天には星を、人には愛を   作:厳冬蜜柑

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5-14. 「わたし」にさよならを

「なんか、いよいよって感じがするね!」

 

 羽田空港の国内線出発ロビーの只中に、底抜けの明るさを持った少女の声が響く。

 その声色に違うことない軽やかな足取りと共に、艶やかに長く伸ばされた明るい金色の髪が跳ね、そして揺れている。

 

「いやー、今まで行ったことないんだよね()()! MEMちょは?」

 

 自身のメンカラと同じ赤のキャリーケースを引っ張りながら、ルビーは隣を歩くMEMちょの方へと顔を向けた。

 

「私もないなぁ。YouTuberって言っても、私外ロケやんないタイプの配信だし。プライベートだとあんま旅行しないし。っていうより、『してる暇がなかった』のほうが近いかも……」

「そうなんだ! じゃ、一緒だね! どんな場所なのかなぁ」

「ねぇ。私も名前とか写真とかしか知らなくて。道頓堀とか御堂筋とか新世界とか」

「わかるー! 行ってみたいなってなるよね! あ、ねね、それじゃさ――」

「アンタたち」

 

 唐突に、声が割り込む。姦しく喋り始めた二人の更に前、黒いキャリーケースを引き連れながら歩くもう一人の少女が、ちらりとルビーたちに向かって振り返った。

 

「分かってるでしょ? 私たちずっと『これ』よ? あっちでも。プライベートの時間とか取れるわけないじゃない」

 

 肩の上で切り揃えられた、赤銅色の髪が揺れる。やや目を細めるようにして、その彼女――有馬かなはルビーたちの話に敢えて水を差した。

 

 「これ」というのは、つまり今の彼女たち新生B小町を『物理的に』取り巻いているあれやこれやのことを指している。

 

 彼女たちは今、完全な包囲態勢の下にあった。いや、正確さを期すならば、「護送態勢」と言うのが妥当か。

 マネージャーをつとめているミヤコ、所属する事務所の社長である壱護社長に、ルビーの兄であるアクア、そして公式において彼女たちを「プロデュース」する立場にある、先代B小町のセンターのアイ。

 まずその四人が彼女たちの前後を固めた上に、その周りに更に苺プロのスタッフが更に五、六人ほどついて回っている。

 

 総勢二桁の大所帯だ。その、まるで蟻一匹通さないとでも言いたげな物々しい雰囲気のことを改めて意識してか、途端にルビーが苦い顔をした。

 

「思い出させないでよー、先輩。忘れようとしてたんだからさぁ」

 

 声を潜めてそう言って、ちらりと後ろを見る。

 その先にいるのは、アクアだ。同時に、隣に立つアイのことも、彼女は視界に納めた。

 軽く溜息をついて、また前を向く。

 

「けどまあ、しょうがないんだろうね。何せ初めての全国ツアーだし」

 

 ロビーの只中、チェックインカウンターの前までやってきた一行の真ん中で、ルビーが立ち止まって天を仰ぐ。

 

「思えば遠くに来たもんだ、だよねー」

 

 声の調子が、そこで変わった。見れば、その横顔に宿っているものも、きっとそれに通ずる何かなのだろうと思わせる。

 

「なにそれ。らしくないわね」

「だってそうじゃん」

 

 かなの声に反応するように、ルビーが視線を正面に向ける。どこか苦笑いにも似た表情で彼女のことを見ていたかなが、正面に見えたルビーの顔にか、僅かに目を瞠る。

 

「全国ツアーだよ? ミニライブは色々やったけど、でも大きいライブはまだ四回目なのに」

 

 答えに迷っている様子のかなに、ルビーは尚も言い募った。

 

「しかも大阪の会場、『城ホール』なんだよ! 『城ホール』! 凄くない?」

 

 くるりと、ルビーが振り返る。自ら畳みかけるように言葉をかけていたかなの答えを待つこともなく、その視線が、真後ろを向いた。

 

「ね? お兄ちゃんもそう思うでしょ?」

 

 僅かに身を屈めるように、上目遣いで訊ねてきた彼女の躑躅色の瞳と、アクアのそれが合う。

 ほんのわずかの沈黙を経て、アクアは一つ、頷いた。

 

「……ああ、そうだな」

 

 アクアの視線の先で、ルビーが無言のまま、蕾が綻ぶように笑った。

 

 

 

 「全国ツアー」。アイドルとして、その言葉に憧れを抱かないものは、きっといないだろう。

 日本の中、各地を巡って、その町の中の大規模なイベントスペースやコンサートホールにファンを集め、パフォーマンスをする。それが出来るというのはつまり、東京と言う人口密集地の外においても十分なファンを動員できるということの証明だ。もしくは、自分たちの全国ツアーの全日程を追いかけていって各地を巡ってくれるほどの熱心なファンがついたということの表れだったりもする。

 どちらの意味にしても、それは一つの到達点ではあった。

 

 新生B小町がアイドルユニットとしてデビューしてから、一年と半分。彼女たちは、とうとうそこに辿り着いた。

 その期間を長いとみるか短いと見るかは、人それぞれかもしれない。

 大手レーベルのアイドルグループを基準とするなら、少し時間がかかったという評価もされ得るだろう。何せ彼女たちは、グループの結成の最初のライブが武道館、その次がいきなり全国ツアーなどという一足飛びのテンポで活動の幅を広げていくことさえザラであるからだ。

 しかし同時に、ああいう大手レーベルのアイドルプロジェクトからデビューするような少女たちは、往々にしてその前に年単位の下積みを重ねていることが多い。所謂「研修生」のような形で、デビューに先立ってメンバーを決め、その中でじっくりと人間関係を構築して、また時には「研修生ライブ」のような小規模ライブで先行して顔見せさえしながら、大々的な売り出しのタイミングを図る。

 その期間を考えれば、全国ツアーなどという一大成果に至るまでのトータルの時間は、結局三年から五年辺りに落ち着く。

 

 であるのなら、やはりルビーたちのこの短期間における躍進は、明らかに目を瞠るものがあるのだろう。アクアはつくづく、そう思う。

 

 彼女たちのこれまでの歩みに、思いを馳せる。

 結成から一か月足らずの急造品として上がったJIFの舞台は、よくよく考えれば随分な無茶をしたものだった。

 ロクな下積みもなく、集めたメンバー同士で仲を深めるだけの時間も殆どなかった。今にして思えば、ルビーを高校一年生の段階でアイドルデビューさせることを考えるなら、それよりも前に彼女だけでも本腰を入れたアイドル関連のレッスンを受けさせておいた方がよかったのかもしれない。そんな、先に立たない後悔を今更に懐く。

 

 ただ逆に、そういう計画的な下積みと共に事務所を挙げたメンバー集めを初めから進めていたら、ルビーの周りに彼女たちがこうしてやってくることも、きっとなかった。これほどの強烈な才能を持った少女たちが一堂に会することもなかったのだ。

 確かに、それならそれで、ルビーはまた別の道を歩んではいたのだろう。かなともMEMちょとも違う「誰か」と親睦を深め、ルビーらしくその道を進んでいたのかもしれない。

 けれども、もしそうであったのなら、これほどの速さで彼女はここまでやってこれただろうか。

 

 それだけではない。壱護社長も、かつてのB小町において犯してしまった過ちを、もう一度繰り返さなかった保証があるだろうか。これほどの才能を秘めた、星野ルビーという少女を前にして。

 

 人生万事塞翁が馬、禍福は糾える縄の如しと言う。

 未だ原石のまま、磨かれずにあったルビーという才能の周りに、すでに確かな才能をこの世に示していた二つの星が寄り添った。だからこその、今なのではないか。

 

 ならば、きっと全ては巡り合わせだったのだ。無駄なものなど、何一つなかった。

 そしてもしそこに、アクアという人間がほんの少しでも影響を与えることができていたのであれば、それはもはや望外とさえ言うべきものだ。

 ルビーの為に、自分の存在が意味を持てたというのならば、それはアクアにとって、吾郎にとって、救いでさえあったから。天童寺さりなにあの日語って聞かせた未来絵図が、気休めに過ぎなかったかもしれない夢物語が、今確かにこの場所で、『本当』になっているのならば。

 それが、偽らざるアクアの心情だった。

 

 

 

 新生B小町と苺プロの一行は、羽田から国内線で伊丹空港に降り立ち、そのまま大阪市内に入る。

 そこから二日後、新生B小町のサードワンマンライブ兼初の全国ツアー、「Glare×Sparkle」と銘打たれたそれがいよいよ、大阪府は大阪市、大阪城ホールより始まった。

 

 公演初日となったその日、アクアもまた関係者席の中に入って、彼女たちの雄姿を見守っていた。

 

 照明の一切が落とされ、暗闇の中にあった会場の中に、ライブの開始を告げるオープニングSEが流れる。

 「POP IN 2」のインストだ。漣のように薄く広がっていた場の期待が、一気に熱を帯びる。

 アリーナ席の中央から見上げるスクリーンが俄かに輝きを発し、そこにB小町のロゴが大きく映し出された。

 いや、それだけではない。煌々と放たれる光を背後に受けて、三つの黒い影がステージの上に現れる。

 

 観客がそれに気がついた瞬間、既に確かな興奮の中にあったこの場の空気が、まるで爆発したかのような錯覚をアクアは懐いた。そう思ってしまうほどに、会場を揺るがす割れんばかりの歓声が、耳を聾した。

 

「すごいすごいすごい! ねえアクア、見てる!?」

 

 隣に立っているアイも、また例外ではなかった。興奮を抑えられないような声と一緒に、同意を求めるかのように、彼女の手がアクアの肩を何度も叩く。

 

「……ああ。見てるよ、母さん」

 

 彼女の方は、見なかった。アクアの視線は、ただステージの中央に注がれていた。

 一斉に灯ったフットライトが、ポーズを取ってそこに立つ三人のアイドルの姿をくっきりと映し出す。

 

 ――ルビーちゃーん!!

 ――かなちゃーん!!

 ――MEMちょー!!

 

 悲鳴にさえ聞こえる呼びかけが、アリーナの四方八方から投げかけられ続ける。

 

『みんなー! お待たせー! 会いたかったよー!!』

 

 それに反応するかのように、ポーズを解いたルビーが大きく手を振る。また一段と沸き立つ会場に、彼女は弾けんばかりの笑顔で応えた。

 

 

 

 瞬間、アクアの脳裏に、一つの記憶がフラッシュバックした。

 これと同じ景色を、「彼女」は見ていた。吾郎と一緒に、テレビの画面の中に、それを見ていた。

 彩度を失い、灰色に沈む病室に、虹の色彩が差し込む。ベッドサイドに据え付けられていた小さなブラウン管のディスプレイが映し出していたその景色は、きっと彼女にとってはただ一つの心の支えで、そして夢だった。

 ――一度でいいから、あの場所に行きたい。

 希って、しかし叶わなかった場所でもあった。

 

 けれども、今確かにルビーはそこにいる。かつて仰ぎ見て、憧れていたそこに、しかし「見る側」ではなく「見せる側」として、彼女は立っているのだ。「憧れる側」ではない、「憧れられる側」として。

 

 

 

 光が踊る。あちらでも、こちらでも。ペンライトの光に、ピンスポットの光。それを反射するルビーたちの衣装の煌めきも。星の海の只中に、漂っているようでさえあった。

 始まった一曲目は、奇しくも彼女たちが最初にステージに立ったあのJIFのそれと同じだった。

 

 ――STAR☆T☆RAIN。

 そのアップテンポなテクノサウンドに合わせて踊り、そして歌う彼女たちは、この瞬間を確かに謳歌している。

 ルビーだけではない。かなも、MEMちょも。

 

 地鳴りのような合いの手に、彼女たちのパフォーマンスはますます熱を帯びていく。天さえも、焦がすように。

 

「ルビー!! 最っ高だよぉーー!!」

 

 我を忘れたように、アイが手に持つ深紅のペンライトを振っている。その隣で、アクアは同じようにメンバー全員分のペンライトを振りながら、ただずっとステージの上を見ていた。片時も目を離さず、網膜に焼き付けるように、一つとして忘れないように、それを見ていた。

 

 

 

『大阪ー! 盛り上がっていこー!!』

 

 だから、だろうか。ふと、彼女の表情が、振る舞いが、記憶の中の同じ景色とオーバーラップする。

 あの時も、アクアは、吾郎は、その笑顔をこの目で見ていた。アイの笑顔を見ていた。隣にさりながいたときも、彼女がいなくなってしまったあとも。

 

 曲も、立ち位置も振り付けも、何もかもがその過去と、重なって見える。それでも、アクアには分かった。

 

 その二つは、違うものだ。

 つまりルビーはもう、アイになろうとはしていないのだ、と。

 

 あの場所でアイが見せていた笑顔とルビーのそれは同じようで、でも確かに別の色を宿している。アイがかつて歌っていた「愛」とルビーのそれもまた、異なる意味を持っていた。

 

 アイがかつて信じたいと思ったものを、ルビーは既に信じている。

 アイがそれでも嘘だと思っていたものを、ルビーはもう、本当へと変えている。

 

 ルビーはきっと、アイとは別の答えに辿り着こうとしている。これまでの歩みの中に、彼女はそれを見つけていた。

 「どういう自分でありたいか」。「アイドルとして、何を世界に向けて伝えたいのか」。ルビーの中にしかない、ルビーだけの答えが、彼女自身の中で確かな形を帯びつつある。

 

 JIFも、高千穂の一件も、天童まりなとの決別も、そして映画そのものも。きっと一つとして、ルビーにとって無意味なものはなかった。

 その全てを受け入れた先に今があるのならば、もはや彼女はもう、いつか抱いた大きな夢からそう遠くない場所にいるのだろう。

 それがたとえ、「ママよりすごいアイドルになる」という荒唐無稽な目標であっても。

 

 

 

『みんなありがとー!! じゃ、次の曲行くよー! 今度は私たちの曲! 「POP IN 2」!!』

 

 交わされるコーレスと、千切れんばかりに振られ続けるサイリウムやペンライトが、彼女たちを飾り立て、夢の時へと誘う。

 その全てが織りなす音と光の奔流に身を任せながら、アクアは思った。

 

 

 

 ルビーの、そして彼女たちB小町の結実の日は、確かに近づいている。

 それは夢と宿命の交差点だ。

 

 今年の、冬。全国ツアーを成功裏に終え、映画を完成させた暁に、彼女たちが到る極点。

 

 ――東京ドーム単独ライブ。

 そここそが、きっと約束の場所なのだろう。ルビーにとって、アクアにとって、そしてもう一人――アイにとっても。

 

 

 

 ならば――その日が訪れた時こそ、アイのこれまでの旅路はきっと、到るべき終着点へと辿り着くのだろう。

 自らを超えて先へと進んでゆく娘に、顔も知らない同い年の、病室の中に臥せっていた少女に向けて、アイは既に、そして確かに手渡していたのだから。名前のない祈りを。繋がれてゆく救いを。

 仮令アイ自身が、それを知ることは決してないのだとしても。

 

 そのことが、アクアには無性に、どうしようもないほどに、嬉しかった。

 

 

 

 

 

 大阪城ホールに始まったB小町全国ツアーの初日は、斯くも大盛況のままに幕を閉じた。そしてそこから彼女たち新生B小町は、全国五か所、二公演ずつの計十公演を、およそ二か月かけてこなしてゆく。

 

 この大阪、大阪城ホールから始まり、東京の国立代々木競技場第一体育館の凱旋公演で終わる一連の行程は、彼女たちにとってはまさにノンストップの、多忙極まりないスケジュールだ。

 ライブそのものに、現地での取材や宣伝。ルビーには当然に学業が残っているし、そして今高校三年生であるかなは、このライブの真っ只中において陽東高校からの卒業を控えている。MEMちょにしても、普段のYouTuberとしての活動を蔑ろにはしていない。

 

 そして、彼女たちにはもう一つ、大きな仕事が存在している。

 言うまでもなく、映画「15年の嘘」の撮影だった。

 

 

 

 

 

 初日の大阪から二週間、名古屋公演に次ぐ三か所目のライブ会場がある街に、苺プロ一行はやってきた。

 ライブの期間においてはほぼ常時随行の状態にある壱護社長とミヤコの二人だけではない。スケジュールの都合もあって名古屋公演には参加することが叶わなかったアイが、ここにはいた。そして、アクアもである。

 

 宮崎県宮崎市。「シーガイア・スクエア1」という、サッカーコートにもなる野外イベント会場で行われることとなる新生B小町全国ツアーの宮崎公演には、しかしそれが始まるより四日も前のこの日に、全員が現地入りを果たしていた。

 その日の午後、イベント会場に併設されているホテルにチェックインした面々は、まずこれからの行程とライブ全体のフローを確認する。

 そして一夜が明けた次の日、一行は早速にして動き出す――とは、いかなかった。

 

 

 

「じゃあ、夜までにはホテルに戻るから」

「うん、行ってらっしゃい、アクア。ルビーも」

「はーい!」

 

 朝食を食べ終えた午前十時、ホテルの前で、アクアは見送りにここまで来ていたアイに声をかけた。

 そこにいたのはアイと、そして壱護社長にミヤコの二人だ。ここにいないかなとMEMちょは、共に部屋で一休みしている。

 

 そしてアクアの隣にいるのは、ルビーだ。お揃いのサングラスと帽子を被り、立っているのはホテルのフロントに回してもらったタクシーの傍だった。

 どこに行こうとしているかは、言うまでもない。

 

「あんまり連れ回すなよ、アクア。明日は『撮影』の日なんだからな」

「分かってます。帰りもタクシー手配するようにしているので」

 

 釘を刺してきた壱護社長に向けて、アクアは会釈と共に言葉を返す。

 

「無理言って予定一日空けてもらってるわけですし、何としても無事に帰します」

「何としてもって……大げさすぎだよお兄ちゃん」

 

 横で苦笑交じりに見上げてくるルビーの背中に、軽く手を回した。ぽん、と一つ叩いて、開いたままのドアの奥へと彼女の身体を促してゆく。

 

「大事な時期だからな、お前にとっては。じゃ、行ってきます」

 

 そうして二人、今一度見送りの三人に一礼をして、タクシーの中に乗り込んだ。

 スライドドアが閉まり、そしてゆっくりと景色が後ろに流れ始める。

 

 

 

 今日この日は、昨今において多忙を極める新生B小町の、貴重なオフとなっている。

 そしてその時間を使って、アクアとルビーの二人は遠出を計画していた。

 

 向かう先は、言うまでもない。

 その場所に、すなわち高千穂町に二人が足を踏み入れたのは、陽が天に高く架かる、正午のころのことだった。

 

 

 

 星野アクアとして生を享けて二度目となるこの場所は、冬の最中であった前回のそれに比べて、いくらか春の匂いを空気の中に漂わせている。あの時は、量こそ少しではあったものの、道端に雪さえもが根雪として積もっていたが、今日この日においてはそんなものなど影一つとして存在していなかった。

 

 それでも、春は遠い。周囲に比べて標高の高いこの地においては、三寒四温の歩みは遅々として進まず、未だ桜の蕾は固く閉ざされたままだ。

 

 そして、まるでその代わりとでも言うかのように、梅の花の白い花弁が街の景色を彩っていた。草木は枯れ、命の息吹きの見えなかった前回のそれとは違って、ここにあるのは確かな命の、芽吹きの始まりだ。それを、見る人に印象付けるかのようだった。

 

 いや、そうではないのだろうか。

 自然は自然のまま、そこにあるだけだ。故にそこから、眼前に広がるこの地の情景から何を受け取るかは、あくまでそれを感じ取る人間次第だという、それだけの話なのかもしれない。

 

 あの時のことをなぞるように、バスターミナル近くの観光案内所で電動アシスト付き自転車をレンタルする。そして同じように昼食を済ませてから、アクアは目的地へとそれを走らせた。

 唯一、アクアの隣にいるのが、あかねではなくルビーであるということが、しかし最も大きな違いではあるけれども。

 

 

 

 平地を進み、丘を登る。目的地より少し前の場所で、二人はともに自転車を降りた。

 理由はない。強いて言えば、それは過去を手繰る行いだとでも言うべきだろうか。

 

 未だ枯れ木が横に立ち並ぶばかりの道の上を、共に自転車を押しながら歩く。

 

「懐かしいね」

 

 最中、呟くような声が聞こえた。

 隣を見る。言うまでもなく、ルビーが発した声だった。

 

「春になるとさ、桜がすっごく綺麗だったよね。来るのもうちょっとあとだったら、見れたかなぁ」

「……そうだな。一回か二回か、一緒に歩いたか」

「車椅子押してもらったって言う方が正しいけどね」

 

 ここは、つまり通り道だ。丘の上にある病院、宮崎総合病院へと至る、遊歩道だった。

 かつて吾郎だったアクアは、ほぼ毎日のようにこの道を使って自宅と病院との間を往復していた。一度アクアたちが来た方向へと戻り、然る後に丘を越えたその向こう、いわば裏手とも言うべき場所が、つまりかつての吾郎の住んでいた、今や廃屋となって久しいあの家だった。

 

「『私』が生きてた時の看護師さんとか、もういないよね」

「かもな」

 

 視線を合わせず、共に前を向いたまま、会話が交わされる。

 

 看護師とは、回転の速い職種だ。なにせ、その平均勤続年数は十年を切る。天童寺さりなが亡くなったのは、もう二十年以上も前の話だ。平均勤続年数から考えて、二世代、いや、三世代ほどの隔絶があるその当時の面々が、今もあの病院に残っているとは考えづらいのも事実だろう。

 理由はいくつもあるだろうが、その最大の要因はやはり職種としての忙しさにある。特に彼女が入院していた脳神経外科の病棟は、脳卒中による救急対応が一定以上の頻度で発生する多忙なセクションだ。定着率という意味では他の科よりもはっきり低い。望みはより薄いかもしれない。

 

「けど、俺たちが生まれたときのNs(ナース)ぐらいなら、いてもおかしくない」

 

 だから代わりに、アクアはそう答えた。

 こちらとて十七年、否、そろそろ十八年前になるわけだから、実際のところがどうかは分からない。けれども、脳神経外科に比べれば産婦人科の看護師の方が定着率がはっきり高いのもまた事実だ。実際、アクアは吾郎として、あの病院に二十年ほど在籍する「古株」の看護師がいたことを知っている。

 

「そっか。そう、だったらいいな」

 

 小さく息を吐き出すように、ルビーがアクアの声に言葉を返す。

 ゆっくりと歩を進めていた互いの足音が、それと共に止まった。

 

 ともに見上げるその場所は、つまり表玄関だった。

 ――宮崎総合病院。

 その白く、大きく聳え立つ建物の、ガラス扉の入り口が、アクアとルビーの二人の前に今、立ち現れていた。

 

 

 

 

 

 エントランスから中へと入り、見渡す待合室は、かつての景色とほとんど同じだった。

 二十年にも近いその歳月が設備にもたらす不可逆の変化は、確かにある。よくよく見れば、自販機やバリアフリー設備あたりの細かい設置物にも、当時との違いを意識はする。

 けれども、それでも、この場所はかつてのそれと同じだった。光の回りも、壁や床の色も、流れる空気さえも。

 

 見慣れた空間を、通い慣れた道を進み、今は懐かしい受付に辿り着く。

 とはいえ、今のアクアたちの立場は患者ではない。当然に、病院の関係者でもない。何と言って切り出すべきかは、そもそも何を言うべきなのかでさえ、難しいところがあるのは確かだ。

 

 結局、アクアはただ正直に事実を伝えることにした。と言うより、それよりほかにやりようはなかった。

 

 ――十八年前、ここで生まれた「星野」という者です。

 ――たまたま近くを通りがかったので、ちょっとご挨拶をさせていただこうかと思いまして。

 ――当時のことを知っている方とか、まだこの病院におられたりしますか?

 

 動機と経緯こそ誤魔化しているが、それ以外の全てでアクアは嘘をつかなかった。つけなかったという方が、あるいは正しいのだろうか。

 ただ、いずれにせよその結果として、アクアたちの前には一人の看護師が現れた。

 

 その顔に、アクアは見覚えがあった。二十年にも迫る歳月はその彼女の風体を確かに変えさせてこそいたが、纏う空気はかつてと同じだ。

 あの頃の吾郎にとっては一番近しい間柄とさえ言えた、どこか冷めた目をしたあの看護師ではない。けれども、確かに吾郎は彼女のことを知っていた。

 

「星野さん……そうですか、十八年前。もう、そんなになりますか」

 

 どこか噛みしめるようにそれを口にする彼女は、一瞬瞑目した後に、細めた目でアクアを、ルビーを見た。

 

「また随分と、凛々しくなられて。妹さんも、こんなに可愛らしく……」

「ありがとうございますっ!」

 

 えへへ、と満更でもなさそうな笑みを浮かべながら腰を折るルビーのことを見る彼女の目線は、確かに過去を懐かしむ者のそれだった。

 

「貴方たちのお母様も、それはもう目が覚めるような美人さんだったものねぇ……そうだ、お母様は、お元気?」

 

 そうして問われたそれに、しかしアクアの胸は、一瞬だけ跳ねる。現実に引き戻された心持ちだった。

 

 アクアとルビーの二人が星野アイの子供であるという事実は、現状として世に対し固く秘されている。

 けれども、この病院の産婦人科であの時アイを担当した数人のスタッフは、最低でも「星野アイ」という個人が十六歳の若さで妊娠し、子供をもうけたという事実自体は知っている。

 

 「星野アイ」と「アイドル・アイ」の二つを繋ぐ線に最も近い場所が、この病院だ。ひいては、彼女でさえある。

 十八年の時の流れが彼女の記憶を風化させているのならば、それを下手に掘り起こすのは、避けるべきことだろう。

 最低でも、一時の感傷のままに何かを口走っていい相手でないことだけは、確かだった。

 

「……ええ、おかげさまで」

 

 故にアクアは彼女からの問いかけに、ただその一言だけを答えとした。

 

 

 

 結局、その看護師――確か「川村」という名字の女性だった――との以降のやりとりは、単純な世間話に終始するに留まった。星野兄妹の母――星野アイのことを深掘りされるのも都合が悪く、また自分たちからすれば一見して縁もゆかりもない天童寺さりなの話が出来るわけでもない。産婦人科と脳神経外科では領域が違い過ぎて、彼女とてきっと知らない名前であったろう。

 そして――「雨宮吾郎」の話も、また出来なかった。彼女は未だ、吾郎のことを「突如行方不明になった顔見知りの産科医」だとしか記憶していない。彼が、つまりアクア(吾郎)が死んだことも、つい最近その遺体が発見されたことも、彼女は知らない。

 それでよかった。そんなことを知る必要など、どこにもありはしない。

 アクア(吾郎)にも、ルビー(さりな)にとってもきっと、この場所が思い出のままであったという事実さえあれば、それ以上のことは何も要らなかった。必要なものだとは、思わなかった。

 

 

 

「変わってなかったね」

 

 来た時と同じように、正面玄関から外に出る。あの看護師に見送られ、初春の空の下に再び足を踏み出したところで、ルビーがぼそりと、そう口にした。

 噛みしめるようで、でもどこか突き放したような物言いにも聞こえた。自らの中に、何かを納得させるような響きだった。

 

「そう、だな」

 

 駐輪場に自転車を取り、遊歩道へと戻って、その場所からもう一度、アクアは、ルビーも、病院を振り返る。

 白亜と表現するのは些か美称が過ぎようが、されど春の訪れも近く僅かに霞む空の下に輝くその白い威容は、やはり何度見ても、かつてと変わることのない立ち姿だった。

 

 そして、その場所から続くこの遊歩道もまた、連なる郷愁の中の一つだ。

 緩やかに左に向かってカーブする路面と、それに沿うように植えられた桜が作り出す並木道は、吾郎にとって見慣れたものであると同時に、いくつかの記憶を呼び起こすものでもあった。

 

 さりなと二人、彼女の車椅子を押しながら何度となく出向いた散歩のことも。

 そして、桜紅葉の落ち、降り積もった枯葉道となったここを、その腹に二つの命を宿しながら歌い歩くアイの姿を後ろから見守っていた、あの日のことも。

 

 忘れ得ぬ感傷だ。忘れてはならない記憶でもあった。

 けれども、今この時ばかりは、それに耽溺しているわけにもいかないのだろう。

 

 

 

 隣を歩くルビーと並び、遊歩道を抜け、共に自転車に跨る。向かう先は、そこから丘を一度下りて十分ほどの場所に位置していた。

 

 

 

 二束の生花を携えて、アクアは「それ」の目の前に立つ。周囲には同じような黒や灰の石板が立ち並んで、ここがいかなる場所であるのかを、訪れた人に知らせている。

 

 石板に刻まれた文字と、その墓碑銘と、ただ無言で見合う。

 あるのは、家名ではなかった。「天」も「童」も「寺」も、そのうちの一文字さえも、存在してはいなかった。

 

 代わりに見えるそれを、アクアは黙読した。

 「倶會一處」。「(とも)に一つ処にて会わん」と訓ずるその言葉を、彼らは、この墓をこの場所に建てた人たちは、如何なる思いによって、ここに刻むことを決めたのか。

 罪滅ぼし、なのだろうか。気休めなのだろうか。この場所に、高千穂に一人取り残されることになった、彼女のための。

 それとも、あるいは「家名を刻みたくない」というそれだけの理由で、寺から提案された句を唯々諾々と受け容れたばかりのことであるのだろうか。

 

 

 

 今、アクアたちがやってきているこの場所は、病院そばの共同墓地だ。

 そしてこここそが、『彼女』にとっての終の棲家――天童寺さりなの眠る墓に他ならなかった。

 

 

 

「なんか、不思議な気分」

 

 もはや世話する者もいなくなった、無縁仏にも等しいこの墓も、しかし施設保全のためということなのだろうか、最低限の手入れはされていた。石の間に雑草が根を張ることもなく、苔に覆われて緑がかっていることもない。周囲にゴミが散らかっているということも、もちろんありはしなかった。

 とはいえ、やはりあくまでもそれが最低限のものであることは否めない。周囲で上げられたであろう線香の煤が、どこかからやってきた土埃もまたうっすらとこの墓の表層を覆っていて、故にアクアやルビーは何より先に、それを取り除き、清めるべく動き始めた。

 

 バケツに汲んだ水を柄杓でかけ、タオルで擦って磨く。終わったら、その全てをもう一枚の布で乾拭きする。

 都合十分ほどかけてそれを完遂した末に、そこには真っ黒になった雑巾と、そしていくらか輝きを増した御影石の墓石が残された。

 

 それら全てを終えた後にルビーが発したのが、つまりはその言葉だ。

 分かる気はした。いや、その気持ちを真に理解できるのは、最低でもアクアの知る範囲においてはアクア自身を措いて他にはいないだろう。

 

「『お墓、作ってくれてたんだ』って気持ちもあるけど、『でも私はここにはいないんだよな』っていう気持ちもあって」

 

 いや、違うのか。彼女の気持ちは、彼女にしか分からないのだろうか。続けて彼女から出てきた台詞に、アクアはそう思い直す。

 

「なんか、申し訳なくなっちゃうね」

 

 彼女は言ったきり、しばし俯いた。

 それでも、アクアには分かる。その言葉とは裏腹に、彼女の声色にはほんの少しの棘が見えていた。最低でも、アクアにはそう聞こえていた。

 

 ――お墓を作ってくれるぐらいだったら、どうしてあの時お母さんは私に会いに来てくれなかったの?

 そう思っているのだろうか。

 いや、違うのだろうか。もっともっと、行き場のない怒りのようなものが、彼女の言葉の中には宿っているのだろうか。

 「結局お墓でも、私はひとりぼっちなんだね」、などと。

 

「お兄ちゃん?」

 

 気づけば、彼女の背中に、そして肩に手を回していた。ぴくりと身体を震わせて、ルビーがアクアのことを見上げる。

 しかし、目は合わせられなかった。今自分がしているであろう表情を、正面から彼女には見られたくなかった。

 

 ルビーの身体から手を放し、掃除の為に脇に置いてあった生花を、すなわち供華を、墓石の前に手向ける。

 かつての吾郎が欠かさずにやっていた、それは儀式のようなものだった。この場所にはもういない、少女のための。

 

「――本当に、不思議な気分だよ」

 

 思わず、アクアの口からもその言葉が漏れていた。

 せめて自分だけは彼女のことを忘れまいと、そう自らの肝に銘じるためにずっと続けていた墓参という行いは、けれども途方もない因果の涯に、己の隣に「彼女」が立っているこの現実を前にして、どれほどの意味を持っていたのだろう。

 無常なるかな、とでも言うべきなのだろうか。そんな感慨さえも、アクアは覚える。

 

「せんせ、ずっと来てくれてたんだもんね」

「ああ。まあ……そう、だな」

「そっか」

 

 隣を見れば、アクアと同じようにその「天童寺さりなの墓」を見据えながら、ルビーはうっすらとした微笑みを浮かべていた。

 

「やっぱり、優しいね、せんせは」

 

 まるで独り言のようにそう言ったきり、彼女はその墓石に手を合わせ、静かに瞑目した。

 誰に対して、何に対して捧げているのかもわからないその祈りに、アクアもまた倣った。同じように手を合わせて、そして同じように目を閉じた。

 

 

 

「ここに来ようと思ったのは、さ」

 

 一分ほど続いた沈黙の時間の終わりに、手を合わせて俯いていた顔をあげて、ルビーが言う。

 

「もともとは、まあ自分の中で区切りをつけるためで。お母さんのことも、『わたし』のこともそうだけど」

 

 訥々と表現すべき語り口だった。視線は合わず、やや天を見上げるように掲げられた彼女の横顔に、薄く浮かんだ微笑みを、アクアは強く意識させられた。

 

「来ちゃえば、なんてことはなかったんだなーって」

 

 からりとした声色だった。もう一度墓石に刻まれた墓碑銘を視界に納めて、僅かにルビーは屈む。

 白魚のような彼女の指先が、二人で磨き上げたその表面を、軽く撫でた。

 

「結局私は私で、こうやって生きて、アイドルをしてる。このお墓の中に私はいないし、お母さんはここに私を置いていった」

「ルビー、それは」

「いいんだよ。それでみんなが前に進めるなら、いいことなんだって思える。ほんとだよ?」

 

 目が合った。そこに見える彼女の笑顔には、確かに一つの嘘もない。そう思えはする。

 けれども、それは本当に本当なのか。心のどこかで、ルビー自身さえ意識していない奥底で、発露すべき感情を、叩きつけるべき言葉を、押し殺してはいないだろうか。

 

 仮にそれがなくて、言葉の全てが本当だとして、それでルビーは納得しているのか。

 受け入れられるのだろうか。救われているのだろうか。あのときの、天童寺さりなは。

 

 

 

 不意に、瞳が揺れた。アクアのではない、ルビーのそれが。

 口元に浮かんでいた笑みが、色を失くす。微かに、首が振られていた。

 

「……本当に、せんせは優しいね。優しすぎるよ」

 

 ゆっくりと、ルビーが立ち上がる。瞳が閉じられ、顔が伏せられた。

 彼女の右手が伸びて、気づいたときには、それがするりとアクアの指に絡まっていた。

 

 ルビー、そう呼びかけようとしたアクアの動きに先んじるように、彼女の瞼が開く。

 

「『もともとは』って、言ったでしょ。ここに来たの」

 

 その中、覗いた光に、言葉が溶けて消えた。

 強烈な輝きが、アクアのことを射貫いていた。

 

「聞いたよ、あかねちゃんから」

 

 何が。そう問うことはできなかった。あまりにも、その一言はアクアに予感させていた。

 今ここで、このタイミングで、この文脈で、ルビーが語ろうとしていることが何か、察することのできないアクアではない。

 果たして彼女は、一つ呼吸を挟んでから、その口を開く。

 

()()()()()()

 

 だからそれはつまり、アクアにとっては、吾郎にとっても知られるべきでないはずの相手に、己の中に固く秘しておくべき、酷く手前勝手でつまらない感傷を知られてしまったことを、意味していた。

 

 

 

 

 

 何という顔をするのだろう。

 その事実を告げた瞬間、アクアの浮かべた表情を見て、ルビーの頭の中にはそんな言葉ばかりが去来していた。

 

 驚きと云うには浅く、戸惑いと云うには深かった。

 怒りと云うには弱く、諦めと云うには強かった。

 けれどもその、思わず懐いてしまった負の感情を強く悔いているという事実だけは、何よりも真っすぐルビーの胸に届いていた。

 

 それが、どうしようもなく悔しかった。

 

「ごめんね」

 

 こみ上げた情動が促すように、自然と漏れたそれが、次なる言葉を導いてゆく。

 

「ごめんね、せんせ。気づいて、あげられなくて」

 

 指を絡めたままのアクアの手を、握りしめる。離れないように、離さないように。

 伝わる体温は、痛いほどに温かかった。

 

「……どうして、君が謝る」

 

 アクアから返ってきた言葉は、それを載せた声は、低く、固く、そして鋭い。

 けれども同時に、どこか喘ぐような響きさえ、持っているようにも聞こえた。

 

「思うんだ。私が病室の中とかでお母さんの話をしてたとき、せんせは何考えてたんだろうって。何考えて、それを聞いてたんだろうって」

 

 覗きこんだ先の瞳が、揺れた。

 

「『最初からお母さんがいなかった人』のことなんて、これっぽっちも考えてなかった」

「違う、さりなちゃん、それは」

「分かってるよ」

 

 アクア(せんせ)の言葉は、言葉によって封じた。強く、真っすぐに、その目を見つめた。

 

「だけど、それを言ったらせんせだって同じでしょ。私が死んだときのこと、まだ後悔なんてしててさ」

 

 きっと反射的になのだろう、アクアがルビーから視線を逃がそうとする。

 しかし、ルビーはそれを許す気はなかった。いや、許してはならなかった。

 そうしなければ、今自分が懐いている気持ちの一割も、彼には伝わらないだろうから。

 

「でもね。嬉しかったんだよ、私は」

 

 アクアの目が、小さく見開かれた。

 

「何、が」

「だってそうでしょ? 分かったんだもん、せんせが私とおんなじことで悩んでたんだって」

 

 そうだ。あかねからその話を聞いたあのオーディション帰りのカフェの中、ルビーの中に去来したのは、決して後悔ばかりではなかった。

 

「言ったよね、私。『ずっと演技してた』ってさ。周りの人が私に期待する私にならないといけないって、そうやって振舞ってたって」

 

 アクアは、何も言わなかった。いや、言えなかったのだろう。

 

「そうやって生きるしかなくて、そうやって今も生きてて、でもそれが正しいのかはわからなくて。だから」

 

 そんな彼に、どこまでも優しい彼に、ルビーは笑みかける。

 

「私だけじゃなかった。おんなじことで悩んでる人が、他にもいた。それも、せんせが。だったらやっぱり私は、『天童寺さりな』は、独りぼっちなんかじゃなかったんだなって、思えたから」

 

 未だ震える瞳でこちらを見て、何か反論の言葉を探しているのであろうアクアに向けて、故にこそルビーは更なる言葉を紡ぎ出した。小さく静かに息を吸って、さながら言い聞かせるように。

 

「ねえ、せんせ。私はね」

 

 逃さないと、ルビーは一歩踏み出した。反対側の手も、伸ばして。

 

「ずっと、せんせに救われてたよ。せんせは気づいてなかったのかもしれないけど」

 

 そして、彼の左手をも、強く握った。

 

 

 

 そうだ。きっとあなたは知らないのだろう。知ろうともしないのだろう。

 天童寺さりなにとって、雨宮吾郎とは何者だったのか。

 

「せんせがいなかったら、私はずっと独りぼっちのままだった」

 

 届いてほしいと、声を重ねる。

 

「独りぼっちって、寒いんだよ」

 

 いつか口にしたそれと、同じ言葉を。アクアの唇が、また震えた。

 

「生きてる意味なんてないんじゃないかって、思うぐらいに」

「る、びー」

 

 掠れた息が、音になる。惑うような空気さえ、漂わせながら。

 ――ああ、なんて美しい。けれども、こんなにも、寂しい。

 

「だからね。だから、せんせはあったかかったんだ」

 

 一瞬だけ、目を瞑る。そうすれば、あの日々の記憶は昨日のことのように思い出せた。

 

「私の話を聞いてくれた。最初はちょっとバカにしてきたけど、でもアイドルの話も本気になってくれた。一緒にB小町を推してくれた。私を、私として見てくれた。難病に冒されたかわいそうな女の子じゃなくて、天童寺さりなとして。私と同じ高さに、目線を合わせてくれた」

 

 きっと、彼は思っているのだろう。そんなことは、誰にでもできると。それが雨宮吾郎でなければならなかった理由など、どこにもないと。

 天童寺さりなの、星野ルビーの人生の中においては、単なる代替可能な部品の一つでしかない自分に、一体どれほどの価値があるだろうかと。

 

「せんせだけだったよ。せんせしかいなかった。だから、私は寂しくなくなった。寒くなくなったんだよ」

 

 クソ喰らえ、だ。たとえアクア自身の想念であっても、そんな言い様なんて絶対に認めない。だからルビーは、何度でも主張する。

 吾郎は、吾郎だ。アクアはアクアだ。ルビーにとって、容易に替えの利く不特定の誰かでなど、あるはずがない。

 

「せんせがいたから、私は生きられた。たった一年だけだったかもしれないけど、でもあの一年を諦めなかったのは、せんせがいたからなんだよ」

 

 いや、それは正しくない。ルビーは自らの言葉に、首を振った。

 

「違う、もっとだ。『今も』なんだよ」

 

 何も言わず、言えず、ただルビーのことを見下ろしてくるばかりのアクアに、ルビーは今日、ずっと言おうとしてきたことをも、合わせて口にする。

 

「ママのことは大好きで、とっても大事。それは絶対。だって私がここに来たいって思ったのも、そういうことだもん。ママのことをちゃんとママだって思えるようになりたいから、私はここにいる」

 

 それはルビーがこの場所に来ることを決めた、最も大きな理由だった。

 「天童寺さりなのことを、割り切る」。あるいは、「決別する」。それは、自分自身の過去を否定するということではない。

 自らが天童寺さりなであった日々は、今の自分を成り立たせるためになくてはならないものだ。なかったことにはできないし、していいものでもない。

 けれども、いつまでも自分の存在の軸足をそこに置いていては、ルビーはきっと本当の意味で、アイのことを母親であると胸を張って言えはしない。

 

「『わたし』にしっかりさよならして、自分はママの娘なんだって、『星野アイの娘なんだ』って、胸を張れるようになりたかったから。お兄ちゃんと一緒に」

 

 「代替」などではない、「本物」に。アイがルビーに、そしてアクアに対して向けている気持ちと同じものを、同じ心の在り方で、返せるようにするために。

 だから、ルビーは変わる必要があった。遠い日の自分に、病室の中の自分に、別れを告げなければならなかった。

 

「でもね。それでも」

 

 しかし、それでも今、ルビーの中に宿り続けている想いは、消えやしない。

 あなたへの思いは。

 

「私が生きているのは、生きようと思えるのは、せんせがいるからなんだ」

 

 微かに、ほんのわずかに、アクアの表情が歪む。それを確かに、ルビーは見た。

 どうしようもなく、胸が痛む。彼が今何を考えているのか、手に取るように分かってしまうからだ。

 

 これでもなお、それでもなお、彼はきっと自らの価値を、世界に対して認められない。いや、寧ろ私が言葉を尽くすごとに、彼の心の内のささくれは増えてさえいるのかもしれない。痛みは増しているのやもしれない。

 だって、彼のことを誰よりも許せないでいるのは、他でもない、彼自身なのだから。

 

 ――そういう、ことなんでしょ?

 

 『15年の嘘』の撮影を終えたあの夜、共演相手でもあったあかねから『託された』約束を、思い出す。

 だからこそ、ルビーは言わなければならなかった。今ここで、はっきりと、伝えなければならなかった。

 

 かつて世界から疎外されていたさりな(わたし)は、今もなお世界から自身のことを疎外しようとする吾郎(あなた)のことを、そのままになどしておけるわけもないのだから。

 

「だから、ねえ、せんせ。――お兄ちゃん」

 

 敢えて、言い直す。これから言葉をかけるべき相手は、彼の過去ではない。未来だ。

 両方の手で彼の手を取ったまま、ほど近くに立つこの場所で、ルビーは一つ、深く息を吸う。

 

「生きて」

 

 そして、口にした。

 掠れた呼気と、それと共に大きく揺れた瞳を、絶対に逃さないとばかりに、強く強く覗きこむ。

 

「それだけでいいの。それだけで、私が生きていられる理由になるから」

 

 己の気持ちを、偽りはしない。何故ならそれは、もはや祈りなのだから。

 

「いつになってもいいから、自分を認められるようになって。『幸せだ』って、思えるように」

 

 同時に、ルビー(さりな)は知る。やっと、理解できた気がした。

 

「私はずっと、ここにいるよ。ここに、いたい」

 

 今懐いている、彼に対して懐いているこの感情こそが、きっとルビーがずっとずっと求め続けていた「何か」に、最も近いものなのだろうと。

 

 

 

 墓地の只中、別れを告げた「わたし」の墓の正面で、ルビーはアクアとたった二人で向き合っている。

 斯くして届けたその言葉に、アクアが少しだけ、しかしはっきりと、ルビーの手を握り返してきた。

 

 瞬間、ルビーの胸の中に、眩い光を放つ火が、確かに灯った。

 

 

 

 

 

 

 

 春を待つ宮崎の夜は、未だ肌寒い。しかしそれ以上に、静かだった。遠くに微かな波の音さえも、聞こえるほどに。

 それはきっと、アクアが今まさに後にしたこのホテルが、海に面して建てられているからなのだろう。

 

 こうして一人外に出たのには、理由などなかった。

 いや、本当はあるのかもしれない。つい今しがた、部屋まで送り届けた一人の少女が、ルビーがあの場所で発した言葉が、脳裏にはずっと残っていた。自分の手を握っていた、彼女の指の先の、その温かささえも。

 

 ――生きて。

 ――いつになってもいいから、自分を認められるようになって。

 

 果たしてそれを、アクアはどう消化するべきなのだろうか。

 本当はあのとき、彼女に向かって何を答えるべきだったのだろうか。

 

「よっぽど信用がないみたいだね、君は」

 

 不意に、背後から声がした。

 舌っ足らずの、幼い、しかしぞわりとするほどに蠱惑的な声だった。

 

 その正体を、アクアは知っている。よく知っていた。

 

「覗きとは、随分趣味が悪いな、アンタ」

 

 故に、振り返らない。ただそう、吐き捨てるように答えた。

 背中に、くすりとした笑い声を聞く。どこか遠くに、カラスが羽ばたく音を聞いた気がした。

 

「人聞きの悪いことを言わないで欲しいな」

 

 どこかおかしそうに、それでも少し不満そうな声色で、その声は言う。

 

「気にしてるんだよ、私はね」

 

 ため息を一つ吐いて、そしてアクアはそこでようやく「それ」へと向き直った。

 

 街灯の下、月の如くの白銀の髪が浮き上がるかのような光を放っている。その下に見える蘇芳の瞳も、纏う漆黒のワンピースドレスが風に遊ばれて揺れているそのさまさえも、アクアの記憶の中の彼女と、あの少女と、一つとして変わることがなかった。

 

「そうかよ。で、何の用だ」

「決まってるでしょ? 確認だよ」

 

 回答は早かった。「何を当たり前のことを」と、そんな小馬鹿にしたような響きさえ、宿っていた。

 微かに目を細めたアクアの視界の向こうで、白の少女は俄かに居住まいを正す。表情さえ引き締めて、彼女の唇が今一度動いた。

 

「そろそろ、分かったかな? 君の『使命』」

 

 出てきたその音もまた、はっきりとした真剣さを帯びていた。

 

 

 

 僅かに、目を閉じる。

 本当に、この少女はまるで見透かしてくるかのような物の言い方をしてくる。嫌になるほどに。

 

「分かってるさ」

「納得はしてないってことかい?」

 

 ため息を吐く自分を、アクアは堪えられなかった。

 

「……仕方ないだろ」

 

 出てきた自分の言葉に滲んでいたのは、苛立ちか、憤りか。それとも別の何かなのだろうか。

 彼女の嘯く「使命」の何たるかは、アクアもまた朧気ながらも理解できている。ルビーのことも、あかねのことも、かなのことも。当然、アイのことも。彼女たちが何を思っているのかだって。

 けれどもそれは、今のアクアにとってあまりに遠い。それを為すには、眼前に積もり積もった「宿題」が、どうにも多すぎた。

 

「アンタなら、分かってるはずだ」

 

 いずれにせよ、彼女は何も言わなかった。

 まるでその代わりとでも言うように、長い睫毛を伏せるようにして視線を逸らし、そしてふと天を仰いだ。

 

 暗い海の気配を孕んだ風が、二人の間を静かに通り抜けていく。

 やがて彼女は小さく息を吐くと、まるで独り言のように呟いた。

 

「本当に、仕方ない人だね。星野アクア、君は」

 

 その声は、さながら夜の帳に溶け込むように淡く、しかし確かにアクアの耳朶を打つ。

 再び彼の方を向いた少女の双眸には、先ほどまでのからかいも、試すような光もない。ただひたすらに、静かで深い色ばかりが宿っていた。

 

 そしてそこで、ふと彼女は小さく笑う。

 

「まあ、今日は別に長話をしに来たわけじゃないんだ」

 

 それはどこか、何かに見切りをつけたような声で、そして微笑みだった。

 

 アクアは、微かに眉を寄せる。

 ――今日の彼女は、随分あっさりと引き下がったな。そう思った。

 

 あの高千穂の神社の一件以来、もうこの少女と言葉を交わすのは数度のことになるが、彼女はその都度都度、もう少し諦めが悪かった。

 時に揶揄い、時に試すような言葉遣いで、曰くの「使命」を強調して、時折謎めいた言葉を残して去る。そういう存在だったはずなのに、と。

 

 そんなアクアの様子を察したかのように、少女がもう一度、くすりと笑う。

 

「だから、一つだけ」

 

 そしてそのまま、音もなくアクアのすぐ真横へと歩み寄った。

 ぴたりと並び立つ形になった二人の間に、距離はない。

 

 それでも、互いに視線を合わせることはしなかった。

 

「周りのことを、君はもっとよく見るべきだよ。答えなんて、そこにしかないんだから」

 

 カラスの啼き声が、どこか遠くから響く。

 アクアが反射的に振り返ったその瞬間、そこにあの少女の姿はもうなかった。

 

 月光の下に広がる静寂の中、まるでそんな者など最初から存在しなかったかのように。

 

 アクアは、正面に向き直る。

 視線を空へと向けながら、ふと息を吐いた。

 

「……分かってるんだよ、そんなことは」

 

 誰に言うでもなく、ただ独り言のように零した声が、流れる夜風に溶けて、そして消えてゆく。

 見上げた宵闇の空には、雲の合間から滲むように星々が瞬いていた。

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 土を、芝生を踏む足音が、静かに響いていた。

 ゆっくり、ゆっくりと。

 

 星空の下、磨き上げられた革靴は、その漆黒さ故に像として映ることもなく、歩を進めるその『誰か』の姿をも、闇に紛れ込ませているように見える。

 

「あれが、か」

 

 声が、響いた。男の声だ。

 甘く、魅惑的でさえある声だった。

 

「確かに、よく似てる。随分と、僕のことを警戒しているみたいだけど」

 

 彼の口元に浮かぶのは、笑みだろうか。かけられたサングラスの下に目元は隠され、表情を窺い知ることも難しい。

 

「それに、あの子」

 

 男が立つのは、満天の星が輝く、広い空の下だ。

 その先に、一つの建物を見ていた。

 

「星野ルビー」

 

 双子が、B小町が、そしてアイが泊まっている、そのホテルを。

 

「本当に、美人に育った」

 

 ただ一人、陶酔したような呟きを漏らし続ける男が、そこで踵を返す。

 まるで全てを見届けて、そこにいるべき用事がなくなったように。

 

「二人とも。……流石は、『君』と僕の子供だ」

 

 男は自らの目を覆っていたサングラスを、おもむろに外す。

 蜂蜜色の柔らかな髪を少し長めに伸ばしたその下に、菫色の、あるいは夜色の虹彩が、俄かに覗いた。

 

 笑みを交えた吐息を漏らし、彼は――カミキヒカルは、天を仰ぐ。

 

「楽しみだよ、会う時が」

 

 吹き抜けた風が、纏っている灰黒色のコートの裾を、静かに揺らしていた。




病院で出会った看護師の名字は、実写ドラマ/映画版より拝借しています。
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