼』のことだった。

 

「自分か、相手か。いや、どっちもなんだろうな、多分」

「……何の話だ?」

 

 多分に抽象的なアクアの物言いに、大輝が首を傾げる。しかしそれには、あかねが答えた。というより、アクアに向かって確かめてきた。

 

「『自分の力を試してるみたいだ』って、言いたいんだ、アクアくんは」

 

 僅かに目を瞑って、あかねの確認の言葉にアクアは頷いた。

 

 

 

 彼がしていることはきっと、「証明」にも似ている。

 自らが持つ力が、「人を騙し、影響を与え、従わせる」力が、自らの目をつけた女性に対してどれほどの影響力を持つか。彼女たちの人生を、不可逆に捻じ曲げることが可能であるのかどうか。

 いや、『自分の力によって、彼女たちの人生が歪んでしまうのかどうか』と言った方が、おそらくは近い。そう、アクアは内心で考えていた。

 

 ならば、そうして弄んで、致命的に歪めてしまった女性たちの人生を見て、カミキヒカルは何を思うのか。

 そもそも何故、彼はそういう行動原理を持つようになったのか。

 彼のターゲットとする存在が、悉く女性である理由は、何なのか。

 

 

 

 あの日、アイが死ななかったから。アイを、殺さずに済んだから。あるいは、殺せなかったから。

 彼自身の深層心理に、女性という存在に対する傷が、刻まれているから。

 姫川愛梨にされたことも、彼女を死なせたことも。

 

 アイに、決別を告げられたことも。

 

 

 

 それが理由であるとするのならば、端緒であるというのならば、アクアが選ぶべき道は、おのずと決まってくるのだろう。

 

 彼がこれ以上、その力を振り回すことのないようにするために。

 その魔の手が、アクアの周りの誰にも及ばないようにするために。

 

 つまりそれは、『終わらせる』ということだ。そこへのビジョンが、アクアの心の中には確実な像を持ち始めていた。

 

 

 

「まあ、それもこれも俺たちの『疑い』が全部正しければ、の話だけどな」

 

 しかしアクアは今、その全てを心の底に押し込めて、敢えて軽い調子であかねに答える。

 

 これもまた、確かな本心ではあった。

 アクアには未だ、心のどこかで諦めきれていない部分がある。こうしてあかねに改めて自らの考えを問われたことで、そしてカミキヒカルの現状に対する洞察を深めたことで、アクアは自身の中で「そうではない可能性」を意識していたことに、期待していたことに、今更ながら気づかされた。

 

 カミキヒカルに対する自分の懸念は、考え過ぎかもしれないと。そうであってほしいとさえ、多分、思っていた。

 そうでなければ、母は、アイは、あまりにも救われないだろうと。

 

 けれども、そんなある種の『誤魔化し』は、きっと彼女には見切られていた。

 

「ねえ」

 

 あかねの声が、その響きが変わる。事実を淡々を追う、分析的で乾燥したそれから、一定の情感を帯びた、深みと湿り気を帯びたものへ。

 そして、彼女は問いかけてきた。

 

「アクアくんはさ、どうするつもりなの。カミキヒカルのこと」

「どうする……って」

「答えて」

 

 逃げることは許さないと、言外に言っていた。

 いや、違うのだろう。「逃げられないよ」と、そう彼女は言っているのだ。アクアは、その問いから。

 

 

 

 逃げては、いない。逃げるつもりなどない。けれども、あかねがそう思うのは、きっと無理からぬことなのだろう。

 

「アイさんを、カミキヒカルに会わせるって、アクアくん言ってたよね」

「そうだな」

 

 あかねが、小さく頷く。瞳の中の理知の光が、真っすぐアクアを照らしている。内面さえも、見透かそうとしているかのように。

 

「アクアくんはさ、それでカミキさんを……」

 

 言いかけた言葉を、しかし彼女は飲み込んだ。小さく首を振って、アクアから僅かに視線が逸れた。

 

「違うか。それはアイさんの思ってたことなのか」

 

 図らずも、目を見開いていた。

 あかねが口にした台詞は、その意味は、アクアが未だ彼女に対して明かしていないアイの心情を、言い当てていた。

 

 ――彼を、救ってほしい。

 かつての彼女のその願いは、今はもう遠いものなのかもしれないけれども。

 

 憂いさえ帯びたような、あかねの横顔を見る。

 自らの見つけ出した答えに、彼女は何を見たのか。目を瞑って、軽く息を吐くようにして、そしてもう一度、彼女はアクアの上に己の焦点を合わせた。

 

「なら、アクアくんは? アクアくんは、カミキヒカルをどうしたいの?」

 

 再びの、問いだった。

 同時にそれは、つまりアクアの中にある『優先順位』と、結論の話だった。

 

 誤魔化しは利かない。故に今この場所において、アクアはこう答えるよりなかった。

 

「……まだ、考えてる。完全には決まってない」

 

 嘘ではない。アクアは未だ、着地点を一つには定めていない。

 楽観も悲観も、希望も諦念も、全てが綯い交ぜの状態であるのは、本当のことだった。

 ただ、その中の一つの可能性を、殊更に重く見ているだけだった。

 

 嘘は言えないのだ。彼女に嘘は通じない。いとも簡単に、あかねはそれを見抜いてくる。一年半から二年に至りつつあるあかねとの付き合いの中で、アクアは嫌と言うほどそのことを思い知らされていた。

 

 互いに見合ったまま、数秒の時が流れる。ほんのわずかに眇めた目でアクアを見据えたあかねが、ふっと息を吐きだした。

 

「そっか」

 

 たったその一言の中に込められた多層の情感が、アクアの胸を静かに衝いた。

 彼女の手に、ペンを握るその手に、その時僅かに力が入ったことも。

 

 

 

 

 

 共有すべき話題が尽きたことで、この場はお開きになる。

 そろそろ夜も更ける頃合いだった。長居をする理由はない。アクアとあかねは共に、大輝の部屋を後にしようとする。

 しかしそこで、二人ともに玄関を出ようとするその直前に、ふと大輝はアクアのことを呼び止めた。

 

「アクア、ちょっといいか」

 

 少しの逡巡が、アクアの脳裏を走る。しかしそれもほんの一瞬のことで、あかねに「先に出ててくれ」と促せば、彼女は軽く頷いて、一人外へと出て行った。

 彼女の姿がドアの向こうに消えるのを待って、大輝はアクアに振り返る。

 

「……で、どうするつもりなんだ?」

「……何の話だよ」

 

 混ぜっ返すような返答に、大輝が肩を竦めた。

 

「黒川の話だよ。あいつの言ってたこと、どうする気だ?」

 

 つまりそれは、アクアがあの場所であかねに対して答えた内容を、大輝は疑ってかかっているということを意味している。

 随分な洞察力だ。内心で、アクアはそうぼやいた。伊達に劇団ララライの看板役者はしていないと、そういうことだろうか。

 

 一度だけ、アクアは玄関扉の方に目を遣る。

 防犯性と防音性を兼ね備えたこの部屋のドアは重く厚く、相当に声を張り上げない限りは、話す声が外へ漏れ出ることはない。

 大輝に、視線を戻した。目を瞑り、息をする。

 そして、答えた。

 

「まあ、あかねにはああ言ったけど。……ある程度、想定はしてる」

 

 声が、息が漏れた。大輝からだった。

 

「……だろうな」

 

 そう言って、ほんのわずかに目を細める。それは束の間のことで、彼もまたアクアと同じように、一度玄関の方へと目線を送った。

 

「まあ、お前が何を考えてるのかも、何となく分かる。なんたって、お前の兄だからな、俺は」

 

 言って、振り返る。どこか茶目っ気を帯びた声と、そして表情だった。

 呼応するように、アクアの口の端が微かに動く。浮かんだのは、苦笑だろうか。

 

 しかしそこで、大輝は徐にアクアの方へと向き直った。纏う空気が、刹那、入れ替わる。

 見れば、彼の向けてくる目線にあるのは、もはや剣呑とも言えるほどに鋭い光だった。

 

 一歩、足を踏み出す。わずかに近づいた距離で、彼は口を開いた。

 

「まあ、あれだ」

 

 頭に手をやり、ガシガシと掻く。どこか言葉を探すように。

 それでも、アクアに向け続けている眼鏡の奥の双眸の色ばかりは、ずっと変わらない。

 

「俺はお前ほど頭が回るわけじゃねぇ。でもな、言えることはある」

 

 一際強い輝きが、アクアを射貫く。

 

()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 そして発された彼の言葉は、忠告というよりも、寧ろ願いに近い響きを持っていた。

 アクアは静かに、大輝の瞳を見返す。

 

「分かってる」

 

 嘘ではない。アクアは分かっている。どんな理屈を捏ねたところで、誰かを悲しませる選択に、そうして描かれる未来の絵図面に、価値などない。あるわけがないと。

 だというのに、アクアにはそう返した自分の声が、どこか遠くに感じられて仕方がなかった。

 

 そして大輝は、それきり何も言わなかった。

 

 

 

 アクアは扉を開け、外に出る。

 部屋の外、廊下の只中で待っていたあかねが、くるりと振り向いた。

 

「何か話してた?」

「……別に。大したことじゃない」

 

 答えたアクアに、彼女は目線を合わせる。じっと、目をのぞき込むように。

 しかし結局、あかねがそれ以上何かを聞いてくることはなかった。

 

 

 

 どちらともなく、廊下を歩きだす。互いにただ、黙したままに。

 敷かれたカーペットを踏む二人の静かな足音だけが、その場所には響いていた。

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